〈資料〉
佐喜眞興英の大学在学時の同窓生たちに関する覚え書
-内藤吉之助、中川善之助、奥野彦六郎などの点描-
稲 福 日出夫
一、はじめに
佐喜眞興英(1893-1925)は、1916(大正5)年9月に帝大法科大学に入学し、1921
(大正10)年4月に卒業した。彼が在学していた頃の恩師、共に学んでいた同期の面々を 点描したい。
先ず、穂積陳重(1855-1926)。穂積は、まさに「近代日本法学の礎」を築いた法学者 として、評伝も数多く出ている1。ここでは、以下の行論に必要と思われる事柄に限定し て紹介したい。
5年間のイギリス、ドイツ留学を終えて帰国した穂積陳重は、1883(明治16)年、「法 律ノ進度ハ社会ノ進度ト常ニ相適応セサルヘカラス…法律ノ学タル即チ社会学ノ一派ナル ヲ以テ」 2と述べ、また「法律学は社会学の一部なり。…『将来の法律学は進化主義の法律 学なり、自然法主義の法律学は最早臨終に程近く、第十九世紀の過去帳に其諡號を留むべ きものなり』とは、是れ吾人が法学世界に向って誦讀せんとする未来記なり。…『法律の 歴史と法律の哲学は互に其性質を異にし、二者分立せるの科学なりとは、最早唱ふべから ざる陳腐説と為れり』」3といった論説を矢継ぎ早に発表していく。また、それまで「性法」
「法論」と呼ばれていた科目を、帰国後、穂積が受け持つようになると、彼はその名称を「法 理学」に改めた4。「穂積陳重の人類学に対する関心はアマチュアの域をこえたものである」 5 とも評されている。
穂積陳重は、5度も原稿を読み返し、推敲を求めるほどの愛情を佐喜眞に注いだ。彼 が佐喜眞の将来を大いに期待していたことは、夙に知られている。穂積は、1912(明治 45)年には教授を辞任しているので、佐喜眞が大学で彼の講義を受講することはなかった。
が、穂積は、佐喜眞が生涯私淑した恩師である。佐喜眞は学生時代、穂積陳重のほかに、
その息子の穂積重遠、また中田薫の教えを受け、卒業後に柳田國男と会っている。その出 会いを、柳田はこう振り返っている。
「沖縄に渡った時中学校の先生から、今まで教へてきた青年の中でいちばん前途の楽し みなのがこの若人であると聞かされて帰ってきた。その後穂積陳重さんを訪ねた時『沖縄 にもなかなか眞面目な青年がいるよ、よく本を読む』といって、やはり佐喜眞興英君の名 をいはれた。私も前に沖縄で名をきいていたので、会ひたいものですと話したことがあっ た。其の後穂積さんが機会を作って佐喜眞君に引合わせて下さった。一高から東大法科を 出、その時は裁判官をしていたが、方々転任を命ぜられて動きながらいろいろの著述をし ていた」 6。
佐喜眞がどのように穂積陳重を訪ねたのか、その最初の出会いを知りたい。源武雄や比 嘉春潮も、佐喜眞と穂積、柳田との出会いについて記述しているが、いまひとつ明確でな いように思われる7。
柳田國男(1875-1961)、中田薫(1877-1967)はともに1897(明治30)年に帝大法 科大学に入学した同期生であり、穂積陳重の教え子である。佐喜眞が在学していた頃、西 洋法制史の担当は中田薫で、「選択科目」であった。彼はそれを履修し、単位を修得して いる。中田薫が佐喜眞の学生時代に書いた「女人政治考」の第1稿を読んでいることは、
後に触れる瀧川政次郎が伝えている。また、佐喜眞の『「琉球研究」ノート』の「第三 法制」の章では中田の論文から引用があり、『女人政治考』でも『法学協会雑誌』に発表 された中田の論文を多々引用し、自説を補強している8。
牧野英一(1878-1970)も穂積陳重の教え子である。牧野は学生時代に穂積の「法理学」
講義で学んだイェーリングに、その後も傾倒した。イェーリングの「ローマ法によってロー マ法の上に」という有名な標語は、牧野が好んで用いた表現である。1年次配当の必修科 目である牧野の刑法を、佐喜眞は履修している。佐喜眞が大正9年4月『琉球新報』に寄 稿した「琉球の祖先崇拝を論ず」は、「民族を通して而も民族の上に」 9という表現で結ば れている。
穂積重遠(1883-1951)は、留学から戻った大正5年度から、大学での講義を開始した。
当初は民法第五部(親族・相続)と法理学を兼担していたが、のちに、「民法専門」となっ た。当時の帝大の「民法講座」は「民法全部3年がかりの持上り講義」であった。佐喜眞 が入学した大正5年度組の第3学期が始まった直後、石坂音四郎が急逝した(なお、大正 9年度入学者から2学期制に改正される)。そこで、石坂に代わって穂積重遠が加わり、穂積、
鳩山秀夫、それに末弘厳太郎の三教授のローテーションで、各学年の学生を3年間継続し て、民法第1部から4部までの講義を担当した。これはすべて必修科目である。重遠がそ の「持上り講義」に加わったのは大正7年の入学組からで、彼はこう語っている。
「その第一回の学生は大正十年度卒業の組で中川善之助教授、平野義太郎君などの級で あり、其組の諸君を失礼ながら僕の民法の一番弟子と呼ぶ光栄を有する次第だ」 10。 大正10年度卒は(佐喜眞も同年に卒業する)、大正7年の入学である。その同期入学者が 穂積民法を学び、前年の大正6年入学の我妻栄は「鳩山民法学」であった。それから推し 量ると、大正5年入学の佐喜眞は「末弘民法学」の組、ということになる。但し、佐喜眞 の場合、民法1部はそうだとして、2年次から彼は休学し、末弘も大正7年2月から9年 7月まで欧米に留学する。復学後の佐喜眞が誰の民法第2部、3部、4部を受講したかを 私はまだ把握していない。佐喜眞の成績表から推測すると、民法第1部を大正6年6月、
2部・3部を大正9年6月、4部を大正10年4月に受験し、単位を修得している11。民法 第5部(親族・相続)は「選択科目」で、佐喜眞の入学以来、穂積重遠が担当していた。「家 族法の父、穂積重遠」である。元々、重遠は民法のなかでもこの領域に関心があり、彼は 学生時代に受講した奥田義人の親族法相続法に魅かれた。「わたしが親族法相続法を専攻
しようときめたのは、全くこの随意聴講がキッカケであった」 12 と記している。佐喜眞も 重遠のこの科目を履修している。佐喜眞にとっても、心惹かれる講義のひとつであったに 違いない。
我妻栄は「法律の世界に人情と道徳をもちこむことを生涯の使命とされた」 13 と穂積重 遠の葬儀における弔辞で述べている。「非法律家を法律家に、法律家を非法律家に」とい うのが重遠のモットーであった。
ところで、重遠が私家版『父を語る』のなかで、こう述べている。
「古川柳に(父は古川柳が好きでした)『下女のふみあだかもはなしする如く』と云ふのが ある。川柳のお定まりで下女を嘲った句だが、しかし『あだかもはなしする如く』手紙が 書ければ大したもので、それが文章の極致であり理想である。ワシはワシの著述を広く永 く読んで貰ひたい。自分の考を過不及なく理解して貰ひたい。それにはどうしても『あだ かもはなしする如く』書かねばならぬ。実はワシに取っては頗る骨の折れる仕事なのだが、
これから一骨折って見やうと思ふ」 14。
それが穂積陳重の執筆態度であり、「再版に対する用意」であった。佐喜眞もまた、そ うした穂積の志操を知ればこそ、幾度も幾度も推敲を重ねたのであった。穂積は、大正8 年に公刊した『諱に関する疑』を『實名敬避俗研究』と改題して再版することとなり、そ の準備を進めていた。が、その途中で亡くなった15。その準備が一段落した後、穂積は、
柳田國男に約束した佐喜眞の遺著への「序」を執筆する心づもりだったのだろうか。この
『實名敬避俗研究』は、冒頭、こう書き始められている。
「題して疑と云ふ。…疑ふに勇にして断ずるに怯、而も反省に吝ならざれとは、ベーコ ンが後学に貽したる訓言なり」 16。
二、内藤吉之助(1894-1946)
内藤吉之助は、大正4年9月に東京帝国大学法科大学に入学した。翌5年に入学する佐 喜眞興英と同じく「独逸語受験者」であった。実は、内藤が入学する前年の大正3年7月 に「法科大学学科課程」が改正され、「法科大学ニ於ケル修学期ハ三年トス」となった17。 実際、「官報」をみれば、内藤と同じく大正4年の入学者の多くが、大正7年に卒業して いる。内藤は、1年遅れて大正8年7月に法学部を卒業し(同年2月「勅令により法科大学 を法学部と改め、経済学部は独立することとなる」 18)、同年10月、助手に採用された。
内藤吉之助について感銘を受けた一文は、戦後日本の法哲学を牽引していった「尾高門 下生」を数多く輩出した尾高朝雄の「序」である。尾高は、内藤が訳したエンゲルスの『家族・
私有財産及び国家の起源』の改訂版が1947(昭和22)年に出版された際、次のような「序」
を寄せている。日付は、昭和21年9月。東京帝国大学法学部研究室にて、となっている。
「ここに訳出されている書の原著および原著者については、改めて説明を加へる必要は 毛頭ない。序として簡単に書き記して置きたいのは、訳者内藤吉之助君のことである。
内藤君は大正8年に東京帝国大学法学部を卒業し、中田薫博士の下に法制史の研究に従
事して以来、この学問の領域に深く沈潜・没頭して終始した、真に学者らしい法制史学者 であった。昭和3年に私と前後して京城帝国大学に教授として赴任し、広く東洋法制史を 研鑽すると同時に、朝鮮法制史の開拓に志し、丹念にその資料の蒐集に力めていた。同僚 としての永いつき合ひの間に、私は、内藤君のやうに学問に熱心であり、学問する態度が 周密で良心的な人は稀であることを知ったのである。内藤君は、単に学問に熱心であった ばかりでなく、深く朝鮮を愛していた。京城大学の同僚の多くが、――さうして、私もそ の一人であり、多くの親しい人々を京城に残して、すでに一昨年東京に移ってしまったの であるが、――一年に一度は日本の空気を吸はないと生きていられないやうな風であった 中に、内藤君は、在外研究の間を除いてはほとんど朝鮮から離れたことがなかった。朝鮮 の法制をば、単なる文献や資料からばかりでなく、法律制度を押しつつんでいる地理・歴 史・人情・風俗もろともに、深くとらへてわがものとしようとする日本人ばなれのした学 究、それが内藤君であったといふことができよう。
しかし、その内藤君も、遂に生木を裂くやうに朝鮮から離れなければならない悲運の時 が来た。いふまでもなく、日本の敗北による太平洋戦争の終結がそれである。終戦後、在 鮮日本人の多くは先を争って日本に引き揚げた。その中で、あくまでも朝鮮での学問に打 ち込み、朝鮮で学問をつづけて行かうとした内藤君は、百方手をつくして居据りの策を講 じた。が、客観的な情勢は如何ともすべからず、遂に我を折って昨年の末に京城を去るの やむなきにいたったのである。精魂を打ち込んでいた学問の地盤から引き離された内藤君 は、恐らくすべての生き甲斐をすら失ったやうに感じたのではあるまいか。帰来間もない 今年の1月13日に心臓脚気で急逝された、といふ知らせを悲しみの未亡人から受けたと き、私は何かしら一親友の死といふこと以上の悽愴の鬼気を覚えたのである。」 19
長い引用になってしまったが、内藤の訳書に寄せた尾高のこの「序」は、佐喜眞興英の 遺著『女人政治考』に寄せた柳田國男の「小序」を連想させ、序文を書いた二人に通底す る或る感慨に思いを巡らせてしまう。柳田は、こう記していた。
「自分が始めて佐喜眞君に逢って、其研究の一端を聴くことを得たのは故穂積陳重先生 の書斎であった。先生は夙に此の一箇沖縄青年の学問が、他日祖国の文化に貢献する所大 なるべきを認め、彼を激励して五たび其稿を改めしめる迄の自信を与へられ、更に又其智 識を我々に紹介して、後進と共に道を究めようと企てられたのみならず、今又深く将来あ る佐喜眞君の夭折を嗟嘆して、此遺文の為に竜門原上の辞を題せむことを約せられたので あったが、それは終に希望すべからざるものとなった」 20。
佐喜眞は1925(大正14)年6月に津山で亡くなった。穂積の期待に添うべく幾度も推 敲を重ねた佐喜眞ではあったが、生来病弱であった彼に、もはや竜門の急流を登りきる余 力はなかった。彼の遺著は、一周忌に間に合わせて翌26(大正15)年6月に公刊された。
一方、穂積もまた、愛弟子の新たな姿を見ることなく、その「序」を書くという柳田との 約束をも果たせずに、同年4月に亡くなった。柳田の「小序」の日付は、大正15年6月。
柳田が「序」ではなく「小序」としたのは、おそらくそうした所以からであろう。
内藤の訳書に話を戻す。この改訂版の「あとがき」は、内藤の教え子である世良晃志郎 が記している。
「先生は元来極めて寡作のお方であった。書き遺されたものでまとまったものとしては、
本訳書と『朝鮮民政資料、牧民篇』の二書のみであらう。従って本書の公刊は先生の足跡 を世に残すものとして、重要な意義を有するものである」 21。
1922(大正11)年に公刊された初版では、内藤みずからの手になる「跋」で、エンゲ ルスとの出会いについて触れている(もちろん、改訂版にもその「跋」は収録されている)。彼 が法制史研究室の助手に任ぜられたとき、中田薫は、先ずエンゲルスのこの著書を、また、
『古代法』のサー・ヘンリー・メインの諸々の著作、モルガンの『古代社会論』、さらには クーランジュの『古代都市論』を読むことを彼に命じた、という。そして、内藤にとって、
エンゲルスのこの著書が「法制史研究の一段梯として役立ったのみならず、まさに私の目 ざしているやうな『法制史』の方法目的につき大きな暗示を与へたのである」という。
「私は、人の社会生活における合理性を闡明せんとする法の歴史――迷ひ疑ふ者の残さ れた最後の哲学――にあっては、ただに国家の公権力に支持せられる実定法のみならず、
宗教律、道徳律ないし習俗法、すべて社会生活の法一般がまた考察に攝り入れられねばな らないと信じる」 22。
つまり、内藤にとって、彼の信念である「大切なのは法よりも生活そのものなのである」
という見地から、みずから思い描く「法制史」を研究していこう、みずからの法学的世界 観を築いていこうというその動機を与えてくれた著書、ということになる。
この「跋」の文末は、こう結ばれている。
「既に訳稿終わった後、堺利彦氏が同じくこの書の翻訳を多年企画され、その一部は嚮 に雑誌にも公表されたのみならず、全部の訳書が近々に公刊されると聞いた。寔にエンゲ ルスの訳者として同氏が最も適当であるべきを信ずる。しかし法制史の一文献として私が これを訳してみるのも徒爾ではあるまいと思った。そこで同氏の快諾を得て、その訳書に 先んじこれを出版することとした。ここに堺先生に感謝すると共に、社会主義者としての 同氏の訳書が、恐らくはエンゲルスの真面目をよりよく伝へようから、併せ読まれること を読者に乞ふ。大正10年10月2日、東京れしな荘にて」 23。
ところで、柳田國男は、内藤の学生時代の頃から彼のことを知っていたと思われる。と いうのも、柳田は、大正3年に公刊した『山島民譚集(一)』で、河童のことを日本のそ れぞれの地方では何と呼んでいたか、考察している。幾つかの事例が示されるなかに「播 州明石ノ海岸ナドニテハ、今日『ガタロ』ト云フ者ハ河童ニハ非ズシテ鮫ノ事ナリト云フ
(内藤吉之助君談)」24と記した一文がある。
河童の件は柳田にとってよほど気がかりだったのか。彼は、戦後、昭和33年に「神戸新聞」
に連載した『故郷七十年』の「明石のカハカムロ」の項でも、「河童の名前の中で今も探 している名前が一つある」と記し、次のように内藤に触れている。
「神埼郡の名家で、川邊=神埼郡市川町=に近い屋形出身の、かつて京城大学教授をし
ていた内藤吉之助といふ人があった。この人のお父さんは久三郎といって、私を大変世話 してくれた人であった。その内藤教授がまだ東大の学生だったころ『明石の河童は海にい るんです』と話したことがあった。何といふのかときくと『カムロ、カハカムロといって います』といふことだった。それ以来私は明石の人にあふといつもそれとなく聞いてみる ことにしているが、今以て内藤君の話を裏書きする証拠をつかめずにいるのである。なぜ この言葉に心をひかれるかといふと、遠く離れた沖縄にあるのである。沖縄では河童のこ とをカハカムロともインカムロともよんでいる。カムロといふのは禿だから頭を小さめに した毛髪の短い子供、切り髪にした童子にほかならない。沖縄のカハは水汲み場のことで あるから、水汲み場にいる子供といふ意味になる。またインカムロのインといふのはこち らの海といふことで、すなわち海カムロといふことで沖縄では海にも河童がいるといふこ とになる」 25。
内藤は、大正14年に立ち上がった「北方文明研究会」の創立当初からのメンバーで、
その時に記された研究テーマは「土地所有に関する慣習法」となっている26。
大正15年4月、或る研究会が開かれ、柳田が「民族学の現状」と題して講演した。そ のなかで「兒戯は看過すべからざることなり」と説いた柳田の指摘に触発されて、内藤は
「兒戯と法制史」を執筆した。「法制史から二三の傍例を思ひ付くまま」書き記した論稿で ある。「子供の指切り」「笑法度(睨っこ)」「鬼ごっこの陣」などが、日本の風土記、公事 方定書、またヤーコプ・グリムの『ドイツ法古事誌』などを引用しながら分析され、「兒 戯の学問的観察が如何に興味多いか」を論証しようというのである。短編ながら、内藤の 法学的世界観が、いかに柔軟で人間味に溢れるものであるかを示しているように思われる。
彼は、こう締めくくる。
「さし當り安易なる遺風説を斥けて、子供の国を独立な法域と解し、そこに行はれる法 律の実証的な研究が望ましいと思ふ。子供心に正義意識の芽生え育つ過程、彼等の法律的 自己主張、彼等の活働の規約や方式、彼等の財物に対する想念、彼等仲間の貨幣、刑罰そ の他。これらを彼等はどこから得たか。大人の国の古い仕来りを見習ったか、然らば如何 にして。他国の人々の習俗を継受したか、また如何にして。この際、もとの姿と如何にま た変ったか。我等の解する如く法律を国家の命令に限らないとすれば、このやうな問題を もって兒戯は、法律学の処女地を開示する。かくて兒戯は遺風などの好事家的趣味に止ま らず、法律及び歴史の性質の新な側面を照し出す重要法資料となるであらう」 27。
金城朝永が、それに応えるかのように、同じく『民族』誌上で「琉球児童の指切」「琉 球児童の謎々」を発表している28。
内藤が手掛けた書評「日本法制史の二収穫」も、彼の問題関心のありようを示してくれ る。彼の挙げる二つの著作とは、「生活がただちに法制史の対象となったのは、恐らくこ れを嚆矢としよう」という瀧川政次郎『法制史上より見たる日本農民の生活。律令時代、上』
と、恩師穂積陳重の『實名敬避俗研究』である。穂積のこの著は「これは有らゆる意味で、
興らんとする日本学のクラシックである。さきに『諱に関する疑』と題し、同じ著者の『タ
ブーと法律』とともに我等学生の頃、細読、研究方法を導かれたもの。今次の改版が計ら ずも故博士の遺著出版第一号となってしまった」 29と述べる。佐喜眞興英もまた学生の頃、
『諱に関する疑』を細読し、琉球に向かう研究の方法論を思考したにちがいない。
三、雑誌『民族』
『民族』は、1925(大正14)年11月に創刊された。その年の6月に亡くなった佐喜眞 興英にとって、生前、この雑誌の存在を知る由もなかった。が、彼にかんする記事がない わけではない。いくつか紹介したい。
先ず、『民族』には、公刊された佐喜眞の遺著『女人政治考』の第2章6節、つまり「古 琉球の女治」に該当すると思われる遺稿「古琉球の女人政治」が掲載されている。その末 尾には『民族』の編者によって、以下のような添え書きが記されている。
「佐喜眞興英君の遺著の中から、『女治論』の第五回目の原稿が、只これだけ見出された。
同君は今一度全然新しい様式に由り、平易な説明方法を以て其の生涯の大著を書改めて見 る気であったらしいが、業務と多病との為に、終に其目的を遂げることが出来なかった。
女治論の一著は青年の頃よりの志で、刻苦して書を読み之を自身の観察と対比し、十余年 の間に四回まで稿を新たにした。実に驚歎すべき努力である。最後の原稿は幸に殆ど完備 して居る故に、やがて同志の手で之を整理し、公刊することに爲って居る。この一小断片 の如きは、之を発表するのが必ずしも故人の希ふ所で無いことを感ずるけれども、我々は 之に由って僅に痛惜哀悼の情を慰められんことを欲するのである」 30。
この遺稿と『女人政治考』の該当部分を比較して読んでみると、内容に関しては、もち ろん大略一致するが、展開の仕方は異なっている。この遺稿、また遺著『女人政治考』は、
佐喜眞興英が最終的にみずから校了した著作ではないという事実を押さえておきたい。も う少し佐喜眞が生きながらえていたならと、つい叶うことなどない思いにふけってしまう。
しかしまた、晩年の佐喜眞は、民事訴訟法上の抗弁 exceptioの意義を、歴史を遡って 厳密に論じた論文「訴訟法上の抗弁を論す」 31を執筆、連載していた。この論文は『法曹 界雑誌』に3回にわたって掲載され、佐喜眞の最終回の論考が掲載された『法曹界雑誌』
の発行日は、大正14年3月である。その3か月後に、彼は亡くなった。
『民族』第1巻6号には、松本芳夫と瀧川政次郎の、愛惜の念に堪えない、との感にあ ふれた論稿が掲載されている(瀧川については、後に、改めて触れる)。
松本は『女人政治考』を「最近に於ける民族学の大なる収穫」といい、「沖縄出身の青 年法律家」佐喜眞の著を、たとえば「著者は卑弥呼を縦に連らなる複数の人物と解するや うであるけれども、やはりこれを或る個人と解するほうが正当なる記事の読方であると思 ふ」と、佐喜眞の立論に納得のいかない点には率直に批判を加えつつ、丁寧に分析する。
最後に彼はこう記す。
「実に本書は故人の短い生涯を紀念するのみならず、柳田先生がその序文に於いてのべ られたごとく、『学界の睡を驚かす警鐘の如きもの』であって、吾々はこの先駆者の警鐘
に覚醒奮起して、この民族学の興隆に努力すべき責任を痛感しなければならぬ」 32。 第2巻第1号に、西村眞次が、『民族』が創刊されて1年が経過した所感を寄せている。
そのなかで、『民族』1巻4号に掲載された佐喜眞の、先にも触れた遺稿について、「佐喜 眞興英君の『古琉球の女人政治』は大きな研究中の一端で、其論述は将来の大成を予想せ しむるオバーチュアである。然るに年若くして彼れは死んでしまった。世の中に惜いこと は沢山にあるけれど、其中でも此人の死は私にひどく惜く思はれる」と、夭折した佐喜眞 の死を惜しんでいる33。
同号には、松本信廣の「巴里より」も掲載されている。
「佐喜眞興英氏の訃を『民族』紙上で知って哀惜の念に堪えません。ことに小生は筆無 精で渡欧以来一回も同氏に通信をしなかっただけに取返しがたい罪悪を犯した気が致しま す。大正十三年の冬モース氏に日本にも琉球の母権を研究してをる人がある旨を話したら 同氏は非常に悦んでミクロネシアの制度と支那古代の制度との間に位する日本琉球の該習 俗の研究が重要なることを説き、大いに慫慂せよといはれましたが、此モース氏の言をと うとう同氏に取次がぬ中にその訃に接する事になりました。今更ながら慚愧の念に堪えま せん」 34。
ところで、実際にミクロネシアに渡ったのは奥野彦六郎であり、また、中川善之助も2 年にわたって南洋群島を調査している。中川は、『民族』3巻6号に長編の論文「養子制 度の発端と推移」を掲載している。
四、中川善之助(1897-1975)
中川善之助は佐喜眞と同じく大正10年に帝大を卒業した。「典獄」になるという希望を 抱いて法科大学に進学した中川は、当初、牧野刑法学に魅かれた。が、結局、穂積重遠の 民法を3年間学ぶうちに、家族法の領域にすすんだ。先にも触れたように、大正7年入学 の中川の同期生が、「穂積民法学」の「第1回の門弟」であった。
民法のなかでも殊に家族法に魅かれた理由を、中川は、財産法にでてくる人間は「合理性」
を追求し、ホモ・エコノミックスであるのに対し、家族法の人間像はそうではなく、刑法 にでてくる人間像と似ているからである、と説明する。「犯罪人も親族法に出てくる人間 も非常に不合理というわけじゃないんですが、非合理であります。合理性を突き詰めていっ て自分の行動をきめておるということじゃないんです」 35。
中川は、卒業した翌年、東北帝国大学に赴任し、民法講座を担当する。その翌年の1923(大 正12)年から2年間の留学期間中、学生時代に穂積重遠の講義で聞いたバッハオーフェ ンやモルガン、クーランジュ等々の、いわば「民俗学的法律学者」の著書に触れ、またヴィ ノグラドフ等の研究者と親交をもった。その後の中川の数々の業績から、戦前の昭和期の 法人類学的志向をもった法学者の筆頭に、しばしば中川の名が挙げられる36。「重遠の家 族法学の承継者が中川善之助であることは衆目の一致するところである。また、重遠の法 理学はある意味では来栖三郎に引き継がれたと言ってよい」とも言われている37。
ところで、中川は、留学から帰国した翌年の1926(大正15)年、公刊されて間もない 佐喜眞の遺著『女人政治考』を手にする。彼はその書を「細心に三度読んだ」。そして、「私 は実際幾度かおのれの努力未だ足らざるを鞭撻さるゝの感に打たれた」という。彼は、佐 喜眞の著を、そうした姿勢で読み込んだあと、その読後感、詳細な書評を3回にわたって 新聞に連載している38。その書評を彼は、こう締めくくる。
「私は著者と生前一面識もなかったものである。しかも本書を読んで、この偉才の夭逝 を憾むの情うたた切なるものがある。知友等はこの遺著を彼のため又学界のために刊行す るの労を執られた。知友たらずとも、同じ道を求め進む私は、せめてその書を天下に推薦 することによって著者への慰安としたいのである」 39。
なお、中川善之助はマルクスの翻訳も手がけている40。ドイツ三月革命の余波を受けた 叛逆罪の廉での裁判で、被告人である「新ライン新聞」主筆のカール・マルクスが陪審員 に対して行なった弁論である。当時の日本の情勢を反映してか、公刊された訳文の所々が
×××と伏字となっている。この訳書の「解説」で、中川が、マルクスの弁論のなかに「法 理学、殊に力と法との関係に対する彼一流の端的な観察を見出す」と捉え、「解釈は結局 空虚な推論式のみを以て全うし得ないこと等を簡明に証拠立てた解釈学教材の感がある」 41 と記しているのも興味深い。余談ながら、この三月革命の渦中にグリム兄弟もいた。
ちなみに、東北帝大で中川と同僚であった木村亀二も、大正10年卒業組である。木村は、
穂積重遠のもとで法理学を専攻し、九州帝国大学教授時代も法理学講座を担当していた。
が、後に牧野の研究室に入り直し、刑法の道にすすんだ。木村が昭和3年に発表したバッ ハオーフェンに関する論文で「最近に我が国に於ても東洋に於ける母権制に関する種々有 力なる文献が発表せられつつある」として、中田薫や穂積重遠等と並べて、佐喜眞興英の
『女人政治考』を挙げている42。
五、奥野彦六郎(1895-1955)
1925(大正14)年6月に佐喜眞興英は亡くなった。その年の12月、奥野彦六郎は富山 地方裁判所から那覇地裁に赴任する。同期卒の佐喜眞の死、また新たな赴任地が佐喜眞の 郷里であることを奥野が知らないことはなかったであろう(後に、奥野は、自著のなかで佐 喜眞の『シマの話』を引用している)。奥野は、1928(昭和3)年5月に佐賀地裁へ転任す るまでの2年半ほどを沖縄で判事として勤務し、沖縄各地で資料収集にあたった。その後、
1937(昭和12)年から41(昭和16)年まで、南洋庁法院長としてポナペ島に勤務43。 実は、奥野が那覇地裁に着任するとき、当間重剛が那覇地裁に在職していた44。二人は、
しばらく同僚として、日々顔を合わすことになる。二人とも1895(明治28)年生まれの 同年である。また、奥野と佐喜眞は、大正10年に東京帝大を卒業した同期である。当間 と佐喜眞が県立一中の同期。奥野と当間は、何かと話す機会をもったことだろうし、その 際、亡くなって間もない佐喜眞のことも話題にのぼったことと思われる。
ちなみに、当間は沖縄に赴任することに、当初、乗り気でなかった。というのも「沖縄
は事件も少ないし、裁判官として勉強になるようなこともほとんどない」 45 と思われたか らである。一方、佐喜眞にとっての沖縄とは、一中の恩師清水駿太郎の薫陶を受け、中学 時代から「民俗説話」に興味を持ち、一高時代に帰省した折など島内各地、離島もまわっ て、古老たちから説話を蒐集した故郷である。彼にとって「衷心」からの研究対象の地、
というか馴染んだ空気の吸える地であった。職務柄、郷里に着任できることは稀であった であろうが、加えて、赴任先として沖縄を希望するには躊躇する何かが、彼の内部にはあっ たにちがいない。そうした意味でも、彼の死の2週間ほど前に発行された『シマの話』は、
彼の「望郷の書」であった46。
奥野は、昭和2年から、「古琉球に於ける法制断片」を『法曹会雑誌』に5回にわたっ て連載した47。連載するにあたって、その冒頭で、奥野はこう記す。
「法制の断片はハブや蛇皮線程に面白く無いであらう。併も琉球法制の全体を統一的に 了解し叙述すると云ふ事は至難の業である。それは主な法律が不文法であるが為ばかりで は無い、當地本来の慣習制度の横間から支那伝来の徳教法制がやって来て波瀾重畳未だ他 府県程に融合し染込んで居なかったからである。譬へば原始南洋から押寄せて来た黒潮に 北支那からやって来た朔風が吹附けて、四角三角の波をなみだたす様に」 48。
そして、今後連載していく「本稿のかなずかいは穂積博士著民法読本の例に依るつもり である」と述べる。やはり、奥野も穂積民法の第1回生であり、民俗学的法学あるいは法 社会学の分野への興味が、3年間にわたる穂積重遠の講義を通じて彼の胸中に湧いたもの と思われる。
奥野はとくに婚姻法の分野、相続や戸主権に関心をもち、沖縄各地の風俗・慣習の実例 の蒐集、またアンケート調査を行なっている。その成果は、彼の『沖縄婚姻史』『沖縄の 人事法制史』となって結実する。が、同時にまた、「民の法」たる「内法」の法制史料の 蒐集にも精魂を傾け、後に『南島村内法』に纏められる。「内法の裁判」例として、その 末尾に「同字出身故佐喜眞判事著シマの話一四、五頁」と記された「字新城」の例が紹介 されている49。奥野の南洋庁に赴任した成果は「ミクロネシアにおける『同生地族』の形成」
である50。
ちなみに、「奥野さんは実に熱心な実務家で、精励格勤、所長の信任が厚かった。時の 末松正行所長からしばしば栄転の交渉があったが、奥野さんは琉球の法制、旧慣内法の研 究のために、転出を断られた」 51 と崎浜秀明が語っている。そうした彼に対する人物評は、
先の内藤吉之助を想起させる。
ところで、同期といえば、中学時代の話であるが、後に公認会計士となった下地玄信も、
佐喜眞や当間と同じく一中の同期である。下地と佐喜眞の間で、スイやナーファンチュに 負けないぞと互いに一番を競いあったことや、「校内では英語以外の言葉は使わない」と いう密約を交わしたエピソードなどは、夙に知られている。当初、そこに私は、外国人宣 教師を英語教師として積極的に採用していた当時の一中の校風、「田舎」出身の優等生ら しい向学心といった微笑ましさ、を感じていた。が、最近、その密約に「方言札」の影を
感じたりもする。宜野湾の新城村や宮古島出身のふたりが、「共通語励行」を日常的に実 践していた家庭環境で育ったとは思えない。特待生であり続けるためには、無意識に「ア ガーッ」「アガイタンディ」と発してはならないのである。
当時の一中の卒業生名簿をみると、「大和姓」も数多く見つかる。寄留商人、県庁等に 赴任してきた役人や教員の子弟たちであろう。彼らの親もまた、時折、出身地の県人会な どの酒宴で、馴染んだ方言でもって、異郷の地にいるウップンを晴らしていたはずである。
そうした教員の家庭にあって、その子弟が「美しい日本語」だけで生活していたとは思え ない。「方言札」に対して、反抗的態度をとる県出身の中学生も多々いた。「薩摩弁や熊本 弁を使ったひとには罰札を与えないのですか」「先生のあやしい日本語ではなく、東京に 進学してきれいな日本語を覚えます」。また、山口重三郎(山之口獏)は意図的に「方言」
を発し、罰札をトイレに投げ捨てる。また、金城朝永は罰札を一身に引き受けたため、「特 待生から落第生」になった。後に、山口や金城は、詩の世界、言語の世界へ飛翔していく。
そうした中学生らしい抵抗52と佐喜眞と下地、二人の「密約」は対極にあるように感じられ、
つい二人の胸の内を推し量ってしまう。
戦後、当間が行政主席の頃、下地と当間は、佐喜眞の墓参りに出かけた。が、探すこと ができず、見当をつけて「遥拝して冥福を祈った」という。やはり、同期生である53。佐 喜眞が眠る亀甲墓は往時と変わらず凛としてそこに在り、現在、佐喜眞美術館と向き合っ ている。なお、佐喜眞や当間と同じく大正2年に一中を卒業、佐喜眞と共に大正5年に帝 大法科大学に入学、佐喜眞より2年早く大正8年に卒業した同郷の人に大城朝申54がいる。
彼も同じく、判事として長崎地裁や東京地裁を歴任している。
六、瀧川政次郎(1897-1992)
「学友の甚だ乏しい」佐喜眞にあって、おそらく大学時代の「唯一の親友」は瀧川政次 郎であった55。瀧川は、1919(大正8)年帝大入学、1922(大正11)年3月卒業。佐喜 眞と同じく独法科であった。彼は一時期、南満州鉄道に入社するが、1925(大正14)年 に九州帝国大学に赴任し、後年、國学院大学教授となる。
瀧川が「佐喜眞興英氏の『女人政治考』を読む」という一文を『民族』に寄せている。
「佐喜眞興英君は、私の大学時代の親友である。私が佐喜眞君と初めて相識ったのは、大 正8年の秋、小石川上富坂の日独会館であるが、同君は既に其の頃から熱心な民族学土俗 学の研究家であった」。瀧川が帝大に入学した年の秋、つまり佐喜眞が休学、復学する頃 に二人は知り合うことになる。大正8年秋以降、佐喜眞は瀧川の家の近所に引っ越す。佐 喜眞は「三日にあげず」彼の家に通い、民族学の話をした。「『女人政治考』の第一稿は、
君の其の頃の淋しい精進の生活から生れたものであって、私は原稿が出来たから見てくれ と云って、本書の第一稿を私のところへ持ってきた君の嬉しさうな顔を、今も思ひ出すこ とができる。…本書の第一稿は私の外には、東大の中田薫博士が之を見られた」 56。 瀧川は、彼の『日本法制史』のなかで、「土俗を研究して一つの結論を引き出したもの」
として、高木敏雄、穂積陳重、中山太郎、内藤吉之助、南方熊楠等の著作と並べて、佐喜 眞興英の『女人政治考』を挙げている。ちなみに、彼は福岡でも落ち着くことはなかった。
「次々と歴史的事件に巻き込まれてひと処に静止していられぬ性を授けられていたようで ある」とも評される瀧川は、先に触れた木村亀二と同様、九大事件に巻き込まれて、九州 帝大を辞し、また、筆禍事件を起こしたりもした57。
法諺を集めた考察のなかで、瀧川は、Summum jus, summa injuria. 最も厳正の法は 最も不正の法なり、という有名なローマの法諺を紹介した後、「しかし、これと同義にして、
しかもその表現法の更に深刻奇警なる日本の諺に至っては、これを知る人甚だ稀である」
と、法諺「理の極じたるは非の一倍」を挙げて、この文の圧巻としたい、と述べる58。
七、おわりに
この夏、佐喜眞興英の帝大入学から卒業までの、つまり大正5年から10年までの(その 前後も含めて)東京帝国大学法科大学の入学者名、卒業者名が掲載された「官報」を、折々 にネットで検索していた(彼の学生時代は、西欧では第一次世界大戦、ロシア革命、ドイツ11月 革命が起こり、日本国内では民本主義の吉野作造が論壇で活躍していた時期と正に重なり合ってい る)。そして、彼が大学キャンパスや図書館で顔を合わせた人々、彼らとの交遊、卒業後 の各々の人生に思いを馳せた。
穂積陳重、重遠親子、中田薫といった佐喜眞が教えを受けた恩師からの影響とともに、
彼はどういう学友たちのなかで勉学し、刺激を受けたのだろうか、という素朴な好奇心、
関心から、この覚え書を記してみた。
注
1 たとえば、穂積重行『明治一法学者の出発』(岩波書店、1988年)等、参照。
2 「東京大学法学部内ニ別課設立ノ儀ニ付建議」『東京帝国大学50年史(上冊)』(昭和7年)
595頁、『東京大学百年史 部局史一』(昭和61年)33頁、参照。
3 穂積陳重「法律学の革命」(『法学協会雑誌』60号、明治22年)『穂積陳重遺文集 第二冊』
(岩波書店、昭和7年)85-86頁。
4 穂積陳重『法窓夜話』(岩波文庫、1980年)174頁。「Rechtsphilosophie を邦訳して『法 律哲学』としようかとも思ったが、哲学というと、世間には往々いわゆる形而上学に限 られているように思っている者もあるから」と述べている。
5 長尾龍一『日本法思想史研究』(創文社、1981年)65頁。
6 柳田國男『故郷七十年(改訂版)』『定本 柳田國男集 別巻第三』(筑摩書房、1971年)所収、
329頁。佐喜眞の一中時代の恩師清水駿太郎は、『海南小記』の旅で柳田が沖縄に着い た1921(大正10)年1月5日、まさに到着したその日に、柳田の宿舎楢原館を訪ね、柳 田に会っている。酒井卯作[編]柳田国男『南島旅行見聞記』(森話社、2009年)54頁、
参照。
7 源武雄「自由主義の息吹き」養秀同窓会編『沖縄の教育風土記』(1971年)所収、175頁、『比 嘉春潮全集 第三巻』(沖縄タイムス社、1971年)105頁、『同全集 第四巻』(同)60 頁、参照。
8 『「琉球研究」ノート』では、733頁の「神判」の項目で、中田薫「古代亜細亜諸邦に行 はれたる神判補考」(『法学協会雑誌』25巻9号、明治40年)が引用・紹介されている。
中田『法制史論集 第三巻下』(岩波書店、1943年)937頁、参照。『女人政治考』では、
佐喜眞興英『女人政治考・霊の島々〈佐喜真興英全集〉』(新泉社、1982年)37、93、
94、109頁等、参照。
9 佐喜眞、前掲書、457頁。
10 穂積重遠「大学生活四十年」(『法律時報』15巻10号)26頁。
11 前掲『東京大学百年史 部局史一』173-174頁には、「大正10年(1921年)3月26日、
入学試験実施。4月、本年より学年の始めが、4月となる。8 ~ 21日、試験。(一種 の経過措置として、「大正9年開始ノ学年」の試験をこの時期に行ったもの。)・・・30日 付けで、法律学科308名、政治学科165名、計473名卒業」という記事が載っている。
この法律学科308名のなかに佐喜眞興英がいる。
12 穂積重遠「法律を学んだころ」(『法律時報』22巻4号)74頁。
13 我妻栄「穂積重遠先生」(『法律時報』23巻8号)1頁。
14 穂積重遠『父を語る』(昭和4年)20-21頁。
15 穂積重遠「ウエスターマルクの『人類婚姻史』と穂積陳重の『隠居論』」(『社会学雑誌』
26号、大正15年)4頁。
16 穂積陳重『實名敬避俗研究』(刀江書院、大正15年)1頁。
17 『東京大学百年史 資料二』(昭和60年)397頁。それは戦後の「東京大学法学部規則 改正(新制)」(昭和26年)まで変わっていない。同書、430頁、参照。
18 前掲『東京大学百年史 部局史一』163頁。
19 エンゲルス、内藤吉之助訳『家族・私有財産及び国家の起源』(彰考書院、昭和22年)、
「序」1-2頁。
20 佐喜眞、前掲書、12頁。
21 内藤訳、前掲書、「あとがき」1頁。
22 同書、「跋」3頁。
23 同書、「跋」5- 6頁。この辺りの事情について、岩波文庫版『家族・私有財産・国家 の起源』の訳者である戸原四郎は、こう述べている。「わが国で本書を最初に紹介し たのは、おそらく堺利彦編『男女関係の進化』(平民科学第三編)有楽社、1908年(明 治41年)であろう。これは、本書のうち家族にかんする部分を翻案した啓蒙書(本文 166頁)である。そして翻訳でも堺利彦が先鞭をつけ、本書の第5、6章(アテナイ 国家の成立、ローマの氏族と国家―引用者)の一部を英語版によって訳し、『国家の 起源』、『羅馬国家の起源』と題して『社会主義研究』2巻2号、3号(1920年3月、
4月)に発表した。これは西雅男の協力になるもので、当時、全訳の企画もあったが 果たされずに終った。そして全訳は内藤吉之助訳(有斐閣、1922年)をもって嚆矢とし、
西雅男訳(白楊社、1927年)、田中九一訳(改造社『マル・エン全集』第12巻所収、
1928年)がこれにつづいた」。エンゲルス、戸原四郎訳『家族・私有財産・国家の起源』
(岩波文庫、昭和40年)282頁。なお、内藤は、この訳業を終えた後、「エンゲルスの 家族史論」(『我等』9巻1号、1927年)を発表している。また「日本原始法におけ る財物の首章」(『史学』三田史学会、6巻3号、1927年)も、彼の法学観を知るう えで有益である。
24 柳田國男『山島民譚集(一)』『定本 柳田國男集 第27巻』(筑摩書房、1970年)77頁。
25 柳田、前掲『定本 柳田國男集 別巻第三』138、139頁。
26 『民族』第1巻第1号(大正14年11月発行)137頁。雑誌『民族』のこの創刊号に、「北 方文明研究会の創立」という短編記事が載っている。それは「三四箇月前に出来たば かり」の研究会で、幹事は金田一京助、中山太郎、事務所は中山の自宅、となっている。
その発起人には、両者に加え、折口信夫、柳田國男ほか10名ほどの名前が連なってい る。そのなかに内藤吉之助の名前も見つかる。
27 内藤吉之助「兒戯と法制史」(『民族』第1巻第5号)108-112頁。
28 金城朝永「琉球児童の指切」「琉球児童の謎々」(『民族』第4巻1号)191頁、200頁、
参照。
29 内藤吉之助「日本法制史の二収穫」(『民族』第2巻第1号)138-139頁。
30 佐喜眞興英「古琉球の女人政治」(『民族』1巻4号、大正15年)49-64頁。
31 佐喜眞興英「訴訟法上の抗弁を論す(1)(2)(3完)」(『法曹界雑誌』2巻12号, 3巻 1号, 3号、大正13, 14年)。そのなかには「春木博士大正五年東大講義」といった論 拠も記されている。3巻1号、58頁、参照。また、ローマ法の船田享二も、大正10 年卒である。なお、拙稿「佐喜眞興英『訴訟法上の抗弁を論す』を読む」(『沖縄法学』
32号)259-315頁、参照。
32 松本芳夫「佐喜眞興英氏の『女人政治考』を読む」(『民族』第1巻第6号)105-107頁。
33 西村眞次「『民族』第1巻所感」(『民族』第2巻第1号)121-127頁。
34 松本信廣「巴里より」(『民族』第2巻第1号)141-142頁。
35 中川善之助「私の家族法」(『法学セミナー』240号)14-32頁、参照。
36 たとえば、千葉正士『現代・法人類学』(北望社、1969年)等、参照。
37 大村敦志『穂積重遠』(ミネルヴァ書房、2013年)149頁。
38 中川善之助「『女人政治考』を読む―その紹介と短評(1)(2)(3)」『東京日日新聞』
1926(大正15)年10月11日、18日、25日。
39 中川、前掲書評(3)『東京日日新聞』1926(大正15)年10月25日。なお、私は以前、
この書評を比較的詳しく紹介したことがあった。拙稿「佐喜眞興英はメイン(Henry S.
Maine)をどう読んだのか-『女人政治考』へ寄せた中川善之助の書評を手がかりに-」
(『沖縄法政研究』9号)159-196頁、参照。
40 マルクス、中川善之助訳「ケルン陪審法廷に於けるカール・マルクス(マルクス―
1849年)-1849年2月9日暴動事件-」『マルクス=エンゲルス全集 第4巻』(改造社、
昭和3年)599-630頁。
41 同訳書、713頁、参照。
42 木村亀二「バッハオオフェンの再生と法律学」(『法学志林』30巻12号)。なお、団藤 重光「木村亀二博士の御逝去を悼む」(『刑法雑誌』18巻3・ 4号)参照。
43 大宜見朝徳『南洋群島案内』には、当時の南洋庁の「法院制度」のことが記され、また、
南洋庁の職員録も資料として掲載されている。そのなかに「判事」として、柳田太郎、
石川音次、高橋静一と並んで、奥野彦六郎の名前が見つかる。大宜見『南洋群島案内』
(昭和14年、海外研究所発行、復刻版;アジア学叢書112、大空社、2004年)16-18頁、
267頁、参照。
44 当間重剛は、佐喜眞と同じく1913(大正2)年3月に一中を卒業した同期である。卒 業後、当間は、三高そして京都帝大法科大学へ進学し、佐喜眞と同様、司法官の道を 選んだ。大正9年7月に大学卒業後、司法官試補として神戸地方裁判所詰となり、大 正11年7月、長崎地方裁判所判事となった。しかし、父重慎が亡くなったので、長崎 には4か月間在任しただけで、同年11月には、那覇地方裁判所に赴任する。その後、
1926(大正15)年4月には判事を退職し、父のあとを継いで那覇市長になった。戦後は、
第2代琉球政府行政主席となる。
45 当間重剛『当間重剛回想録』(1969年)47頁、参照。
46 平敷令治がこう記している。「佐喜眞興英の『シマの話』(1925)はモノグラフ(単一 村落の民俗誌)として最初のもので、日本民俗学史上の傑作といえるだろう」。平敷「民 族学・民俗学」『沖縄県史 第5巻各論編4』(1975年)701頁。
47 奥野彦六郎「古琉球に於ける法制断片(1) ~ (5)」(『法曹会雑誌』5巻11号、6巻1、
4、6、10号)。
48 奥野、前掲論文(1)(『法曹会雑誌』5巻11号)71-72頁。
49 奥野、前掲論文(3)(『法曹会雑誌』6巻4号)67頁。なお、近年、この分野の研究 成果として、田里修・森謙二編『沖縄近代法の形成と展開』(榕樹書林、2013年)、平 良勝保『近代日本最初の「植民地」沖縄と旧慣調査 1872-1908』(藤原書店、2011年)
がある。
50 奥野彦六郎「ミクロネシアにおける『同生地族』の形成」(『季刊 民族学研究』14巻3号)。 ほかに、瀬川清子が「土地所有問題と婚姻の関係が非常に濃厚であることを示す一例」
として、奥野の冊子「ポナペ島に於ける土地所有主体に対する観念乃至は慣習の推移 に関する参考資料とその概説」を拝見したというが、それは公刊されたのがどうか、
私は未だ知り得ていない。瀬川「沖縄の婚姻-奥野彦六郎氏の稿本を読みて-」(『民 族学研究』13巻3号)89頁、参照。
51 崎浜秀明「解説」奥野彦六郎『沖縄の人事法制史』(至言社、1977年)所収、4頁。
さらに、崎浜は「江戸時代の沖縄好を新井白石・滝沢馬琴・松浦静山とするならば、
柳田國男・折口信夫・奥野彦六郎の三方を『近代沖縄好の三幅対』と称したい」(同書、
1頁)とも評している。なお、奥野の評伝については、奥野の前掲諸著作に付された
「解説」のほか、菊山正明「奥野彦六郎論」(『新沖縄文学』37号)、島袋全章「沖縄法 制史研究の権威-奥野彦六郎氏を偲ぶ-」(『沖縄文化』29巻1・ 2合併号)等がある。
52 拙稿「(資料)明治末期の中学校教師『山口泰平日誌』を読む」(『うるまネシア』17号)
134-143頁、「『一文字』違い-『山口泰平日誌』を読み終えて」(『月刊 琉球』24号)
44-55頁、参照。
53 余談めいたことであるが、1924(大正13)年5月に行われた衆議院議員選挙で、下 地玄信は落下傘候補の手塚正次を応援した。その選挙応援の話を、当時、大阪の会計 事務所に勤めていた下地にもちかけたのは、下地と同郷の佐久田昌章であった。その 佐久田の子息の昌弘は、大正11年4月に沖縄一中に入学、その後、浦和高校、東京帝 大法学部へと進学し、卒業後、三省堂の六法全書編纂に半生を奉げた人物である(私 家版『佐久田昌弘追悼集』1993年)。ところで、手塚は当選したものの、下地は選挙 違反の廉で一か月ほど那覇の留置場に拘置され、結果、「罰金20円」の刑に処せられた。
その判決を下したのが当間重剛であった。
54 大城朝申は189頁にも及ぶ『漁業及漁業権制度』司法研究報告書集:第17輯14(1933 年)を著している。当時、長崎地裁判事であった大城は、この報告書で漁業権や入漁 権について詳細に論じている。
55 佐喜眞興英の妻永原マツヨは、後年、こう詠んでいる。「東大の独法の友今は亡く滝川 政二郎氏ひとり存命か」「伊東氏は英法なれどはやく逝き南雲氏も亡く法曹会誌を辿 る」。永原マツヨ『続・歌ごころ-孤独に耐へる-』(昭和49年)167頁。なお、東京 での佐喜眞の生活の様子について、拙稿「佐喜眞興英の東京での宿所、住み処」(『沖 縄法政研究』16号)99-123頁、参照。
56 瀧川政次郎「佐喜眞興英氏の『女人政治考』を読む」(『民族』第1巻第6号)107-110頁。
なお、佐喜眞が福岡地裁から東京地裁に戻ってきた後のことであるが、宮良當壯も彼 の原稿をみている。『宮良當壯全集 二十巻』(第一書房、昭和59年)341頁、参照。
57 瀧川政次郎の『日本法制史』「序」には、瀧川と中田薫との確執等が赤裸々に綴られて いる。両者の肌合い、風合いの違い、ということだろうか。瀧川『日本法制史(上)』(講 談社学術文庫、昭和60年)5- 6頁、参照。
58 瀧川政次郎『日本法律史話』(昭和18年、初版;講談社学術文庫、昭和61年)340頁、参照。
なお、穂積陳重と瀧川政次郎について、次のような指摘も興味深い。「穂積氏は諸外 国の文献を博捜して法学の捉え方の本道を探ろうとした法理学の先人であり、瀧川博 士は資料の出所・系統を明らかにして史実を考証する法制史家である」。嵐義人「瀧 川博士の考証学」同書、355頁。