一七世紀のロシア製シベリア諸地図
上
正 利
} ま
が し
与己
一、
一六世紀末!一七世紀初期のロシア製シベリア地図
一、
一六二七年の﹁大地図﹂とその説明書
一六三三年のシベリア地図の作製
17世紀のロシア製シベリア諸地図 四
一六六七年の﹁ゴドゥノフ図﹂
は
カ1
し
き
ロシアで一七世紀に作製されたシベリア諸地図については︑わが国の学界でも有名なパグロフ(﹁回釦
m g
d ﹃
)や
パ
ッド
レ
l
・司・切向︒一色︒目︒ちなどの英独文で書かれた幾多の論著によって︑ある程度は知られている︒G
しか
し︑
ソ 連
の学者によって行なわれた研究の成果や︑パグロフ等に対する反論などは︑論文がロシア語で書かれている関係から
わが国ではほとんど顧慮されなかったために︑わが国の地理学界並びに歴史学界を通じて︑一七世紀のロシア製シベ
リア諸地図について︑今日でもなお︑正確な知識がもたれていないのは遺憾なことである︒
87
ソ連においても︑一七世紀のロシア製シベリア古地図類に対しては︑幾多の学者によって研究成果が発表されてい
88
たのである︒それらの諸論考のうちには互に対立する見解もあって︑一七世紀のシベリア古地図のすべてについて︑
ソ連学界における定説が確立されてしまったという現状でもないが︑ソ連におけるそれらの研究成果は︑最近刊行さ
れたアンドレlフ
( ﹀
‑H
・﹀
ロ骨
0 0 3
H∞∞吋│居留)の著書﹁シベリア史料学概説︒第一冊︑一七世紀︒モスクワ︑
フL
六O
年刊
﹂T
に ︑ )
一応まとめられているといってもよい︒著者アンドレl
フは
︑
一七世紀と一八世紀とのシベリア史
に対する史料学および古文書学においては︑ソ連における第一人者と目せられたこの方面の専門家であった︒かれの
寸シベリア史料学概説︒第一冊︑一七世紀﹂は︑初版が一九四O年にレニングラードで刊行されたものであるが︑そ
の後︑この初版に対して著者自ら非常に広範囲な改訂増補を加えた第二版が︑
本稿は︑従来知られているパグロフやパッドレーばかりでなく︑右のアンドレ1フの著書をはじめソ連側の研究成
一九
六O年に刊行されたのであるc
果も考慮にいれながら︑一七世紀のロシア製シベリア藷地図に関する現在までの諸学者の研究成果を︑一応ここにま
とめて︑それをロシア古地図史の一環として概観すると共に︑また︑それらのうちで現存する古地図類を︑
一七
世紀
シベリアの歴史学的並びに歴史地理学的研究のための︑資料として利用する場合に︑留意すべき種々の問題点を指摘
しておくことを目的としている︒
一、
一六世紀末l一七世紀初期のロシア製シベリア地図
ロシアにおいて地図の作製がおこなわれるようになったのは︑一七世紀より古い時代のことである︒ロシア地理学
史の研究者レlベジェフ
(ロ
・冨
‑ T w z b 2 )
によると︑すでにこニ世紀│一四世紀のころにロシアにおける地図作製
の可能性が推測されるが︑確実な文献に基づいて間接的にでもロシア製地図の存在を主張しうるのは︑一六世紀の初
めのととである︒その時代のロシア製地図類は現存していないが︑それらの地図は︑一六世紀前半に他のヨーロッパ
諸国で作製されたロシア地図の︑ナ頁料となったことが確認されている︒たとえば次の人々によって作製されたロシア
地図︑すなわちア︑グネゼ
( ∞
‑k
rm
HM
ON
F
ミュンス‑アル
( ω
・
ヴ ィ ド ( kr ・
︿広
一五
五五
年刊
)︑
一五
二五
年刊
)︑
慰問 ロロ 回一
w応
F
一五四九年刊)な一五三七年l五O
年刊
)︑
ヘルベルシュタイン
( ω
・ ︿
Oロ
出︒
号m g
z z
一五
四六
年刊
︑
どは︑確実にロシア製地図の影響を受けているのである2︺O
きて
︑
ロシア人によるシベリア征服は一五八0年代からのことであるが︑シベリアの地図
( n v R q ︒NV)とその説
明書あるいは目録とでも言うべきもの(さ由主印)とは︑ロシアに併合されたシベリアを一六世紀末から一六三七年ま
で管轄していたモスクワの旧カザン王国事務取扱所(同忠告許可仏︿
22 S
に ︑
一六世紀末から収納されていたよう
17世紀の戸シア製シベリア諸地図
であ
る︒
また
︑
アンドレl
フや
レ
1ベジェフの指摘しているところによると︑若干のシベリア地図が︑一六一四年に
当時
のロ
シア
外務
省(
唱︒
印︒
戸田
町可
句門
戸W
R )
にあったことがわかる︒すなわち︑
一六一四年にロシア外務省にあった
﹁諸国図の目録(同21
由 ︒
ユv o
mw NF mw BE
ロN
1h Fm
O凹
ロ仏
国司
門田
宮)
﹂の
なか
には
︑﹁
カザ
ン(
同日
開吉
)か
らシ
ベリ
アへ
の道
路図︒考朽︑破損﹂という記載と︑﹁チェルドゥイニ(の
FR
︻守
口)
からのシベリア図︒老朽﹂という記載があるとい
ぅ︒後者の方の地図をフェリ
( ω
・ 吉 一
‑m
︐m w
戸)は一五八七年l一五九七年のものとしているとのことで︑これは当時ロ
シアに知られていた範囲のシベリアの︑最も古い地図の一つであろう︒しかし右のニ図は共に現存していない百五
そのほかにも︑この時代にシベリアで地図が作製されたことを推察させる証拠がある︒たとえばアンドレlフの記
載に
よる
と︑
チュメニの長官ヤノフ(匂・ペg
ー ︒ ︿ )
に対する一六
O
O年一月三O日の勅令には︑ヴェルホトゥリエと
89
チュメニとの間のイェパンチン・ユルト(吋
Sm wロ nF EM
E吋F後のトゥリンスク叶ロ江口岳)に︑宿場と柵とを建設す
90
ることを命じ︑なお︑柵と要塞とを地図に描いて︑モスクワの旧カザン王国事務取扱所へ送付するように命令して
ボリスクの長官トゥイルコフ(︿・叶可件︒︿)とに対する︑ いる︒また︑トムスク(斗︒言問ぎを建設するために派遣されたスルグlトの長官ピセムスキ1(
の・
回目
吉田
町三
とト
一六
O四年三月二五日の命令には︑都市の附近を観察して
地図に描くことを指令している
2 d o
このように︑シベリアの地図は一六世紀末から一七世紀初期にかけて作製されたことは判明しているが︑それらの
地図の現存するものがないために︑その面影は知り難い︒それゆえに︑一七世紀初期のロシア人製シベリア地図の面
影を伝えているオランダ人マッサ(同盟仰の冨
g g )
の ︑
シベリア北部を含む北極海沿岸地方の地図は︑貴重な価値を
もつ資料であると言わなければならない︒かれは︑
↑六
O一年から一六O九年までモスクワ滞在中に︑ロシア人の作
製した北部ロシアからシベリア北部にいたる北極海沿岸地方の地図を入手した︒マッサはそれの複写図をつくり地名
をラテン文字に転写したものを︑一六一二年および一六一三年にアムステルダムで刊行されたかれの著書﹁タルタリ
ーにおけるサモイェlド族の地方の記述
( F u n v 弓
乱ロ
mF
︿O
m g 含 円 ω ω g o M 諸
島g
FM
Wロ
E E
吋 ︐RZ
門戸
8・﹀自由件︒吋門戸釦
H F
国2 8
‑ A U m
吋 w
ユ
ZN
・とのなかに挿入したのであった
( 5 ) (
第一図と第二図参照)む
マッサがロシア人から北極海沿岸地方の地図を入手した事情は︑かれ自身の手記によると次のようである︒すなわ
ちマッサにはロシアに一人の友人があり︑友人の兄弟はシベリアへ行ったことがあって︑その兄弟の口授に従って拙
いたその地方の略図(凹
w o
‑ z g g m
匂)を︑友人がマッサに与えたのである︒その兄弟はすでに死去していたが︑そ
の人は自らワイガッテ七海峡を通過してオピ川まではどこでも知っていた︒しかしそれより先方のことは︑伝聞によっ
て知っていただげであった︒それ散に入手した地図は海岸の略図にすぎなかった︑というのである︒マッサの入手し
17世紀のロシア製シベリア諸地図
第1図マッサの北極海沿岸図。 1612年刊。
(J. Keuningによる)
第2図 マッサの北極海沿岸図。 1613年干Ij。
(Bagrow, L.: Die Geschichte der Kartographie. Berlin, 1951. ~こよる)
① ウ ン ス カ ヤ 湾 ① ア ル ハ ン ゲ リ ス ク
① カ ニ ン 半 島 ④チョシュスカヤ湾とコ ル グ ェ フ 島 @ ベ チ ョ ラ )11@ ノ ヴ ァ ヤ ・ ゼ ム リ ヤ 島 ① ヴ ァ イ ガ チ 島 ③ヤ マル半島とベールイ島 ①トポリスク
⑮オピ/11@ タ ズ 川 と マ ン ガ ゼ ヤ ⑫ イ ェニセイ川 ⑮ピヤシナ川
マッサ複写図の右たロシア人の描いた原図は︑多分一六O四年│一六O八年の間に措かれたものと推定されている︒
下に当るタズ川の東岸にマンガゼヤの町(冨ω
ロ 向 釦
Na p
ω同 ︐
84
田町三
m o g p
前記のマッサの︑ 図が二ハO一年以後のものであることは明瞭である百
) O
一六
OO年末建設)があるので︑この
一六一二年と一六一三年との二つの刊行図をみると︑地図の西方は︑北ドヴィナ川口の西方のウ
地図の東方は︑シベリアンスカヤ湾(巴
s w a m
関口σ旬︑地図の上では
0 2 2 g m o
白げ
ωと書かれている)に始まり︑
91
西シベリアの南のタイミル半島のピヤシナ川
( H J S E m
‑
地図
の上
では
司忠
明日
仏包
一円
ゅの
回と
なっ
てい
る)
まで
描か
れ︑
92
方はトポリスクまでになっている︒この二つの刊行図を比較してみると︑両図は根本においては同一図とみなし得る
一六一三年刊図の方が良くて︑とれには若干の補訂がみられる︒特に一見してわかる著しい相違は︑
刊図の方には︑西シベリアの北部に二人のザモイェlド人が描かれ︑その上方に数行の説明文が書かれている点であ
占 守 ︑ 喝
カ ︑
一六
一三
年
る。
とにかくこの両図は︑共に初期のロシア製シベリア地図の面影を伝えている現存する最古の地図というべきで︑
ロ
シア古地図史の貴重な資料の一つである︒
一一、
一六二七年の﹁大地図﹂とその説明書
一七世紀初期におけるシベリアの地理に関する貴重な文献としては︑もう一つ︑最近ソ連で諸写本を校合し解説を
間して公刊された﹁大地図の説明書(同巳
m m H
切o ‑
︒
gロm vnF 02 0N
ロ V
・
E N
叶 ) ﹂
( 7
がある︒この書のシベリアの部分に)
イシム川︑トボール川その他の諸支流︑並びに北方のプル川︑タズ
川などの流域の︑水系や諸都市聞の距離などに関する記載があって︑これは西シベリアに関する古い地理的記述の一 は︑西シベリアのオピ川とその支流イルチシ川︑
つで
ある
︒
この﹁説明書﹂が作られた由来は︑一六二七年に︑当時官職の任命を司っていた役所(河自ミ包)において︑西シ
モスクワからクリミア半ベリアまでを含むモスクワ国の古い﹁大地図(切包岳O可
nv oH qo NV
)﹂の忠実な複写図と︑
島までのウクライナの新しい地図
(n FR qo NV Uo
‑吉
宏 司 20 M8 1)
とを作製させた時に︑
両地図に基づいて﹁大地図の説明書﹂をも作らせたものである
(8
1
同時
に︑
これらの新旧
一六二七年に勅命によって作られた右の﹁大地
図﹂の複写図と説明書との作者は︑この役所の職員であったメゼンツオフ(﹀・富良
gZ
︿O
)
であったことが︑
一 ム ハ
二七年のかれの請願書が発見されたことから判明した宮古
一六二七年においてすでに使い古されていたという古い﹁大地図﹂は︑西シベリアまでを含むモスクワ国家の全図
としては︑恐らく最初のものであったろう︒しかし︑古い﹁大地図﹂の原図も︑一六二七年のその複写図も共に現存
しておらず︑ただ﹁大地図の説明書﹂だけが︑三七種におよぶ多数の写本として(最も古い書写年代の明記されてい
るのは一六六0年代の写本であるが)現在まで伝わっているにすぎないので︑﹁大地図﹂の内容は︑﹁説明書﹂の記載
から推測されるだけである︒
古い﹁大地図﹂の作製年代については︑帝政時代いらいロシアの諸学者によって︑種々の見解が述べられてきた︒
17世紀の戸シア製シベリア諸地図
レlベジェフは︑それらの主要な見解をあげた後で︑この年代決定は困難なことであり︑多分一六世紀の最後の二O
lz
一0年聞に作製されたであろうとしか言えないと述べている(想︒しかしアンドレlフの紹介しているところによ
一九四九年にシパノフ(円﹀
‑ m E σ 8 0 4 )
はこの﹁説明書﹂の内容を詳細に検討して︑一六二七年の地図の基
ると
︑
礎とされたところの古い若朽の﹁大地図﹂は︑およそ一六
OO
年i
一六
O一年ごろに作製されたものであるという結
論を出した︑とのことである︒論証の根拠は︑この﹁説明書﹂には一五九八年までに建設された都市は全部記載され
一六
OO年および一六O一年に建設されたトゥリンスクとマンガゼヤ百二および一六O四年に建設さ
てい
るこ
と︑
れたトムスクとケトスク柵とは記載されていないこと︑モスクワ国のヨーロッパ部で最も後代に建設された都市とし
ては
︑
一六
OO
年七月に建設されたツアlレフ・ボリソフ市(叶
g5 4
回O
0 丘 四
5
ノlヴィ・ツアlレフ・グラlド
93
Z︒
︿山
︑斗
E H 0 4 m g ︻
同)の記載があること︑などの事実である︒アンドレ1フ自身も︑このシパノフの結論を正当なも
94
のと
開山
めて
いる
(臼
﹀
O
なおついでながら︑一六二七年に作製された前述のウクライナの新しい地図について言及しておく︒この地図も現
存しないのであるが︑パグロフは︑かれがストックホルムの国立図書館で発見した﹁ウクライナおよびチェルカッス
イの諸都市の地図﹂を︑その複写図であると芳えて公表したのであった
a z
しかしこの見解に対しては︑
﹁大
地図
の説明書﹂校合本の責任編集者であるソ連のセルピン(同
・‑ z m
足立
ロ)
が︑﹁大地図の説明書﹂に警かれているウクライナの記述に合致しないことを理由にして︑パグロフ発見図が一六二 は︑パグロフによって発見された地図の内容
七年作製のウクライナ図の複写であることを否定している(び︒
一、
二ハ三三年のシベリア地図の作製
前節でのベた右い﹁大地図﹂のシベリアの部分は︑その﹁説明書﹂から推測し得る限りでは︑オピ川流域とタズ川
流域との西シベワアだけを含むもので︑とれは︑一七世紀初頭におけるロシア人のシベリアに対する知識を表現して
いるにすぎない︒しかし︑一六二七年にその複写図と説明書とが作製された前後には︑すでにロシア入はイェニセイ
川以東の東シベリアへ進出して︑そこに都市や柵を建設していたのであって︑﹁大地図﹂のシベリアの部分は︑
すで
に当時のロシア人のシベリア進出の実情にそぐわないものになっていたのである︒前述のように︑一六二七年に新し
いウクライナ図が作製されたのも︑南ロシアにおける同様な事情によるのであるう︒シベリアについても︑新しい地
図とその説明書とを作製する企てが︑このころに起ったのは当然であった︒
従来︑最初のシベリア全図とみなすべきものは︑トポリスクの地方長官ゴドゥノフ(司・戸︒︒岱
F 5 0 5
のときにト
ポリスクで作製されたところの︑一六六七年のいわゆる﹁ゴドゥノフ図﹂であると考えられていた(本稿の第四節参
照)︒しかるにアンドレlフは︑その著書の初版﹁一七世紀のシベリア史料学概説︑
一九
四O年刊﹂のなかで︑﹁ゴド
ゥノフ図﹂より古いシベリア全図のことを報じている文献があり︑それによると︑すでに工ハ二六年にトボリスクに
おいてシベリア全図を作製するように命令が出ていたこと台︑指摘したのであった︒
すなわちアンドレlフの記載によると︑トボリスクの地方長官ホヴァンスキ
l (
P可・
同町
04
ωロ
ちの一六二六年m w
の復命書のなかに︑同年トボリスクにおいてシベリア全図を作製せよとの勅命を受取ったこと︑それに従って︑全シ
ベリアの都市と柵との長官に対して︑その地域の地図と説明書とを作製してトボリスクへ送付するように命じたとと
それらの地図と説明書とがトポリスクへ到着ししだい︑シベリア全図とその説明書とを作製して︑それをモスクワヘ
17世紀のロシア製シベリア諸地図
送るつもりであるとど︑を報告しているのである︒しかし︑これらの作業は遅延したものとみ与えて︑それを促進する
ためであろうが︑ホヴァンスキlの次のトポリスク長官トゥルベツコイ(﹀・2
・吋
E σ E m w o
司)等に与えられた訓令
アンドレlフは︑トゥルベツコイ等の一行は︑
一六
二八
のな
かに
も︑
一六
二六
年の
命令
が繰
り返
えさ
れて
いる
戸時
)︒
年初めにトボリスクへ旅立ったに違いないと述べているので︑このころまでには︑まだ地図はできていなかったもの
と思
われ
る︒
一六ニ七年l二八年に︑右のようなシベリア地図の作製事業が実際に遂行されたか否かについては︑今日もなお︑
それを証明する積極的な資料はない︒この時の地図というものは現存しておらず︑ただその地図の説明書を写したと
思われる写本﹁シベリアの都市と柵との目録(河g
立国
即日
目立
B E B m o s a m H H
ニ ︒ 閉 口
Oぬ
m W H
F ・
‑:
:)
﹂が
現存
する
だけ
で
95
しかもこの写本は︑トボリスク管轄下の諸都市の記載がある前半だけで︑トムスク管轄下の諸都市の記載があ
あり
︑
96
ったと推測し得る後半を欠損した不完全なものである(寸昨
OF kr
・k r
・H
印伊
豆円
︿凶
ぐ口
40
W0
・ 同 ∞
8
・所
収)
︒し
かし
︑
アン
ドレ
lフは前記の著書の初版(一九四O年刊)において︑確実な根拠もないままに︑シベリア全図とその説明書
とは一六二九年に完成したと推定したのであった(時三
その後これに対し︑シベリア史家として有名なパフルI
シン
(印
・︿
・∞
m w w v
笹山口)は︑かれが一九四七年に発表しg
た論文のなかで︑アンドレ1フの推定が根拠のないものであることを指摘し︑シベリア全図とその説明書の作製年代
は︑説明書のなかに︑オピ川下流のコダ(問︒仏釦)の土侯ドミトリl・アラチェフ
(U
B芹弓一﹀
gn
F0
4)
の領地とそ
のオスチャク族との記載がある故︑先代の土侯であったかれの父親ミハイル(富山WV
包一
Em
nv
oS
の死んだ一六三三
年以前ではあり得ないと主張した
23
さらにリモノフ
(
ロJ門戸﹀‑E50
0 4
) は ︑
説明書の内容をなお一層詳細に検
討して︑この説明書の作製年代は︑ドミトリーがトボリスクに到着した一六三三年一月六日とキルギンスカヤ村 ( 岡 山
H m
Z 回 目 同
m q m
‑
回 目 ︒
a仏釦)の建設された同年三月との聞である︑という結論に達した︒このようなわけで︑アンピレσ 0
ーフはその著書の増訂版(一九六O年刊)においては︑普通に最初のシベリア全図と考えられている一六六七年の
﹁ゴドゥノフ図﹂以前に︑最初のシベリア全図とその説明書とが︑一六三三年に作製されたと主張しているのである︒
ただしアンドレIフは︑この全図は︑ウラル山脈からカムチャツカまでを含む今日の意味での全シベリアではなく︑
その当時における意味での全シベリアの地図であると︑ととわっている(ぎ︒
パグロフは︑アンドレlフの著書の初版(一九四O年刊)が出た後も︑
た︒パグロフの考えによると︑一六二六年に新しいシベリア地図作製の命令は出されたが︑地図は実際には作られな
かったのだ︒作製年代も不明で︑地図に伴うものであることも明記されていない説明書に︑道路の詳細な記述がある 一貫してアンドレlフの考えに反対を続け
にしても︑それを一六二六年の作製命令による地図の説明書とみなすことはできない︒最初のシベリア全図は︑自分
がその複写図を発見した一六六七年の﹁ゴドゥノフ図﹂だというのである
83
アンドレlフの増訂版
パグ
ロフ
は︑
が出るまでに死去したので︑説明書の作製年代を一六三三年に確定できるととは︑知らなかったと思われる︒
アンドレlフの増訂版がでた現在︑われわれ第三者の立場からは︑この論争は次のように考えられる︒なるほど地
図は現存しない︒しかし一六二六年の地図作製命令が現存し︑また一六三三年と考定される地図の説明書が(それは
後半を欠損した不完全な写本ではあるが)現存するのであるから︑一六三三年ごろにシベリア地図が作製された可能
牲があるととは認めなければならない︒あるいは︑さらに一歩を進めて︑アンドレlフの主張するように多分作製さ
れたであろうとさえ言えるであろう︒
17世紀のロシア製シベリア諸地図
しかしそれと同時に︑アンドレlフのように︑その当時における意味でのシベリア﹁全図﹂というような表現をし
ながら︑﹁最初﹂争いをしたのでは︑議論の混乱を免れない︒そういう意味でならば︑時代が下ってロシア人のシベリ
ア進出範囲が拡大するにつれて︑異なる範囲を内包する幾つかの﹁最初﹂のシベリア﹁全図﹂が有り得るわけである︒
なるほど今日のソ連の地理書では︑シ令ベリアと呼ぶ範囲は東西シベリアの地を指し︑ソ連極東は別の地域として取扱
うのが普通である︒科学的な地誌として︑それは当然のことである︒しかし古地図を論ずる場合にパグロフなどが使
う一般的な用語としては︑シベリア全図というのは︑カムチャツカまでのソ連極東をも含む北アジア全図と同義語で
ロシア人がレナ河畔にヤク1ツク柵を建設したのは一六三二年のととで︑一六三三年ごろといえば︑
ある
︒
ロシア人
がやっとイェニセイ川からレナ川流域'へ進出しはじめた時代であるから(号︑この時のシベリア﹁全図﹂は︑カムチャ
97
ツカまでを含むシベリア全図ではあり得ない︒この点については︑シパノフも指摘しているようである︒従って﹁最
98
てい
る︒
第3図 ゴドゥノフのシベリア図 (1667年)の複写図。レメゾフ のシベリア地図帳(ハーヴァード図書館蔵),所収。
1.キタイ王国(中国) 2.アムール川 3.カムチャツカ 4. レナ川 5.オレニヨク川 6.イェユセイ川とパイカル湖 7.タズ湾とタズ川 8.オピ湾とオピ川水系(テレツコェ湖 から流出するオピ川。イルチシ川とトボール川との合流点 のトポリスク。ウラル山脈に発源するトボール川の諸支 流) 9.ウラル山脈 10.ベチョラ川 11.コラ半島 12.北 ドヴィナ川とアルハンゲリスク 13.ウ'ォルガ)11と カ ザ ン 14.ヴォルカフ11口のアストラハン
初﹂争いの議論の混乱をさげるために︑シ
ベリア全図というのは北アジア全図と同一義
語であると定義するならば︑シベリア全図
は一六六七年に初めて作製されたというパ
グロフの主張を認めることは︑かりに一六
三三年図の作製が実際にあったとしても︑
われわれには可能であると考える︒
四
一六六七年の﹁ゴドゥノフ図﹂
一六六七年にトポリスクで作製されたシ
ベリア全図︑いわゆる﹁ゴドゥノフ図﹂は︑
シベリア古地図史の貴重な資料であるが︑
今日その原図は伝わっていない︒しかし幸
にも︑それを複写した若干の写図が現存し
それらの内で︑﹁ゴドゥノフ図﹂のロシア語のままの複写図は︑二つしかない︒その一つは︑パグロフがセミヨン・
レメゾフ(印何百三ロロ河
OB E0 4)
のシベリア地図帳の一一樹(与のなかにあるのを発見して︑初めて一九一四年に﹁ア
17世紀の戸シア製シベリア諸地図
第4図 ゴドゥノフのシベリア図 (1667年)の複写図。レ
メゾフのシベリア地図帳(レニングラードの国立公
共図書館蔵),所収。(A.V. Yefimovによる)。
ツアロシア﹂第四巻の地図帳
(K F2 2s ug wE HN
O回 目 以
・
ω・ 匂
σ Z
円σ
ロ 吋 m ‑
H C E )
その他に発表して以後︑しばしば
その写真版を公表したので︑一般に知られるようになっ
九年
二月
まで
︑
たも
ので
ある
(第
三図
参照
)︒
もう
一つ
は︑
アンドレl
フが
︑
レニングラードの国立
公 共 図 書 館 所 蔵 の レ メ ゾ フ の 別 の シ ベ リ ア 地 図 帳 ( m E N v o ‑ u
ロ旦
﹃問
︒ V O H
同一
﹃O N F
ロ 州
W M B ‑ w E m m w ) (
与のなかにある
のを発見して︑その写真複製図をイェフィ1モフが公表
したものである
8 ヨ
との方は︑前者ほどには知られて
いないように思われる(第四図参照)︒
そのほかには︑﹁ゴドゥノフ図﹂が作製されてのち間も
なくロシアへ来たスウェーデン人が︑モスクワで複写し
たものが三種ある︒すなわち一六六八年一二月から翌六
モスクワへ来て滞在していたスウェーデンの使節クローンマン(司円・同Bロ
o g
凹p
ng
ロB
mロとも書
﹁ゴドゥノフ図﹂の地名などロシく)と︑同使節固に随行していたプリュツ(同・同・司円F・
c
・ 句
弓 とも書く)とは︑Z
99
ア語をスウェーデン語に転写しながら︑それぞれ一枚ずつの複写図を作製したのである︒そのときの事情はクローン
マンの手記によると︑﹁かれらはまた私に︑すべてこれらの諸国土とシナにいたるまでのシベリアとの地図を示した︒
100
もとに置く許可を得て︑ これは勅命によって︑トボリスクの地方長官ゴドゥノフが︑最近送ってきたものである︒私はこの地図を一晩だけ手
一枚の複写図を作製した﹂のであった︒このとき二人の作製した二種の複写図は︑プリュツ
ノル
日ア
ンシ
ョル
ド
のはストックホルムの帝室図書館にあり︑クローンマンのはストックホルム図書館にあったのを︑
(kr
・ 開 ・
2
︒
a g m E α E )
が発見して︑早く一八八七年に公表した(ヲ︒
第5図 ゴドゥノフのシベリア図 (1667年)の複写図。
パルムクヴィストの図帳,所収。(A.V. Yefimov
による〉。
スウェーデン人によるもう一種の複写図は︑
一八
九八
年にストックホルムで刊行されたパルムクグイスト(開・
E ‑ s ρ
4 目
白骨
)の
図帳
のな
かに
ある
︿第
五図
参照
)︒
パル
ム
クヴ
ィス
トは
︑
一六七三年I七四年にモスクワへ来たス
ウェ
lデンの使節団に参加していた間閣の陸軍武官であ
る︒パルムクヴィスト図の複写は︑一八九七年のノルデ
ンショルドのペリプルスにも収載されている戸号︒
なおパグロフは︑ドイツのシュテチン
( 印 件 目
出 い ロ ロ
問 団 ・
︒ ︺
﹃
Hロ ロ
S E E ‑ 2 0 3 U H )
にある若干の複写図をも指摘し
ているが︑それらの図は未公刊のままになっているとい
う
F m )
︒
さて︑最初に述べたパグロフ発見のレメゾフ地図帳の
なかの写図には(第三図参照)︑図郭の上と下との欄外に
四行にわたって︑この地図帳の作意セミヨン・レメゾフの書き込みがある︒この書き込みの内容には守
一七
世紀
のシ
ベリア地図史にとって可なり重要な幾つかの間題点を含んでいるのであるが︑この文字の判読は︑かなり困難なもの
であるらしい︒すでに一九一九年にパッドレlは︑将来訂正されるべきものであるという但し書きをつけて英文の
その試訳を発表しているが︹号︑一七世紀のロシア古文書の専門学者であるアンドレlフの解読文とは可なりの相違
があ
る︒
アン
ドレ
lフの解読によると︑このレメゾフの書き込みは︑大要次のような記載である︒ただし︹︺のな
かは本稿の筆者巳ニ上︺が補記したものである︒
第四章︒︹押型文字の︺印刷された
e R E g
‑
原地図の複写図︒この地図は︑七一七六年に門西暦一六六七
年に
p n u
︑皇帝の勅命によりトボリスクにおいて︑貴族の地方長官ピヨlトル・イワノヴィチ・ゴドゥノフ(HMM﹃O
同一 円
17世紀のロシア製シベリア諸地図
同 ︿ 釦 ロ
︒ i
n何 回
の o a
ロロ︒︿)自らの労作と筆写とによって︑押型文字を印刷して
GR VEロ
司自
m 己
S ロ 円
0 5 )
作製
され
た︒
地図には︑トポリスクと他のシベリア諸都市並びにそれらの土地と川の沿岸の村々が記入され︑それらの聞の距離
が︑適当な土地台帳もなく作業に関係した古老もなかったために必ずしも常に正確ではないが︑簡略に示された︒こ
の︹押型文字の︺印制された地図以前には︑トボリスクとシベリア地方の地図はシベリアにはなかった︒この最初の
ゴドゥノフの︹押型文字の︺印刷された地図は︑一七六年︹西暦一六六七年︺から現在のニO五年︹西暦二ハ九六年︺
まで︑村も郷も敵意ある︹異民族の︺土地も︑補足されないままであるゐ
) O
レメゾフの書き込みによ
ると︑トボリスクには一六六七年の﹁ゴドゥノフ図﹂以前にはシベリア全図は無かったということであり︑また︑そ さて︑右のレメゾフの書き込みには︑若干の重要な問題点を含んでいる︒まず第一には︑
101
の後この書き込みが行なわれた一六し九六年までの聞に︑新しいシベリア全図は作製されなかったという意味のように
102
思われる︒この記述に対するアンドレlフの批判は︑次のようなものである︒すなわち前述のように︑﹁ゴドゥノフ
図﹂以前にはアンドレIフの主張する一六三三年のシベリア全図があったのであり︑また一六六七年以後にも一六九
六年までの聞には︑二回のシベリア全図の作製があったのだから︑レメゾフの手記のこの部分は正確でない{旬︑
と
いう
ので
ある
︒
アンドレ1フが二回のシベリア全図と言っているのは︑その文章の前後の関係から推定すると︑
一 六
七三年のシベリア全図と︑一六八四年│八五年のシベリア全図とを︑指しているものと思われる︒
われわれ第三者の立場からすると︑すでに第三節で考察したように︑一六三三年のシベリア全図は実際に作製され
たか否か確証はなく︑また実際に作られたとしても︑その﹁全図﹂という意味は東シベリアまでを指す条件つきのも
であるから︑レメゾフの手記のように︑﹁ゴドゥノフ図﹂が最初のシベリア図(太平洋岸までのシベリア全体の地図)
であると考えるのは可能であることを︑認めなければならない︒また一六七三年のシベリア全図(従来は一六七二年
図といって紹介されていたもの)は︑諸学者の一致した見解によるとモスクワで作製されている地図であって︑トボ
リスク在住のレメゾフは︑との時(一六九六年)には知らなかったと考えられる︒このことはアンドレl
フ自
身も
︑
後に一六七三年図を論︐するときに認めているのであるから︑この地図の存在を指摘してレメゾフの書き込みの不正確
さを言うかれの議論には矛盾がある︒レメゾフがモスクワへ行ってシベリア省でシベリア地図の作製に従事したの
は
一六九八年八月以降のことであった︒このように見てくると︑ただレメゾフのシベリア地図帳(註幻参照)のな
かにある一六八四年l八五年のシベリア全図についてだけ︑疑問が残るにすぎない︒従って︑
アン
ドレ
lフのように
レメゾフ書き込みのとの部分を不正確として軽視することはできず︑少なくとも︑﹁ゴドゥノフ図﹂がトボリスクにお
いては最初のシベリア全図であったことは︑たとえ一六三三年図があったとしても︑われわれには是認すべきものの
ように考えられる︒
第二の問題点は︑レメゾフの書き込みにみえるE
百 四 一 の
宮 町 広 ロ
︼ 1・というロシア語の解釈である︒これは﹁押型で押し
たる﹂とか﹁印刷されたる﹂とか訳し得る語である︒パグロフが一九一四年に﹁ゴドゥノフ図﹂のこの写図を発見し
て以来︑パグロフを始めとして一般には︑一六六七年の﹁ゴドゥノフ図﹂は当時トボリスクにおいて印刷されたと解
釈されている︒そのうえ︑パグロフはその一九五二年の論文では︑わざわざ註をつけて︑との地図が印刷されたことは
ミュレルス
(﹀
・冨
‑ 2 巴
5 )
およびヴィ1トセン(戸当日仲田何回)の著書から知られる五三と念を押しているのである︒
しかしアンドレl
フは
︑
またこの時代には︑
モス
ク
一六六七年の地図の印刷された実物は一枚も現存しないこと︑
ヲの印刷局
( p w n E ' E M
﹃
4岱
63
で作製されたモスクワ国の印刷地図というものはないのに︑なぜかシベリア地図に関
17世紀のロシア製シベリア諸地図
して例外であるというのは︑ほとんど有り得ないことであると言って︑地図が印刷されたことを否定する︒アンドレ
ーフ
は︑
レメゾフの書き込みに﹁印刷された﹂地図と書かれている意味は︑その地図のなかの標題(ロ包
H E )
が︑前
掲の書き込みの文章のなかにも見えているように︑押型文字を印刷して││すなわち印刷された文字で(宮各旦ロ可宮山
σロW
S E
C ‑
なされている地図という意味である︑と主張している‑
a ) O
パグロフとアンドレlフとの﹁ゴドゥノフ図﹂の印刷をめぐるとの論争に関しては︑筆者はいま批判するための資
料をもたないので︑ただことに両者の対立する主張を紹介しただけに止めておきたい︒
第三の問題点は︑いわゆる﹁ゴドゥノフ図﹂の実際の作者は誰かという問題である︒セミヨン・レメゾフの前掲の
103
書き込みには︑ゴドゥノフが自らの労作によって︑地図を作ったように書かれている︒しかしこの記載に対しても︑
アンドレlフは次のように批判的である︒すなわち︑この地図のなかに印刷された文字で記入されている標題には︑