( )慰霊第37号 平成28年4月1日1 題字揮毫・故 瀬島龍三氏
第 37 号
公益財団法人 〒102–0073 千代田区九段北3–1–1 靖國神社遊就館内・地階 電 話 03(6380)8943 FAX 03(6380)8952 http://ireikyou.com 振替口座 00140–6–334930 編集人 飯 田 正 能 発行人 岩 田 司 朗 印刷所 ヨシダ印刷株式会社目 次
箙の梅 … ……… 1 大 東 亜 戦 争 全 戦 没 者 合 同 慰 霊 祭 の ご 案 内 … … 1 ビルマ(現ミャンマー)の 防衛作戦と慰霊① … ……… 3 自衛隊山岳連盟が慰霊登山 … ……… 7 ガダルカナル島遺骨収容活動報告 … …… 9 事務局からの報告等 … ……… 14 協議会参加各団体の本年度慰霊行事予定 … … 16 大東亜戦争全戦没 者慰霊団体協議会 靖國神社の梅林・右奥は「守護憲兵之碑」 当協議会の会報『慰霊』第 17号(平 成 22年4月1日発行)に、筆者は「梅 花 二 題 」 と 題 し て「 ○ 梅 花 に 寄 せ る 」 と「○咲くやこの花」の拙文2本を掲 載させていただいた。前者は、靖國神 社本殿・拝殿南側の境内にある「守護 憲兵の碑」にお参りした際、その脇の 梅林に咲き初めた紅白の梅の芳香に触 発 さ れ、 初 春 の 梅 に ま つ わ る 思 い 出、 謡曲の中に謡われた梅花、万葉集を始 め多くの和歌集に収録された梅花を詠 んだ古歌等について、後者は、当時放 映されていたNHK土曜時代劇「咲く や こ の 花 」 に 触 発 さ れ、 謡 曲『 難 な に わ 波 』 の主題である「 難 な に わ づ 波津 の梅の歌」の由 来(百済国から渡来した博士の王仁が 詠んだとされる「難波津に咲くやこの 花冬籠り今を春べと咲くやこの花」の 和歌の心は、仁徳天皇の御即位をよそ え奉った歌であるという)を中心に書 いたものである。 今回取り上げた「 箙 えびら の梅」とは、謡 曲『箙』に出てくる、昔生田の森での大東亜戦争全戦没者合同慰霊祭のご案内
当 協 議 会 は、 当 協 議 会 参 加 諸 団 体 と 共 に、 平 成 28年 度 の「 大 東 亜 戦 争 全 戦没者合同慰霊祭」を左記のとおり執り行います。 記 一 時 期 平成 28年7月9日(土) (参集殿集合 11時 40分) 二 場 所 靖國神社 三 次 第 ① 式典・昇殿参拝 12時〜 拝殿・御本殿 ② 直 会 13時 30分〜 靖國会館 四 参加費 ① 式典・昇殿参拝(玉串料) 2000円 ② 直 会 5000円 皆 様 お 誘 い 合 わ せ の 上 、 多 数 ご 参 加 く だ さ い ま す よ う お 願 い 申 し 上 げ ま す 。 会 員 の 皆 様 に は、 本 誌 同 封 の 払 込 取 扱 票 に よ る 参 加 費 ご 納 入 を も っ て、 ご参加申込みに替えさせていただきます。 会員以外の方は、当協議会事務局までお問い合わせください。 〒102─0073千代田区九段北3─1─1 靖國神社遊就館内・地階 (公財)大東亜戦争全戦没者慰霊団体協議会事務局 電 話 03─6380─8943 FAX 03─6380─8952 Eメール [email protected]箙
の
梅
( ) 慰霊第37号 平成28年4月1日 2 源 平 の 合 戦 の 折 、 源 氏 の 名 将 梶 原 平 蔵 景 時 の 嫡 男 源 太 景 季 が 、 梅 の 一 枝 を 箙 ( 矢 を 入 れ る 武 具 )に 挿 し 、 笠 印( 戦 陣 で 隊 を 弁 別 す る た め 、 兜 又 は 袖 に 付 け る 標 し )と し て 戦 い 、功 名 を な し た と い う 。 景 季 は こ の 梅 を 、 八 幡( 源 氏 の 氏 神 ) の 神 木 と 敬 っ た こ と に 由 来 す る も の で あ る 。 紅 こ う は 波 楯を流し、白刃骨を砕く修羅場 の 戦 場 に お い て も 風 流 の 心 を 忘 れ ず、 散り際を花の如くに潔くしようとした 古の武将の心が現れている。 謡曲の中に謡われた生田川の合戦の 様 は、 「 血 は 啄 た く ろ く 鹿 の 河 と な り、 紅 こ う は 波 楯 を 流 し つ つ、 白 刃 骨 を 碎 く、 苦 し み、 月をも日をも、手にとる影かや 長 じょうや 夜 の やみやみと眼もくらみ、心も乱るる修 羅 道 の 苦 し み、 ・・・ げ に げ に 見 れ ば 恐ろしや、剣は雨とふりかかって、雲 に響きて地に動く、山も震動、海も鳴 り、雷火も乱れ、悪風の、 紅 こうえん 焔 の旗を なびかし 紅 こうえん 焔 の旗を 靡 なび かして、 閻 え ん ぶ 浮 に 帰る生田川の、浪を立て水を返し、山 里海川も皆修羅道の巷となりぬ、こは いかに浅ましや、暫く心を静めてみれ ば、 所は生田なりけり、 時も昔の春の、 梅の花盛りなり、一枝手折りて箙にさ せば、もとより 窈 み や び 窕 たる若武者に、相 逢ふ若木の花かづら、かくれば箙の花 も 源 太 も 我 先 か け ん さ き か け ん と の、 心 の 花 も 梅 も、 ち り か か っ て 面 白 や、 敵の 兵 つわもの これを見て、天晴れ敵よ遁すな と て、 八 騎 が 中 に 取 り こ め ら る れ ば、 ・・・」 (大意・川をなす血の波は 楯を流す程強く、白刃は骨を砕き、そ の き ら め き は 日 月 の 光 の 様 で 眼 も 眩 み、心も乱れる修羅道の苦しみ・・・ 本 当 に 恐 ろ し い。 剣 は 雨 と 降 り か か り、天地、海山も荒れ火も乱れ、風は 赤旗を焔の様に靡かし、この川に波を 立て、 どこも皆修羅の巷となった ・・ ・ 暫 く 落 ち 着 い て み れ ば こ こ は 生 田 で あ っ た。 昔 同 様、 春 は 梅 の 花 盛 り だ。 一枝折って箙に挿すと優雅な若武者に ふさわしい若木である。自分も梅の様 に先駆けの功名を立てようと勇んで敵 陣に入ると、花が散って面白い。敵は よい相手と見て八騎程で取り囲んだ。 ・・・)と謡われている。 下 っ て 近 代 の 戦 場 に お い て も 、同 じ よ う な 心 を 歌 っ た 軍 歌 が あ る 。 そ の 一 つ に 、 南 条 歌 美 作 詞 、 倉 若 晴 生 作 曲 の 「 梅 と 兵 隊 」( 昭 和 16年 ) が あ る 。 早 春 の 中 国 ( 支 那 ) 戦 線 を 歌 っ た も の で あ ろ う 。 「一 春まだ浅き 戦線の 古城にかおる 梅の花 せめて一輪 母上に 便りに秘めて送ろうじゃないか 二 覚悟をきめた 吾が身でも 梅が 香 か むせぶ 春の夜は 戦 いくさ 忘れてひとときを 語れば 戦 と も 友 よ愉快じゃないか 三 明 あ し た 日 出てゆく 前線で 何 いず れが 華 はな と散ろうとて 武士の 誉 ほ まれ じゃ 白梅を 戦 ぼ う し 闘帽 にさして 行こうじゃないか 」 筆者らが陸士の教育を受けた昭和 20 年当時、既に戦局は極めて厳しく、空 に、陸に、海に、特攻を覚悟の激しい 訓 練 の 最 中 に あ っ て も、 「 花 も 実 も あ る武人たれ」と教えられた。武士道の 真髄を心得よとの教えであろう。 武 士 と は 、 上 に 立 つ 者 の こ と で あ り 、 武 士 道 と は 、 そ の 武 士 の思 想 、 行 動 を 言 う の である 。 武 士 は 、 封 建 時 代 当 時 の 士 農 工 商 の 社 会 に お い て は 、最 高の 身 分 で あ る 。 だか ら こ そ 、高 い道 徳 性 や 規 範 意 識 を 要 求 さ れ た 。武 士 道 と は 、 そ の 国 民 へ の 作 法 を 説 い た も の で あ る 。 新 渡 戸 稲 造の 『 武 士 道 』( 1 899 年 ( 明 治 32年 ) 英 文 初 版 ) も 、 西 欧 の 騎 士 道 と 比 較 し な が ら ノ ー ブ レ ス ・ オ ブ リ ー ジ ュ( 高 い 身 分 に 伴 う 義 務 ) を 説 い た も の で あ る が 、 そ の 原 典 と な っ た の は 、 宝 永 7 年 ( 1 7 10 年 ) に 、 佐 賀 藩 士 山 本 常 じょうちょう … 朝 の 口 述 を 同 藩 士 田 た し ろ つ ら も と 代 陣 基 に よ っ て 記 録 が 始 め ら れ 、 亨 保 元 年 ( 1 7 1 6 年 ) に 脱 稿 し た 『 葉 隠 』 で あ り 、 そ の 『 葉 隠 』 こそ は 、 単 な る 武 の 書 で あ る の で は な く 、 武 士 と し て の 、 否 、 日 本 人 と し て の 作 法 の 書 な の で あ る 。「 武 士 道 と い ふ は 、 死 ぬ 事 と 見 附 け た り 」 と い う 最 初 の 言 葉 は 、『 葉 隠 』 を 貫 く 大 き な 幹 で あ る が 、 こ れ が 意 外 と 誤 解 さ れ て いる よ う で あ る 。 し か し よ く 読 ん で み れ ば 、「 死 の 哲 学 」 で あ る 以 上 に 、「 生 の 哲 学 」 で あ る こ と が 分 か る 。( 詳 し く は 、 ノ ン フ ィ ク シ ョ ン 作 家 青 木 照 夫 著 『 い ま 、 な ぜ 武 士 道 な の か ─ 現 代 に 活 か す 『 葉 隠 』 1 0 0 訓 ─ 』( ㈱ ウ ェ ッ ジ 発 行 「 ウ ェ ッ ジ 文 庫 」 2 0 0 8 年 4 月 28日 第 1 刷 発 行 を 参 照 。) そして、陸士の教育では、何よりも 部下を大切にし、部下の信頼を得るよ うにせよ、との教えであった。日常の 訓練においても、戦場においても、将 兵一体となって任務の遂行に当たらな ければ、目的を達成することはできな い か ら で あ る。 部 下 の 信 頼 を 得 る に は、情・理共に兼ね備えた品格と、決 断 力 及 び 実 行 力 が 必 要 で あ る。 将 校 は、部下と生死を共にする、否、部下 の命を預かっているとの覚悟がなけれ ばならない。特に戦場において、将校 たる者、自分の水筒の水は、自ら飲み 干すことなく、部下の末期の水として 必ず取っておくものである、と教えら れたものである。今の世の社会のリー ダーたちにとっても必要不可欠の資質 と言えよう。 (飯田正能記)
( )慰霊第37号 平成28年4月1日3
一
はじめに
太 平 洋 戦 線 の 米 軍 の 反 攻 に 連 携 し、 ビルマ戦線においても、昭和 17年末~ 18年初頭にかけて、西方からは英印軍 の、北方からは米支軍と重慶軍の雲南 遠征軍の反攻の兆しが顕著となり、大 本営は、昭和 18年3月 27日、ビルマ方 面軍を創設、ビルマの防衛を担当させ ることとなった。 今回は、昭和 18年初頭以降のビルマ の防衛作戦について、数回に分けて紹 介することとしたい。二
ビルマの地理等
ビルマの地理は、図1のとおりであ り 、 面 積 は 、 約 68万 ㎢ で 、 日 本 の 約 1 ・ 8倍、 北部は中国に、 西部はインドに、 東部はタイに接し、国境地帯はほとん ど険峻な山地となっており、熱帯モン スーン気候で、大部分が密林に覆われ ている。雨季(5月中旬~ 10月)と乾 季( 10月末~5月上旬)があり、雨季 には道路も泥濘化し、通行は困難とな る。特にインドとの国境地帯は、世界 再多雨地域である。乾季には地面は固 ま り、 車 両 の 通 行 が 容 易 に な る 反 面、 築城を困難にした。 中 央 部 は 平 地 が 多 く、 稲 作 に 適 し、 米の一大産地である。 河川は、北方高地からベンガル湾に 向 か っ て 大 河 イ ラ ワ ジ 川 と シ ッ タ ン 川、サルウィン川が南流している。 印 緬 国 境 の 険 峻 な 山 地 を 通 る 道 路 は、北方のレド公路、中部のインパー ル ~ カ レ ワ 道、 ベ ン ガ ル 湾 沿 い の ア キャブを通る3本が主要な道路であっ た。中緬国境を通る道路は、拉孟~ラ シ オ を 通 る 道 路 が 主 要 な も の で あ っ た。 人口は、約1600万人で、中央平 地部にビルマ族が、国境地帯には少数 民族が居住していた。 政治的には、昭和 17年5月に日本軍 が全土を占領、8月にバー・モウを首 班とするビルマ中央政府とビルマ防衛 軍を設立し、ビルマを独立させた。 昭 和 初 期 か ら 独 立 運 動 の 学 生 リ ー ダーとして活躍していたアウン・サン (ビルマ名オン ・ サン、アウン ・ サン ・ スー・チー女史の父)は、初代ビルマ 防衛相に就任している。 日本軍の占領当初親日的であったビ ルマ防衛軍も、昭和 18年に入ると、日 本の敗色が濃くなり、離反する者が多 くなりつつあった。三
ビルマの防衛作戦
1 連合軍の反攻 連合軍の反攻は、昭和 18年1月、南 西部のアキャブ地方への英印軍の侵入 に始まり、2月中旬の中央部へのウィ ンゲート旅団の侵入、 10月下旬の雲南 正面とフーコン河谷への米支軍の侵入 と続いた。 連合軍は、昭和 18年 10月 16日に、こ れら各正面の作戦を統合するため、東 南アジア連合軍司令部を創設、 19年1 月9日に反攻作戦計画を策定した。 その骨子は次のとおりである。 ① 陸上からアキャブを攻略する。 ② スティルウェル中将指揮の米支軍 により、レド公路から攻撃する。 ③ 米 支 軍 の 作 戦 を 容 易 に す る た め、 ウィンゲート旅団の長距離挺進作戦 を実施する。 ④ チ ン ド ウ ィ ン 川 に 橋 頭 堡 を 確 立 し、 ② と ③ の 作 戦 を 容 易 に す る た め、英第4軍団による牽制作戦を実 施 す る。 ( 後 日、 日 本 軍 を イ ン パ ー ル に 引 き 込 ん で 撃 破 す る 構 想 に 変 更) この計画に基づき、 19年2月上旬に は、アキャブ地方への英印軍の再度の 侵入、3月上旬には中央部へのウィン ゲート旅団の再度の侵入があり、ビル マ方面軍隷下部隊は、これら反攻への 対処を余儀なくされた。 また、インパール盆地正面において も、英印軍第4軍団の行動は、逐次活 発化しつつあった。 以下、各段階の日本軍の防衛作戦にビルマ
(現ミャンマー)
の
防衛作戦と慰霊①
専務理事
圓藤
春喜
図1 ビルマの地理等( ) 慰霊第37号 平成28年4月1日 4 ついて、順次紹介する。 2 第1次アキャブ作戦と第1次ウィ ンゲート旅団侵入対処(昭和 17年 12 月末~ 18年5月中旬) 英 印 軍 1 個 師 団( イ ン ド 第 14師 団 ) 基幹の敵が、昭和 17年 12月末、ベンガ ル湾沿いの印緬国境から侵入、南下を 開始した。この状況を把握した第 15軍 司令官(飯田中将)は、北緬から南下 中の第 55師団 (長 ・ 古閑中将) に対し、 こ の 敵 の 撃 破 を 命 じ る と と も に、 ア キャブ守備に任じていた宮脇支隊に対 し、ドンベイク、ラチドンの前進陣地 確保を命じた。 宮脇支隊の前進陣地守備隊は、 18年 1月初旬~3月中旬の間、支隊主力の 増援を得つつ、インド第 14師団の数次 にわたる攻撃をその都度撃退し、第 55 師団主力の集中に必要な時間と攻勢の 支とうを確保した。 第 55師団主力は、図2のように、部 隊の集中を待ち、3月 14日、一斉に攻 勢に転移し、英印軍に対し迂回・包囲 攻撃を行い、チズエ、次いでインデン に お い て 敵 師 団 主 力 を 撃 破、 爾 後 戦 果 を 拡 張 し、 5 月 中 旬 に は 印 緬 国 境 の モ ン ドウ、ブチドンの線に進出した。 この戦いで、英印軍第 14師団は、壊 滅的損害を受けたが、次のような教訓 を得ている。 ① 第一線部隊は包囲されても陣地を 固守し、後退しない。 ② 上 級 司 令 部 は、 戦 略 予 備 を 持 ち、 解囲攻撃により包囲中の日本軍を撃 破する。 ③ 被包囲下の部隊に対しては、空中 補給により兵站支援を確保する。 この教訓をもとに、図3のような立 体防御戦法(日本軍は円筒防御と呼称 し た。 ) を 考 案 し、 爾 後 の ア キ ャ ブ 正 面 の 作 戦 と イ ン パ ー ル 作 戦 に 活 用 し た。 この侵攻に連携して、2月中旬から アラカン山脈越えで北部ビルマ地区に 侵 入 し、 空 輸 補 給 で 戦 い を 続 け、 後 方 を 攪 乱 す る 勢 力 不 明 の 遊 撃 部 隊 ( ウ ィ ン ゲ ー ト 旅 団 ) が あ り、 北 部 ビルマに展開中の部隊は、第 18、第 33 師団主力と第 55師団の一部で掃討作戦 を展開するが、広大な地域に分散した 敵に振り回され、掃討までに約2ヵ月 を要している。 この時、第 18師団長であった牟田口 中将は、この作戦で「インパールの敵 を覆滅しなければ、ビルマ防衛は成り 立たない」との認識を持つに至り、こ れがその後のインパール作戦の伏線に なったと言われている。 3 ビルマ防衛機構の刷新と防衛構想 の検討 連 合 軍 の 本 格 的 反 攻 に 対 処 す る た め、昭和 18年3月 27日に、1個軍、5 個師団からなるビルマ方面軍(軍司令 官・河邉中将)を新設し、ビルマ方面 の 部 隊 を 統 一 指 揮 下 に 置 く と と も に、 第 15軍司令官に牟田口中将を充てた。 第 15軍 司 令 官 は、 「 ビ ル マ 防 衛 の た めには、反攻拠点のインパールを攻略 し、 英 印 軍 の 機 先 を 制 す る 必 要 が あ る」との認識の下、インパール作戦を 立案し、方面軍司令官に上申した。 方 面 軍 は、 18年 6 月 24~ 27日 の 間、 第 15軍司令部の作戦計画案に基づき兵 棋演習を実施し、チンドウィン川西方 へ の 防 衛 線 の 推 進( イ ン パ ー ル 作 戦 ) について検討するが、 大本営、 南方軍、 方面軍から参加した参謀は、補給に致 図2 第1次アキャブ作戦 図3 英印軍の立体防御戦法
( )慰霊第37号 平成28年4月1日5 命的な難点があるとして、この作戦計 画に反対した。 しかしながら、方面軍司令官は、第 15軍司令官の積極的意志を尊重し、認 可の方向で上級司令部に働き掛けるよ う指導し、 18年8月初旬には、大本営 か ら イ ン パ ー ル 作 戦 の 準 備 指 示 が あ り、8月 12日には、方面軍の作戦準備 要綱が示達され、準備が本格化するこ ととなった。方面軍の作戦準備要綱の 骨子は、次のとおりである。 ① 主作戦正面 第 15軍は、重点をチンドウィン西方 地区に保持しつつ、インパールに向け 攻勢をとり、なるべく我に近い地帯に おいて英軍の捕捉撃滅を図り、爾後国 境付近所在の英軍を撃破したる後、イ ンパール付近の策源を覆滅する。 ② 持久正面 ○ 怒江正面は、第 56師団をもって保 山、蠻岡(ばんこう)の線以西の地 区において持久 ○ 北緬方面は、第 18師団をもって国 境以内において持久 ○ アキャブ方面は、ブチドン、モン ドウ付近を確保して英印軍の反攻を 撃破するとともに、上陸企図を撃破 してアキャブ付近及びボロンガ島を 確保 以上のように、爾後の持久正面の作 戦は、インパール作戦を中心に策定さ れることとなった。 4 怒江作戦(昭和 18年 10月中旬~ 11 月中旬) 雲南正面でも重慶軍2個師団の活動 が活発化してきたため、方面軍はイン パール作戦の安全を期して、第 56師団 に対し、この敵の撃破を命じた。 師 団 は、 10月 13日 に 攻 撃 を 開 始 し、 11月中旬までに雲南軍を撃破して怒江 の線に進出し、雲南軍の機先を制する ことに成功した。 5 フーコン作戦(昭和 18年 10月 10日 ~ 19年6月)とウィンゲート旅団侵 入対処 新援蒋ルート(インドアッサム州レ ド~フーコン谷地~ミートキーナ~昆 明道)建設のため、インドアッサム州 を 拠 点 と す る 米 支 軍 の イ ン ド 遠 征 軍 ( 司 令 官 ス テ ィ ル ウ ェ ル 米 陸 軍 中 将、 米製装備の新編第1軍団(2個師団基 幹 ) と 米 ガ ラ ハ ッ ト 部 隊 の 混 成 部 隊 ) は、 18年 10月中旬以降フーコン河谷正 面で攻勢を開始した。 この正面担当でインパール作戦の側 背援護の任務を付与されている第 18師 団(長・田中中将)は、当初米支軍の 隘路進出時の弱点に乗じ、攻勢により 作戦目的を達成しようとしたが、イン パール作戦への影響を考慮し、遅滞作 戦 に よ り 作 戦 目 的 を 達 成 す る こ と に 決 し、 図 4 の よ う に タ ナ イ 河 畔 ~ カ マ イ ン 間 の 百 数 十 ㎞ の 縦 深 地 域 を 利 用 し て 約 8 ヵ 月 に わ た る 持 久 を 達 成 し、 イ ン パ ー ル 作 戦 の 側 背 図4 フーコン作戦(第18師団の遅滞作戦) 図5 第2次アキャブ作戦 (桜井兵団の突破〜包囲)
( ) 慰霊第37号 平成28年4月1日 6 援護の任務を達成した。 この攻撃に連携して、 19年3月5日 には、ウィンゲート旅団の空挺部隊約 9000人がグライダーで、北部ビル マのマンダレー~ミートキーナ間に侵 入し、至る所に円陣拠点を構成してビ ル マ 北 部 の 我 が 軍 の 行 動 を 妨 害 し た。 この敵の撃破のため、各方面から多く の部隊が急派されたが、統一する指揮 組織が欠けていたため、各個の戦いと なり、ほとんどの攻撃は頓挫した。 こ の 状 況 を 憂 慮 し、 19年 4 月 8 日、 北部ビルマの部隊を統括指揮する第 33 軍司令部(司令官本多中将)の新設が 下令され、4月 29日、ラングーンで編 成完結、フーコン正面担当の第 18師団 と、雲南正面担当の第 56師団を指揮下 に入れた。 また、4月 29日には第 53師団(長・ 河野中将)が増強され、この部隊が空 挺部隊の掃討に当たり、小康を保つこ とができた。 6 第2次アキャブ作戦 ビルマ南西正面には、 18年9月下旬 に第 54師団が内地から増強され、第 55 師団の南方に展開した。 第1次アキャブ作戦で英印軍に壊滅 的打撃を与え、国境以西に後退させた 第 55師団は、インパール作戦の準備に 際し「ブチドン~モンドウの線を確保 して英印軍の反攻を撃破する」との任 務を付与され、ブチドン~モンドウ地 域に堅固な陣地を構築しつつあった。 しかしながら、 18年 10月 23日の人事 異動で古閑師団長が転出し、新たに花 谷 中 将 が 着 任 す る と 、 状 況 が 一 変 し た 。 新師団長は、アキャブ正面で十分な 牽制効果を収め、インパール作戦に寄 与するためには、果敢な牽制作戦を実 施し、当面の英印軍に殱滅的打撃を与 えることが必要と判断し、方面軍司令 官に意見具申をした。この構想は、方 面軍の希望と一致し、師団の防勢作戦 は、果敢な攻勢作戦に変更されること となった。 昭和 19年1月下旬には、アキャブ正 面を統括する第 28軍司令部(司令官櫻 井中将)が新編され、第 54師団に続い て進出予定の第2師団(ガダルカナル で 壊 滅 的 損 害 を 受 け、 比 島、 シ ン ガ ポールで戦力回復した)をもその隷下 に入れた。 第 55師団は、認可された案に基づき 攻勢計画を策定し、2月1日、次のよ う な 攻 撃 命 令( 要 旨 ) を下達した。 ① 師団は2月3日夜、攻撃を開始す る。 ② 桜井兵団(歩兵団長桜井少将指揮 の師団主力)は、マユ河左岸地区の 敵陣を突破してトングバザー方向に 突 進 し、 所 在 の 敵 を 撃 破 し た る 後、 マユ河右岸地区の敵を背後より攻撃 し、ブチドン北方の敵を撃破する。 ③ 土 井 部 隊( ブ チ ド ン 陣 地 守 備 大 隊)は、現在地において当面の敵を 協力撃破する。 第 55師団の突破~包囲までは予期の とおり進捗し、図6のように英印軍第 7師団主力をシンゼイワ盆地に包囲し た。 英印軍は、第1次アキャブ作戦の敗 因分析の結果考案された円筒陣地の新 戦法に基づき、包囲され、退路を遮断 されても後退せず、シンゼイワ盆地に 戦車の火力と鉄条網の障害を巧妙に組 織化した堅固な陣地を構築するととも 図6 シンゼイワ盆地の包囲態勢 図7 第2次アキャブ作戦 (第55師団の攻勢転移) 図8 カラダン河谷の戦闘
( )慰霊第37号 平成28年4月1日7 に、空輸補給により陣地を固守した。 桜井兵団は、2月 11~ 16日の間、数 次にわたり夜間攻撃を実施したが、そ の都度、照明弾により昼間化された状 況下での白兵突撃を余儀なくされ、陣 地の阻止火力により撃退され、損耗を 累積した。 20日頃には、主力聯隊の人員は当初 の2200名から400名以下にまで 減じていたという。 また、糧食、弾薬も底をつき、攻撃 部隊の戦意は著しく低下して、戦力の 限界に達していた。 24日には、主力聯隊が認可を受ける ことなく撤退を開始し、兵団主力もこ れに続き、 26日には、師団も作戦中止 の命令を発して後退を開始し、 28日に は、作戦開始前の態勢に復した。 英印軍は、後退する部隊に追尾して 南下し、モンドウ~ブチドン北側の陣 地に対し猛攻を加えた。 この地域の担当を命じられた桜井歩 兵団長は、防御と果敢な攻撃により敵 の阻止を図るが、陣地は逐次蚕食され て危機的状況に陥った。 し か し な が ら、 3 月 8 日 か ら イ ン パール作戦が始まったため、英印軍は 攻撃中の歴戦の第5、第7の2個師団 をインパール正面に転用するため、第 26、第 36師団と交代させた。 第 55師団長は、この機に乗じ、各部 隊に攻勢転移を命じた。 師 団 の 攻 勢 は、 図 7 の よ う に 進 展 し、5月5日頃には、モンドウ~ブチ ドンの陣地線を回復、雨季の対陣に入 ることができたが、この攻勢により師 団の戦力は著しく低下した。 一方、マユ山系沿いの2個師団の攻 撃に連携して、カラダン河谷正面から も英印軍1個師団が 18年末頃から南下 を開始し、シンゼイワ盆地で包囲中の 部隊の側背に脅威を与えたため、第 18 軍 司 令 官 は、 こ の 地 域 を 軍 直 轄 と し、 アキャブを守備中の第 54師団の木庭支 隊(歩兵第111聯隊基幹)にこの敵 の撃破を命じた。 支隊は、図8のようにカラダン河谷 に急進し、ラマドウ、次いでヘタボウ 付近で敵部隊を撃破、引き続き戦果を 拡張し、敵部隊を印緬国境以北に撃退 して、第 55師団の側背を安全にした。 第2次アキャブ作戦は、攻勢により できるだけ多くの敵を持久正面に牽制 拘束し、インパール作戦に寄与するこ と を 目 的 に 実 施 さ れ た 攻 勢 作 戦 で あ り、当初は英印軍総予備の2個師団を 牽制拘束したが、シンゼイワ盆地での 包 囲 殱 滅 が、 早 期 に 失 敗 に 帰 し た た め、インパール作戦開始時期には牽制 効果を喪失し、インパール作戦開始初 期に2個師団の転用を許した。 7 おわりに インパール作戦開始前には、フーコ ン正面からは米支軍が、雲南正面から は米式装備で新編された重慶軍の雲南 遠征軍が、アキャブ正面からは英印軍 が反攻に転じ、攻勢圧力を強めつつあ り、ビルマ全般の戦局は行き詰まりを 見せていた。 この難局を打開するには、インパー ル作戦で快勝を納めるしかないという 雰囲気が方面軍内に充満していた。 インパール作戦は、このような情勢 下で、昭和 19年3月8日から開始され たが、その細部については、次号で紹 介することとする。 自衛隊山岳連盟 (柚木文夫会長) は、 登山を愛好する陸海空自衛隊の現役隊 員・OBらで構成する団体である。会 員 相 互 の 登 山 に 関 す る 情 報 交 換 の ほ か、定期的な合宿登山、機に応じての 海外遠征登山などが主な活動である。 当自衛隊山岳連盟において、終戦 70 周年を記念する戦没者慰霊登山の実施 が会員の話題となり、丹沢山系中に今 も残存する旧軍航空機墜落現場を訪ね る慰霊登山が計画されるに至った。そ して、終戦 70周年の 10月 31日、 11月1 日の両日、7名の連盟会員が、険路を かき分けて、米軍機との戦闘で活躍し た海軍機 「銀河」 の墜落現場に到達し、 戦没搭乗員の在りし日に思いを馳せつ つ、感銘深く慰霊行事を実施した。 慰霊登山本番に先立ち、練達の会員 数名による偵察行が、9~ 10月の間に 数回行われ、かねて山仲間で取り沙汰 さ れ た 断 片 情 報 ど お り、 丹 沢 山 東 面 キュウハ沢の標高800m地点、及び 蛭ヶ岳東面中ノ沢の標高1300m地 点 の 二 箇 所 で、 旧 海 軍 の 陸 上 爆 撃 機 「 銀 河 」 と 思 わ れ る 機 体 の 残 骸 を 発 見 することに成功した。 本番の慰霊登山で二箇所の訪問は無 理との判断で、本番は蛭ヶ岳東面のみ の訪問に決し、 10月 31日~ 11月1日の 計画で参加者を募ることとなった。新 聞「朝雲」で連盟会員以外の自衛隊員 にも参加を呼び掛けたが、若干の問い 合わせがあったものの、実際の応募者 はなく、参加者は会長以下7名の連盟 会員のみによる登山となった。 会員は初日、神奈川県清川村の塩水 橋 を 出 発、 霧 に 包 ま れ た も の の 無 事、
自衛隊山岳連盟が慰霊登山
( ) 慰霊第37号 平成28年4月1日 8 丹沢山頂の山小屋「みやま山荘」に到 着した。翌日は天候も回復し、午前6 時過ぎに山小屋を出発、8時過ぎに墜 落現場を見下ろす蛭ヶ岳山麓に差し掛 かった。先導する連盟事務局長の河内 正樹準陸尉が登山道を離れ、一行は最 大傾斜 42度の道なき道の斜面に足を踏 み入れた。 途中、航空機の一部と見られるジュ ラルミンの破片が見付かった。丹沢山 系上空では戦時中、米軍機を迎撃した 多くの航空機が行方を絶っており、苔 に覆われた残骸を目にする度に、重々 しい「気」を感じずにはいられなかっ た。 所々、朽ちそうなロープが急斜面を 縫うように張られていた。これは 34年 前 の 昭 和 56年 8 月、 「 墜 落 機 の 破 片 と 人骨を発見」という登山者からの通報 を受け、神奈川県警約 60人の捜索隊が 現場検証を行った際に張られたものと いう。その際に遺骨と共に発見された 航空機のタイヤの文字などから、海軍 陸上爆撃機「銀河」と推定されたとの ことである。頼りないロープにつかま り、冷や汗をかきながら、山中深くに 眠る同機のエンジンを目指した。 下ること 30分、先導する河内准尉が 「 見 付 か ら な い ぞ 」 と 頭 を か か え た。 苔と落ち葉に埋もれ、落石の散乱する 現場での捜索は困難を極めた。参加し た 7 名 が 散 開 し 目 を 凝 ら し て の 捜 索。 しばらくして「あった!」と後方から 声が。エンジンは土と苔に埋もれ、ピ ストン部分のみが僅かに顔をのぞかせ ていたが、まぎれもなく旧海軍機「銀 河 」 で 使 用 さ れ た 星 型 エ ン ジ ン「 誉 」 だった。 ザックを下ろし、携行した、慰霊の 思いを記した木製の碑をエンジンの傍 らに建て、酒と大福餅のお供え物を供 え、一同脱帽整列して、8時 50分、慰 霊式開始。柚木会長が進み出て「慰霊 の言葉」を読み上げ、参加者一同がし ばしの黙祷を捧げた。 会長の「今日の平和と繁栄は、七十 年前の皆様方の生命を賭しての御奉公 が礎石となって築かれたものであるこ とを、私たちは決して忘れません。私 ども自衛隊員は、皆様方の尊い御遺志 を引き継ぎ、輝かしい伝統に恥じない よう、国防の任務に邁進してまいりま す」との慰霊の言葉(後掲)が胸に沁 み た。 木 漏 れ 日 が エ ン ジ ン を 照 ら し、 黒 く 光 っ ていた。 式 が 終 わ る と 厳 粛 な 空 気 が 和 み、 「 胸 の つ か えの取れた」会員は、ホッとした表情 を見せた。 「自衛隊記念日の 11月1日に慰霊が できたことは意義深い。これから丹沢 に登山してこの地を訪れる人は、英霊 を 悼 む 気 持 ち を 忘 れ ず に 来 て ほ し い 」 と話す河内准尉。柚木会長は「我々は 旧軍の伝統を忘れることなく引き継い でいかねばならない。その覚悟を改め て 確 認 さ せ て く れ た 登 山 だ っ た 」 と 語った。 ( 注 ・ 本 稿 は、 朝 雲 新 聞 社 刊「 朝 雲 」 第3185号(平成 27年 11月 26日)に 掲 載 さ れ た 記 事 に、 一 部 修 正 を 加 え、 お許しを得て転載したものである。 ) 発見された星型エンジン「誉」 「銀河」に搭載されていたエンジンを前に慰霊 の言葉を述べる柚木文夫会長 自衛隊山岳連盟が制作した慰霊碑 「銀河」のエンジンの傍らに建てられた
( )慰霊第37号 平成28年4月1日9
慰霊の言葉
大東亜戦争が終わって七十年目の 本日、私ども自衛隊山岳連盟の有志 が相集い、大東亜戦争を戦い愛機と 共に任務に斃れられた英霊の御霊の 宿るこの地、かつまた、人の訪れる ことの絶えてなかったこの山間の地 を、この度ようやく訪ねることがで きました。この所縁の地に立ち、こ の地に散華された英霊の御霊に謹ん で慰霊の言葉を捧げます。 過ぐる大東亜戦争においては、こ の地に斃れられた皆様を始め、多く の 皆 様 が、 祖 国 と 同 胞 の 安 寧 を 願 っ て、苛烈な戦闘に身を投じ、勇戦敢闘 して散華されました。あれから七十年 という長い年月が経過しましたが、愛 する家族を残して任務に斃れられた皆 様 の ご 無 念 と 、一 家 の 柱 を 失 い 、後 に 残 さ れ た 御 遺 族 の 悲 痛 に 思 い を 致 す と き 、 今 な お 、万 感 胸 に 迫 る も の が あ り ま す 。 今 日 、 我 が 国 、 我 が 国 民 は 、 世 界 で も屈指の豊かで平和な生活を享受して お り ま す 。 こ の 平 和 と 繁 栄 こ そ 、 七 十 年 前 の 皆 様 方 の 、 生 命 を 賭 し て の 滅 私 奉公が礎石となって築かれたものであ る こ と を 、 私 た ち は 決 し て 忘 れ ま せ ん 。 また、私ども自衛隊員は、皆様方の 尊い御遺志を引き継ぎ、皆様方が残さ れた輝かしい伝統に恥じないよう、国 防の任務に邁進しております。皆様方 のお導きのお蔭で、この国の七十年に 及ぶ平和の継続に、私どもの任務遂行 が、 与って力があったことを、 皆様方に 胸を張ってご報告申し上げることの幸 せ を 、 改 め て 胸 に 噛 み 締 め て お り ま す 。 戦後七十年の節目の年、英霊の御霊 の鎮座ましますこの地に立ち、大東亜 戦争の国難に敢然と立ち向かわれた皆 様 の 勇 気 と 献 身 を 改 め て 思 い 起 こ し、 先人から託されたこの美しい国の守り に、加えて先人から引き継いだ自衛 隊の更なる精強化に、これまでにも 増して一意邁進すべく、覚悟を新た にするものであります。 こ こ に、 御 英 霊 散 華 の 地 に あ っ て、 御霊前に額ずき、 在天の御霊の安 らかならんことをお祈り申し上げま すとともに、 どうか私どもに、 なお一 層の御加護とお導きを賜りますこと を希って、 慰霊の言葉といたします。 平成二十七年十一月一日 自衛隊山岳連盟会員一同を 代表して 会長 柚木 文夫一
はじめに
全国ソロモン会では、平成 23年から 毎年、ガダルカナル島未送還遺骨情報 収集活動を、特定非営利活動法人JY MA日本青年遺骨収集団と協同で実施 し、平成 27年度は、5回目の自主派遣 を無事終了することができました。 この間、平成 26年度の活動において は、それまで収容した御遺骨137柱 が、海上自衛隊練習艦隊によって日本 への帰還が果たされ、感無量でありま した。また、平成 25年度からは、靖國 神社に、神職の御差遣を正式にお願い しております。 今次派遣では、108柱の御遺骨を 収容・受領して荼毘に付し、神式によ る慰霊祭と仏式による慰霊法要を執り 行い、9月 14日、厚生労働省応急派遣 団の手により本邦に送還させていただ くことができました。 時あたかも戦後 70年、戦友遺族会の 方 々 が、 亡 き 友 へ の 切 実 な 思 い を 胸 に、連綿と実施されてきた戦没者の遺 骨収容事業を、国の責務として実施し ようとする法案が整備され、従来の方 法を脱し、 国の事業として、 対象地域、 規模、期間を飛躍的に充実して諸施策 を実行するための諸準備が行われよう としております。 本稿は、当会がこれまで行ってきた 活動、なかんずく、平成 27年度の活動 を中心に、準備から実施に至る一連の 行動について、今後、国により大規模 に実施されるであろう当該事業が、よ り 実 り 多 い も の と な る こ と を 願 っ て、 その一端を紹介するものであります。二
自主派遣隊の構成員
1 日本からの参加隊員 ア 国内における応募 隊員は、自主的な奉仕の精神をもっ て、慰霊と遺骨収容活動に取り組みた いという意志を持っていることが重要 であり、インターネット等により募集 を行い、面談の上、応募者の中から適 任 者( 今 年 度 は 17名 ) を 選 考 し た。 イ 適任者の選考 選考に当たっては、派遣先の地域の 状 況、 現 地 で の 自 活 行 動( 天 幕 野 営 ) の必要性、遺骨収容活動における重労 働の程度等を考慮し、過去複数回の参ガダルカナル島遺骨収容
活動報告
全国ソロモン会
派遣隊長
崎津
寛光
( ) 慰霊第37号 平成28年4月1日 10 加経験を有する者が半数以上となるよ う、考慮した。 年齢構成は、 20代から 60代まで幅広 い世代が参加し、若年者が体力で年配 者を支え、年配者が知識や経験を若年 者に伝えるという、お互いにその力を 補完しながら活動できることを狙いと した。 参加者の職業等は、 大学生、 会社員、 会 社 経 営 者、 ジ ャ ー ナ リ ス ト、 僧 侶、 神職、大学教員、自衛官OBなど多様 である。このことが、後で述べる現地 での活動において、統制が維持できる ための事前訓練、及び命令・指示に従 うことができる形而上下の各種手段・ 方法が重要となってくる。 2 現地参加隊員 収容活動を行う地域の地理、過去の 歴 史( 戦 闘 状 況 )、 言 語、 補 給 品 の 管 理、衛生等に、ある程度の知識を有す る人々を、派遣隊員として迎えること は必要不可欠である。 在留邦人、ボランティアであるJI C A 青 年 海 外 協 力 隊 員、 そ し て 今 回 も、収容活動を行う地域の地権者であ るバラナ村の人々をソロモン隊参加隊 員として迎えることができたが、現地 の事情に精通する彼らの存在が極めて 重要である。
三
事前準備訓練・研修
派遣隊の構成員は、遺骨収容活動予 定地についての戦史への理解度、遺骨 収容活動の経験、年齢等、いわゆる初 心者から熟練者まで、種々の人の集ま りである。 一 方、 収 容 活 動 を 予 定 す る 場 所 は、 日本の風土・気象・人種・文化とは著 しく異なる特性を有しており、油断を す る と、 収 容 活 動 の 成 果 の み な ら ず、 安全管理、衛生管理上、極めて重大な 結果を招くことになりかねない。 こ の よ う な 活 動 環 境 の 特 性 を 考 慮 し、 当 会 で は、 第 1 次 派 遣 当 時 か ら、 志願隊員への事前準備訓練・研修、面 談を実施し、活動に当たり、統制の取 れた行動を行い得る精神的・肉体的鍛 錬を積み上げ、全員が事故なく、安全 に帰国できる諸準備を行っている。 本訓練は、特に若い学生達が不慣れ な団体行動上、順守すべきことを身体 で覚えてもらうことにより、現地での 活動が円滑に実行できる素地を練成す る絶好の機会と思料する。 1 事前訓練 東京・奥多摩において、登山訓練等 を 実 施 し た。 訓 練 は、 派 遣 前 に 2 回、 各回2~3日の訓練日程で毎年行って いる。 主要な訓練の狙いは次のとおりであ る。 〇 山岳・不整地における重量物の運 搬(山地登坂、下山) 〇 小 グ ル ー プ( 3 ~ 5 人 ) に よ る チームワーク(分派活動の訓練) 〇 天幕展張、 野外炊事、 野営時の行動 〇 夜間の行動(夜間行進訓練) 〇 無線交信訓練、逓伝訓練 〇 不 測 事 態 対 応 行 動( 傷 病 者 の 保 護、救助要領) 本 訓 練 を 通 じ、 身 体 的 な 不 適 格 者、 団体行動になじめない者が判明した場 合には、派遣辞退をお願いする場合も 考慮しなければならない。 2 研修 派遣日程、行動の概要、及び戦史に つ い て は、 大 東 亜 戦 争 の 開 戦 の 経 緯、 諸作戦の経過、なかんずく、ガダルカ ナル島において展開された作戦につい て、戦史を繙き、戦没者の慰霊顕彰に 思 い が 深 ま る こ と を 願 っ て 行 っ て い る。また、東京消防庁の実施する上級 救命講習を受講することも志願隊員の 義務としている。四
派遣隊員の編成︑任務
1 小隊編成 現地での活動が整斉かつ効率よく実 施され、かつ安全管理の徹底を図るた め、小隊を編成し、派遣隊長の命令・ 指 示 が、 個 々 の 隊 員 に ま で 徹 底 さ れ、 やるべきこと、やってはいけないこと が厳守されるよう、態勢を確立した。 派遣隊の編成は、隊長│副隊長(1 名)│小隊長(3名)│3個小隊(3 名~5名/小隊)で、小隊内で分派を 想定し、各小隊に班長を指名した。 2 派遣団の運営・管理組織 遺骨収容活動では、捜索・収容活動 が効率的に実施できるための運営・管 理機能が必要である。 これらの機能については、遺骨収容 活動の小隊編成とは別に、次のような 機 能・ 役 割 を 有 す る 担 当 科 を 編 成 し、 各科に隊員を振り分けた。 各 科 の 任 務 は 、 以 下 の と お り で あ る 。 ア 法祭科 ① 発見現場、野営地、焼骨式等での 慰霊祭・慰霊法要・拝礼・読経 ② 御供物、祭具・仏具管理 ③ 祭壇設置(野営地の供物を含む) 、 隊旗掲揚・管理 ④ 御遺骨収納袋の管理(各小隊への 交付を含む) イ 運用科 ① 通信アンテナ設営 ② 発見現場、慰霊、拝礼等全活動状 況の記録写真・映像撮影 ③ 残存遺骨情報記録( )慰霊第37号 平成28年4月1日11 ④ 行程時間記録 ⑤ 発見現場におけるテープ展張、派 遣隊貼紙の管理・貼付 ⑥ 御遺骨収納袋の管理(番号、収容 場所の記入管理) ⑦ 派 遣 隊 装 備 品 管 理( 掘 削 資 機 材、 生 活 関 連 物 資 )・ 交 付、 必 要 装 備 品 の現地調達 ⑧ 電源 (電池、 常夜灯) の管理、 交付 ⑨ GPS管理・運用 ウ 衛生科 ① 衛生袋管理(外傷手当、各種薬品 処方、防虫(蚊)対策) 、石灰管理 ② 飲料交付(ポリタンク、ペットボ トル、クーラーバッグ管理) ③ 隊員健康管理表記入、マラリア予 防薬服用管理 エ 補給科 ① 配食(日本隊、ソロモン隊の食数 確認) ② 糧食管理、交付(不良品の把握) 、 糧食食材の現地調達 3 現地バラナ村住民組織 今回の収容活動に当たっては、現地 バ ラ ナ 村 か ら 村 民 25名 の 参 加 を 得 た。 彼 ら は 各 グ ル ー プ 3 ~ 5 名 の 3 個 グ ループを編成し、各小隊長の指揮下に 入り、前掲の各小隊の活動地域におい て、収容予定地への進入路の啓開、誘 導、捜索現場での雑木伐採、遺骨収容 活動の協力を得た。 なお、現地における活動の指示・統 制系統は、日本隊の派遣隊長の指揮下 にソロモン隊の村長以下を入れて協力 を仰ぎ、村民は各小隊に振り分けて活 動した。ソロモン隊の小隊長は、豊富 な遺骨収容活動経験を積んでいる者と した。
五
事前調整・支援要請
遺 骨 収 容 活 動 の 実 施 に 当 た っ て は、 関 係 行 政 機 関 を 始 め、 多 く の 民 間 団 体・個人から物心両面の支援・協力が 得られることが必要である。 こ の た め、 今 次 派 遣 に 当 た っ て も、 次のような関係機関、団体、個人に対 し、活動予定等について、事前に十分 な 説 明 を 行 い、 本 事 業 の 実 施 に つ い て、直接・間接の支援・協力をお願い した。 1 バラナ村│村長 〇 派遣隊の行動│活動地域、派遣隊 の編成(各小隊から抽出した2個班 が個別行動) 〇 現地参加隊員│村民からの参加者 数( 25名 雇 用 )、 雇 用 賃 金( 活 動 地 域別、職務別(班長、一般) 2 コカンボナ村│村長 焼骨式の実施に伴う協力要請 3 在ソロモン諸島国 日本大使館│ 大使︑書記官 〇 活動期間、活動地域、活動内容│ 計画の概要、特に活動地域、行動経 路については、地図に記載し、提出 〇 編成・装備等│派遣隊の装備、特 に 糧 食・ 水・ 医 薬 品 等 の 準 備 状 況、 緊急連絡手段(無線機、衛星携帯電 話) 4 ソロモン諸島国 特命大使︑現地 協力者(日本人) 〇 必要物資の一括購入について依頼 5 ホニアラ中央病院 緊急時の四駆救急車 24時間対応派遣 について、文書により依頼 6 ホニアラ市警察署 不足事態発生時の対応について、文 書により依頼 7 キタノメンダナホテル│総支配人 〇 車両手配(4WD×2台、バス× 1台)の要請 〇 緊急時の連絡手段(衛星携帯電 話) 、病院への連絡要請 8 JICA│所長︑調整員 〇 行動計画の概要説明 〇 JICAからのボランティア参加 協力についての御礼、確認 〇 緊急・不測事態発生時の支援につ いての協力依頼六
現地常駐員の活動
ガダルカナル島ホニアラにあるキタ ノメンダナホテルには、同ホテルの警 備課長として、全国ソロモン会役員で ある西冨謙太郎氏が駐在している。 彼は、通常、ホテル従業員として勤 務 す る 傍 ら、 余 暇 時 間( 休 日、 休 暇 ) を活用して、当会の遺骨収集自主派遣 に関わる情報収集、調整、連絡、現地 ソロモン人との友好親善に係る広範な 職務を精力的にこなしている。 特に、彼が現地ソロモン人から得た 遺骨収集に必要な情報は、その活動に 当たり、極めて重要なものであり、ま た、その情報を得るためには、長期に わたり、現地人との友好親善を築いて きたからこそ、可能になったことを銘 記すべきである。 彼の活動状況は次のとおりである。 〇 キタノメンダナホテルとの調整 〇 緊急時における連絡・対応につい ての要請 〇 遺骨情報の収集 現地人の遺骨情報の取得、日本将 兵の行動・埋葬地に係る情報収集 〇 現 地 住 民 と の 友 好 親 善 関 係 の 醸 成、派遣時の協力者応募の事前要請 〇 遺 骨 収 容 実 行 動 予 定 地 域 の 地 誌、 特に、道路状況、アクセス経路の確( ) 慰霊第37号 平成28年4月1日 12 認、宿営適地の確保(地権者との調 整) 〇 本隊の受け入れ 〇 輸送(悪路、泥濘地における車両 による移動、連絡を含む)
七
戦没者遺骨に関する情報収集
遺骨収容活動の実施に当たり、その 捜索地域、収容活動地域に関する具体 的な情報は、極めて重要であり、確度 の高い情報をいかにして収集し、その 情 報 に 基 づ き、 現 地 を 踏 破 で き な け れ ば、 時 間 と 経 費、 多 く の 人 々 の 労 力 が 無駄になる。 情 報 収 集 に は、 現 地 の 地 形・ 地 物( 山 地・ 丘 陵、 道 路、 河 川、 人 工 物 等 ) が 記 載 さ れ た 地 図 が 必 要 で あ る。 当 会 で は、 昭 和 51年 当 時 に 作 成 さ れ た 航 空 写 真 を 透 写 し た も の を 利 用 し て い る。 こ の 地 図 上 に、 戦 史 文 献、戦友会員の記憶、及び現地住民と 当会駐在員から得た情報を展開し、遺 骨収集の実働地域を選定している。 今後、厚生労働省の計画で実施され る遺骨収集には、先ず、現在の道路状 況と地名が正確に描写された地図を準 備する必要がある。 そ の 図 上 に、 戦 史 文 献、 戦 友 会 員、 現地住民、交戦国の保管文書等(戦闘 詳報・戦闘要報、戦闘日誌)を通じて 得た日本軍の行動を克明に記録し、活 動計画、収集記録を整理していくこと になろう。八
遺骨収容活動
1 丸山道第一野戦病院跡地 進入は比較的容易な地域であり、主 力を投入して捜索したが、今次隊では 骨片のみの発見であった。 昨年までの活動で、収容すべき遺骨 は、 ほ ぼ 収 容 で き た も の と 判 断 さ れ る。 2 丸山道タンブレロ~コロブブ アウステン山から急斜面を下り、ル ン ガ 河 を 渡 河 し た 丸 山 道 の 奥 地 で あ り、雨天時には大変な悪路になり、四 駆車の運転には高度の操縦技術が必要 である。急斜面の移動には、重量物を 担送しての移動は困難であり、軽装備 の 小 隊 を 投 入 し た。 当 隊 は 特 に 体 力、 経験に優れた隊員2名(崎津隊長外1 名 )、 ソ ロ モ ン 人 隊 員 4 名( ウ イ リ ー 村長を含む)及び報道班で独立小隊を 編成し、野営の上、5日間の捜索、収 容活動を実施した。 奥地であることから、盗難等の恐れ がなく、活動中及び夜間就寝中の安全 管理要員による監視・警戒措置は行わ なかった。 なお、危害を及ぼす恐れのある野生 動物はいない。 タンブレロ地区は、丸山道における 最奥地であり、無線交信も難しく、地 形は、3年前とは大きく変化していた が、偶然にも2柱の御遺骨を収容でき た。無線交信が困難な地域における警 笛 に よ る 相 互 連 絡 は 、極 め て 有 効 で あ る 。 コロブブ地区も、地形急峻で、密林 障害が大である。途中、大スコールに 見舞われ、早期に転進し、全員滑落等 の怪我もなく、帰路の計画地点まで無 事到着した。当該地区では、4柱の御 遺骨を収容した。 密林地区における、ソロモン人隊の 方向感覚、行動能力は、極めて優れて おり、驚嘆させられる。 3 ベラバウ地区 急斜面の危険を伴う地域で、経験豊 富な小隊長の下に、日本隊3個小隊及 びソロモン隊 19名をもって大規模捜索 活動に当たり使用している地図( )慰霊第37号 平成28年4月1日13 を行ったが、遺留品と骨片の発見に留 まった。 4 タナビーチ地区 日 本 軍 の 撤 退 路 で あ る こ の 地 域 は、 全体として砂地であり、穴を掘り排土 をしても、砂利が崩れ落ち、ビニール シ ー ト で 保 護 し な が ら の 収 容 活 動 と な っ た 。全 身 御 遺 骨 が 2 柱 発 見 さ れ た 。
九
米軍遺骨収集団の活動
今次派遣において、米軍の遺骨収集 団と現地で遭遇し、彼らの捜索活動の 様子を見学することができた。 米側の捜索地域は、全て密林を伐採 し、 現 地 人 約 50名 を 雇 用、 考 古 学 者、 地質学者立ち会いの下、米軍人の指揮 により、広大な地域を捜索していた。 現地には、コンパネを敷き詰めた立 派な小屋が5棟建てられており、離れ た水源地から水を動力ポンプで引き上 げて洗骨する小屋、骨片や遺留品を見 逃さないため、御遺骨をふるいにかけ る た め の 小 屋、 資 機 材 置 場、 休 憩 所、 トイレ等が完備されていた。 急斜面に木材で階段を造り、体力の 強弱に拘わらず誰でも行動できるよう に施設が整備されていた。 軍人、戦没者に対する国及び国民の 姿勢、考え方が、我が国と大きな隔た りがあり、遺骨収容をボランティアで やらなければならない現実は、早急に 改革することが急務であることを痛感 した。 今後、遺骨収集事業推進法が制定さ れ、国としての施策が着実に具体化さ れることを期待したい。 一○ 活動に当たって留意すべき事項 日本と大きく環境が異なる土地、不 慣れな山地・錯雑地での活動、言語・ 習慣・宗教が異なる場所での活動であ ることを考慮し、隊員の健康・安全に 万全の処置を講ずることを考慮し、特 に留意した事項は次のとおりである。 1 マラリア予防 マ ラ リ ア 予 防 薬( ド キ シ サ イ ク リ ン ) の 服 用 の 義 務 付 け( 同 予 防 薬 は、 現地薬局にて購入) 2 服装︑礼式 ア 出発から帰国まで、全隊員が指定 の 制 服 を 着 用( 名 札 の 着 用 )、 現 地 で の活動に当たっては、肌を露出させな い服装を厳守 イ 礼式の徹底(活動開始・終了時の 整列、拝礼、敬礼、復命・復唱) ウ 行動面での統制 〇 夜間活動の禁止 〇 単独行動の禁止 3 現 地 ソ ロ モ ン 人 と の 友 好 関 係 の 醸 成 収容活動の実施に当たっては、現地 の ソ ロ モ ン 人 の 協 力 は、 不 可 欠 で あ る。 彼 ら が 持 つ 密 林 内 で の 行 動 能 力、 遺 骨 収 容 に 関 す る 独 特 の 嗅 覚 等 の 技 術・ 体 力 を 十 二 分 に 活 用 で き る よ う、 また、相互の意思疎通が円滑となるよ う、物心両面の心遣いが重要である。 野戦病院跡地への進入 御遺骨収容現地での読経供養 タナビーチでの遺骨収容活動日本隊、ソロモン隊共に、全員が名 札を装着し、積極的に声を掛け、食事 もできる限り同じ物を一緒に食べる等 の行動は、友好親善の中で活動するに は極めて有効である(対する米側派遣 団はこれをしない) 。 ま た、 現 地 に 駐 在 し て い る 隊 員 が、 彼らとの友好を深めるため、機会を求 めて一緒に過ごす時間を多くするとと もに、遺骨収容に関連した情報の収集 に東奔西走する等、日常的な活動から 信 頼 を 得 る こ と が 極 め て 有 効 で あ り、 必要不可欠である。 4 食事・給水 ア 野営実施隊の食事 全体として、軽量、少量を追求、朝 食・夕食は、現地ソロモン人の好みを 考慮、昼食は、簡便な携行食 イ 給水 現地ミネラルウォーター精製会社か ら、タンクごと購入(水質による隊員 の腹痛等は皆無) ウ 現地調達物資 ツナ缶、フルーツ缶、煙草、米、袋 麺、調味料、ビスケット等スナック菓 子、ミネラルウォーター、インスタン トコーヒー、トイレ用石灰 5 無線機 現地滞在間、 人員の確認、 安全管理、 情報共有のため、派遣隊内小隊、隊員 相 互 の 連 絡 の た め、 全 隊 員 が 保 持 し、 次のような無線機を使用した。 なお、長・中距離用無線機の使用周 波数については、事前に申請して現地 国通信局の使用許可を得ておく必要が ある。 〇 長距離 VHF 145.580 MHz ( 10式無線機) 幹部用 〇 中長距離 UHF 422.050 MHz ( 12式無線機) 小隊長用 〇 中距離 UHF 462.550 MHz (9式無線機)ソロモン隊員用 〇 短距離 UHF 422.050 MHz (特定小電力無線機)一般隊員用 6 GPSロガー 遺 骨 収 容 場 所 を 明 確 に 記 録 す る た め、GPSロガーを用いた。 最近では、廉価で簡便な機材が市販 されており、遺骨発見地点や出発点・ 帰着点でボタンを押すと、その場所が 座標で記録されるものである。これを インターネット上のグーグルマップに 重ねれば、どの地点で収容し、また行 進したかを地図上で読み取ることがで きるようになる。当隊では、本機の知 識がある運用長がこれを管理している が、隊員は研修時にこの運用方法を習 得 で き れ ば、 今 後 の 活 動 に 有 益 と な る。廉価なものであれば、1台5千円 程度であり、今後も派遣隊員や現地駐 在員の必須装備品である。
一一
結び
大東亜戦争終戦 70年を迎えた今もな お、ビスマーク・ソロモン諸島におけ る戦没者 11万8700柱(海没者を含 む)のうち収容帰還は、3万 44柱であ り、 ガ ダ ル カ ナ ル 島 に お い て も 2万2000柱の戦没者のうち、本邦 帰 還 は 1 万 5 2 8 1 柱 に 過 ぎ ま せ ん (平成 28年1月 厚生労働省資料) 。 戦没者遺骨収容帰還事業が、ようや く国の施策として本格的に実施されよ うとしていますが、従来の要領を抜本 的に見直し、未だ海外の地に眠ってお られる御遺骨を、一体でも多く、早期 に お 迎 え で き る よ う 、願 っ て 止 み ま せ ん 。 同 時 に 我 々 は、 そ の 御 遺 骨 は「 人 」 であり、慰霊が伴った遺骨収容活動を 今 後 も 継 続、 推 進 し て い か な い 限 り、 「 モ ノ 」 と し て の 活 動 に 成 り 下 が っ て しまいます。爾後、当該活動は、この 点 を 銘 記 し、 「 し て や る 」 と い う こ と で は な く、 「 さ せ て 頂 く 」 と い う 奉 仕 の精神をもって臨まねばならないと痛 感しております。 合 掌 ※当該活動の模様は、インターネッ ト で、 ユ ー チ ュ ー ブ か ら、 ﹃ ガ ダ ル カナル島第5次﹄で検索いただくと ご覧になれます。 ( ) 慰霊第37号 平成28年4月1日 14事務局からの報告等
一
理事会の開催
3 月 4 日( 金 )、 平 成 27年 度 第 2 回 通常理事会が、当協議会会議室におい て開催された。 会議においては、事務局からの提出 議 題 に つ い て、 熱 心 な 討 議 が 行 わ れ、 いずれも事務局案が、原案どおり承認 された。1
議案
① 平成 28年度事業計画書及び同収 支予算書 ② 財産運用の執行方針及び計画案 ③ 平成 27年度下半期業務執行状況2
出席者
理事 11名中 11名、及び監事2名が出 席した。二
慰霊祭等への参加状況
1 平成 28年1月 28日、千鳥ケ淵戦没 者墓苑において、硫黄島戦没者遺骨 帰 還 団 の 遺 骨 引 渡 式 が 執 り 行 わ れ、 当協議会から圓藤春喜専務理事が参 列した。 2 平成 28年2月 22日、財団法人青葉 園において、NPO法人国民保護協 力会主催による山下奉文大将閣下慰( )慰霊第37号 平成28年4月1日15 霊祭が執り行われ、当協議会から圓 藤春喜専務理事外1名が参列した。 3 平成 28年3月5日、靖國神社にお いて、NPO法人JYMA日本青年 遺骨収集団主催による戦没者慰霊祭 が執り行われ、当協議会から圓藤春 喜専務理事が参列した。 4 平成 28年3月 26日、靖國神社にお い て、 ( 公 財 ) 特 攻 隊 戦 没 者 慰 霊 顕 彰会主催による第 37回特攻隊合同慰 霊祭が執り行われ、当協議会から岩 田司朗常務理事が参列した。