バ!ミヤ
i
ンの浬繋図
ーーガンダ
l
ラ美術の中央アジア的変容││
宮
r
台
昭
二OO
一年にタリパンによってパl
ミ ヤl
ンの二大仏が破壊され、さらに石緒に描かれた多くの壁画も全部ではな いが、かなりの破壊を蒙った。筆者は一九六九、七回、七六、七八年にパl
ミ ヤl
ンの現地調査を行う機会があったロ その調査に基づいて、破壊前に残存していた壁画の中で浬繋図を取り上げ、ガンダl
ラの担繋図と比較しつつ、その 図像的な分析を行い、中央アジア美術としてのパ!ミヤl
ン壁画の特徴の一端を明らかにしたい。 パl
ミ ヤl
ン壁画の主題には仏伝図がほとんど全く見られないが、浬繋図のみ唯一の例外で、かなりの数の浬繋図 が見出せる。それゆえ、パl
ミ ヤl
ンの図像プログラムを考える際、浬繋図が重要な意味をもつことが予想される。 たい。その上でパl
ミ ヤl
ンの浬繋図を細部にわたって検討し、 はじめにパl
ミ ヤl
ン浬繋図の図像的源流となったガンダl
ラの浬繋浮彫を観察し、その図像的特徴を確認しておき ガンダl
ラや他の中央アジアの担架図と比較して、 その特徴を考察したい。 パーミヤ l ンの迎繋凶点目治配 谷 大 川 宇 治 化 本
ガンダ
i
ラの浬按図
(
浮
彫
)
い る が 、 釈却の入減を泌す担繋の凶仰は、ガンダ│ラ美術において初めて山別し、中央アジアを杭て中川や円本に伝わ っ て その過程で大きな変容と展開を示す。インドの古代初期の仏教美術では、パールフットやサ l ンチ!の 浮彫 すでにかわゆり盟自に仏伝場出が表されながら、担架の場開はス卜ゥl
パ凶によって代附され クシャl
ナ閣時代に寸釈尊 の 死﹂として出禁凶が成立し、それ以降、インド内部でも出然凶(現存す るむの はいずれも浮彫彫刻)が制作されるが、その図像はガンダl
ラのそれを踏襲し、時代が 下 るにつれて、簡略化と登場 人物の非間性化への傾向を示し、ほとんど発展を示さない。それはおそ らく 釈尊の人減は仏教の理想であ る 般担然の 達成であって、人間の妃とは児なるものとするむ識が強く、般迎繋の象徴であるストゥl
パの似仰が制強く存続した ことに大きな理由があろう。実際、アマラl
ヴァティーやナl
ガl
ル ジ ュ ナ コンダなどの南インドの古代仏教 美 術に 彫刻に見られるように 、 て い る 。 は 、 1 釈尊の死 ﹂ を表す浬繋凶は全く見られず、 ストウ│パ図によって況然の場而を表している ( 岡11
仏伝四作i
図i
乎彬(下か ら「出城Jr I制約戊道1 1 宇<JJ説法」、 lt~ 一仁端の │吠阿にストゥー パ 礼 拝 I~I によって ri'l¥繋」を 表す) アマラーヴァティ-iJ¥:
1
-0、 31.佐紀liIj:I
"
、チェ ンナイ州t
u
:
博 物 航l
きI
1﹁ 釈尊の死﹂としての浬繋図(浮彫) は、ガンダ
l
ラ美術において出現する。 ゃ、石棺における死者の表現に示唆を受けると同時に、小乗 レニズム ・ ロl
マ世界の﹁死者の饗宴﹂ の図像(図2
)
おそらくガンダ 1 ラ の 混 然 図 は 、^
'
の伝承と密控な聞係をもって成立したものと考えられる。ガンダ│ラ視然浮彫の図像は個々にヴァリエl
司 冷 シヨンはあるが、筆者が集めた七O
ほどの作例の図仰を通観すると、以下のような特徴がうかがえ&(岡 3 ・ 4 ) 。 釈尊は二本の沙羅樹の聞におかれた寝台の上に、右脇を下にして横臥し、右手を手枕にして、左手を体側に添って仲 可 制 山 然 続 L ばす。仏陀の周囲には仏弟子や神々、 およびマツラ族の人々が悲嘆にくれる。彼らは手を到に当てたり、腕を上げて 悲 し む 。 剃髪で僧衣をまとう比丘たちの中には、寝台の前で悲しみのあまり動転するア!ナンダ、彼を諌める兄弟子アニル パ l ミ ヤ l ンの授業凶(宮治 「死者の鈍'応」を表す化担i:lIIl、シルカ ップ(タキシラ)出土、 前ljll:紀、タ キシラ考古I
W
物館 1:.:<12 ツ ダ 、 仏陀の近くで払子をもって仕えるウパヴァl
ナが見られ る。スパドラと大迦葉(マハl
カl
シャパ) は釈尊入減の際、 -点 . 裂 な 役 割 を も っ。経典によれば 、托鉢避 行者であったスパド ラは釈尊入滅の直前にやって来て、釈尊の許しを得、説法を聞 いて最後の仏弟子となり、忽ちのうちに倍りを聞くが、仏陀の 入滅を見るに忍びず、先に滅尽定に入って入滅したという。ス パドラは決って寝台の前で、衣を閉まで被って結蜘猷坐する姿 その傍らには遊行者の持物である水の入った皮袋が 吊された三脚が置かれる。この三脚を担ぐスパドラが、釈尊の で 表 さ れ 、 体を気づかつて追い返そうとするア│ナンダと口論する場而が 表されることもある。能谷大学論集 │川 2 ~:~ .111: │ 火14 フリア主制iiifi'¥ 浬 築 関 浮 彫 ナ ト ゥ ( ガ ン ダ ー ラ )
t
H
土 紀 チャンディガ/レ州立博物館 2~:{ 世紀 ガンダーラ 浬擦図沼~gJ~ │χ1 :{ 長老の大迦架は釈尊入減の際居合わせず、道の途中で畑山形外道から一週間前に釈尊が 亡 くな っ たことを知らされ、 急ぎクシナガラに駆けつける。浮彫ではしばしば画而の向かって左端に、釈尊の入滅の際、天から降り注いだマンダ ラ輩を手にする裸形外道と会話する大迦葉が表される。クシナガラに到若した大迦葉は、釈尊の双足に礼拝するや茶 山の火が燃え上がったという。浮彫では左手に杖を持つ大迦葉がお手で仏陀の泌を触れることが多い。 そのほかに例併の人物として冠飾や装身只をつけるマッラ肢の立膝たち、神々としては顕援を結 う 党天 ( プ ラ フ マターバン冠飾をつける帝釈天(インドラ)、金剛杵を持つ執金剛神(ヴアジュラパ
l
三、および沙羅双樹から 上半身を現す樹神の姿が見える。ガンダl
ラの浬繋浮彫にはこれらの人々、神々が仏陀のもとに集まって悲しみ、ま た讃嘆する様子が表されるが、樹神を除いては女性が表されないこ例のみ例外、後述)ロガンダl
ラの浬繋図はこ のように﹃浬繋経﹄に記される多くのエピソードを表し、説話性に富んだ仏伝場面を構成している点に大きな特徴が あ る 。 これに対し、中央アジアの浬繋図はガンダl
ラの図像をもとにしながらも大きく変容を遂げ、同時に展開を示す。 パl
ミ ヤl
ンにおいてその様相が顕著にうかがえる。以下に、 その様相を観察しよう。 まずパ!ミヤl
ン石窟壁画に見られる浬繋図を一つ一 つ 取 り 上 げ 、一
一
.
パl
ミヤl
ンの浬繋図(壁画)
パl
ミ ヤl
ンの石潤壁画に六点の担架図が確認される。すなわち、氏問、問問、G
閥 、M
閥 、K
窟 、 n民間のもの である。その中で壁画の残りがよく、図像的にも興味深い氏窟と幻窟の浬繋図を最初に取り上げ、G
窟 、M
窟 、K
窟 、 h M 窟をまとめて扱う。(
1
)
氏窟の浬繋図 氏自凪は一辺約三メートルの方形プランに、ラテルネンデッケ天井をとる構造である。側壁の壁画はほとんどみな剥 落するが、天井部は小仏陀の列像で埋められていた。南壁に当たる入口の梁内側に浬繋図がある(図5
、二九セン チ×九六センチ)。中央に寝台に横たわる仏陀が描かれるが、その大衣は削り取られており、ごく一部に残る金箔か ら当初大衣全体が金箔で涜われていたと推測される。仏陀の黒い頭髪と肉髪、赤の顕光が残る。興味深いことに、仏 パ l ミ ヤ l ン の 出 般 市 岡 ( 宮 治 ) 1i龍谷大学論集 --L. / 、 宮治作図 陀の顕の下に寝台の装飾として二つの弧形から成る連珠円文が見られる。寝台の縁も 細かな連珠文で飾られ、二本の繰型のついた脚と垂下する布も丁寧に描かれる。寝台 の両端には緑色に塗られた沙羅樹があるが、槌色もあり明確ではない。沙羅樹の上方 や余白部には様式化した未数蓮華が見られる。 仏陀の周囲には八人の人物が表され、そのうち五人が寝台の向う側に上半身を現す。 仏陀の枕辺に近い第一の人物はウパヴァ
l
ナ比丘で、赤い僧衣を着し、右手で払子を 持ち、仏陀の頭光にまで掲げている。守浬柴経﹄にはウパヴァl
ナが仏陀の前に立ち はだかったので、人々や神々が仏陀にまみえることができず、仏陀からたしなめられ たことが記されており、ガンダl
ラ以来の図像を継承したものであろう。ウパヴァl
ナに続いて四人の人物が見られるが、そのうち最初の三人はマッラ族の人々とみられ る。一番目の人物は右手を頭に当て、長い天衣を翻す。二番目の人物は両手を上げる。 三番目の人物は髪を垂れ下げていることから女性と見られ、彼女も両手を上げる。手 を頭に当てたり、両手を上げるのは悲しみの身振りで、そうした表現はロ!マ時代の 石相浮彫に見られるが、ガンダl
ラの浬繋図に取り入れられている。最後の人物はお 浬繋図(線図) パーミヤーンFc閥 そらく比丘で合掌作礼する。 画面の右端、側面向きに大きく表された赤い僧衣をまとう比丘は、脆いて仏陀の双 足に最後の礼拝をする長老大迦葉である。大迦葉の双足礼拝によって茶毘の火が燃え 上がったと経典は述べる。寝台の前で正面を向いて結蜘朕坐し、膜想にふける小さな 比丘は、最後の仏弟子となったスパドラで、赤い僧衣を頭まで覆っている。漢訳﹃浬 図5繋経 L ( 失訳本、法顕訳本)によれば、この最後の仏弟子は仏陀の入滅を見るに忍びず、滅尽定に入って亡くなった という。興味深いことに、スパドラは両一周より頭部にかけて数条の黄色の火焔を発している。このようなスパドラの 表現はガンダ
l
ラ浮彫には見られないが、法顕訳 q 大般浬繋経 ι ゃ玄柴吋大唐西域記﹄にははっきりとスパドラが 寸火界三昧﹂﹁火界定﹂に入って滅尽したと述べる。さらに﹃大智度論 L には、スパドラは﹁仏斗間にあって結蜘飲坐 し 、 自 ら 神 力 を も っ て 身 中 よ り 火 を 出 し 、 身 を 焼 い て 而 し て 滅 度 を 取 る ﹂ と 明 一 一 一 一 閃 す る 。 仏陀の枕辺には、精子に腰かけてうなだれる様子の人物がいる。髭を結い、手首に腕輪をつけ、足もとまで覆う赤 い裳を着した女性である。仏陀を除いてこの人物のみが頭光をつけ、椅子の背後に城塞文を表しており、この人物の 兎要性を物語っている。この女性はおそらく釈尊の入滅を知って初利天より下り、息子の死を悲しむ仏母摩耶夫人で あろう。ガンダ 1 ラ・インドの浬繋図には摩耶夫人の姿は見られず、ぷは繋経﹄にもほとんど・摩耶夫人の記述は見ら れないが(僅かに﹃長阿含経﹄寸遊行経 L に釈尊入滅の際、讃喫した神々の一人として摩耶夫人が言及される)、金崇 訳﹃摩詞摩耶経﹂と司大唐西域記﹄には摩耶夫人の悲嘆が記され川、敦焼陪代の第二九五溜や第二八O
窟の浬繋図には 枕辺の椅子に腰かけて嘆き悲しむ摩耶夫人の姿があ川、この壁画に近い(図日)。 この氏窟の浬繋図はガンダl
ラの図像伝統を引きながらも、それとは大きく異なる点もある。すなわち、枕辺で悲 スパドラの火界定の表現、大迦葉の双足礼拝などである。 しむ摩耶夫人の登場、( 2
)
幻窟の浬繋図 幻自刷は長方形プラン(幅二・五メートル×奥行四メートル)にヴォl
ルト天井をとる構造で、南壁に入口を開く。 天井には入口近くの円輪区画内に弥勅菩窓口薩が大きく描かれる。弥勤菩薩は豪華に飾られ、左手に水瓶を執る。この 弥勅菩薩を描く円輪に外接する形で、多くの円輪l
いずれもその内部に一体の中心の坐仏とそれを取りまく六体の坐 パ l ミヤ l ンの担架図(宮治) ' 七龍谷大学論集 図6 f'
、
宮治作│望! 浬鍛図(線図) パーミヤーンK3
胞 図7 仏とから成るl
が配置され、天井壁画はあたかも弥勅菩薩を中心とする受茶緩のような構成を示す(図6
)
。 この天井壁画に接して西側壁に浬繋図(七0
センチ×二ニ0
センチ)が表されている。この浬製図は現存するパ l ミ ヤl
ン浬繋図の中で最も商面が大きく、図像的にも多彩で興味深い白壁画は剥落が進むが、筆者の作成した図によって細部の図像がかなり判明した 画面の中央に横臥する釈尊は赤い大衣の輪郭が見分けられるにすぎない。寝台の手前には氏窟の作例と同様に、両 肩から火焔を発するスパドラが表され、その隣には髪をふり乱して金剛杵にもたれかかる執金剛神(ヴアジュラパ
l
ニ)がいる。向って左、仏陀の枕辺には二人の女性が見分けられる。一人はおそらく摩耶夫人と見られ、その後ろで 花盤を手にするのは侍女であろう。仏陀の足もとはほとんど全く剥落するが、おそらく大迦葉が仏足を礼拝していた のであろう。実際、大きな炎が仏陀の足もとから立ち上がっており、経典が大迦葉の接足礼拝の後にすぐに茶毘の火 が燃え上がったと述べることと合致する。画面の両端には、くねった枝ぶりを見せる沙羅の双樹があり、それぞれに 樹神の姿が見分けられ、向って左の樹神は天衣をつけて挽くが、右の樹神はほとんど剥落する。 横臥する釈尊を被う形の身光背の背後に総計二六人ほどの様々な人物、すなわち比丘、婆縦門、貴族、女性、神々 などが表されている。これらの人物はもはや小乗 q 記繋経 ι やそれと関係深いガンダl
ラの図像によって解釈するこ とはできない。釈尊の枕辺近くには比丘たちが場を占め、その背後には神々が集まっており、彼らは頭光をつけてい る。画面の向って右方には婆羅門や様々な世俗の人物が手を振り上げ、頭髪を扱きむしり、胸を叩き、身を投げ出し て、働突悲痛の身振りを示している。こうした哀悼の身振りはガンダl
ラの浬繋閣に導入されているが、パl
ミヤl
ンでは遥かに強調され、儀礼的な様子を示す。両手に花盤を捧げる女性や、襟のあるチュニックを着た男性、裸形の 婆羅門などの姿も見える。 興味深いことに、釈尊の身光背の内に王冠や理務などの装身具が散じられている。浬繋の場に集った王侯貴族たち が自らの装身具を仏陀に散じ供養したものであろう。こうした表現は﹃摩詞摩耶経﹄の﹁或有宛転子地、或有牽絶衣 服理路、或抜頭髪、槌胸大川町﹂という記述に近い。この経典は釈尊入滅に際しての仏母摩耶夫人の悲嘆を主題として おり、その点でもパl
ミヤl
ンの浬紫図と関係が深い。 ( 図7
)
。
パ l ミヤ l ン の 泥 繋 凶 ( 符 治 ) 九(
3
)
G
窟 、M
窟、厄窟、島窟の浬繋図 フランス隊によって発掘されたG
嵐は、一辺約四メートルの正方形プランに ドl
ム天井をとる石窟であるが、すでに大半が崩壊していた。報告書によれば、 石窟の中央にストゥl
パが設置されていて、その方形基砲の北聞に混繋図が描 かれていたが、横臥する釈尊の両足と大衣の下部、脆く俗形人物の膝と長靴、 立勢の二人の俗形人物の体躯と脚、さらに右端に一人の老僧の厳しい顔が見分 けられたにすぎない。この老僧は釈尊入滅の知らせを聞き、急ぎ駆けつけ仏足を礼拝した大迦葉に相違ない。この大 迦葉の顔のみ救出されたが、この浬繋図については残念ながら写真もなく、詳細は不明のまま消失してしまった。M
由刷は一辺が約二・三メートルの正方形プランで鼓胴状小壁の上に浅いドl
ム天井をとる石窟である。ドーム天井 龍谷大学論集。
宮治作図 画面の上方両隅に、円輪内に描かれた日神と月神の表象がある。向って左の 日神は馬車の上に上半身を現し、両側に侍者を従える。馬車は二頭立てらしい 馬に引かれ、欄楯形と二つの車輪で表されている。向って右の月神は二羽のハ ンサ(鴎鳥)と欄楯形で表された乗物の上に上半身を現し、やはり両側に侍者 を従える。この日神・月神の表現はM
腐の仏命の左右上方に表された日神(向 って右)・月怖(向って左)と比べられる(図8
)
。 後 述 の よ う に 、M
窟の浬繋 図の左右上方にも日神・月神の表象があったと推測されるこ部破損)。以上 のように、間窟の浬柴図はいくつもの興味深い図像を見せており、パl
ミ ヤl
ン浬繋図の代表例といえる。 日神と月判I(線図) パーミヤーンM創 図8の壁画は剥落が進むが、図像構成は見分けられる(図
9
)
。すなわち、中心に右手を施無印に結び、左手に水瓶を持 つ弥物菩薩坐像を描き、その周凶を蓮弁文様で取り閤む。その外側の円周に九体の坐像が取り巻くが、この部分は剥 務が著しい。以上がドl
ム天井の壁画で、さらに天井部外側の下回に蓮弁帯がめぐらされ、鼓胴状小壁に続き、そこ には計二二体の小坐仏と浬繋図が表される。 鼓胴状小壁の北側に描かれた浬繋図(三二センチ×一一五センチ) は簡素な図像で、右手を手枕にし、左手を体躯 パ l ミヤ l ン の 浬 繋 図 ( 宮 治 ) 宮治作位! に沿って伸ばす仏陀を中心に、足もとに脆坐して合掌 作礼する大迦葉、枕辺に坐す摩耶夫人と推定される頭 光をつけた女性を見分けることができる(図叩)。パl
ミヤl
ンの浬繋図では大迦葉と摩耶夫人が画而の両 端で一対となるように表されることが多く、両人物の 重要性を物語る。横臥する仏陀の背後には火焔の表象 があったらしいが明確ではない(ほとんど剥落)。画 天井壁画(線図) 一曲の左右の上方にはそれぞれ円盤が配され、 その中に ノfーミヤーンJ
d
胞 は人物像が描き込まれていた。向って右の円盤内は消 失しているが、左の円盤には二つの車輪と欄楯の背後 から、頭光をつけ、腕輪や冠帯をつけて、合掌作礼す る人物の上半身が見える。黄土の地に褐色の線描で描 かれたこの人物はおそらく日神で、左の円盤には月神 が表されていたと推測される。間窟の浬繋図と同様に、 図9龍谷大学論集 宮治作図 日神・月神を表したものに相違ない。
K
嵐も一辺約二メートルの正方形プランに、鼓胴状小壁をのせ、その上に浅 いド!ム天井をとる構造で、M
窟と似るが、鼓胴状小壁の四隅にスキンチア!チ をとるのが異なる。ド!ム天井の壁画は剥落が著しいが、おそらくM
窟と同様に 中心に菩薩像、その周囲に坐仏列を配する図像構成だったと推測される。 入口の上方に当たる、鼓胴状小壁の南側には、剥落著しい簡素な担架図がある (二五センチ×一一六センチ)。横臥する釈尊の頭部と枕、手枕にする右手およ び枕もとに坐す・摩耶夫人は見分けられる。摩耶夫人は頭光をつけ、頭の後ろに冠 帯を垂らし、濃紫色の上衣と裳をまとい、椅子に腰かげるか、あるいは敷物の上 に坐す様子である。仏陀の背後に数人の人物がいるようだが明確ではない。画面 の右半分はほとんど全く欠損する(足もとには大迦葉が描かれていたであろう)。 最後にb
臨の浬繋図を見ょう。島窟も一辺約三メートルの正方形プランで、四 階にスキンチアl
チをつけ、鼓胴状小壁をめぐらしてドl
ム天井を頂く構造であ る。ドーム天井には、中心に菩酸坐像が円輪内に大きく描かれ、その周りには同 心円状に四重に坐仏群が取り巻く(図日)。全面煤で夜われ細部はわからないが、 図像構成は把握できる。中心の菩薩は冠飾をつけた弥勅菩騰と推定され、その周 りは内より第一円周から第四円周まで、順次一七体、二二体、二六体、二八体の 小坐仏を配置する。これらの小坐仏はみな中心に頭を向けるが、姿勢や印相は 様 々 で あ る 。 浬繋図(線図) パーミヤーンJ
d
府 図10人物は最後の仏弟子スパドラである。釈尊の寝台の背 後には、激しい哀悼の身振りを示す人物がいく人か表 されていたようだ。釈尊の枕辺は大きく破損するが、 パ
l
ミヤl
ンの他の作例から推して、この部分に摩耶夫人が表されていたと思われる。 パl
ミヤl
ンに残る担般市図を逐一観察し、その図像を確認した。次にパl
ミヤl
ン 浬 般 市 図 を ガ ン ダl
ラや他 laa'A 、 い L の I ﹂ の中央アジア・敦燈などの浬繋図と比較しつつ、 宮治作図 ドーム天井と側壁との移行部に当たる鼓胴状小壁に も小仏陀像を並べるが、ここでは仏立像で光背の間か ら脇侍が上半身を現す。北壁部には冠飾をつけ、一屑掛 けをまとった飾られた仏陀が一体見られる。浬繋図 ( 四0
センチ×一二0
センチ)は鼓胴状小壁の南壁、 入口の上に描かれている。剥落や槌色が進むが、頭光 をつけ、右手を頭に当てて横臥する釈尊の姿が認めら れる。釈尊の足もとに脆いて、礼拝しているのは大迦 葉に相違ない。釈尊の頭の下方に小さく描かれた人物 は頭部が残るのみであるが、赤褐色の僧衣を頭から覆 っており、その周聞に僅かに火焔の表象がある。この 天井壁画(線図) パーミヤーンEe窟 関11 その特徴を明らかにしよう。 パ l ミ ヤ l ン の 担 般 市 岡 ( 宮 治 )龍谷大学論集 四
一
一
.
パl
ミヤl
ン浬紫図の特徴
パl
ミヤl
ンの浬繋図の図像的特徴を整理すると、(
1
)
スパドラの火界定、(
2
)
大迦葉の仏足礼拝、(
3
)
摩耶夫人 の 悲 嘆 、(
4
)
人々の激しい哀悼の身振り、(
5
)
日神と月神の表象、(
6
)
浬繋図と弥勅菩薩の組合せ、以上の点が挙げ られる。すでに述べたように、中央アジアの浬繋図の図像的源流はガンダl
ラにある。パl
ミヤi
ンの浬柴図もガン ダl
ラの図像伝統を継承するが、一方で大きな変容と展開を見せる。ガンダl
ラの浬繋図の特徴は﹃浬繋経﹄と密接 に関係する説話的な要素が著しい点にあり、その説話的な要素の一部をパl
ミヤl
ンの浬繋図は受け継ぐが、同時に 新しい要素も加わり、仏伝美術とは呉なる発展を遂げる。(
1
)
托鉢遊行者スパドラが最後の仏弟子となり、釈尊入滅前に滅尽定に入ったというエピソードはガンダl
ラ の 浬繋図にも決って表されるが、パl
ミヤl
ンの浬繋図ではスパドラが両肩から火焔を発して、火界定に入ったことを 表す。中央アジアの仏教美術では焔肩仏や僧の禅定による焔肩の表現が好まれ、スパドラの火界定もそうした表現と 関係するに相違ない。それと同時に、火を発するスパドラの表現は釈尊の入滅に続く茶毘を連想させ、次に述べる大 迦葉の仏足礼拝の表現と相まって、﹁釈尊の完全なる消滅﹂を示す図像となっている。(
2
)
長老大迦葉が釈尊の足もとで礼拝する表現もガンダ!ラの浬繋図に稀に見られるが、パl
ミヤl
ン の 浬 般 市 図 では決って大迦葉が脆いて仏陀の双足を合掌礼拝する。﹃浬繋経﹄によれば茶毘の火がなかなかっかなかったが、大 迦葉の仏足礼拝によってようやく火が燃え上がったという。パl
ミヤl
ンの浬繋図はこのことを明確に表すもので、 この大迦葉の図像によっていわば﹁釈尊の入滅 L が完結するのである。大迦葉は釈尊入滅後、第一結集を主導して釈 尊の衣鉢を継ぐ位置を占めh
o
さらに﹃弥物下生経﹄では大迦葉は釈尊の遣法を守り、弥物の下生まで入滅せずに山 中で入定しているというエピソードが記さ如、大迦葉は釈尊と弥勅を繋ぐ役割をもつようになる。パl
ミヤl
ンでは天井の中心部に弥制菩院が拙かれ、人口上部や側慣に飢禦図が拙かれており、大迦焦が釈洲市入滅の際に
p m
要伝役割を 果たすと同時に、弥肋への橋渡しの役を荷っていることを物語る。なお、クチャのキジル山間にいねいてら廻廊の山民間以 に拙かれる浬提図には決って大迦誕の仏起礼拝が表され(横臥する釈尊の体制桝から茶民の火が燃え上がるてそれと 呼応する形で人nk
部の半円形区州に、兜本天で神々に説法する弥制ω
菩置が災される。 パ l ミヤ l ン の 氾 崎 県 国 ( 日 治 H本・例人滋 パl
ミヤl
ンの山内鍛同では樹臥する釈尊の足もとに脆く大迦 集と呼応する形で、枕辺では附耶夫人がうなどれる姿で表される。ガ(
3
)
:~~.j世紀 ン ダi
ラには釈尊の枕辺で思案する悌子の女性像を表した担架浮彫が 一例のみ知られる(阿山、 円 本個人船)。この女性保は椅子に腰かけ る様子で、左手を頼に当てて考えるポーズをとり、興味深いことに頭 上に域事冠をつけ、両一向にも城塞文を表している。この女性像は岡像 的に見て、ー出城﹂の場耐にけんられる町のタ神(
-g
E
E
円 一2
・ 包 剖 ) と 同 類の女神と推測される。﹁引山部経﹂には町の女神に関する直接の 九 日 及 は会いが、党本や泌訳出山本 1 仰は般市経れには向故クシナガラのようタ辺 ガンダーラ ì'l\徴 1'~I i1彫 郎な地で亡くなるのかとい・フ 附 雌の山いに答え、釈時はこの地がかつ て大舟見という転輪明王の出城(一g
m
M
S
E
として栄えたのだと述べ む ている(パl
リ本ではこの部分は独ーした経典となっている)。この 女性仰はこうしたエピソードを背景にしたクシナガラ ( ク サl
ヴァテ ('~1I 2 ィ1
)
の町の交神ではなかろうか。0
・M
・ スリニヴァサンはこの女 f.i化 相 什 大 伊 高 架 一‘ー / 、 図13
ω
性像を摩耶夫人とみるが、担擦問への雌耶夫人の査場は ﹁ 山 中 澗 巾耶続 ﹄ の成立から見ても五1
六 世 一 紀 以 降 で あ ろ う 。 これに対し、パl
ミヤl
ンの混舵図で釈収の枕辺に決って表 ぶ れ る の は 、 仏 川 円 山 仲 間 叩 夫 人 と 見 ら れ る 。 竹 山 内 川 の 出 蛤 凶 ( 凶5
)
に表された女性像は椅子に腰かけ、椅子の背後に城法文風の装 飾があり、ガ ン ダ ! ラの 川 の 女 神 品 川 と 何 らかの燃がりがあるの かもしれない 。しかし、パl
ミ ヤl
ンの浪部 凶は敦組附代の担 擦問との結びつきゃ q 作詞惇耶経 ι との関係がうかがえること から考えて、パl
ミヤ1
ンの迎鍛阿に現れる女性像は昨耶夫人 で あ ろ う 。 ﹃ 浬繋経 ﹄ にはほとんど ・ 躍耶夫人に閲する一言及はな いが、的対訳 J 叫 伸 一 訓 ・ 陪 耶 経 L には仏舟陪 耶が仰利夫より下り、 釈m
-の入減を悲しむや、仏陀は棺より身を起こし母に説法した 何 U ことが説かれる。ソ時調作耶絞れは・中・州選述(同七八
l
五OO
白 何十凶)のいわゆる偽経とされるが、的祐 司 釈迦譜 L ( 四八O
ー 四 五一八年間)や宮山司経律奥州 L { 五 一 六年﹀にもこの経典は 引 川 されており、ムハ附い紀初めには広く知られていたことがわかω
る。美術作品の上でも南特堂山石間第 5 溜の浮彫(六世紀後 市r )
や、敦位見山川町州第二九五仰や川第 二 八o
m
(
いずれも附 代)の迎繋図に、大迦葉 の仏 足礼拝と呼応する形で摩耶夫人が表されている(図日)ロパ
l
ミヤl
ンの担架図はこうした中国の作例と近い関係にあり、むしろ中国からの影響を考 えるべきであろう。唐代の則天期以降必なると、摩耶夫人の図像はさらに発展し、釈尊が棺より起き上がって母に再 生説法をする場開が拙かれるようになも。 パl
ミヤl
ン幻腐の浬繋図に見られるように、釈尊入滅の際に、人々が髪を引張ったり、頭や胸を叩いたり、 身を投げ出したりする激しい哀悼の身振りが示される。 こうした哀悼の身振りは敦僅陥代の浬繋図にも見られ、 スパドラの火界定や大迦葉の接足礼拝、摩耶夫人の悲嘆 の図像とともに、パ l ミヤi
ンと敦埠照代の浬繋図の聞 に繋がりがあったことがうかがえる。また、経典の上で は摩耶夫人の悲嘆を述べる吋摩詞摩耶経﹄が、﹁ある者 は衣服や硬路を引きちぎり、ある者は頭髪を引き抜き、ω
また胸を叩いて大叫す﹂と人々の激しい哀悼の様子を記 すことと関係する。 ( 4 )ほ
哀悼する人々(線岡、A.Grlinwedelに よ る ) キ ジ ル 第2
2
4
窮茶昆図壁画 図14 パ 1 ミ ヤ l ン の 浬 般 市 図 ( 宮 治 ) パl
リ本﹃浬繋経 L では釈尊入滅の際、何人かの僧は コ向手をつき出して泣き、砕かれた岩のように打ち倒れ、 聞 のたうち廻りころがった﹂とあるが、特に白法祖訳﹃仏 般泥一泊経﹄では釈尊入滅を知って、人々は﹁頭を叩き、 頬を打ち、胸を打ち、顔をけずり、髪を抜き、衣を裂き、 地に倒れ、泣き悲しんお﹂とある。白法祖はクチャ出身 ー 七龍谷大学論集 葬礼場面(線図、 G.Frumkinに よ る ) トク・カラ出土 納骨器絵画 J¥ の訳経僧と考えられ、葬礼における激しい哀悼の習俗が中央 アジアで実際に行われ、﹃仏般泥一湿経﹄の訳出の際に取り入 れられたことが考えられる。 キジル第二二四窟(第三区摩耶窟)には方柱の背後を巡る 廻廊の奥壁に塑造の浬繋像が設置され(消失)、それと向い 倒 合う方柱の後壁には茶毘図が描かれていた(ドイツ隊によっ て切り取られ、第二次大戦の空襲で消失)。茶見図の画面に は、下方で釈尊の棺が燃え上がる様子、上方では欄干の背後 で哀悼する人々と飛天の讃嘆が描かれる(図
M
)
。哀悼する 人々は十一人の男女で、中央アジアの服装をした貴人、裸形 の人物、華やかな装身具をつけた女性などがいて、彼らの激 闘 しい働央悲涙の身振りが注目される。すなわち、手を頭や胸 に当てて叩いたり、腕を高く挙げたり、あるいは髪を引張って働突する。こうした身振りはパl
ミ ヤl
ン即窟のそれ に近い。さらにキジル壁画には刀で顔や胸を傷つける特異な哀悼の身振りも見られる。 守洛陽伽藍記﹄所収の﹁宋雲行記﹂にも、干岡国(ホl
タン)で﹁喪に服する者は髪を切り、顔を傷つけ、哀しみω
を表す﹂とある。こうした葬礼における儀礼的な哀悼の風習は、もともと北方ユーラシアの遊牧民族に行われたもの m w で、古く旬奴やスキタイなどがこの習俗をもっていたことが知られている。考古資料の上でもホレズムやソグディア ナ出土の納骨器(オッスアリ)に描かれた絵画には、しばしば寝台に横たわる死者を取り巻いて、服喪者が胸を叩い 叩 たり、手を頭に当てたり、髪を引き抜く仕草が見られる(図日)また、ペンジケント第二社出土の﹁スィヤl
ウ シ ュ 図15以 上 の よ う に 、 伝説﹂を表すといわれる壁画には、万で顔に傷つけたり、耳を切り落としたりする哀悼の人物表現があ何(図日)。 パ
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ミヤl
ンの浬紫図(邸窟)に見られる激しい哀悼の身振りは、中央アジアで行われた葬送儀礼 キジル石窟や敦燈石窟の浬繋閣や茶毘図にもそれが受容されており、パl
ミヤl
ン浬繋図 を色濃く反映するもので、 パ 1 ミヤ 1 ン の 浬 般 市 凶 ( 宮 治 ) 哀悼の図(線図、 G.Azarpayによる)ぺンジケント第二 社出土壁画 図16 との関係がうかがえる。 パl
ミヤi
ン の 混 般 市 図 に は 邸 窟 やM
胞に見られるよう に、画面の左右上方に日神と月神の表現がある。いずれも円盤 形をとり、日神は馬車に、月神はハンサに乗る形で、欄楯文様 の背後から上半身を現す。この日神と月神の表現はパl
ミヤl
ンM
窟北壁の小仏禽の左右上方に表された日神・月神とよく似 ており、特に欄楯文様が表されるのは特徴的で他に類例を見な い(図 8 ) 。日神と月神をセットにして表す例はインドでグプ タ朝以降ヒンドゥl
教美術に見られる向、作例は少なく、ハン サ に 引 か れ る 月 神 の 作 例 も 未 詳 で あ る 。 中 世 期 に は 九 曜( S
︿ 何 回 開E
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)
中 に 日 月 が 表 現 さ れ る 例 は 多 い が 、 日 曜 ( ωロ ミ
ω ) は馬に引かれるものの、月曜( n
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号
ω ) の 図 像 は 一 定せず、ハンサに引かれる例を筆者は知らない。しかし、ハン サは月と関係が深いので、ハンサに引かれる月神の図像はイン ド起源と考えられ、実際、日本の胎蔵量茶羅の最外院の月天は ハンサに乗るロただ、インドの作例から見ると、プラフマl
が(
5
)
九能 穴 H 大 学 論 集 凶で市くからの伝統があり、 i 111: ホレズム出土 ナナ -~~ll を表す銀血 紀 大 及 川 物 館 ド!li
。
ハンサに来って表されることが多い。 一方、太陽を円盤、月を三円片に表して、 日月をセット として表現する例は凶 アジアで半くから造形化され、その 図像伝統は中央アジアに及ぶ。とりわけホレズム出土の銀 製碗やペンジケントの壁画に見られる阿骨のナナl
女 神 は 、 僧 上に掲げる二本の手にそれぞれ日付を持って表される( 一 凶 日 ) 。 中 国でも円月をセッ トにし て表す例は漢代以降数多 太陽は鳥、月は蛙を円内に表すのが一般的)。仏教美 術においても阿修艇は円円を持ち、 ホl
タ ン 山 十 一 の い 胤 遮 那 仏は胸の上方にけ月をつける。 キジル石間壁阿にけ凡られる 釘弥山凶や天井中軸加に表される天袋凶にもけ川が両端に 表 さ れ る 。 このように太陽と円をセットにする表現は阿アジアや中 その交流のもとで中央アジアの凶倣が形成主れたのであろう。 それにして パl
ミ ヤl
ンに比 られる馬に引かれる太陽神とハンサに引かれる月仰の削除そのものは インド伝来のものと考えられる。 ち山山機関に日パを表現するのはインドはもとより、他に例会日凡ない。日日をセットにする火山は世界聞や下山知と開 く関わっており、パl
ミヤl
ンの出繋凶が巾に釈却の入減という仏伝のエピソードを立凶するものではなく、いわば ﹁ 釈迦世界の消滅﹂を象徴し、来るべき新しい院界を附示する役訓告もっているのではなかろうか。このことは次に 述べる弥助拝院との組行せの問題と関わっている。(
6
)
パl
ミヤl
ンの浬柴図はすでに見たように、ドーム天井やヴォl
ルト天井の中央に描かれた弥劫菩薩と組合 されている点に大きな特徴がある。また、弥勅菩薩を取り巻く形で多くの小仏陀を描き、千仏で埋め尽くす。すなわ ち 、 パl
ミヤl
ンでは天井中央に弥勤菩薩、その周囲の天井壁面に千仏、側壁上部に浬繋図を描く図像構成が特徴的 である。その意味するところを経典の上から探ってみよう。 浬繋について説く経典類の中で、仏法の滅尽を説く経典類がある。那連提耶舎訳﹃大悲経﹄(大正ぬ測)、曇無識訳 守大方等夢想経﹄(大正ぬ桁)、母景訳守摩詞摩耶経﹄(大正、ぬ紛)、那連提耶舎訳﹃蓮華面経﹄(大正ぬ湖)などで、 そこでは釈尊の入滅が単なる仏伝説話ではなく、末世の堕落と仏法滅尽の危機的意識が明瞭となり、しばしば仏滅後 の仏法の付嘱や、将来仏たる弥紡に対する信仰が説かれる。﹃摩詞摩耶経 L が パl
ミヤl
ン浬般市図と関係深いことは すでに述べたが、那連提耶舎訳吋大悲経﹄はパl
ミヤl
ンの図像構成を考える上で重要である。釈尊が入滅する際、 党天・帝釈天・比丘たちの悲しみに対して釈尊が種々説法し、同時に弥紡の出世に出会うよう励まし、また大迦葉が ゆ 入滅する時哲願を発して﹁我身衣不変不壊﹂のまま弥紡にまみえることが説かれず制。 さらに守大悲経 L は釈尊入滅後、賢劫の九百九十六仏が出現することを述べ、拘留孫から釈迦までの四仏はすでに 出世し、次に弥勅が補処となり、慮遮如来(︿包g
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何回目三色町釦)が最後となることを説く。寸この賢劫において弥 勅は首となし﹂、賢効千仏が続くのである。パl
ミヤl
ン石窟の天頂に弥勅菩薩を描き、その周囲を千仏で埋め、担 架図を表すのも、釈尊滅後の弥勅と賢劫千仏に対する信仰を表したものといえよう。ここでは浬繋図は釈尊の目指し た﹁浬繋 L を示すのではなく、寸釈尊の滅 L を強調し、弥勅菩薩への信仰を高める役割を果たしているのである。 劉宋・温渠京声訳﹃観弥勅菩薩上生兜率天経﹄には、﹁仏滅度の後に、兜率天に生まれ、弥勅に値遇し、また弥勅 とともに下生し、未来世において賢劫の一切諸仏に値遇し、諸仏の前で菩提の記を受く﹂と記され&。パl
ミヤl
ン の嗣堂窟の中に入って、天頂の弥物菩薩とその周囲にびっしりと描かれた千体仏、そして浬繋図を見ると、釈迦滅後 パ l ミヤ l ン の 出 繋 図 ( ん 丹 治 )龍谷大学論集 の今や、兜率天の弥勅のもとに生まれ、また弥勅とともに下生し、千仏に出会って解脱に導かれんことを願った表現 であることが実感される。 む す
ぴ
最後に、パl
ミ ヤl
ン壁画の年代について簡単に述べておこう。パーミヤl
ン石窟に残る壁画や塑造の年代に関し、 かつて筆者は装飾モティl
ブを取り上げて考察しh
o
すなわち、壁画装飾については花綱文様、花文様、虎皮・豹皮 文様、建築モティl
フなど、塑造装飾については人面・鬼面、唐草文様、光背文様などを、インドや中央アジアの諸 例と比較検討した結果、筆者はパl
ミ ヤl
ン石窟の壁画装飾は紀元六i
八世紀に制作されたと推定した。 ところで、パl
ミ ヤl
ンの二大仏の破壊後、両大仏の漆喰中に含まれるスサや縄、木杭の一部が採取され、放射 性炭素による測定がドイツと日本で行われ加。それぞれの測定結果は若干の違いはあるが、総合的に判断すれば、東 大仏は六世紀中葉1
後半頃、西大仏は六世紀末i
七世紀初め頃の制作と推定され、それぞれの仏命の天井に描かれた 壁画もほぽ同時代のものと考えられる。 一 方 、 パl
ミ ヤl
ンの石窟に関しては、二大仏が破壊された後、壁画の保存修復を担当した東京国立文化財研究所 によって、壁画の残存する石窟の下塗り層からスサが採取され、名古屋大学年代測定総合研究センターによって放射 性炭素年代測定が行われた。それによれば壁画装飾窟は五世紀から九世紀にわたる。筆者の装飾モティl
フの検討結 果とほぽ一致するが、パl
ミヤ!ン美術の始まりと終穏に関してはさらに検討を加える必要があ旬。 三OO
年以上にわたるパl
ミ ヤl
ンの壁画制作が、他の諸地域とどのような関係をもちつつ、図像的および様式的 な変遷と展開を遂げたか、その具体的な様相については多くが今後の課題として残されている。本稿で取り上げた担 架図に関しても、浬繋図のある石窟の多くについて放射性炭素年代測定が行われた。しかし、それらの年代には相当の誤差の幅があり、また本稿の図像学的考察によって推定されるパ
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ミヤl
ン浬繋図の展開と必ずしも一致しない部 分がある。パl
ミヤl
ン壁画の詳しい年代論については今後に期することとしたい。 註 川本稿は﹁中央アジア浬繋図の図像学的考察│哀悼の身振りと女神信仰の影│﹂(拙著吋浬繋と弥勅の図像学 l インドか ら中央アジアへl
L
所収、吉川弘文館、一九九二年)と一部重複するところがあるが、本稿ではその後の研究を踏まえ、 パ l ミ ヤ l ンの浬繋図に絞って考察を行った。ω
拙稿寸インドにおける浬繋美術の変選 L 拙著﹃浬繋と弥勅の図像学﹄所収。ω
﹀ ・ 可 。 z n z o ﹃ ・ ト 町 、 J t hミ ミ ・ ぎ N h h h h S 々 、 R h b h h a M N 込 見 送 -↓ 。 ョ 。 ア 司 凶 ﹁ 2 ・58
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印 吋 ω ・ 拙 稿 1 ガ ン ダ l ラの逆襲図の読 解 L 拙著吋浬繋と弥肋の図像学﹄所収。ω
京都大学隊編号、第η
組。樋口隆康編﹃パ l ミ ヤ 1 ン﹄(京都大学中央アジア学術報告)、第 I 巻 、2
・戸第川巻、七六 ー七八頁、同朋舎出版、一九八三│八四年。ω
大正蔵 1 巻、一八七頁下l
一八八頁上。大正蔵 1 巻 、 二O
四 頁 中 。ω
大正蔵 1 巻 、 二O
四頁中、大正蔵日巻、九O
四 頁 上 。m w
大正蔵お巻、八一頁上。ω
大正蔵 1 巻 、 二 七 頁 上 。ω
大 正 蔵 ロ 巻 、 一O
一 二 頁 上 l 一O
一三頁上。大正蔵日巻、九O
四 貰 上 中 。ω
ー中国石窟敦焼英尚間二﹄平凡社、一九八O
年 、 図 版 位 、 山 。ω
京都大学隊編号、第三三O
席。樋口隆康編、第 I 巻 、2
・8
・ 第m
巻 、 九 九 ー 一O
一 頁 。ω
大 正 蔵 ロ 巻 、 一O
一 二 頁 上 。ω
樋口隆康編、第山窟、第 I 巻 、2
・戸第m
巻 、 七 九 頁 。ω
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・ MF ︿ロ・樋口隆康編、第日窟。第凹巻、七四 l 七 六 頁 、 参 照 。 パーミヤ l ン の 湿 般 市 岡 ( 宮 治 )龍谷大学論集 二 四
ω
樋口隆康編、第湖窟、第 I 巻 、 HV 戸 吋 0 ・ 第 凹 巻 、 一O
二 ー 一O
三 頁 。ω
樋口隆康編、第揃窟、第 I 巻、宝ω
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・ 第m
巻 、 一O
一 ー 一O
二 頁 om
樋口隆康編、第m
腐、第 I 巻、ヨ ω ・ 勾l g
・ 第m
巻、九六l
九 七 頁 。 仙川義浄訳﹃根本説一切有部見奈耶雑事﹄(大正蔵 M 巻、四O
二頁以下)ω
大正蔵 M 巻、四二五頁、岡、四三三頁。 側拙著﹃浬蝶と弥物の図像学ヘ五一二l
五 一 七 頁 、 参 照 。ω
一 柴 田 功 吋 ガ ン ダ ! ラ 美 術H
仏伝﹄ニ玄社、一九八八年(改訂増補版、ニOO
三 年 ) 、 司 十 回ω
中村元吋遊行経﹄下、大蔵出版、一九八四年、五四三│六O
八 頁 、 参 照 。ω
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大正蔵印巻、七三頁中│七四頁上。ω
大正蔵日巻、一九頁上中。 仰ω
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一 二 頁 上 。 側中村元訳﹃プッダ最後の旅﹄岩波文庫、二ハ一頁。ω
大正蔵 1 巻 、 一 七 一 頁 中 。ω
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大正蔵日巻、一O
一 九 頁 上 。ω
江上波夫﹁ユウラシア北方民族の葬礼における筋商、被耳、現髪について L 守ユウラシア北方文化の研究﹄山川出版、 一九五一年、一四四l
一五七頁。谷憲﹁内陸アジアの傷身行為に関する一試論﹂﹃史学雑誌﹄第九三編第六号、一九八四年、四一l五七頁。 側 の ・ ︻ り ﹁
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立 ω ・ご l 芯 ・ 川 W 1 シルクロードの遺宝l古代・中世の東西文化交流lh東京国立博物館・日本経済新聞社、一九八五年、図制。悶辺勝 美二削川耕作編﹃世界美術全集東洋編日中央アジア L 小学館、一九九九年、挿図凶。 側大正蔵ロ巻、九五三一員中。 川大正蔵ロ巻、九五八頁上。 倒 大 正 蔵 U 巻、四二O
頁 上 。ω
拙稿﹁パlミヤlンの塑造唐草文﹂﹃展望アジアの考古学樋口隆康教授退官記念論集 L 新潮社、一九八一二年。同﹁壁 両および削笥辺の装飾美術に関する比較考察﹂樋口隆康編吋パlミヤlン L 第 山 巻 、 所 収 。 川マイケル・ペツェット﹁イコモスによる大仏の破片の保存について﹂吋パlミヤ!ン迫跡の阪史と保存 ι 独立行政法人 文化財研究所国際文化財保存修復センター編、明石書底、三OO
六年。中村俊夫寸パlミヤンの石間壁画と 2 大仏の放射 性炭素年代測定の研究﹂﹃ガンダlラ美術とパlミヤン遺跡展﹄静岡県立美術館・静岡新聞社、三OO
七 │ 八 年 。ω
中村俊夫寸パlミヤ 1 ン遺跡の仏教壁画に関連するスサおよび木材の﹀玄ωによる放射性炭素年代測定﹂守パlミヤ│ ン仏教壁画の編年﹄独立行政法人文化財研究所国際文化財保存修復センター編、明石書底、二OO
六 年 。 川柳拙稿寸パlミヤlンの美術史研究と放射性炭素年代し前掲 1 パlミヤ 1 ン仏教壁画の編年 L 所収。同﹁パlミヤlンの 仏教美術研究│年代論を中心に、研究と現状│﹂叶龍谷史・制 L 第一二八号、二OO
八 年 、 参 照 。 図版出典(以下のもの以外は筆者の作図、撮影) 図 1 肥塚隆・宮治昭編﹃世界美術大全集東洋編日インド ( 1 ) ﹄ 小 学 館 一 九 九 九 年 刊 、 図 山 図 2 樋口隆康監修﹃パキスタン・ガンダlラ美術展図録﹄日本放送協会一九八四年刊、図V│8 図ロ栗田功﹃ガンダlラ美術 I 改 訂 増 補 版 仏 伝 ﹄ 二 玄 社 二OO
三年刊E l
-図 日 敦 燈 研 究 院 編 司 敦 娘 壁 書 上 中 園 美 術 全 集 給 査 編 M L 上海人民美術出版社 一 九 八 五 年 刊 、 図一六九 パ l ミヤ l ン の 出 般 市 凶 ( 日 治 ) 二 五謹箱根幹緩域 図ヱ A.Grunwedel , Altbuddhustis c/ ze Kultstatten in Ch 初出 isch-T ll1 'l lI stan , Berlin. 1912 , fig. 415 国出 G. Frumkin , A 何 haeology in Soviet Central Asia , Leiden-Koln , 1970 , fig.24