Title
廿蔗の経営経済的研究(1)
Author(s)
池原, 真一
Citation
琉球大学農家政工学部学術報告 = The science bulletin of
the Division of Agriculture, Home Economics & Engineering,
University of the Ryukyus(9): 251-270
Issue Date
1962-12-01
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12000/23127
廿蕨の経営経済的研究(1)
池原真一* Shin-ichilKEHARA:StudiesonFarmeconomy ofSugar-caneCropping(1). Iはしがき 沖縄における廿蕨の栽培はその歴史が古く有史以前にぞ<するものといわれている。廿蕨が生食もし くは薬用から転じて製糖に利用されるや,砂糖は旧藩時代においてはさつま藩への貢租米の代納として 重視され,又琉球王庁は砂糖の買上制を実施してその利潤によって王庁の財政をまかなっていた。一方 農家の側では現金収入源として或は日用品や農業用資材との交換物資として重要な産物であった。 廃藩置県後廿蕨はもっぱら農家経済における現金収入源として,又その製品たる砂糖は貿易上沖縄経 済の発展に大きな役割を果してきたが,今後ともその重要性にかわりはないものと思う。 この研究は,沖縄経済もしくは沖縄農業に不可欠な作物である廿藤が,経営経済上如何なる効果があ るか,即ち収益性,土地利用上および畜産振興の将来に如何なる効果をもたらすかを究明するとともに, 貿易自由化に対処して薦作経営をどのように合理化していくかということについて調査するのが目的で ある。従来廿蕨の栽培技術や製糖技術についての実験や研究は試験場或は製糖エ場において実施され, その成績に見るべきものが多いが,その経営面からの研究は非常に少なく,むしろ皆無に近い状態であ る。そこで筆者は廿蕨作を経営経済の面から究明したいと思い,その順序として最初に廿蕨作の歴史的 発展過程からはいり,次いで経営経済面から追求したいと思っている。 本稿を草するに当り,御指導御助言を賜った文化財保護委員の多和田真淳氏および資料の点で御高配 を賜った琉球糖業社の宮城社長,琉球農業試験場の新垣技官に対し深甚の謝意を表する。 Ⅲ廿鳶の伝来 1.廿蕨の原産地 廿蕨の原産地を決定するためにはその種類を考察し,廿騰の植物地理学的論きう或は廿蕨の言語的考 察および歴史的考証によって行われている。 廿蕨の栽培起源は地理学者カール,リッテルによれば,野生状態においてエヂプトに存在する一種の 廿蕨を除きすべて印度に生育しているといっている。又仙の学者も廿藤はアメリカやアフリカより開花 が多いことならびにガンジス河岸ではそれが種子を生ずることから印度の原産を主張している。 砂糖のサンスクリット名はSarkara(甘き粒の意)もしくはSakkaraと称せられ,古代ギリシャを もって始まるアリアン起源のヨーロッパ語における名称は明らかにこれに由来し,熱帯又は亜熱帯が廿 蘇の原産地であることが言語的に決定され,それが更に局限されてインドであることが決定づけられる。 西歴紀元前327年の頃アレキサンダー大王の従者が廿藤を発見し「蜜蜂を要せずして蜜がとれる芦」 が生育していると伝えている。又ギリシャの医者は紀元前数世紀頃砂糖について述べている。リップマ ンによれば,ガンジス河およびインダス河の低地に繁茂せる廿蕨の廿き液汁を煮沸して固形の砂糖を製 *琉球大学農家政工学部農学科252 池原真 造せることは紀元前100~200年頃であるという。このように廿蕨の原産地は植物地理学,言語学,お よび歴史学的考証によって印度のガンジス河流域と決定され,広く一般からみとめられる所となってい る。この廿蕨がベンガル地域から移され,それが世界各地に伝播発展したもののようである。廿蕨がま だまだ原産地にとどまっていた時代は,廿薦をそしゃくして食用に供するにすぎなかったが,その後廿 蕨から搾汁してそれを固結せしめて原始的砂糖を製造したのが6~7世紀頃だと言われている。 沖縄への廿蕨の伝来ともっとも深い関係にあるのが支那の廿蕨である。支那にはいつ頃導入され且つ 製糖にうつされたかについては,古代支那の文献を調査する必要がある。紀元前200年頃の詩人司馬相 如が廿蕨をはじめて取上げた。紀元4世紀頃発行された「南方木帖」にも廿藤の記述がある。紀元286 年にガンジス河の彼岸にあって同じく印度内にあるフナン王国の貢納として廿藤を支那に送っている。 唐の大宗(627~650年)は人をモコトにつかわして砂糖製造の技術を習得せしめたと言われている。支 那では紀元前2~3世紀頃廿蕨が導入され7世紀頃にようやく製糖が開始されたようである。 唐時代に導入された廿蒔は温暖地域の揚子江以南の地方に盛んに栽培され,明朝の時代になると糖業 の中心は福建省にうつり,一層糖業は盛んになったといわれている。 2.沖縄への廿蕨の伝来 沖縄においては有史以前(沖縄の)から廿蕨が作られていたが,その製糖法を知らず,ただ生食もし くは薬用として利用されていた程度であったようである。その廿蕨がどこから,誰が,いつ,どこに持 って来たかということについては伝説や記録等に見当らず,又それについて研究したけい跡もないよう である。 古記録によれば,製糖法渡来(1623年)から250年前即ち1369年最初に支那との交通が開始され たといわれている。琉球の五偉人によれば「中山王察度は明主朱元璋の来諭に従って1369年はじめて 支那に通じ臣と称し,1373年頃から盛んに制度や文物を輸入し,島民の生活を豊かにした」ということ である。その当時支那の糖業は隆盛をきわめていたので,廿蕨や砂糖も文物制度とともに輸入されたと いうことも考えられるが,それが記録に残っていないことからして,正式な廿蘇の導入はおそらく製糖 法渡来と同時期ではなかったかと思う。それ以前の廿蕨は密航者によってひそかに導入されたものであ ろう。
貿易開始から165年を経過した天文3年(1534年)沖縄に渡航した明の冊封使陳侃の使録にも廿蕨
を生食し,製糖に利用されていない旨の記録がある。その後1世紀近くを経過してようやく製糖法の渡
来をみたのである。 支那との貿易開始後は沖縄から支那への渡航者は相当数にのぼったことと,思われるが,1623年の製糖法渡来までは250年もなろうというのに,その間において製糖法が伝来しなかったというのは,これら
渡航者が農業に対する関心がうすかったことによるものであろう。 ⅢI甘薦作発展の歴史廿蕨は旧藩時代の製糖法渡来から今日に至るまで沖縄経済の発展に大きな役割を果してきたが,今後
も沖縄農業の進展が廿蕨作への依存度は高く,換金作物の大宗としての地位はゆるぎないものと思う。
次に廿蕨の導入後製糖法の渡来,農政,品種の変遷或は糖価の変遷が廿蕨の作付面積や産糖量に如何な
るえいきょうをおよぼしたかについて述べよう。 1.廿蕨の伝来から製糖法の渡来まで廿蕨が最初に沖縄に導入されて以来,さつま藩の統治下に服した1609年までの廿蕨の栽培はきわめ
て粗放で栽培というよりはむしろ珍らしがって屋敷内の空地を利用して作っていた程度ではなかったろ
うか。さつま藩の統治後製糖法が渡来した1623年に至る14年間も栽培上さしたる変化なく,その利用甘薦の経営経済的研究(1) 253 は旧盆のお供用として,又生食或はこれから搾汁して煮つめ薬用として利用する程度であったものと,思 う。さつま藩も廿蕨に対して特別な政策もなく,又それまで手を伸ばすことは出来ず,製糖法の伝来ま では廿蕨の栽培は遅々として進まなかったというのが実鯲清であったように思う。 2.製糖法の渡来から廿蕨の作付制限まで 察度王の時代支那との貿易が開始されてから製糖法の渡来までは250年以上になる。この間沖縄から の使節や貿易商が支那における糖業をまのあたり見聞したことと,思われるが,儀間真常氏以前に製糖法 が伝来しなかったのは,これら使節,貿易商或は留学生が農業に対する関心がなかったものと思われる。 同じ国内の大島では沖縄に製糖法が渡来する13年も前即ち慶長10年(1610年)に直川智氏がトラ ンクに砂をいれ,それに廿蕨苗を挿して持ち帰るとともに,製糖法を福州より習得し,翌年100斤の黒 糖を製造(100斤の黒糖製造については疑問があるようである)し,日本本土にも輸出したと伝えられ ている。 使節や留学生或は大島の直川智の話を伝え聞いた儀間真常氏は,沖縄には古来から廿蕨があるにもか かわらず,その加工法を知らず只生食或は盆のお供用とするのみでは'惜しいとして1623年自分の領地 の優秀な屯の数人を進貢船に便乗させ,福州における黒糖製造の技術を習得させるために派けんさせた と言われている。交通機関の不備や農業技術の低さ等から製糖法が全域(沖縄本島)に普及するまでに は相当の歳月を要したことであろう。この製糖技術の渡来は廿藤の本格的栽培に大きな希望を与えたこ とと」思われる。 儀間氏による製糖法の渡来は正式なルートによる技術導入であるが,それより先に製糖法がひそかに 伝来したという説がある。即ち尚金福王の時代(支那では明の時代で慶長より100年以前)に長嶺城主 長嶺按司陵正という人が支那の南京で製糖法を習得して国中に伝えたとあるが,この陵正按司は国禁を おかして密貿易をしたため遂に八重山に流刑に処せられたということである。そのため折角習得してき た製糖の技術もその人限りでおわり後世に伝わらなかったことは遺I憾である。この長嶺按司の製糖法の 伝来は支那貿易の当初からしても140年以上になるし,又支那における製糖開始からしても8世紀を経 過しているので当時の支那の糖業は相当発達していたものと思われる。従って長嶺按司の製糖法の伝来 も支那糖業の発達段階からすればその導入はむしろおそきに失する位である。 製糖法渡来後1647年に至る24カ年間は砂糖も自由に販売ができて農家における大きな現金収入源 であった。当時琉球王庁はさつま藩に対し9000両の借金があって,この借金をもっとも利益の高い砂 糖の利潤によって償還すべ<砂糖の買上制を実施したようである。さつま藩も砂糖の利益に目をつけ琉 球からの貢米の一部を砂糖によって代納させたとのことである。これが貢糖の起源と言われているが, 琉球王庁ではこの貢糖制の外買上糖の制度を実施しその利益によって王庁の財政をまかなっていた。農 家はこのように両方の搾取の中にありながら廿蒔以外にこれに代る有利な換金作物がなかったためにそ の栽培はますます発達し,蕨作面積も拡大されたことと,思う。琉球王庁屯さつま藩への貢糖72万斤を 差引き残りの砂糖によって王庁の財政を豊かにすべ<蕨作面積の拡張や栽培法の指導に拍車をかけたこ とであろう。 第1表1日藩時代における蕨作面積(推定) 考 傭 年次|蕨作面積|産糖量 k9 522,000 1,980,000 3,900,000 年 1647 1693 1873 a 29,000 85,400 108,300 0.6kgとして 0.78kg〃 1.2kg〃 坪当産糖量を 〃 〃 注源武雄箸:沖縄の黒糖文化史による
池原真 254 源武雄氏が推定した旧藩時代の薦作面積および産糖量は第1表の通りで,砂糖の買上制が実施された 1647年から47年を経過した1693年には蕨作面積が2.9倍に,産糖量が38倍に伸びている。面積 の増加に比較して産糖量の増加が目立っているのはおそらく栽培法の集約化によるものであろう。 3.廿蕨の作付制限から制限解除まで さつま藩への貢糖および琉球王庁の財源或は農家の現金収入源として重要な役割を果した廿蕨は製糖 法渡来を契機としてその後面積,産糖量ともに年を追って増加してきたが,元禄6年(1693年)廿薦の 作付制限令が出され,農家に大きなしようげきを与えた。 廿薦の作付制限に対する政策は,廿蕪の有利性にかんがみ蕨作面積が急増し,食糧作物の作付面積を 蚕食するおそれがあることおよび増産による価格の暴落を防ぎさつま藩の利益を増大せしめんとするさ つまの価格政策の結果によるものである。当時の砂糖が相当利益のあったことから考察して肯ける問題 である。廿薦作の普及は食糧の自給度を高め食糧難を克服したようにみえたが,実,情はそうではなく, 栽培技術の低さ,殊に品種改良や病虫害の防除技術の後進により生産量は不安定で,年による消長は甚 だしく,食糧難は相当深こくなものがあったことと,思う。従って食糧政策上からの作付制限も大きな理 由で,この両者は軽重なく大きな理由であったであろう。 作付制限に当っては,まずその栽培地域を島尻15力間切,中頭11力間切,国頭4力間切および伊 江島の1島30間切に限定し,その他の間切には廿蕨の栽培を許さなかった。産糖量は百姓1人当4斤 60匁とし,面積は1500町歩ときめ,それ以上如何なる事`情があっても増反をみとめぬ方針であった。 その後廿薦の作付面積についてはげん重なかんとくがなされ,植付終了後実地調査を行い,面積の多い ものは抜きすてさせ,足らないのは植付を命ずる等相当てっていした処置がとられ,その違反者に対し ては村の監督者,耕作者ともに罰金刑に処せられたということである。作付制限当時の面積については, 仲吉朝助氏は1500町歩といい,安次富松蔵氏は1000町歩以内だったと言っている。 安次富氏の説によれば,当時美里,読谷山,真和志の3間切の坪当り産糖量の平均は1.369斤で,こ の平均は各間切とも大差なかったといわれている。坪当産糖量を1.3斤として当時の総産糖量330万斤 からその作付面積を計算してみれば854町歩となり,仮に坪当り産糖量を1斤とすればその面積は1100 町歩となる。当時の産糖量や栽培技術の点から考え合わせて仲吉氏の1500町歩説は過大で,1000町歩 内外と言ったところが信頼出来る面積だと,思う。この時代においては面積の増加は不可能だったため制 限面積内における産糖量の増加即ち単位面積当収量の増加ということが最上且つ唯一の増産方法であっ た。そのため蕨作農家は,栽培の面において廿薦畑地の深耕,堆厩肥の増施,蕨苗の選択或は管理のて ってい等により単位面積当収量の増加に拍車をかけ,又製糖技術の面では圧搾器の発明による圧搾率や 製糖歩留りの向上延いては産糖量の増加として現われた。 一方王庁としては砂糖品質の向上や単位面積当の収量増加のため色々の規則を制定して斯業の奨励に のり出した。 寛文6年(1754年)砂糖奉行を設置し,納糖および一般砂糖製造に関する事務を分掌せしめ,一段と 進歩したと言われている。又従来粗造の円濤2本を縦立せしめ,これを回転していた圧搾器が寛文11 年(1757年)に首里の人真喜屋実清氏の考案による三本式ロクロ圧搾器の出現は圧搾率の向上延いては 産糖量の増加を招来したようである。こえて明治15年鉄製の縦式3連ロクロ圧搾器が発明されるや圧 搾率はますます向上し,歩留も今迄にもまして増加をきたした。圧搾器の購入に際してはその資金を勧 業資金のうちから無利息で貸付け奨励したため広く全域に普及し産糖量の増加を招来したといわれてい る。 廃藩置県後も糖業に関する取締り,制限等は旧藩時代のものをそのままうけついでいる。 しかしこの頃からは砂糖の取締りがげん重をきわめ作付面積についてはあまりとやかく言わなかった ようである。明治13年の砂糖取締り法の強化についても,産糖間切の各番所宛の文書によれば砂糖の
甘薦の経営経済的研究(1) 255
品質のことにのみふれ,作付面積についてはふれていない。又明治21年の作付制限解除当時の面積が
制限当時の面積を33%(制限当時の面積を1500町歩とみた場合)或は2倍近く(1000町歩とみた場
合)に伸びていることからしても推察出来る。製糖技術の向上のためには特に意を用い当局は農商務省
に対し製糖技術者の派けんを申請した。農商務省は沖縄の要請にこたへて明治19年,20年の両度に亘
りその道の権威者岸三郎氏を講師として派けんし,製糖の指導に当たらしめた。その結果砂糖の品質は
向上し,大阪市場においてもひけをとらない良質の黒糖を生産するに至った。岸氏は直接廿蕨栽培の指
導はなされなかったことと思われるが,原料蕨茎の良否が糖質にえいきょうすることを聞かされた農家
は栽培面において糖質の向上に対し一層の配慮がなされたことと思う。
4.廿蕨の作付制限解除後大茎種の善及まで(読谷山種の時代)
交通運輸の便が開け,糖質の向上により県外移出の量も増加し,又糖価も割高となったため廿薦増産
の必要を痛感した沖縄県会は大英断の下に廿蕨作付制限を解除し,これが奨励にのりだした。そのため
作付面積,産糖量ともに年を追うて増加した。(第2表)
作付制限解除とともに今まで廿蕨の栽培を許さなかった宮古,八重山の両先島と久米島にも作付を許
可し増産を奨励したが,当時これらの地帯には廿蕨にまさる有利な産業があったため廿蕨の栽培は遅々
第2表甘蕨栽培の推移 年度|作付面積 産糖量 k9 5,750,000 5,750,000 6,480,000 6,840,000 8,136,000 8,784,000 9,000,000 9,072,000 9,096,000 3,840,000 7,200,000 6,926,694 8,387,866 12,635,926 11,297,051 9,068,491 年度|作付面積’産糖量 k9 11,840,435 14,253,992 12,663,462 14,276,552 12,483,236 14,016,000 21,553,740 21,672,000 15,204,119 25,057,855 28,157,342 23,035,899 21,390,623 21,272,292 22,381,643 a a 315,370 340,180 362,910 373,690 395,190 414,370 683,930 685,000 619,420 588,080 730,320 718,070 774,330 772,570 828,120 年 0123456789012345 1111111111222222 治 明 明 治 222233333333334 678901234567890 年 199,790 217,260 273,380 301,860 290,820 注沖縄糖業沿革史による 第3表大阪と那覇における糖価の差 明30年’31 32 33134135 36 37鋪’
大阪相場 那覇〃 6.040 5.618 4.970 4.404 5.995 5.414 6.705 5.562 5.505 3.909 5.414 3.652 5.160 3.518 差額’0.405 0.42210.566 0.58111.143 1.596 1.76311,642 注沖縄糖業沿革史より256 池原真一 第4表糖価と生産費との関係 -Ll斜: 51黒糖60k旦の価鞭 i吉11m 尋’3.81513.81513.81513.8151黒糖60k回の隼犀響 、’0.0841-0.1631-0 注沖縄糖業沿革史より として進展をみなかった。そのため県当局は明治27年宮古,八重山および久米島の各番所に対して訓 令を発し斯業の発達を促進した。作付制限解除後|頂調な歩みを続けてきた廿蕨作も明治34年10月砂 糖消費税法の施行により糖価に箸るしくえいきようし,農家にしようげきを与えた。即ち明治33年以 前における砂糖の価格は大阪と那覇との差は40~58銭であるが,明治84年以降その差が1円14銭 ~1円76銭と大巾な開きをみせている。 価格と生産費の関係をみれば明治28年から明治34年までは価格が生産費を補償し,少ない年で60kg 当(砂糖)6.4銭の利益をあげ,多い年は1円90銭(30年)の利益となっている。明治36年,37 年は生産費を補償し得ず,わずかに損失を生じている。明治34年以来37年の前半に至る黒糖価格の 暴落は消費税法の外,日本における赤糖の輸入が増加したためだといわれている。これらの事情によっ て明治35年は作付面積は5%強の減少である。しかし産糖量は65%も増加をきたし,制限解除後明 治40年に至る20年間において明治36年に次いで第2位となっている。明治37年は日露開戦の年 で糖価も上昇のきざしがみえ,又作付面積も漸増傾向を辿っているが,産糖量は明治39年までは減少 し40年に至って増加をみせている。明治37年の大減収は前記要因の外大かんばつも手伝っての結果 だといわれている。増産に拍車をかけた制度として明治35年制定の廿蕨立毛審査会があげられる。こ れは個人および村を対象とした表彰方法で農家もそれにしげきされて生産意欲が盛上ったようである。 県当局は,この消費税法の施行は農家の生産意欲を減退させ,農家所得の減少により農家生活をおび やかすものとして,明治34年,35年の両度に亘り糖業の補助費を大蔵,農商務大臣宛上申したが,日 露戦争を目前にひかえ,国費の箸るしき膨大のため沖縄の糖業をかえりみる余裕がなかったものとみえ, それが許可されず逆に戦争をl勝ちぬくため増税がなされたようである。 明治37年世界の状勢から他の産糖国と競争していくについて黒糖や白下糖では不利であり,又農家 の所得の面でも不利であるとし,分蜜糖製造の必要を痛感し,その工場設立を計画し政府に上申した。 再三交渉の結果その望みがかなえられ,明治39年4月糖業改良事務局の制度が公布された。当事務局 の主なる事業は(1)沖縄における糖業の調査および試験,(2)廿蕨作および製糖に関する講習,講話, (3)糖業に関係ある物料の分析,(4)廿蕨種苗の配布,(5)糖業に関する補助並に共進会に関する事項 等であった。事務局を沖縄県庁内に,糖務局を西原村に設け,明治41年工場諸機械の取付けを終り事 業を開始した。農民はこの近代的工場の威容に一層の希望がもえ薦作意欲がいやが上にも盛上り,第5 表でみるように作付面積,産糖量ともに飛躍的増加の傾向を辿っている。 明治44年中頭郡北谷村嘉手納に沖合拓殖製糖株式会社が設立され,最初黒糖を製造していたが,翌 45年改良事務局の西原工場の払下げをうけるとともに新式機械を購入し,1日400屯の処理能力をもつ 沖縄唯一の分蜜糖工場となった。 明治45年4月から糖業試験場が,廿蕨の栽培試験,廿蕨新品種の育成,農業技術員の講習会の開催, 民間砂糖製造人に対する製糖法の講習,および糖業に関する講演,講話,糖業に関する指導,調査の外, 土壌,肥料,砂糖に関する分析,鑑定に関する事務等を行うようになった。それとともに糖業技術員を 数名主なる産糖地に駐在せしめ,これが指導の任に当らせる外,苗圃の監理を行わせ,又廿蕨の苗圃を
257 甘蕨の経営経済的研究(1) 県下5カ所に設置し,読谷山種を育成して優良なる苗を一般藤作農家に配布する等種々糖業の振興に関 する事業を実施したため,生産量の増加に大きな成果をあげたといわれている。先の糖業改良事務局の 設置といい,大型分蜜糖工場の設立といい,或は糖業試験場における諸般の事業は騰作面積や産糖量の 増加に大きな役割を果している。即ち明治39年7726町歩の蕨作面積が40年,41年,42年’8000 町歩を上廻っている。しかしこの増反には日露戦争後糖価の高騰によることもわすれてはなるまい。明 治43年は1万町歩を突破し,過去50カ年間に2487.6町の増反となっている。明治43年1万町歩 を突破した蕪作面積は大正時代にはいってからはうなぎ昇りに上昇し,大正15年には明治,大正年間 における最高面積を示現している。15カ年間に70%の増加率を示し,1カ年平均515町歩の増反とな っている。大正年間の蕨作面積の増加率は戦前,戦後にその類をみず,この時代における糖業の一大特 色といえよう。1例についていえば,大正8年は前年に比し1481町の増で,大正9年は前年に比し 1454町の増反である。これは第1次世界大戦後日本の財界が好転し,その余波をうけて糖価が高騰し た結果によるものである。大正9年の後半から糖価が漸次下落の傾向を辿ったため,大正10年は前年 に比し1572町歩と大巾の減反となっているが,大正11年以降漸増を示し,大正15年には最高の作 付面積を示現している。大正年代は作付面積の漸増にひきかえ,単位面積当収量は年々減少を辿り,15 カ年間に4000kgを上廻った年は僅かに4カ年で,他の年期はいずれもそれ以下,最低は大正11年の 2700kgである。大正時代の第2の特徴ともみらるぺきものは,廿蕨が増産され,おそくまで製糖が実 施された翌年は必ず減産を示すということである。それは廿蕨の圧搾率,製糖能率の低さから短期間に 薦茎の処理が出来ず製糖期が5~6月頃まで伸び,株出廿蕨の手入が不十分であり,又春植の適期を逸 したためだと思う。それは単位面積当収量や藤茎収量の上にあらわれている。昭和年代にはいってから 大茎種が普及し夏植が可能になったため,単位面積当収量や生産量の上に大正年代のような傾向がみら れないことからしても肯けよう。単位面積当収量の減延いては蕨茎収量の減は読谷山種の退化現象によ るところも大きいと思う。 大正時代における第3の特徴は大型製糖エ場の新設があげられよう。まず大正5年豊見城村に250屯 の分蜜工場の設立をてはじめに,同年宜野湾村に同じく250屯の分蜜工場,翌6年島尻郡高嶺村に300 屯の工場が新設され製糖を開始した。しかし宜野湾工場は糖価の下落のため経営不振となり,大正10 年工場閉さの止むなきに至った。 第5表甘蒔生産の状況(明治41年~昭和5年) )2 )2 う 911-8 4IlHH4-6nk iU-29I ;H9.38[ S’366-222-64 )’L673.84012A8881484.747.OG l1 L」 LM う6.95( 4411-0(] 861390 D’3-832166 )48 14.卜 J97_卜 ;9-20014-688 、1142k <22-15( ]98_ロ 8.12013.098 877-36013.500,657.992.794 40-40]-26卜 5.08211畔 〈64]IⅡ )0.08( r1 37162014-04 《U2-H9I L」 81()’3-406 J66-卜 刑9-,4[ 46-]64191 49014-08 99-0( 38-55013-6551646.399.40 811.685.61( 4611-91 注糖業い報(第4号)より作成
258 池原真 台湾においては明治35年,児玉総督は,台湾の繁栄は米と廿蒔の増産にあるとして,新渡戸稲造博 士を招き台湾の糖業について詳細に調査を行わしめた。その意見に基づいて糖業の振興をはかった結果 その成績が実を結び,台湾農業における黄金時代をつくったということである。それが有名な新辺戸氏 の「糖業意見」である。沖縄にもこれIこにたような事がある。大正8年故宮城鉄夫氏による「沖縄糖業 意見書」がそれである。時の県知事川越壮之介氏はこの意見書を採上げ,以後県の糖業およびそれを中 心とした農政はこの意見書に負う所が大きかったといわれている。尚宮城氏は大茎種の導入についても 沖縄糖業に大きな貢献をした人である。 沖縄糖業意見書中廿蕨の生産に深い関係を有する事項は,(1)各村産業課および各郡に糖業関係専門 技術者をおき栽培技術の徹底を期したこと。(2)各郡に模範耕作地を設置し地域に即した栽培法を行う こと。(3)肥料購入補助により金肥の購入量を増やし増産をはかる。(4)適期栽培の励行を指導するこ と。(5)深耕の普及並に中耕,除草のてっていを期すること。(6)病虫害の予防駆除の励行。(7)適期 収かくの励行等があげられよう。これら各事項の励行が大正末期から昭和の初期にかけての生産量の増 加を招来している。大正時代の第4の特徴は台風が少なかったことである。明治27年以前の台風資料 がないため,その発生状況は不明であるが,28年以降の資料によれば明治の後期も少なかったようであ る。大正年代はもっとも少なく,15カ年間に30m以上の台風はわづかに4回にすぎない。それにひき かえ昭和年代は終戦までの19カ年間に30m以上の台風が実に17回も来襲している。そのたび毎に 甚大な被害をうけ,薦茎収量や産糖量或は糖質に大きなえいきょうをおよぼしている。大茎種に比して 台風につよい読谷山種の時代で,しかも台風が少なかった大正年間の生産量の低さは主として品種の退 化現象と栽培法の後進によるものであろう。 廿薦の作付面積は昭和期にはいっても年を追うて増加し,昭和4年には糖業史上最高の面積を示現す るに至った。大正12年始めて導入されたPOJ系の大茎種中,2714POJが昭和2年奨励品種に指定さ れ,その普及に拍車をかけたため10a当収量,蕨茎収量共に増加を辿っているが,普及率が低かった せいか生産力の十分な伸びを示していない。 大茎種の普及が全域にゆきわたり,生産力が箸るしく伸びたのは昭和6年以降のことである。そこで 本稿においては昭和5年以前を読谷山種の時代として取扱い,昭和6年以降を大茎種の時代として検討 を進めることにした。 5.大茎種の普及から終戦まで 大正12年に導入された大茎種中2714POJが昭和2年に奨励品種に指定され,全域に70~80%の 普及率を示した年を昭和6年と推定してその後終戦までの廿蒔栽培の推移を考察するのが本項のねらい である。 戦後のNCO310は1957年に奨励品種に指定され,それが80%以上の普及率を示したのは1961 年からであってみれば,指定後5カ年を経過したことになる。戦前の小茎種から大茎種への品種の移行 は,栽培法といい,植付時期といい,箸るしく相違するので,戦後の状況とは異なった関係にあったこ とと思われるが,当時は半ば強制も出来たので,普及も現在より早かったことと思われるが,それにし ても新品種が導入され何力年かの試験を経て,奨励品種に指定されてから全域へ70~80%以上の普及 率を示すにはやはり5カ年はかかったものと,思う。 普及率の昭和6年推定が当を得ている第2の理由は単位面積当収量の点からである。大正年代から昭 和5年までの推移をみれば,この間10a当収量が4500kgを上廻った年は大正2年,5年の2カ年に すぎないが,昭和年代は昭和6年を境にして,それ以後各年とも4500kgを上廻っている。昭和10年 以降大茎種の普及率が90%以上に伸びたため10a当収量も5000kgを上廻り,それが平年作となっ た。昭和7年期以降19年まで19回にわたる台風の来襲にもかかわらず高い生産力を発揮しているの はひとえは大茎種の普及によるものである。昭和10年以後の大茎種の普及状況は第6表に示すように,
甘藤の経営経済的研究(1) 第6表大茎種の普及率 259 小型種 中茎種 大茎種 面積 割合 面積 割合 面積 割合 % 94.30 96.52 97.97 98.67 99.40 a 1,452,120 1,502,550 1,499,893 1,468,438 1,493,219 85,805 53,000 29,695 19,754 9,424 70430 54936 ●●●●● 53110 昭10 11 12 13 14 1,834 1,140 1,351 0.12 0.07 0.09 注糖業い報(第4号)より 昭和14年期以降は99%以上の普及率となっている。大茎種の大部分が2725POJで,それは戦後の ごく最近までつづいていた。 明治,大正,昭和と年々増反をつづけた廿薦作は昭和4年史上最高の面積を示現したが,昭和5年以 降の経済不況の後をうけて糖価が漸落の傾向にあったため,蕨作面積は年々減少していった。こえて昭 和12年の支那事変ぼっ発以来農村中堅青年の応召が目立ち,農村労働力の不足および農業用生産資材 の入手難となった。この傾向は昭和16年以来大東亜戦争たけなわなるにつれてますます甚だしくなり 蕨作面積減少の大きな要因となった。一方大東亜糖業対策委員会は戦争遂行上食糧増産の急務なるにか んがみ,蕨作面積を1.28万町歩台まで減反し,残余の面積を甘藷や大豆の如き食糧作物の生産に充当 するよう指令した。 これら種々の要因により蕨作面積は箸るし〈減少し,昭和17年期には大正6年以降の最低の面積と なった。 10a当収量は昭和6年以降4800kgを上廻り,昭和9年を除き毎年増加し,それが平年作となり,昭 和13年,史上最高の収量を示現したが,16年以降は漸減の傾向を辿っている。これは前述の如く資材や 第7表甘薦生産の状況 10a 当収量 年次 作付面積 蕨茎収量 蕨作率 g191308797842 k083581762562 926303421065 ,,,,,,9,,,,, 454565577644 k9 878,226,671 868,021,244 730,199,819 829,589,648 942,340,909 812,743,119 810,659,104 1,085,346,697 1,084,777,071 902,770,656 659,423,800 572,076,647 %742885761692 ●■●●●●●●●●●● 876555445457 222222222222 a 1,718,410 1,641,200 1,576,060 1,549,950 1,549,890 1,528,170 1,494,730 1,493,120 1,522,100 1,490,400 1,588,500 1,465,800 678901234567 11111111 昭 注1.糖業い報(第4号)より作成
2蕨作率=襄篭薯蟇
260 池原真一 労働力の不足に大きな原因がある。生産量は昭和6年以降昭和13年までは年により若干の増減はある が,一般に漸増を示し,昭和14年以後は漸次減少を示している。 6.戦後の廿蕨作 戦前廿蕨は農家の唯一の換金作物として又その製品たる砂糖は輸出農産物中の大宗で,沖縄経済の消 長が一にこの糖業にかかっていたと言っても過言ではあるまい。第2次大戦により糖業関係の施設はか いめつに帰し,残存蕨園は住民の食糧増産の急務から食糧作物の栽培に転換されたため蕨園は皆無の状 態になった。沖縄農業の再建はまず糖業からという信念から,諮じゆん委員会の農務部では廿薦の全め つをうれえ,蕨苗の保存と将来の糖業の再建に備えるため,中部地区中城村津覇にあった残存蒔苗から 苗約2町歩分(6万本)を採集し,これを戦災の少ないしかも戦前糖業が盛んであった国頭郡今帰仁村 に移して増殖をはかり,将来糖業再興のためにそなえた。これが戦後最初の廿藤栽培で品種は戦前唯一 の奨励品種2725POJである。これが後日北部,中部,南部地区の蕨苗の供給源となり,蕨作復興の基 礎をつくったのである。なお八重山の蕨園も全めつに帰したため蕨苗10a分(3000本)を送った。八 重山地区では大浜町に苗圃を設置し,その増殖をはかり,八重山糖業再建のためにそなえた。これが戦 後八重山糖業の基礎をなしている。宮古地区は他の地区に比して戦災による糖業の被害は少なく,早く から残存施設を利用して製糖が開始された。この地区の戦後の糖業の復興ぶりは目ざましいものがある。 1947年3月宮城仁四郎氏は「沖縄糖業振興の急務について」の意見書を沖縄政府と米国軍政府に提 出し,分蜜糖を主体とした廿蕨農業と副産物利用による加工工業の促進方を進言し,両政府の説得につ とめたが,米国政府は宮城氏の意見に対し目下の食糧事情からして沖縄本島における糖業は時期尚早と して積極的にその意見に賛成しなかったが,南大東においては糖業の再開をみとめた。宮城氏は自ら南 大東糖業株式会社の経営者となり,大いに実績を上げ現在に至っている。その後氏の提案は両政府のみ とめる所となり,次々と諸政策が打ち出され,糖業沖縄の前途に一大光明を与えた。沖縄糖業の再建に 対する氏の功績は実に大なるものがある。 戦後は食糧増産に拍車をかけ,廿蕨や稲の栽培を奨励したため,食糧については米国からの援助と合 わせてどうやらその難を打開し得たが,廿蕨連作による病虫害の被害殊にアリモドキゾウムシの被害は, はなはだしく廿薦をはなれた農業経営の不利を体験し,輪作における廿蕨栽培の必要性が農家の世論と して盛上った。かくて軍施設の多い中部を除く他の地区ではせ藤の栽培が始められたのである。 1950年琉球農林省においては糖業振興計画を立案し,軍の資源部に提出し業界代表とともに糖業振興 に対する援助を軍に申請した。かくて1951年琉球製糖株式会社の創立を見,1953年1月から分蜜糖 エ場として操業を開始した。廿蕨栽培が伸びるにつれて各地区農家は戦前の残存畜力製糖場を利用して 黒糖の製造を開始したが,政府では畜力製糖場では能率も糖質も悪く商品価値がおちるとして,小型動 力工場の設立を奨励した。この小型工場が全琉に450箇所以上も設立をみたので農家の生産意欲も盛上 り,生産量も年々増加するに至った。近年に至り世界の糖業事情や日本における砂糖需要の変化即ち戦 前は含蜜糖の需要が多かったが,戦後はその需要が分蜜糖に移行したため分蜜糖工場の設立が急務とな ってきた。かくて政府は従来の小型工場では圧搾率や歩留り,砂糖の品質或はコストの面で不利である とし,1959年以降大型工場の設立を促進した。そのため外資導入による大型分蜜工場の新設が目立ち, 乱立状態にある。現在これら大型工場の数は11をかぞえ,その原料処理能力も1日1.2万屯以上に膨 大している。戦前から最近に至るまで沖縄の糖業は農家が農業経営の一連の作業として自家労力の消化 或はそれの換金としての性格がつよかった。大型工場の新,増設により廿蕨の栽培のみが農家の手にの こされ,その加工は専ら大型エ場にうつされ,所謂農工分離の体制を余儀なくされたが,これには色々 の長短得失がある。農工分離により従来1~3月頃までの最農繁期における製糖労働が省けるため,他 の作物或は廿蕨作の適期作業が順調に進められ,生産量の増加に寄与する点は有利な面であるが,原料 蕨茎の買上価格ではややもするとエ場側に有利に,生産者側が不利の立場におかれる可能性が大きい。
261 甘蕨の経営経済的研究(1)
昨年来原料蕨茎の買上価格をめぐってその値上げ問題が大きな社会問題となったのは,その不利な面で
ある。この問題は奨励金という名目でもって各エ場とも値上げにふみきり,問題は一応解決したようにみえ
たが,かかる問題は今後ともおこり得る可能性は多いことと,思う。次に戦後糖業の進歩のあとをみれば第8表のように,1952年期(戦後最初の統計)の蕨作面積は4150
町歩でJその後年々増加し,5年後の1956年にはその2倍の9381町歩に増大し,10年後の1961年
期には実にその3.3倍に増反された。 第8表廿蕨栽培の推移(戦後) 、2 滑り’産糖犀 死 ①I′[」 (]91 1568.24( n Ll )98.( 4H6-HHI 4bD・石 孔 0-52144.218 、9148G g’934.2381-1.8 494904-08011.8 96 367-301.890134.9 5Ⅲ D▲。llj 注琉球政府経済局糖業関係資料および産糖実績より薦作面積の増加について1956年期以前の4カ年は各年とも15%以上の増加率で,1957年期以後の
4カ年はその増加率が僅少で,1958年期はむしろ減反となっている。1957年期以降の減反は,前年来
糖価が下落の傾向を示し,その上廿蕨に代替する換金作物としてパインが登場し,急速度にこれが伸び
てきたことによるものであろう。黒糖価格は1954年期に斤当17.03円(B円)から55年には16.11
円に下落し,更に56年期には13.79円と漸落傾向になったため,パインの適地である北部,八重山の
両地区ではパイン作への転換も現われ,蕨作面積は減反となっているが,中部,南部の両地区ではむし
ろ増反となっている。その後糖価の上昇,それにひきかえパインが台湾産との競合により価格の点で予
期に反した結果となったので,逆に廿蕨作に切替える農家が続出するに至った。
1959年糖業振興法が制定され,翌60年から効を奏し,原料蕨茎の最低価格が保障されたため,他作
物殊に廿蕨作からの作付転換或は山地開発により蕨作面積は増加した。産糖量は蘇茎収量と圧搾率およ
び歩留に又蕨茎収量は面積と10a当収量の多少に影響されることは周知の通りで,蕨茎収量は品種の
良否や栽培法の巧拙或は自然的災害に左右されるところが大きい。戦後目然発災害発生の多少と収量と
の関係についてみてみよう。1957年以前は戦前,戦後を通じて30年以上も沖縄糖業の発展に貢献した
2725POJが全域にあまねく栽培された時代であり,又1958年以後は多少ながら新らしい奨励品種NCO
310やH44-3908が普及し,着々と成績をあらわし,1961年期にはその普及率が80%を上廻り,10a
当収量は戦前,戦後を通じての最高を示している。1952年期は6月以降3回に豆る台風と品種の退化或は栽培技術の停滞により,以後の6カ年間におい
て10a当収量では第5位,蕨茎収量においては最下位となっている。1953年期は7月を中心として前後4回に亘る台風にもかかわらず相当の収量を示し,10a当収量にお
いて12.5%,蘇茎量においては32%も増収である。この増収は栽培技術の向上が大きな原因であろう。
262 池原 真
1954年期は3回の台風襲来と宮古,八重山地区における旱害および宮古地区における綿蛎虫の大発生
により一時減収が気づかわれたが,その後の回復により予期以上の収量を示し,10a当収量は前の6カ
年間における最高を記録している。1955年期は3回にわたる台風襲来により,10a当収量は前年に比し1.4%の減であるが,作付面積
が大巾に伸びたため蕨茎収量は著しく増加し,前6カ年の最高となっている。
1956年期は20m以上の台風が9回その中35m以上が3回も来襲したため大減収をきたし,10a当
収量では前年に比し31.2%,蕨茎収量では22.2%の減少率を示している。10a当収量は前6カ年間
の最低,又戦前,戦後の昭和年代においては昭和4年,5年に次いでもっとも低い年である。歩留りも
戦後1959年に次いでもっとも低く10%を割っている。
1957年期は前年度の台風および本年度における5回の台風或は全域に旱害特に宮古,八重山両地区で
は50日にわたる旱害のため生育を阻害されたが,その後の回復により,前年に比し10a当収量にお
いて11.5%,蕨茎収量において13.1%の増収となっている。
1958年期は台風のえいきょうをうけていないが,前年の台風や旱害のため豊作型の年ではない。しか
し前年に比し10a当収量が18%,蕨茎収量が16%の増収である。
1959年期は40m以上の台風が3回も襲来したため,10a当収量において1.6%の減収を示したが
面積が3.5%も増反したため蕨茎収量は1.8%の増収となっている。しかし歩留りは戦後の最低であ
る。蕨茎収量の増加は台風につよいNCO310が全域に20%以上普及したことによるものであって,
従来の品種なれば相当量の減収があったことと思われる。
1960年期は前年の台風のえいきようによって減収が予想されたが本年度にはいってから台風がなく,
且つ台風に抵抗力の強いNCO310が全域に44%の普及率を示したため10a当収量,蕨茎収量は前
年に比して夫々23.7%,34.9%の増加をみせている。11月の第2回産糖予想は第1回(7月)の予想に
比し蕨茎量において6.6%,産糖量において2%の減となっているが,第2回予想と産糖実績との間で
は薦茎量,産糖量ともに夫々3.6%,6.6%の増収となっている。歩留りが戦後の最高で12%を上廻
っているため産糖量においては戦後本年度までの最高である。
1961年期は台風につよいNCO310が全域に82%以上も普及した年で,10月に台風があったが,
その被害は軽微で10a当収量や蕨茎収量におよぼす影響は少なかった。減収どころか前年に比し10a
当収量が25.9%,蕨茎収量が45.4%の増収である。特に蒔茎量は10a当収量の急増と作付面積の大
巾な増加により飛躍的増産を示し,10a当収量において戦前,戦後を通じての第1位,蕨茎量,産糖量
はいずれも第2位となっている。本年期にはいってようやく戦前の10a当収量の最高を凌駕するに至
った。戦後10カ年間に生産力が如何に伸びたか,これを1952年期と1961年期の10a当収量と蕨茎収
量について対比してみれば,前者において87.5%の増加で,後者では実に6倍強に伸びている。その
大きな原因は台風につよく且つ多収品種のNCO310の普及によるものである。即ち栽培法については
POJ系の頃と何等かわったことがないからである。1961年期は地区によっては台風の被害を受けてい
るが,全琉的には蕨茎量にたいした影響はない併し原料蕨茎の品質は悪く歩留りは低下したといわれて
いる。廿藤の歩留りは品種や土質,肥料或は自然災害たる台風,旱害と深い関係がある。就中台風の害は廿
薦の歩留りを低下せしめる大きな要因である。第9表によれば台風被害のない1958年,60年の両年期
の歩留りは箸るし<高く,これに反し台風被害の大きかった1956年,59年の両年期の歩留りは何れも
10%以下で箸るし<低い。甘蕨の経営経済的研究 第9表主なる災害 263 8月(25.4),沖縄,宮古 8月(35.2),沖縄,宮古 8月(35.7),全域,9月(30.7),全域 7月(16.5),全域,10月(25.0),宮古 8月(32.7),沖縄,宮古,9月(43.5),沖縄,9月(38.7),沖縄 8月(26.7),南北大東,9月(47.0),沖縄,宮古 ナシ 7月(32.8),石垣,8月(28.8),与那国,9月(53.0),宮古, 10月(41.3),沖縄,11月(45.2),沖縄 ナシ 7月(41.0),南大東,9月全域(与邦国45.8,宮古32.3, 石垣31.2),10月全域(久米島42.6,那覇40.0,南大 東39.8) 234567890 555555556 9 1 7月・…宮古 5月,7月・…八重山 宮古・…めんが虫大発生 7月…・八重山 7月…・沖縄,宮古, 八重山,大旱害 61 ()内の数字は最大風速で,単位は、/秒 琉球政府経済局糖業関係資料および琉球気象台の資料による 注1. 2. Ⅳ甘鳶生産技術の変化 廿蕨の生産量や産糖量が旧藩時代から明治,大正,昭和と年を追うて伸びてきたことは前記の通りで あるが,生産力の伸びが各時代における品種,栽培法の変遷就中肥料の種類や施肥量の多少と如何なる 関係にあるかということについて述べたいと,思う。 1.品種について 古来の沖縄の廿蕨が支那から伝来されたことは古記録の示す通り一般から信頼されているが,その年 代については記録がないため,唯沖縄の有史以前に属するということしか言えない。当時どういう品種 が渡来したであろうか,琉球の五偉人によれば「旧来の沖縄の廿蕨は4種類あり,島萩,読谷山萩,唐 萩,菓子萩で,島萩と読谷山萩は沖縄在来種ともいうべきもので,儀間真常氏が始めて製糖に利用した のはおそらくこの種であろう。唐萩と菓子萩は後年支那から渡来したもので,殊に菓子萩は陳侃録にも あるように菓物の代用として嗜好せられたから,単にその名を博したものであろう」と言っている。支 那の廿蕨栽培は紀元前におこり,製糖も7世紀頃から開始されたということからして,その後品種の改 良も進み,唐萩や菓子萩も出来ていたことと思う。 沖縄への廿蕨の伝来が支那の製糖開始後5~6世紀以後だと仮定してみれば,この生食用の唐萩,菓 子萩も島萩と同時に導入されたことと思われるが,それを立証する資料がないのでなんとも言えない。 支那から渡来した品種は島萩,菓子萩,唐萩の3種で,読谷山種は後年島萩から選抜されたもので, その地名に因んで附せられた名称である。それについて古老知花英康氏のお話を紹介しよう。「旧藩時 代(年代は不明)読谷山間切楚辺村に比嘉次良(屋号,川の上)という篤農家がいて,或日廿蕨の梢頭 部苗を何気なく水がめの側の湿地に挿しておいたら,それから立派な廿蕨が出来たので,次良はこれに ヒントを得てよい苗を作るにはまず苗の選たくとその貯ぞうに注意せねばならぬ。苗の選たくには製糖 期廿蕨刈り取りの際梢頭部を束ねて2~3日間水に漬け後取り出して葉を切りとって更に束ねて湿地に 立てかけ,枯葉で日おいして1週間程度経たら一定の保温と湿度によって発芽を促進した。これより取 り出して枯葉を除きとって植付けてみたらその形態といい,含糖量といい,在来の島萩とは比較になら ぬ良い品種を得たので次良は大いに喜び,毎年これを実行している中にこの方法が村中に広まり,他村
264 池原真 から読谷山に廿蕨を買いにくる人が多く,楚辺,長浜等の船付場からは船で,その他の村からは馬力で 運び出され,たちまちこれが沖縄全域に広まった。そして在来種の島萩と区別してこれを読谷山種と称 したのである。 古来廿蕨の植付には収かく後の古株を堀り取り,これを「こうじ苗」と称して繁殖に使用していたよ うである。梢頭部苗を使用しての繁殖は比嘉氏の考案によるものであるということである。」尚ほその 普及については明治35年創設された国頭農学校の初代校長黒岩恒氏であったといわれている。異説に よれば明治中葉(年代不明)頃読谷山間切楚辺村の川上某が用事をすまし,北谷からの帰途生食のため に折った廿薦の梢頭部を自宅に持ち帰り,これを水がめの近くの湿地にさしておいたら島萩とちがった
廿蕨苗を得たので,それを繁殖に用いたら草丈といい,収量といい島萩にまさる成績を得たので,その
後毎年この苗を用いた。そのことが村中は勿論附近の村や間切,延いては全域に広まり読谷山種と称せ
られるようになった。黒岩氏が普及に貢献したという知花氏の話或は統計に現われた明治32年以降の面積および産糖二量の伸びからすれば明治中葉説が信頼出来ると思うが,明治中葉といえば制限解除後な
のでかかる優良品種の登場は当然記録に残され,又蕨作農家がきおくに残っている筈であるが,それが
ないことからして,やはり知花氏の1日藩時代説が信頼出来る説であると思う。比嘉某と川上某は同一人
物であろう。読谷山種の出現は産糖量に如何に反映したか,知花氏の話によれば読谷山種はたちまち全域に広まっ
たとあるが,もしそうだとすればおそらく産糖量の上にも大きくえいきょうしたことと思う。しかし第
1表によれば作付制限時から180年を経過した後代に至ってもその産糖量は僅かに2倍にしか伸びてい
ない。当時は栽培法の集約化が強制された時代なので,この新品種の登場と相俟って相当量の増産がも
たらされたことと`思われるが,これが予期に反した産糖量からみれば読谷山種の普及は遅々として進まず,それによる増産もなかったものと思う。同じく制限下における明治10年以降の産糖量をみても読
谷山種による顕著な差は見出し得ない。明治21年作付制限の解除,それに伴う指導奨励のてっていお
よび明治35年以降読谷山種の本格的普及にのり出したため産糖量も大部伸びてきたが,40年までは産
糖量はまだまだ不安定で年により相当の差がある。明治41年から大正の初期にかけて順調な発展をと
げた廿蕨も中期以降停滞期にはいり,10a当収量は漸次減少の傾向を辿っている。
島萩と読谷山種が製糖用で,唐萩と菓子萩が盆用若しくは生食用であったことについては次の事柄か
ら立証出来よう。その一は収穫時期の点である。世界産糖国中周年製糖が可能な国はハワイとペルーの
2カ国で他の産糖国では時期に制限がある。台湾,フィリッピンでは大体11月から翌年6月頃までが
製糖期で沖縄も同様である。大茎種導入以前における沖縄の廿蕨は春植のみで,2~3月に植付け,その
年の12月頃から翌年の5月頃までに製糖を終るのが普通であった。沖縄の廿蕨は寒さによって藤糖の
含量を増し,温暖になるにつれて転化糖が多くなり,砂糖の歩留りや品質の悪化をきたし6月以降の製
糖は不利である。従ってこの時期に製糖出来る品種といえば島萩,読谷山種以外にはない。他の2種は
6.7月植付翌年の旧盆に収かくしている。第2は蕨糖含量の点からであるが,島萩と菓子萩は蕨糖の含量が多く,又歩留もよいので製糖用廿蕨
として企業的にも成立つが,唐萩と菓子萩は転化糖が多く蕨糖含量,歩留りともに低くその栽培は企業
的に成立たない。従ってこの両種は製糖用としてではなく専ら旧盆のおそなえ用或は生食用として僅か
に栽培せられたものであり,又現在でもそうである。
100年近くも沖縄糖業の発展に貢献した読谷山種も,新品種の登場によって作付面積は遂次減少して
いった。この新品種が交雑育種によって出来た瓜珪実生種の大茎種である。
大茎種よりも先に明治45年2月仲吉朝助氏によって台湾総督府蕨苗養成所から161POJという中
茎種が120本導入され,糖業試験場西原試験地において種々試験を実施したが,台風によわく且つ生産
265 廿蕨の経営経済的研究 量も少なかったため部分的には相当栽培されたが,広く全域に普及するまでには至らなかった。 大茎種は故宮城鉄夫氏によって大正12年以降9回に亘って導入され,試験の結果優良品種とみとめ られ,次々と奨励品種に指定された。 昭和6年以降の廿蕨の飛躍的増産は-にこれらPOJ系品種の普及にかかるといっても過言ではある
まい。大正12年最初に導入された2714POJは5年目の昭和2年3月初めて奨励品種に指定され,一
般農家にも普及されたが,その栽培法が従来の読谷山種や島萩と箸るしく異なる点および茎が太いので
畜力圧搾器では無理であるとの理由から農家はそれをよろこばなかった。そのため当局ではその説得の
ため相当苦労したといわれているが,そのかいあって漸次農家に栽培されるようになった。半年経過後
導入された2727POJ,2725POJも2714POJと同時に奨励品種の指定を申請したが,前2者はまだ試
験,研究の段階であるとして許可されず,2714POJのみが許可されたようである。
その後他の品種も導入後5~6年を経て奨励品種に指定されたことと思われるが,その年月は不明であ
る。島萩や読谷山種にかわるにPOJ系の大茎種が普及するに至り,如何に生産量の上にえいきょうし
たか,読谷山種の全盛時代の大正9年から大正13年に至る5カ年平均の10a当収量と,大茎種が
97%以上普及した昭和11年から同15年に至る10a当収量とを対比すれば,大茎種の方が91.1%
の増収となっている。しかしその増収の全部を品種のせいにするわけにはいくまい。即ちその栽培法に
おいて箸るし<相異するからである(それについては後で述べる。)しかしその大部分が品種の交代に
よることは確かである。次に戦後の品種をみてみよう。戦前奨励品種に指定された5~6種の大茎種中
戦後まで優良品種として広く栽培されたのは2725POJのみであるが,これも戦後退化現象が現われる
生産量も年々減少している。 第10表大茎種の導入年月 回数’ 第6回十 7 8 9 10 種名 年月 大正14年4月 〃1512 昭24 〃37 〃311 ロ叩 名 種 口叩 月 回数’年 2714POJ,2725POJ 2725POJ,2727POJ 2878POJ161POJ(120本)中瀬|
雛珊'1辮瀞l
2727POJj499POJl 2725POJ,2727POJ,l 1499POJ 2714POJ(宮古へ) 明治45年2月 大正1212 〃135 〃139 〃143 回 12345 第 2883POJ 2883POJ 注宮城鉄夫伝より1958年期までは2725POJが大部分を占め,10a当収量も低く,戦前の昭和11年~15年の10a
当収量の平均を上廻った年は1952年以降の10カ年間に僅かに2カ年間であるd又戦前の最高を上廻
った年はたんに1961年期するのみである。かかる時期において1957年NCO310とH44-3908の
2品種が奨励品種に指定された。NCO310は印度Coinbatore試験場においてCO312とCO421と
の交配でそれを南アフリカのナタール試験場で育成した品種で,台湾では1947年頃導入され,これが
全域に普及し,台糖の糖業が飛躍的発展をとげたのはこの品種のおかげだと言われている。最近この品
種を材料として台湾の気候,風土に適した優良な品種の育成にも成功したと聞いている。この品種の沖
縄への導入は1951年12月稲福清彦氏によって台湾からもたらされ,小型種ではあるが多収の品種で
含糖率も高く,且つ台風にも強いのでまさに沖縄向の品種といえよう。分けつ力が|圧慌で株出の収量が
高いので藤作農家からかんげいされ今後伸びる可能性がつよい。H44-3908は宮城仁四郎氏によって1951年6月布1座から導入されたi品種で生長旺盛で収量も含糖量
も高いが台風によわいため農家からかんげいされず,その作付は段々減少するものと思われる。2725
266 池原真
POJに代るにNCO310の出現は蕨茎収量の上に如何に反映したか,NCO310が全域に82%以上普
及した1961年期の10a当収量とこの品種が奨励品種に指定された1957年以前の最高の収量を示し
た1954年とを対比してみれば1961年期は実に37%の増収であり,又それ以前の5カ年平均と比較
すれば58%の増収となっている。栽培法や自然災害,肥料の種類や施肥量等はPOJの頃と大差がみ
とめられないので,この増収はひとへに品種の交代によるものと思われる。 2.蕨苗の選択廿蕨においても苗の良否が生産量にえいきょうをおよぼすことは他の作物と同様である。第11表に
よれば,苗の大小,使用の部位,或は側芽発生の有無が収量に1割以上の差を生ぜしめていることがわ
かる。読谷山種の出現以前において苗は専ら「こうし苗」が使用せられていたが,比嘉某が梢頭部苗を
用いて以来,主としてこの苗が用いられ,その不足を「こうし苗」で補っていたようである。この「こ
うし苗」は大茎種が普及した後代においても一部の農家では使用されていた。「こうし苗」は収穫後の
こった芽を利用する方法で,規模の小さい農家なればともかく,相当規模の大きい農家では採苗に困難
を感じたことと`思う。梢頭部苗は2~3月頃廿蕨収かくの際梢頭部を20~30cm位の長さに切断した苗で,一般に株出蕨
園は弱小苗が多いとして春植薦園からの採苗が多かった。大茎種の普及は春植,夏植を可能にし,春植
は主として梢頭部苗を,夏植は節苗が多く用いられた。
春植,夏植を問わず節苗の成績が良いことは等11表によって明らかである。NCO310の株出の梢頭
部苗は弱小で側芽の発生が多く,一般に貧弱な苗が多いので,その採苗に当っては細心の注意が肝要で
ある。適期植付の蕨園から採苗すれば芽が硬化して発芽が悪く且つ側芽の発生も多いので良苗は得られない
が,適期をずらして値付けた蕨園の苗は芽が強健で,側芽の発生もなく良苗が得られるというので,蕨
園の一隅に苗圃を設け,蕨苗の選択に当って'慎重を期している農家もいるが,一般的にはまだまだ薦苗
に対する関心はうすいようである。 第11表藤苗と蕨茎収量との関係 苗の大小 苗の部位 側芽の有無 大苗|小苗|梢頭部|二段苗’三段苗|標準区|側芽伸長区 10a当蕨茎量 可製糖量 薦茎量指数 11,069 1,457 110 10,374 1,322 100 23,642 2,591 100 25,582 2,824 109 27,245 3,016 116 17,602 2,281 112 14,631 2,040 100 注経済局糖業課資料より 3.施肥量旧藩時代における島萩や読谷山種に使用した肥料は山野の草や木の枝葉或は水肥等で,それもそのま
ま施すことから始められ,次に廿蕨の枯葉や青草或は枝葉を土と混ぜて堆肥が造られるようになり,更
に厩肥の施用も行なわれ,又人糞尿の施用も始められたものと思う。日本においては封建社会における購入肥料は有機質肥料のみで,その使用は販売を目的とする野菜や
果樹或は工芸作物等を栽培する地帯に限られていたようである。無機質肥料は明治20年頃以後燐酸肥料の輸入,続いて硫酸アンモニヤや石灰窒素等も輸入され,明
治末期から徐々に使用されるようになった。明治21年東京人造肥料株式会社によって過燐酸石灰の本
格的生産がなされ,明治28年頃から満州産大豆粕と国内産過燐酸石灰が大量に登場し広く使用された
ようである。大豆粕は明治15年頃から長崎や神戸の各港に少量づつ輸入され,明治25年には重要肥267 甘蕨の経営経済的研究 料のに数えられるに至った。 日本における硫酸アンモニアの輸入は明治中葉に始まったといわれているが,それが統計に現われた のは明治33年(1900年)以降のことである。しかし硫酸アンモニアの施用が顕著に伸び,輸入および 国内産の硫酸アンモニアの施用量が大豆粕の輸入量を上廻るようになったのは昭和7年以後のことであ る。 沖縄における有機質および無機質肥料の使用の起源は明らかでないが,本土とその使用の年代におい て余りへだたりはなかったことと,思う。その施用は換金作物の大宗である廿蕨から始められたことであ ろう。 明治40年頃廿蕨の施肥量は堆肥600賞,液肥300賃,その外に購入肥料も使用されたことと思われ