――目次――
論文
1,
カトリック島の相続慣行:長崎県黒島の末子相続, 内藤莞爾, Succession and Heritage in a Catholic
Island: So-called ultimogeniture in Kuro-shima, Nagasaki, Kanji NAIT
Ō, pp.1-24.
2,
史的イエス研究の方法, 田川建三, Une Réflexion Méthodologique sur la recherche du Jésus
Historique, Kenz
ō TAGAWA, pp.25-45.
3,
『法界観門』撰者考, 木村清孝, Who was the Author of Fa-jie-guan-men? (法界観門), Kiyotaka
KIMURA, pp.47-74.
4,
聖の経験とその根底:ルドルフ・オットーの所論をめぐって, 華園聰麿, On the Experience of the Holy
and its Foundation: in Rudolf Otto’s Theory of Religion, Toshimaro HANAZONO, pp.75-100.
書評
5, Jikido Takasaki, A Study on the Ratnagotravibh
āga(Uttaratantra), Being a Treatise
on the Tath
āgatagarbha Theory of Mahāyāna Buddhism, 服部正明, pp.101-107.
袖が
長子家督に立っているとすれば、これは、 大きくずれている。周知のように、日本の長 千家督は 、 単に慣行とし て 、自然に形成されたのではない。絶えず 権 力の側の強制がこれに加わってきた。近くは、 戦前まで施行された同氏 鱗して、相続人は長男であることが、法の名で強 要された。したがって こ 1 節 島を選んで、その相続慣行を手がけよ うとし たのは、ほかでもない。島民は、その九割が ヵ トリック教徒である。 し 続 柏 かもこのカトリックの場合、その相続は 、い ね める末子制を原則とするといわれているから である。日本の相続制度 の
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カ
トリック島の相続慣行
|
長崎県黒島の末子相続
|
内
藤
莞爾
そこでこの示唆もあって、われわれは、昭和四 十二年、数回にわたって、この島を訪れた。そし てその調査結果の 一部は、すでに 別稿 で、これを発表した。︵ 3 ︶ただこ の 報告には、その後、不備な点も認められたが 、同時に 、 大きな 課 題 をもこれを残した。というのは、カトリック 家族については、およその分析は、これを果した 。けれども仏教徒に 関しては、相続者の続柄を検討しただけで、 そ れ 以上の解明は、おこなれなかった。またこの 島 の 相続慣行全体の解 釈も 、これを欠いていたからである。それで 本 稿で 問題としたいのは、次の点にあるといえる。 第一は、カトリック ハ 04 ︶ 武家的なパターンの存続だとするのである。 れども、長子相続が支配的である。もともとこ 0 部落 は 、旧平戸締㌍家臣 団 でっくられた。つま り 長子家督という、 れに背けば、法違反として問われることになる。 にもかかわらず、この尻のカトリック家族では 、末子慣行が続ける れた。とすればそこには、強くこれを支えてい るものが予想されてくる。手がけようとした、 ひとつの動機であっ た けれどもこの島に注目したのには、実はもうひ とつの誘因があった。昭和三十四年、神戸大学が おこなった実態調
れているのであるが、その要点を述べると、次の ようである。すなわ ち このカトリック集団では、非長子、特に末子 の 相続が多い。また財産の分与は、諸子分割判 で ある。具体的にいう と 、男子が結婚すると、新居を建てて、これを 分家する。次男、三男も、これにならう。それで 多くは、末子が オヤ ツ ギあるいは オヤ ガ イ として、本家を相続する。 財産は、男子に対しては、均分に与えられる。 しかし オヤ ガ イ は 、 親の老後を看るので、別に隠居 田 が加えられる。 隠居田の広さは、家によるけれども、およそ 一 斗 蒔き︵約五 畝 ︶ 程 度 である。ただ親は隠居しても、別に隠居所を づ くるようなことは、ほとんどない。母屋を仕切 って、これを隠居部 屋 とする。ところでこうしたカトリックと対照 的なのが、仏教徒である。これは、本村という 一 部落にしか居ないけ (456) 2
︵ 4
︶
そこで相続の実態を述べるまえに、まず地域の概
況
について、触れておきたい。島の広さは、
九
十九島のなかでは
最大といっても、
五
00
町にすぎない。全島
は
とんど花嵐岩から成る。断崖が海岸線まで迫って
、平地と港湾とに
乏
しい。が、さして高い山もない。人口約二、
0
00
人で、これが八部落に分かれる。世帯数から
すると、次のようで
ある。本村︵
五セ
︶・
蕨
︵五五︶・田代︵五一毛
, 名切
・日数︵一一一
0
︶
古里︵三六︶・東堂
平
︵三九︶、計三九四戸。このうち本村は仏教徒
、
他の
セ部諾
はカトリック部落である。なお
最
大の名
切
部落は
、木
地艶
他
目
原
島
けれども、
農
・ 漁
とも、専業はいたって少ない。
つまり半農半漁、それに出稼ぎ
ク表
の
仕送りとが、この島の経済を支えている、
と見
ることができる。
宇山
そ
水田が少ないので、主幹農業は畑作、それに
畜
産
ということになる。畑作は
、
3
柏
続
の実
態
・仏教 両 教徒における相続慣行の比較である。 あ わせてこれについての、 若 千の分析をおこなっ てみたい。第二は二 これら相続慣行の解釈である。ここでは、前述の 神戸大学報告者が述べている点︵後述︶も 、こ れを参考とすること ができる。が 、 他の所説も含めて、総合的に検 試 することにしたい。古くからの 4 モ と麦 とが中心であるが、最近は久 - 作の一部が馬鈴薯と玉ネギとに移行しっ っ ある 。畜産は、和牛︵ 一 九 0 頭 ︶が導入されているが、肥育が主であって 、生産生︵ 六 0 頭 ︶は少ない。がらん一頭飼 い である。農家の平均 粗 収入は、一三 | 一四万円と見積られる。これ でくらしの立っわけはない。というよりも農家は 、 実は女性の仕事と されている。だから副業といった性格が強く 、そ れで男子は漁業に、より傾斜していく。漁業の 中心は磯建網︵刺網︶ と 一本づり、それにタ イ網と 吾曹 網 とである。 いずれも沿岸不漁民には、変りがない。 アグり の 網元も廃業したの で、仝ほ地場の漁業貸本家も見られない。船は 、 無動力船を含めて、 六セ隻 だけである。水場 高と しては、イワシが 筆 頭 であるが、金額としては、タ々,伊勢エビ・ ィ 力 ・ アヮビ の類が多い。漁協を通じての年間 販 売高は 、ニ 、 五 00 万円というが。高級 魚は 、唐津・福岡・下関市 面の仲買 商 へと流れる。 五 、 000 万円程度と見 積られる。なお出稼 ぎほ ついては。その実態をとらえることができ ない。しかしその家計で占める割合は、かなり 太 きいと見てよい。 送 金額は、年三 0 1匹 0 万円といわれる。 出 縁者 は 、年間、一 0 力月 ぐらい、島を離れる。帰島 す るのは、六月と十一 月 とに集中する。六月には、麦の収穫 とィそ の 落の経済的な格差は、きわめて低い。対象とし 部落、仏教徒のそれとしては、本村部落を採り なわれる。そしてそのかん、 盆と 正月とに、一週 じにくらべて、本村︵ 三 ・ 0 反 ︶ は 、土工が大部分である。しかし一部は、沖仲 た 地点である。なお田代と東堂 平 とを採ったのは さて問題の相続慣行である。ここでは全戸を扱 , 植村が重なってくる。また十一月には、イモの 収 仕 にも従事している。 あげることにした。このうち東堂 平 と木村とは、 た 三部落の一一 p 当たりの耕地も、田代︵五・六 反 る 。けれども本村は、唯一の 港 ・白馬 港 をかかえ 間 または 一 0 日間、帰ってくる。出稼ぎ先は 、 、もっぱら調査上の便宜であって、他意はない っ ことができないので、カトリック家族としては 穫と麦 まきとがおこ 京阪神が主で、職種 理 p 大学も対象とし 。この島の場の合、部 ている。それに石工 田代と東堂 平 の 二 (458)
うが、長子相続へと、より傾斜する。なお
非
長子の分であるが、まずカトリックでは、仲兄
三一
%、末子三六
%と、
リック島の栢 続 慣行 だ 続 引 率 け 人 く で力
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(459) その他の副業も付着している。したがってほぼ 同 じ レベルと押えてよい。なお操作上の約束を 述べると " 本調査で は 、現世帯主が相続した場合を﹁相続 戸 ﹂、分家 した場合を﹁分家﹂として扱った。そして前者 だけを、分析の対象 とした。それで相続の時点は 、 いろいろになって くるが、しかし過去の事実を問うているので、 ﹁未定﹂という ケ| ㈲親の家屋敷は、だれが継いだか、㈲親の老後 は 、だれが 着 たか、 の 二点を指標とした。両親の死後、相続の開始さ ぬ た場合もあるので、㈲の指標は、相続 声 のす べてには適用できな い 。とともに少数の事例では、この二つの指標の あいだに、 ズレ も認められた。けれども大部分 では、これが同一人 に 帰着して、相続人の確定がなされた。なおい, つ までもない点であるが、カトリック教徒では、 位牌は存しない。 位 牌の所在・保管が指標になりえない理由である。 それでこの相続 声 であるが、これは、カトリック では四四戸、本村︵仏教徒︶では二二戸という ことになる。現住 声 のうちで占める比率では、前者が四八 % 、後 者が四 0 膠と 算定される。ただは げ しい社会流動 への 流出の事実があるので、この比率は 、 別に家 関 係の様態をあられすものではない。それから相続 声 のうちには、現世 常主が独り子として生まれ、あるいは養子に来 た 事例が含まれる。これらは、当然、相続人とな るわけで、われわれ 0 対象とはならない。そこでこれらを別として、 整理すれば表 2 のようになる。まず意外なのは 、 独り子・養子の高した。要するに、相続時の実態に則しての把握 である。それからが ぅ まで ﹁長子家督﹂である。ところが家屋敷の継承とか 、 親の老後の世話とかの てくる。聞取り調査によらざるをえない理由であ る 。 さて相続人は、以上のようだとしても、もうひ とっの問題が残される。 からんで、この点は、きわめて重要だと考える。 神戸大学の報告でも述べ 分 が原則とされている。われわれが島民から 聴 取 したかぎりでも、そうで か 。ややくわしくは、後に分析することにする が 、計数的に処理すると、 もないが、旧民法当時、戸籍面は、すべて 事実問題となると、戸籍面とは大いに違っ 財産相続の点である。いわゆる末子相続と ているように、末子制のもとでは、諸子 均 あった。ではその実態は、どうであろう 表 3 のようになる。ここでも島民の発言と 子
兄子
予予
ケ独奏
合 長井長子 表 2続柄 別栢続人
実
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㏄
88㏄
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実は
は
M㏄
15% とになる。 に、だいた 見られる。 るであろう しかし実態 る 。末子は だといわれ だけではな は 、長男が したがってカトリックでは、長子・仲兄・末子 の 三考 ック では、末子相続が支配的だとされ そういうことになるわけである。そこで次のよ, い 分散してくるけれども、仏教徒では、長子への てきた。 っに 言え 集中が は 、そうではない。長子も出てくるし、仲兄 も 現われ 、三分の一程度にすぎない。また仏教徒では、 長 手相続 てきた。なるほど長子の比率は高い。けれども 長 手相続 い 。ここでも仲兄や末子が登場してくる。なお 本 調査で 死亡しているときは、次男を長男に直して、 こ れを算定 やや末子のほうが高い。が、事例としては二件 多いだけで、さした る 差ではない。また仏教徒では、仲兄一六 % 、末 子 二五 % というこまた仏教徒では、非長子も相続人になり ぅる と 同時に、比率こそ低いが、均分相続も実行さ れる。信仰別の二分法、
教
島 の 棺続 慣行 表 3 財産
相続分類
124772329 lⅠ
lエ
ll00明め一一の一一一一の
産 ﹁ i1 均㏄Ⅱ㏄化
抑 行 り・
門卸
不 457%42n3gio |ド する。が問題は、信仰別の内訳であろう。 特 に カトリック における均分 制 が注目されるわけである。とこ ろがこのカトリ ック でも、均分の比率は、半分︵五一 % ︶を占める にすぎない。 不均分が四三 % に当たるのが実情である。また 仏教徒では、 事 例 不足にもかかわらず、さすがに不均分︵ セ五 膠 ︶の比率が高 い 。にしても、均分相続︵二五 % ︶を否定する ものではない。 さらに続柄別に検討してみたい。まずカトリッ ク では、この 別による差異は、ほとんど現われ低い。とりわ け 問題の末子で も 、均分・不均分は、あい半ばしている。なお 長子では、均分 が 四一 % を占める。不均分︵三三 % ︶より、 ケ |ス としては 一 例 多 い 。また仏教徒では、仲兄・末子はいずれ も 不均分であ る 。ところが長子では、均分三例︵四二 % ︶ 、不 均分四例︵ 五 セ % ︶と、両者が接近してくる。要するに カト りック は、末子 制 Ⅱ分割 制 、仏教徒は、長子制Ⅱ一括 制 といわ れながらも、 実 態 はそうではない。カトリック家族の相続にも、 長子が現われ る 。とともに、財産相続では、不均分の分割も おこなわれる。 (461) 事実とは、大きく喰い違ってくる。すなわち 相 綾戸の全体では、均分四四 % 、不均分五一 % で、 後考のほうがやや り三 、若干の説明と分析 それで以下、資料を補足しつつ、前節の整理 結 異に ついて、若干の説明を加えてみることにした い 。そして当面、 問題は末子相続という特殊慣行の究明にあるの で、焦点は、この慣行の成立基盤について述べる そういうことにな るであろう。 である。すなわち貧困のために、家庭内の人口圧 だいたい末子相続︵三才 ョ 。幣田口 お ︶の成立に関 を 解消することが期待される。ところがさいわ しては、諸説が展開している。けれども一般的 ぃ 外部に、これを 吸 な 理解は 、 次のよ う に要約することができよう。分析的にいえば、 内的要因としての貧困と、外的要因としての 広 義の労働市場の存在 牧 する労働市場が存在している。そこで子ども たちは、成人とともに家を出ていく。したがって 末子が留まって 、親 の 扶養者になる。とともに、その家を相続するこ とになる。これは、主として歴史法学者,ヴィ ノグ ラドフ︵㌧・ せ丁 目 0 ㏄Ⅱの 巨 0 由 ︶の主張である。︵ 6 ︶そしてかれの場合、 これら内外二要因のうち、どちらかといえば、 貧困という内的要因 を 重視する。分封せざるをえない、これが必然 的な動機だからである。帝政ロシアのころ、搾取 された農民は、さか んに流出・逃亡をくわだてた。これがヴィ ノグ - フドフ をして、この説を主張させたという。とこ ろ でかれにさきだつ で 続 は る ま あ 人 三 よ た る ・異 種 う こ 。 子 類 に れ の が 、 に
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た 非 れ 述 形 相 に べ (462)@ S民族学者・フレーザー︵ 田 ︵ q. 田田 い のこでは、 反対に外的要因が重視されてくる。︵ 7 ︶もともと フ レーザーの考えかた は 、﹁牧人税﹂といってよい。つまり流動を常 とする民族に、この相続慣行が付着する、という 見 かたである。遊牧 民は 、その典型である。つまり牧草資源を追って 、どこへでも家族の分封ができる。年長者から 分かれていくので、 結 果 としては、末子相続が実現する。ただフレー ザ ーに ょ れば、もし社会流動が原因だとすれば、 これは遊牧民にはか ぎ うない。農耕 民 でも、これが成立する。すな わち移動式の農法にしたがう諸民族がこれである 。こうしてかれは、 焼畑農民の相続慣行に注目する。いわぬ る ﹁ 刀 耕 火種﹂、火田民のそれである。特にアッサム か ら 中国の西南諸民族 の 末子相続を挙げてくるのである。 ただ日本の場合には、この外的要因、したがって フレーザー説は、そのままでは適用できない。 原文化・基層文化 は 別として、遊牧や焼畑は、今日的な段階では、 もう説明の道具にはなりえない。それにヴィ ノ グ ラドフの労働市場 鈍も、都市化と産業化の進行した明治以降は 、別 である。がそれ以前の時代を説明するには、 こ れまた説得的ではな い 。事実、日本では、この末子慣行は明治以降の ものでほない。黒島でも、少なくとも明治初年 には、この存在を確 誌 することができる。というわけで、フレーザ | 説を否定するのではないけれども、これは﹁ 開 拓説 ﹂として修正さ れてくる。つまり未墾 地 ・開拓地の存在である。 そして農家の過剰人口は、こうした土地に目っ て 、流出し、そこに 節 定住する。一般に長男から出るので、結局は 末子相続になる、というのである。中川善之助 嫌 確認して、﹁山浦型﹂と名付けた。労働市場 を 求めて他出する、﹁千筋 型 ﹂と対照させる 意 味 である。また大石慎三 ︵ 9 ︶
ク虫ナ
とは 徳 Ⅱ前期の相続形態と耕地の増大 ︵新田開発︶との相関について、これを巨視的 に 把握している。 島 いよ ル そこでまえに戻って、貧困という内的要因 である。ところがここでは困難な問題に遭遇す る 。というのは、この 末 いる点である。フレーザーから発する﹁開拓型 ﹂だと、この分封は 、考 (463)ている。黒島も、その経営規模からして、 ろう。 島岐 部も含めて、最大の末子慣行 地 セ反 という全国最低を記録している。 ま からすれば、貧困は末子相続どころか、 反 Ⅱ単独相続である。したがって 次 三男は 、 出ていく。ヴィ ノグ ラドフの労働市場 説に いう次代の幹を残して、 次 三男という枝葉 しても、さきの貧困ゆえに権利意識を生ま いわけである。 そこで以上のような理解に立って、黒島 に 末子相続、特に財産の分割とは結びつか まったく無関係だというのでほない。ただ だから貧困が関係してくるとしても、それ このことが察せられる。が、好例は、おそらく 鹿 児島県下ということにな 帯 とされているのであるが、これとはうらはら に 、農家の平均反別は 、五 たこの耕地の六割は、生産力の低い畑地である。 ところでわれわれの体験 射 に長子家督とも結びついてくる。この場合、財 産は 、当然、長子の一括 ほとんど分前にあずかることはない。 い わゆる 稼ぎ出し分家の形を採って 似てくるけれども、ここでは他出するのが長男 ではない。かえって長男と を 払おうとする。貧困のために、そ う せざるを・ えな、 のである。し -l l ︶ い ずれに ないというのは、解釈としては成立する。けれ ども現実には、支持できな の 相続慣行について、検討してみたい。われわれ は 、さきに貧困は必然的 ない点を指摘した。けれども末子相続を規定す るものとして、内的要因が われわれの挙げるのは、貧困ではない。むしろ 家庭内の人間関係である, は 、人間関係という コ の 丁毛 。やを通じて、相続 への規制要因として働い
えって相続義務感を助長する、というのである。
@0@
事実、末子慣行のおこなわれているのは、おお
むね貧困地帯に属し
えかたによっては、家族集団の成長とも採れる。 したがって財産の分与をともなっても、これは おかしくない。しか し 貧困が動機となるかぎり、諸子分与は、はなは だ 理解に苦しむ点である。貧困にもかかわら す 、財産の分割がおこ なわれる。いいかえると貧困の拡大・再生産の過 程である。それでこれについて一部の学者は、 次のように述べてい る 。つまり貧困のために、相続に対する権利息 識がぅ すくなる。いや親の扶養や消極財産を負う ことさえもある。 か ひ ㏄ ) 10てくる。そのように考えられる。具体的にいうと 、家庭内の不和・葛藤・緊張などがそれである 。そしてこれを回避 するサイクル,メカニズムとしての末子相続と いうことになる。この着想は 、 実はわれわれが 黒 島 調査にさきだつ 、 ︵は︶ 幾度もの経験からえられた。が、この点に注目 した学者は、けっして少なくない。事実、この人 問 関係の不調和や結 滞は、 時として伝統的に確立した制度でさえも、 これを空洞化してしまう。極端な例ではあるけ れども、中国の相続 制度がこれである。周知のように、この国では、 方頭相続をタテマ エ とするとともに、この分 産 は、 親の生前にはな すべきでない、として教えられてきた。それ 自 身 、不孝である。と同時に、 睦 族の精神にも反す るからであった。 と ころが実際には、これがしばしばおこなわれる。 戦前であるが、費孝通は、かれの郷里・江蘇 省 関弦 弓の モノグラフ ︵ つ l 0 ︶ で、父子の争いによる 分産 過程を生彩にえがいて いる。が、戦中、かれのおこなった雲南 省 の 調 査 では、生前分割は ﹁むしろ一般の慣習﹂と述べている。そしてかれ が分 産の原因として挙げるのは、入縁による 家 庭 関係の ヒズミ、あ -4 I ︶ るいは兄弟間の感情のアンバランスなどである。 もっと極端なのは、高砂族の場合であろう。 ア ミ 族は、母系 制 を採 っているが、その部族、馬人 鞍 ・大日壁糸 のア, 、では 、一族 集 居を本体としている。すなわち 数組の夫婦が同居す る 。が、ここでもトラブルが発生する。﹁ 然レト モ 聚合家族制度二件 フ 欠陥トシテ、家族 ノ 人数 多キタメ 、不和 ヲ生 - 巧 ︶ スル 事アりテ 、一家平和 ノタメ、止ムナ ク分家 ヲ 許ス事 アリ﹂といった状態である。
のものを扱 う ことはできない。それで 別稿 では 、計数的に二点について 栢の分析をおこなってみた。ひとつは、家族戚 続 員 、とりわけ子どもの数である。他は、相続が 父の生前におこなわれた ︵ 6 i ︶
島か
、それとも死後になされたかの点である。 そこでおのおのについて、簡単に分析結果を示 すことにしたい。 まず家族成員の問題である。これは、前述の高 砂族 でも示唆されているが、要するに多人数世帯 では、一般に人間 力 関係がむずかしくなってくる。特にカトリッ ク では、家族計画が宗教の名で禁じられている 。そしてこの多人数とい 11 (465)五・五人なのでかりに五人のところで区切って 、 これと長子・非長子面相続とを相関させると、 表 5 ︵カトリック︶ および表 6 ︵仏教徒︶のようなことになる。 ま ず カトリックの長子相続ではこの五人ラインが 分 岐 点とはなってこな い 。いいかえると、多子・少子によって、長子相 続 という形は、規制されなかったことになる。 ところが非長子相続 均 58 教 子 有
Ⅱ。ねね
4 カ ツ 妻数数
倶子
千晃
表 5 石子数 ( カトリック )長舘
㏄ 1 @@@ Ⅰ 55 長下士
旭旭計
56 表 6石子数 (
仏教徒
)
長即
㏄Ⅰ
レビ Ⅰ リ @ a1 長 56 では 0. 四人の差ということになる。け ども問題は、子どもの数がサイクル・メ ニズムとして、機能するかどうかの点で ろう。つまりもともと多人数世帯のう に、子どもの結婚、次いで孫の出産と る。このために、長男から分家して、 居 、非長子相続が実現するかどうか、 と った 筋である。そこで子ども数の平均は 、 い 結 な え あ 力 れ うのが、家族の分封につながってくるのは、 次 の 申請者でも、あきらかである。この鳥の 一 農民 が 農業委員会に提出 した、農地転用の申請である。 申請者は現在十五人家族の農家でありますが、一軒の 家に十五人が雑居していますので、別に住家を建て、 長男・子供を分家 させたいと思いますが、宅地がなく、現在の申請地は 、宅地と宅地にはさまれた畑で、収穫量はほどんどな く 、その上、竹の根 がたえず侵入するので、これを宅地として転用いたし たく、申請に及んだ次第であります︵昭和三十年Ⅰ そこで相続当時の子どもの平均数を算定すると、 表 4 のようになる。すなわちカトリック︵ 五 ,八人︶と仏教徒 ︵四・八人︶では、 一 ・ 0 人の差が見られる。 ま た 相続人は、男子にかぎられるので、男子の平 均数 をみると、ここ (466) Ⅰ 2前
・死後とも、長子と末子との中間に当たっ
ている。ところで仏教徒では、形はかなり違って
くる。なるほど死後相続
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13.7 53.3 31.61r71.4
40.0 58.3
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では。カトリック と 類似しているようであるが、 なお事例不足のため、断言はで きない。はっきり異なるのは、生前相続の場合 柄 ﹂ある。ここでは長子が七割を占 めてくる。 さて生前相続とは、親の側からすれば、隠居の古 チ 実を指している。すでに述べ た よ う に、この鳥の隠居は、制度化されてはいな い 。とともに、別居隠居ではな い 。なるほど壬申戸籍︵明治初年︶のへんでは、 隠居分家らしいものも見られ る 。しかし今日では、これも姿を消している。が 、実質的には、隠居がおこ なわ れている。これには、間違いが低い。ところが この隠居では、仏教徒はその跡を 長男に譲っている。こういうことになるわけで ある。とすれば、かれらにおける 長子相続の姿勢は、かなり正しいということに なる。しかしはたしてそうであろ うか。ただわれわれは、直接、これを検証する だけの資料を持たない。にして も 、この生前相続の場合、相続時の父の年会 に 注目すると︵表 8 ︶、だいたい 六 五|七 0 才のあいだに納められる。すなわち カ トリックでは、長子,非長子相続 とも六八才、仏教徒では、長子相続六五才、 非 長子相続 七 0 才 ということにな る 。つまりこのへんが就労可能の限界で、そこで 世代の交替がなされるものと 考 えられる。しかもこの点は、両教徒とも、ほと んど変りがない。ところがそのと き 長男、つまり相続人の年会︵ 同表 下欄︶を み ると、やや違ってくる。カトリノ ク では二八・五才、仏教徒では三四・一才で、 そ の間に五二八オ 0 差がついてく (468) 14島 の 栢続 慣行 表 9 分家創設場所と 財産分与の有無
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9 ・ 2)・ 島 外 10 34 44 6(22.@7)│(77.@3)@(100)│(66.@7)@(33.@3)
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15 (469)興信仰の立場
る 。したがって当面、単なる推測にとどめてお くことにしたいと思 う 。 労の限界に達したとき、長男の平均年会が相対 的に高い。ここに長子の選ばれる公算がある、 と するのである。ただ これは、少数事例を操作してのことにすぎない。 とともに、カトリックの側については、説明 困 難 な事情も含んでい る 。とすれば、こうい う見 かたも、でき低いでは ない。すなわちカトリックとくらべて。仏教徒 の場合には、父が就は 、宗教的な平等主義である。カトリックは 、神 のまえではすべてが平等であると説いている。 一般に親としてみれ ば、 子どもはどれも可愛いい。つまり宗教的な 平等主義が、財産相続での均分制を導いていく。 第二一は、宗教的聖職 制 との関連である。教徒のあいだでは、聖職者 ︵神父︶となることを、最大の名誉としている。 そして最初の子ども は 、これを神に捧げようとする。次男以下は 、家 計を救うために、船員として離島していく。 娘 も 、織姫として、 家 を出る。結局、親と末子との同居が実現する。 こ ういうのである。 われわれが聴取したかぎりでも、島民のあいだ では、この均分 制は 、外人神父から教えられたと ハ ス , : 回ゆ令 @ ぶ Ⅰ々 タ @ か つ た 。それで宗教の点も、考慮すべきであるが、 た だ 以上の三点には、われわれとしては、異論も 存する。第一の貧困 説 が採りえないのは、前述のとおりである。 そ れで第二の宗教的な平等主義である。しかしここ では、女子ははっき り 共同相続者から除外している。つまり性的に は 不平等である。とすれば、少なくともこの平等 主義も、純粋ヒュー は 、さらに拡大・再生産される。家族集団とし て 、収容力がない。そこで分封がおこり、末子相 続が 実現する。第二 る 。もともとかれらは、移住者として、経済的 にも不利な条件に置かれていた。加えて世帯員 の 増加である。貧困 -0g ll ︶ ことになる。いわぬる稼ぎ出し分家・ヴィ ノグ - フ ドフ型のそれといえる。したがって均分 制 が本 旨 だといっても、 そ ㏄ -7 l ︶ こにはある限界が想定されてくる。とりわけ島外 他出者に対する処遇である。 それは別として、この鳥のカトリック教徒では、 古くから分割相続がおこなわれてきた。ではそ の 理由は、なんで あったろうか。もっともこのことは、末子慣行 地帯の相続 制 全体の問題として、考察しなくては ならない。が、カト リック家族のそれに関しては、すでにひとつの
玉之浦町︶の調査か ら 得たかり ヵ Ⅰある。Ⅰ・ それ マ ︵ 8- Ⅰ 0 別稿 でも紹介したので、 ここでは要点だけにとどめることにしたい。 大 原が アクセントを 置 いているのは、この宗教の特異性である。これは 、三点に分かれる。第一は、さきにも触れた 家族計画の禁止であ
きない。夜、出漁するイワシ網などの漁民では、 当然、漁携は安息日である日曜の朝までかかっ てくる。仏教から 発 したお盆も 、の eou ︶ ゅ ︵ 田 z のされた形ではあっても 、料理としては現われる。 大原は、指摘しなかったけれども、もし カトり ック が、いわぬる末子制を支えているとすれば その最大の支 占 は 、おそらく次のことにあると考える。この 宗 数 は、日本化されても、日本家族制度を擁護する 立場にはかならずし も 立たなかった。具体的にいうと、﹁ 家 ﹂制度 に 抵抗とはいえないにしても、積極的にバック ア ップ する姿勢は示さ 節 なかった。。 づ注ミす 日田 の まの " の 雰囲気と は 、だいぶんちがってくる。﹁ 家 ﹂制度をここ に 論ずる余裕はないけれ 儲 ども、精神形象化された﹁ 家 ﹂というものを 、 子々孫々にまで、継承するという考えかたは 、この宗教では ぅ すい。 島 なお族制のうえで、日本の﹁ 家 ﹂制度は、男系 で 構成された本分家関係という構造的な文脈に 位置している。すなわち い 同族団である。ところがカトリック村落では 、この文脈も稀薄である。そこには、あるいは 大原のいう﹁平等主義﹂
れない。つまりこのために オぎ経ぢが 、単糸 で なくて、双糸︵ヴぎ 申 ︵の︵ p- ︶ 17@ (W) マニズムの立場ではない。社会化され、風土化さ れているといえる。それで第三の聖職者の問題 である。ただこの 推 論 が成りたっためには、長男を神に捧げるとい, っ 事実が裏づけられなくてはならない。ところが われわれの調べたか ぎりでは、そうでもない。むしろ出来の良い子 を 神父にしようとする。心神学校から始まる ス クーリングがあるは 上 、これは、当然だともいえる。といってわれ われは、カトリックという信仰が分割相続、した がって末子制と無関 係 だとは考えない。しかしそれは、この慣行を 織りなす経緯のひとっにすぎない。少くとも、 こ の 慣行がカトリック という宗教だけから生まれた、とは想定できな い 。とともにいずれの宗教でも、別の文化に移住 された 場 八口、多少で も 風土化という作用を免れない。魂の間頭 は別 としても、制度・慣行の面では、完全な純血は 、 容易に保つことがで ゼンチョ き 低い。禁じられている離婚も、実際にはなさ れている。改宗しないままの異教徒との婚姻も 、 皆無ということはで
(472) 18 五
、結びに代えて
も う 少し問題点を深めて、本稿の結びに代えよ, っ 。われわれは、さきほどカトリックだけからこ の 特殊慣行が生ま れたのではないと推論した。というのは、末子 相続地帯 と カトリックの分布とは、一部の地点 では、これが一致す る 。黒島もそうであるが、五島あたりでも、隠れかしそれは、ごく 一 部 にすぎない。この慣行は、南九州から西北九 州 にかけて、相対的に 濃厘 であるけれども、瀬戸 内の島や南紀、さら に
点としては、諏訪でも報告され
ている。なお末子相続と似た隠居分家となる と 、伊豆諸島が著しキリスト教文化とは、なんの 臥 係らない。最大 ・鹿児島県下 にしても、そうである。ザビエルが足を印した というだけで、藩制期を通じて、キリスト教から は 、なんの影響もな かった。いや仏教の一部さえ、ここでは禁止さ れたわけである。 ということになると、この特殊慣行の成立基盤 は 、これを別のものに求めなければならない。 た だこの点について のわれわれの研究は、まだ推論の域を出ない。 け れども黒島との関連に注目すると、おそらく ん ラ 体制の不熟という のが論点となってくるであろう。そしてこの論点 は 、さきの﹁ 家 ﹂制度とも、結びつきを持って ﹁ 家 ﹂制度というものが、本分家関係という文脈 に 支えられている、と述べた。ところで本分家 というのは、単に世 的なものに拡大していく。ただ以上は、あくま で 推測にすぎない。が、現象的にはっきりしてい るのは、まえにも 触 れたように、この教徒では、位牌が存しない。 っ まり﹁ 家 ﹂の象徴を欠いている。とともに、 仏 教徒の年忌に似た家 族 行事が無いとはいえないが、祖霊は﹁死者の 日 ﹂に、教会で一括してミサが捧げられる。﹁ 家 ﹂観念に乏しい のえ んであろう。
% では、村落共同体の基盤となるべき共有地 ・入会地を欠いている。土地私有化のもっとも 徹 度 した姿である。 二 0 町
類 で、すべてが天水田てある。いわゆる水によ る 共同体的な規制も、こけ こではおこなわれるべくもない。もっとも 体 制 的には、もうひとっの点が注目されるであ ろう。教会Ⅱ信仰による ば 節 家も散在してくるけれども、地域社会として 0 部落も、その輪郭が定かではない。現在の部 落 がいっ命名されたか。 楠 この白ば不明であるが、しょせんここでは、 部落とは民家のの日立 蒋 といった印象が強い。 それだけではない。黒島 帯の結合ではない。それは一般に、本家を頂点 としたピラミッ 合 である。ところでこうした家格にしても、 家 連合にしても、 ルド が前提となってくる。そしてこれが ムラ であ ると考える。 いえる。この議論へ の 深入りは避けたいと思うが⑧ - 、とにかく ク 利用の権益とからんで、もともと戸の増加を喜 ・ばない。分家の なるべく回避しようとする。特に土地所有は 、家 格の物的基礎 なるものだからである。 ムラ とは、一般に部落・大字の地域が、これに 当 る 。そして あった。ところで黒島である。これが現在、八 部落に分かれて ︵ 3 2 ︶ をもつとは考えられない。壬申戸籍によると、 当 時の黒島は 、 して十年戸籍では、﹁黒島村﹂と改められた。 当 時は、二四五 は 出てこない。一連の通し番号による地番であ る 。また部落 ご ひとつの んラと 見たほうが正しい。加えて奇妙 なことには、 こ ド 型の構成を探ってくる。つまり家格を持つ家々 の連 これが威光や権力として機能するには、一定の フ いや家格や家連合は、ムラ体制がこれを要求した とも ローズド・システムとしての んラ は、共同財産や 共同 制限である。また個々の 声 としては、財産の分 割は、 である。とともに、ムラの支配体系で、その カナ メと この んラ は、藩制 期 には、行政能力を持った自治体 でも いることは前述した。けれどもこの部落が ムラ の 伝統 はじめ﹁前澤吉村南部﹂︵平戸 島 ︶として現われ る 。 そ 戸を数えている。ところが雨戸籍簿とも、部落 0 名前 との庄屋も、検出できない。どうやらこの鳥目 体を、 こでは部落の境界が存しない。畑作料の 常 として 、民
もちろん、この門割判が黒島で実施されたかど , っか 。これについては、なんら裏付けはない。 た だ藩 全体の体制と して、こうした土地所有についてクッションが ある以上、平戸 領 の んラ がコンパクトなものにな りえない。この点は 、 ︵ 匹 @ 其最寄芝 山より同梱渡手付、子細 委ク 書付 ヲ以 - ァ 回申達 事 。 一 、百姓家 古ク 和成建替 候欺 、又者火災・ 風破 水損等右左、 スは 子共余計有文、新規二家作 候 節は 、竹本夫 二 、 ぎ汀雙緊ざコ がこれである。なるほど教会役員な どは、部落ごとの配属となっている。けれども そのことは、部落を の申甲 @ro 口ロ化するよりは、本村部落を除く カト りック 教徒としての団結を強くしているといえ る 。 いずれにしても黒島のムラ体制は、きわめて ル| ズとい わざるをえない。ここでは戸を制限する ようなメカニズム は 、ほとんど見付けることができない。なおこ れと関連して、もうひとっの点が注目されるであ ろう。もっともこれ は 、黒島にはかぎみない。というのは、平戸 藩 には特異な土地制度が存在した。もともと中世 大名なので、兵農 分 離も徹底せず、加えて家臣の知行地を広く残し たことも、事実である。それだけではない。土地 ムロ @ ︵﹁田畑 滝児恨 ﹂︶ ︵ 穏 ︶ の う えでは、農民の所有地と並んで、武士︵郷士 ︶の土地が堂々と名を列ねている。とともに 当 藩 では、いわゆる 門 割判が実施された。その実態は、あきらかでは ないけれども、ただここでは、門割とともに、 農 民の上地私有も認め
政セ年 、松浦静山の定めた﹁都方仕置 書 ﹂による と 、 割皆 は、三年に 一度、あるいは五年に一度が常法であった。とこ ろがこの門割判 は 、新分家のさいにも適用さ れる。﹁手兵数多 有 之 、 竃 %分 ケ候節 ﹂とあるところからすると、 一 戸の制限とは、まったく反対である。いや分家を 奨励した様子さえ 見 られる。 一 、百姓文子女・兄弟 多 、一家 二 居候者 ハ 、典人 数応し 、田畑割増同相 渡事 。 そのうえ分家する者には、建築資材さえ与える れている。 (174) 20
島の相続慣行 推察してよいであろう。しかもこの んラ は 、農 民 以外の武士を含んでいた。またこの武士も 、半 七半農という中間 な 存在であった。そこではじめに引用した神戸 大学の報告に注目したい。本村部落が 旧 平戸 藩の 家臣 団で 形成され ことに続いて、同報土口書は、こう述べている。﹁ 本村部落とかくれキリシタンの諸部落とが、 相 互に友好的な接触 もた低かったばかりか、反目と恒常的な緊張に 置かれていた明治中期まで、本村では長子相続が 絶対優先していた のと考えられる。その後、両宗教集団の間に共 存 ・親和関係が成立するに及んで、少数派として 派 であるカトリック諸部落の影響を受けて、 相 続の慣行に変容を来たしたであろうことは、疑い なけれない。﹂ 要 るに "accu ︶︵ ura ︵ ざコ,の 立場である。われわれ は 、目下のところ、これを反証する資料を持た ない。けれども 両 数 集団をこのようにシャープに区別するまえに、 両者に共通の基盤が存在したのではあるまいか 。本村部落で見ら た 非長子・分割相続も、この共通の基盤から 検 訂 してみる必要があろう。平戸 藩 の 旧 資料によれ ば 、武家層での 長 家督の線は、なるほどほぼ確かめることができ る 。けれども本村部落が 、 歴たる家臣団からつく られたかどうかは あまり定かでは低い。そのうえ平戸 落 そのもの 0% 制が 、以上のようなものであった。加えて 壬申戸籍の分析 か は 、明治初期の本村部落は、﹁長子相続が絶対 優先していた﹂と結論することはできない︵ 別稿 参照︶。平戸 藩だ でなく、総じて肥前国は、長子相続が固定してい なかったとも見られる。明治十三年の日全国民 事 慣例類集 臼は、 前因 彼杵郡 の 条 として、次のように記している。 分家ハ具時々届出 ス 宗門人 改ノ節 届出 テ 帳面 ヲ 政ム。特高 % 分 ツ トキハ役場 ニ 甲田ル車 チリ 。 村 方 ニテハ長男 ヲ ﹁ コ 分家かか 卦か必 かか 訃冊縮 かかかル車 多シ 。 的の︶ 黒島のカトリック教徒も、その母 村は 、 西彼杵 郡 にあったことを附記しておく。
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け ら、 子 れ 宗 す 数
もを た 的
21 (175)つつ ・ ト ののの コ らのの 自 ︵ 8 ︶中川善之助﹁末子相続﹂谷家族制度全集 L 史論 篤 V 、昭和十三年、六三 | 九八頁︶。 ︵ 9 ︶大石慎三郎﹁江戸時代における農民の家とその 栢統巴億は ついて﹂︵円本法 什 ニ学会編同家制度の研 究 L ︵ 上 ﹂昭和三十 一年、七九 | 一二一頁︶。 ︵ 6 ︶ せぎ 0% Ⅰ ぃ隼 。 再 ・㌧・, 0 由巨 ぎのの 0 ︵由ず︵ 0 ﹁ ず 二の ヒふ の Ⅰ ru 年 e コい の。 づ 0-. Ⅰ・ トり ㏄ 0. つつ ・ い ㏄ 印 l ひ ︵Ⅰ 1 ︶ 弓 ぺい ハめ グ % 叫 ︶・・ 巾 臼ミ。Ⅱ め ぎ︵ オ 00 匡づ のの︵ ぃ目 @ 。 コ佳1 の田仁ヰ P の ㏄ - コの 0 q@ ︵ つ り Ⅱ い コペ 0 日 り 。目的 -0 む " Ⅰの 毛の コリ ロ の内の コロ - せ日 ・︵ - ︶の PQ. 黒島 の島 |し 1ヒ一九六一年。 ︵九州大学﹁九州文化史研究所紀要 L 第 M 号 ㌔一二三 | 一五九 ︵ 4 ︶ややくわしくは、前掲拙稿参照 0 ︵ 5 ︶この点が、われわれの調査と神戸大字のそれと の、 大きなちが い とかえる。神戸大学の分析結果を示 すと、別表のようで ある。 卍 一に、この分析では、 栢 続の確定になにを 指 標 としたかが不明であ 0270
教わ老
L 孔 Ⅱ 騰 る 。ただ﹁未定﹂・﹁不明﹂の多いことについて、 こ れは、新民法の施行に 0l ハ Ⅰ - へり よって、﹁従来の長子相続を維持すべぎであるかどう か 、まだ部落民の態度 29 が 決まりていないことの現われと見られる﹂と書いて いる。とすれば、ここ での訊ねかたは、規に 問 って﹁お宅のあとつぎはワニ といった形のものと 推 察される。なおわれわれの分析結果が示したよさに、 長子相続が財産に関し ては、そのまま単独・一括相続になるのではない 0 ま た 非長子相続が、その 3272 まま均分 椙続 になるのでもない。この点でも、神戸大 字 調査は、不備といえ る だろう。Ⅰ相続長芳
ょ未し (476) 22︵ 托 ︶中尾英俊﹁農家祖 統 実態分析﹂︵講座Ⅰ家族 問 題 と家族法 JW 、相続︶。 ︵Ⅱ︶中尾英俊﹁鹿児島県の実態﹂︵川島武官編著㍉ 農家相続と農地 b 一九六五年、第十一章︶。 ︵は︶内藤莞爾﹁ い わゆる末子相続 は ついて﹂宮村落 社会研究 L 第三集、一九六 セ年 、二八八 | 九頁︶。 ︵ 比 ︶費孝通日支那の農民生活﹂仙波 4 惟 ・町石女夫 訳 、昭和十四年、九 0 | 九三頁︵Ⅱ 黛,ま紹 p 宇弓目コぬ ついハ の ドコ ︵Ⅰ用 り - コ のゴ ピコ 坤 ・ トつ いの︶ ︵ 44 ︶局主・ヱ臼 pOl 円ヒコ 屈 八二Ⅰの ゴ り口 ドのアぎ l 打由ぃ﹁ ヰ下し 0 年 コ 印の三コ の| 中の円目Ⅰ ぜ 0 ト刃口 ヘ日 Ⅱ り 。 コ 0 ヨ ︶・ @ コイⅠ 臣ココぃコ ・ トり下 ㏄ こ つつ・トトトートトの ︵ 比 ︶臨時台湾旧慣調査会第一部日番 族 慣習調査報告 書 L 大正セ 年 、一 0 九頁。 ,ク 家族の栢 統 慣行﹂一四七 i 一 五 0 百で - Ⅱ︶竹田 旦は 、床店 県 の 岩 千島 父 ま子蓑島の一つ︶ ヰ ︶、典型的な末子相続を報告している。けれどもこの 化の防止と、子の品 外 排出とによって選定相続的なも のに移行しつつあるという。事柄は別であるが、黒島 の 状況と傾 似し ている︵竹田 旦 ﹁ 法と 慣習﹂、Ⅰ社会と伝 死 、 @ セー一、 昭和二十八年、一 0 Ⅱ㌔ ︵ 00 ︶大原長和﹁五島の末子 栢続は ついて﹂︵九州大 手法宇部Ⅱ法政研究 L 第二 セ号三 1匹合併 号 ㎡ ︵㎎︶なお大原は﹁末子相続﹂といっているがわれわ れの 分柚 ては﹁隠居分家﹂に属する。 ︵ 初 ︶古野清人口隠れキリシタ ソ L 昭和三十四年。 ︵ れ ︶竹田旦 ロ 民俗慣行としての隠居の研究し一九六 四年。 ︵㌍︶喜多野清一﹁同族組織と封建遺制﹂︵日本人文 学会編㍉封建遺制 L 昭和二十六年、一 セ五| 一九五頁 ︶ , @ 行 ︵㏄︶平戸松浦 藩 では、ムラのことを﹁ 免 ﹂と 称した。
報 L 第叩輯 、田租四十三年、 一一八 | 一二 0 頁 ︶。 島 パ ︵ お ︶平戸 藩 ﹁ 郡方 仕置慎二︵同長崎県吏 目史 料篇 第二、昭和三十九年、三 0 八| 三一二頁︶。 リ ︵ 折 ︶前掲㍉黒島口一 0 二頁。 力 ︵ 00 ︶風早八十二解題 コ 全国民事慣例 域 Ⅰ : 明 和 十九年、二一一頁。 23 (477)
本稿 は 、昭和四十二年度文部省総合研究﹁西北九州に 暢清 ︶によった。またこの調査には、土居 平 ︵筑紫女 学園短大助教授︶・野口英子 互井治代︵ 九 大大学院︶・内藤 孝 至︵同︶の参加をみ ︵同助手︶ 究 ﹂︵代表者・九州大学野村れ 坂本喜久雄︵大大助手︶ | 四三・三・五 |
史的イエス研究の 方法 従来のイエスの歴史復元の方法は、資料のふる いわけという単純な作業にのみ頼っていた。つま り 、史実であると 判断できる 信技 性の高い資料のみ手もとに残し、 そこからイエスの出来事を再構成する、という 方法である。もち ろ んこれは史学的に十分正当な方法である。いや むしろ、もしも資料が豊富であるとするならば、 これのみが唯一の 正 当な 史学的方法であると言わぬ は ならない。 し かし問題は、一方では、このようにして手もとに 残しうる資料が量的 に 極めて限られており、他方では、そのままでは 直接資料とはなりえないが、しかも歴史的推論 を 加えることによっ て 資料として用いうる間接資料はかなり豊富に 存 在する場合はどのような方法が用いうるか、 と いうことなのであ る 。この場合は複雑かつ繊密な方法論的反省を 強いられる。そして、間接資料の間接性はその場 台場合に従って性格 を 異にするから、方法論的反省もその扱 う 対象 に 従ってその都度なされね ば ならないのである。 史的イエスの研究は まさに典型的にこの種の反省を要求する場合で ある。にもかかわらずこの点についての歴史学的 な 反省があまり行わ㎝ れていないのがイエス研究の現状ではないのか ﹁史的イエス﹂についての神学的討論は実里 局 度 な水準でなされて iO
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料 説は学問というものの偉大さを示す金字塔 と して高く評価されるべきであるのだが、その金字 塔 へと導くライト モ チーフとして働いた精神は、よい古いものへ、 と いう執念であった、と舌口ってよかろう。マタイ、 ル力をより新しい 福 音書であるとみなし、その 雨書 の 共亜コ料 とし てより古いマルコ伝 と イェス語録たる Q 資料を指 摘 した、ということ は 、とりも直さずマルコと Q の三 % 料を合体さ せることによって史的イェス倣を描き出せる、 と いう希望があったか らである。しかしこれでは、文献学的には大き な 進歩であっても、史的イェス復元の方法論的反 省 としては、古代教 会 以来存在していた 四 福音書調和の試みと同じ 精神なのである。すな ね ち、信頼しうる資料を合 託 すれば、そのまま @2 ︶ で イエス像になる、と考えていたのである。だが もちろん、マルコ福音書も Q 資料もそのままでは 信糠性 のあるイエス 伝 資料ではありえない。当然のことながら、 こ の二 資料よりも更に古くさかのぼることが求めら れた。そして資料 阪 説 としてそれ以上古くさかの ぼ ることを断念 せ ざるをえなくなった時に、方法論的転機を求めて 生れたのが様式支所 究 であることも周知の事実である。そしてこの 方法が今世紀前半の福音書研究の飛躍的発展をも たらしたこともよく 知られている。しかしその 動横 たるの、より 古 くより確実なイェス研究の資料にさかのぼろう、 という点で、資料 阪 説の場入ロ と およそ同一なのである。このことは、 様式典研究の主たる推進者の一人であり、その 後のイェス研究に最 -1- が 確立されるまでの十九世紀新約学の努力は高 く 評価されるべきであるし、今日でこそ常識とな っているものの、二 % いながら、その討論の基礎をなすべき歴史学的な 問題については案外初歩的な反省すら怠って い 6 場合が多い。 啓蒙主義以来、新約聖Ⅲの学問的批判的研究が なされるようになってから、今日にいたるまで、 福音書の文献学的 分析の方法はいろいろと発展してきているけれ ども、その発展を通じて支配していた精神は 、あ くまでも、より古い より確かな資料にたどりつこうとする﹁ふるいわ け ﹂の精神であった、と言えよう。初期の福音書 研究はいわゆる兵額 福音書問題に集中した。共観福音書相互の利用 関係を追跡し、ありとあらゆる可能性が検討され て 、ついに 二 資料 説 (480) 26