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法  界  観

ドキュメント内 『宗教研究』195号(41巻4輯) (ページ 52-55)

巻 

頚旋 

イ寸 @ 復 

法    

     

キ土木 土 

   述総 

  

ここで注意しておかねばならないのは︑時代は少 し 下るが︑日本以外の経 録 で法界観 門 に関連す る 唯一の 書 ︑義天糊  録 ︵ 一 0 九 0 ︶の記述である︒それは︑ 

住銀およびそのあとの円珍  ︵ 2  t   録 ︶  ︵八五九︶以降︑  杜  順接たることが確実  祝  されるにいたっている︒ 

52 

nAu  対照した諸本︵五本︶ 

Ⅲ法蔵 

撰 とされる 発 菩提心 章 

㈲澄観の法界 玄鏡 

㈲宗密の注法界観 門 

考 ㈲ 紹 元の法界観 門智燈疏 者 撰 

  ㈲延寿の宗鏡録     観斤 ︵ただしこのうち㈲は三観別々に引用する上に ︑ 真空観第一に関してかなりの改変が認められる ため︑必要㈹ 

界   法     に 応じて対照した︒︶  なるのである︒ 

現存する法界観門の注釈 書 のうち最も古 い もの  ま︑| 澄観の法界玄菟である︒・・・ 金 ︵ 6 @  ︶ これが日本にはじめ て 伝えられたのは  / 三九年であると思われ ‑7 

︐︑ 

︶ 法界観門の最初の伝来 より三十年ほど後にあたる︒そこで筆者は︑ こ の 法界 玄 鏡の引く法 @@@ Ⅹ  界観 門を中心として︑注釈者の注記にも留意し つ っ諸本の対照を試みたのであるが︑紙数の関係 上 ︑その対照表は 割 

愛せざるをえなかった︒ここでは︑対照した 諸 水と︑その対照の結果判明した諸点をあげるだけ ほ とどめる︒  きて " ここで問題は︑澄観︵・七三Ⅰ @ / | Ⅰ三九︶ 行︶ 1 ︑ 宗密︵セ八 01 八四一︶の時代に︑法界観 門が すでに存在したが 

どうか︑もし存在したとすれば︑その内容はど・ つであったか︑という点に移ってくる︒軽銀その 他の検索によって ︑  法界観 門 なる書物は八 0 五年には越州に存在し︑ 八三 0 年 ころには明らかに 杜 傾壊とみなされて いたことが認められ  たのであるから︑ある程度︑澄観低いし宗密に よる抄出という主張はくずれるようにもみえる︒ しかし︑これだけか  らは︑それが不可能であるとはいえない︒かく て ︑諸本に含まれる法界観円相当部分の対照とい う 次の作業が必要と 

︶ 宗密以前に︑澄観以外の注釈者が存在していた ことがわかり︑第二節において判明した諸点の う ち︑ Ⅲが補強される     ︵ 幼 ︶ ことにもなろう︒同様に︑そのうちのⅡを先の最 登録とともに裏づけるものが﹁清涼 書 ﹂である ︒この資料は︑宗密   

が 澄観と出合う以前に︑商況 宗 の 遂州 大雲寺門 和尚なる人から 終 市大師華厳法界観門を授けられ ︑これを修行の助 縁 

としたことを語っている︒澄観との出合いが 八 一一年︑宗密三十二才のときであるから︑宗密が 法界観門を見たのは 

それ以前のことに属する︒それ故︑遅くとも九世 紀 初頭には少なくも数冊の法界観 門 がかなり 広 範囲にわたって存在 

していたことになる︒ 

しかしこれらによっては︑法界観 門 が歴史に登 場 する時点は︑九世紀初頭までより確認できない ︒この壁を破るの  3  その他の法界観 門 関係資料 

以上︑第一の軽銀類の調査︑および第二の諸本 対照によって︑法界観門の周辺はほぼ明らかに なったと思われる 

から︑次に︑澄観や宗密に直接的に関連する 資 料を探ってみよう︒ ︵ ハ l Ⅰ︶ まず注意されるのは︑宗密の注法界観 門 に付さ れる 菱 休の序にみえる﹁数案文 疏 ﹂の記事である ︒これによって ︑    ︵Ⅱ澄観の時代にはすでに注釈者があり︑その 注釈 書 が流布していたこと︒澄観が法界観 門 の 本 又 とみなすもの ‑8 l ︶ のうちに︑何人かの注釈の混入と思われるものが 存する︒    nBU  判明した諸点     ︵Ⅰ全体的には大きな差違はないが︑重要な点 での相違があり︑それぞれが依った法界観 門は︑ 一応異本と考え 簿 

ねばならないこと︒澄観の時代以後︑二系統 以 上の法界観閲が入り乱れていたことが予想される   

︶ く Ⅱ澄観の時代︵おそらく 八 セ年 ︶には︑ 少 なくとも二種類︑澄観の注記を信用すればそれ 以 上の単行﹁法界 

観閲﹂が存在したこと︒ 

  

正法界観 門 』撰者 考  だ 

ドキュメント内 『宗教研究』195号(41巻4輯) (ページ 52-55)

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