――目次――
1,
いわゆるパストラル・カウンセリングの宗教的基礎について, 谷口隆之助, The Religious Character of
Pastoral Counseling, Ry
ūnosuke TANIGUCHI, pp.1-15.
2,
第四福音書プロローグにおけるロゴス・イエス, 川島貞雄, Jesus the Logos in the prologue of the Forth
Gospel, Sadao KAWASHIMA, pp.16-37.
3,
ジャータカとボサツ:特にバルフート彫刻における, 杉本卓洲, Takushū SUGIMOTO, pp.38-62.
4,
日本における民俗資料の地域差より見た祖先信仰(承前), 坪井洋文, The Ancestor-worship, from the
Viewpoint of Difference of Areas in Materials of Folklore, Japan, Hirohumi TSUBOI, pp.63-69.
5,
宗教社会学における機能主義理論(下), 柳川啓一, Functional Theory in Sociology of Religion, Keiichi
YANAGAWA, pp.70-90.
いわゆるパストラル・カウソ セリソグ の宗教的基礎について 領 と 医 い ヲ は る そ
域い学
にぅや
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" ス ル・現で
"のれ一
肛般
お こ 精 と ト ヵ 在 は 必 に い と 神 く ラ ゥ に た 要 て に 分 に ル ソ お い な パ 教 あ 析 ァ ・ セ い 。 指 ス 職 る 学 メ カ リ て し 示 ト 者 。 や リ ウ ソ も か を ぅのは
治 と グ に的は
と ソ ス さ と 療 し の 君 な 、 す セ @ ま り 心 て 原 千 晃 パ る リ ラあ パ 密 発 た て い ゥ と 職 セ ず ス
接展
そ お る ソ老者
リ 的 ,悩 ソ る が つ み グ い り か や の は そ て葛 申 そ の の は 的 の ざ い
漢心れ時
関 そ な よ ま て な 的 ら徴ら
れ 性 ぅ の口
ら 格 な 間の や 理 題
解事景様
長 点 そ 解 の 決 が と 相 近 に の が 相 を 、 し は の 中 内 直 談隆
Ⅲま と て " こ 心 容 ち に か く さ や に ち ぉ 京 ま ず之
そ 押 し 常 年 て に が り パ 関 い
助
の 果 て に 間 精 常 き 精 仁 ス し で そ 神 の た 補 お ト て あ れ 1 . て 335 ノンセリングの
宗教的基礎につい
て
れてきたことをものがたっている。 ることにあるのであ いる。とくに以上のよ 理学的な次元での配慮 るか、ということであ って単なる心理療法に ま 、あるいは宗教的 配 的な カ ウソセリングが ウソセリングとパスト 則 しょうとする主張も ていわゆる正常の レベ 経的 疾患に悩んでいる 、教会員を対象とする 的な相違を決定するも はそれぞれの ヵウ ソ セ ついての考え方も非常 に 雑多をきわめている実状である。 ということがそれ 自 いる。パストラル・ カ (3 ㏄ )
いわゆるパストラル・カウソ セリソグ の宗教的基礎 は ついて
︶パストラル・カウソ
ということは、古来、
った
。あらゆる時代の
たし、またその実践の
がって行われることは
に 明瞭に意識化してお
示教の型
態 に即した人
即した人間存在そのも
あるという理由だけで
綱
間 としての本来の意味
3
れは
真
なのである。
に獲
にそれ
慮
の
結
ではな
、対象
ある。
止め
かし・
ハ
れが単に新しいということにあるのではない。
それの
配慮
と
全的状
きらか
ハスト
精神分
てきた
と 析 う に 況 は も ス ょ い 学 か し の ま つ ト ラ ぅ や て な っ 甚 う な 事 ま 力 きかた
木 が 意 実 た ゥ た で く 的 ・ 味 が さ ソ と 生 異 な 力 に 、 ま セ こ き り 意 9 % @ で慮 は の 発 を ろ す 教、 で な こ 的 要 ぅ る 的、 i 期 @ 4
いわゆるバストラル・カウソ セリソグ の宗教的基礎について 6 (339) と と い
学が
るの極
のしか
と く 常 ぎ美美
そ し そ " 的 。 背 の 症 て " し " や 丸 た 現 はと
解生
ぅ 実 し ょし性
消 た い 析 を 症 る そ 践 よ逆 と ら を
決定物
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清 も 、 案 問 る 漬 れ 神 て の う の 人 生 学 義 の とそ 精 な 性に存のや して 合駒 こと 学 問 に案 哲学 的な
、ま
究 の ほん にお 力しょ、
にお ヵが こ うや な げ で 規 。 移 し に 現 お 々 よ の 的 的 ら れ と
床
形そ
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間 療 約 6 形 し の 。 と 的 仏 式 の ま 間 す ひ の 存 目 妻 べ 式 て 一 く ね 理 どし 配 の 間 現 は 生 あ で 、 る 個 を あ 間 は 神 て 慮 領 題 実 な 物 る あ そ 究 々 通 る 題 な 異 お な
可 親 元 は い る で リ 神 は 人 ど め く と 内 る 域 能
性妨
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にそは スま能 っ千声 怪珂い窩珂八
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現 で ほ の げ は い う に 疾 て も 意 げ 入 、 現 人 理 さ あ 、 で る ま 。 ル こ 患 の っ 譲 る が し す に 解 れ っ全あ
身 た そ ・ の の 、 と を生家か
る と と ほ て 体 り 体 、 れ 力 よ 治 特 遇 美 き 教 し 行っ人
い " と " 的 各 は ゥ ラ 療 に 切 銭 た の そ 為 て 間 の そ し 各 な 沃 土 ン な な 値 な す 人 真 の で は 配 で め て 個 も 元 物 セ 現 し 人 配 る 間 の こ は 、 慮 あ た の 人 の で 学 り 実 に の 慮 た へ 意 と な 説 と る め 人 は や の 的 ソ に は 独 の め の 義 は く 教 の 。 に 間 そ心配
な グ 答 " 宮 方 に ァ を 現 " は 意と ぞ の の な 密 で あ ぅ 的 っ も 宗 l な に 不 や そ と れ 在 次 も 接 の く と 配 い た 教 チ い と 安 革 め も の り 元 の な 配 ま す 慮 て な は が で っ か に 重 に 次 か の や 遠 慮 で る も の げ 人 ま い て ら 八 要
問 お ゆ 老 的 も 心 的 の 真 分 な つ っ い 自 、 し に が け が と な っ 理 配 形 の な ら い て ぅ 体 真 て 目
常るめ
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学慮式効理
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、
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成立 現しy0
こま ぜな 正 と こ ぅ であ 無用 逃 ら にV
力主 に と の げ 香 る 単 も い る 現 臨 の ま の る な 援 体 は し 主 る 次 配 に の か い 代 床 で た に た く 助 で 全 て
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庶 生 な ら は の 的 あ 宗 な め な を あ 体 の で つ で と 物 の で ま 一 な る 教 つ め っ 期 る と 人 あ の の も 学であ
た 般 知 。 に て 手 て 得 か し 間 る部配
、 的 あ る 精 的 識 宗 お し 段 お し ぎ て 存。
分慮
原 な る 。 神 な を 教 げ ま で り て そ 間 究 の で む に や ト や の な の 間 と な 教 ラ抑情
け真理い
く的と
の の 龍 一(3%) 6
ばならないものであ やその直接の治療目標はそれぞれ 異 っている。 しかしそれらは、区別 おいて云えば、それら 学的次元における治療 ものであるに対し、 宗 たそれぞれ以上の よう 云 う ことができる。
ゾコ
性 について基礎
とすることだと考えられて のである。それゆえもし一力ウ
ソセリングということ らい相互的な人間関係にお にまたカウンスリーであ スリ一
とのあいだにまった 一般にい
わかる指示的なヵ
立場にたちカ
ウソスリーは いからである。とくに ヵゥ⑭︶
くる。
が 基本的に非指示的 ホ杓治療法の体系にお
であり、そのクライ ヱ
の 真に相互的な人格 関
、治療者に要求されるもっとも重要なことは、 その ょう な人格関係を
はさらに積極的には 受
ポ 指示的であり受容的
くにカ ウソセリングの
るよりもむしろ治療に
が 必ずしも真の意味に
面 なのであって、その
な 治療の技術なのでは
ウソ セリソグ における
変化をとげる、という
るのである。しかし、
なく、基本的には人間
れはよ く注意しなければならない。
た 同じである。むし
い 。なぜなら、 ヵ ウソ ( , 342@
いわゆるパストラル・カウソ セリソグ の宗教的基礎について
数人
ソ る 間 間 然 る で あ 心 五 人 の う セ セ城間
グ 。存活
こ に 。 も り 理 の 間 根 こ 以 リ リ者存
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あ ス の の で ぅ だ 、 あ 浅 慮 活 的 で の グ グ の の り ト究一
と と 、 あ ら や を動な
あ べ は のほん れて 次
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図 的い元極
ソ ・お の て あ い な に ぅ す と パ に ら 動 げ の ソ 括 っ た存 配慮ので な 関 の とは であ 決
、
サ のま 家 門 ソ ウ 次元で、
い よ こと 人 な それ 力 ・ の究 は と 係 こ り し と セ で そ 。 を 間 を ゥ 梅 花美 う は の で 異 配
、
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人 げ ぎ そ う 可 て 在 そ も う 情 底 と で可 質 に 忙 怠 の
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能 的 あ お 味 こ 一 的 に る い と と つ な は 間 て が で のヴ あ の え り あ 人 人 偏 あ れ で は 相 る 在 い ゾ 9 (3%)
(344 Ⅰ Ⅰ 0 て そ 克 の と 存 る に の
お成美
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服とでに 在こ 実大げ
性 現 人 も先す
こ ち お の と存部
る お さ 間も八 。
に 間 も ち 行 る る る い 究 に 分 分 そ げ せ 存 、 活 ち 6 集 力 で 。 て 極 重 祈 が め る る 在 パ 動 ろ ん 件 を " の 点 の " 可 運 こ の そ と 獲 大 成 次 を 系 い 能 命 と あ ストラ、
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ぅし得間
正元 お謡
わ 性 と に ら う ち あ ル の ら 9 本 と にウ 0 人 ン 活 が の 重 こ る
第要
と 可 り の と 相 う い 集 え げ ト リ と ス 一 な で 能 、 可 を 談 ち て 埋 れ る ラ ン し ト容 V を と 極 に が わ 見
す人
物 の セ 勤 め セ V と 得 いの
お お の し る 間 ヰ 井 口 リ と @ に い さ ぅ あ ぅ せ こ る こ よ と と と う は の 能セ専
もこことの
る る はの の な 目 ら ト い と て と や 次 で で い
はスる実
"ト配
現 さ いうし
努はで
" 元 あ あ が 白 う 慮 を す 可 か は 力 、 あ 社 に る る 分 か め 妨 。 あ ナ 」 ら 身 力的す
と の ウ 性 き の あ な る こ の Ⅴ こ二 ゥ が る v= る 属 ン あ さし領ソ
て域セ
へたいら
ののわ ゆ命れ
運そ
、 人 す セ る ま 油 で り 可 に ゆ る や ぞ 配 は る り の さ 自 あ ソ 能 た る 配 、 れ 庶 人 あ ソ で ま 性 る グ 佳 い 臨 恵 ま の 0 間 ら グ あ の を と は を し 床 は た 可 も い " 洞 " 心 火 美 籠 相 存 の に る 要 互 在 る お が 因 っ ぅ 大 祭 と 理 間在住
限 い 、 を も こ 間 す く 学 に 領 を 性 と と しいわかるパストラル・カウソ セリソグ の宗教的基礎について
ままの自分を受け入れる、ということである。 しかしそのことは、 自
ている、という体験な
によってはじめて自分 現実であるとともに、
味 で八受容 V というこ
容 ということは、 P.
﹂とを意味するのでな
いのだ、ということを
はないのである。
て 直面する、そして
実存情況における三つの局面を注意してい
卸
。ている情況である。
覚は不安という言葉で して常に、意識的、無
に 無がしみ込んでい
かし、苦悩、偶然、病い、孤独、不安定、弱さ、 また誤謬が 、 常に人間 なければならないもの
克服する、有限を越え
越えた力を伝達し、 そ ⅠⅠ ィ 345 Ⅰ
されると き 、死と同じ
分 自身を受け入れるこ とができるよさになるのである。
ての人間はそのほん
いてある姿だというこ
遍 的な不可避的なもの
の 現実の情況である。
ばならない。われわれ
かかわらずそれにたい
の 在り方であるの え
外の情況を自分の力で
としたら、われわれは
間行為も、みな不完全
いまいさにもかかわら
グ は目ざさ ほ げればな
がその ょう な自分にも
るという 確心 において
もかかわらずなおその
能 であるということである。 (346)@ 12
いわゆるパストラル・カウソ セリノバ の宗教的基礎について
ることにある、 と云
の 不可避的な情況の中
のうちにおいてのみはじめて可能なのであり、 また否定的なものを 受
受容を可能にする力を
信仰という状態も 、ま
うないのである。
性 について ( 田 7
する超越的な力にあは ことなしには決して ある人にたいして、 彼 生の可能性にたいする もそも不条理であるか のによっても克服する る 懐疑 や 、また究極の の 懐疑のなかにありな るということは、その 力 の うちにあるからこそ可能なのである。
以上のべた
礎 とし、そし グ を前提とし 面において、 てもっとも 深 ははじめてそ ことからして て神学を前提 、存在論はま 真の意味での く観察される の本来の意味 ・カウンセリング は 人間存在の存在論を墓 同時に、神学はパストラル・カウンセリ ソ ぜなら、パストラル・カウンセリングの場 間 存在の情況が、もっとも具体的に、そし の 関係においてのみさまざまの宗教的信条 からである。 7348 Ⅰ Ⅰ 4 は の う 可 ち 受 な ス カ 画 し る な で l 能 に 容 る ト な 者 い あ は に こ に の う の の ヵ と か る 魅すのおで
かだ 真ゥ
云 ら 。ザる
よ い あ と の ソ Ⅰ で そ し 超 ぅ て る 力 丞 相 ス こ あ れ も 越 な な 。 ウ ラ 互 リ と最 パ な 力 そ 意 ゆ り な を こ き 善 ス 人 は れ 的 る ソ の 支 の る の ト 格 と な む グ で え 力 で 場 ぅ
者そ
し も 理 自 あ 、 に あ 含 め で こ て の 療 体 る 力 お ろ V ナ 甲 あ に 仮 に 法 が 。 ゥ い う お 力 っ お 定 な や 成 れ ソ て い ゥ た げ す り ま 立 し セ 自 そカ リ す ウ と 療 に の の の 人 え ウ ソ ぐ ソ が 着 心
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罪 間 パⅠ い 学 の い 性 な 人 こ な し か は
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個 た に 次 間 の そ て ・ 一つ決あ
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ソ 何 て た 在 る 左 げ 発 と 容 の セ俺窃り、
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は ぎ セ た す っ る ン 元 え 度 を こ な う 偉 る て 傾 セにた
を 実 の い l 大 も よ 向 り お 刃 文 呪 力 0 目 な め り を ソ げ の え し に で 身 伝 で 。 も グ る も て て お あ な 道 あ パ っ が 充 と い い い る 力 者 る ス の 、極に
る く て 。 ゥ で ゆ ト は そ 的 あ の の あソお
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カ リ 自 ヱ が よ 超 に な ろ は ウ ン 体 ソ 呵 っ 越 お ら の な ソ グ の ト 能 て し い な で か セ を ぅ の に パ た て いいわゆるパストラル・カウソ セリソグ の宗教的基礎について ナ ・ Ⅰ -
き
問し 悩た講
1、
く の 上、
そ ヴ ね 、 ゾ 中心下
l で 口頁以
のの卸 る ・新の しの
15@ (349)
は
しが
ぎ
の書
として認められて
び
表現の指摘にとどま
と審
きの歴史的行為に
ついての基督教的便信の提示に外ならない。
の中心と独自性を明
格
、内容も示されるであろう。
プロローグ釈義の予備的諸問題
部分は本論と如何な
ける
ロゴス・イェス
島
貞
雄
(350) Ⅰ 6
みれるので
め 小
る
ス フか
。一見するとプロローグは
、
それ自体で完結し
、
部分は
、
例えばル力に
は
﹁この
プ
コローグの驚く
的
意味での序文として
おいては使用されてい
余
であったことを考慮する
ることが出来るかもしれな
p
一グを
、福音書記録完成
とは出来なⅠ。他方、バル
の神学は書物全体に対する
は
プロローグと本論との
密
コローグは外見上甚だ思索
プ
にあったことは言
う
までも
p ゴス
ない﹂。
四
された言わば 追て 書き
べきか、それとも、
が、 予めこ ム で瞥見し の 哲学的基礎を形成
Ⅰ 7 Ⅰ 35 Ⅰ )
見えるが、決して 孤
闇 との対照、 p ゴス に
るが、同時に、本論を
要 ﹂、又は、記者の シ
し っュ、 従って、イェ
の 歴史像を離れては
のみ理解し得る﹂。 笛
ぁ自 ︶ やり 8 み め く Ⅱ か喰禽 ⅡもⅠ ふ Ⅰもも 卜甘 G Ⅰ
ておこう。
もこの ょう にして結合されている。例えば四、
対比的に︵ 五 、十、十一 第一話として繰り返さ 讃歌を復原せんとする 五節は次の如く続く。 日郎 b ︶、あるいは 第 い う 確信の光において 加 されていることが められる。即ち 、短 木口 トづ o や e の 寺 づも q ぁ 0 ﹁Ⅰやや 自 ︵せ悪。 (352) t8
第四福音書 プ p 臣 ログにおける p ゴス ・イエス
mo
の Ⅰム音
散、 壬め
一口 9 ミ%
叙様
述 々、 09 は
のに
境 分 証一一
暗ィあ
出講
型 敬 処 て に い決 る Ⅴ つ P " 一 ト ロ " 調 の 最 の よ " 一 め
る
がし
Ⅰ 学 神 に 口 る て ス 角革 化 - 、 釈 れ ゴ か も 美 を 上 も い る て ス い ネ と る の で と し ゴ ら 極 ど ゑ囲守
mo
のゴ ・ 9 (3 ㏄ )
ロゴス・イェスが語ら
に 主語で、五節でお目の
りを指すべき代名詞
0 のが意図され、ロゴ
、こふ では受肉のキリ
故 に 、 少くとも 九|
ば 、イエスが歴史上で
、四節から受肉の口
ピ 善二章六節の如き 意
同一視されていると 見 ることも不可能ではない。
めてこのロゴスを イ
げることは出来ない。
或る歴史上の人物が
トの 歴史 像 に支配され
益 である。 ぃ 。が、その前に 、 p
﹂の書の読者に既知の (3%) 卸
第四福音書 プ aa 一グ におけるロゴス・イエス
ぶ Ⅰ
ふ
㌣
ミ
0 のと語り出
一般に思索されていた
ている。
守口づか
ノ
& 弍
。 さ
生きることこそ人間の目的で
ある。かくして、ロゴ
既にユダヤ教の知恵
文
では、ロゴスは自然
世
ソによ
れ
ば
、基督教
以
かて。
ゴス
は人間の
を
与える原理とし
り
、地上の人々の
と
トーラーがこの
ホ
クマ
1に相応し、世界創造、救抜、啓示に関係す
る討
O
想
世界に流布してい
リシャ的・哲学的か
、
2 Ⅰ (355)
して、只管 目ゴス の絶対 ︶ものかの 音轄ピミ 0 の二節 了 最初の部分ではなく、時間 Ⅰと言われている点で、 創 示され、そのぜと一切の ノ 本心 0 のと記して世界の起源 p ず る 教 と ば ィ れ ス
的異
。 徒をな
ェ てはか
教スい
千、
抑 的エ れ
裁ズ
ス釈
ス義
学
的研
究 ぅ。
㈲ 威る、
しシ者諸
ャ が ぽ、プ さ で 約 6 め レ 化 戸 ダ P ね ち 異 こ れ の さ ゴ ヤ ( 姦 56) 92
第四 は イェスにおいて神典 福音書 プ aa 一グにおけるロゴス・ ィ の 定 ス 新
約はで宰我
でっ(
如せの
聖 な あ ㌢ 々 く ず 流 に ス つ の 薄 いい性簿る
。単筆
お Ⅰ
, 規 (35 の ニ ス
ゲ不スの
主張するロゴ
起句は単なる宇宙論では した何ものもなく、世界 ァ的 ・内在的に理解し、 絶対性が意図されている さて、徹底的な意味で では、 p ゴス は神に対し も而トぷ ものかの曲Ⅰ㌔ ノト 柁もの。イェスの人格と言葉には、世界と時間に起因
スティス優二八五
乙
はこのロゴスをスト一句では、ロゴスの超越性、イェスの啓示の のである。
置かれ、 神 自身が問題とならざるを得ない。
句 をもって答える、 ふノか柁 0 の 音 丹下かの﹁ かヒ
、 神から離れた独立性を有するロゴスも
かが述べられている。
いる﹂。それ故、この
下されていると見るの 用 であり、これに ょっ 、 福 青書の特色の 一
いることから明らかで
記者の主要事であり、
う に思われる。 斡 & ︵﹁ ゃ とに角、 p ゴス は創造者かその媒介者かはや
の役割を演じている悪魔や他のこの世の諸刃 も 何にして世界が創造さ 福音書において一 つ まり記者はこ ュ で宇宙
の ﹄媒介者ではなく 神
されるべきではない。
と 神との関係が 、こム
すれば
" ㈲
﹁言は創造 される。 見た者は、父を見た 味 でのみ、もめ㌢ 寺軌 啓示する。 のもの 守 入目もが 例 田ダ ハト③。かくして、 世 (358) 簗
第四福音 昔プ ap 一 グ における ロゴス・イェス て ス の る ス は の
能光
ゴ 歴 グ そしのに
ゆ故の
く % Ⅱ 0 Ⅹ 光 イ簗 ( 鋳 9)
この書に三十六回用
々に り 8 ふを与え、 彼 音書は正しく人々に ことして、この句も は 、テクストへの読み込みであろうか。
ではない。
ぁ oq
モ o のは一つの純粋な運命とし
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証人としている故に
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るとも見られる。
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るのではなく、寧ろ
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に 闇に陥るのである。
によるイェスの受容
(3 ㏄ ) 26第四福音書 プ巨 仁一バにおける 宇ゴス ・ イヱス
記者にとっては、十二節の卸
キ Ⅱムセ。
8%
Ⅱもは
ぎ
。年
p
を持っ人格、
ナ
﹁のも。
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㏄のⅡ
か曳
Ⅰで
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共観福音書と相違して
いる。
ダヤ教でも密儀宗教
神の国に入ること、
永
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的所属にも、律法
遵
レニズム思想における
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へし
をロゴス・
イェ
与えられた資格、権
するため、
焉賭
せず
事実は今や再び最も
わ
け
で﹂、﹁要するに﹂
リスト論的逆説も別の
的
、人間的領域を示
、人間そのものを意味
W (361)
(362) 報 者 の は お 節 神 ギ ふ 、 ノ丈 。
い へ
目 一 同 か 節 の に t, で と 人 の
くお
密 くきまっ
るプロロ( グ におけるロゴス・イェス 駁せんとしているよ う ㈹ においても、 ヌタ スによっても神は見られず、 信仰がイェスの中に神村
る 言葉に屡々突き当
の 何ものも創造に関与
か ㍉ ダ せも 竜 ㏄ ふ めや 岱 ︶ づ ︵ % よ
トーラ 一 が記者の念頭
セソト は て 0 セ 0 に置か
一の 間 、唯一の道であ
味 で、彼を モ oqo 弍 me やのもの & のと表白する。 すら感じられる。 記
していることは、 六| とから確証され得る。
は ヨハネを神から遣さ
想像され、ヨセフスに
見られるような メ シ ャ を 制限し、論駁する。
たって十七節は
に 散見出来る 鴇祝 し、彼を除いては
る 。それは最早、哲学
て 神が自己を啓示し 給う たことの告白、讃美、 証言、傍証である。 こ
てはきるのである。
Ⅰの田口 ヱ 0 目 、目 め 白の。 づ ㌧・㏄かの 円
謙 ﹁第四福音書プロ
参照。
0 ︶ o ㏄ po 目口白パ ノ ︵ 0 プ 0 ︶ Ⅰ レ ・の・ めレ の 目 ・︶ と訳 終始 し ま 、 た
さ
を
ァゥ 三二ⅡⅡ スな ( Ⅰ
003)
兵しで
更に よ 然 し い O プ がぽ、 を 素 行 で 為
月
はな く 、 芭 ) 叶 充分に表わしている。各曲 巳 ︶ や 私議伝達 音
が ロゴスである。神は
愛し、 審き 、救い、生かし 拾う一 い 。 かノ Ⅰして、プロ 臣|グは 終結する。
結語
の蹟路 にも拘らず、 (.3 材 ) 30
第四福音書プロ 仁一 グ におけるロゴス・ イヱス
㈹㈱㈱
i2,U㈹㈲㈹㎝
a6@㈲㈹㈲㈹㈹㈹
宙コ 甲の月 由ざ 日夕 Ho のの・の・ ニキ 参照。 七く 二片 0 口㏄。 0 ㌧・ わ円 ︵:㏄・いい の
の収の ,づ ・ いい の
Ⅱ め倖ざぃ 0 臣 。 ト 0% か 。 ジ ト串参照。 口口︶︵日のロロ, 0 甲住 ︵:の・︶ 曲
のの。の・ A か 小参照。 い偉 Ⅱ目のせ・ 0 せ ・の ぃ蒔 ・︶ で ㌧・かつ 申 口の ︵目の田、 0 や住ごつ u.n ニま ︵による。 い 日ヰ日の巨 目 ・ 0 づ ・の ざ :の ,の (9) (8) (7) (6) (5) (4)
oh ︵ け のの オユ の h. い のか 0.0. ㏄。の
め ・ ロ ・ⅠⅠ 抽す ︵ ヰ 00 Ⅰ㏄ ダ Ⅰ 0 甘口・のの 0 ので と ・ いの印 0, Ⅰ・ べ ㏄
日車︶ 0 す目 鱗 ︶ 鰍ゲ卯 お参照。
口 日色 9 ︶ 0 ァリ目 9. おお。の・ H 参照。
めバ・ ロ のの・ 円ダの
0% ごト の㏄㏄ ,づ ・ ロベ 。
旬ト 。 ロ ・トト㏄ の ︵ Hp ︵ ダ目ワの ロコ、 0 口 ・ n 田 ︵・の・ N ㏄
の,づ ・ の 31@ (365)
イス は五節をロゴス
どによる︶。
アの 0 の で の㌃︶の印の・七 つ ・ N の㏄ 申
/ し 。 宙伍 , 0 づ ・ 伶ぃ ︵・ " ㌧ づ い のは 坤 ・︶。 ㈱㏄︵Ⅰ 曲ヰす 日のロコ・ 0 せ ・の ぃ ︵:の・㏄ ト ㈲ 臼 HP 日日 りロコ 。 Ob.n ぎ :の・ 揺 ㈹ け日 ︵ヨの目・ ob.c ロ ︵:の・ ゆ ・ お
以後の書物から推察
曲 二ロ︶ 0 ㌧・の ざ ・ の 仕 ︶ 片 参照︶。
照 。
と 福音書との並行的
して、ドッドは
タ ︶ の のの・ p 口 ・べの 曲 参照。
救 極論的︶。 6 。 仙戸 ob.np ︵: 毛 ・の づヰ に 卜 よる︶。
要素が認識され、 ホク
の日笘 ⅠⅡⅡの目目 円 @ モ " か田
ホす 6 日︵日当 ダ 0 り ・ 0w 円 :の・の︶。
歴史的、実際的受肉
ゆ参昭 ︶。 (366) 32
第四福音書 ブ aa 一グ における p ゴス ・イェス
㈱㈲㈲㈱
㈲㈹㈲㈱㈲㈹
㈲㈹ ㈲ 一目 も ソ も一 アしる
。
の臣 ・ 田 岸 倖 ャ 」 よ ァてが
い (神 ま い ㏄ つ
き㌧
Ⅰ。
臣か 降
目口 舌 最
肝 ㌍ ( 郎 7)
㈹㈲㈱㈹㈹㈹㈹
佃肋 G0㈲㈹㈲㈹㈲㈱㈹
㈹ 6D ㈹ 縫 0 づ ・ n ロ ︵:の・ N へい 参照︶。 0 岸 二日 捨 ロロ・ 0 セ ・ わ い︵: ,の ・ め日め朋 ㏄ 甲岸 ︶︵ 目曲 コロ・ 0 づ ・ こ ざ:の・ いのるが、これが 全
照 ︶。 創一・一Ⅱ 宝, 。
、 黙 三・一四。
ぃ日憲づ 参照。
の 参照。 い / 二日 け 口口。 0 づ ・ O ぃ d :㏄・い の
◆一一
由 ・ 田曲 Ⅰ。Ⅰ 0 づ ・
0 まム 0 ずタお組 ・ ロ ・ 0 か片 参照。 石原謙﹁上掲 書 ﹂六五頁。
肋セ, 0 か 句作
的 問題について は 、 毛 9 時 O 押 OQ. 住ダづ b. の 0 曲 ・が詳述している。
口 八、﹄ 0 . 一 0 、 二 0 . 三一。
いる 0 り o 宙 P oo. 臼 d. づ ・︶かか参照。 口三 ︵ 日自尹 0 や・ n ロ ︵:押韻 k の参照。
、四六。 口 O 由 P Ob.nwH :や・ N のか参照。
・二四、ピリ
第四福音書 プロロ( グ におけるロゴス ㈲ ㈹ 力 偲
㈹
㈲㈹㈲㈹
三・三 0 。 吋三 ︵耳目 ダ 。 ヲ 。 F わ ・ ま 参照。し印 め づり目的 とぃ 降り 0 ダリロロのの・い の かの・の・︶ 串 参照。 の由・ ロ ・ 渓 6 目 おま、 0 せ ・ n ざ : づ ・ お Ⅱ参照︶。
女 降誕への言及
小円 0 の ガド 目の 、 0 せ ・
70pH : 毛 ・︶ び ∼ 牡 参照。
リソト前デ 五・五 00 一セ ・ ニ 。 の神Ⅱ め圧ザ ︵口ロロロ・ 0 り ・ c ぃ ︵:の・のⅡ
︵ ぃ臣 ぬの・ ちい ∼・ 0 づ ・・ 鋳 ヱ ㈲ り 0 仁丹 ob.n ㌔: づや ︶Ⅱ め由 イ ㈹㏄︵ rP 圧 す 日いロロ・ 0 ㌧・ c ぃ ︵:の・㏄の ㈹ ㈹㈹ ㈹
参
・を後
一 も斥ナ
サま
ソュ田シ
ト㈱㈱㈹
㈹㈹ ㈱ ㈹ ㈹㈹ ㈱ ㈲㈱ 働 ㈹㈹ 6 めめ ㏄ 時 ・一、ハ ・ 四 0 、九・一六、一 0. 三毛一一・四 セ、 五 0 等 。
Ob.n 由 ・・ Q.p ㏄㏄ ら れⅥ 一四・九。
のの
Ⅰそれは疑問
弓倖 ののⅠ。 サの ロロののの, か S 。
五九二 0 、マルコ ハ ・三八、 p マハ・一八。 尚 、 0 ロ︶︵日のロロ・ 0 ㌧ い い * : げ駐 参照。
舶申 参照。
岸 0 Ⅱ︶ 0 ロ ・ 0 ざ ・㏄ き、 N Ⅱ参照︶。
いる GpF の︵・ 0 Ⅰ 0 ぃ * :㏄・㏄鋲 0 由︶。
の ㌧ ヲ ︶ 0 づ ・ 0 ざ Ⅰ の かべ 由 参照。 一 0 . セ 、一四, 六 。
の外の全ての ギ
が 、実質的には、
ゃ に じ 。 尚 、 毛 g ︵ no 尹 0 口 ・ ユ ダロ 口 ・ ま 。乙由参照。
・ 9 ︶か田ネ 用
タイ一一・ニ ー五、 ルカ七・一八 | 三三。 か ・の 0 ザ ︶ ゅ ︵︵の︵・ 0Q.n ∼︵: 縛 お参照。
第四福音書プロロ ( グ における p ゴ スイス ス (103)(102)(101)(100)@ (99)@ @8)
二五、三・二九、三 0 、三一、五・四五 0
ほ ついては、 Op ︵ づ 0% ︵ 窩 。 0 や・ 住こづ b. ㏄ い ま参照。 ㏄ 由 持口が目㌧。 0 ロ ・ 0 ざ :の・切の・ ロの岸 e ︵。 0 づ ・ 0 ざ ・の・は㏄ 専 ﹁・ 切 0 偉の㏄の ダパぜユ 。 の の アふ の︵ 0 ダト のめ︶。㏄・ ト のの曲 00 のま P Ⅱの目の田・Ⅱ︵降のⅠ づ ㊦ ツニロ、 ㏄の ひ ・ 面 ㏄ 37@ (371)
Ⅰはしが
ぎための重要な一つの手続き
係の究明が不可欠なことは、
|ト ・ストウー パ G は ar ザ
なぜなら、バルフートのそれ
セ ータカの原始的形態を伝 ,え
でに多くの学者が検討をお
われの問題の角度から、当該 を 加えたいと思 う 。
彫刻の中で﹁ジャータカ﹂
ぜなら ぱ 、 題銘が 刻まれてい
一世紀中頃︶はたしてジャー タ 力 な と の こ て ほ 日 否 で と い い
完成
る し に ろ そラ ジ て て な ら る れ 。 て か ャ い
の 確 タ も た て る l ジ 手 で 力 の に い 0 タ ャ 続 ぎ
なにに
い㈲村限
再窩
検。
2)
カ と タ | の 。 応 定討わ
し カ 中ジャータカ
とボサツ
本
洲
・
卓
杉
の 断片があるが、露鋒図面が不明なので除外する。 ● @@ ノ 39
| タカ
ておく。印度 学 仏教 学 研究第九巻第一号、三三八頁参照。
江山ま き卜耳 ,り下 0 の
pqp 岸 ︵ ,り オレダ︶の︶ ドづや ・㏄ ゆ 0 曲: 円 ・ d トオずド のし 曲ゑ伍甲 し岸 Ⅰ ロア ∼の 日 H 臣倖ぃ燵 ・
すの いの 幅 トロコ︶目的 の
口口・ ト ィ、トゆ Ⅹ ・Ⅰ
,おき、逸見 梅
六頁、 等 。
︵しの ヰ 0 0 田 ︵ ダの
お 0. 干滞 博士
は 前二世紀末 | 一世紀始め。逸見 梅栄 、高田修共著、 印度美術史、三
便宜的生木したにすぎない。
士は言っている 0 前掲 書 、二四頁。
温 し 曲 ユを @ ・ 0 目 ㌣ c ぃ ︵ サ ボ
な 価値をもっかどうか 疑問であると考えるからである。
の 角度から、あらか
@O
如
0. 卸
門田
m.
︶ ぺ 0
︶
る
。この図のモティ
窩
髪を示され、子供に王
ッに
結びつげて理解し
ている。出家を昂揚したものと考えられる。
お
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ぬゃ由
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Ⅱ レ
・︶の
籠
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甲燵べ
・
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による。
㈲の㌧・はの
ロ ゴリ
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㏄ ずリヨコ苫
田のの略。
Ⅰ ァ
目汁︶の略。
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を見よ。
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Ⅰ・ し
かれている。のゑ里。
すために、死んだ牛に
,は
﹁ 気
狂える︵或は
定
的な意味を解しえな
ジャー タカ とボサ
笘田 し 申 ジ 檸
斤 。
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能い
㌧ v ァ し @ ト 『 ' 重 き が しイ の 包 / ' @ 守 おか こハハ @ 白 。 ヰ ' ) 笘 れ
て ム
-.@ w れ て ⅠⅡ
る " て " 一り の
七,
Ⅴ フ し @ 四 対 し て 雑 宝 彫 蔵 フ そ吐 隆一 の そ 五 れ は (上人工 物 四、 五 V ァ し 四 重 ":"'" /@ Ⅹ 五 が き , お 等、 か れ 干 て 滞 い 博 る 41 (375 Ⅰ の は の時そ
昆昇 こ口 3 コ Ⅰ ニ @) の の に れ ) | (2)( Ⅰ ] ィム供
前宴
すな雑
が , が 、 分 教 - 的
げるそれとは相違している。 田め・ け出ト ︶ 寸 N の︵ ヰづい屯 ㌣ -0 ピ n. 田 ㌣ No の・ け 40. き
のヒ卸ヰ曲肝曲 ︵Ⅱ・ い かの /
︶、大智度論 巻一
り 複雑である。
した人間を王 と
死刑執行人と見
裾書、二 0 九頁。
ぇ られるが、仏典にお やめた、というのであ
た鹿 とが話をしている場面が描かれているが、 これは次のような 仏 典の中の物語に対応すると考えられる。
の 麗圭がおったが、
を 殺して食べ、そのか
。彼女は鹿 王 にその 当
に 赴いた。鹿を殺しに
目印トレ
㈲の
0 ガロ三 % の OP o やゑヴせ ・ ふc ∼︵・や・㏄ づ、 Ⅰ 42
、 ジャ(タカ とボサ、 ソ 話 なしている場面が 描かれている。 ︵ コト ・ め釦め卜くめ印か ︶に対応する施、次のようなも のである。 に 歌と踊りとを命じ 慎 しんで口を開かなか る 。 っ たために自らの 墓 ㎝
孔雀に妻として よう としたが、彼は自分の羽根の美しさを 自
娘 をもらえなかっ
仏典では白鳥の王が ボサッ とされている。 教 訓 的である。
トの ㏄
っている 0 ゑ
の ・ ぃ 。㏄
辞下 ・ 憶 。 偉 。すの r 。 のざ ・ づ ・㏄Ⅱ ⑥ パぎキ腰毛 ︵ リ ガ り田 6 ド パパ くコ ー 20 0 づ円 9. ㎏ かご 与え ヰハ - 甲 Ⅹ 目 o せ ⑤由の田の曲
古
︵ ゅ柑ヤ ︵の っ ・おお ぺ ∼∼・ 11 ︶ ) (︵戒ほ野干︶が来たの
それをもって行って し まった、とい 五ノ のである。
ワニイ は彼を ボサッ
力 では川岸に住んでい た樹神 ︵目ガ 村ひ曲倖 のせ 巴 8 が ボサッ とされ、
れる。物語的である。
いか
︵ び のの︶。彫刻の内容 止
ざ ・つ つ ・ ツの の ミレ ひの・
る 。
を 奪い合っている。
り 、もう一匹の材が 魚
る 河が刻まれている。
山口・ 雷 ︵ 二 ︵Ⅱ おす 。 0 ワゎソ円 ・ ワ S の・ z0. お
巨 にし、Ⅱ 0 由 りダ のⅠ︵ 0 づ
斤 ののの片目 リダ の㍉ 笘 佳日
逸見博士 2 別掲 書 、二一二頁︶の比定が適当である。
44 右の彫刻では、 ボサッ の主体は不明である。
、 ジャータカ とボサツ 山ロ江ニ︵ い のの 汗 0 やゑ ︵・ ワ NN の・ z0. 由
か ︶・ オ ・ 甲 Woo ︵︵︶︶ 0 : 0 づ
︵ ま ・逸見博士、前掲 書 、二 0 五頁。
までもな い 。
︵ H. い の・ 犠円 ㏄・ レづ e
曲セら 帝釈天、 猿と 象 がおる図である。
中に住した。ところ
の バラモンの食物であ ゆ
彼らが各自身の潔白を妨
仏典
て、
柑
オフ
一ぎモ
) ソがボ
な と っ サ て ッ お と完古
る
。
(8)
ァダ と さ れ て Ⅰ ト る し か る v ァ し 彫 亥 u で は モ ソ で は な @掲書 、二 0 七頁。
め ㏄ さ
頭 の 偏祖 右肩をした人から瓶の水をも
見 おろしている図である。
曲オ配曲 Hp. 宙 ︵ドガ 曲 ︵ ロ ・ qo! づ ぜの記述に
が 、井戸から水を汲みあげて飲ませた、
みならず、逆に放糞などの悪辣な行為で るっている図、他はその人が 照合する。それによね。 ぽ、 一 ところが樹に登った猿は 、去 むくいた、というのである。
の象 、その下にはか 魚を食わえている水鳥が刻まれている。
㌍ S に相応する。ヒマラヤ山中に湖があり、 そこには水を飲みに の象達 とともにその湖
なくなった。彼はその痛さに叫び声をあげた。 他 の 象 達は逃げ去った Ⅱ・ ノ
︵ で ば
すい
ェ と 誓Ⅰ
3)
斗コ
(( 1 ) そョ斉
ると るの む まこ 力出 : る つ し 木 て てい状
。 れ と の る 話 な 言 三 。 に い っ 脇 シ 対。 て 役 ヤ 店 払 い が ル を 0 ト ユ 興 る 登 パ 求 に 。 ( の場 ソ め ょ そ し テ る
れ ぅ て べ こ 「 3 的 ) 46
・山口・ 由 田守の OF o やり 甜づ ・ N び Q, 之 0. ま
一 a Ⅰ九色 鹿 三径︵ 大 サ ポ
。しかし、これ
0 らせる話があり、動揺が認められる。彫刻の内 せ ・ ci ︵・ や母 ・ テ レロ ヴ oye ぺ ・ 0o.c ぃ ︵・ P 口 ・ い 二 0 八|二 0 九頁。 ジ 47
、その鹿の王がある
束 せしめられたにもか
右端︶ 、 他の鹿達は林
鹿 王から一切を知り、
臣 等と共に、麗圭の 徳
いる。いつくしみの 心を説く宗教的なものと言える。
(11
コ 目 的 ) の ・ ガ曲 旧ゴ ・ ( Ⅰ )O ㌧ パ パ ぺ " ム O 馬山 @ コ むり
なしてくれることを願った。 かには
山内出色︵めの c ダ o 甲 。Ⅰ︵・ ワお 0. z0. 健 えられる。 ヰハこ ︶というのである。そしてその時
せ り ・切め︵の ひ 。ヒ肝・ づ 0 岸 0% 。 ダ 0 づ ・ n ざ
逸見博士、前掲 書 、二 0 八頁。 彼女の願いを聞き入れて、鉄をは の象が ボサッ とされているが、 妻 づ ・の べ ・ q. ト口ヴ。 セの ﹁・ 0 ㌧, ci ︵・ づ ・の 目
の 指さ 生 頭の これ 三三九 王の四 を坊主 した、 寺こ村曲 に 因ん サッと サッ が えて ぃ 口口 日 ︵ z のの ダ 。甲立 ブワ ㎏のの。 z 。 つ め
は 一一 0 吉旦以下・︶ 、
ふの ︵︶ ま ・彫刻
ヴ o ぜ er, o づ ・ c ︶︵・
拝 逸見博士、前掲 書 、二 0 五|二 0 六頁。
地ぺ笘セ
り目
芭
1
或は毘合法︶
ことができる。彫刻中の主人公は女性であり、
仏典において
ボ
﹂の彫刻には
ボ
ののあり方を教
ると考えられる。
多
C12
コ @ せの目のの従者と ぺゅ 払 甘 田子を持っ せ酉 曲 ガヰを ミ ョ ・ (1) 従 ( え ナ下こ
O
ケ ア 甲 坐 p り、 巳
そま
空 S i 巳 l Ⅰ Ⅴ ァ し人 の 女 従 者 を 従 ,え ナ, ヒ 女
,珪
が 立 て い る 彼 女 (382)@ 48ジャ(タカ とボサ
Ⅲし出土
d 。の nE O 甲ユア o.N のか。 之 0. 田三上 ハ b ︶、失調 雑讐諭
a ︶、上人知 月存灰詮帆巫包朗
牙 をどのように㏄
斤 の 由購汀づダ Ⅰ 耳
・㏄
である。
5 図が描かれている。 これは仏典の次のような説話に対応する。
大牙象に蓮の華を奉
って王妃に再生した。
身を変じて、黄衣を っ
知らず、自らすすんで牙を与えた︵ 図 主部︶。 王妃は猟師がもってき
刻 では猟師の姿は出家
典にょ れば、その時の 図の中央に バソヤソ の樹があり、 る 。彼のすぐ う しろの 牝 象のこめか pnO ぎ倖 ぎまじ象が描かれて ぃ
の う しろの 牝 象は鼻をあげ、怒り ( Ⅰ 3 コ O ぽ ダ 仁 Ⅰ 日 せ曲 ダ 曲 (1)
の ㌧ パ パ ぺ うコ O レ Ⅱ ( コ もつ
が 、 目由プ舵由ゅの倖 甘いと
いない o ゎ h. 叫 ・
の ㏄。㏄・の か ㏄
るもの ︶ ︵ に 対する報いを教えている。 い 宮田︵ い の 0 ダ 0 目 ㌣ 0 ト ヴ田ソ ㎏の 0, り 40. ︶ 0 の
ず n C キの口 03 ダ
汗 ︵ 田 ︵・ 9 組・の︵ c. を見よ。
する根拠は見当 らない。前掲 書 、二 0 八頁。
落した︵ 図 右上Ⅹ とい
見られない。無慈悲な
円切レ ︵
どが巣に
た 。ところ
しがたいが、
蝿 、蛙にその
た ︵ 図 左上︶ 雛を生ん が家群の 雛鳥が飛 援助を乞 。痛みに
い 0% ソロコ ヰヰ 抽の 0 片 ㏄
0 ォ 。Ⅱ v o Ⅰ・ うざ ④
、前掲 書 、二 0 ㏄ セー 二 0 八頁。
ジャー タカ とボサッ 51 ( 鰯 5) |ノ Ⅱ
0 弓 ・パパ せ 戸の, 0. Ⅱ 田 ・の e
っている女が描かれ
を 合掌して聞く人々が描かれている。
彼は地獄に赴くの
の 偽装をなす。する
乗せ、森の中にっ れて
げた ︵ 図 右下︶。御者
となっており、彼から
る 。出家を昂揚した ものといえる。 田 Ⅱ 叫 田宮の OF o やゑ ︵・ ゃ ・ N のの・ 之 0. 右の
日ロ 幅 じになった と
で な い oU 由三|
し、 Ⅰ 由 由のお︵ 下
訳している。
正二三、 セ 二四 a ︶
き ︵ 印 メナ Ⅰ ぺ 仁|
卜 。 や住ダづ,づの ・逸見博士、前掲 書 、二 0 二頁。 る 男と彼に話しかけ
6 トパパ せ ・ か ・の・Ⅱ 田 ・㏄ 8
ている。
tSe
に照合する。
よ くさいころ遊びをしたが、
り、
セ 曲コ
@ 曲
寸 。
文を破るために、女の
ゆ日ゆ
nH
︶山口
曲づノ村
曲目 こ
﹂。
るにちがいないと
考
(386)@ 52
ジャータカ とボサツ
--@ /@ 1u1 ll のト
そ憶ぢを
い 同 l 役のの,
父 、 か ㏄ の 。 oH 臣 由 Ⅱ
の ヨ曲
日 ハ で Ⅱ 、 1, 1 あ 与さ く 387) す は れ ず た と な こ
(17
コ わ れ女
(3)
(2)
( Ⅰ ) 関係のを
力しょ、
者に、
じめてだまされ
賭 のためになら
彼の姿が認めら
て、 仏の前生と がないと考えられる。 めト 由佳︶︵ い のの す 、 0 桔ソ 0 ぃ ︵・ b.N の o 、リ 40. ︶のⅡ
0 。逸見博士、前掲 書 、二 001 二 0 一頁。
こ目下,Ⅹ・ No Po ︶ N 。 u づ ・か りづ由 ・干潟博士、前掲 書 、二六頁、
Ⅱ ぃ 9. ㏄の︶
を 描いている。
ろの牝鹿が草を
㌧自由旬
か収ノ
ぶ
%ず甘
Ⅰ 曲一
させてたどると次の ょ う になる。 、そのみごとさに 感 娘の
夫 となるにはく日ダ甘
qp
の心臓を結納と
なり、仮病をつかって して持ってくるべ きこ のを利用して、五人の 0 尾をっ
かませ、自分、
崖からさかさにして曲
に説法して改心さ Ⅱー ノの ・ づゃ の・㏄ 8 0 甲 。 ざ ・ ワぷ 。逸見博士、前掲 書 、二 0 三頁。 ww. す汀 斤の︵ く ・ い の㏄崩し
㈲名主
ぎ 田の 3 古江 日 ㌣ モ 0% 村客 七目・に ま ・︶ ㈲大正二五、一八三 a 。 ㈹大正二四、一山八一 a 。 ㏄ 0 Ⅱ 0 臣オウせ芭 ム田 臣 的の・ ㌧ す臣 0 ロ 0 ㏄ ぃ c 笘 H 臣宙ト の 曲, ㏄・ ト ︵ か 。 く 388 Ⅰ 54サ ポ
の 結果次の
の 内容は 、 西 いうことである。 ような事実が認められる。
傾向がある、と⑱ 55 Ⅲ 芭 ,屯田 鱒 のの ゲ 。 0 下色 H. b.N のか。 z0. 乙
三三 b Ⅰ 雑 宝蔵経
は 照合せず、除外すべぎである。
を 兄ょ O せ wp 口 Hp と
、今はこれにしたが
面が 刻まれている。
るとの 目 コロ ぃコ ㏄ ゲ麓日の 区切り方は適当でないと言える。
下 ・ パ ・の 00 ヨ目ゅ円
0 エーコ 0 三頁。 刊 00 片田守のし P o や臼 ︵・ やお 三
、結び
いうの ⅡⅠある。パーⅡⅡ 吠 ノの Ⅱ リアヰ Ⅰ一タ カ L メべ Ⅱ ヒ
はせ
円 ハト FFqp が ボサッと結び︶
名 されている。 右下Ⅰ Z 甜の王夫妻 は 無事故国に帰り、
を 的確に知ることは、彫刻には仏典と異なり、 何故過去世の事を語
タカがどのような趣旨
ではあるが、一応の理 つノ
隼 の 目 ︵ a. 樹 ︵ 笘寸曲の ㌧ い 1 ︵
たり涙を流したりし
世において私の妻であ
世の事を話した、とい
大正 四 、四五三 c ︶ に
をなしたこと、根本有
智 鹿論養三九及び 巻九
︶では、檀波羅蜜を説
︶では 戒 度の章にこの物語が引用されている。 このように仏典自体に
がれていない。
ないと考えられる。
象と、 蓮の華をつけた
て見る限りは、この 彫
るかもしれない。すな
らも考えられる。 @ ト ・﹂
れは Ⅱの山の田 か ㏄笘の血 薩 億 ㏄ ) 56
ジャータカ とボサッ
いて、印度 学 仏教学 研究第八巻第一号、一四八 | 一四九頁。
切 。 い ㏄ の 中。 つつ ・㏄ ト Ⅰ く ㏄ 肚
く 検討を加えてみよ
である。もっとも彫刻
50 色 ず 鉗口 笘が 存在しな
とがありえたかも知れ ︶
、彫刻内に登場してい ︵
﹂とはできない。 オ|
サッは 下等な動物の胎
リの ジャータカにもそ
|シェや オーボ ワ イ @ Ⅰ に
僧が妻仁 よって誘惑さ
事 等にある如く、マショーダラー︵耶輸陀羅︶ が 前生において仏を甘
も 単なる物語と言え る 。 べたよさに意図の重
ことほ 、 次に述べる 事
タヵ の注目すべき特徴である。 57 (391)
︵りロ 円 ・︶ ハ い ハノ ︶には。。口入 し由ず 田の付 片 ︵ d パリ ・・ , ・ハ ツ村ガ ハイ 日 ハノ d 円 。。 とあり、碑銘とは異な