国際関係論叢第二巻第二号(二〇一三年)一
はじめに
一 今岡十一郎の足跡
一―一 渡航の
き っ かけと
ハ ンガ リー で の活動
一―二 帰国から
第 二次世界大戦終結ま
で の活動
一―三 戦後の活動
二 オーストリ
ア・ハンガ
リー君主国時代の両国関係
二―一 前史 と 第 一次世界大戦
二―二 パリ 講和 と 国 境査定問題
三 ふ たつの大戦間期における関係
三―一 通商条約取極め
三―二
「私的領事
」今岡
三―三 文化協定締結
と その後の営み
三―四 ハンガ
リ ーの三国同盟参加
四 冷戦の両側
で
今岡十一郎の活動 を 通 し て 観る日本・ハンガ リー外交関係の変遷
梅村 裕子
今岡十一郎の活動を通して観る日本・ハンガリー外交関係の変遷(梅村裕子)二
四―一 一九五六年ハンガ
リー動乱の影響
と 国交回復
四―二 戦後の両国関係
と 今 岡
お わ りに
はじめに
冷戦終結
を 経 て 日 本 と 東欧諸国
と の関係は一変した
。 日本・ハンガ
リー関係も一九九〇年代からはそ
れ ま で の制 限さ れ た関係から解
き 放 た れ
、 現 在は特に外交的懸案事項もなく政治
、 経 済
、 文化の領域
で 良好な交流が発展し
て いる
。 一 方
、 日本・ハンガ
リー関係史の研究は
、 史料の扱いが
自由になっ
て か ら日が浅いため比較的新しいテーマ で あ る
。 まだ包括的なモノグ
ラ フも書か
れて いな い
。 両国関係におい
て 戦 前からパイ
オ ニア的な役割
を 果たしたの が今岡十一郎
で あ る
。 筆者は彼の業績
、 主に著作等につい
て いくつかの論考
を ハ ンガ リー で 発表し
てき たが
(1)
、 日 本 で は あまり知られて
い ない
。 両国間の最初の架け橋
と し て 活躍した人物
を 紹 介 す る と ともに
、 今回は新しい史料
や 研究も駆使し
、今岡の活動
を 辿 る こ とで 垣間見える両国の外交史に焦点
を し ぼり
、特 徴 と その変遷
を 描 き 検 証 す る
。
二〇世紀の日本・ハンガ
リー関係は世界史の流
れで 大 き く翻弄さ
れ 様 相はその都度変化した
。 今 岡は日本におい て 一 時外務省の嘱託職員
で あったが
、 活動の多くは民間人
と し て 外交の現場
で も 役割 を 果たし
てき た
。 彼の活動
を 通し て 日本・ハンガ
リー外交関係の特徴的な断面に光
を 当 て る
。 両国関係のパイ
オ ニ ア と なった人物の活動
を 座 標 軸にし
て
、 ヨーロッパの一国
と 日本の関係
を 鳥 瞰図的な角度から考察
す る
。
国際関係論叢第二巻第二号(二〇一三年)三
一 今岡十一郎の足跡
( 2
)
一―一 渡航の
き っ かけと
ハ ンガ リー で の活動
今岡十一郎
( 一八八八‐一九七三
) は 一八八八年四月二一日島根県松江市に生ま
れ た
。 幼少の頃家は貧しく小
学 校 を 卒業 す る と 上 の 学 校へ行
き たい気持
ち が あったが
、 学 費の余裕はなかった
。 父富之助が瑪瑙加工業
を営ん
で お り
、 今岡も学
費 を 捻出 すべく
こ の瑪瑙加工の見習い
で 働いた
。 松 江は日本有数の瑪瑙の産地
で
、 近辺 で は そういっ た 工 芸 が 盛 ん だ っ た の だ
。 こ の 石 を 削 っ て 加 工 す る 技 術 の 習 得 は
、 彼 に 継 続 的 な 仕 事 や 忍 耐 強 さ を 植 え 付 け た よ う で あ
る (3)
。 若 い 時 に 培 わ れ た こ う い う 性 格 は 後 の 活 動 に プ ラ ス と な っ た
。 そ の 後 普 通 よ り 少 し 遅 れ て 松 江 高 等 学 校
( 現・松江北高校
) に 進 学 し一九一〇年に卒業した
。 そ し て こ の年東京外国語
学 校
( 現・東京外国語大
学
) ドイ ツ語科に入
学
、 一九一四年に卒業しその後引
き 続 き 専 科 で フ ラ ンス語
を 学 ん で い る
。 こ の頃今岡の恩師
、 山口小太 郎教授は来日した旧知のハンガ
リー人民俗
学 者 バ ラ ートシ・バログ・ベネデ
ク (4)
を 今岡に紹介
す る
。 北 海道 や サ ハ リ ンに住
む アイヌ民族
を 研究しようと
いうバログにドイツ語の通訳兼アシスタントと
し て 同行 す る と い うもの
で あっ た
。 これが今岡のハンガ
リーと
の 最初の関
わ り で あ る
。 半年間程バログの北方研究に付
き 合い親交
を深 めた
。
第一次大戦
で 今岡は通訳官
と し て軍 務に就
き
、 退営した後は東京大
学 経 済 学 部の図書館
で 司 書 と し て 日 々 の糧 を 得 て いた
。 海 外へ留
学す る希望
を 持 っ て い て 費用の準備にも努め
て いたようだ
。 大 戦が終結し渡航の機会
を 窺 っ て いた頃
、 一九二一年再びバログが来日した
。 目 的の ひと つは自身が熱
を 入 れて いるツラ
ニズム
と い う 運 動 を 日本 で
今岡十一郎の活動を通して観る日本・ハンガリー外交関係の変遷(梅村裕子)四 も 広 め る と い う こ と で あ っ
た (5)
。 ハ ン ガ リ ー 人 と 日 本 人 を 兄 弟 民 族 と 結 び 付 け る 思 想 に 今 岡 は 惹 き 込 ま れ 賛 同 者 と なった
。 数ヶ月の間にバログの主張
を 講 演 で 訳し
、 記 事 を 翻訳し
て 雑誌にも載せ
て いる
(6)
。 ま た
「 ツ ラ ン 同 盟
」 な る 団体 を 設立し
て い るが
、 こ れ に関し
て は いくつかの新聞記事
(7)
を 除 い て 実際の活動
を し た と いうところま
で は 至らな かった
。
留 学 を 実 現 す べく一九二二年バログ
と 共にアメリ
カ を 経 て ヨーロッパへ到着した
。 立 ち 寄ったドイツは戦争の傷 跡も ひど く足早に引
き 上 げ
、 バログの祖国ハンガ
リーへ降り立った
。 知り合いのつ
てで 医科大
学 の イレーイ通りに ある 学 生 寮に部屋
を 借 りる
。 一二畳程もある部屋
と 街中の利便性は快適な生活
をもたらし
、 帰国 す る ま で の約九年 間 を ずっ とここで
過ごした
。 ハ ンガ リー語は当初から集中的に取り組んだよう
で
、 い つも和独
・独和
、 独 洪
・洪独 の辞書
を 持 ち 歩 い て 言葉の習得に励んだ
。
間もなく求められ
るまま新聞紙上に日本につい
て の 記事執筆
を 始める
。 こ の頃欧米
で は アメリ
カにおける排日
運 動に起因
す る黄禍論が盛ん
で 今岡はそ
れ につい
て 意 見さ れ たり見解
を 求 められ
た り で
、 同地に滞在
す る日本人
と し て は 弁解 を 余 儀なくさ
れ
た (8)
。 同 時にハンガ
リ ー社会における日本に対
す る 並ならぬ興味関心
を 感 じたものの
、 その 情報は偏ったり歪んだり
で
、 彼自身も記事
や 講演 で そ ういう面
を 補いたい
と 思った
(9)。
記 事 を 書 き 始 め た の は 一 九 二 四 年 頃 か ら で
、 帰 国 す る ま で の 五
、六 年 間 に 掲 載 さ れ た 数 は 少 な く と も 約 一 五
〇 本 に の ぼ る
)10
(
。 掲 載 紙 は 日 刊 紙
、 雑 誌 と 多 岐 に わ た っ た
。 特 に
『 マ ジ ャ ル シ ャ ー グ
』( ハ ン ガ リ ー と ハ ン ガ リ ー 人
) 紙 の日曜版には頻繁に書いた
。 テ ーマは大抵日本
を 紹介 す る もの で
、 当時の欧州にあったエキゾチズムへの関心
を 惹 くようなテーマが多い
。 す な わ ち 茶の湯
、 芸 者
、 正月行事
、 雛祭り
や 五月の節句
、 生活習慣
、 食 習慣
、 そ の内テー マは日本の教育
や 文 学
、演劇
、美術の紹介にま
で 広 がった
。 今岡の時代は古い日本の習慣がまだ強く残っ
て いたし
、
国際関係論叢第二巻第二号(二〇一三年)五
その記述は時に強調さ
れて い て 今の日本人には郷愁
を 感じさせる
)11
(
。 並行し
て ほ と ん ど 同数の講演も行っ
て いる
。 当 時の講演ポスターや
招待状による
と 全 国津 々 浦 々 の都市
や 村 に呼ばれて
出 かけ
、 幻 燈 写 真 を 使っ て 講演した
。 テ ー マは記事
と 同様広い範囲に渡ったが
、 地方の村などで
は 一般的な日本紹介
を し た
。 テレビもなく
、 一般の人
々 の 行 き 来 もない時代
、 日本に関心の高いハンガ
リー社会
で 日本人がハンガ
リー語
で 自国 を 語るの
で あるから人気が出た ことは容易に推測さ
れ る
。 実際にポスターには
「 混 雑 を 避けるため講演は二回行いま
す
」 と 記 し て ある
)12
(
。 ま た ツ ラ ン協会の語
学 プログ
ラ ムにおい
て は 足掛け三年に渡り日本語
を 教 えた
。 こ のような活発な活動は今岡に日
々 の 糧 を も た ら し た
。 滞 在 の 最 初 は 日 本 で の 貯 蓄 や 仕 送 り を 頼 り に し た
)13
(
。 そ の 後 は 徐 々 に 講 演 の 謝 礼 や 原 稿 料
、 語 学 教 師
、 通訳者
と し て 生 計 を 立 て るようになった
)14
(。
掲 載 さ れ た 記 事
・講
演 録 を 中 心 に 一 九 二 九 年
『 ウ ー イ
・ニ
ッ ポ ン
』( 新 日 本
) と い う 題 の 書 物 を 大 手 の ア テ ネ ウ ム社から出版した
。 日本人の手による初のハンガ
リー語書籍
で あ る
。 注目 を 集め新聞雑誌の書評欄
を 賑 わ せ た
。 少 な く と も 二
〇 篇 の 書 評 記 事 が 掲 載 さ れ た が
、 多 く が 今 岡 の 文 章 の 良 さ 面 白 さ や 挿 絵
・写
真 の 美 し さ を 賞 賛 し て い
る )15
(。
こ う いった日本紹介活動の他
、 経済分野におい
て も 架け橋的役割
を 担 っ て いる
。 こ の頃日本
・ハンガ
リ ー間の貿 易 は ま だ 取 る に 足 ら な い 量 で あ っ た
。 経 済 分 野 の 発 展 こ そ 二 国 間 関 係 を 継 続 的 に す る と 思 っ た 今 岡 は
、 手 始 め に ウ ィ ーンの見本市に出品さ
れ た日本産品
を ハ ンガ リーへ持
ち 込 むべく奔走した
。 これらの産品は翌年のブダペスト 国際見本市
で 展 示さ れ た
。 こ れがき
っ かけとなり年末に
は通商取極めが交
わ さ れ
、 翌年にはブダペスト国際見本市 に日本が初参加した
。
戦間期の日本
・ハンガ
リ ー間は外交関係
こ そあったが公使館はま
だなく
、 ウ ィ ーンの日本公使館がハンガ
リーを
今岡十一郎の活動を通して観る日本・ハンガリー外交関係の変遷(梅村裕子)六 管轄し
て い た
。 ウ ィ ーンからブダペストへの客の訪問は頻繁にあり今岡は案内役
を 務 め て いる
。 ハ イ ラ イトだった のは一九三一年一月二七~二九日にかけ
て の高松宮のブダペスト訪問
で あり
、 今 岡は準備段階からウ
ィーンの日本 公使館
と 連 繋 を 取り協力し
て い る
。 こ の ように何か
と い うと 今岡が駆り出さ
れて いた
。 一九三〇年
、 帰国前に今岡 は両国関係発展に尽くした功績
と し て 摂政ホルティより勲三等白十字章
)16
(
を 授かった
。
講演 や 記 事 を 通じ て 今岡の名は全国的に知られ
、 様 々な催し
や 会合への招待
を 受 けた
。 貴 族達上流階層の集まる 社交界
、 舞踏会にも招待客
や 幹 事 と し て 名 を 連ねた
)17
(
。 政治家
や 著名人
と 懇 意になる機会も豊富にあった
と 察 せられ る
。 ブダペストで
のもう
ひ と つの出会いの場は居住地から程近いカフェ
セントラ
ル で ある
。 戦 間期のブダペストは カフェ文化が大いに花開い
て い た
。 カフェによっ
て 独自の雰囲気があり
、 各 々 が競い合っ
て 文壇カフェ
、 ジ ャーナ リ ス トカフェなど
に分か
れ
、 朗読会
や 展示会があり
、 内装 やメニューにも工夫が凝らさ
れ た
。 今岡が通った
セント ラ ル は文芸誌
『 ニュガト
』 に関係
す る作家
や 文芸記者の出入り
す るカフェ
と し て 名 を 馳 せた ところだ
。 今 岡が座る
「 い つ も の 席
」 が あ り
、 給 士 達 は
「 日 本 の 先 生
」 と 呼 ん で い た
。 作 家 や 編 集 者 と の 出 会 い に は 格 好 の 場 所 で あ っ た だろう
。 日課 と し て 通 っ て いた ことが次の返書からも
わ か る
。「 大体毎日午後一時から四時はセントラ
ルにいま
す
。 こ の 時 間 な ら 大 抵 お 会 い 出 来 る で し ょ う
)18
(
。」
ま た
、 ハ ン ガ リ ー 的 な 習 慣 は 田 舎 に 多 く 残 っ て お り
、 そ れ ら を 今 岡 も 好ん で 体験し
て い た
。 地方の村から誘いがあっ
て よく出かけ
、 農村に残る古い風習
や 生活に接
す る機会にも恵ま
れ て い た
。
戦間期
、 ハンガ
リ ー で は友好団体
で ある日本協会が重要な役割
を 果 たした
。 専 門家の講演
や 訪問した日本人
と の 交流など
広く行事
を 展開したが今岡は有力メンバーの一人
と し て 活動した
。 一九一〇年に設立のツラン協会の活動 も活発になる
。協会の根本思想ツラン主義は戦間期の日洪関係
を 特徴付けるキーワードの
ひと つ で ある
。そ れ によっ
国際関係論叢第二巻第二号(二〇一三年)七
て 日 本 と ハンガ
リ ーは親戚民族
と い う考えが広まり
、 国の紹介
や 語 学 講 座などが営ま
れ た
。 今 岡も日本語
を 教 えて いた
。
一―二 帰国から
第 二次大戦終結ま
で の活動
今 岡 は 一 九 三 一 年 末
、 久 し 振 り に 帰 国 す る
。 十 年 近 い 外 国 暮 ら し は ま だ 珍 し く 新 聞 が 今 岡 の 帰 国 を 報 じ て い る
。 彼の人気振りについ
て 現 地 で は花嫁の申込みが殺到したなどと
い う記事もある
)19
(
。 ハ ン ガ リ ー で 知 己 を 得 た
、 当 時 外 務次官の有田八郎らの取り計らいもあり
、 今岡は外務省に嘱託
で 仕 事 を 得た
。 翌 年
、 宮内省の女官だった山田富美 子 と 結婚し家庭
を 持 つ
。
帰国した今岡は直
ち に ハンガ
リ ーについ
て 発 言 や 記事執筆
を 始めた
。 も ともと
日本におけるハンガ
リ ーの情報は 多くない
。 第 一次大戦後は新興独立国がむ
しろ注目さ
れ
、 ハンガ
リ ーへの関心は低かった
。 文字通り馴染みのない 遠い国だ
。 今岡は
こ れを 何 と か近づけ
、 自 分がハンガ
リ ー で 体験した親日感情
を 日 本 で 広めようと
試みた
。 留 学 し た国が気に入り長い月日
を 過 ごし
、 ど こで も親切
や も て なし を 受 けた
。 帰国したら今度は自分がハンガ
リーの代弁 者たりたい
と 強く思っ
て いたようだ
。 ある年の年賀状
で も
「 日本人にヨーロッパ
で 最 も親愛なる国ハンガ
リーを
心 をこ め て 紹介したい
」 と 綴った
)20
(。
帰国した一九三一年から一九四四年ま
で に約一二冊の著書
・訳書
を 出 し
、 一〇〇本以上の記事
を 発表した
。 ど ん なハンガ
リーが描か
れ たのだろうか
。 内 容によっ
て 概 ね次の様に分類
す る ことが出来る
。
(1)ハンガ
リ ーの風習
や 習 慣、
特 徴
、
(2)ハン
ガリ ー 文 学
、
(3)ハンガ
リ ーと 周辺国の政治
と 外 交
、
(4)ハン
ガリ ー の ツラ ン 主 義
、 及びツラ
ン 民 族
今岡十一郎の活動を通して観る日本・ハンガリー外交関係の変遷(梅村裕子)八 と さ れ る 人 々 につい
て の記述
、
(5)語
学 関係書
。
(1)に
挙 げ た 国 の 特 徴 を 記 述 し た も の は 実 際 の 体 験 に 基 づ い て の 描 写 で 生 き 生 き と し た リ ア リ テ ィ ー を 備 え て い る
。 田舎 で 見聞した習慣
、 例 えば農家
で 行 われ る豚の屠殺
・加工作業などは民俗風習
を 詳細に伝える地域研究資料
とも な っ て い る
)21
(
。 記 事 の 中 で は こ の 類 が 一 番 ハ ン ガ リ ー を そ の ま ま 記 し て い て
、 現 在 で も 貴 重 な 情 報 を 提 供 し て い る
。 国民性
と し て 挙 げたテンペ
ラ メントに富
む
、 芸術家肌
、 お客好
き
、 生活の楽しみ
を よく知っ
て い る
、 などは彼らの 一面 を よく表し
て い る
。
もう一方情熱
を 傾 けたのは
(2)と
した文
学 作品の紹介
で あ る
。 本邦 で の ハンガ
リ ー文 学 の紹介は多くない
。 今岡は 文 学 全体の体系的紹介
を 試み
、まず
『 ハンガ
リ ー民族詩
』( 一九四一
) で 時代 を 代 表 す る作家の代表作
を 訳出した
。 続い て
『 ハンガ
リ ー文 学 史
』( 一九四四
) で 全体 を 概 観 す るアンソロジーを
書いた
。 これらは本邦初の試み
で あ る
。 特にペテーフィに重
きを 置 き 翻訳 で は 一章分割い
て いる
。 その他ア
ラ ニ ら古典の代表的な作家
を 取り上げた
。 も う ひと つ注目
すべきは
、 ハ ンガ リー文
学 の金字塔
、 マ ダーチ・イムレ作
『 人間の悲劇
』 の 訳 (一九四三
)で
あ る
。 同 作品はキリ
ス ト教思想
を 根本に置
き 歴史上の出来事が時
と 空間 を 超 え て 現 れ る壮大なドラ
マ で ある
。 何か国語にも 訳さ れ
、 ファ ウ ス トなどと
比肩さ
れ る
、 ハ ンガ リー文
学 を 代 表 す る一遍だ
。
(3)に
挙 げ た
、 当 時 の 政 治 や 外 交
、 中 欧 の 国 際 政 治 に 関 す る 問 題 は 時 局 柄 好 ん で 雑 誌 の テ ー マ に な っ た
。『 欧 州 の 新 噴 火 口
』( 一 九 三 三
) と い う 平 凡 社 の シ リ ー ズ で
、 欧 州 の 戦 後 処 理 や 民 族 問 題 に つ い て 解 説 し た
。 ハ ン ガ リ ー に つ い て は 独 立 に 一 章 を 設 け
、 第 一 次 大 戦 後 の パ リ 講 和 で 被 っ た 領 土 喪 失 の 悲 劇 や そ の 後 の 領 土 復 活 問 題 を 論 じ た
。 あ わ せ て ハンガ
リ ーと 周辺民族の関係もま
と め た
)22
(。
今岡がハンガ
リーを
広 めるためにも利用したのが
(4)のツラン主義に関
わ る記述
で あ る
。 前述のように
こ の思想は
国際関係論叢第二巻第二号(二〇一三年)九
戦前のハンガ
リー で は 社会的な影響力
を 持 つ 運 動 で あったが
、 学 術 的な裏づけと
いう点
で は問題もありそ
れ ほ ど 広 まらなかった
。 しかし汎アジア主義の流
れ の中
、 大亜細亜協会におい
て は 影響力
を 持った時期があった
)23
(
。 今 岡 は 非 常に多くの記事
を 発表し
『 ツ ラン民族
運 動 とは何か
』(
一九三三
)と いう冊子
を 出した
。その論点
を 観 る と
、ハ ンガ リー 語 と 日本語は膠着語だから似
て いる点がある
と か
、 ハンガ
リ ー人は日本人
を 兄 弟 と 呼び親日的
で ある と か が主な主 張 で 心情的な表現
や 印 象 と いう部分も多い
。 しかし数年間に
わ たり繰り返し書いた
ことで
、 プロパガンダ的な効果 を 持った
とも言える
。『 大亜細亜主義
』 に三〇回以上に渡っ
て 記 事 を 書 き
、ま と め て 出版したのが
『 ツラン民族圏
』
( 一 九 四 二
) で あ る
。 当 時 ツ ラ ン 民 族 に 属 す る と さ れ た 多 く の 少 数 民 族 に つ い て ハ ン ガ リ ー か ら の 情 報 に 基 づ き 紹 介し て い る
。 か れ ら少数民族の多くはその後もソ連の中
で 自由な研究が制限さ
れて いた地域の民族
で あるから
、 そ ういった意味
で も 希少価値のある情報だった
と は言える
。
(5)に
挙 げ た 語 学 書 は 最 も 時 の 波 を 経 て 読 み 継 が れ た も の だ
。 大 学 書 林 か ら 一 九 四 三 年 に
『 ハ ン ガ リ ー 語 四 週 間
』 が出版さ
れ た
。 同 書は戦後も長く国内
で 唯一のハンガ
リー語
学 習書 と し て 何 度も再版さ
れ た
。 ハ ンガ リー文
学 に造 詣 の 深 か っ た 今 岡 ら し く 詩 や 小 説 か ら の 豊 富 な 引 用 や 諺 の 対 訳 で ハ ン ガ リ ー 文 化 の エ ッ セ ン ス を 盛 り 込 ん だ
。 同 年
、 語 学 書 に 併 用 す べ く
『 洪 牙 利 語 小 辞 典
( 洪 日
・日
洪
)』 も 編 纂 し た
。 こ れ は 少 数 言 語 の 辞 書 と し て 非 常 に 早 い 時期の試み
で あ る
。
一九三八年
、 日 本 と ハンガ
リ ーは文化協定締結によっ
て 急速に接近
す る
。 こ の協定に関
わ っ て 今岡は極め
て 活発 に活動した
。 協 定が批准さ
れ た後開か
れ た 連絡協議会の常任委員
と し て 役割 を 担 った
。 同 時に日洪文化協会が設立 さ れ 会報
『 日洪文化
』 が 発行さ
れ た
。 今岡は会報の編集長
と し て 毎回記事
を 書いた
。
欧州 で は 戦争が始まり
、 ド イツを
中に置い
て 間接的ながらも日本
と 軍 事 同盟国
と いう関係になったのは一九四〇
今岡十一郎の活動を通して観る日本・ハンガリー外交関係の変遷(梅村裕子)一〇 年一一月の
ことだった
。 調印式の様子は日刊紙の一面
で 取り上げられ
、 新同盟国ハンガ
リーを
大 き く報道した
。 同 国 を よく知る人物
と し て 今 岡はインタビュー
で 引っ張りだ
こ となった
。 今 で も 残るハンガ
リーのイメージは
こ の 時 の情報が影響し
て い る と 見られ
る
。 こ れ につい
て は 第三項
で 詳しく述べる
。
一―三 戦後の活動
戦後
、 日 本 と ハンガ
リ ーは冷戦の両側に分か
れ 国 交は休止状態
と なる
。 関係団体も解散した
。 今 岡はしばらくの 間沈黙
を 強いられ
る
。 停滞状況に動
きが起
こ ったのは一九五六年のハンガ
リー動乱勃発
で あ る
。 世界 を 震撼させた こ の 事件が
、 今岡に再度注目さ
れ る出番
を 与 えた
。 民衆蜂起が起
こ っ てす ぐ超党派の国会議員が中心
と なり日本ハ ンガ リー救援会が設立さ
れ る
。 今 岡は当初からこ
の組織に理事
と し て 参加し熱心に活動した
。 救援会は二ヶ月程の 間に相当の寄付
を 集 め
、 十二月には
ウ ィーンの難民施設
や 赤十字にそ
れを 届けるべく派遣団
を 組 ん で 赴いた
。 今 岡 は一員
と し て ウ ィ ーンへ出かけ
、 ラーゲル
を 視 察し旧知の知人らと
再会した
。 こ の時ハンガ
リ ーの自治体など
から 訪 問 の 招 待 状 が 来 た が
、 ハ ン ガ リ ー へ の 入 国 は 見 合 わ せ て い る
。「 私 の 人 生 は 富 士 山 と カ ル パ チ ア 山 脈
、 ふ た つ の 山 を 行 き 来 す る 旅 と な り そ う で す
。 ま た 必 ず ハ ン ガ リ ー へ 戻 っ て き ま す
)24
(
。」
ハ ン ガ リ ー を 去 る と き の 書 簡 に こ う 記 したが再訪がかなう
こ とはなかった
。
ウ ィ ーンから帰国後は招待した三人の亡命ハンガ
リー人
と 共に全国
を 講演し
て 回った
)25
(
。 一九五八年には
『 ハンガ リー革命
』 と いう書籍
で 共産主義下の人
々 の生活
を 描いた
。
その後ハンガ
リー関係の表立った活動がほ
と ん どなくなった今岡は専
ら語 学 の 研究に励んだ
。 ハンガ
リ ーと 近い
国際関係論叢第二巻第二号(二〇一三年)一一
関 係 に あ る フ ィ ン ラ ン ド 語 を 習 得 し
、 本 邦 初 の フ ィ ン ラ ン ド 語 辞 書 を 刊 行 し た
( 一 九 六 三
)。 一 方 戦 前 に 訳 し た ハ ンガ リー文
学 も加筆し
て 再 び刊行した
。『 ハンガ
リ ー詩文
学 全集
』( 一九五六
)『 ツラン詩文
学 全集
』( 一九五八
) と いう文
学 書 と『 ハ ンガ リー文化史概要
』(
一九六九
)と 題した文化全体
を 概 観 す る書籍
で あ る
。 並行し
てラ イフワー クで あるハンガ
リー語辞典の編纂に情熱
を 注 いだ
。 一 人 で 時間 と労力
を 掛けた辞書の原稿は六〇年代に書
き 上 げら れて いたが
、 採算上出版は困難
を 極める
。 結局自費出版に踏み切った
。 長く気管支炎
を 患 っ て い て 体調も悪く時間 と の 闘 い と な っ た
。 一 九 七 三 年 八 月 三 一 日
、 死 の 床 に あ っ た 今 岡 の 元 に 刷 り 上 が っ た ば か り の 辞 書 が 届 け ら れ た
。 二日後
、 出来上がった辞書
を 胸 に ラ イフワーク
の完成
を 見届け
て 今岡は帰らぬ人
と なった
)26
(。
『 ハ ン ガ リ ー 語 辞 典
』 は 見 出 し 語 約 五 万 五 千
、九 一 五 頁 の 辞 書 で
、 出 版 後 既 に 三
〇 年 経 つ が 未 だ に こ れ を 超 え る も の は 出 て い な い
。 自 費 出 版 の 初 版 が 残 り 少 な く な っ た 機 会 に 遺 族 が 尽 力 し 二
〇
〇 一 年 大 学 書 林 か ら 再 版 さ れ た
。 七〇年代に
こ の水準の辞書
と い うのは他の諸国語
と 比 較 す るに時期
と し て も 早く
、 先 進的取り組みだった
と 言える だろう
。 金銭的な見返り
や 名 誉を 生前には受ける
ことなく文字
ど おりハンガ
リー紹介に捧げた人生だった
。 没後勲 三等瑞宝章
を 授けられ
た
。
二 オーストリ
ア・ハンガ
リー君主国時代の両国関係
二―一 前史 と 第 一次世界大戦
今岡十一郎の活動を通して観る日本・ハンガリー外交関係の変遷(梅村裕子)一二
日本 と ハ ンガ リーの外交関係
を 観る上
で ま ずはその始まりの部分につい
て 簡 単に概観
す る
。 一九世紀後半
、 日 本 が大政奉還から明治時代へ
と 移る一八六七年
、 ハ ンガ リーはハプスブルグ家
と の 間 で 和約 を 結 び
、 オーストリ
ア
・ ハンガ
リ ー二重君主国が成立した
。 こ れはハンガ
リ ーに と っ て は 政治的な成果
で あ り晴 れてオーストリ
ア と ハ ンガ リーは対等な関係になったの
で あ る
。 外務 と 防 衛 を 共同 で 営 み オ ーストリ
ア皇帝
と ハ ンガ リー王
を 共通君主
と し て フ ラ ンツ・ヨゼフが君臨した
。
日本 と の外交は一八六九年
、 イ ギ リ スの仲介もあり君主国の
軍 艦 が日本へ来航し
、 修好条約
を 結 ん で いる
。 二 重 君主国は広大な領地
を 有 す る欧州列強の
ひと つ で あり
、 こ の時代日本の外交課題
となった不平等条約
を 最 後に結ん だのがオーストリ
ア・ ハ ンガ リー で あった
。 公使館の設立
を 経 て
、明治時代の日本の歩みに決定的な影響
を 与えた
、 かの岩倉欧米使節団が一八七二年に
ウ ィ ーンを
訪 れ
、 当時 オーストリ
ア・ハンガ
リー帝国の共通外相
で あったハン ガ リ ー人のアンドラーシ伯に会っ
て い る
。 こ の 時同国は列強の
ひと つ で あり
、 日本側はアンドラーシ外務大臣に不 平 等 条 約 の 改 正 を 申 し 入 れ る も ま だ 相 手 に さ れ ず
、 逆 に 日 本 国 内 で の 自 国 民 の 旅 行 の 自 由 を 求 め ら れ る 始 末 だ っ
た )27
(
。 こ の時期の両国関係は二重君主国の時代
で あるから外交
を オーストリ
ア と ハ ンガ リーを
分 ける ことは困難
で あ る。
その後間もなくパ
リやウ
ィーンの万博
で 日 本が紹介さ
れて 一大ブームが起
き
、 日本流行の波はハンガ
リ ーへも波 及 す る
。 日露大戦
で 日本が勝利した
ことはロシア
と 敵 対 す る国
、 ハ ンガ リー で は 大いに歓迎さ
れ
、 日本は大国
と し て 認識さ
れ た
。 東郷元帥
や 乃木将
軍 の名前は当時広く浸透し
て い る
。 ハンガ
リ ー で は自民族の起源が東方
と いう こ ともあっ
て
、 東への調査探検が盛んに行
われ
、 早 くは一八七〇年代から既にいくつかの調査団が我が国
を 訪 れて お り
、 彼らの手による日本紹介の詳しい書物が何冊も出版さ
れて いる
。 中 には伊藤博文
や 大 隈重信に会っ
て その印象
国際関係論叢第二巻第二号(二〇一三年)一三
を 記 し て いるヴァイ伯
や
、 アイヌ地方へ出かけて
民俗 学 の資料
を 集めた
学 者バログなどが目立っ
て い る
)28
(。
一方
、日本側からのアプローチ
と し て は 一八八〇年代か
ら九〇年代にかけ
て 書か れ た柴四郎の有名な政治小説
『 佳 人の奇遇
』 で 一八四八年のハンガ
リーの革命・自由戦争が詳しく書か
れて いた
。 徳富蘇峰もハンガ
リーを
訪 れて い て
『 国民之友
』 に何度かハンガ
リーの様子
を 書 き
、 豊かに文化が花開く様子
を 称 えて いる
。 その他森鴎外がハンガ リー作家モル
ナール
を ドイツ語から訳し
て いたり
、 東 洋学 者の白鳥庫吉は一九〇二年に半年ほ
ど ハ ンガ リーに滞在 し て いた ことがあり
、 短い文章
を 残 し て いる
。 こ の時代の相互認識
と い う こ とを 観る と
、 日本におけるハンガ
リ ー は
、 まだ偶然の要素
や 旅行した印象記
と い う
、 い わ ば点 と い うレベル
を 超 えないがハンガ
リ ー で の日本はより体系 的、
専 門 的 な 描 写 が 行 わ れ て い た。
第一次大戦
で 両国は偶然の不
運 か ら敵対国
となり
、 たまたま上海沖に停泊し
て い た オ ーストリ
ア・ハンガ
リーの 軍 艦 と チ ンタオ
に 上陸した日本
軍 と の間 で 戦 闘が交えられ
た
。 こ の 軍 艦 は結局自沈し
、 乗組員は姫路の戦争捕虜収 容所へ送
ら れて いる
。 こ の中には五六人のハンガ
リー人が含ま
れて いた
)29
(
。 も う ひ と つの接点はやはり第一次大戦の 末期
、 シ ベ リ ア出兵した日本
軍 の将校
とソヴィエトの戦争捕虜だったハンガ
リー人兵士がシベ
リ ア で 出会っ
て 友 好 関係 を 築 き
、 これがき
っかけになっ
て 一九二〇年代にハンガ
リー で ハ ンガ リー日本協会
と い う友好団体が作られて いる
)30
(
。 ち なみに今岡は
こ の大戦に東京外国語
学 校 卒業生
と いう ことで
通 訳 と し て 従 軍 し て いた
。
二―二 パリ 講和 と 国 境査定問題
本項 で は パ リ 講和 と 国 境査定問題につい
て 取り上げる
。こ の事案につい
て 今 岡は直接的には関
わ っ て い ない
。が
、
今岡十一郎の活動を通して観る日本・ハンガリー外交関係の変遷(梅村裕子)一四 彼の ところに送
ら れ た 膨大 と い える量のハンガ
リー人からの書簡の中に
こ の問題が非常に頻繁に出
て く る
。 そ こ に は日本に対
す る ハンガ
リ ー人らの期待
や 外交上の認識
を 表 すも のが多く見出せる
。 な ぜそのような認識
を 持 た れ る ようになったのか
。 外交文書
を 調査し
て み る と そ れ を 裏 付ける史実のあった
ことが
わ かっ てき た
。
第一次世界大戦が終結し
、 パ リ のベルサイユ宮殿
で 和平交渉が行
われ た
。 ハプスブルグ君主国は敗戦
で 瓦解しい くつもの新しい国が
で き た
。 民族主義の勃興もあり民族単位
で 独 立 す るためのプロパガンダ合戦
、 水面下
で の 駆け 引 き
、 これらが奏効し新しく
でき た国がチェコスロヴァキア
、 ル ーマニア
、 ユ ーゴス
ラ ビアなど
の新興国家だ
。 日 本の一般的な歴史記述
で は
、 ハ ンガ リーが
こ の時ハプスブルグの支配から抜け出た
こ とで 新しい独立国になった
こ とを 強調 す る 書 き 方 を さ れ る こ とがある
。 しかしハンガ
リーは既に二重君主国
と し てオーストリ
ア と 対等の関係に あった
。 また議会の独立はハプスブルグ統治下
で も ずっ と 保 っ て おり
、 む しろハンガ
リ ーは不条理に領土
を 割 譲さ れ た 敗戦処理
で深 刻な悲劇
を 被ったの
で あ る
。 千年に
わ た っ て 豊かな歴史
を 育ん でき た領土の実に三分の二
、 そ し て ハ ンガ リー人の三分の一が周辺国へ組み入
れられ
彼 らは突然外国に少数民族
と し て 生 き る ことを
強 いられ
た
。
ハプスブルグ家が帝国の統治政策
と し て 採った
「 民 族 を 互いに対立させ
て 支配 す る
」 や り方が結局
こ のような帝 国瓦解
と い う形 で 終結した
ことは歴史の皮肉
で あ ろうか
。 苛酷な戦後処理のショッ
ク か らハンガ
リー国民は抜け出 る こ とが できずにいた
。
新しい領土
を 裁 定したトリ
ア ノン条約が発効した一九二〇年六月四日
、 ハ ンガ リー全土の鐘が一時間に渡っ
て 鳴 り響い
て その大地
を 揺 るがせ
、 人 々 は 深 い喪に沈んだ
。 こ の大戦
で の協商国
、 す な わ ち イ ギ リ ス
、 フ ラ ンスが中心 と な っ て ハ ン ガ リ ー を 貶 め る 決 定 を 下 し た こ と に 国 民 は 呆 然 と な り
、 そ の 孤 立 感 は 社 会 の 全 体 を 重 い 雲 の よ う に 覆っ て いたの
で あ る
。
国際関係論叢第二巻第二号(二〇一三年)一五 こ の よ う な 訳 で
、 戦 後 再 び 王 国 と し て 再 出 発 し た ハ ン ガ リ ー で あ る が
、 領 土 復 活 と い う の は 国 民 の 悲 願 で あ り
、 政治・外交上の課題
で あった
。 臥薪嘗胆
と い う勢い
で 領土復活
運 動 が国民的に広く起
きて いた
。
日本はと
いえば戦勝国
と し て パ リ 和 平 で ハンガ
リ ー関係の条約にも署名し
て い る
。 日本代表団が
こ の領土裁定に つい てどれ
ほ ど 認 識 を 持っ て いたかははっ
き りしないが
、 あまり高い関心
を 払 っ て いそうにはない
。 こ の ような大 規模な国際会議は初め
て で
、 代表団の委員さえ急遽集めたような有様だった
。 チンタオ
の権益など
自分達の事以外 は興味もなかったよう
で
「 沈 黙の代表団
」 な どと 揶揄さ
れて いた事は知られて
いる
。 全 権の一人
と し て 会議に出席 した牧野伸顕は後の回想録
でこ の国境裁定の場面
を 取り上げ
て いる
。 ハ ンガ リーからトランシルヴァニア全体
を 獲 得したルーマニア代表のブ
ラ ティアヌが議案につい
て の不満
を 述 べた こと に触 れ
、 会議 を 仕切っ
て いたフ
ランス代 表 ク レマンソーの一喝
で
「( ブ ラ ティアヌは
) 泣 き 寝入りになっ
て 沈 黙し て しまった
。( 中略
) 同情に堪えない
」 と 記し て い る
)31
(。
こ う い っ た 国 境 線 の 問 題 は ど ち ら の 側 か ら 見 る か と い う こ と で 随 分 と 違 っ た 見 解 に な る も の だ
。 当 時 の 牧 野 に と っ て ハ ンガ リーへもルーマニアへも特別に思い入
れがあった訳
で は ないだろうが
、 こ れ ほ ど 広い領土
を 獲得した ルーマニアに対し
て
「 同情に堪えない
」 とは
、 当代一級の政治家にし
て は 随分ルーマニア寄りの意見
を 述 べたもの で あ る
。 戦争前後には水面下
で 大 変なプロパガンダ合戦の行
われ た時の事
、 何 を か を 示唆し
て い る
。 牧野は大戦前 ウ ィ ーン で 日本大使
を 務 め て い て
、 チ ェコや
スロヴァキアの独立に役割
を 果たしたマサ
リクや
ベネシュ
と 懇意にし て いたよう
で
、 そ ういった
こと の影響も察
す る ことが
で き る
。
一方
、 ハ ンガ リー で は 日本に対し
て 親近感
を 抱 い て おり
、 自民族のルーツを
探 すツラン主義
運 動 で も 日本はいつ もパートナーと
し て 注目さ
れて いた
。 今 岡が滞在した時
代のハンガ
リーは敗戦処理直後
で
、 領土問題は大
きな懸案
今岡十一郎の活動を通して観る日本・ハンガリー外交関係の変遷(梅村裕子)一六 事 項 だ っ た し
、「 裏 切 ら れ た
」 西 側 諸 国 で は な く 東 洋 に 何 か 活 路 を 見 出 そ う と し て い た 時 期 で あ っ た
。 そ こ へ 今 岡 がや っ て 来た わけ で
、 様 々な機会に彼らの思いに接
す る ことが
で き た し
、 受け止めようと
し て いた
。 そ れを 示 す の は今岡の年賀状
と ハ ンガ リー人からの返答
で あ る
。 膨大な
今岡への書簡の中
で 抜 き ん出 て 頻 繁なテーマだったのが こ の領土問題だ
。 私信 で あり皆そ
れぞれ
に多様な書
き 方 を し て い るが
、 通奏低音のように響い
て いるのは失
われ た 領土 と その復活への望み
で あ る
。 そ れ は政治家から市井の人
々 ま で 多岐に及ん
で い た
。 具体的に観
て みる
。
滞在中
こ の問題
を 見 聞 き し
、 雰囲気
を よく感じ取っ
て いた今岡は年賀状
で さ りげなく
これ に触 れて いる
。
「 大晦日は分断さ
れ た
( ハ ンガ リー
) 国 境の どこ か近く
で 過 ごす つもり
で す
。( 中 略
) 国境からは日の出
と
、 失 われ たカールパート山脈が臨めるそう
で す
。 私に と っ て は 両方共親しみ
を 感 じるもの
で
、 思い を 馳 せる時
、 喜 びと 悲しみが入り交じりま
す
)32
(
。」
翌年になる
と 次のようにはっ
き り とこ の問題に同情
を 表 し て いる
。
「 ハ ン ガ リ ー が 欧 州 地 図 上 で 分 割 さ れ た ま ま に な っ て い る 限 り
、 世 の 倫 理 や 正 義 の 優 越
、 文 明 の 勝 利 を 謳 い 上 げる事は出来ない
と 信 じま す
。 切り刻ま
れ た ハンガ
リ ーの地図
を 見る度に
、 歪 んだミロのビーナ
スが目に浮か びま す
)33
(
。」
懸案の領土問題
を 日本人に
こ う 記述さ
れればハンガ
リー人達は喜ん
で 返信 を したためるだろう
。 これ に呼応し大勢 の人達が
、 時 には自分の体験
を 語 り
、 時には将来への希望
を 記 し
、 日本の支持
を 求 め て いる
。 こ の時期領土問題が 公 の 政 策 だ っ た だ け で な く エ リ ー ト 層 や 一 般 住 民 の 広 い 範 囲 で い か に 支 持 さ れ
、 そ の 悲 劇 的 状 況 が ど れ ほ ど 強 く 人 々 の日常に影響し
て いたか
と い う こ とが文面から
読 み取 れ る
。
文化大臣
クレーベルスベルグは今岡のハンガ
リーへの愛着
を 今 後も願い
「 こ の不 運 な ハンガ
リ ー国民
」 と い う表
国際関係論叢第二巻第二号(二〇一三年)一七
現 で 気持 ち を 表した
)34
(
。 作家のモーラ
・フェレンツも類似の言葉
で 想い を 綴った
。
「 我 々 の 様 な
、 友 人 に 恵 ま れ な い 孤 独 な 民 族 に 好 意 を 持 ち
、 そ の 良 い 点 を 認 め 欠 点 を 受 け 入 れ て く れ る 人 が 遠 い日本に居るのだと
考えるのは嬉しい
ことです
)35
(
。」
今岡 と 頻繁に手紙
を 交 わ したサパーリ
伯は
、 孤立したハンガ
リーの状況
を 次の言葉
で 表した
。
「 我 が 国 と 国 民 を 知 っ て 好 意 を も た れ た よ う で 希 望 を 感 じ ま す
。 と い う の は 今 ほ ど 少 し で も 多 く 外 国 の 人 々 が 我が国
を 知り好意
を 持た れ る ことを
必 要 と し て いる時はない
で し ょう
)36
(
。」
具体的な体験
と し て ノ グ ラ ード
・ホント県の知事は自分達の街
( バ ラ ッシャジャルマト市
) の様子につい
て 述 べ て いる
。 こ こ は 街の境界がそのままチェコスロヴァキア
と の 国境線
と なり
、文字通り人
や 物の流
れが遮断さ
れて いる
。
「 以 前 の 生 き 生 き と し て 華 や か な 頃 に 較 べ る と 今 や 国 境 沿 い の 死 に か け た 取 り 柄 の な い 街 に な っ て し ま い ま し た
。 我 々 に対 す る こ の ような国際的悪行
を 決 し て 許 す 事は出来ません
)37
(
。」
あるいは悲しみ
と 絶 望 を 切 々 と 訴 える次のような書簡
。
「 国 土 分 断 の 無 残 な 結 果 を 日 々 感 じ て い ま す
。 私 達 は 夫 婦 共 に 祖 国 な し に な り ま し た
。 な ぜ な ら 妻 は 上 ハ ン ガ リ ー
( 現 ス ロ ヴ ァ キ ア
)、 私 は ト ラ ン シ ル ヴ ァ ニ ア
( 現 ル ー マ ニ ア
) 出 身 だ か ら で す
。 月 日 が 経 つ 毎 に 悲 し み は 深 まり希望は薄らぎま
す
。 正 義は必ず勝つ
と 信 じ て はいま
す が
、 そ れ は私達そし
て 年老いた両親達が生
き て いる内に果たし
て 実 現 す る で しょうか
)38
(
。」
これらに続い
て 書 簡の文脈に連なっ
て いるのは領土回復の目的
を 日本が支持し協力
を 求 めるもの
で あ り
、 これが相 当頻繁に出
て くるの
で 驚 かさ れ る
。 今 岡は公人の立場にはなく
、 政治状況から言っ
て も日本が何か実効ある役割
を 外交上果た
す 可能性がどれ
ほ ど あっただろうか
。 孤立感の
深 かったハンガ
リーの人
々は身近な日本人
を 通 し て
「 大
今岡十一郎の活動を通して観る日本・ハンガリー外交関係の変遷(梅村裕子)一八
国
」 日本に何か
を 期待したかったようだ
。 貴族院議長ヴ
ラ シッチ男爵は
、 期待 を 語 る
。
「 近 い 将 来 再 会 す る 日
、 そ の 時 ま で に あ な た が 知 識 を 広 め た 成 果 に よ り
、 こ の 分 断 さ れ た 祖 国 に つ い て 日 本 で も多くの理解者
を 得 て い る こ とを 願っ て い ま す
)39
(
。」
一 九 世 紀 の ハ ン ガ リ ー 改 革 運 動 を 推 進 し
、 国 の 発 展 に 大 き く 貢 献 し た ハ ン ガ リ ー 史 上 の 偉 人 の 一 人 で あ る セ ー チェーニ
・イシュトヴァーンの孫
で ある セーチェーニ
・バ ーリント伯
と 今岡は交流
を 持っ て い た
。 彼もまた
こ の テー マに言及し
て い る
。
「 今 岡 さ ん が 計 画 さ れ て い る 著 書 に お い て
、 ト リ ア ノ ン 条 約 で ハ ン ガ リ ー が 被 っ た こ れ 以 上 な い 程 の 不 条 理 と 残酷につい
て 広く知らしめられ
、 そ れ が こ の不幸な
運 命 を 変えるべく手助けになる
ことで
し ょう
)40
(
。」
と 今岡の日本
で の活動にエール
を 送 る
。 知日派の医者
で 日本につい
て の著書もあるボゾーキはやはり戦後の講和
を 批判し
、 来 るべき
新 たな領土裁定の日には
「 権威ある席に位置し
、 決 定に影響力
を 持つ大日本
」 が ハンガ
リ ーの立 場 を 理解し
て く れ るに違いない
と 望 み を 綴った
)41
(
。 こ こ に も国際政治上
で 影 響 を 持 て るような日本へのイメージが読 み取 れ る
。 文化省の官僚
で 日本につい
て の著作のある
ナ ジ・イヴァーンは子供の頃に聞いた日露戦争の思い出
を 披 露す る
。
「 あ れは六
、七歳の頃
で し た
。 東郷元帥がロシア艦隊
を 破 り
、 日本兵達が万歳
を 叫 ん で ポートアルトゥールの要 塞に登っ
て いました
。 私 達は こ の 地 で 遠くアジアの
『 親 戚
』 が勝利した
ことを
喜 んだもの
です
。 今 度は我
々 が もう一度ポジョニ
、 カッシャ
、 コロジュヴァール
、 ア ラド
、 サ バトカ
)42
(
の塔にハンガ
リー国旗
を 掲 げ
、 そ れ を 喜 ん で 日本の若い人達が拍手
を 送 る と いう日が来ま
す 様 に祈りたい
と 思いま
す
)43
(
。」
これらは書簡のほんの一部
で あ るが
、 類 似 す る手紙の多さ
、 そ し て そ れ らがハンガ
リ ー社会の広い分野の指導者層
国際関係論叢第二巻第二号(二〇一三年)一九
か ら 送 ら れ て き て い る こ と を 観 る と
、 戦 間 期 の 同 国 に あ っ た 領 土 回 復 運 動 が い か に は っ き り と し た 国 民 の 心 情 で あったかが判るし
、 日本に対し
て 期 待 を 持っ て いる様子も伝
わ っ て く る
。
こ う いった認識
を ハ ンガ リーの人
々が持つにはど
のような経緯があったのだろうか
。 史料に当たる
と
、 パ リ 講和 で は そ れ ほ ど 役目 を 果たさなかった日本代表団
で あ るが
、 その後の国境策定
で は委員
と し て 参加し
、 比 較的中立的 な態度
を 取り
、 ハ ンガ リー側に有利な意見
を 述べ て い る
。
ハンガ
リ ーの公文書館
と 東京の外交史料館には当時の国境画定委員会の報告書が残っ
て い て
、 主に武官からなる 日 本 人 の 委 員 が ど ん な 認 識 で こ の 業 務 に 当 た っ て い た か を 垣 間 見 る こ と が で き る
。 国 境 画 定 委 員 会 の 現 地 調 査 は 一九二一年から一九二二年にかけ
て かなりの回数
で 行 われて
い る
。 と い うのも
こ の時期は国境周辺
で ま だ線引
き が はっ き り 定められて
い なかった地域があ
ち こち にあったのだ
。 委員はフ
ランス
、 イタリ
ア
、 英 国
、 日本に当事者の ハンガ
リ ーと 該当 す る場所によっ
て チ ェコスロヴァキア
、 あるいはルーマニアの委員
を 加 えた六カ国からの参加
で ある
。
ここで
具 体的な例
を 観 て み る
。 一九二二年三月はチェコスロヴァ
キア と の 国境地帯シャルゴータル
ヤン市から北 へ広がる地域の村
や 駅の帰属につい
てで ある
。 こ の時の委員が書いた報告によりショモシュケーと
近くの石炭鉱山 はハンガ
リーに留まる
ことが決まった
。 またその隣村ショモシュ
ウ ー イファル
と 鉄道駅につい
て は 委員の意見が割 れ た
。 日 本 と 英国の委員がハンガ
リーへの帰属に賛成し
、フ ラ ンス と イ タリ アが反対したが
、結局 これはハンガ
リー に 留 ま っ た
。 ハ ン ガ リ ー 人 の 将 校 が 残 し た 報 告 書 に よ る と
、 こ の 頃 は ま だ ハ ン ガ リ ー も 様 々 な 望 み を 断 ち 切 れ ず
、 北部の都市カッシャ
( コシツェ
) の保持
を 期待し
て いたようだがそ
れは適
わ なかった
。 報告書
で は
「 フ ランス
と イ タリ アの委員があからさまに反ハンガ
リー的態度
を 取るのに比べ
、 イギ リ スの委員は中立
で あろうと
し て いる
。 日
今岡十一郎の活動を通して観る日本・ハンガリー外交関係の変遷(梅村裕子)二〇 本人の委員は少し受身
で あ るが
、 と りあえず英国の委員の意見に同調し
て いるの
でこち
ら と し て は 助かる
」 と 述べ て い る
)44
(
。 こ の時の日本委員は陸
軍 少佐の安藤利吉
で
、 外交史料館に残る日誌による
と
、 こ の 国境視察のためブダペ ストに滞在中
、 首相のベトレン・イシュトヴァーンから晩餐会に招待さ
れて いる
。 その席
で 今 度はいつ来るのか
と 聞 か れ
、 ま だ わ か ら な い と 答 え る も
、 ベ ト レ ン 首 相 は 是 非 再 訪 し
、 今 の 国 境 の 変 化 が ど ん な 風 か よ く 見 て ほ し い
、 と 彼に乞う
て いる
。 その後安藤は日誌の中
で
「 予
、 自 ラ 省ミテ其画定シツツアル国境線ノ永久性ヲ信ズルモノニア ラ ズ
。 又
、 匈 民族ガ如何ニ新国境ニ対シ不満ヲ抱懐シ其恢復修正ヲ念
トシツツアル
ヤノ一端ヲ窺
ウ 得ベシ
」 と ハン ガ リ ーに同情的な感想
を 記 し て いる
。 続 けてこ
の ように幾何
学 的 に国境線が引か
れ
、 民族自決
とは遠く将来に禍根 を残 す と も書 い て い る
)45
(。
またルーマニア国境
を 視察した陸
軍 少佐の佐野光信は策定に関し
て 委員の間
で は
「 大 々 異議ア
リ シモ佛国委員ム ニエ少将
、 巧且悪辣
ナ ル宣伝ニ依
リ 多数決ヲ以テ決定シタルモノナリ
」 と フ ラ ンス委員があまりにルーマニア一辺 倒 で 話しにならない
、著しく公平
を 欠 き
、ま こ と に遺憾
で あ る
、と ま で 記 し て いる
。こ の時議論になったのは南部ルー マニア
と の 国境にある村ポルガーニ
で あ る
。 佐野はハンガ
リーに帰属
すべし
と 考えたが
、 フ ランスの熱烈な意見に よっ て 結局委員同士
で は 意見が割
れ
、 ルーマニアに割譲さ
れ た
。 現在は隣村
と 合併さ
れてオーベーバ
( ベバ
・ベ ケ
) と い うルーマニアの村になり
こ のポルガーニ
と い う名前も
消えて
しまっ
て い る
。 近くの
ナ ジ ラク
、 キ シュペレグも 同様の
運 命 となった
。 佐 野は これらの新しい国境は自然
を 分 断し て しまい
、 今度の新しい国境は経済
と 交 通 を 破壊 し
、街 と 村 を 離し平地
と 山 を 離し工業は荒廃
す る
、と その重大な影響につい
て 指摘し
て い る
。特にア
ラ ド
、ナ ジヴァー ラド
、 サ トマールネーメトの三大市街地は被害甚大
で あり
、 家 族
・親戚関係
を バ ラ バ ラ にし行
き 来 も墓参りも難し く す る不自然なもの
で ある
、 と 領土割譲の本質的な不条理
を 批判し
て い た
)46
(。