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ジンメルとベンヤミン -モデルネの根源を巡って-

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(1)

論 文

ジンメルとベンヤミン

‑モデルネの根源を巡って‑

はじめに

第一次世界大戦という境界

ジンメルとベンヤミンは,ともにユダヤ人の 家系に生まれた生粋のベルリン子であり,学問 的な共通点も思いのほか多い。彼らは,ともに ヘーゲル的な体系的思惟を拒否し,もっぱら エッセーという表現形式を好み,断片的でイン スピレーションに満ちた文章を数多く残した。

また彼らは同じように弁証法を用いたが,そ の弁証法は,全てを飲み込む「精神の胃袋」と してのヘーゲル弁証法とは全く異質なものであ り,体系を拒絶するものであった(1)。

さらに大都市を対象にした研究でも両者は 有名である。ジンメルの「大都市の精神生活」

[Simme1 19571という論文は都市社会学の先駆 的業績と見なされ, 19世紀のパリを読み解こ

うとしたベンヤミンの未完の『パサージュ論』

[Benjamin 1983]もまた,現代の研究者達に強い インスピレーションを与え続けている。そして 彼らの考察を向けた対象もまた「流行」 「売春」

「貨幣」などと重なるものが多い。

しかし,それらの対象に対する彼らの評価 は,基本的なところで喰い違っている。その

酒 家 竜 介*

相違は,彼らの思想的な気質の違いもあるだ ろうが,それよりも彼らが生き抜いた時代の 違いの方が遥かに決定的であると考えられる。

というのも彼らの思索の主要な展開は,第一 次世界大戦を境界にして区切られているから である(2)

ジンメルは,ベルリンから離れたストラス ブ‑)i,で第一次世界大戦がもたらした混乱の最 中に死去したが,若きベンヤミンは,その第一 次世界大戦で多くの友人達を亡くし,思想的に も第一次世界大戦という破局を深刻な課題とし て引き受けざるを得なくなってしまった(3)。し かしながら,ベンヤミンは,第二次世界大戦の 最中,ファシスト達の手によって命を奪われる ことを拒み,服毒自殺を遂げた。激動の時代に 翻弄された彼らの思想の軌跡は,どこか悲劇的 な相貌を帯びている。

本稿は,彼らの「眼差し」がいかにモデルネ を評価し,その評価がどのように異なっている かを検討するとともに,彼らを学問的営為へと 駆り立てたモデルネの根源にあるものを浮き彫

りにすることを試みる。

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程6年

(2)

ジンメルとベンヤミン      141

1.形式社会学と貨幣文化

1 ‑1.形式社会学と社会学的眼差し

ジンメルは, 「社会」を,諸個人を要素とす る「相互作用(Wechselwirkung)」として捉え, それが「社会化(Vergesellschaftung)」という 動態的なプロセスにあると見た[Simmel 1908:

13‑62〕。ジンメ)i,は,その動態的なプロセスで ある社会化を,科学的抽象によって「内容」と

「形式」に分離し,純粋に捉えられた「形式」

をもって「社会の中の社会」であるとし,それ を研究する専門科学を「社会学」であるとした。

社会化の「内容」は,宗教・法・経済・性愛 といった諸個人の行為の動機や目的に関わるも のであり,その「形式」とは,内容が実行に 移される際に諸個人の間に現れる「闘争」 「交 換」 「上位と下位」等の相互作周の諸形式のこ とである。実際のところ,社会化の「目的」と

「形式」は分離していないが,ジンメ)i,ほ科学 的な抽象によってそれを取り出してみせた。こ の「形式」と「内容」の分離という発想は,カ ントの認識論における超越論的形式と経験的内 容の区別という発想を社会学の領域に転用した ものである。ジンメルは,その形式社会学の方 法論的基礎を整えることによって,ドイツ社 会学の創始者と見なされることになった[屠安

2000:i 。

同時代の社会学で言えば,形式社会学が提示 する「社会」の見方は,ヴェ‑バーの方法論的 個人主義と明白に異なるし,デュルケムの社会 実在論とも異なるものであった。ジンメルが, 社会と見たのは,諸個人を要素として結びつく

「相互作用」であり,これは社会実体論でも社 会唯名論でもない動態的・関係論的な社会概念

であった。

相互作用としての社会は,固定的な秩序に よって規定された社会ではなく,流動的な社会 化を指し示している。すなわち国家や民族共同 体という社会構成体であろうが,言語・宗教・

道徳という事象さえも,会話や手紙のやりとり などの結んでは解かれる一次的で日常的な相互 作用によって基礎づけられており,場合によっ

ては諸個人が離散して,二次的な社会的構成体 である国家・民族・宗教団体などが消失してし まってもおかしくはない[Simmel1908:3ト35】。

ジンメルにとって,近代哲学が依拠した自律 的個人さえもが,相互作用の有り方によって生

じた事後的な現象にはかならず,相互作用の諸 形式に先行するわけではなく,その形態が変容 してしまえばいつ消失してもおかしくはない。

ところで,哲学者を自認していたジンメJL, が,社会学者としてドイツで学として認められ ていなかった専門科学としての社会学の確立に 尽力した意義を捉えるためには,その当時の社 会学以外の学問的潮流に目を向けなければなら

'サ1‑

当時, 「民族(Volk)」 「国民(Nation)」 「人 檀(Rasse)」などの本来性を間おうとする形而 上学的な実体論を志向するドイツ歴史学派に代 表されるロマン主義的・歴史主義的傾向が強い 影響力を持っていた[Ringer 1990: 113‑127〕。例 えば,シュモラーに代表される歴史学派経済 学,哲学という分野に目をやるなら民族的で有 機体的な「生(Leben)」概念を提唱するデイル タイの精神科学と解釈学などがそれである(4) ジンメルは特定の誰かを名指して批判するわけ ではないが,ドイツ・ナショナリズムの興隆と も連動した,これらの民族や国家を理念的もし

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くは実体論的に把握していこうとするロマン主 義的・歴史主義的傾向を懸念していた[廃1995:

4ト85〕。

ジンメルが初期の『社会分化論』以来提示し てきた社会観は,歴史的な社会構成体としての

「民族」概念は承認するが, 「国家」や「民族」

を実体化して捉えようとする形而上学的見方 を明確に拒絶するものであった[Simmel 1890:

129‑131〕。ジンメルが社会学を確立するための 学問上の闘いは,プロレタリア革命や修正主義 を標梼するマルクス主義だけでなく,ヘーゲル 以来の「民族」を形而上学的に実体化して捉え ようとするドイツの歴史主義的な学問潮流に対 する闘いとして捉えられる。

ジンメルの批判は,民族を形而上学的に実体 化し神秘化する言説を徹底的に批判すること

で,近代的な相互作用の諸形式の効果によっ て「近代的自由」を享受することになった大衆 社会を擁護するという目論みがあった[Simmel

1908: 13‑14]。

実際,ジンメル社会学とそれが提示する社会 概念は,その論敵となった歴史学派の人々から 破壊的な思想と見なされたし,民族的な生を実 体的に捉えた生の哲学者デイルタイは,容易に

ジンメルの社会学を認めようとしなかった(5) ジンメルが提示した社会概念は,同化ユダヤ 人の家系という出自もあるが,周囲からコスモ ポリタンと見なされた人物が提唱するに足るも のであったと言えるだろう。

形式社会学の確立の意義は,ナショナリズム の勢いが増し,民族を実体的に捉える形而上学 的なパースペクティブが席巻するドイツの学閥 的潮流の中に,個人と社会の双方を実体と見な すことのない関係論的・動態的な「相互作用」

としての社会を見据える「社会学的眼差し」と いう科学的なパースペクティブを投げ込むこと

こそが重要だったのである(6)

蝣f p 貨幣と個性化

「モデルネ(近代)」を社会学的に見た場合, ジンメルは,その決定的な特徴を「社会分化 (soziale Differenzierung)」の過程にあるとみた [Simmel 1890]c それは特殊化と個別化へと向 かう社会的潮流である。

例えば,中世的な生活共同体からの「個人の 分化」であり,宗教によって束ねられていた 法・経済・芸術などの制度や経済的分業などの

「機能分化」である。

その中でもジンメルが最も注目したのが,礼 会分化の過程を根底で支えることで,モデルネ をモデルネたらしめている社会化の形式である

「貨幣を媒介にした交換」と「個性化傾向」で あった[Simme1 1907〕。

そもそも財の交換の際には, 「欲望の二重の 一致」という困難が存在する。この困難は,財 を交換する際に,その交換の当事者達が欲求し 必要とする財が,相互に一致することが稀であ ることを指す。分業のシステムが高度化するた めには,この「欲望の二重の一致」という困難

を解決しなければならない。

貨幣というメディアは, 「無制限な利用可能 性(unbeschr註nkte Verwertbarkeit) 」と「分割可 能性(Teilbarkeit)」という二つの性質によっ て,この困難をこともなげに解決する[Simmel

1907: 386‑389]c

まず「無制限な利用可能性」であるが,貨幣 はその量を度外視すれぼ その「支払」によっ て,市場に売りにだされた交換価億の浸透した

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ジンメルとベンヤミン       143

あらゆる価格をもった商品を購入可能にする。

そのため市場に参入する購買者は,常に貨幣を 必要とする。また,商品所有者が,市場に参入 するのは,特定の使用価値を有する商品の価格 に見合った「支払」を受けるためにはかならな い。つまり,商品所有者達は,市場においてあ らゆる瞬間に必要となる貨幣を欲しているので ある。貨幣を介在させることによって,結果的 に交換の当事者達の利害が容易に一致すること になり,双方の満足の水準も,交換の成立以前 より上昇することになる。

もう一つの貨幣の「分割可能性」という働き は,交換価億を計量可能なものにし,その計量 可能性という効果によって,交換の当事者の間 に,客観的な「等価(Aquivalent)」という現象 を生じせしめる。貨幣は,この等価交換の効果 によって,所有変更を「公正(Gerechtigkeit)」

なものにし,公正な社会秩序の観念を社会の 隅々にまでいきわたらせることになる。

貨幣という公正なメディアの抽象的な交換可 能性を手に入れることで,交換の当事者達は,

「欲望の二重の一致」という困難を回避し,安 心して自身の職能を専門化させ,分業のシステ

ムを高度化させてゆくことを可能にする。

上記のことからもわかるように貨幣を媒介に した交換は,分化による「力の節約の原理」の 典型である。この貨幣こそが,経済的分業を一 つのシステムとして結びつけ,経済活動におけ る合理的な計算可能性を導入し,社会分化とい う過程を根底で支えているのである。

ジンメルは,モデルネという時代を可能とす る社会化の核に「貨幣に媒介された交換」とい う社会化の形式を見出したと言ってよい。も し,貨幣というメディアが消失すれば, 「欲望

の二重の一致」という困難が直ちに露呈するこ とで,経済的な分業システムは壊乱し,機能分 化した社会は,ただちに崩壊してしまうだろ

う。

ところで,ジンメルは, 『社会分化論』から

『社会学の根本問題』に到るまで主だった社会 学的著作の中では,必ずと言ってよいほど「個 人の人格形成」の問題に触れてきた。ジンメル の社会学にとって「個人と社会」というテーマ が中心問題であると指摘されてきたが,実際の ところ「個人の人格形成とその自由」という問 題こそが,ジンメルの課題の中心的位置を占め ており,それは単に彼の社会学だけでなく「生 の哲学(Lebensphilosophie)」においても中心 的な問題であった(7)

まず,形式社会学的に見た場合「個人とは社 会的な糸が結び合う交点にすぎず,人格とはこ の結合の生じる特別な様式に過ぎない」[Simme1 1908:14〕とみるジンメルにとって, 「近代的自 由」や「近代的な自律的個人」というものは, アプリオリな超越論的主体に帰属させるうるも のではなく,相互作用の諸形式に条件づけられ た社会化の効果として成立するものなのであ

る。

ジンメルによれば「個性化」の社会学的条 僅とは, 「社会圏の交差(die Kreuzung sozialer Kreise)」と呼ばれる社会化の形式である [Simmel 1908: 456‑511]c 貨幣に対する「信頼」

によって結びつく社会圏は,制度的・経済的に 機能分化し,閉鎖的な生活共同体を超えて様々

な「社会圏」を生じさせる。例えば,政党,学 校,企業組織,組合,読書やスポーツなどの趣 味サークル等であり,個人は,それらの無数の 社会圏に選択的に所属することによって,その

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集団に由来する様々な特質を獲得することが可 能になる。ジンメルは,このような社会国を独 自に交差させることで,人々の人格形成の過程 が個性的になると考えた。

「社会圏の交差」に個性化を見出す形式社会 学的な眼差しから見るならば,神に対する「信 仰」を共にする生活共同体では,諸個人は,神 に由来するヒエラルヒ‑的な社会秩序へと位置 づけられてしまい,様々な社会圏への参入とい う「選択の自由」を喪失し共同体の成員となっ てしまう。このような眼差しでみると,社会を 可能にする基本的な「信頼」が,神に対する「信 仰」から貨幣に対する「信頼」へと移行するこ とによって,モデルネという時代が機能分化の 軌道へと歩みだしたことがわかるだろう。

ところで,ジンメルは,形式社会学的眼差 しによって単に形而上学を拒否したのではな い。ジンメルは,形式社会学の確立や歴史認識 批判によって,科学の名のもとに形而上学的真 理を語る実体論者や民族主義者たちのディレッ タント的な言説を批判し,科学的真理と形而上 学的真理を明確に区分することを求めたのであ る(8)。

ジンメルによれば,形而上学的な言説は,経 験科学の彼岸にある「解釈(Deutung)」の領 域なのであり,経験科学の実証性を求められ れば偽である言わねばならない。しかし,ジ ンメルは,この学問領域を正当なものと承認 し,自らの社会学と接合する「哲学的社会学 (philosophische Soziologie)」の学問的な権利を も主張した[Simmel 1917: 84‑87〕.

このように経験科学と形而上学の分雅を明確 にした上で,ジンメルは自ら晩年の『生の直観』

の中で,個性化の問題を形而上学的な「個性的

法則(das individuelle Gesetz)」として論じるこ とになった[Simmel 1918: 346‑425]。

形而上学者ジンメルによれば,諸個人の内奥 に,それぞれに固有で代替不可能な本質に関わ る「個性的法則」が宿っている。それは,個体 的生の内部から発する「当為(Sollen)」であり,

「生がその最も深い源泉から湧き出るときのリ ズム」にはかならず,それはゲーテが言うとこ ろの「日々の要求」であり,自然の「永遠で活 発な諸法則」とよんだ「原現象(Urph孟nomery」

の倫理的な対となるものであるとジンメルは言

う[Simmel 1918: 360‑361]。

その倫理的な当為のリズムは,個人の人格完 成へと向かっており,それに促されることに よって個体的な生に根ざした各人固有の「根源 的形態(Urbild)」 [Simmel 1917a: 146]を現実化 してゆくのである。

ジンメルの「生の弁証法」とは, 「個性的法 則」という無比の当為のリズムに脈打つ個体的 な生が,社会圏の交差や文化という迂路を経る ことで,他なる諸規定を媒介にし,人格の完成 へと向かう弁証法なのである(9)この「生の弁 証法」は,個体としての生を中心に展開する弁 証法であって, 「民族の意識」の基体にして絶 対精神を露にせしめ,諸個人を絶対精神の自己 実現の手段と見なすヘーゲルの弁証法や,形而 上学的に実体化されたデイルタイの民族的な生 概念と決定的に異質なものである。

さらに生の哲学から遡って見るならば『貨幣 の哲学』を著した社会哲学者ジンメルにとっ て,貨幣は,前近代的なヒエラルヒ‑的な象徴 秩序によって規定されていた閉鎖的な生活共同 体から諸個人を分化し,諸個人の自由な自己形 成の可能性を開くことで,個性的法則の律動を

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ジンメルとベンヤミン       145

響き渡らせる「解放のメディア」であるという ことになろう。

1‑3.貨幣と文化の悲劇

ジンメルによれば,諸個人は,自己の潜在 的な根源的形態を現実化するためには「文化 (Kultur)」の過程という迂路に入り込まねば ならない[Simmel 1911: 385‑416]c ジンメルは, その過登を「主観的的精神(subjektiver Geist)」

と「客観的精神(objektiver Geist)」の二つの側 面から論じていく。

ジンメルによれば,精神的な生は,自然から 身を引き剥がした諸々の主体を介して,様々な

「文化形象(Kulturgebilde)」を作りだす。文化 形象とは,人間と自然,あるいは人間と人間同 士の相互作用の中から,その関係性が結晶し, 人間の行為を誘導するようになった観念や客体 物であり同時に具体的な心像である。それら文 化形象を媒介とした詣行為が,外化された言 語・習慣・宗教・道徳・芸術・学問・法・経済 などの「客観的精神」の系列を作り出してゆく。

客観的精神は,精神的生によって生み出された 所産であるが,独自の自律的な事象論理を獲得 する。個体としての生は,それらの客観的精神 を経由することで,自らに客観的精神に由来す る形態を与え,豊かに現象することになる。ジ ンメルは,この客観的精神を媒介にして,自ら の根源的形態を現実化し,人格の完成へと向か う人間の具体的形姿を「主観的精神」と呼ぶ。

神‑の信仰によって結びつく近代以前の諸々 の生活共同体は,近代化の進展によって結び付 けられた様々な社会圏と比べ,相互に没交渉的 で孤立的なものであった。その生活共同体に存 在する客観的精神の系列は少数で,諸個人の選

択可能な行為の幅も限定されたものであった。

しかし,客観的精神を織り成す目的系列の迂路 は,貨幣への「信頼」によって錯綜してゆくと ともに,遠方へと押し広がり,諸個人の視界を 大きく超え出てしまう。そうなってしまうと, 諸個人が,遠方へと結ばれ細分化しゆくプロセ

スに習熟したり制御することが次第に困難に なってゆく。

つまり,貨幣への「信頼」を基盤にして分化 するモデルネという時代では,客観的精神の発 展は,主観的精神の発展を凌駕し,主観的精神 の形成過程が困錐に直面してしまうのである。

さらに問題なのは,個体的生の活動が,自己の 完成へと向かわず,客観的精神の事象論理の展 開を強化するための素材(人材)となってしま うことである。

ジンメルは,このようにして客観的精神の迂 路によって圧倒的に凌駕され,主観的精神の自 己形成過程が困難となり弱体化してしまうこと を「文化の悲劇(dieTragodie der Kultur)」と呼 んだ[Simmel 1911: 385]c

文化の悲劇の前で倖むジンメルは,貨幣を媒 介にすることで進展する二つの過程である「事 象論理の深化」と「個性化の衰弱」という二重 のプロセスの境界に立ち,その論理を記述した

と言える。もちろん客観的精神の事象論理の深 化に脅かされる主観的精神の個性化のプロセス の危機的状況をジンメルは容易に見過ごすこと ができなかった(10)しかしながら,ジンメル は,この「悲劇(Tragodie)」をマルクス主義 者の言う「疎外(Ent丘emdung)」のように止揚 しうる過程であると見なさなかった。なぜなら モデルネを根底から支える貨幣の廃棄は,形式 社会学的にみれば「近代的自由」の廃棄と同義

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であるからだ。

ジンメルが「社会学的眼差し」と「形而上学 的眼差し」という「二重のパースペクティブ」

によって見出したモデルネの根源は,両義性を 帯びたものであった。ジンメルの探求は,貨幣 によって媒介されることによって進展する「事 象論理の深化」による「個性化の衰弱」という

「文化の悲劇」の存在を確認するものであった。

晩年に『社会学の根本問題』の中で,競争に よる専門化の進展が人格の一面化を促すことを 危供したジンメルは,経済競争に親和的な「量 的個人主義」と経済的分業に個性化の基礎を見 出す「質的個人主義」という経済形態に由来す る二つの個人主義の理念的な対立を超え,多様 性と個性が美しく調和する「新たな理念」が創

出されるであろうと希望を述べ,その実現を未 来に託した[Simmel 1917]c

しかしながら,ジンメルは,畢生の書『生 の直観』で,近代経済ほど「生の本来の意味 と固有の諸要求とに対立して,かくも掛酌な き客体性をもって立ち向かう世界は,まったく ないであろう。生と,生自身によって昌的適合 的に産出された諸形式の獲得するあの<生への 向かい合い>とのあいだの緊張は,ここでは極 大に, ‑たしかにひとつの悲劇と戯画にすら

‑なったのである」 [Simmel 1918: 293]と述べ ることになった。ジンメルは,最晩年において も「文化の悲劇」を超えるものを見出すことが できなかったのである。

結局,個性化と社会化の調和を夢想したジン メルの「宥和の願い」は,時代の推移によって 脆くも打ち砕かれてしまう。それは,第一次世 界大戦の勃発から第二次世界大戦に到るドイツ

の崩壊過程にはかならない。ジンメルも経験す

ることになった第一次世界大戦は, 「悲劇」を も押しつぶす「破局」というべき事態であった。

大戦による混乱の最中の1918年9月290,ベル リンから遠くはなれたストラスブールで,ジン メルは失意の内に死去する。

その後,ジンメルが戦中に危悦を聴いたドイ ツのユダヤ人の運命は,民族共同体を純化する ための死の工場であるアウシュヴィッツという

「破局の祭壇」に向かうレールの上へと押し出 されてゆくことになる。

2.根源史と資本主義

2‑1. 『ドイツ悲哀劇の根源』と歴史哲学的

H‑ty'J‑.し

ジンメ)i,の学問的営為が1860年代から第一次 世界大戦以前のドイツの急速な産業発展と大都 市ベルリンの発展に根ざしているとするなら, 1890年以降の大都市ベルリンの経験を共有しな がらもベンヤミンの学問的営為は,第一次世界 大戦という破局と自らの大戦期のトラウマ的経 敬,そして吹き荒れるファシズムの脅威に根ざ

している。

ジンメルと異なり教授資格論文が認められな かったため大学人としてのキャリアを閉ざされ たベンヤミンは,ジンメルのように広く認知さ れた方法論的基礎を持った学を展開したわけで はない。しかし,ベンヤミンの独自の方法論 は,彼の諸著作を貫いて存在している。それ は,ジンメルの「二重のパースペクティブ」に 比すべき「歴史哲学的眼差し」と言うべきもの である。

ベンヤミンの「歴史哲学的眼差し」を語る際, クレーの「新しい天使」という一枚の絵と畢生 の作品となった『歴史哲学テーゼ』に残された

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ジンメルとベンヤミン      147

その寓話を見過ごすことはできない[Benjamin 1940:697‑698〕。ベンヤミンは,その中の断章 で,その絵を素材に「歴史の天使」のアレゴ

リーを語りだす。

翼を大きく広げ,過去に向けて目を見開いた 夫使は,人々にとっては事件の連鎖と映るもの を,廃櫨がうず高く積み重なっていく様として 眺めやる。天使は,横たわる死者達を目覚めさ せ,破壊されたものを組み立てたいのだが,節 方の楽園から吹いてくるカタストロフを生み出 す「進歩」という強風にあおられて近づくこと ができず,背中にある未来の方へと運ばれてし

てK‑' 、

アレゴリカー・ベンヤミンの眼差しは, 「歴 史の天使」のそれである。それは,歴史の見方 のコペルニクス的転回であり,うわべの進歩や 発展が,実痕のところ破局の連鎖にはかなら ず,廃壕の山を築き上げていると見るものだ。

第一次世界大戦という経験をくぐり抜けたベ ンヤミンの「歴史哲学的眼差し」は,ヨーロッ パ的精神の勝利を言祝ぐのではなく,第一次世 界大戦という破壊とファシズムの猛威を出現さ せたヨーロッパ的精神の神話的な暴力性の在り 処を探求すべく過去へと向けられる。そしてベ ンヤミンの「救済する批評」は,犠牲者達の無 残な運命や打ち捨てられるぼろ屑や瓦磯を寄せ 集め,その瓦裸の山の中から救済の理念を透か しみることで,将来の変革のために過去のユー

トピア的な潜勢力を呼び覚まそうとする。

さて,進歩の急進的な批判者であるベンヤミ ンが,自らの学問の方法論的基礎を整えたの は,初期の代表作である『ドイツ悲哀劇の根源』

である(ll)ベンヤミンは,その作品の中で「象 敬(Symbol)」と「寓意(AUegorie)」の意味作

用の違いについて述べている[Benjamin 1940:

174‑197]c

ベンヤミンによれば,真の「象徴」は,神学 の領域に基礎を置くものであり,古代ギリシア の神々の彫像などで達成されたものである。そ れは,超越的な「神的な自然」を,人間の有限 な働きによって表現可能であるという前提から 発生した表現形式である。哲学的に言えば「思 惟と存在の一致」,記号学の術語であれば「シ ニフイアンとシニフイエの一致」が暗黙の前提 となっていた時代における芸術の表現形式であ る。

しかし,中世の末から宗教改革の時代へと到 ると,次第に人間の歴史が神的なものから切り 離されて漂流しはじめる。それに伴いシンボル

という表現形式を可能にしていた人間と自然の 古典的調和が崩壊し,人間と自然の間に巨大な 深淵が口を開ける。その暗い淵の縁から「アレ ゴリー」という表現形式が発生することにな る。

不可解となった自然と歴史が死を仲立ちに して境界線を刻み込みながら交錯し, 「時宜を えないもの,痛ましいもの,失敗したこと」

[Benjamin 1940: 183]の全てが,歴史の死相であ る一つの閣僚として浮かび上がるとベンヤミン は言う。こうなると「人間存在そのものの自然 の本性ばかりか一個人の伝記上の歴史的なこと までもが,このようにもっとも深く自然の掌中 にとらわれた姿で,謎の問いかけとなって意味 深長に現れてくる」 [Benjamin 1940: 183]ことに なる。ベンヤミンによれば,これが歴史を「世 界の受晋の歴史」として見るアレゴリー的な見 方の核心なのである。

このように述べるベンヤミンは,近代アレゴ

(9)

リーの見方を示す「真性なドキュメント」とし て図像と文面からなるバロックのエンブレム作 品を取り上げる[Benjamin 1940: 184‑193〕oエン ブレム作品は,人文主義者達によるヒエログリ フの解読の試みから生じた「図像学」の手法を 背景にして生まれたもので,バロックの目的で ある「被造物の秘密に満ちた教示」を図像と文 字の組み合わせからから解読しようとするもの である。

神的なものの消失によって,自然は全体とし てはもはや何の徴も示すことはない。そうなる と,廃嘘や瓦磯のなかに打ち捨てられているも の,意味深い断片・砕片などが, 「問い」を投

げかけてくる貴重な素材とみなされるようにな る。アレゴリー作家達は,そのような素材を拾 い上げ,エンブレム的に描き出すことで,自然 の意義を読解しようとする。

ベンヤミンによれば,エンブレム作品に代表 される様々なアレゴリーは,全ての地上的なも のが瓦解して廃城になる滅亡の瞬間の幻想にお いて,そのリミットに達するという。魔境に転 がる閣僚は,地上的なものの有為転変の停さを 指し示すものであるが,かすかな希望を畢んだ ものだ。それらは一瞬のうちに生じる急転臥 すなわち救済という奇跡を待つ「復活のアレゴ リー」 [Benjamin 1940: 263〕なのであるO

とはいっても,自然という暗号がアレゴリー という人為的な意味作用の中で解けるわけでは ないし,実際に救済の時が訪れるわけでは毛頭 ない。 「なんの収穫もなく帰るのがアレゴリー」

[Benjamin 1940: 264]だ○

そのような一見徒労とも思えるアレゴリーを ベンヤミンが重視するのは,無数のアレゴリー が指し示す人々の「願望」を見出すためである。

神々しい自然が見失われることによって,その 喪失感を埋めるべく生じたアレゴリーという人 為的な意味作用の内に,人々の「願望」が露呈 される。ベンヤミンは,アレゴリーというメ ディアを組み合わせ,人々の救われることのな かった「願望」を映し出すスクリーンへと転じ そこに浮かび上がる様々な形象と文字を読み解 こうとしているのである。

ベンヤミンにおける批評とは,アレゴリーと いう砕片が保有してきた過去の画像を,それが 解読可能となる来るべき時に謎解きし破片を 救済することにある。この「救済(Erlosung)」

とは,判じ絵の謎を解いて,表現を生み出す

「根源」を見出し過去の明確な認識へと到らし め,将来の変革のためのエネルギーに転換する ことにある。

2‑2,根源史と19世紀の首都パリ

ここで「根源(Ursprung)」とは如何なるも のかについて触れておかねばなるまい。ベンヤ ミンによれは この「根源」の概念は,ゲーテ の形態学における「原現象」という基本概念の

「自然領域から歴史領域への厳密かつ異論の余 地なき転用」 [Benjamin 1983‥ 577]であるo

ゲーテの「原現象」は,様々な現実の植物の 諸形態が,ある一つの「原植物(Urpflanze)」

という生ける理念の表れとみるものである [Goethe 1947]。それはイデアのように現実の植 物を規定する不死の抽象的理念ではなく,様々

な現実の植物の具体的諸形態から遡行して見出 される生ける理念である。この生ける理念とし ての原植物の表現として,多様な植物の具体的 形態が現れるとゲーテは考えた。これが従来の 物理学を模範にした自然科学の因果論的発想と

(10)

ジンメルとベンヤミン       149

は異なった「原現象」という発想である。

この発想を歴史へと転用したベンヤミンは, あらゆる時代にその根源となるトポスが存在 し,原現象が様々な植物の具体的形態として表 現されるように,人間の営為から生み出される 時代を彩る様々な事象によって表現されると考 えたのである。この発想から着想されたのがベ ンヤミンの「根源史(Urgeschichte)」 [Benjamin 1983:579〕であり,それは表現としての歴史の 根源に存在し,その表現を生じさせるものと して捉えられている。ベンヤミンは,これを

「階級なき社会(eine klassenlose Gesellschaft)」

[Benjamin 1983: 47]とも言い換えている。

ここで確認すべきことは,ベンヤミンがドイ ツ・バロックに遡行したのは,第一次世界大戦 という破局‑と到るモデルネの「根源」を見出 そうとしたからである。ドイツ・バロック悲哀 劇において, 「思惟と存在の一致」を前提にし たギリシア古典芸術に代表される「象徴」とい う表現形式ではなく,その不一致を露呈させ る「アレゴリー」という表現形式が出現したこ とは,モデルネの根源に,神的なものの消失に よって顕わになった暗い深淵が存在しているこ とを明かしている。 「思惟と存在の裂け目」に 広がる暗い深淵が,人々にその空虚な闇を埋め ようとする止み舞い願望を肱胎させ,さまざま な近代的精神の意味作用や表現の試みを生起さ せているのだ。

『ドイツ悲哀劇の根源』の中で展開されたア レゴーリシュな眼差しによって,様々な砕片や 断片から人々の救われることのなかった願望を 読み解き,時代の「根源」を照らし出そうとす

る手法がベンヤミンの方法の基礎となる。

つまり,自然をエンブレム的に措き読解しよ

うとしたアレゴリー作家のように,ベンヤミン は,彼の言うところの自然と歴史が複雑に絡 み合う「自然史(Naturgeschichte)」の過程を, 生ける理念とも言うべき時代の「根源」と,そ の「表現」でもある様々なアレゴリー的形象を 通じて読解しようとしたのである。そして,そ の晩年にベンヤミンの眼差しは,次の世紀に第 一次世界大戦という破局‑と到る19世紀の首都 パリに向けられることになる。

進歩の批判者ベンヤミンのアレゴーリッシュ な眼差しの前では,神的自然に見放され一つの 閣僚を浮かび上がらせたバロックの時代と同じ ように, 19世紀という時代の先端に現れたパリ という都市もまた地獄でしかなかった。パリを 19世紀の首都として狙いを定めたベンヤミン は,この地獄の首都をあらかじめ廃城として眼 差している。ベンヤミンが,このパリを19世紀 の首都に選んだのは,当時の最新のテクノロ ジーが結集し,それらの新たなテクノロジー から生み出されたもの(例えば,鉄骨建築や ガラス)を触媒にして時代の願望が集約され たかたちで露呈する場であると考えたからだ

[Benjamin 1983‥ 45‑46〕。

ベンヤミンは, 「パリ‑十九世紀の首都」

という『パサージュ論』の草稿に,ミシュレの

「どんな時代もそれに続く時代を夢見ている」

[Benjamin 1983: 46】という言葉を引用している.

この言葉を引用したベンヤミンの狙いは明白で ある。その狙いは,次世紀にヨーロッパで荒れ 狂う暴力と破局‑と誘われることになった時代 の夢の在り処であり,その「根源」である。

ベンヤミンは,次世紀の地表の上に第一次世 界大戦とファシズムの猛威という地獄を産み落 とすことになった前世紀の悪夢の翰郭を浮かび

(11)

上がらせることで, 19世紀の悪夢からの「覚醒 (救済)」を目指したのである。

ベンヤミンが街路を遊歩しパリの国立図書館 で様々な資料を収集していたのは,様々なアレ ゴリーを寄せ集めドイツ・バロックという判じ 絵を解読したように, 19世紀の首都パリの人々 の願望の砕片である貴重なアレゴリーを寄せ集 め,それらを並べ替えながら時代の願望を透か

し見ることで,それらの「表現」を与えていた 19世紀の「根源」を読み取ろうとしていたから である。

アレゴリカー・ベンヤミンによって,未完 の『パサージュ論』のために収集された膨大な 引用文は,地獄の中で救済を求める人々の願望

とその根源を写しだす巨大なモザイク画となる はずであった。わずかばかりのベンヤミン自身 の草稿は,その完成することのなかったモザイ ク画の読み取りを可能にする見取り図なのであ る。

例えばパサージュ・室内・万国博覧会・百貨 店等は,ベンヤミンにとって,時代の願望を読 み取るための数々の費重なアレゴリーの砕片が 転がる重要な場所だ。その中でも織物取引の興 隆や鉄骨建築の技術を基盤にして成立したパリ

のパサージュは, 19世紀人にとっての憧れの地 であり,旅行者達の巡礼地であると同時に商品 資本の神殿であった。パサージュは,壁に大理 石などが使用された,ガラス張りの天井をもっ たアーケードである。そこでは,かつて神の栄 光を讃えるために司祭や貴族たちに仕えていた 芸術が,通りを飾り立てようとする商人たちに 仕えるようになっていた。その通りは,人々の 興味をかきたてる様々な商品でごったがえして いる。そうした数々の商品群は,アレゴリー的

形象として解読されることを待つ願望の断片に はかならない。 19世紀のモデルネという地獄に おいて,エンブレムは商品として回帰している のだ(12)。

2‑3,集団的夢としての資本主義

エンブレムとして回帰してきた「商品アレゴ リー」という断片を読み解くためにベンヤミン から呼びだされた者の一人が,アレゴリーの天 分をもった詩人ボードレールである。ボード レールは,ベンヤミンにとって19世紀パリにお ける商品アレゴリーを読み解く「遊歩者」の特 権的形象であり,第二帝政期のパサージュを歩 み抜くための伴奏者とも言える存在であった。

ベンヤミンによれば,商品を購入し享受する 消費者と異なり,あてどなくプラプラとさ迷う 遊歩者は,商品に対して一定の距離を保ってい る。それは商品アレゴリーを読み解こうとする

「遊歩者の姿をとった知性」 [Benjamin 1983: 70]

だとベンヤミンは言う。他方の消費者の群れ は,情念のままに商品世界の夢を見る。

ベンヤミンが言うところによれば,大都市の 住民である夢見る「群衆(Masse)」は,遊歩 者ボードレールの目の前でヴェールへと変化し 彼を包み込む。群集というヴェールで透して みると,見慣れた都市が一変し,そこに様々 な「フアンタスマゴリー(Phantasmagoric)」と いう幻像が浮かび上がるとベンヤミンは言う [Benjamin 1983: 54‑56]c群衆というヴェールの 中で,街路が集団の住居となり,新聞スタンド が書斎となるという具合に,都市は,集団的な 欲望・身体が住まう室内空間へと変容する。遊 歩者へと姿を変えた知性は,群集の欲望という

ヴェールをスクリーンにして出現する数々の集

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ジンメルとベンヤミン       151

団的なフアンタスマゴリーを読解してゆく。

このようなベンヤミンの発想は,奇異に思わ れるだろうが,さまざまな徴侯から個人の無意 識を読み解こうとしたフロイトの精神分析的な 発想を,集団的な無意識を分解する試みへと転 用したものだと考えればよい。

さて,フアンタスマゴリーを読み解く上で, アーケードや百貨店などの商業空間は, 「流行 (Mode)」という現象が,典型的なかたちで現 れる場所であるため,パリを読み解いていく上 で決定的に重要になってくる。

19世紀末以降,アーケードや百貨店で並べら れた数々の商品の具体的形態ば実際のところ 消費者にとって重要でなくなっている。という のも交換価値は,マルクスの言うところの使用 価値ではなく「新しさ」にこそ積極的に悪依し ようとしているからである。

ベンヤミンによれば,モードの生命の核心 は, 「無機的なものにセックス・アピールを感 じるフェティシズム」 [Benjamin 1983:51】にあ る。その核心を如実に表しているのが,広告デ ザインの先駆者とも言える画家ダランヴイルの ファンタジーである。グランヴイルは.自然界 の無機物や宇宙空間に浮かぶ惑星でさえも幻惑 的なユートピア的要素で包みこみ,見る者達の フェティッシュを呼び覚まそうとする。モデル ネの暗い深淵の上に立ち現れた商品という物神 は,こうしたフェティッシュを巧みに利用する ことで.モードという崇拝儀礼を人や物に強要 するのだ。モードが支配的になったということ は,商品の使用価値が二次的なものとなり,管 後で交換価億(貨幣)が支配権を握っているこ

との証しなのである。

ボードレールは, 「事物が商品としてのその

価格によって奇妙に卑塵になること」に自覚的 であった[Benjamin 1983‥ 71]= というのも価格 で表示されたあらゆる商品は,貨幣で買えるも のだ。もはや商品という交換価値の浸透した事 物のなかに,貨幣の力に屈服しない特権的なも のは存在しない。消費と賓沢の首都パリに住ま うアレゴリカー・ボードレールの憂密は,実の ところ交換価値に囚われた灰色の商品世界に根 ざしている。それ故,ボードレールは,退屈な 日常を突き破る「新しさ」にこそ魅惑され,そ れにアクチュアリティを見出したのだ。

ベンヤミンは,その「新しさ」を「芸術の最 後の防御線」であると同時に「商品の攻撃の最 前線」だと言う[Benjamin 1983: 71‑72]。斥候と

して入り込んだ「遊歩者(知性)」は,自らそ の最前線の戦闘に加わることなく,距練を置い て,その闘いの様子をじっくり眺めていく。

群集というヴェールを通じて露になるのは, モードが送り出す商品の「新しさ」という仮像 の光が放つ幻惑的なフェティッシュと,それに 囚われる群集の集団的な身体・欲望であり,そ の根底から露になる集団的なユートピア回帰願 望である。ボードレールは,こちらの側面には 自覚的であったが,商品の攻撃に対しては,気 がついてはいなかったとベンヤミンは言う。

新しさをもう一方の「商品の攻撃の最前線」

としてみた場合,遊歩者は,群衆の集団的な ユートピア回帰願望が,それをたきつける魅惑 的な商品群によって映し出されるともに,その 商品を購入することによって資本の価値実現の 運動へと接続していく棟を見てとるだろう。

つまり「新しさ」とは,芸術の源泉でもある

「根源的自然との宥和」を志向するミメ‑シス 衝動を商品の幻惑的なフェティッシュの内に回

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収してしまう場なのである。

実際のところ遊歩者の眼前で露になっている のは, 「新しさ」のなかで経済が自らに美的な 表現を与えている姿なのである。それは交換価 値が自らを美化しているということだ。

こうした「新しさ」は,決して社会に質的な 差異を導入するものではない。時代の根源にあ る経済過程が自らに表現として与える美は,そ の背後に古びたものや,使えないものという膨 大な瓦磯の山を積み上げる価値実現の運動を継 続させる推進力となる。 「新しさ」という儀礼 は,ゼウスがシューシュボスに課した苦役のよ うに,商品という物神が事物や入間に課す終わ りのない苦役でしかないのである。

このとき19世紀における革命の敗残者オー ギュスト・プランキという形象が,商品世界 の核心を言い当てるアレゴリーを語りだす

[Benjamin 1983: 75‑77]c

ベンヤミンと同じように,進歩などはなから 信じてはいない革命家ブランキは,予め進歩を 人類に災いをなす破局として眺めていた。た だ,目前の不当な抑圧や進歩という名の破局か ら人々を救済しようとする決意において,ブラ ンキは抜きん出た革命家であった。

死刑を宣告されながらも,その死によって民 衆から英雄視されることを恐れた権力者の思惑 から刑の執行を免れたブランキは,パリ・コ

ミューンが粉砕された後,ト‑ロー要塞の監獄 の中で『天体による永遠』を執筆する。その書 は,ニーチェ顔負けの永劫回帰を語りだしてい る。ニーチェの永劫回帰は,超人という生への 移行を促すものであったが,プランキの永劫回 帰は,救いのない地獄の社会を告知する。その 永劫回帰は,現存の社会に対する「掛け値なし

の屈服」と「絶望」を表明するものでしかな かった。

ベンヤミンは,ブランキの壮絶な屈服と絶望 的な姿に,自らのフアンタスマゴリーに支配さ れる社会に対する弾劾を見た。ブランキの壮絶 な敗北は,同一物が永劫回帰する商品世界の神 話的暴力を告発するものなのだ。

ボードレールやプランキという形象を拾い上 げ,モデルネの根源を巡るアレゴリーを語らし めたベンヤミンにとって,瓦磯を積み上げる

「新しさ」や「進歩」は,永劫回帰する商品世 界が巻き起こす神話的暴力の強風なのである。

フアンタスマJ/ゴリーという幻像の中で人々が 眠りこむ限り,神話的暴力への不安は解消され ることはないとベンヤミンは見た。しかしなが ら,バロック時代のアレゴリーが「救済の日」

を待っていたように,うず高く積み上げられる 瓦裸の山のなかに,商品世界がもたらす神話的 暴力の拘束を突き破り「覚醒」 ‑と向かおうと した希望のシグナルが点滅しているはずであ る。なぜならモデルネの暗い探淵の上に立ち現 れた商品という偽神は,自らが駆動するための 不可欠のエネルギーとして, 「新しさ」の中へ と流れ込んでゆく「根源的自然との宥和」とい うユートピアを求めるミメ‑シス的衝動を必要 としているからだ(13)

モデルネの底に横たわる暗い探淵を埋めよう とする人々の願いは,暗い闇の上に浮かぶ偽神 のエネルギーへと変換され,無数の瓦磯の山を 積み上げてゆく。しかしながら,挫折を余儀な

くされているとはいえ,バロック時代のアレゴ リーと同様, 19世紀のフアンタスマゴリーに包 まれた商品アレゴリーもまた,モデルネに底に 横たわる暗い深淵を埋めることを願うミメ‑シ

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ジンメルとベンヤミン       153

ス的衝動に根ざしているのである。人々が商品 フアンタスマゴリーの中で夢の眠りにあろうと ち,あらゆる時代は「夢見ながら覚醒を目指し て進む」 [Benjamin1983‥59]cベンヤミンの学 問的営為は,その覚醒の時に賭けられていた。

結  び モデルネの奈落

結局,ベンヤミンは, 19世紀の首都パリにお ける商品世界を形成する無数の商品アレゴリー の中に潜む願望の砕片を救済する作業を全うす ることができなかった。ドイツ軍によるパリ侵 攻から逃げ遅れたベンヤミンは, 『パサージュ 論』の未完の草稿や大量の資料をジョルジュ・

バタイユに預け逃避行の族に出た。ベンヤミン は,その後スペイン警察に捕えられ,フランス とスペインの国境の港町ポルーボウで服毒自殺 を図り命を落す.その日は,奇しくも22年前に ジンメルが死去した9月29日であった。

ところでベンヤミンの「根源」概念がゲーテ の「原現象」を歴史の領域に転じたものである ことは先に述べたが,ベンヤミンがそのことに 気がついたのは,ジンメルの『ゲーテ』に書か れてあった原現象の叙述を読んだ折であった

[Benjamin 1983: 577〕。

ベンヤミンと同様ジンメルもまたゲーテの原 現象の概念を,自身の学問の基礎概念を導き出 すために用いた。ジンメルは,ゲーテの原現象 の発想を,個性化の内に潜む論理を表現するた めに,個人の人格形成の領域に転属し,諸個人 の無比な根源的形態を露にする「個性的法則」

の思想へと表現した。

同じゲーテの原現象に依拠しながらも,ジン メルは,その概念を個性化の潜在的な論理の叙

述に用い,もう一方のベンヤミンは,歴史過程 の根源の叙述に用いた。ゲーテの原現象という 概念を,二つの異なる領域へと転用した二人の 違いは,第一次世界大戦以前のベルリンを思想 表現の舞台としたジンメルと,同じベルリンの 住人でありながら第一次世界大戦におけるトラ ウマ的経験にこだわり続けたベンヤミンとの世 代的な違いを抜きにして語ることはできない。

ジンメルの学問的営為は,急速な産業発展と 貨幣経済の進展によって巨大化する大都市ベル

リンの経験に根ざし, 「最も内面的なものの門 衛」 [Simmel 1908: 653]である貨幣をメディア にして可能になる個性的な人格形成の過程にこ そ,モデルネの最良の可能性を見出したのであ る。

他方のベンヤミンの世代は,容易にモデルネ を肯定することはできなかった。というのもモ デルネは,第一次世界大戦という出来事の中で 一度自ら崩れ落ちてしまったのだ。ベンヤミン は,第一次世界大戦という経験に徹底的にこだ わり,自身の心的な傷口を癒すことを拒んだ。

その悲痛な痛みとメランコリーこそがベンヤミ ンの学問的営為のソナーとなったのである。ベ ンヤミンは,モデルネの自己崩壊の源泉を見出 すべく,原現象の概念を「歴史」の領域へと転 博し,崩壊へと至らしめた時代の「根源」を透 かし見ようとした。そこで露になったのは,モ デルネの奈落と言うべきものであった。

ベンヤミンがドイツ・バロックのアレゴリー 的形象を読み解き,その根源に「思惟と存在の 不一致」の間に開いた暗い闇と,その間を埋め

ようとする人々の止み難い願望を見出した。そ して, 19世紀の首都パリで露になったのは,そ の間に覆いかぶさるように立ち現れた商品とい

(15)

う物神と,その細胞であり,人々の願望の断片 でもある無数の商品アレゴリーであった。

商品とは,ジンメルが解放のメディアと見た 貨幣を紐帯にして駆動する奇怪な運動体にほか ならない。第一次世界大戦という破局は,その 偽神を中心にした立ち上がる機械仕掛けの「第 二の自然」が,民族という「虚偽の仮面」を被っ

て人々を死地へと誘い込んだ結果である(14) モデルネの根源にある闇の深さと悲痛な願い を表現する一つのエピソードは,周囲からコス モポリタンと見られていた社会の守護者ジン メルが戦争を賛美する姿としてあらわになる

[Simme1 1917b]。

ベンヤミンと同様ジンメルにとってもモデル ネの暗い問はすでに織り込み済みであった。と いうのもジンメルも思惟と存在が一致する「客 観的意味」は既に崩壊していると見ていたから

だ[廃1995: 87‑125]c

だが,ジンメルは,思惟と存在の裂け目に広 がる暗い闇と人々の願望から発する意味作用の 問題を低く見積もってしまった。その後の歴史 の推移を見るならば,モデルネの根源は巨大な 破局へと到るポテンシャルを秘めていたのであ り,ジンメルの「文化の悲劇」は,その間の深 さを見誤るものであったと言わねばなるまい。

第一次世界大戦を契機にジンメ)I,は,非本質 的で実体を欠いた社会構成体にすぎないもので あることを明確に自覚しながら,ユダヤ人との 融和に向かうであろう「ドイツ民族」の未来に 希望を託し,積極的に戦争協力に奔走すること

になった[井上1999]。

しかしながら,相互作用の中から生じた社会 構成体である「ドイツ民族」は,ジンメルの死 級,租雑な神話に絡めとられ,剥き出しの社会

統合を民族浄化によって果たすべく,同化ユダ ヤ人を強迫的に分離し,東方ユダヤ人達ととも に強制収容所‑と押し込んだ。名前を剥奪され

ることで質を欠いた量へと還元された多くのユ ダヤ人達は,租雑な民族神話への捧げ物として ホロコーストの灰に帰したのである。

ジンメルとベンヤミンの苦闘とその敗北は, モデルネの底に横たわる闇の深さと悲痛な願い

を告知するアレゴリー的形象として救済される 時を待っている。

〔投稿受理日2006. 9.26/掲載決定日2006.ll.30〕

(1)アドルノによれば,ヘーゲル弁証法は,民族精 神の発展の自己展開の論理であり,個体化の進展 に潜む論理と圧力をないがしろにしている。アド ルノは.ヘーゲルの弁証法に20世紀ドイツの最悪 の反動の前奏曲を見出している[Admo 1966: 342〕。

ベンヤミンの「静止の弁証法」は,ヘーゲルのよ うに勝利する体系の論理を記述するものではなく, 敗者の願望を寄せ集めることによって,暴力的支 配の根源と救済の契機を見出そうとするものであ る。またジンメルの「生の弁証法」は.本稿で述 べているように,アドルノの言うところの個体化 の進展に潜む論理と圧力に焦点を当てるものであ る。

(2)両者の時代経験の差異については,第一次世 界大戦を契機にした彼ら自身の世代論的な発言 が,それを傍証している。第一次世界大戦に直面 したジンメルは. 「1870年以来,今日までの時代 に自己の生活を形作ってきた我々年長者達にとっ て,過去と未来との間にほとんど計ることのでき ない広さをもつ深淵が存在しており,それを目前 に控えて我々は,新たな前提に基づきかつ新しい 雰囲気の中で生活を再建するか,さもなければカ 及ばず道を失い無用の長物として没落するか,い ずれかの決断を迫られている」 [1917b:13]と述 べ,さらに「我々がこの戦争に踏み込んだ当時の

ドイツとは別個のドイツが戦争から生まれるであ ろう。このような理念がいかに重大な意義を持っ ているかということについて,青年は十分深く感

(16)

ジンメルとベンヤミン       155

じることはできない。青年はそれによって自己を 決定する過去をあまりに僅かしかもたず.また生 活条件と結合するためにこれまで猿得した生活資 料をあまりに僅かにしかもっていない。そして青 年は,新しい基礎と一体的に適応して発展するで あろう」 [1917b:13]と述べている。他方の第一次 世界大戦を経験したベンヤミンは, 「世界大戦とと

もにひとつの現象が巨に見えて露になり,その後 も,その現象はつづいている。戦争が終わったと き,戦場から帰還した兵隊が一棟にむっつり押し 黙っていたのに,ばくちは気がつかなかっただろ うか。ひとに告げることのできるような,豊かな 経験などなかった。経験はすっかり貧弱なものと なってしまった。あれから十年後,戦記物の氾濫 のなかで堰を切ったように出てきたものも.ひと の口から口へと伝えられてゆく経験などでは,決 してなかった。それは奇妙なことでもなんでもな かった。経験はすべて虚偽と化していたのだ。戦 略上の経験は,陣地我によって,経済上の経験は インフレーションによって,身体的な経験は機械 戦によって,道徳上の経験は権力者の実態によっ

て.かつてないほど見事に否定された。まだ鉄道 馬車で学校へ通ったことのある一つの世代が,い ま,青空に浮かぶ雲のほかは何もかも変貌してし まった風景の中に立っていた。その事の下で,級 壊的なカと力がぶつかりあい,爆発をつづけるな かに,ちっぽけな弱々ししい人間の身体が立って いた」 [Benjamin 1936:439〕と述べている。これら の発言から分かるように両者は,第一世界大戦を 契機にして露になった「深淵」に対して,異なっ た評価をしていたことがわかる。年長者ジンメル は,第一次世界大戦に直面しても,自らが属する 世代が無用の長物として没落することを拒み,モ

デルネそのものに懐疑の眼差しを向ける契機とす るのではなく,戦争から生じるであろうドイツの 民族共同体の新生の契棟を見出そうとした。他方 の兵役を拒否した青年ベンヤミンは.ジンメルの 期待したように,新生ドイツに適応することなく.

旧世代を批判的に見,ドイツ民族の連続性と新生 を懐疑の眼差しで眺め,さまざまな経験の虚偽性 を露にした第一次世界大戦という破局の根源の探 求へと向かったのである。

(3)この点に関しては,ジェイ[Jay2003:ll‑24]に 詳しい。ジェイによれば,親友であった詩人のフ

リードリヒ・ハインレとその恋人であったプレデ リカ・ゼ‑リヒソンの戦争に対する抵抗としての 自殺にベンヤミンは大きな衝撃を受け,その心的 ショックに終生苛まれ続けた。またベンヤミンの 遺書に.ベンヤミンの仕事に対するハインレ兄弟 (フリードリヒ・ハインレとヴオルフ・ハインレ) の強い影響関係が言及されている。

(4)もちろん「民族(Vok)」の形而上学的実体化の 典型は,ヘーゲルであり,ジンメルの形式社会学 は,ヘーゲル・デイルタイ的な民族精神や民族の 生の内に個体を融解し埋没させるような社会観に 対する,社会唯名論的な反駁ではない第三の立場 からの新たな社会概念の提示である。この点に関

しては, 【療1995:4ト85]を参照のこと。

(5)例えば,デイルタイは,自身の社会に対する把 握の仕方を,ジンメルの社会学と対比して「わた しの把握がジンメルのそれと区別されるのは,さ しあたりつぎの点にもとづく。すなわち.わたし はこれらの結合力を上述の心理的契機に還元する のではなく,血縁共同体.生殖,家族や種族の発 生的同質性,ならびに他方では地域的居住を重要 とみなす」と述べている[Dilthey 1922:421]。この 発想は,ジンメルの構想とは全く異なるものであ ると言わねばならない。なおデイルタイとジンメ ルとの学問的葛藤については.向井[1997:21‑75]

に詳しい。

(6)この「社会学的眼差し」に関しては,北川[1997:

158‑159】を参照のこと。

(7) 「個人と社会」という問題に焦点をあてた論者と して屠安[2000〕や大鐘〔2001】を参照されたい。な お「人格形成と自由」の問題に関しては,拙稿[酒 家2003】で詳解した。

(8)それは認識論レベルでも行われた. 『歴史哲学の 諸問題』は,その冒頭で述べられているようにデイ ルタイ流の実体論的な歴史主義からの解放が目指 されており,デイルタイが称揚したランケ流の芸 術的体験を重視する直観理論の批判などがなされ ている【Simme1 1905】。

(9)ジンメルの「生の弁証法」に関しては,阿閉[1 979: 25‑33〕を参照のことO

(10)大戦期にジンメルは, 『学校教育論』 [Simmel を残したが,その内容は,複雑化した客観 的精神に対応するための「主体の強化」を狙った ものであり,旧来の「文化の悲劇」の枠組みにと

(17)

どまったままである。なおこの点に関しては,磨 [1995: 429‑458]の論考を参照されたい。

(ll)バック=モースは,ベンヤミンが,第一次大戦 後のアレゴリーの復活をドイツ・バロックのアレ ゴリーの回帰と見なしていたことを指摘している [Buck‑Morss 1989: 178]o

(12)この点に関しては,道鏡[2000】を参照されたい。

(13)ベンヤミンのミメ‑シス概念については,小林 [2002]を参照のこと。

(14)アドルノによれば,ヘーゲルが民族精神の実質 とし賛美した習俗は,当時すでに退廃しきってい た。ヘーゲルは,ドイツの行政的統一に促され, その統一に「民族」というイデオロギー的な仮面 をかぶせたのである[Adrno 1966: 331〕。

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‑[1908 (1992)] Soziologie: Unter∫uchungen iiber die Formen der Verge.∫ellschaftung, Simmel Gesamtausgabe, Bd. ll・ Suhrkamp.

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‑ [1921 (2004) ]Schulfiadagogik.Simmel Gesamtausgabe, Bd. 20. Suhrkamp.

‑ [1957] Briicke und Tilr. K. F. Koehler Verlag.

参照

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