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掛 下   栄 一 郎

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(1)

神の狂気を求めて︵八︶

ーヒエロニムス・ボッスの旅1

掛下 栄一郎

 この数年間︑折にふれ私のイメージの中を去来していた︑ウィーンのボッスの大作﹃最後の審判﹄を中心とする

北方ルネッサンスの名画の数々と︑久しぶりにゆっくりと再会出来たことで︑はるぼるヨーロッパの東の果てのこ

の古都を訪れた労苦は充分に報いられた︒十日間にわたるイタリア︑ギリシアの旅では︑圧倒的な古代美術の洪水

の中にどっぶりと身をひたし︑古代人の美の世界にここちよく陶酔していた私の感性も︑ようやく肌寒さを覚える

初秋のウィーンでのボッスとの再会によって︑再び本来の立つめた緊張の世界に立戻ったのである︒

 ところでウィーンといえぽ︑時代的には大きくへだたっているものの︑その歴史的背景と社会的諸条件︑なら

びに︑その芸術的資質においてボッス芸術と相通じるものを多分に持つ︑十九世紀末の鬼才グスタフ・クリムト

︵O=ω蝕99く  国一一ヨけ 一Qo⇔吋1一り一Q◎︶︑ エゴン・シーレ︵閏OQO旨ωo眠免Φ這︒︒O山2Q︒︶︑あるいは︐万スカー︒ココシュカ

︵Oω冨﹁閑︒犀︒ωoげ閃9お︒︒中一りq︒O︶を生み出し︑育てあげた都でもある︒その意味で︑今世紀初頭における﹁神の狂

気の芸術﹂の多くの名作を所蔵する︑ペルヴニデーレ宮の﹁十九世紀︑二十世紀絵画館︵Oω8叢︒一〇三ωoプ①O巴①吋凶①

自①ω祠り発走8冒寓言巳︒﹃房︶もまた︑いましがた訪れた二つの美術館と並ぶすばらしい美の宝庫である︒

早稲田人文自然科学研究 第36号(Hl.10)

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 しかし悲しいかな今回もまた︑あわただしい日程の制約から︑大急ぎで通覧するのがせいいっぱいであった︒ウ

ィーンの誇るいま一つのユニークな美術館である﹁アルベルティーナ︵版画美術館︶︵≧げ曾二口㊤︶﹂とともに︑落

着いた鑑賞は次の機会に譲らざるを得なかった︒かくして︑今回もまた後髪引かれる思いで︑次の訪問地ミュンヘ

ンに向けて︑﹁西駅﹂からウィーンを後にしたのである︒

 美しいオーストリアの平原をここちよく走る︑約五時間のミュンヘンまでの列車の旅は︑ウィーンでのボッスと

の邊遁による大きな感動の回想に費された︒というのも︑これから訪れるミュンヘンにあるただ一点のボッスも︑

ウィーンの美術学校ギャラリーの大作と︑密接なかかわりを持っているからである︒

 一五〇四年︑ボッスがフィリップニ世︵フィリヅプ美侯︶から︑審判の祭壇画制作の依頼を受けたことはすでに

述べたが︑ウィーンの作品がそれに当るのか︑あるいはまた︑これから再会しようとしている︑ミュンヘンの作品

をその一部とする別の作品がそれに当るのか︑美術史家たちの見解は︑今日なお合致には至っていない︒

 ︑︑︑ユンヘソの誇る古典美術館﹁アルテ・ピナコテーク︵≧8勺尊爵︒島Φ犀︶﹂は︑ ハプスブルグ家繁栄の象徴と

しての︑ウィーンの﹁美術史美術館﹂と並んで︑十二世紀以来長く南ドイツ︑バイエルンの地に君臨していたヴィ

ッテルスパッ大家の諸王︑特にヴィルヘルム四七︵芝一ぎ①一ヨ毫.在位HαOo︒山武O︶やマキシミリアン一世︵寓①×学

ヨ葺§一・在位H零︒︒山①αH︶などのコレクションを核として設立されたもので︑現在では︑西ドイツ屈指の大美術

館であるとともに︑ウィーンの﹁美術史美術館﹂︑ マドリッドの﹁プラド美術館﹂と並んで︑いわば北方ルネヅサ

ソス系美術館の﹁御三家﹂の一つとなっている︒しかし︑デューラー︑アルトドルファー︑グリューネヴァルト︑

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神の狂気を求めて(八)

ボッスr最後の審判』(ミュンヘン アルテ・ピナコテーク)

クラナッハなどの多くの名作のほかにも︑フラ・アンジェリコ

からボッティチェルリ︑レオナルド︑ラファエロなどの︑世界

でも有数の︑イタリア・ルネッサンス絵画の彪大なコレクショ

ンを誇るこの大美術館にも︑ボッスの作品はわずか一点を数︑兄

るのみである︒

 既述のように︑この作品は80.日●×置舎・目.のかなり大きな

ものではあるが︑これだけで完成されたものではなく︑より大

きな祭壇画の一部︑多分﹃最後の審判﹄の中央パネルの一部で

あろうと考えられている︒例のフィリヅプ美麗からの依頼によ

るものが︑これであるかどうかは明らかではないが︑作品はま

がいもなく︑ボッス晩年の傑作の一つとして︑すべての美術史

家が一致して認めているものである︒

 この作品は︑約百五十年前ミュンヘンの美術館に入る以前に

は︑作者不明の絵として︑ニュールンベルクの美術館に掛けら

れていたということであるが︑その後入念な修復を経て︑今日

ではマドリッドの﹃逸楽の園﹄︑ リスボンの﹃聖アントニウス

の誘惑﹄︑あるいはウィーンの﹃最.後の審判﹄などと並んで︑

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いわゆる﹁神の狂気﹂が作品の表面に顕在する︑最もボッスらしい︑奔放なイマジネイションの産物とされてい

る︒もしこれが︑ ﹃最後の審判﹄の祭壇画中央パネルの一部であるとすれぽ︑原作はかなり大きな作品のはずで︑

おそらく︑ボヅスの全作品中︑最大なるものということになろう︒

 ウィーンの﹃最後の審判﹄の中央パネルと同様︑ここでも︑ボッス独自の厳しい決定的審判の世界が描かれてい

る︒ボヅスの﹁審判図﹂の持つ激しい緊迫感の秘密は︑彼の絵が︑伝統的な審判の意義を消滅させ︑救済への甘え

を厳しく拒絶した︑人間の側からの透徹した絶望の表現である点にある︒

 ウィーンの中央パネルの上方の︑不毛な茶褐色の粘土質の台地には︑一切の希望を絶たれた人間どもの︑絶望の

世界が展開されていたが︑この絵もまた︑同じ茶褐色の不毛の世界である︒拷問の苛酷さ︑絶望の厳しさ︑あるい

はその決定的な恐怖の表現については︑ウィーンの作品は︑リスボンの﹃聖アソトニウス﹄に連なっており︑いず

れもほの暗い画面に強烈な赤が印象的で︑登場する悪魔や妖怪たちも︑画家の天才的イマジネイションと︑幻想の

限りを尽して描かれており︑前人未踏の﹁神の狂気﹂の世界を創造しているのである︒

 ミュンヘンのこの作品も︑リスボンやウィーンのボッスの世界の延長線上にあることは確かであるが︑仔細に眺め

てみると︑そこに微妙な違いのあることに気がつく︒まず色彩で気づくのは︑前二者を特徴づけていた鮮烈な赤が︑

ここでは︑もっと絶妙で多彩な色調に置きかえられていることである︒色彩を通しての強烈な印象は︑多少弱めら

れてはいるが︑より繊細微妙な配色の妙は︑逆に妖怪たちに︑生々とした活力と生命感を付与しているようである︒

 ほの暗い世界を︑どちらかというと︑無気味にはいずり廻っていた妖怪たちは︑ここでは︑限りない活力を秘め

て敏捷に人間どもを襲う︒ ﹁勢よく発出する︑突き刺すような形態と︑迅速で炸裂する動勢とが荒れ狂う﹂とリン

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神の狂気を求めて(八)

フェルトも語るように︑生気に濫れた彼ら妖怪たちの活動性は︑絶妙な色彩と相まって︑この種のボッスの作品の

中でも︑独自の不思議な美しさを生み出している︒

 ﹁地獄はこの一瞬︑美的な喜びに充たされた﹂とギブソンも述懐しているが︑茶褐色の不毛性と︑人間どもの決

定的絶望感に︑この超自然的な美しさがみごとに均衡して︑どちらかというと︑正面きった深刻さの中に︑いささ

か教訓的要素を残している前二作に比べて︑ここでのボッスの天才は︑奔放自在の創造の翼をひろげ︑いっそう深

く﹁神の狂気﹂にかかわり得ているように思われるのである︒

 この絵の左端下方に︑衣服の裾らしいものが描かれていることから︑原画ではここに︑かなり背の高い人物が存

在していたとすれぽ︑それはおそらく︑死者の魂を秤で量る大天使ミカエルであったにちがいない︒そうだとすれ

ぽこの﹁審判図﹂は︑リスボンやウィーンのそれとは全く違った構図︑おそらく一四五〇年頃に献堂された︑ブル

ゴ:ニュのボーヌ施療院︵出08〒∪一2︶に︑ ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン︵男︒σq亜目く碧畠︒円ミ︒且︒口

置OO山劇象︶が描いた九連の荘大な祭壇画と似通ったものであり︑そういえばこの作品は︑前述のような美しい色

調といい︑また晩年のボッスが幾度か想い起すことになる︑あのヴァン・デル・ウェイデン特有の﹁柔かく美しい

様式﹂に最も接近しているものであると︑カール・リンフェルトは語っている︒

 さらに︑リンフェルトの指摘するいま一つの興味深い点は︑ ︵この絵の中には王と聖職者が含まれている︶救い

を絶たれた死者たちの絶望の表情もさることながら︑あたかも地中を泳いでいるかのように︑あらわな地面から突

如として起き上ってくる情景である︒これは︑ウィーンの作品にも見られず︑ただ初期の作品﹃七つの大罪﹄の右

上方の﹃審判図﹄に似た発想が見受けられるが︑この二作はやはり次元を違えて語られるべきであろう︒たしか

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に︑ボッスにこのイマジネイションを暗示したのは︑ボーヌのヴァン・デル・ウェイデンであることは充分に考え

られる︒しかし︑ウェイデソの場合のそれは︑ボッスのような暗い夜の情景ではなく︑そこには悪魔も妖怪も全く

描かれてはいないのである︒

 この作品は︑一見したところ︑リスボンやウィ1ンの祭壇画との題材上の類似から︑それらと同じ頃︵旨OO山朝Oq︶

の制作との解釈もあるが︑以上の検討からも明らかなように︑それらよりはやや遅い︑画家の最晩年︑ガン美術館

      の﹃十字架を負うキリスト﹄とほぼ同じ頃︵嶺HO︶と考え

      るべきであろう︒

 熱心な芸術愛好家でもあったルードヴィッヒ一世が︑建

築家レォ・フォン・クレンツェに依嘱し︑一八三六年に完

成させた︑新古典様式の︑どこかヴェネツィアかフィレン

ツェのルネッサンス建築を思わせる︑この横長の荘麗な

﹁アルテ・ピナコテーク﹂には︑第一級の古典美術の傑作

が︑大小二十五室にわたって展示されているが︑私たちの

心に強く訴えかける︑ ﹁神の狂気﹂の霊感に触発された名

品もまた数多く存在する︒

 ミュンヘンのアルテ・ピナコテークといえぽ︑まずデュ

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神の狂気を求めて(八)

  ーラー︵㌧r一げ同①Oげ齢 一︶口﹃O﹁  H劇刈Hl同㎝boQ◎︶の宝庫としてのイ

  メージが先行する︒画家自身﹁自分の特徴ある色彩をもつ

  て自分自身を描く﹂と自筆している︑二十八才の﹃自画

隙像﹄では︑この若い天才はすでに︑自己自身を厳しく見つ施 めることによって︑普遍的人間性を表現することに成功し

一 ており︑また晩年の大作﹃四人の使徒﹄では︑この北方ル

  ネッサンスの巨匠は︑ヨハネ︑ペテロ︑パウロ︑マルコのび 曙 四使徒の厳しい表情を介して︑マルチィン・ルターの宗教 糊

生 改革の精神にも深い共感を示しているのである︒

弛  ﹃四人の使徒﹄と並んで︑この美術館の至宝の一つと

♂されているアルブレヒト.アルトドルフ・−︵≧げ﹃︒受

も寒・イッ・ルネ・サソスの生んだ感動的名作といえ ル ≧鼠︒はΦ﹃置◎︒O山q器︶ の﹃アレキサンダー大王の遠征﹄

幹.よう︒ここでは︑その宇宙的雄大な構想と︑フランドル派

  のファン・アイクを思わせる透徹した細密描写とが︑ ﹁神

  の狂気﹂の媒介によって︑神秘的︑内面的なドイツのロマ

  ン主義の精神から生み出された絶妙な色調と光彩に︑みご

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   デューラー r自画像』

(ミュンヘン アルテ・ピナコテーク)

  デューラーr四人の使徒』

(ミュンヘン アルテ・ビナコテーク)

とに融合しており︑ 三百年後のカスパー・フリードリッヒ︵国㊤ωb鍵U簿く置司ユ①酔8鳥嵩謹山◎︒膳O︶の世界をはる

かに予示しているのである︒

 デューラー︑アルトドルファーと並んで︑この時期のドイツ画壇の巨匠の一人︑マチァス・グリューネヴァルト

︵冨9けけげ一薗ω ∩甲短日昌Φ≦⇔一二 H劇職O−HqboQo︶のきわめて重要な二つの作品もまた︑この美術館の重要なコレクションであ

る︒すなわち︑晩年の名作﹃聖エラスムスと聖マウリティウス﹄と︑初期の力作﹃はずかしめられるキリスト﹄と

がそれである︒

 グリューネヴァルトといえば︑私たちはすぐさま︑ ﹃イーゼソハイムの祭壇画﹄のあの凄絶きわまりないイエス

の品玉を想いおこすが︑ ﹃はずかしめられるキリスト﹄の中に描かれた人物の激しい表情に︑すでにその予兆を見

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神の狂気を求めて(八)

アルトドルファー『アレキサンダー大王の遠征』

   (ミュンヘン アルテ・ピナコテーク)

グの不思議な美しさについては︑すでにプラド美術館の﹃世代と死﹄や︑

族﹄などの作品を指摘しておいたが︑アルテ・ピナコテークには︑

イリヅプ﹄︑﹃下着﹄︑﹃キリスト降誕﹄などが︑それぞれ独自の妖しい美しさをたたえて展示されている︒

バルドゥソグの一種微妙な屈折をはらんだ美しさは︑クラナッハやブリューゲルのいくつかの名作と並んで︑

マニエリズム芸術の生み出した成果を代表するもので︑ボヅス芸術とも深い類縁関係にあり︑

れも﹁神の狂気﹂の触発を契機とする豊かな幻想とイマジネイショソの産物といえよう︒

 中でも﹃思慮﹄と呼ばれている﹃寓喩﹄の一枚は︑典型的なバルドゥγグの女性急で︑その表情には︑内心の不 ることができるのである︒グリューネヴァルトの作品に共通して感じられる︑見る者の魂をかきむしるあの悲痛な働契の感情の表出は︑ ﹁神の狂気﹂の霊感の触発なしには︑とうてい考えられないものである︒ アルテ・ピナコテーク所蔵の感動的な﹁神の狂気﹂の名作たちを生み出した︑いま一人の重要な巨匠として︑ハンス・パルドゥング・グリーン︵国9づωゆ巴q二目αqOユΦ⇒H心Q◎㎝一日αホ︶の名を逸することはできない︒ハンス・バルドゥソ   ウィーンの美術学校ギャラリーの﹃聖家彼の代表作ともいえる数点︑ ﹃ノイブルク伯フ       ハンス・      北方      その意味では︑いず

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グリ昌ニネヴァルト『イ一難ンハイム祭壇画 イエスの礫刑』

   (コルマール ウンター・デン・リンデン美術館)

グリューネヴァル1・rはずかしめられるキリスト』

  (ミュンヘン アルテ・ピナコテーク)

安と意欲と思慮とが︑不思議な緊迫.感を伴って交錯している姿がみ

ごとに表出されており︑S字形に曲げられた肢体は︑まがいもなく

マ.出御リズム絵画の世界を示すものである︒いまこころみに︑デュ

ーラーとバルドゥソグの﹃アダムとイヴ﹄を比較してみると︑思い

半ばに過ぎるものがあろう︒

 きわめて安定した姿勢と表情の︑まさしく健康優良児のようなデ

ューラーの﹃アダムとイヴ﹄︵顧O↓プラド美術館︶に対して︑バ

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ルドゥングのそれ︵強国︒㎝ ブダペスト美術館︶の持つ不自然で異様な姿勢︑複雑な内面の屈折を暗示する不可解な

表情︑しかし何か激しい訴求力をもって迫ってくるその絵の魅力は︑まさしくマニエリズム芸術の絶頂を示すもの

である︒ パリを出てからヴェネチア︑ フィレンツェ︑ ローマを経て︑ エーゲ海五日の旅ののちウィーン︑ ミュンヘンま

で︑酷暑の中のあわただしい移動ではあったものの︑その内容は︑留れんぽかり充実したもので︑長い間の念願が

かなった満ち足りた充足感が︑蓄積した疲労をここちよくときほぐしてくれるのである︒しかし日程は︑いつしか

十四日間を経過し︑いったんパリに帰り︑一両日の休息ののち︑当初の計画のベルギー︑オランダのボッスの旅を

考えると︑許された日数は予定ぎりぎりということで︑ウィーンと並んで︑十九世紀末から二十世紀初頭にかけて

燃え上った︑ここミュンヘンでの激しい前衛的芸術運動の軌跡を︑﹁ノイエ・ピナコテーク︵冥︒賃Φ℃冒①冒︒爵①吋︶

︵近代絵画館︶﹂や﹁レンバッハ美術館︵ωけ9︑臼冨︒げ︒σq巴①ユΦ冨い︒昌げ90ゲゲ鍵ω︶︵世紀末・現代絵画館︶﹂で︑もう少

神の狂気を求めて(八)

 ン ヘ ソ︶ ユ ク ミ 一 ︵テ ﹄コト慮ナ 思ピ 一・ 喩テス寓ル ﹃ア しゅつくりと確かめ︑さらに︑古代美術のコレクションでは屈指の﹁国立古代美術館︵ω富9葺︒ゲΦ︾算時Φづωpヨヨ・

一調αq①旨︶﹂で︑印象のまだ生々しいギ

リシア美術への感動を改めて反鋼して

みたいと思ってはいたものの︑ここで

もまた多くの後悔を残したままで︑次

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デューラー『アダムとイヴ』

(マドリッド プラド美術館)

ハンス・パルドゥング・グリーン『アダムとイヴ』

     (ブタペスト 国立美術館)

の訪問地フランクフルトへの列車に乗らざるをえなかったのである︒

 ミュンヘンと同じようにフランクフルトも︑中央駅周辺は見違えるように近代化された︒カール大帝の時代から

のゲルマンの地における政治︑経済の中心都市として栄えてきた古都であり︑今日でも︑フランクフルト空港は西

ドイツの表玄関で︑ヨーロッパのほぼ中央にあって︑交通の要衝に位置する重要な経済の中心地の一つであるが︑

この地の出身であるゲーテの記念館のようなものを除いては︑これといったモニュメントにも乏しく︑観光客はあ

まりこの町を訪れることはない︒

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神の狂気を求めて(八)

 ただ﹁フランクフルト市立美術館︵ωけ餌α①一ωOゴ①ω 国⊆昌ω一一︼日ω一一酔⊆け︶﹂は︑建物の大きさからいっても︑また古典作

品の収蔵数においても︑ベルリンやミュンヘンに比べてはるかに小規模のものではあるが︑珠玉のような粒選りの

逸品を数多く蔵していることから︑古典美術の愛好家としては︑立寄らないではいられない魅力ある美術館となっ

ている︒ この美術館は︑十八世紀のこの地出身の銀行家のコレクションと︑その巨額の遺産をもとに︑市当局によって一

八一六年に設立されたもので︑ヨーロッパの大美術館のほとんどが︑王侯貴族の彪大なコレクションを受継いだも

のであるのと︑いささかおもむきを異にしている︒

 今度もこの美術館を訪れた最大の理由は︑もちろんボッス初期の名作﹃この人を見よ﹄との再会にあったが︑こ

のほかにも︑ファン・アイクの厳しい細密の﹃聖母子﹄︑クラナッハの妖艶な﹃ヴィーナス﹄︑ハンス.バルドゥン

グの激情と幻想的緊張をはらんだ不思議な作品﹃不良少女﹄など︑ ﹁神の狂気﹂の霊感に触発されたいくつかの名

品をはじめ︑デューラー︑グリューネヴァルト︑ボッティチェルリ︑ポントルモ︑パルミジアニーノなど︑数々の

古典の傑作にもお目にかかれるからであるが︑さらに私のひそかな楽しみは︑ヴェルメールの﹃地理学者﹄との再

会にもあった︒中央駅を出て徒歩約十五分︑マイン川を渡った向う岸に︑市立美術館は︑そのどっしりとした旧め

かしいたたずまいを見せている︒

 古典の名画のコレクションは︑すべて三階に展示されている︒二階は︑もっぱら十九世紀以降現代に至る作品の

展示に供されている︒建物を入って正面の階段を上ってゆくと︑まず︑フランクフルトのシンボルともいうべきゲ

ーテが︑私たちを迎えてくれる︒ ハインリッヒ・ティッシュパイン︵︸肖O一昌﹃一〇げ 日り一ωOげげO一昌   刈bδN一目﹃Qo㊤︶の描いた

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﹃イタリア・カンパーニャにおける若きゲーテ像﹄︵旨◎︒①︶がそれである︒もちろんそれは︑美しい堂々たる写実

の傑作ではあるが︑ ﹁神の狂気﹂の緊迫の世界を追いかけている目下の私たちには︑さし当って問題にしなければ

ならないような作品ではない︒

 何はともあれまず︑この美術館を訪れた最大の目標であるボッスにお目にかからねばなるまい︒辱かしめられる

キリストを描いたもののうち︑ボッスの真筆とされているものとしては︑このフランクフルトの作品のほかに︑晩

      ︑ 三

軸避寒

躍 

 ボッスrこの人を見よ』

(フランクフルト 市立美術館)

年の名作に数えられているエスコリアル宮と

ンドン・ナショナル・ギャラリー蔵の二点の﹃荊

冠のキリスト﹄と︑プリンストン大学蔵の﹃ピラ

トの前のキリスト﹄が存在する︒それ以外にも︑

現在フィラデルフィア美術館蔵の﹃この人を見よ﹄

が存在するが︑そちらの方は︑真筆であることを

疑問視する美術史家もあり︑何よりも︑両者を比

べてみると︑絵としての緊張感や迫力において︑

そして群衆の憎悪と侮蔑の表情の︑いっそう透徹

した象徴性において︑また︑さきにあげた晩年の

名作たちとの類縁性において︑やはりこの︑フラ

ンクフルトの作品に軍配をあげないわけにはいか

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神の狂気を求めて(八)

ないのである︒

 これと系譜を同じくする題材として︑﹃十字架を負うキリスト﹄︵ガン美術館︑ウィーン美術史美術館ほか︶︑あ

るいはヴェネツィア・デュカーレ宮の﹃聖女リベラタの殉教﹄なども存在するが︑それらのいずれにも共通して︑

キリスト︵あるいは聖女︶をあざ笑う︑周囲の群衆の憎悪と軽蔑の表情の︑ボッス独自の大胆で鋭い表現が印象的

である︒こうした系列の一連の作品の中では︑この絵は比較的若い頃の作︵一四八○年頃︶と見られているが︑す

でにこの時期の表現の中に︑最晩年の名作︑たとえばガンの﹃十字架を負うキリスト﹄における︑極度に象徴化さ

れたすばらしい表現の予兆を︑充分に見てとることができるのである︒

 この絵をとおしてもわれわれは︑画家が生涯を通じて︑みずからの作品を支える最高のコンセプトとしていたも

のが︑不信への怒りでも︑邪悪への憤りでもなく︑人間の無知と愚かさに対する︑絶望的ですらある激しい焦躁感

であったこ﹁とを痛感する︒しかし︑ここでの群衆の無知蒙昧さは︑さきにあげた︑晩年の名作におけるほど純粋に

象徴化されてはいず︑それだけにいっそうリアルで生々しい︒

 イエスの後ろに立つピラトの表情には︑処刑を要求する衆愚化した群衆の絶叫を前にしての︑思慮と衝動との間

を揺れ動く凡人の不安感がみごとに表出されており︑石積みの土台︑石造の役所の堅固な表現にも︑柔軟で思慮深

い人間の︑︑良識の無力感といったものがただよっている︒この絵は﹁単なる同情を誘う敬虞な礼拝画ではなく︑迷

妄とその伝播の表現であり︑云云の非難と怒りを喚起する﹂ものであると︑リンフェルトも指摘している︒

 したがってこ﹁の絵は︑はずかしめられるイエスという︑キリスト教的宗教画の域にとどまるものではなく︑いつ

の世にも見られる︑分別を失って衝動的に限りなくひろがる︑衆愚の臆見と︑賢者の思慮深い叡智との絶望的対決

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少︶良館不術

(フランクフルト 市立美

という︑人間社会永遠のテーマにかかわってい

るのである︒

 ﹃不良少女たち﹄ ︵ぐ弔Oけけ⑦﹁一PO×O︼P︶と呼ばれている作品がそれである︒私たちはこの作品を一見したとき︑

大胆な構図といい︑意表をついた斬新な色彩感覚といい︑また不思議な実在感を伴ったその頽廃美といい︑

一五二二年に描かれたものであるとは︑とうてい信じられないであろう︒

にも通じる︑複雑に屈折した深層心理の表出が見られるのである︒

ウソグの﹃アダムとイヴ﹄にも見られたような︑私たちの心奥の琴線に︑

この絵にもみなぎっている︒これもまたボッスの作品と並んで︑

芸術を代表する傑作の一つといえるであろう︒  フランクフルト市立美術館には︑ボッスの作品以外にも︑前述のようないくつかの珠玉の名品が収蔵されているが︑とりわけ︑ボッスを中心に︑ ﹁神の狂気﹂の芸術を歴訪している今回の旅で︑どうしても逸しえないのは︑︑ミュンヘンと同じく︑ハンス・バルドゥングの問題作である︒       その      これが   それほどこの絵には︑前衛的な現代絵画

さきほど︑デューラーのそれと比較したパルド

   直接に訴えかけてくる不思議な魅力が︑

﹁神の狂気﹂の霊感に触発された︑マ戸隠リズム

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神の狂気を求めて(八)

 この美術館には︑ヴェルメール︵匂︒げ騨旨昌①ω<Φ吋包①Φ鴇μ$卜︒一H①斜︶が一点所蔵されている︒ヴェルメールといえ

ば︑十七世紀中葉︑画家としてはほとんど無名のままに︑デルフトでその地味な生涯を終えた人物であるが︑死後

二百年を経た十九世紀半ばになって︑世間はその絵のすぼらしさに気がついて︑調べてみたところ︑現在までに︑

わずか三十五点の作品しか発見されていないという幻の画家である︒

 彼の選んだ画題は︑まったく日常的な情景の一瞬がとらえられており︑そこには︑いささかの物語り的意図も︑

気負い込んだ劇的な構想も存在することなく︑静置自然の日常世界が︑美しくくりひろげられているだけである︒

しかし︑ファン・アイク以来のナランダ派特有の︑鋭く本質を見透すような厳しい細密画の技法は︑いっそう豊か

な色彩的洗練を加え︑精緻な彫琢を経て︑前人未踏の︑この世ならぬ美の世界を完成させているのである︒

 ﹁光の画家﹂とか﹁色彩の魔術師﹂などとの呼び名も聞かれるが︑炎というにはあまりにも静謹であり︑光とい

うにはあまりにも自然なその美しさの本質︑あたかも︑絵の内面からおのずと発する﹁慈光﹂ともいうべきもの

は︑いったいどこから生まれてくるのか︒

 この旅をはじめるに当って考えたこととして︑真に偉大な芸術作品は︑人間精神に必然的な対極として存在す

る︑正気と狂気との絶妙なパラソス︑あるいは︑その両者の張りつめた緊張の上に形成されるもので︑たとえ︑表

面静誰な世界の描写の形をとっていても︑それが偉大な作品であるならぽ︑その奥では︑必ず欝勃たる神の狂気の

炎が燃えているし︑反対に︑猛り狂う狂気の世界が描かれていても︑﹇その背後からは︑透徹した正気のまなざし

示︑われわれを鋭く見つめている筈であると書いたが︑ヴェルメールの絵の持つ︑内部からにじみ出る﹁慈光﹂

は︑まさしく︑静誰な絵の内部で燃えたぎっている﹁神の狂気﹂のなせるわざ︑と考えないではいられないので

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 ヴェルメール『地理学者』

(フランクフルト 市立美術館)

れる︒部屋︑窓︑その他の小道具の︑さり気なく描かれたたたずまい︑

写︑こうしたものがかもし出す︑静かで平凡な日常の安定性にもかかわらず︑

かける︒しかしそれは︑いささかも劇的な訴えではなく︑内面から滲出する光と色の訴えである︒

﹁神の狂気﹂の生み出した偉大な証しというべきであろう︒

 小じんまりとした美術館での︑束の間のひとときではあったが︑私の感性の受けた感銘は︑まことに強く深いも ある︒同じ頃︑フランドルで活躍した画家テ!ルボルビ︵○⑦N鋤N侮 一門①NげO﹁O︼P 一①一刈一μ①◎◎一︶やピーター・ホーホ︵﹈℃一ΦけΦ肘 仙Φ ︸HOOOげ  日①悼ゆIH①ooQo︶の絵にも︑ヴェルメールに劣らず︑美しいものが数多く見られるが︑私には︑どうしても彼らの作品に︑内部から立ちのぼる光が見られないのである︒ このように︑数少い貴重なヴェルメールの一点

﹃地理学者﹄が︑このフランクフルト市立美術館に

収蔵されている︒左手を机上の本の上に置き︑コン

パスを右手にして何かを思う地理学者の︑さり気な

い一情景であるが︑見た瞬間私たちは︑青を主にし

たこの絵全体の深い色彩美と︑静かな落着きに打た

     衣服や織物の表面の微妙なごば立ちの描

       この絵は︑私たちに強く何かを訴え

       まがいもなく︑

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のであった︒約五時間後︑パリ行の列車の人となった私は︑きわめて密度の高かったフランクブルトでの感銘を︑

ゆっくりと反難しながら︑残りの限られた日程の中での︑最後の訪問地ベルギー︑ナランダの美術館の︑コレクシ

ョンのあれこれに思いをはせていた︒もちろん︑ブリュッセル︑ガン︑ブルージュ︑ロッテルダムでのボヅスとの

再会が︑最大の目的ではあるが︑ウィーン︑フランクフルトでの︑ヴェルメールとの久しぶりのうンデ・ヴーによ

って︑あたかも︑寝ていた子が起されたように︑私の感性の中によみがえった︑ ﹁神の狂気﹂の内的燃焼のこの証

しへの関心が一気に高まり︑ パリでの二点に加えて︑ アムステルダムとハーグでの七点のヴェルメールとの再会

も︑これからの大きな楽しみとなったのである︒

参考文献O麟二いぎ︷段鷺鶉ミ︒蓬§裳い切︒鷲勘HO呂.カール・リソフェルト﹃ヒエロニムス・ボヅス﹄西村規矩夫訳

零巴8畦O凶σ8昌ミミ︒塁§霧口む8鼻二實︒︒. 美術出版社 神の狂気を求めて(入)

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参照

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