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を長沙に訪れ た後、 朱子・張

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全文

(1)

三年 (一一六七) 、朱子はその畏友 張

ちよう

しよく

を長沙に訪れ た後、 朱子・張

び朱子の門人林 用 中 との三人で、

りんようちゆう

一 十

六日から十六日にかけて南嶽衡山の

の に赴き、その三人 で から へと

興 と題してその一 に詩の酬答を行い、 『南嶽倡酬集』

の のために張 で作られた作品群を纏めた。この集 は「南嶽唱酬の序」を書いて一

の の

を詳

し、朱子は「南嶽

當時の唱酬の意義を總 山後記」を書いて自戒を交えつつ は單行本として四庫 している。現在この『南嶽倡酬集』

書に收められていて、多くの人々の

覽に供されてはいるが、その

收詩と、朱子の別集『

生朱文公文集』 (以下『朱文公文集』 ) や、朱子の手によって 庵先

まれた張

の別集『南軒集』

收の作品とを

ると、その き合わせてみ る。本稿では特にその 容に多くの問題點が含まれていることが見出せ

書 に關する

を 問題を中心に考察 めて行くこととする。

一 『 南嶽倡酬集』に關する先行

『南嶽倡酬集』 に關してはこれまでの

、朱 子 の

集・整理する 作を收 で付隨

である。 そのような 『南嶽倡酬集』 自體に焦點を絞った專論は殆ど無かったよう に論じられることはあっても、

況の下、 王利民 「流水高山

『南嶽倡酬集』 論析」 (『文學 古心―

』 二〇〇三年第一期、

p.

56

は殆ど唯一と言っても良い專論であろう 。該論は思想

(1) p.

64

!

"

見地からの『南嶽倡酬集』論に多くの紙幅を

#

いている 『南嶽倡酬集』

書攷

$

淳一

(2)

が、その第一

では『南嶽倡酬集』の版本考

を行っており、少なからず に關する考察 示を得た。その記

①北京圖書 現在目睹し得る『南嶽倡酬集』の版本には、 に據れば、

②四庫 明弘治刻本 (以下「明刻本」 ) 書集部總集 本 (以下「四庫

③南京圖書 書本」 )

嘉慶手抄本 (以下「

した『南嶽倡酬集』を 四年 (一四六〇) 、林用中の十一代の子孫である林希仲が刊行 の三種があるのみだが、この三種は源を同じくし、明の天順 抄本」 ) 該論ではこの三種の版本に共 本としているとのことである。更に する問題點として、

收の作品數が張

「南嶽唱酬の序」に謂う

四十九首と合 の百 しない (詩題數は

總作品數は 五十七題、 三人の 。 百六十一首)

作品の配列が朱子一行の南嶽

る部分がある。 の時系列と矛盾す

明らかな文字の

りが多い。

一部の作品の作

を していたり (張

子の作とするなど) 、南 嶽 の作を朱 の の四點を はないものも收められている。 に於ける作品で

げている。この四點については私も予てより氣付 いていた

であるが、その問題の根源はやはりその

に由來すると見ており、 王氏の論攷を元に實際に南京圖書

北京圖書 ・

に赴いて、マイクロフィルムではあるが各版本の 査を行なって來た。その結果を踏まえて

以 深めて行く積もりであるが、その にまずは、最も に考察を

高い四庫 行性の

介し、上記の問題點を今一度確 書本によって、現行の『南嶽倡酬集』の面貌を紹

してみたい。

二四 庫

書本 『 南嶽倡酬集』

四庫

書本 『南嶽倡酬集』 は四庫

(朱子撰「南嶽 ○南嶽倡酬集原序 に收められているが、その體裁はと言うと、 書の集部八

總集 二

○南嶽倡酬集原序 (張 山後記」 )

○南嶽倡酬集附 ○南嶽倡酬集 (本文) 撰「南嶽唱酬序」 )

!

(朱子

「答林擇之書」 ・「

「 最初の 原序」 とは朱子が書いた 「南嶽 という順序で記載されている。 ○東歸亂藁序 (朱子撰) 「林用中字序」 ・「林允中字序」 )

"

事十條」 ・ 公文集』卷七十七 山後記」 (『朱文

收) であり、 中國詩文論叢 第二十四集

(3)

南嶽唱酬 庚辰[十一

十六日]に訖 り、

をは

夫[張

に其の然る

すで

以 の

ゆゑん

一 を序して之を藏せり。癸未[十 十九日]

業[

洞]の も亦た其の羣從昆弟に別れて來る。始めて水簾[水簾 業寺]を發 ち、伯崇[范念 ]

はんねんとく

を聞き、將に

疑ふ 五たび行きて、 酒 來りて雲峰寺に餞し、 詳] [胡寔 、甘可大[不 、季立[胡大本] ]、伯逢[胡大原]

こしよく

胡廣仲 、 [趙師孟] 而うして趙醇叟 さず。 を以て果

はた

きて一たび觀 んとするも、雨

を劇論して別る。丙戌[十一

二十二日]

に至り、 省株洲市] 熹 伯崇・擇之 [ 林用中] と 州 [湖南

しよしう

取りて東のかた歸り、 而うして を 長沙に 夫此 より西のかた

これ

宮[衡山の麓にある南嶽宮]より れり。癸未より丙戌に至るまで凡 て四日、嶽

かへすべ

百有八十里、 其 の 州に至るまで凡て

山川林野、 風

景物、 向 來 見る

きやうらい

に べて詩に非ざる

くら

無し。……丁亥[乾

と記されるもので、南嶽衡山を下りた後の四日 一一六七] 、新安の朱熹 記す 。

(2)

三年、

の行

その び

の吟詠の意義を總

したものであり、

頭に 「

に其の然る

すで

以 の

ゆゑん

も明らかなように、本來ならば を序して之を藏せり」とあることから

の張

の序を先に

げるべ その張 きである。

の 「南嶽唱酬の序」 (『南軒集』 卷十五

某 湖湘に來 收) はまず、

して二紀 [二十四年] を踰 え、 衡嶽の

を 寐し、亦た嘗 て跡を其の

かつ

だ に寄するも、獨り未 頂に登りて快を爲すを得ざるなり。乾

年、 一一六七] 秋、 新安の朱熹元

げん

丁亥[三

くわい

來りて予を湘水 の上

ほとり

に訪ね、留

とどま

りて再び を し、將 に南山に

けみまさ

[衡山を して

みち

の って] 以て歸らんとす。 廼 ち始めて偕 に此

すなはとも

を爲す。而うして三山の林用中擇 之 も亦た焉 に與

たくこれあづか

る。 と、朱子・張

・林用中の三人で衡山を

た經 することになっ から書き

こし、

粤 えて十有一

に、

庚午 [十一

六日] 、潭 [長沙] 自

り湘水を渡り、 甲戌[十一

十日] 、石灘 を

せきたん

!

ぎ、始めて嶽頂を

乙亥 [十一 ……

"

む。

丙子[十一 十一日] 嶽 [ 南嶽衡山の麓 ]に 抵 るの後、

ふもといた

十二日]小憩するに、甚だ雨ふり、

るも未だ已 まず。……而うして夜

#

$

雨 止み、

きて れば、明 星爛 然たり。

『南嶽 倡 酬集』 成 書 攷 (後 藤 )

(4)

あかつき

「十一

……日 り山に登る。 馬跡橋由 輿に易へ、

を聯 …竹 … を渡るに、 興樂江 て ね 騎 が三人 予 れり。

つらこうらくかう

十三日」 に昇 [東の空] 谷 暘 日 び、 に比

やうこくおよ

れば、氣象 廣寺]に抵 深窈 、八峰

いたしんえう

方 廣 [方

はうくわう

立し、

謂 る

いはゆ

戊寅 [十一 峰なり。……

己卯[十一 ちて高臺寺に入る。…… 徑を穿

うが

十四日] 明 發し [夜明けに出發し] 、小 十五日] 、武夷の胡寔 廣仲、范念

こしよく

はんねんとく

伯崇 來りて會し、同

とも

に仙人橋に ぶ。…… 庚辰 [十一 十六日] 未だ

れざるに、

窗を

て聲有り、 ち

に抵り、 と三十里 許 にして、 嶽市 [衡山の麓にある市街地]

ばかり

覺す。將に山を下らんとす。……行くこ 業寺の勁

と、時系列に沿って 堂に宿る。

の經路や各景

の樣相、一行の

に こった出來事などを詳

景物の美 里、 殫 くは敍 ぶ可からず。

ことごと

蓋し甲戌自り庚辰に至るまで凡 て七日、經行上下 數百

すべけいかうしやうか

し、最後に、

發し、更 ま亦た吟詠に 唱酬、

れども亦た以て耳目の たり。一時の作にして工を盡 くす能はずと雖ども、然

を倒 にすれば百四十有九篇を得

なうさかしま

と夫 の興寄の託する

と を見る可し。

日 或ひは攷すること有らん。 乃ち

あつ

めて之を

す。……嗟 乎 、是 の

を覽 る

吾が三人の 、其れ亦た を以て自 ら

みづか

いまし

むるか。南嶽唱酬の序を作 る。廣

郡の張某

と、七日 夫云 ふ 。

(3)

の行 に仕立てたことを で三人が作った詩百四十九首を纏めて詩集 上記の二序を承けて に四庫 べて、序文を締め括るのある。

!

書本は唱酬詩の本文を

るのであるが、その體裁は、例えばその

"

げ 七日發嶽麓

#

頭に、

$

%&

'

至十日

三日山行風繞林天

(

賦此

)*

客 愁 深 心期 已

+&

笑 紛 更 滿襟 仲

,

-

眼看飛

洒千 林更

.)

溪水淺 深 應 有

&

句寫 愁 襟

/

夜發 却 煩 詩 昨 日來時 萬 里林 長 江 夫

01

2

茫 不見

&

意重對

3

天 豁

とあるように、 まず一つの詩 題 を 襟 擇 之

「仲

"

げ、 その後に 朱 子 ( 字 は

あざな

-

・ 張 」)

4

( 字 は「

を 三人の作 品 林 用 中 の 順 で ・ ( 字 夫」 擇 之」 ) ) は「

ここで

"

出するのである。

5

末 に 付 した

四庫

!

書本 『 南嶽 倡 酬集 』

を 參照 して 頂 きたいが、詩 題 は

!

詩 對 照

!

五十七 題 。三人が一首 中 國 詩文 論叢 第 二十四集

(5)

づつ作れば詩の總數は百七十一首になる筈だが、四庫

に收められる詩の總數は 書本 百六十一首。それは

數量は、 二首 とが含まれるからであるが、この (詩題番號四四・四七) 誰が作ったかは明示されていない) と、 朱子のみが作った古詩 作とされる聯句三首 (詩題番號三六・三八・五〇。但しどの句を に三人の合 で紹介した王氏の論攷でも問題點の

として

げられていた如く、張

合 の序に謂う の「百四十有九篇」と また、同じく王氏の しない。

げる問題點

張 については、例えば、

江 樂 興 「渡 とあるにも拘わらず、 る」

を渡るに、……竹輿に易へ、馬跡橋由 聯 り山に登 ねて興樂江

こうらくかうつら

の序に「 騎を に昇れり。予が三人 暘谷 び、日 に比 曉

やうこくおよあかつき

融 更に同じく問題點 置かれているなどの矛盾がある。 の遙か後方に は「馬跡橋」詩 (詩題番號四〇) (詩題番號〇六) 擇之韻」 詩

のは現行の『朱文公文集』には見えず、 四一・四二・四三・四五・四九・五四で朱子の作とされるも については、例えば、詩題番號三五・

められる張 て『南軒集』に收 の作である點などがある。付言すれば、上

聯句とされる三首もいずれも張 の 合作としての聯句では決してない。 獨自の作であって、三人の

ての詩を

出した後、 四庫

書本には附

文公文集』に散見する、朱子が林用中に宛てた書 として、 『朱 篇と、朱子が他の門人に宛てた書 計三十三

中や『朱子語

見する林用中の事績計十條、 』等に散 び朱子が林用中とその弟林允

りんいん

ちゆう

の爲に字

あざな

を付けてやった經

之と 擇 始め予 を付す。 收) 十五 れ、最後に朱子が書いた「東歸亂藁の序」 (『朱文公文集』卷七 が付せら 收) 卷七十五 『朱文公文集』 (倶に の序」 字 「林允中 を記した「林用中 ・ 字の序」

夫に陪して南山の

め を爲し、 幽を窮 を び、相ひ與 に詠じて之を賦す。四五日の

とも

凡 そ百四十餘首を得たり。……其の事 倡 酬の

およ

、 序篇に見え、 亦た已に 詳 かなり。

つまびら

後の 夫と別れて自 り、

に伯崇・擇之を偕 ひて東のかた來る。……蓋し

ともな

より宜春[江西省宜春市]を 州 て、

を [江西省南昌市] に 泊し、 饒・信 [饒州と信州] の境 江に汎 び、豫章

うか

後に崇安に至る。始めて盡く其の を

たく

り、繚繞すること數千百里、首尾二十八日、然る

!

き、亂稿を

ひら

"てつ

しふ

し、纔

わづ

かに二百餘篇を得たり。……故を以て復た毀 棄せず、姑

しばら

く序して之を存し、以て吾が 黨 の 直諒 多聞 の

#

は 談燕 樂 を以て 廢 せざる見 す。…… 是 れ 則 ち 此

えんらくあらは

『南 嶽 倡酬集』 成 書攷(後 藤 )

(6)

の稿の存するは、亦た未だ以て

す可からざるなり。……乾 無しと爲して之を略 丁亥[乾

七] 三年、一一六 十 この序は上 二十有一日、新安の朱熹 序す 。

(4)

「南嶽

山後記」の後を承けて、十一

二日に 二十

州で張 と別れて以

、朱子が故

での の崇安に歸るま けた經 中に作った詩二百篇餘りを纏めて「東歸亂稿」と名付 序ではないが、南嶽 を綴ったものであり、 『南嶽倡酬集』 自體に對する

に關

する記

三四 庫 て付せられたものと考えられる。 があるので參考とし

提 書本 『 南嶽倡酬集』に對する四庫

ここで、 四庫 の見解

書に 『南嶽倡酬集』 を收載する

で 校訂に當たった 修・

の學

の見解を見て置こう。 『四庫

總目提 書

』 卷 一八七 -集部四十 -總集

二には

のように記

する。 『南嶽倡酬集』一卷、附

一卷 修汪如 宋の朱子 張 ・林用中と同に南嶽に 家藏本 の詩なり。用中、字は擇之、東 びて倡和する 嘗て朱子に從ひて と號す。古田の人。

ぶ。 是の集 乾

二年十一

らる。 に作

に の序有り、 「湖湘に來

すること二紀、 衡岳の

を 寐す。 丁亥の秋、 新安の朱元

予を湘水の上 に訪ね、偕 に此の

ほとりとも !

來りて 當時 蓋し必ず 衡湘の して朱子の詩題中 亦た を稱して「張湖南」と爲す。 を爲す」と稱す。而 荊湖北路轉 るならん。而れども『宋史』本傳 止 だ の孝宗の時

"

に官たりて、故に此の稱有 本路を安撫するを載するのみにして、其の

#

副使に任ぜられ、後 江陵府に知たりて、

のち

官たるを言はず。疑ふらくは史に

$

て湖南に

%

漏有るか。其の

甲戌自り庚辰に至るまで凡

すべ

て七日。 朱子の 「東歸亂 稾の序」に「詩百四十餘首を得たり」と稱し、 の序 も亦た「百四十有九

&

」と云ふ。今 此の本

する

'

五十七題に止

とど

まる。 『朱子大

]を以て參校するに、載する 公文集』 集』 [康煕刊本 『 朱文

止まる。 亦た 『大

'

又た五十題に 集』 に有る

るを失する

'

にして此の本 載す 有り。 又た

か。又た卷中の聯句は、 知らず と云ふべからず。 何 を以て參錯して合せざる れば、 五十七題を以て之を計 亦た當 に 「一百四十九篇」

はかまさ (

題 皆な三人 同に賦するに、

して 「 す。其の他の詩も亦た多く朱子の集中の題に依る。題 にして姓氏の標題を失去

)

夫の韻に

す」 と作 すも、 其の詩 實は の

中國詩文論叢 第二十四集

(7)

作爲

有るに至る。 蓋し傳寫する

譌 の書」 三十二 當日の原本に非ざらん。後 に朱子の「林用中に與ふる

うしろ

佚し、

・用中の 「

事」 十條・

る び朱子 作

き の「字 の序」二首有り、皆な此の集の應 に有るべ

あざなまさ

に非ず。或ひは林氏の後人の附 する

然れども「南岳」を以て題を標するも別地の尺牘に泛 なるか。

し、 「倡酬」を以て名と爲すも

居の

するは、 皆な體例に非ず。 姑 く原本の有る

しばらく

三人を以て集を合するも獨り用中一人の言行のみを載 論を濫載し、

これに據れば、四庫 之を存すと云ふのみ 。

(5)

を以て 時汪如 書に收められた『南嶽倡酬集』は當

おうじよそう

の家に

されていたものであり、

く、收載詩の數と朱・張兩序に謂う で示した如 齟齬を の元來の詩篇の數との に當時指摘していたことが

と る。また、朱子の別集 題が七題、 き合わせてみて、 『朱文公文集』 に載せられていない詩

「馬上口占 た筈なのに、 には見えない詩題もあること 、三人がそれぞれ同じ題で作っ

(6)

に『朱文公文集』に見えるのに『南嶽倡酬集』

夫韻」 (詩題番號〇六) や「霜

からの詩題をそのまま踏襲しているのは理に合わない點など 擇之韻」 など 『朱文公文集』 の 朱子の立場 (詩題番號二一) 但し、 『南嶽倡酬集』 の も指摘する。

立を 「乾

スミスはさておき、朱子が詩題中 で張 (詩題番號二八・四四) 二 年」 とするケアレ

を 「張湖南」 と稱しているのに、 『宋史』 には張

史』の方に 路安撫使 になったことを記載していないのは 『宋 (知潭州) が荊南 あ る 。こ の「張 湖 南 」と は 張 漏があるのだろうという議論は明らかな失考で

ではなく張孝

一一六九) を指すのである。 乾 (一一三二~

三年六

、張 孝

となって長沙に赴き、十 は知潭州

には當地に「

を建てているが、當時長沙に居合わせた朱子は「 堂」という書堂

得 堂分韻

字」 (『朱文公文集』 卷五

という詩を作り、 張 收)

「 は

堂記」 (『南軒集』 卷 四

からも、朱子一行が南嶽 收) という文を記していること の行に

立つ に張孝

ていたことは明らかである。更に張孝 に會っ は 年の七

衡山に に南嶽

んでおり、その時に「丙戌七

日自南臺游

留山中」詩や「上封寺」詩を作っており、予め張孝

!

嚴書 のような經 からそ に殘されていた張孝

"

を聞いてた朱子一行が、實際に衡山山中の各寺

の詩作を讀み、感ずる

また、聯句に各作 詩をものしたものと推察されるのである。 があって件の の姓氏を

#

げていないことを譏ってい

『南嶽倡酬集』成書攷(後藤)

(8)

るが、これも上

の如く三人の聯句ではなく張

ので失考と言えるが、 「 獨自の作な 夫の韻に

實は張 す」 と 題していながら の作であるとするものが何を指すのかは

い。篇末の對照表を見れば明らかなように、四庫 然としな 嶽倡酬集』の詩題に「 書本『南 七・五二の計十題あるが、朱子の作として えば〇六・〇九・一一・一三・一五・二四・二六・三九・四 夫韻」を含むものは詩題番號で言

ともあれ、多くの問題點の存在から、汪如 家 いずれも『朱文公文集』にも見えるものである。 げられるものは 倡酬集』には 本『南嶽 記や疎漏が多く含まれ、南宋當時の原本の

を留めていないだろうと『四庫

書總目提

最後に紀 である。 』は推斷するの 等の統一見解である

の『四庫

書總目提

は、 附 』

された林用中關

の 料の存在にも疑問を

四庫 するが、

書本『南嶽倡酬集』卷首

收の書

は少々見方を

「 中の ……後 に朱子の「林用中に與ふるの書」三十二篇・用

うしろ

にする。

事」 十條・

び朱子 作 る

首有り、則ち後人 用中に因りて の「 字 の序」 二

あざな

附入する

用中は紫陽の高弟爲るも、 なり。

作多く湮

に就く。惟だ 此の本のみ

ほ其の

詩を考見す可し。

するは、後に傳ふること無きを して之を存 云ふ。……

(7)

さざるに庶 からんと

ちか

つまり、これら林用中關

の 料が附 林用中の後裔が汪如 家 されているのは、

本『南嶽倡酬集』の

は第一 で紹介した王利民の指摘、 關與したことを物語っていると推論するのである。この推論 書に大きく

!

ち四庫 行した 『南嶽倡酬集』 を 種の版本はいずれも林用中の十一代の子孫である林希仲が刊 書本を含む三

"

本としているという點に合

これを承けて する。

にその林希仲の序文を有する

考えてみたい。

#

抄本について

抄本 『 南嶽倡酬集』

#

嘉慶手抄本『南嶽倡酬集』は『南嶽倡酬

「嘉慶紀元中 』と題され、

$

南嶽

%

子手

(八千卷樓珍

」との 善本)

爲されている。 現在は南京圖書

&

記が

'

(虎踞路分

'

) に そのマイクロフィルムのみが され、

は中國國家圖書

(

覽に供されており、その複製

'

(北京、 北

)

'

) にも その體裁は されている。

○「南嶽唱酬集序」 (明、余文龍撰)

*

りである。 中國詩文論叢 第二十四集

(9)

○「鐫南嶽唱酬集小引」 (明、楊

○「南嶽唱酬集序」 (明、 撰)

○「南嶽同 淮撰)

○「南嶽唱酬集序」 (張 後記」 (朱子撰)

○「 ○「南嶽倡酬集跋」 (明、林果撰) ○「林允中字序」 (朱子撰) ○「林用中字序」 (朱子撰) ○「東歸亂藁序」 (朱子撰) ○「南嶽唱酬集」 (本文) 撰)

○「附刻 事十條」 (朱子撰)

與林東

先生書

事小引」 (明、楊

輯) この

、朱子撰「南嶽同

るまで、 後記」から「林允中字序」に至

び朱子撰「

事十條」は、配列や標題に

干の

いはあるものの、四庫

書本と同一の

文はと言えば、その體裁・配列ともに四庫 容であり、唱酬の本 書本と

である ( く同じ

干の文字の

。 ここから四庫 同はあるが)

收載された汪如 書本に 家 本はこの

抄本と同

ことが窺えよう。また、唱酬の本文の の版本であった の

頭にはその撰

として「宋大儒新安朱熹仲

/廣

夫/古田林用中 擇之同

」と三人の姓名を記し、その

には「古田令四明楊 孚先訂梓」と記してあることから、この本は楊

なる が 體 に刊行したものということが

明する。この楊

による刊行の經

東 龍の「南嶽唱酬集序」に記載がある。 についてはまず、卷首に付せられた余文 林先生[林用中]は、予が の先

の名儒なり。向 に朱

さき !

にして、理學

[朱子]の門に從

の蔡元定と齊驅竝駕す。 し、建安

至って推して畏友と爲 し、 甚だ之を

禮す。

"

悟修

#

、足

$

を出でず。 偶

たま

たま

に偕 ひて潭州に走り、守の張

ともな

夫[張

訪ね、 因りて南嶽の ]を 有り。

あらは

餘首、 會 たま中

たま %

の唱酬詩 百四十 散軼して、 久しく流傳を失し、

&

に『

'

』・ 『享帚』の二集と竝んで世に行はるるを

(

ず、 識

之を銜 む [ 殘念に思った] 。

ふく

以來 [

)

ち文龍 燥 髮 有るを聞かざるなり。 『唱酬集』 崇 い頃から] 、 林先生有るを知るも、 杳として

*

辛未 [崇

四明广石 の楊明府[楊

げんせき *

四年] 、 ]、世胄名公[名門の俊

にして、祕函宿學、甫 めて車を下 るや[古田縣に

はじくだ +

するや]

,

)

ち石

+

[「耆

+

」 か?] を

-

訪し、

表章するに、其の

.

を 藁を西河氏に得たり。殘斷蠧

/

ざんだんとしよく

『南嶽倡酬集』成書攷(後藤)

(10)

重ねて較

かう

を加へ、之を剞

に 才の私] に付し序を不 佞 文龍[菲

けつねい

て七年、登りて南嶽の する]こと凡

すべ

む。 ……予 曩 に衡陽に筮 仕 する [仕官

もとさきぜい

峰を眺むる

しばなり。 椽 の如きの筆の、 其の奇を探るに堪

しばたるき

へたる無きを愧

づ。 別れ去りて二十載、 魂

に予が言を以て 有らば、當

まさ

の功臣なり。 九原 [あの世の林用中先生] 知ること 麓の 側 に依依たるなり。……广石の刻は、實に先生

かたはら

ほ衡 瞽 これに據れば、崇 人後學 中拙 余文龍 撰す 。

(8)

と爲さざるべし。邑 四年 (一六三一) 、林用中の故

古田 ( である

の縣令に就いた楊 建省古田縣)

の が、 『南嶽倡酬集』

稿を當地の西河氏の家で發見した。この

稿は 缺けて蟲喰い 々頁が

態であり、楊

自身が改めて作品を

直し、それを版木に し 十年 って刊行することを企てた。そして二 、衡山に

士、 余文龍 ( い衡陽に仕官していたことがある古田の名 、乾 十九年刊 『

州府志』 に 據れば

年 [ 一六〇一] の 二十九 に序文の執筆を依 士)

したということが

明する。余文龍序の

に付せられた楊

唱酬集小引」にも同じくその 自身の「鐫南嶽 の經

古邑 萬山の深き處に僻在し、名賢 遞 ひに衰旺有り。

たが

が記されている。 而うして宋の紹興の [一一三一~一一六二] 、林 東

!

[林用中] ・

"

堂 [ 弟の林允中] の 兩先生兄弟、 崛

#

して業を紫陽[朱子]の皐比の下 に授けられ、蔡季

もと

$

[蔡元定]と名を齊 しくす。

ひと

是れ紫陽の手蹟なり。 と曰ふ。 今 其の眞なる 縣北に書院有り、 ば遡る可きのみ。 題して 「溪山第一」

%

の淵源、流 に沿へ

ながれ

すと雖も、 筆法 を失 ほ

%

勁にして法に合す。 此

時の

&

ち當 友

'

學せる處にして、後人 地に

祠 り、二林先生 焉 に 配 す。

まつこれ &

きて紫陽を

[私、楊

の 土 に ] 幸 に 茲 るも、

(

み、 竊 かに 嘗 て山 を 憑弔 し、 耆舊 を 寤寐 す 川

ひそ

)

るに 卒卒 として 杞 宋の 餘 を以て 應ず る

すくな

し。 邇

ちか

ごろ

*

めて林 劍 溪先生の、 建 文の 事 [

はじ

死 に するを 舉げ て、

+,

の 役 ] ち東 て 則 を以てす。 『南嶽唱酬集』 すに 示 り 其の後人 る。 祀 に 宮 を學 因

これ

陽・南 軒 兩先生に 偕 ひて、衡嶽を

ともな !

先生 紫

-

覽 するに、凡そ 于

.

の作 [唱 和 の作]

ほ在り。 蓋 し 劍 溪先生は

&

!

先生の九世の 孫 にして、

%

學 忠 先

/

、後先[子 孫 も

0

も] 輝映 す。

&

ち 茲 の集も 亦 た 天犀

凡そ名賢の を き、 闡 を び幽 右 家文 國 が 我 …… なり。

たふとひら 21

斑 の一 ・ 忠

/

の 舊 蹟は、經 天 の

3

4

げ ざること無し。 中 國詩 文 論 叢 第二十四集

(11)

而うして玉田の俎豆鉅典 已 に劍溪先生を祀れり。 又 た再び是の集を

夫れ何ぞ敢て むに、 姓氏を綴りて聲施に附するも、

きざ

獻を りに表章に居 らん。……夫れ今日の文

ぼさざる

ほろ

は、

ち後日の文獻の必ず

からざる ぼす可

なり。 蓋 し

斯土・斯文の爲 に

ため

夕 [

きんせき

]之 を

むなり。 崇

壬申 [崇

の楊 五年] 仲 春 四 明 孚先

けいせん

(9)

。 これは先の序を余文龍に依

した

年、 崇

春二 二) 五年 (一六三 、楊

書院には朱子と共に林用中兄弟が祀られており、 木に刻む際に書かれたものであるが、古田縣の北にある溪山 自身の手で整理した 『南嶽倡酬集』 を版

當たるものが『南嶽倡酬集』を楊 の九代子孫に當たる林劍溪を縣學に祀った際に、その子孫に 頃林用中 溪山書院とは淳 る。 版に付して刊行することにしたのだということが書かれてい に見せたので、それを

二年 (九九一) に古田縣に

であり、慶元三年 、僞學の禁を (一一九七) られた書院 を訪れ、林用中兄弟等を集めて けた朱子が古田

學した際にその

している。後に土地の人が朱子 額を揮毫 傍に建てて祀るようになったが、嘉 び林用中兄弟の像を書院の

二十八年 (一五四九) 、 川の氾濫により水

なった楊 してしまう。その書院をこの時期縣令と が再建するのであるが (

、乾

、彼 は 縣志』 卷 四による) 十六年刊 『古田 せて、

二) で燕兵に るのを の役 (一三九九~一四〇

!

しとせずに自

"

した林用中の子孫、

#

(號は「劍溪」 、洪武二十七年[一三九四]の

$

を縣學 士)

%

&

賢祠に合祀したのである。

建と林

'

らくこの時の溪山書院の再

#

の の家に

&

賢祠合祀が林用中の末裔を大いに感激させ、そ

()

されていた『南嶽倡酬集』の

*

稿を楊

委ねる の手に

+

機となったのであろう (但し余文龍序に謂う

卷末にも同じ楊 河氏」が林用中の末裔に當たるのか否かは不詳) 。

,

の「 西

が記した「附刻

-.

與林東

/

先生書

*

事小引」が付せられているが、

[私、 楊

に徐興公從 り

0

に 『南嶽唱酬集』 を刻し、 已 書

1

書を借り、朱子の擇之先生に與ふるの び と曰く、 「

*

事數則を得て、定めて後卷と作 す。……或ひ

2

卷 詩 を以て行ひ、 此 學 を以て訓 ふ。 騷

をし

3

儒林 固より傳を同じくするか」 と 。

「西河の業、 四詩を以て門を 應 へて曰く、

こた

4

もつぱら

にすと 稱 す。 夫れ 景 物 は 美 なりと 雖 も、何ぞ 性靈 に 似 ん や 。 流

5

すれ ば

6すさ

み易 く、 涵泳 するに 如 かず。今

1

先生の 帙 を 取 りて、

『南嶽倡酬集』 成 書 攷 (後 藤 )

(12)

詩を誦し書を讀み、

ずしも岐 れて兩截と爲らざらんことを知れり。……崇

わか

友して世を論ず。三復の餘、必 壬申[崇

五年]

春、四明の楊

林用中に宛てた學問上の問答に關する書 とあるように、この文は專ら『南嶽倡酬集』の後に、朱子が す 。

や『朱子語

に散見する林用中の事績等、林用中關 』等 の い集めて付載する理由を 料を他書より拾 して 『四庫 稱揚する意圖も多分に含まれていたことは明らかである。そ 然ながら、己が縣令となった古田の古の名士である林用中を べるものであり、またそこには當

書總目』 が、 『南嶽倡酬集』 に附

中關 された林用

の 料の存在にも疑問を

するのは、その

古田縣令楊 本がこの ということを物語るものであり ( の手によって訂梓されたことを知らなかった

に書

提 の作 のことを見 は已にそ いていた) 、 當時四庫

書が收載した汪如

本『南嶽倡酬集』には上

の余文龍や楊

一方、この 付載されていなかったものであったと想像されよう。 の序などが一切

抄本には崇

年 の楊

それより遙か 等の序とは別に、

は に書かれた序跋も付載されている。その一つ 淮の「南嶽唱酬集序」であり、該序には

ている。 の如く記され 予 韋布[無官]たりし時、 『

誌』を

る有りと。生まるるや の大儒 林 擇之 [林用中] の 『 倡酬集』 の 世に行はる

!

するに、宋

"

きを

寅友[同僚]林君希仲なる 歉 るを以て ずと爲す。 比 ごろ出でて襄陽に守たるに、

あきたらこの #

き、恆に是 の集を見ざ

なげ

有り、予が篆を

$

るの餘

%

みて、 是の集を持し出だし、 予の一言を

&

くわん

て序を爲 るを求む。 予 喜びて

つく '

ざん

集を

(

じて曰く、 「吾 是の ば、則ち未畢の願、其れ

)

ふこと、 蓋し亦た年有り。 今 焉 を見るを得れ

これ

こと數日、 乃ち山川の明秀と夫 の臺閣の崢

さう *

に償ふのみ」と。莊誦する

+

くわう

とを知 る。 其の詳は張南軒 [張

,

]・朱考亭 [朱子] の 序に り先生[林用中] 隱居して

-

すること、固より言を待たざるなり。然れども獨

.

を學び、仕

/

を干 めず、

もと

0

菴[朱子]を師として群

源の懿 自りて來る

1

を友とするを念へば、淵

2

有り。今 茲 の集を見るに、

三先生を見るがごときなり。 惜 しいかな

3

4

5

るこ

6

に 久 しく、 而 も 字畫 蠧 の 殘壞 する

しか

2

と爲る

も多し。 賢 子 孫 有りて數世の 下 に 尤 ざれば、則ち先生 章せ

7

求考 正 して之を 表

8

日の 心 を用ふる

2

、 授受 する

2

、是 に 因 りて

これ

*

9

びざるか。 乃ち其の 闕 を 補 ひ て、

中 國 詩文論 叢 第二十 四集

(13)

ぼ始めて克

り、

圖して

を梓 に

これ

其の傳を廣め、上 は以て斯文を不

かみ

みて、以て

きざ

休 に續 ぎ、下 は以て

しも

を無窮に承けしむれば、後の是 の集を觀る

て集むる 、以

を得るに庶 しと云ふ。 先 生 諱 は用中、 字 は擇之。 東

ちかいみなあざな

を得て、以て其の家世源流の自る を知る

は其の別號なり。

に天順四年、

とき

は庚辰秋七

に在り。 賜

吉水の 士出身、 中順大夫 知湖廣襄陽府事、

淮序 す

なった これに據れば、天順四年[一四六〇]に知湖廣襄陽府事と 。

仲なる 淮が、偶々その時に部下となった林用中の子孫林希 に から蟲喰いの殘本『南嶽倡酬集』を見せられ、新た を し直し刊行する予定であるから序文を書いて欲しい旨 く されたとのことである。そしてその林希仲の跋も同じ 嗚 呼 、此 吾が先

抄本に付載されている。

東 公の なり。東

に生まれ、少 き自り

わか

宋の紹興 なるも、科舉の業を厭ひ、

菴朱子に從ひて

び、 性理の學を

之を とし [ 論す。 朱子 蔡季

!

材と見做し] 、 稱して畏友と爲して、

"

[蔡元定]と名を齊しくす。後に

張南軒[張 菴に偕ひて

#

]を訪ね、同 に南嶽の上に

とも

び、倡酬し て稿有り、家に藏す。不幸にして

$

しば兵燹 [兵火]

しばへいせん

%

ひ、 其の

&

集を得る

蓋し寡 きなり。 乃ち

すくな

舊譜に を

これ

'

すれば、中

(

尤も殘缺

)

なかば

を千百に存するのみ。……不

*

ぎ、幸に什一 衡岳を瞻

+

乏しきを承け、襄陽 すれば、 良に用 て懷を興 す。

もつおこ

,

なん

- .

して不明・不仁の咎 を蹈 むに

とが

乘じて、

/

びんや。乃ち公暇に

0

めて之を集め、重ねて校正を加へて、

あつ

寅長[上役]

1

に 公の之に序せんことを

附するに「東歸亂稿」 ひ、而うして

2

び序

3

書跋を以てし、梓に

みて以て傳ふ。……天順四年、

は庚辰秋七

百拜して書す

在り。 奉政大夫襄陽府同知、 十一代孫 果 希 仲 頓 首 に 知として襄陽 (湖北 省 襄 樊市 ) に在り、 先 これに據れば、林希仲は天順四年[一四六〇]に襄陽府同 。

4

等 と 共 に の林用中が朱子 古 に 思 いを 馳 せ、 ん だ 湖南の衡 山 からさほ ど離 れていないことから

林用中の

5

らく 當 時行 李 に 入 れて 持 していた の

稿から、南嶽

の暇を見ては 務 公 めて て、 企 として刊行することを 『南嶽倡酬集』 改 を集めて、

6

作品 われる 思 にものしたと 際 の 集・校正を重ね、 完

した稿本を上 司 の 淮に見せてその序文の 作

を 仰 い だ とのことである。また

『南嶽倡酬集』 成 書 攷 (後 藤 )

(14)

この稿本

集の

跋も で、朱子の「東歸亂藁序」やその他の序 せて林希仲の手によって付せられたことも

の林希仲再 明し、こ 見て良いであろう。ただ、林家に家臧されていた林用中の の稿本が後の『南嶽倡酬集』の原型となったと

稿は度々兵火に

したことによってその大

は散佚し、

時に比して十分の一

り、 度しか殘っていなかったとのことであ らくその乏しい材料を基に、

見られ、第一 集・校正を行なったと る、元來あった筈の作品數と現存の作品數が一 で紹介した現行『南嶽倡酬集』の問題點であ

や明らかな文字の しないこと りが多いことなどは、

てこの

での 集時點

稿の不完

さに由來すると思われる。

この子孫の姓名は正しくは「林果」と言う。 、 この林用中の十一代子孫林希仲の 「希仲」 は字であり、

、乾

刊『 十九年

州府志』卷四十一

に據れば、林果はまさしく

出の九代子孫林

知に 字は希仲、古田の人。天順中 林果 太學由り襄陽府同 にその略傳がある。 の孫に當たり、 同書卷五十一

人物列傳

ばる。時に兵

し、果 招撫賑恤し、民

以て安んず。 ……官に卒 し、 士民

しゆつ

りて

思愛

に祠を立てて以て祀る

して、 爲

の序文の

容を裏付けるが如く、 林果が天順年

たことも の林果が不幸にしてこの襄陽府同知在任中に死去してしまっ 「襄陽府同知」 と なったことが記載されているが、 同 時にそ に 明する。とすれば、林果再

していたものの、 の稿本は刊刻を予定 れないまま らく林果の死によってその刊刻が果たさ ととなり、それから二百年 族に引き取られ、以後古田林家に家 されるこ

!

く經 した崇

果再

"

の時代にその林 稿本が楊

れ故、この版本には余文龍・楊

#$

の手に委ねられたものと推察される。そ

#$

による崇

"

年 の序跋と

%

淮・林果による天順年

の序跋とが

たのであり、もとから存在した朱・張の序の他に、楊 載されることになっ

手によって林用中關

#$

&

の えるのが

'(

料が補入されることとなった考 そしてこの本を寫したものが

)

當と思われる。

日の目を見ることはなかったからには、その 證した如く、明の中期に林果の手によって纏められた稿本が 抄本となるのだが、已に考

刻本」とは一體どのようなものなのであろうか。 の時代の「明

る明刻本の體裁を紹介してみたい。

*

に現存す 中國詩文論叢 第二十四集

(15)

五 明刻本 『 南嶽倡酬集』

北京圖書

と題され、中國國家圖書 明弘治刻本『南嶽倡酬集』は『南嶽唱酬集』

(北京、紫竹院分

) にのみ

れ、 現在マイクロフィルムによってのみ さ

「明刻本」 という 覽に供される。

の體裁は 記のみが爲されているだけであるが、 そ の

○「南嶽 ○「南嶽唱酬集」 (本文) ○「南嶽唱酬集序」 (張 撰) りである。

○「南嶽唱酬集後敍」 (明、 山後記」 (朱子撰)

この體裁は、上 淮撰)

の四庫

書本

び 抄本とは

く趣を

にする。特に唱酬の本文自體が

く まず南嶽 なり、この明刻本では の で朱子がものした作のみを「七日發嶽麓 中 不 至十日 行き、 賦此」 から列記して (詩題番號〇一)

作は一首たりとも收載されていない。第一 は張 の作のみを同じように列記するが、林用中の

孫である林希仲が刊行した『南嶽倡酬集』を の論攷に言うような、他の二種と同じく林用中の十一代の子 で紹介した王氏

點など、どこにも見出せない。これは明らかに別種の版本で 本としている あり、そのことは卷末に付せされた

出 朱 明らかである。 淮の後敍を讀めば 菴・張南軒二先生、其の

書・傳 後世の は皆な天下の 信する の なるも、南嶽の

に は一時の寄興

と 得たり」 。 至るまで凡て七日、嚢を倒にすれば詩百四十有九篇を れども南軒の 「唱酬の敍」 に云ふ、 「甲戌自り庚辰に ぎざるのみ。初 より亦た何ぞ世に關はらんや。然

はじめ

菴の 「

己未に至るまで凡て四日、 盡く 山後記」 に云ふ、 「丙辰自り

!

處の

"

詩を

#

に と。夫れ二先生の

$

す」

きなり。唱酬 を以てすら、此くの如く其れ久し 山川 と雄を爭ひ、 今 一の闕典に非ずや。 二先生の詩の文、 殆んど南山 ども衡の志 未だ載せず、衡の人士 未だ聞かず、豈に

!

處、此くの如く其れ多かるなり。而れ

%

木、 光影

して聞こえざるに

&

ほ存して、 吾が衡を 後るるも、 幸に二先生の書を讀み、 又た幸に二先生

'

ら使む可けんや。余の生まるるや

(

する の地に宦

とを願ふも、 す。仰止高山、執鞭を爲さんこ 舟 赴くに、 居 事 無し。 始 めて二先生の文集を□ (

)

して得 可からず。 乃 考績にて京に

このごろ

*

讀不能)

+

するを得て、 其の

謂 る唱酬

いはゆ

!

處の

"

作を

『南嶽倡酬集』 成 書攷(後 藤 )

(16)

摘して、共

あは

せて一帙を

し、以て其の初を

れば、亦た千古の一快なり。惟だ同 を誦し其の文を讀みて、二先生を見るが如くせ使しむ 無く、以て衡の故實に備へ、吾が衡の人をして其の詩 るること 詩は、 則ち皆な二 の林先生用中の

の載せざる

からざるなり。 其の にして、 今 考ふ可 ぶ時 大

を決して山に登るに、 紛集し、 二先生 策 之が爲 に霽 るるが

ため

其の事 集中に 載す。 余 □ ( きは、

讀不能) 堂を嶽廟の に爲 り、

つく

後の りに之が記を爲 りて、以て來世に詔 ぐ。

つく

ぶ 殆んど亦た 、斯の堂に登るや、斯の集を覩るや、南山

して高きが

三年、 一 五〇〇] 春三 くならん。 弘治庚申 [十 甲子、 賜

士 中 順大夫、 守 江

州府、吉水の

淮書 す

これに據れば、衡山に赴任していた 。

淮がその任期滿了を えて、改めて考課の爲に

に る舟の中、朱子・張

を繙き、南嶽 の集 なかった旨を記している。 張兩集に收められていない林用中の作品は載せることは出來 摘出し、 一 冊に纏めて 『 南嶽倡酬集』 に仕立て上げたが、 朱 ・ の時の作と思しき作品をそれぞれの集から

ち、この本は

淮が、

子一行の唱酬の作を、明代に 時の朱 行していた朱子・張

の別集 を基にして想像を逞しくしながら再

より南宋當時の原本ではない。 したものであり、固

淮はその傳記

、光 料に乏しく、 その出身地の地方志である、

!

元年刻 『 吉水縣志』 卷三十四

宦業

には、 「字は

"

#

十七年 [一四八一] の

士。

$

州府知府に

とあり、右の後敍に記された

%

官す」

&

書きの

とは記すが、それ以外の詳しい官

$

州府知府となったこ この後敍では 「幸に二先生

%

は記していない。ただ、

する

の地に宦

い、また「堂を嶽廟の す」 と云 に爲 り、

つく

て來世に詔 ぐ」と云い、

りに之が記を爲りて、以

$

州府知府となる

に任官していたことを窺わせる記 は湖南衡州の地

'

がある。實際、 、光

!

十一年重修『湖南

の條に、 志』を檢するに、卷九十九

名宦 八

表彰し、古人の風有り。 淮、吉水の人。宏治中、衡州府同知たりて、先哲を

$

州の守に擢 んでらる

ぬき

とあり、確かに 。

(

確 淮が湖南の衡州府同知となっていたことが 條には、南嶽廟の右にある「宋朱張

)

されるし、 、李元度撰『南嶽志』卷二十一

古蹟

霽堂」は明の

てたものであることを記し、 淮が建

*

せてその創建の經

+

を記した

霽堂記略」 を載せ、 これが後敍中の 「堂を嶽廟の

に爲

つく

中國詩文論叢 第二十四集

(17)

り、

りに之が記を爲 りて」に合

つく

し、上

ると、 保證するものとなっている。またその在任時期を檢討してみ 後敍の信憑性を 、乾 條に、 「 二十八年刊『衡州府志』卷二十二

名宦

の 淮、江西吉水の人、

ず」 とあり、 士。宏治二年 衡州同知に任 と 淮の衡州府同知 任は弘治二年 (一四八九)

明し、また民國十三年刊『續

南嶽志』卷一に載せる

淮撰「嶽廟定額

……弘治丁巳春二 記」には、

、 撫 廟宇 沈公 南嶽に事有り。

門樓の傾

し、

士廟 田土の

廢せるを

き、亟

すみや

かに一新せんと欲するも未だ暇あらず、……公 是に於て之を分守少參

公・分

僉 め、而うして下りて予に行はしむ。……

朱公に行はし

という文言があり、 弘治丁巳 (十年、 一四九七) にはまだ衡 州府同知の任に在ったことが確

される。

、乾

刊『 二十五年

州府志』に據れば、

淮の 年 (一四九九) であり、 衡州府同知の任期滿了を 州府知府 任は弘治十二

の爲に えて考課

に ったのはこの弘治十二年か或いはその

の時期に 察されるであろう。そして、この明刻本『南嶽倡酬集』はそ 年と推

淮の手によって再

申 [十三年、 一五〇〇] 以 に刊刻されたということになる。 され、後敍の書かれた弘治庚 しかし、ここで大きな疑問に

!

き當たる。

如く、この

"

で紹介した

淮は、その

#

四十年

の子孫の林果が、蟲喰いの殘本ではあるが、林家に に知湖廣襄陽府事となり、偶々その時に部下となった林用中 の天順四年[一四六〇]

ていた林用中の

$%

され

&

稿を基にして『南嶽倡酬集』を再

れを し、そ

淮に見せ序文の作

'

を依

(

した筈である。その

)*

で 淮は、 その林果再

であり、 『南嶽倡酬集』 を 「莊誦すること數日」

+

且つ 「吾 是の集を

今焉 を見るを得れば、 則ち未畢の願、 其れ

これ ,

ふこと、 蓋し亦た年有り。

という

-

に償ふのみ」

る」さなかに、林用中の作も含めて個人

*

その稿本を珍重していたのであれば、その「莊誦す

殘しておいても良さそうなものである。しかしこの

.

に手抄して手元に

淮の

い。とすれば、

'

る明刻本には林用中の作は一首たりとも收載されていな

/

らく當時の

を當てにして敢えて個人 淮は、林果による後日の刊刻 た

.

に手抄するまでもないと考えてい 手元に記

$

、林果の死により『南嶽倡酬集』の刊刻は果たされず、

0

もないことから、

し方無く手元にある朱子・張

1

の別集から摘

0

せざるを得なかったとも

中の作も含まれる貴重な『南嶽倡酬集』を目睹したことを後 れない。しかしそれならば、何故に嘗て林果と邂逅して林用

2

推できるかもし

『南嶽倡酬集』成書攷(後藤)

(18)

敍に記さないのか。また、

に げた 序」の末尾には「天順四年……知湖廣襄陽府事」と 淮の「南嶽唱酬集

ていたが、そもそも 名され 十七年[一四八一]に始めて 士に 第した 淮が、どうしてその

二十年 うか。天一閣臧明嘉 六〇]に襄陽府知府という相當に高い役職に就けるのであろ の天順四年[一四 刻本『衡州府志』卷六に載せる

略傳には「江西吉水の人。 士由り本府同知に陞 り、後に

のぼ

淮の

州府知府に陞る」とあり、 士

し、 第後に衡州府の同知に昇格 に 昇格の 州府知府に更に昇格した旨を記すからには、同知 にそのワンランク上の知府に就いていたというのは こうして 仄が合わないことになる。

淮の 得ないのである。ただ、林果の跋には「 知府となっていたということは相當に疑わしいと言わざるを を見て來ると、彼が天順四年に襄陽府

に寅長 序せんことを 公 の之に

ひ」とあり、上

の『

ら明刻本に收める 果の跋は信用せねばなるまいから (同時に複數の傍證の存在か 順中に於ける襄陽府同知在任を傍證するのならば、やはり林 州府志』が林果の天 淮の後敍も信用できる) 、 林果の跋に云う

の「

公」とは、

淮とは別の「

現存の 某」を指すことになり、

抄本に收められる該序の

名は後人によって竄入せ られたものと考える他無い。 とすれば、 そこに 「吉水の

の名を補入したのは 淮」

出の楊

では、林果が序文の執筆を依 ということになろうか。

した「

うか。 公」とは誰であろ 、光 十一年重修『襄陽府志』卷十九

の條を檢するに、天順年 代職官

府任官 の襄陽府知 (一四五七―一四六四)

の名は無く、 そ の

は景泰六年 (一四五五)

元亮の名が、 その後は 任の 元年 (一四六五)

任の于

を見てみると、 林果の が記されているだけである。ただ、同じ條の襄陽府同知の項 の名

はん

〇) の箇 任時期と思われる天順四年 (一四六 るのみであることから、この『襄陽府志』の記 には林果の名は無く、 代わりに 「于某」 と記され

漏があると見られ、因って先の襄陽府知府の記 自體にも疎 は置けない。一方、 『明實 にも餘り信 』の

宗實

卷二十 -

年九 元

!

の條には、 「湖廣襄陽府知府 于

俸一 九年の秩滿つ。 陞

"

、再任三年を命ず」とあり、

元年に於ける于

襄陽府知府就任は實は再任であり、その の にも九年

在ったことが 同職に では、その十年

#

明する。

の景泰六年に

に云う 任したのは『襄陽府志』

の「元亮」ではなくこの于

言えないらしい。この當時、襄陽では『襄陽郡志』という地 かというと、そうとも 中國詩文論叢 第二十四集

(19)

方志の

纂が に完 められており、 それが天順三年 (一四五九)

するが、 『稀見地方志提

ば、この書は 』 卷 十二上の當該條に據れ たとのことである (『襄陽郡志』自體は筆 が校正を行い、襄陽府知府の元亮と襄陽知縣の李儀が刊刻し 人の張恆の撰に係り、湖廣按察司副使の沈慶

。『明實 は未見)

宗實 』

卷二九九 -天順三年正

司僉事 沈慶の復任を命ず」 とあり、 の條には 「湖廣按察 陽縣志』卷五

職官

の條には、天順中に「李人儀」なる 、 同治十三年刊 『襄

が知縣に就任したことが記

『襄陽郡志』 に云う されており、この「李人儀」が の「 李 儀 」に ほ ぼ 相 當 し (

地方志提 らく 『稀見 』か 現 存 の『 襄 陽 郡 志 』 の 方 に

在ったことは これらの傍證の存在から天順三年に元亮が襄陽府知府の任に 、 りがあるのだろう)

いないと見て良さそうである。ならば

らかの事 順四年の知府は、引き續きこの元亮が擔當したか、或いは何 天 により于

う記 の天順四年の序文には「比 ごろ出でて襄陽に守たるに」とい

この

が交代したかのどちらかであろう。件 于 があり、どちらかと言えばやはり後から知府となった の方の可能性が高いか。因みに、この二人の傳記

更に乏しく、 現 在の 料は 永樂の 、 元 亮は湯陰 の人で (河南省湯陰縣)

士 ( 、 孫 奇逢 『中州人物考』 等 による) 、于

は嘉善 の人で正統七年 の (浙江省嘉善縣) (一四四二)

士 ( 、光

十八年刊『嘉善縣志』等による)

度しか

べが付かない。

この二人の姓はどちらも「 、

」ではないが、

序に云う如く、 崇 の余文龍の 四年 (一六三一) に林用中の故

古田で楊 である

となっていたのであり、ならば が手にした『南嶽倡酬集』は已に「殘斷蠧 」

ざんだんとしよく

ももしかしたら 淮撰と改竄された件の序文 々蟲喰いとなっていて、 「

公 」の「

の部分も 」

序の撰

!

讀不能であった可能性は否めず、それならば件の

は右の元亮・于

ただ、 であろう。 のどちらかに擬定することも可能

"

にもし「

公」の部分に

の「 りがないとしたら、こ 公」とは

#

の 秀を指すのかも知れない。

秀の傳記

料も乏しく、 安

$

(江西省安

四) の

$

の人で正統九年 縣) (一四四 士 ( 、 同 治十一年刊 『安

$

縣志』 による) という斷片

%

な 報が基礎

料となるのみであるが、 『明實

に、

宗實 』を 繙 く

卷三二八 (一四六一) 五 -天順五年

「南京浙江 の條に

&

監察御史

とあり、天順四年の 秀を陞 して湖廣按察司僉事と爲し……」

のぼ

年で

上の「湖廣按察司僉事」という 且つ襄陽府知府よりワンランク

'

干の かに當時襄陽府同知となっていた林果の上役に いはあるものの、確

姓の が就

『南嶽倡酬集』成書攷(後藤)

参照

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