慶長の役における巨済島海戦に関する豊臣秀吉発給 文書について
その他のタイトル The Letter from Toyotomi Hideyoshi about the Naval battle of Geojedo in Keityo War
著者 三好 俊
雑誌名 史泉
巻 122
ページ 34‑42
発行年 2015‑07‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00023629
文禄
・慶 長 の 役に 関 し て は︑ 池内 宏
﹃文 禄 慶長 の 役 正 編 第 一
﹄﹃ 文
︵!
︶
︵"
︶
禄 慶長 の役 別編 第一
﹄や 参謀 本部 編﹃ 日本 戦史 朝鮮 役﹄ など 戦前 より
︵#
︶
︵$
︶
の 研究 を嚆 矢と し︑ その 後も 北島 万次 氏や 中野 等氏 らに よっ て多 くの 研 究成 果が 蓄積 され てい る︒ しか し︑ その 北島 氏に よっ て﹁ 実証 全体 と し ては ほ と ん どが 第 一 次侵 略 の 時点 で と ど まっ て お り︑
︵中 略
︶い
︵%
︶
ま だに 埋も れた 史実 がか なり ある
﹂と の指 摘が 出さ れる 他︑ 中野 氏も
﹁ 個々 の 大名 が 具 体 的に ど の よう な 作 戦・ 軍事 行 動 を とっ た の かを 確
︵&
︶
定 する 作業 は依 然不 可欠
﹂と 述べ てお り︑ 依然 文禄
・慶 長の 役︑ 特に 後 者に おけ る日 本側 諸将 の詳 細な 動向 解明 が課 題で ある と言 える
︒ その 慶長 の役 の中 でも
︑慶 長二 年︵ 一五 九七
︶七 月に 起こ った
﹁巨 済 島 海戦
﹂︵
﹁ 漆 川梁 海 戦
﹂﹁ 唐 島の 戦 い﹂ と も呼 称 さ れ る︶ は 文 禄・ 慶 長の 役に おけ る最 大規 模の 海戦 の一 つと して 数え られ
︑日 本水 軍が 朝 鮮水 軍を 破っ た唯 一の もの とし て重 要性 を持 つ︒ 慶長 の役 開戦 間も な い︑ 慶長 二年 七月 一五 日︑ 朝鮮 の忠 清・ 全羅
・慶 尚三 道水 軍統 制使 で ある 元均 率い る水 軍が
︑日 本軍 の前 線基 地で ある 巨済 島と 漆川 島の 間 にあ る漆 川梁 に停 泊し てい た︒ この 情報 を得 た日 本軍 は水 陸か ら挟 撃 する 作戦 をた て︑ 一六 日の 明け 方よ り藤 堂高 虎ら の水 軍は 海上 から 攻 撃し
︑陸 上部 隊が これ を援 護し た︒ 戦い は日 本水 軍が 朝鮮 水軍 を圧
倒 し︑ 朝鮮 側の 主将 のう ち元 均︑ 李億 祺︑ 崔湖 は戦 死し
︑一 人裴 楔の み が逃 走し た︒ そし て︑ この 海戦 の結 果︑ 日本 軍は 制海 権を 掌握 する に 至っ た︒ し か し︑ こ の 海 戦 に 関 し て も 先 述 の 北 島
・中 野 両 氏 の 指 摘 の よ う に
︑細 かな 動向 まで 把握 され てい ると は言 い難 い︒ この こと に関 して は
︑李 敏雄 氏よ りも
﹁既 存の 研究 成果 はほ とん どな く︑ これ まで 等閑 視 され て きた
﹂﹁ 基 本 的 な経 過 な ど事 実 の 当否 も 把 握 され て い ない 状 況
﹂と の問 題提 起が なさ れ︑ 同氏 によ って 主に 朝鮮 側の 史料 を用 い戦
︵'
︶
い の経 緯や
︑結 果と 原因 につ いて の整 理が なさ れた
︒こ の李 氏の 研究 以 後は 津野 倫明 氏に より
︑当 海戦 に関 する 注進 状の 分析 がな され
︑軍
︵(
︶
目 付の 注進 の様 子や 豊臣 秀吉 によ る論 功行 賞に つい て明 らか にさ れた も のの
︑研 究は 緒に 就い たば かり であ り︑ 今後 も関 係史 料の 収集
・分 析 が必 要と なる だろ う︒ さて
︑関 西大 学図 書館 には
︑こ の巨 済島 海戦 に関 する 豊臣 秀吉 発給 文 書が 所蔵 され てい る︒ それ が以 下に あげ る︵ 慶長 二年
︶八 月九 日付 豊 臣秀 吉書 状で ある
︒
︿資 料
﹀
慶 長 の 役 に お け る 巨 済 島 海 戦 に 関 す る 豊 臣 秀 吉 発 給 文 書 に つ い て
三 好
俊
― 34 ―
〔図版〕
「(慶長 2 年)8 月 9 日付豊臣秀吉書状」写真
― 35 ―
︵!
︶
豊臣 秀吉 書状
二 五・ 五㎝
×八 三・
〇㎝ 七月 十六 日之 注進 状今 日九 日到 来︑ 加二
披見
一
候︑ 一
︑今 度 番舟 唐 嶋 ニ 在レ
之
︑釜 山 海表 へ 切 々罷 出
︑日 本 之 通 路 さ
︵ 島 津 義 弘
︶
し ゆ く の 處
︑各 以 談 合 上 は︑ 十 五 日 夜 羽 柴薩 摩 侍 従・ 嶋 津
︵ 忠 恒
︶
︵ 行 長
︶
︵ 高 虎
︶
︵ 嘉 明
︶
︵ 安 治
︶
又 八郎
・小 西摂 津守
・藤 堂佐 渡守
・加 藤左 馬助
・脇 坂中 務輔 相 動︑ 従二
番船 百六 拾余 艘一
切 捕︑ 唐人 数千 人伐 捨︑ 其外 海へ 追 はめ
︑并 先々 津々 浦々 十五 六里 間之 舟共 悉焼 捨候 由︑ 手柄 無二
比 類一
儀 ニ候
︑向 後迄 之番 船之 根切 仕候 事︑ 御感 なの めな
︹ 不 欠ヵ
︺
ら す 候
︑依
レ
之 右 六 人 か た へ 被レ
成二
御 朱 印一
候 旨︑ 可二
相 違一
候
︑猶 帰朝 之刻 可レ
被レ
加二
御 褒美
一
旨可
二
申 聞一
候 事︑ 一
︑各 以相 談上
︑釜 山海 ニ残 置候 衆之 事︑ 尤分 別ニ 候︑ 以来 もぬ け かけ 之動 不レ
可レ
然 候間
︑舟 合丈 夫ニ 可二
相動
一
候︑ 右之 衆へ も 被レ
成二
御 朱印
一
候 事︑
︹者 ヵ
︺
一
︑赤 國先 々相 動付 は︑ 為二
通路
一
倭城 申付 人数 残置 候□
︑動 之人 数 可レ
為二
無 人一
候 之 間︑ 無 用候
︑切 々 注 進 無レ
之 候 て も
︑不
レ
︵ 長 盛
︶
苦 候条
︑日 々動 付置
︑一 度ニ 可レ
令レ
注│ 二
進 之一
候
︑猶 増田 右衛
︵ 三 成
︶
︵ 正 家
︶
尉
・石 田治 部少 輔・ 長束 大蔵 太輔 可レ
申候 也
︵ 慶 長 二 年
︶
︵ 豊 臣
︶
八月 九日
秀 吉︵ 花押
︶
︵ 直 盛
︶
熊谷 内蔵 丞と のへ
︵ 長 政
︶
早川 主馬 頭と のへ
︵ 竹 中 隆 重
︶
竹内 源介 との へ
︵ 一 直
︶
垣見 和泉 守と のへ
︵ 高 政
・ 友 重
︶
毛利 民部 大輔 との へ
︵ 一 吉
︶
太田 飛騨 守と のへ
︵ 長 堯
︶
福原 右馬 助と のへ 宛先 の︑ 熊谷 直盛 以下 七名 は︑ 慶長 の役 に際 して
︑秀 吉が 戦闘 の経
︵"
︶
緯 を 報告 さ せ る ため に 任 命し た 軍 目付 で あ る︒ 秀 吉は
︑﹁ 諸 事 かう ら い ニ ての 様 体
︑七 人 より 御 注 進申 上 儀︑ 正 意ニ さ せ ら るへ き 旨
︑被
二
仰 聞一
候﹂ と 述べ て い る よう に 軍 目付 の 注 進こ そ を 正 しい も の とす る と して おり
︑ま た 起請 文も 提出 させ たう えで
︑﹁ 諸事 有様 之体 可二
申上
一
︵#
︶
旨
﹂を 命じ てい た︒ 当初 は︑ 釜山 倭城 在番 の小 早川 秀秋 の軍 目付 とし て 太 田一 吉
︑﹁ 先 手﹂ の 軍目 付 と して 毛 利 重政
・竹 中 隆 重
・垣 見 一 直
︵$
︶
・ 毛利 友重
・早 川長 政・ 熊谷 直盛 が任 命さ れた が︑ 後に 毛利 重政 が慶 長 二年 五月 に朝 鮮で 病死 した ため
︑釜 山倭 城の 秀秋 の軍 目付 とし て福
︵%
︶
原 長堯 が任 命さ れ︑ 一吉 が﹁ 先手
﹂の 軍目 付に 変更 され た︒ 軍目 付が
︵&
︶
渡 海諸 将に つけ られ る体 制は
﹁慶 長の 役に おけ る大 きな 特徴
﹂と され
︵'
︶
て おり
︑戦 果を 証明 する 鼻請 取状 発給 が役 割と して 確認 され る︒ 本史 料に
︑年 号は 記さ れて いな いが
︑彼 ら軍 目付 の活 動が 見ら れる こ とか ら︑ 慶長 年間 のも ので ある こと
︑さ らに 内容 より 慶長 の役 開戦
︵(
︶
時 に立 てら れた 当面 の目 標で ある 朝鮮 の全 羅道
︵赤 国︶ 侵攻 が言 及さ れ てい るこ とか ら︑ 開戦 直後 の慶 長二 年に 比定 でき る︒ 文中 に は︑
﹁ 可二
相 違一
候﹂ や竹 中 源 介隆 重 を﹁ 竹 内 源 介
﹂と 表 記 す る
︵傍 線部
︶な ど︑ 不自 然な 表現 や誤 りが 見ら れる が︑ これ は後 述す る よう に類 似の 文言 を持 つ史 料が これ まで 多数 確認 され てお り︑ 複数 の 文書 を書 き写 す中 で誤 写さ れた もの と考 えら れる
︒ で は︑ 具 体 的 な 内 容 の 検 討 に 移 り た い
︒本 文 は
︑三 箇 条 構 成 の た め
︑一 箇条 ずつ 取り 上げ てい く︒
― 36 ―
一条 目で は︑ 実際 の戦 闘に おけ る諸 将の 働き と︑ それ に対 する 恩賞 に つ いて 述 べ ら れて い る︒
﹁ 番舟
﹂と は 敵 の水 軍 を 指 し︑ これ が 巨 済 島
︵﹁ 唐嶋
﹂︶ を 拠点 とし て釜 山近 海に しば しば 出没 する ため
︑日 本側 の 拠 点で あ る 釜 山 倭 城 へ の 通 船 が 不 安 定 な 状 況 で あ っ た
︒こ れ に 対 し
︑日 本軍 は談 合の 上で
︑島 津義 弘・ 島津 忠恒
・小 西行 長・ 藤堂 高虎
・ 加藤 嘉明
・脇 坂安 治が 出撃 し︑ 番船 一六
〇余 隻を 切捕 り︑ 唐人 数千 人 を討 ち取 り︑ その 他大 勢を 海へ 追い 落と し︑ 一五
︑六 里に わた って 敵 船を 焼却 した
︒そ の働 きに より
︑彼 ら五 人に は朱 印状 と︑ 帰国 の際 に は褒 美が 渡さ れる
︒以 上が
︑一 条目 の内 容で ある が︑ 記載 され てい
︵!
︶
︵"
︶
る 諸将 へ対 する 朱印 状は 複数 現存 して おり
︑島 津義 弘・ 島津 忠恒
・藤
︵#
︶
︵$
︶
堂 高虎
・加 藤嘉 明宛 のも のが これ まで 確認 され てい る︒ これ ら四 通は い ずれ もほ ぼ同 じ文 面で ある ため
︑一 例と して
︑島 津義 弘宛 のも のを 挙 げる
︒ 七 月十 六日 注進 状︑ 今日 九日 到来
︑加
二
被 見一
候
︑今 度番 舩唐 嶋ニ 有レ
之而
︑釜 山 海 表 へ切 々 取 出︑ 日本 通 路 相支 候 處︑ 去 十 五 日 夜 相 動︑ 番 舩百 六 十 余 艘伐 捕
︑唐 人 数千 人 伐 捨︑ 其外 海 へ 追 は め
︑ '先 々 津々 浦々 一五 六里 之間 之舩 共悉 焼捨 由︑ 手柄 之段 無二
比類
一
候
︑以 来 迄番 舟根 切仕 候事
︑御 感不
レ
斜候
︑何 も 帰朝 之刻
︑可
レ
被レ
︵ 前 田 玄 以
︶
︵ 長 盛
︶
︵ 三 成
︶
︵ 正 家
︶
加二
御 褒美
一
候︑ 猶徳 善院
︑増 田 右衛 門尉
︑石 田治 部少 輔︑ 長 束大 蔵太 輔 可レ
申候 也︑
︵ 慶 長 二 年
︶
八 月九 日
○︵ 秀吉 朱印
︶
︵ 島 津 義 弘
︶
羽柴 薩摩 侍従 との へ 具 体的 な戦 功の 表記 が酷 似し てい るこ とか ら︑ 諸将 への 朱印 状と 本稿 で 取り 上げ てい る目 付宛 ての 書状 は︑ 同じ 報告 を基 にし て書 かれ たも
の と想 定で きる
︒そ の基 にな る報 告を 示す 史料 とさ れる のが 次の 注進 状 であ る︒ 急 度奉
レ
致二
言上
一
候
︑ 一
︑番 船 唐島 を 居 所 ニ仕
︑日 々 罷 出︑ 日本 之 通 船渡 海 一 切 不二
罷 成一
ニ付 て
︑五 人 之 もの 共 申 合︑ 唐島 え 押 寄︑ 明 昨 日 十 五 日 夜 半 よ り 明 未 之 刻 迄 相 戦︑ 番 船 百 六 十 余 艘 切 取
︑其 外 津 々 浦 々 十五 六 里 之 間︑ ふね 共 不レ
残 焼 棄 申︑ 唐人 数 千 人 海 へ 追 は め︑ 切 捨申 候
︑猶 此 表 之様 子
︑従
二
御 奉 行 衆一
可レ
被レ
遂二
言 上一
之 条︑ 不レ
及二
申 上一
候
︑右 宣二
御披 露一
仰 候︑ 恐々 謹言
︑
︵ 慶 長 二 年
︶
︵ 行 長
︶
七 月十 六日
小 西摂 津守
︵ 高 虎
︶
藤 堂佐 渡守
︵ 安 治
︶
脇 坂中 務少 輔
︵ 忠 恒
︶
島 津又 八郎
︵ 島 津 義 弘
︶
羽 柴兵 庫頭
︵ 前 田 玄 以
︶
徳 善院
︵ 長 盛
︶
増 田右 衛門 尉殿
︵ 三 成
︶
石 田治 部少 輔殿
︵ 正 家
︶
︵%
︶
長 束大 蔵少 輔殿
︵&
︶
津 野 氏に よ る と︑ 右 の史 料 中 の﹁ 御奉 行 衆﹂ は 軍目 付 を 指 して お り
︑ 活 躍の 諸将 から の注 進と は別 に︑ 軍目 付か らの 注進 もな され てい たこ と がわ かる
︒そ して
︑そ の二 種の 注進 の文 言を その まま なぞ るよ うな 形 で︑ 大坂 の秀 吉か ら︑ 各武 将に は褒 賞を 示す 朱印 状が
︑軍 目付 に対 し ては 彼ら の目 付と して の活 動に 対す る返 答と して の書 状が
︑そ れぞ れ に発 給さ れて いた と考 えら れる
︒