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『鄭良弼本 歴代宝案』 再考

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(1)

著者 池谷 望子, 内田 晶子

出版者 法政大学沖縄文化研究所

雑誌名 沖縄文化研究

巻 39

ページ 71‑126

発行年 2013‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00008871

(2)

﹃ 鄭

良 弼

歴 代

宝 案

一︑ はじ めに

考 再

内 池

1 1 1  

望 品

昭和十三年五月のある日︑伸明山重氏が目録を手にして︑本郷の古書庖弘文荘を訪れたのは朝の七時

半であった︒横山氏はその前目︑庖主の反町氏から目録の最新号を発送した︑という速達葉書を特別

に受け取っていたので︑目録の到着を今や遅しと待って駆けつけたのである︒そのため﹁折口博士︑

栗田・秋山両教授︑東洋文庫﹂等々︑殺到した買手に先んじたのであった︒

今︑ この 目録 を見 れば

(加)琉球歴代費案写本全二十冊金百八十回

子 子

歴代宝案』再考

r鄭良弼本

71 

(3)

とあり︑反町茂雄氏の解題がある︒﹁琉球と支那との聞に取り交はした公文書翰の集成で:・比類少い

貴重な文献﹂との表現は適切であるものの︑収脅文書の各年代別の数(たとえば﹁嘉鹿中のもの三十

一一

﹂の よう に) を除 けば

︑こ の文 は全 体に 哩昧 で要 領を 得な い︒

昭和十三年という時期を考えれば︑それはもっともなことで︑歴代宝案の名前はともかく︑全体の

構成や具体的な内容を知る人は限られていた︒この特殊な写本の紹介をするのは燥しかったと忠われ

那朋久米村の天妃宮にあった宝案の原抄本の応は︑廃藩悶県のころより所布が隠されて︑久米村の る ︒

いくつかの旧家を転々とし︑附和六年ごろ波の上の天尊刷に週ばれた︒

‑ U

袋全殺氏の斡旋により久米

村の長老会識を経て︑真境名安興氏が館長を勤める沖縄県立図書館に移管されたのが︑昭和八年十一

月で

ある

このことは弘文荘目録に﹃琉球歴代質案﹄が出現する時期にも関連があるだろう︒つまり原所有者

の手から︑この写本(以下︑﹁鄭本歴代宝案﹂と略称する)が離れたのは昭和九年より後であろう︒

今︑﹁鄭本歴代宝案﹂は二つの映に入り︑献の左一回の室に﹁硫球雁代賀案乾(坤)﹂とあるが︑中

身の二十冊には旭道も内題もなく︑文書のみで成り立つ︒﹁琉球(歴代)賀案﹂という呼称は︑昭和

八年の県立図書館への移官を報ずる﹁沖縄日報いの中で用いられたことがあるが︑品袋全授氏がただ

ちに﹁文書の名は正しくは﹁歴代賀案﹄です﹂と巾し入れ︑以後紙上でも一般にも﹁質案﹂または﹁歴

(4)

代費 案﹂ の呼 称が 用い られ るよ うに なっ た︒

さて︑反町弘文荘の目録の宝案の次の頁にある﹃琉球官話集﹄のことであるが︑こちらは天理大学

が買 手と なっ た︒

﹃天 理大 学図 書館 稀番 目録

﹄に は︑ {疏 球官 話集

︺写 本一 冊( 中略

﹀題 接な し外 題左 肩﹁ 官話 集﹂ (以 下略 )

とある︒つまりこの写本自体に﹁琉球﹂の文字はついておらず︑目録の凡例によれば︑︹︺内の標

記は 盤理 の都 合上

︑図 密館 また は第 三者 が記 した もの であ る︒ 宮良 世枇 氏に よる この 写本

﹃官 話集

﹄に 閲す る研 究が ある

︒氏 の全 焼の 第十 巻は 官話 相棋 の写 本全 頁

の写真と翻刻および注にあてられている︒以下︑写本の写真と富良首世氏の解説を参考にして︑官話

相指 が﹁ 鄭本 歴代 宝案

﹂と 関連 する とこ ろを 述べ てみ る︒ 写本 左一 両に

﹁官 話集

﹂︑ 右下 に﹁ 敦厚 堂﹂

﹁鄭 干英

﹂の 墨書 があ る︒ 本文 巻頭 右下 に﹁ 敦厚 堂﹂ の印 (陰 刻︑ 五分 の方 印﹀ およ びそ れよ りや や小 ぷり の﹁ 鄭之 印﹂ (方 印)

︑そ のほ か巻 頭に

﹁わ たや のほ ん﹂ の長 印( これ は天 理教 教主 中山 家の 屋号 綿屋 にも とづ く天 理の 蔵書 印﹀

︑巻 末に 反町 弘文 誌の

﹁月 明荘

の印

があ

る︒

とこ ろで

︑﹁ 榔本 歴代 宝案

﹂に ある 膿措 印は

開l敦

弼 堂良原

臓珍

歴代宝案』再考

『鄭良弼本 73 

(5)

という朱印で︑敦厚堂という室名が同じである︒官話集の表紙に盟聾しである鄭干英については︑宮

良賞世氏も特定できていない︒なお宮良氏はこの写本の成立時期を確定するに至っていないが︑甑戸

口鶴子氏は﹁国学が開設された(嘉鹿三年一七九八)後に各(官話)課本から寄せ集めた感がある﹂

(括

弧内

は引

用者

)と

して

いる

︒ 一方

︑﹁ 鄭本 歴代 宝案

﹂の 成立 につ いて は後 述す るが

︑筆 者ら はお およ そ嘉 鹿十

i

十七 年ご ろと

想定

して

いる

﹁官話集﹂と﹁鄭本歴代宝案﹂の両写本は︑久米村に所属する一つの家に所蔵されていて︑それら

が揃 って 同時 に東 京に 現わ れた ので ある

昭和二十四年九月から二十五年二月にかけて︑東京大学史料編集所は︑横山霊氏所蔵のこの本を筆

写し た︒ 当時 の田 中健 夫助 教授 が校 訂し たこ とが 後記 にあ る︒

昭和四十二年︑和田久徳・白石晶子による﹁鄭良弼本(横山里氏蹴}歴代宝案内容目録﹂が出た︒

この内容目録をまとめる作業に本稿の著者の一人が参加したので︑この内容目録に閲して以下の問題

点を

指摘

した

い︒

まず 第一 に︑

﹁邸 本歴 代宝 案﹂ の文 脅を 台湾 本と 対比 させ て︑ 台湾 本の ど己 にあ るか を示 した 部分 に︑

誤りが多い︒台湾大学が台湾本の膨印を刊行したのは︑これより五年のちのことであり(民国六十一

(6)

年)

︑当 時は マイ クロ フィ ルム で見 てい たた めで もあ る︒

さらにこの目録は前述の史料編纂所の筆写本の写真で作成したため︑今︑原本を見れば衝撃的なほ

どの印象を受ける各冊の書背に墨書された﹁鄭崇基﹂の文字がなかった︒そのため鄭良弼の蔵書印か

ら編者を鄭良弼と推定し︑良弼の伝記を簡記するに至った︒しかし実はこの本は︑鄭崇基(良弼の父)

が編 集し たも のと 思わ れる

昭和四十八年から五十一年の聞に︑横山重氏蔵の赤木文庫中の沖縄関係史料は︑法政大学沖縄文化

研究所に譲渡された︒﹃琉球歴代賀案﹄(乾・坤)各十冊は︑昭和五十五年に横山重氏が没した後︑夫

人に よっ て同 研究 所に 省贈 され た︒ 生前 の横 山氏 はこ の写 本を 愛し

︑﹁

・: 慶長 元和 以後 の写 本類 で字 のい いの が少 ない :・ そこ へ行 くと

支那人の文字は近世のものでもいい・:歴代宝案は久米村の支那人の書いたものだが︑いい字だ︒(引

用者記︑ここで昭和八年︑天妃宮より宝案︑か世に出たことに触れた後)宝案の一部分が︑今度︑新し

く支 那系 統の 家か ら出 てき た・ :こ れこ そ︑ 私の 文庫 の︑ いち ばん の 逸品 であ る﹂ と述 べて いる

平成元年︑沖縄県立図書館史料編集室が︑﹁歴代宝案﹂の校訂本・訳注本刊行の事業を開始してか

ら今に至るまで︑﹁鄭本歴代宝案﹂は校訂作業の中で大いに利用されている︒台湾本の嘉鹿年聞の文

書は欠損が多いが︑鄭本はよくそれらを補った︒台湾本の欠巻(一

O

三巻 )の 復元 にも 貢献 した

しかしながら︑この写本中には︑実際に発出された文書の写しではなく︑推敵中の草稿と思われる

際代~案」再考

『鄭良弼本 75 

(7)

文書や︑当該文書の成立あるいは受領後まもなく記されたと推定される密入れがついたものがあり︑

鄭本は前述の天妃宮旧蔵の腫代宝案︿台湾本など他の緒本の原本︒以下では県立国脅館本と略称する)

よりも古い写本︑または別本から抄写されたと考えられる︒そのほか河口通事筆者の退臓屈と後任者

の推蹄状等々︑歴代宝案の担暗に入らない文世も含む︒

そこでここに︑一つの写本として﹁鄭本歴代宝案﹂の全体像と︑その性格を再考してみる意義もあ

ると 思わ れる

︻ 注 ︼

(l

﹀﹃

弘文

荘待

岡県

古密

︿2

)

繊山盟﹃積物娘紫﹄上巻︿角川脅底

( 3

安里延﹃日本南方発展史) 第

十一

波﹄

(昭

和十

三年

五月

十日

発行

東京・本郷

弘文

荘 沖縄

海洋 発風 呂( 三省 堂

︿4

)

小菜 園滞

﹃歴 代宝 案に つい て﹂ (﹃ 阪地 代宝 案研 究﹄ 剖刊 号

昭和

五十

三年

)‑

八六

O

昭和

十三

年九

月執

筆の

文獄

昭和

十六

年)

五一

五頁

沖縄

県立

岡術

一九

O

年三

月)

一‑

一l四

. R

︿5

)

惜宙

開岬

が写

本な

どを

扱う

とき

︑般

を銚

え題

笈を

惜御

家に

働か

せる

︑と

いう

こと

は皆

過に

あっ

たら

しい

︒反

町茂

雄 コ古 密閉 の思 い出

2﹄

(平

凡社

一九

八六

年)

三七

七貰

︿6﹀﹁﹃歴代宝案﹄の県立図書館移管時の新聞記事︿昭和八年)﹂︿﹃歴代宝案研究﹄創刊号神縄県立図脅館

九九

O

三月

)七

四頁

(8)

( 7 ) 宮良 岱世

﹃宮 良賞 舵全 集叩

﹄( 第一 番一 房

昭和

五十

六年

三と

の巻

の原

稿は

︑昭

和二

十一

年ご

ろに

脅か

れた

( 8

)

瀬戸口律子吋琉球官話課本の研究﹄︿熔樹書林二O

一一

年)

二四

二頁

( 9

)

和田久徳・白石品子﹁鄭良弼本(様山霊氏蔵)歴代宝案内容目録﹂(﹁お茶の水女子大学人文科学紀要三十巻﹄

昭和

四十

二年

)︒

(叩)外聞守善﹁尚侯爵家守御蔵本目録﹄について﹂(法政大学沖縄文化研究所﹃沖縄研究資料

御蔵 本目 録﹄

一九

八三

年 一頁

﹁ま えが

きl赤木文廊について﹂)

(日

)鎖

山重

︑前

掲書

一九

五頁

一一︑﹁鄭本暦代宝案﹂の体裁について

本書は二十冊からなる手抄本である︒各冊の大きさは︑およそ縦二十三・五センチ︑横十三・五セ

ンチ

︒四 つ目 綴︒ 表紙 は数 枚の 紙を 張り 重ね

︑柿 渋を ひい たと みら れ︑ 褐色 を呈 する

︒第 四冊 を除 いて

各冊の表紙の左上部に﹁歴代賀案﹂︑その下方にやや小さく﹁共廿本﹂と単一書︑また古背の上部に﹁鄭

崇幕

﹂︑ 中央 部に

﹁共 廿本

﹂( 第二 冊は

﹁共 二十 本﹂ )と 墨書 する

一部の冊を除き︑扉の初頁の右下に﹁敦厚堂/鄭良弼/競珍﹂と朱で捺印(以下︑印と略称)︑ま

た同じ買に所収文書の繋年や注記を行書で羅列した目次様の記載(以下︑目次と略称)がある︒

康代~-K~結」丙考

「鄭良弼本 77 

(9)

本文は一部を除き︑半葉につき毎一行十六字で八行︑一文書毎に葉を改めている︒筆跡は檀数が認

められ︑長大な文書では中間で筆跡が変わっていることがある︒

なお各冊の最終頁左下に弘文荘書庖の﹁月明荘﹂の朱印がある︒

以下 に各 冊の 体裁 と特 徴を 記す

第一冊印・目次あり︒目次の繋年は所収文書と一致する︒本文は四十一葉︒

第二冊表紙右上より﹁尚質謹奏柔遠駅事﹂と朱書されているが︑これは第七問(一四)文書の内

容に当たる︒印・目次あり︒目次は訂正・書き直しがあり︑(一七)文書を除き所収文書と一致︒本

文は

五十

三葉

表紙の題字右下に﹁奏﹂と朱書があるが︑収録文脅に奏はない︒奏は第十七聞の所収であ ︒

る︒ 印・ 目次 あり

︒目 次は 訂正

・書 き直 しが あり

︑訂 正後 の内 容は 所収 文書 と一 致す る︒ 本文 は六 十葉

第四冊表紙右上端より﹁嘉慶拾玖年/傍駅通事/菓﹂と朱書されていて︑所収の(一)(二)文

書と一致する︒その他には︑表紙・甫背ともに文字の記載はない︒この冊は遊び紙がなく︑前表紙の

見返しに目次を記し︑印はない︒目次は四文書分を欠くが︑その他は一致する︒本文は七十七葉︒

( 一

) 1

(

八) 文書 は半 葉に つ き毎 一行 十九 字で 八行

︑( 一九

)1(

二四)文書は毎一行十六字で

八行

︒(

一五

) 1

(

八) 文書 は文 書毎 に葉 を改 めず に︑ 続け 書き され てい る︒

なお第四節でも解説するように︑第四冊は体裁や文書の収録方法ばかりでなく︑文書の内容や種類︑ 第三冊

(10)

大部分に訓点等が施されていることなど︑他の冊と大きく異なる特徴があり︑ぞれが何に由るものか︑

さら に研 究す る必 要が ある

印・目次あり︒目次は所収内容と一致する︒本文は六十二葉︒

表紙の題字の下に﹁表﹂と朱書し︑所収内容と一致する︒印・目次あり︒目次はおおむね

所収 と一 致す る︒ 本文 は四 十一 葉︒

第七冊表紙の右上部に朱書の痕跡がみられるが︑判読不能︒印・目次あり︒目次は所収文書と一

致す る︒ 本文 は五 十三 葉︒

第五冊

第六冊

書背の文字は消えかけていて︑かつ形に大きな乱れがある︒印・目次あり︒目次は所収文

書とほとんど一致せず︑年号と配列順は第十冊のさ己

1(

九)文書と一致し︑元来は第十聞の目次

と推 測さ れる

︒本 文は 二十 七葉

印・目次あり︒目次は(一)文書以外は所収文書と一致する︒本文は六十集︒

扉の遊び紙がなく︑印・目次なし︒本文は七十二葉︒

印・目次あり︒目次は所収文書と一致︒本文は五十九葉︒

印・目次あり︒目次は書き誤りとみられる一ケ所を除き︑所収文書と一致︒本文は六十 第八冊

第九冊

第十冊

第十一冊

第十二冊四

葉︒

第十三冊表紙は比較的新しいようにみえる︒印・目次あり︒目次は書き直してあり︑訂正後は所

歴代宝案』再考

『鄭良弼本 19 

(11)

収の(二文書と一致︒本文は三十五葉︒

第十四冊印・目次あり︒目次は所収文書と一致︒本文は七十八葉︒

第十五冊表紙の右上より﹃口論藩主効為口口/一補貢﹂と朱書する︒書背の文字は大きく乱れて

いて︑書背の左側に文字の右端部分︑右側に左端部分がみえる︒本の前後とも哩ひ紙がなく︑印・目

次はない︒本文二十葉︒所収文書の内容は表紙の朱書のそれとは一致していないと思われる︒

第十 六冊 書背 の文 字に 乱れ があ り︑ 右側 に文 字の 左半 分が みえ る︒ 本の 前後 とも 遊び 紙が なく

︑印

・ 目次 はな い︒ 本文 は十 七葉

第十七冊印はあるが︑目次は記されていない︒本文は五十九葉︒

第十八冊印・目次あり︒目次は所収文書と一致︒本文は七十三葉︒

第十九冊表紙上部中央に﹁柔連駅葺修一件﹂と墨書し︑所収文書の内容と一致する︒印・目次あ

り︒ 目次 は所 収文 書と 一致

︒本 文は 八十 葉︒

第二十冊前表紙につづく遊び紙が二葉あり︑その二葉目に印・目次がある︒目次は所収文書と一

致︒ 本文 は七 十七 葉︒

三︑鄭崇基・良弼父子と﹁鄭本歴代宝案﹂の成立・継承について

(12)

鄭崇基・良弼の経歴

﹁鄭本歴代宝案﹂の編纂者とその継承者と推定される鄭崇基・良弼父子の業績に閲する主な資料は

家譜であるが︑そのほか各人の渡唐について︑﹃歴代買案校訂本﹄(沖縄県教育委員会発行︑以下で

は﹁歴代宝案校訂本﹂または校訂本と略称する)などに関連史料があり︑また鄭良弼については道光

末年の外国艦船来琉時の関係資料が残っている︒

鄭崇基は︑乾隆二十三年(一七五八)に生まれ︑道光八年(一八二八)に没する︒久米村鄭氏(初

代は築許)八世︑真栄里親方︑官は紫金大夫に限る︒父は紫金大夫︑世名城親方鄭作訴(一七三七3

一 八

O

八)

であ

る︒

乾隆 四十 九年 (一 七八 四) に二 十六 歳で 通事 とな り︑ 三十 歳で 黄冠 に限 る︒ 一二 十=

1

二一

十六

歳ご

ろ︑

王命により足かけ四年福州へ留学し︑その聞に進貢使に随行して上京も経験し︑乾隆六十年(一七九

五) 馬艦 通事 とし て州 国し た︒

帰国後の約五年聞の鄭崇基の動静については︑{系譜にまったく記事がなく不明である︒そして嘉麗

六年(一八

O

一) 四十 二歳 のと き︑ 理由 は不 詳で ある が久 米島 へ流 罪と なり

︑同 十年 尚瀬 即位 の山 甲山 赦

により帰郷する︒なお︑このとき彼と同時に久米島へ流され(罪名は不詳)︑同時に恩赦で帰郷した

毛応選(流刑時三十二歳)︑梁孝徳(涜刑時二十二歳)という久米村人があり︑三人はおそらく同一

事件 の関 係者 とみ られ る︒

歴代宝案J再考

『郷良樹本 81 

(13)

このころ琉球では︑頭鹿三年(一七九八)ごろ学校制度の設立に閲迎して︑中国の因子監への留学

生である官生の半数を首里から選ぶことになり︑それに反対する久米村人が暴動を起こして︑指導者

は遺品︑追随者は寺入などに処分された事件(官生騒動)︑続いて同六年に国学の新校舎の建設にあ

たり久米村から国学の称に異瑚酬がだされたことなどがあり︑鄭崇基ら三人の硫罪の原因がこれらの問

題に 閲辿 して いた 可能 性も ある

鄭崇基は︑久米島から帰郷した翌年︑四十六歳で若里之子になり︑以後急速に官位を回復する︒蕗

鹿十二年三八

O

)前 回の 朝貢 船の 避難 によ り届 用し た船 を福 建へ 送還 する 返船 大通 事に 任命 され

その直後に都通事に陸進し︑返舶の任務完了後の同十五年に中謡大夫となる︒同十七年三八一二﹀

二月︑五十二歳で長史︑同年九月には総理唐栄司となって紫金大夫に陸り︑道光四年三八二四)六

十五 歳で 引退 する まで

︑十 三年 間そ の任 にあ った

子の郵良弼は︑乾陸五十四年(一七八九)生まれ︑成盤元年(一八五一)没︒嘉鹿十六年三八一

一)に=十一歳で通事︑同十七年に黄冠と順調に陸進し︑同十九年二十四歳のとき三法司の命により

法徳学習のため福建へ渡り︑貢使に随行して上京︑翌年から同じ勤学の規学源とともに大清徳令を学

んで

︑同 二十 三年

・に 帰国 し︑ その 後︑ 二人 は大 楠律 令の 教授 や科 律の 編修 に携 わる

また道光元年三八二一﹀三十一歳で都通事となり︑同五年に接買舶の存留通事として渡唐して︑

同七年に帰国し︑翌年に中描大夫に陸る︒同十六年四十七歳で長史︑同十七年に正融大夫となり︑尚

(14)

育の冊封使林鴻年らの迎接使として渡唐し︑使節団の人員と常貨の削減に功制をあげ︑翌年紫金大夫

に陸

る︒

同二十四年(一八四凹﹀のフランス船来航︑同一一十六年のイギリス船来航などにあたっては︑那朋

の地 方官 とい う肩 書で 事に 対処 し︑ 同一 一十 九年 十一 一月 に六 十域 で総 哩府 栄司 とな り︑ 没す るま で約 一 年半 在任 した

︒ 2﹁鄭本歴代宝案﹂の成立と継象

﹁鄭本歴代宝案﹂の成立と継承については謎が多いが︑ここでは本書の体裁や所収されているいく

つかの文書を手がかりとして︑それについて探ってみたい︒

第十三冊(こは︑所収の外交文書としては鼠も日付が新しいもので︑第十三冊合己(三)は日

付の記載がないが︑内容から(一)への返信の文書と推定される︒

(一 )は 嘉鹿 十七 年五 月四 日付 の福 建布 政司 杏で

︑﹁ 歴代 宝案 校訂 本﹂ [二

│一 一一

. l

O

]

に該 当

する文書であるが︑その中の河口通事の欠員補充に閲する通知の一節において︑単純な脱文とは考え

られない大きな違いがある︒鄭本と校訂本を比較すると︑鄭本の万は公文書として用語の使い方が白

然で論理が通っており︑情報内容も白富で︑原文書を中省大に抄写したものと認められる︒

本は版文の一部をまとめて削除し︑前後の内容の辻植を合わせるために︑いくつかの語句を帯き符え

一方

︑校 訂

歴 代3f案」再考

r鄭良弼本

83 

(15)

た形 跡が 明白 であ る︒

このことから︑(一)は編纂後の﹁歴代宝案﹂からではなく︑原文書から抄写されたもので︑その

時期は原文書の受領からそれほど遠くないころと推定される︒

(二の原文書を琉球へ持ち帰ったのは嘉慶十六年秋走の接貢船で︑その帰国は同十七年十月下旬

であり︑周年八月の進貢船出発に間に合わなかった︒

そのため(一)への返信は︑翌十八年秋走の接貢船に託された︒との派遣にかかわる﹁歴代宝案﹂

巻一一四は欠巻で︑文書そのものは残っていないが︑目録によれば嘉鹿十八年接貢文七通のうち︑十

七年 分と して

﹁正 朔事

﹂﹁ 杏謝 事﹂

﹁知 照事

﹂の 三通 があ る︒ (二 )の 文末 に﹁ 理合 杏謝

﹂と ある こと

(三)とほぼ同文の中山王杏の引用がある嘉慶十九年四月四日付の布政司容[二│一一五│一一]の

冒頭に﹁為知照事﹂とあることから︑会己が嘉鹿十七年分の﹁杏謝事﹂︑(.↓己が﹁知照事﹂に該当

する こと は確 実で ある

︒ ただ し( 三) と前 掲の 布政 司杏 に引 用さ れた 中山 王杏 の文 章を 比べ ると

︑( 三) の﹁ 聖天 子﹂ が﹁ 皇上

に変わっていたり︑(三)にはない文章が二か所に挿入されていたりするなど︑単なる誤写とは考え

られない遣いがある︒またつ己(三)はともに頁の初行からいきなり本文を書き始めていて︑本来

あるべき前文(発出者名︑為:・事)も︑文末の宛先・日付などもなく︑完全な文書の体裁を成してい

ないことから︑実際に発出された文書の写しではなく︑推厳中の草稿と断定できる︒

(16)

通例︑進貢・接質船の持参する文書は八月初旬の日付で発行されるから︑嘉鹿十八年媛貢文は同年

八月以前に完成していたはずであるが︑合己(三)は草稿であることから︑脅かれた時期はおそらく

(一)の布政司杏が琉球へ到着して聞もないころであろう︒

以上から︑鄭本第十三冊(一)士号(三)文書は︑嘉慶十七年十月末から十一月にかけて脅かれた

と推 定し てよ かろ う︒ そし て︑ それ はち ょう ど鄭 崇基 が長 史か ら総 理由 日栄 司に 界任 した 直後 にあ たる

彼は久米村の長官就任を慣に外交文符の収集の作業を終了したと考えられる︒

ただし彼がその後も鄭本の一部︑あるいは全部を手元に聞いていたことは︑第四附(一)(て)の

河口通市ずらから三法司・総理唐栄司への上申書(蕗腿十九年四月付)から知られる︒この文丹は︑前

年秋走の接貢船により同年五月十四日までに琉球へもたらされ︑当時の総理唐栄司鄭崇基を経由して

三法司へ届けられたと考えられる(第五節ーーを参照)︒よって右の上申書の抄写の時期は︑文書を

受領してから三法司へ届ける問︑おそらく嘉鹿十九年五月内であり︑鄭本の最終的成立は一応この時

点と して よい であ ろう

一方︑鄭崇基が本書の編纂を始めた時期と動機は判然としない︒各冊の筆跡をみると︑数人以上の

人々の手に成ったものであることは確かで︑鄭崇娘一が職権で﹁歴代宝案﹂を縦覧して抄写を命令でき

る立場になってからのこと︑おそらくは中国船返還の大通事の任を終えた謀鹿十五年以降に文書の収

集を 開始 した ので はな いか

康代':K案J再考 l・鄭段弼本

85 

(17)

編纂の動機については︑収集された文部の内容が手がかりとなる︒﹁歴代宝案﹂全体から鄭本の文

書をみてみると︑鹿大な文書群の中から年倒的な文由をおおむね排除して︑重要あるいは特殊な問題

にかかわる文書をほとんど網駆的に抽出し︑問題別に分類していることがわかる︒鄭崇基は事に際し

て必要な先例を即座に探せるように︑また日常座右において研究するために︑簡便な先例集として鄭

本を編纂したと考えてよいであろう︒

鄭良弼が父の収集した歴代宝案文書を継承した時期はよくわからない︒現存する二十冊の体裁をみ

ると︑第四冊だけは他と大きく異なり︑表紙・書背の墨書がないが︑表紙・用紙の質は他の聞と変わ

りがなく︑成立時期はほぼ同じとみられる︒また第四冊(一)(二)文書は前述のように鄭本で最新

の文書であり︑この一冊は嘉鹿十九年五月ごろにはまだ鄭崇基自身が保官していたはずで︑それ以後

も手元においていた可能性が高い︒

一方︑他の十九冊には書背に﹁鄭崇基共廿本﹂という墨書があり︑これを記した人物は同書が本

来全二十冊で︑鄭崇基の所有にかかることを知っていたことになるが︑鄭崇基本人が記したとすれば︑

第四冊だけ墨書がないのは不自然である︒現存の二十冊の他にさらに失われた一間があった可能性が

全くないとはいえないが︑むしろ何れかの時点でまず十九冊が子の鄭良弼に譲られ︑彼が書背に編謀

者である父の名と全部で二十冊であるむねを記したと考えるのが妥当ではなかろうか︒

父から子へ鄭本が継承された時期については︑想像の域を出ないが︑道光四年の鄭崇基の引退を一

(18)

つの候補としてあげておきたい︒

︻ 注 ︼

︹1

)

﹃鄭

姓家

m

支旅

(五

世鄭

土紳

)﹂

(﹃

那羽

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剛 一 円

(2

)

鄭崇

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つい

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厩代

宝案

校訂

本﹂

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1 ‑

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八]

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一六

]と

︑彼

資料相第一巻六

家総

資料

(ニ

)﹄

一九

O

年︑以下﹃家

m ‑

の福建到翁を報ずる巡撫の題本がある︿中国第‑雁史惚案館組﹃抽例代中政関係協案四個﹄中撃衛局

=0 0 

O年

︑四

頁﹀

︒鄭

良弼

につ

いて

は繁

多の

ため

省略

する

( 3

)

この馬艦船は乾隆五十九年八月に漸江省楽消県ヘ糠務し︑同六十年二月末に舗州を出発した泊村人伊波らの

船と

考え

られ

る(

﹃歴

代宝

案校

訂本

﹄[

l

八三

l

一八

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( 4

)

﹃家

譜︿

二﹀

﹄市

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頁 ︒

( 5

)

﹃家

譜︿

ニ)

﹄附

頁︒

(6

)

伊波普猷﹁官生騒動に就いて﹂﹃伊波普猷全線一﹄昭和四十九年︒比嘉春期﹃沖縄の歴史﹄一九六五年︑

m

tB

即頁

︿7

)

比斑春潮﹃注︹

6)

前掲

惜E m頁 ︒

︿8 ) ζ

のほか当時の久米村関連の事件として︑期鹿豆年の尚婦問封の時︑迎慰苧での俄礼に際して河口通事が欠

歴代宝案』再考

『郎良弼本 87 

(19)

席し

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王の

行礼

に支

陣そ

生じ

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﹃家

譜(

二)

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) ζ

があ

る︒

( 9

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﹃家

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二)

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頁︒

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事件

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京都

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学術

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研究

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る︒

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歴代

宝案

校訂

本﹂

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一│

一一

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る︒

(ロ

)﹁

鹿代

宝案

校訂

本﹂

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一│

一二

ハ│

一五

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︑詣

鹿十

五年

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らが

︑同

十七

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月二

十一

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)﹁

歴代

宝案

校訂

本﹂

巻三

︑目

録上

︑部

頁︒

(M

)

﹁歴

代宝

案校

訂本

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二│

一二

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一七

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れば

︑河

口通

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され

た媛

貢船

が持

ち帰

った

嘉腹十九年四月四日付の布政司容[二│二五│O九]等は︑同年五月十四日に受領されている︒

四︑

﹁鄭 本歴 代宝 案﹂ 各冊 の構 成と 特徴

鄭本は︑沖縄県立図書館旧蔵の原抄本による他の歴代宝案とは︑文書の編成方法がまったく異なっ

ている︒ここで鄭本各冊の文書の内容を検証して︑その構成と特徴の把握を試みることは︑鄭崇基が

本書を編纂した動機や目的・時期などを解明する一助となるであろう︒

(20)

文脅内容の検証にあたって︑まず注目すべき点を二つ指摘しておきたい︒

付による編成方法は以下の三種に分類できることである︒

一点 は︑ 各冊 の文 内の 日

①年次の早い順に収録

②冒 頭に 蕗鹿 年の 文舟 をお き︑ 以下 は乾 隣・ 副知 正・ 山崎 照と 年代 を遡 って 収録

@嘉鹿年代のみを収録

①は第一・二・七冊のほか︑第十二冊もほぼこれに属する︒②は第三・五・六・九・十四・十七・

十九・二十聞で︑第四冊もこれに近い︒③は第十一・十三了十八冊が該当する︒第十五・十六冊は錯

簡が多く︑相当教の文書が失われたとみられ︑分類不能である︒

もう一点は︑県立図書館本系統の歴代宝案抄本にはない書入れが︑次の二箇所にみられることであ

る︒それは記事内容から当該文書の成立あるいは受領後まもなく記されたものと推定され︑鄭本は県

立悶書館本よりも古い抄本または別本から書写されたことが確実である︒

①第 四冊 (二 四)

︑四 枚目 (王 親弟 への 静注 )﹁ 臆改 世子 弟︑ 出 m院 師爺

8

習溺

ク﹂

②第五冊(五)︑五枚目(頭注)﹁禁宏説目︑因字重看︑若軽看︑使貫至捌浅損埴之句而止︑則固有損

姉崎之事︑而蹄称之調耳︑不如重看貫至帰国之句︑別困有大修有需之重事︑而識調之調也︒因字精神

証人議論而有力也︑然不敢自足︑諦各議之︒﹂(柴宏説(一七

O o

t

一七六六)は︑主として乾隆年

間前半に活路した)

歴代宝案』再考

『鄭良弼本

89 

(21)

つづいて各冊の文書の種類・年代・内容等に閲する慨要を記す︒

第一冊収

録さ れて いる のは すべ て明 代の 各踊 の文 密で ある

︒明 初の 尚巴 志・ 尚円 の冊 封に 閲す る( 一

) 1

(

)

以外は︑嘉嫡以降の文書で︑主として明末の重要案件を扱ったもの︒内容は︑一棋疏人の送還︑尚箪の

開封︑福建人二人の硫球移籍︑島沖侵入後の朝貢の十年停止と再開︑白糸貿易の禁止などにかかわる︒

第二冊

康照十九年から同三十一年まで︑尚貞王代の各種の文書を収録︒内容は尚貞の開封と開封謝思関係

のほか︑明清交代後の本格的な朝貢の回復に伴う進貢の諸規定(方物の数目・免除・免税その他)︑

海経 交官 の解 除と 漂硫 人救 助の 規定

︑官 生の 派遣 など にか かわ る︒

第三冊

収録する三通の杏はともに︑謝恩の進貢品を次回分の正貢にあてよと皇帝から命じられた問題(以

下︑ 留抵 一貢 問題 と略 称) にか かわ る︒

第四冊

この冊は体裁も内容も他の冊と異なる特徴を持っている︒冒頭と末尾の文書(一)合己(二五)は

外交 文書 では なく (詳 細は 第五 節を 参照

﹀︑ 歴代 宝案 文書 は( 三

)

1

︿

二四 )で ある

︒そ の初 めの 四通 は︑

詣鹿十三年の杏と照会で︑うち二通は冊封迎接船の沈没の件にかかわる︒また(七

)1(

一九

)は

(22)

隆年代の各種の文書で︑(一九)の留抵一貢問題にかかわる杏のほかはすべて定型的な進貢・接貢の

文骨である︒なお乾隆五十三年分の文由は他と異なり︑冒頭に﹁杏﹂と記したり︑文書毎に葉を改め

ずに続け由きしている︒以上のさ

G 1 (

一九)には全文にわたって丁寧に訓点・句点・傍線が施さ

れ︑所々に語釈の書き入れがある︒

( 二

O

) (

二こは再び嘉鹿年代の詔・火票(冊封使の通行証)で︑合コ乙

1(

二阿)は明末1消

初の 諦封 関連 文書 であ る︒

第五冊杏九通を収録する︒初めの三通は鄭崇基が久米島から帰郷して︑都通事を勤めていた時代の文書で︑

進貢・接貢船の福建への出入時に起きた問題︑および避難した進貢船の代りに履募した中国船の返還

(担当通事は鄭崇基自身)にかかわる︒残りはすべて康照来

i

乾隆年代の進貢・接貢船の遭難にかか

わる文書で︑(四)のみに訓点が施されている︒

第六冊表十五過を収録する︒目頭の蕗鹿年代の四通のうち︑はじめの二通は上皇(退位後の乾隆帝)への

鹿賀︑他二通は尚舗の諦封と留抵一員の聖旨をうけて朝貢を一回停止することへの謝恩である︒残り

は康照

1

乾隆年代の文書で︑皇帝の即位鹿賀︑先帝への進香︑官生帰国時の謝恩︑その他はすべて留

抵一 .良 問題 に閲 する 謝恩 であ る︒

康代宝案』再考

『鄭良弼本 91 

(23)

第七

他の歴代宝案諸本の第一集に収められている順治 冊

43

康照初年の各種の文書を収録する︒消への帰順

を促す勅諭をはじめとして︑靖初の琉中関係の涜れを概観できるような主要な文書を集めている︒主

な内容は清初の役誠︑尚質の冊封︑進貢と貿易開始にともなう規定の確認などに閲するもので︑柔遠

駅整 備を 要請 する 奏一 通も 収め る︒ 第八

この冊は錯簡が多く︑見かけ上は三週だが︑実際の所収文書は五通(断簡を含む﹀の杏である︒た 冊

だし文書として完全なのは(五)一通だけなので︑文書梢成の分析は困難であるが︑内容はすべて漂

流し た民 間船 の救 助と 送還 にか かわ る︒ 第九 勅 冊 諭一 通と 杏十 七通 を収 録す る︒ (一

)1(

五) は︑ 乾隆 帝の 譲位 と嘉 鹿帝 の即 位︑

201(

九) は進 貢正

・副 使の 病死

︑( 一

O )

1 (

一三 )は 乾隆 二十 五年 入学 の官 生て (一 四

)

i (

一八 )は 進貢 の 賞賜 に閲 する 特殊 な事 例に かか わる

なお会

31(

六)は嘉鹿年代︑以下は康照末

1

乾隆 年代 の文 書で ある

第十冊

(一 )( 二﹀ は尚 貞の 諦封 の表

・奏 で︑ 会一 )以 下の 杏七 通は すべ て中 国商 人の 漂涜 と救 護・ 送還 に

(24)

かか わる

︒な お本 来第 十冊 の目 次で あっ たと 思わ れる 現在 の第 八冊 の目 次に は︑ (一 )( 二) の年 号が なく

︑内 容的 にも (一 )︿ 二) は他 の附 の文 舗が 誤っ てこ こへ 綴入 され たも ので ある う︒ (三 )は 蕗鹿

年代︑以下は鹿照末

1

乾隆 年代 の文 惜で ある

︒ 第十 一冊 嘉鹿 年代 の苔 二過 を収 める

︒( 一) は逃 賀船 二貨 の遡 雌( 碩号 船は 消息 不明

︑二 号船 は沈 没﹀ によ り︑ 届柑 押し た中 国船 の返 週︑ 尚温 死去 の通 報に かか わる

︒( ニ) は四 十七 葉に およ ぶ長 大な 杏で

︑内 容は

多岐にわたり︑尚甑の諦封︑留抵一貫問題︑正使の病死︑迎封兼接貫船の遭難︑諜涜した琉球人の送

還︑ 冊封 使の 出発 予定 など にか かわ る︒ 第十 二冊 乾隆 二十 一年

1

十七 年の 杏八 過を 収め る︒ すべ て漂 流し た琉 球人 の救 謹と 送還 にか かわ る︒

第十三冊

三通の杏を収める︒(一)は嘉鹿十七年の長大な奇で︑主な内容は接貢︑官生の入学︑伴送の官の

増員と翻僻通事(伴送時の士通事補佐︑第五節で解説する調理通事とは別の臨時の役職)の新設︑士

通事の解任と補充︑探涜疏球人の救護・送還などにかかわる︒日付のない(ニ)(三)は︿一)への

返信文書の草案と推定される(第三節

lz

参照

)︒

歴代宝案』再考

r郷良初本

93 

(25)

第十四冊容十過を収める︒(一)(二)は謡鹿年代︑他は乾隆初年ごろの文書で︑琉球へ漂着した巾国人の救

趨と送還にかかわる︒ただし︑(五)だけは朝鮮人の漂泊の件である︒

第十五冊嘉腿初年の杏四過を収める︒この間は錯簡が多く︑唯一の完全な文書(一)は︑探疏した琉球船を

修理して帰国させる件で︑他の断簡もすべて深疏琉球人の救護・送還にかかわる︒

第十六冊嘉鹿初年の奇二過を収める︒ともに漂泊した王府への寅納船の救護と送還にかかわる︒

第十七冊

奏十 七通 を収 める が︑ すべ て通 常の 進貢 では なく

︑特 殊な 問題 にか かわ る︒ (一

) i

( 四

)は

嘉鹿

年代

で︑

上皇(乾隆帝)への譲位の鹿賀︑謝恩・進香礼物の留抵一員の免除要請︑遭難の官生に代わり四人を

再遣する件︑尚額の開封謝恩である︒他は康照末

1

乾隆年代で︑皇帝即位の鹿賀︑先帝への進香︑特

例の賞賜への謝恩︑留抵一貢問題にかかわる件︑国王の諦封・冊封謝恩など︒なかでも︑避難官生に

代わって三人を派遣する奏(一四)が︑嘉鹿年代の奏との相聞で注目される︒

第十八冊

七十三葉におよぶ奇一通のみを収録する︒内容の大部分は︑蕗鹿十六年の進貢船二隻の避難と救趨︑

(26)

貢使の上京および進貢船の修理︑帰国の顛末で︑一部に進貢船に便乗して帰国させる漂硫琉球人の件

が含まれる︒なお長大な文書のためか︑中間で筆跡が変わっていて︑おそらく二人で抄写したとみら

れる

第十九冊

(三 )( 四) は︑ おの おの (一 四) (一 三) の一 部が (二 )に 蹴入 した もの で︑ 実質 的に は杏 十八 通・

照会三過を収める︒また目次の年次順から本来は嘉慶年代の文書四通が冒頭にあり︑その後に康照末

1

乾隆年代の文書がおかれていたと考えられる︒

全体を通ずる主題はなく︑最も多いのが貿易にかかわる問題で︑なかでも(一七

)1(

二二 )に 禁

制品の貿易許可に関する杏がまとまっている(うち五通は絹糸・綱椴︑一過は大黄)︒また柔遠駅の

修理 に関 する 杏( 一) (一 四) (一 六) と︑ 福建 の官 吏の 阻規 (賄 賂) の禁 令に 閲す る杏 (七 )( 一一 一)

(二

三)

が各

三通

ある

本冊の特徴として単発的な特殊な案件の文書(たとえば皇帝らの説の忌避方法︑消防器械や賭駄・

膜馬の輸入︑都通事の精神疾患など)や︑難題に対して微妙な回答をしたり︑あるいは回答を避けて

いる文書が多い︒また所々に訓点・句点︑書き入れがみられる︒

第二十冊藷慶二年の杏二通と康照末

i

乾隆初年の杏三過を収録︒(一)(二﹀とさむ(四)は︑それぞれ日

歴代宝案』再考

r鄭良弼本

95 

(27)

付が近く︑内容も相関している︒またつ己

1(

五)は皇帝・上皇の登位鹿賀のことが共通項として

あげられる︒(一)は一見してあまり特徴のない接買の回杏であるが︑強いていえば前国王の病死に

言及 して いる 点に

︑( 五) との 関連 がう かが える

︒ 五

鄭本

添付 れさ た

歴代

, 牛

j

案以

文 書

ここで紹介する第四冊の(一)(二)および(二五)は歴代宝案の範時には入らない︑鄭本強自の

史料

であ

る︒

その うち

︑( 一) (二 )は

︑琉 球側 でい う河 口通 事・ 同筆 者に 関す る史 料と して 希少 で貴 重な

・も ので

ある︒また(二五)は︑琉球の胞龍船競渡の習俗に関する文献の抄録である︒

河口通事補佐の退職願と承継者の推薦状

第四問(二(二)は鄭良弼本のなかで︑躍も日付の新しい文書である︒どちらも宛先はないが︑

福州で存留通事に託され︑進貢正副使の許可の下に接貢船で琉球へもたらされて︑総理唐栄司から

三法司へ提出されたと推定される︒当時の総理唐栄司は本書の書背に記名のある鄭崇基本人である︒

(一﹀(二)はおそらく原文書を三法司へ届け出る前に︑鄭崇基の指示により︑あるいは彼自身の手

(28)

で抄 写さ れた もの であ ろう

この二通の文書から知られる事実はおよそ次のようである︒

嘉鹿十九年四月の時点で︑福州琉球館には土通事の謝宣化・潟大受・鄭登欄三名と︑材開理通事(制

掛筆者)の石聯魁・王振網二名がいた︒そのうちの石聯魁の一族は司価(牙人か)の後商で︑四代に

わたって︑すなわちおそらく清初から︑制理通事の職を継承していた︒石聯魁も父石蔵官の後をうけ

てその職にあったが︑老齢のため引退して︑琉球館の業務に精通する甥の石志成を後任に充てたいと

考え︑土通事らと協議して話をまとめた︒

そこで石聯魁は︑琉球王府の要人に宛てて︑自身の引退と後任者を指名推薦する届け(一)を︑土

通事らは連名で後任者石志成の身元を保証する推薦状つ乙を用意して︑琉球の存留通事らに託し︑

従来通りに石志成へ﹁辛労銀両﹂を毎年支給するよう琉球に要請した︒

なお西里喜行氏は︑琉球側の他の史料にその名がみえる石聯魁を土通事と解釈し︑士通事筆者を土

通事 の見 習い とさ れて いる が(

﹁中 琉交 渉史 にお ける 土通 事と 牙行 (球 商)

﹂﹃ 琉球 大学 教育 学部 紀要

叩一九九七年)︑それは本文書により.治定される︒このほか土通事・土通事筆者の聾替等の問題に

つい ては 稿を 改め て論 じた い︒

歴代宝案」再考

『鄭良弼本 97 

(29)

(ご輔理通事石聯魁の退車

︿原

文﹀

具退襲︒石聯魁︑為県明事︒切魁︑承頂故父蔵官補理通事名故︒在館供事効労︒今緑年力不能︒自

願告退︒故輿胞佳志成接緋︒紐興通事三位継妥公具繭啓︒乞懇新・苗存留鄭・梁二位老爺︒念魁四

代博摘︒供事効努︒乞為回明耳目官向老爺︒盟大夫毛老爺︒回国時連組理司・法司各位大人︒東ロ

(明)王爺︒思賜照例年給辛労銀両︒仰佳志成供事有資︒得以効努︒切襲︒

日具退東石聯魁有持蕗鹿十九年四月

︿読

み下

し﹀

{l

M

退東を具す︒石聯魁︑東明の事の為にす︒切かに魁︑故父蔵官の割理通事の名故を承頂し︑館に在

A3

V

りて供事し効労す︒今︑年力不佳なるに縁り︑自ら告退して散は胞佳の志成と按排するを願う︒経に

4

V

5

}

6通事三位と識して妥公し︑蘭啓を具す︒乞い懇わくは新旧の存留の鄭・梁二位老爺︑魁四代の伝涜し

7}

A8

v

て供事効労せるを念い︑耳目官向老爺︑賢ひ大夫毛老爺に回明し︑固に回りて総理司・法司各位大人

に転達し︑王爺に嘉明して︑例に照らして辛労銀両を年給するを恩賜し︑径志成をして供事するに資

有りて︑得て以て効労せしむるを為さんことを乞う︒切かに栗す︒

嘉鹿十九年四月

退菓を具す石聯魁

有り

(30)

︻ 注 ︼

(1

)

名欧

は欠

員︒

話相

同制

は受

け継

いで

代わ

りを

務め

る︒

(2

)

佐は准に同じか︒年力(年令と制力)が般かでないこと︒

(3

)

引き継ぎ経営する︒引き継いで処理する︒なお︑併は正しくは勝︒

(4

)

土通

事の

謝申

H .

・潟

大受

・鄭

笠澗

(5

)

妥当

公正

の略

か︒

(6

)

新旧

存留

通事

︒旧

は務

腹十

七年

の進

貢紛

の梁

文献

([

一一

│一

一一

‑一

│O

五]

等)

︒新

の鄭

某は

その

媛民

船(

同十

九年五月に帰国︒第三節︑注(凶)参照﹀の存留通事に違いないが︑執照が残存せず︑名は不詳︒なお老爺

は官

吏へ

の尊

称︒

(7

)

嘉底十七年の貢使の向輔副と毛廷認︒なお嘉腹十九年の進員船は同年八月以降の出発であり︑本文書とは無

関係

( 8

)

総理司は鄭祭基︑法司は毛光国・馬異才・馬応昌︒大人はζ

こで

は長

官の

尊称

( 9

)

障制球が福州硫球館の膏吏ら(河口通事・同筆者・長班役・館屋守・門使)各人に五OO目ずつ支給していた

年例銀のことであろう(深沢秋人﹃近世琉球中国交渉史の研究﹄格樹禽林

O一

一年

m t

m

頁 )

歴代宝案』再考

r郷良弼本

99 

(31)

喧=

を 需 鵬 筆

者lこ

推 薦

する

のら 啓

︿原

文﹀

伏以麦臨雲連︒嘩々薫風初叶︒棋庭日永︒村々暑集方蒸︒恭惟老世兄諸位先生︒中山柱石︒梅園元

良︒徳政勲猷︒博硫於中夏︒令人仰慕情深実︒啓考弟等通事三人︒原有部耕筆者︒石聯魁王振網二人︒

在館供事︒今掛魁稿年力不佳口(自)願告静︒紙調胞佳志成︒接頂効勢︒受等査成係聯描長口(子)

蔵官之孫︒司憤後荷︒精通球語事務︒誠賀才幹︒堪以都騨︒合具蹄啓︒伏祈新・茜存留鄭・梁二位世

兄︒回明耳目官向・大夫毛老兄謹︒輔達総理司・法司各位老先生大人︒菓明王爺︒頂故接蝉︒恩賜照

例年給辛労銀両︒興成収領︒停受恵有資︒得以館内

H m 僻

︒供 事効 勢︒ 謹啓

潟大受同具 謝宣化

鄭登澗

嘉鹿拾玖年時月

︿読

み下

し﹀

{1

{Z

V

3

V

伏して以うに︑麦臨に雲連なり︑処々に麓風初めて叶ぎ︑椀庭に日永く︑村々は弱気方に蒸る︒恭

4}

しく惟うに︑老世兄諸位先生は中山の柱石︑海国の元良なり︒徳政勲猷は中夏に伝疏し︑人をして仰

向換

の情

深か

らし

む︒

A6VA7v

啓考するに︑弟等通事三人には原より割耕の筆者石聯魁・王振綱の二人有りて︑館に在りて供事す︒

(32)

今︑魁の称するに拠るに︑年力不佳なれば自ら告辞して︑触は胞僅の志成に掠り︑接頂して効労せし

L b A 9

むるを願う︑と︒受等査ぶるに︑成は聯挫の長子︑蔵官の孫に係り︑司価の後商なり︑球語の事務に

制過し︑誠実にして才幹あり︑以て制僻に地う︒合に蹄啓を具すベし︒

f h

V伏して祈わくは︑新旧の存筒︑鄭・捷二位世兄︑耳目官向・大人毛老兄台に回明し︑総理司・法司

各位老先生大人に転述し︑王爺に頂触接糊附するを斑明し︑例に照らして辛労銀両を年給し︑成に与え

て収領するを恩賜し︑恵を受け資有りて︑得て以て館内に都僻し︑供事し効労せしめんことを︒謹ん

で啓

す︒

嘉鹿拾玖年障月 謝宣化

海大 受

鄭登澗

同に 具す 日

︻ 詮 ︼

( 1

)

麦畑

(2

﹀叶

は協

に閉

じ︒

同助

風は

同組

やか

に吹

く風

ロそ

よ風

( 3

) 朝

廷の

底︒

=一

公が

座し

たと

いう

故事

があ

る︒

(4

﹀世兄は代々交際のある周年配者の問︑あるいは若年者に対する呼称︑老先生は老溜への敬称︒こζ

では

疏球

歴代宝案』再考

『郷良甥本

101 

(33)

の高官︑後出の総理司・法司をさすと思われる︒

︿5

)

功績

( 6

)

正しくは鰯僻︒補佐する︑手伝って処理する︒稲理も同じ︒

( 7

)

石聯魁の退菓では﹁輔理通事﹂とある︒通事の事務補佐の役職を琉球式に記したもの︒

( 8

) 受け 継い で担 当す る︒ 9  牙 人

てし

売買

であ

ろっ

( ω

﹀老兄・老台は貴兄に同じで︑朋友への敬称︒

(日

﹀承 頂名 飲の 略︒ 欠員 の補 充に あた る︒

繭舟競捜の由来について

第四冊︿二五)は︑琉球の各地で行なわれていた腿龍船の競渡の由来に閲する文献の抜き書き三種

である︒筆者はおそらく鄭崇基と思われる︒彼がこれを書き留めた理由は定かではないが︑当時の久

米村がおかれた情況を考えあわせるとたいへん興味深いものがある︒

①と@は漢文で︑各々﹃中山世譜﹄と﹃球陽﹄に同文があり︑原文は省略する︒②は和文で︑出典

は未詳であるが︑久米村の例規集か︒なお文中の︹︺は原文が判読不能︑()は原注である︒

(34)

①︿ 読み 下し

︺世譜に相い見る

察度王の世代︑明洪武二十五年壬巾毎年五月︑随舟脱捜す︒是れも亦た聞人︑国に至りて︑然る

後始めて造る︒但だ年紀考え難し︒故に合に潟に記すベし︒

例規に相い見る

腿随舟より由来し屈原を祭り始むるの曲︑書物に相い見え申し候︒然れば屈原なる者を水神と為す

と︑国の耕作の為に罷り成り候祝いに毎年漕ぎ申す段︑唐人より伝え承り候︒御当地に始め候備も︑

右の通り三十六姓も唐の作法に仕置き申さする儀と存じ奉り候︒

E

つ又︑冠船の時︑三鯉︑魚小堀に

て漕ぎ申す例有り来り候︑又は雨乞いの時︑周龍舟に龍王を奉供し︑豊見城に参り泊ぎ申す例もこれ

有り候問︑此の中の様に有ると存じ泰り候事︒右︑我々の存︹

③︿ 読み 下し

﹀ 紀 事

巻の

旧記に日く︑昔︑久米村︑那覇︑若狭町︑垣花︑泉崎︑上泊︑下泊等に腿龍舟数隻有り︒今︑那覇︑

歴代宝案』再考

『郷良弼本 103 

(35)

久米村︑泊村に三隻有り︒四月二十八日より初二日に至るまで唐栄の前の江に競渡す︒初三目︑西の

海に浮かべ︑初四日︑那覇港に競渡す︒世譜に云わく︑毎年五月︑随舟競渡す︒是れも亦た三十六姓

の聞人︑固に至り︑然る後始めて此の舟を造り︑江において競渡す︑と爾云う︒俗諺に日く︑昔長浜

大夫なる者有り(姓氏は未だ伝わらず)︒命を奉じて入閣し南京に赴く︒巳に龍舟を倣いて回来し︑

即ち五月の初め舟を造り醗渡す︑以て太平なり︒而して其の大夫︑曾て郡覇の西村に住む︒今其の地

を呼びて長浜と目︑っ︒是れに由り毎年五月初三目︑龍舟に乗る者は必ず白幡子を著して以て西海に浮

かぶ

︑と 爾云 う︒

一説に日く︑南山王弟注応祖︑嘗て南京に至り入監し韓業の時︑龍舟の江に臨渡するを看て心に甚

だ之を慕う︒巳に本国に帰り︑地を豊見にトし︑江に臨み一城を築建して以て栖居と為す︒之を名づ

けて豊見城と日う︒此の時︑注応祖︑中華の製法に徴い龍舟を創造し︑五月の初め那覇江中に浮かべ

以て玩楽と為す︒人は皆之を看て亦た龍舟を製す︒初四日に至り︑各邑の龍舟︑必ず城下に至り︑前

の江にて競渡して以て呈覧に備う︒今世に至り毎年端午前の一日︑郡朝︑久米村︑泊村の腿龍舟三隻︑

必ず豊見瀬の戚部前に到り︑豊見城の祝女︑恭んで祭品を備えて以て景福を祈る︒龍舟の人等も亦た

津屋に登り︑盟見瀬に向いて以て拝礼を行うは此れよりして始まる︒と爾云う︒然れども歴世久遠に

して 詳か に従 る莫 し︒

(36)

︻ 注 ︼

( 1

)

﹃球 陽﹄ には

︑﹃ 五月 初二 日﹂ とあ る︒

( 2

)

﹃球 隅﹄ には

﹁以 祝太 平﹂ (以 て太 平を 祝( いの )る )と ある

( 3

)

﹃球 開﹄ には

﹁制 法﹂ とあ る︒

( 4

)

﹃球 隅﹄ には

﹁英 従稽 詳駕

﹂( 稿詳 に従 る莫 し) とあ る︒

﹃鄭 良明 本歴 代宝 案﹄ 内容 目録 凡 伊j

て配列はもとの冊数の順序により︑各冊毎に文書番号を頭書した︒

二︑文書番号の次に︑各文書の日付と文書の形式を記し︑括弧の中に︑文書の発信者・内容その他を

略記した︒詔勅類は発信者を省略し︑中山王の杏文の場合は礼部あてか福建布政使司あてかを附記

しで

ある

r‑

︺内 は︑

﹁歴 代宝 案校 訂本

﹂の 文書 番号 であ る︒

歴代宝案」再考

『鄭良弼本 105 

(37)

(一)洪照元年二月一日諭祭文(中山王思紹の祭文)︹一lO一│O四︺ 第一冊

(二)周年月日勅諭(中山王世子尚巴志の封王)︹一lO一lO五︺

(三)同年月日皇帝頒賜(中山王尚巴志及び王妃へ)︹一lo‑‑O六︺

(四)成化七年七月八日勅諭(中山王世子尚円の封王)︹一lo‑‑一九︺

(五 )同 年月 日皇 帝頒 賜( 中山 王尚 円及 び王 妃へ )︹ 一l o‑

‑一 一O

(六)嘉靖八年八月十五日執照(中山王世子尚摘︑為附送進貢方物及取遭風夷人帰国事﹀︹一│二

九ー

一八

︿七 )嘉 靖二 十四 年正 月十 一日

執 照

中111 

王 尚 消 為 護 送 進 貢 方 物 及

朝 鮮

人口

O

四 ︺ (八 )万 暦二 十五 年八 月六 日 杏 朝 鮮 王国

敦朔l

好 酬 厚

九 八 (九 )万 暦三 十一 年三 月三 日詔 (中 山王 世子 尚寧 の封 王)

︹一 lO 一│ 一一 八︺

(一O)周年月日勅諭と頒賜(中山王尚療の封玉︑国王攻ひ王担へ頒賜)︹一│O一│二九︺

(一一)万暦三十四年諭祭文(琉球国王尚永の諭祭文︑祭品の目録)︹一lo‑‑三O︺

︿一二﹀万暦三十五年十二月十三日書(礼部︑為査循旧典懇培藩封事)︹一│O四lO五︺

(二二)万暦四十七年五月三白書(福建布政使司︑為懇恩転疏啓呈聖聴傭察藩情鑑照踊危垂仁納貢

(38)

以繋属国以固封彊事)︹一lO七l一八︺

(一四)天啓三年三月六日杏(礼部︑為嗣藩執政奉勅諭戒信拾年復情貢職以効忠款事)︹一│O四

O

六 ︺

(一五)崇禎十一年正月二十五日沓(琉球団巾山王尚︑為告探安危釈寛介慮明貢歳聞輸誠事︒福

建布政使司へ)︹一l二OlO五︺

(工ハ)崇禎十三年間正月七日

杏( 礼部

︑為 遵旨 看議 具奏 事) {一

│O 四│ 一一 一︺

第二冊(一)康照十九年九月三十日結(中山王府三法司毛泰永・親美材・毛国珍等︑為諦封事宜誠実執結

以固 海翻 永図 以路 天朝 遥度 事)

︹一

│一 一一 l三 O︺

士己康照二十年十二月十五日杏(礼部︑為進貢事)︹一lO六│O四︺

勅諭(琉球国世子尚貞へ頒賜)︹一│O三│一五︺

詔( 中山 王世 子尚 貞の 封王 )︹ 一│ O一 ニ│ 二ハ

(三)康照二十一年二月八日

(四)康照二十一年六月十一日

勅諭(琉球国中山王尚貞及び王妃へ頒賜)︹一│O三│一七︺

(五 )同 年月 日 七 六

年 照同 康

月 二日 十

奏 年 ( 十

中 一山 月

王 二

尚 日貞

為 (表

恭 中謝 山

天 王

兼 貞恩 尚

陳 ) 封 土

議 │

降五

扇 │

容 O

慎 二以 〕

節 事

歴代宝案』再考

r鄭良弼本

107 

(39)

(八﹀同年月日替︿中山王尚貞︑為制天思事︒礼部へ)︹一

Il a

一 二

110

六 ︺

(九)庫県二十三年八月二十二日勅諭(琉球団王尚貞へ頒悶)[一ー

O

三│ニ

O

2 0

)

同年月日杏(礼部︑為解送探梅人口事)︹一

lO

l

一 一 ‑ 一

三一)鹿照二十四年六月六日杏(福建布政使司︑為地質事)︹一ー

‑ o

l

一 四 ︺

(一一己廊照二十四年十一月十二日杏(中山王尚貞︑為接回進貫官民事︒福建布政使司へ﹀︹一│

ニニ

│一

O

(=ニ)康照二十四年十二月七日勅諭(琉球国王尚貞へ頒賜)︹一

l o

=

l

一 一 一 ︺

︿一四)庫県二十四年十一月三日密杏(礼部︑為題明間海貿易未尽事宜仰祈容鑑事)︹一

lO

一 四 ︺

奏 中 11J 

王向

貞 為

皇 微

頂睡

恩誠

粛 謝

天恩

(一五﹀庫県二十五年十一月四日

︹‑

ー一

lO

八 ︺

(二ハ)鹿照二十七年九月十五日

述人以彰浩務事)︹一ー一五│一

O ]

(一七)底照二十八年十月十三日昔︿礼部︑為仰体調免耐旨再陳効胴愚誠官懇盟明垂慈以柔連人以

彰浩 器事 )︹

‑ー

O

l

一 九 ︺

(一八﹀鹿照三十年十月一日杏(礼部︑為琉球国具表進貢方物事)︹一・

lO

六│ 二一

主 尚 貞

為 舗 免

陳効

愚誠

冒 懇

型明

垂慈

以 柔

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