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第一部校史篇第一部校史篇第一部校史篇

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第一章

高岡高等商業学校の創世記

明治期における産業文化は幾多の困難を克服して進展し︑日清・日露の両戦役の勝利に拍車され︑立憲政治体制︑産業

経済体制︑しかして教育文化体制において︑近代国家構成に鼎足の充実を進めた︒かくて明治三十年代から大正初期にか

けて日本資本主義は伸張し︑産業革命も進捗し︑高等商業教育機関の大発展となった︒

明治十七年三月︑農商務省は東京府から商法講習所を移し︑直轄の東京商業学校とした︒文部省も同時に東京外語に高

等商業学校を附設した︒明治十八年五月︑前者は文部省に移管され︑高商を吸収し︑神田一ツ橋で授業を開始した︒同二

十年︑﹁高等商業学校﹂の校名に復した︒同三十年︑それに専攻部が置かれた︒同三十二年に実業学校令が布かれ︑同三

十五年には第二高商として神戸高等商業学校が設立され︑従来のものを﹁東京﹂高等商業学校と称することとなった︒翌

三十六年には専門学校令が出て︑大阪市立商業学校が大阪市立高等商業学校に昇格した︒つづいて明治三十八年には山

口︑長崎に︑四十三年には小樽に︑それぞれ第三︑第四︑第五の高等商業学校が新設された︒これらの高等商業学校は︑

東京︑広島の両高等師範学校や︑第一から第八までの各高等学校︑その他いくつかの専門学校とあわせて文部省直轄諸学

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一括して官立高等専門学校と称する高等教育の府が明治末期に確立された︒なかでも高等商業学校はカレ

ッヂの雄と目された︒ついで大正三年に勃発し︑同七年に終結をみた第一次世界大戦の結果︑日本資本主義は第二回目の

飛躍的発展と国際貿易伸張の好機に際会し︑そのため朝野には多くの人材が要求されるようになる︒

そこで大正六年︑時の寺内内閣の組織した臨時教育会議は︑翌年に高等教育改善案を作成した︒これは高等教育拡充計

画の具体化への第一歩となった︒これをうけた原内閣︵大正七年九月||同十年十一月︶は︑各方面の強い支持をうけな

がら︑高等教育機関の一大拡張計画のスタートをさせた︒すなわちまず大正七年には新大学令をしいて︑東京高等商業学

校を東京商科大学に昇格︵大正九年に実現﹀させるとともに︑北海道帝国大学を創設し︑ついで大正八年には京都帝国大

学に経済学部を新設し︑また東京帝国大学にも経済学部を独立させ︑同時に文部省内に実業学務局が設置された︒当時の

文部大臣は大阪商船社長の経歴をもち高等教育推進の主唱者であった中橋徳五郎氏その人であり︑各府県に少くとも一つ

の高等専門学校を設置しようとの構想を固め︑つぎの高橋内閣にも留任して︑大正十一年半ばまで腰をすえてその実現を

高等教育機関の拡張計画

時の原内閣は高等教育機関の大拡張の計画をたてつつあり︑これが上聞に達した︒それで大正七年十二月二十五日︑御

内格金一千万円を下賜される旨の御沙汰||l﹁高等教育機関拡張ノ計画有之趣被聞食思召ヲ以テ内脅金一千万国下賜候旨

かくて政府はこの聖旨に奉答せんことを期して︑第四十一回帝国議会に四千四百五十三万余円の追加予算を提出し︑大

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正八年度から同十三年度にいたる六カ年聞にその実行を期することとなった︒このうち一千万円は前記の御内需金を充

て︑他の三千四百五十三万余円を公債及び借入金によって捻出しようとするものであった︒

この時の中橋文相の衆議院における提案趣旨の説明は︑当時の事情をほぼ述べ尽しているものと思われるので︑その中

心部分を摘記し︑当時の時代的課題を理解する資としたい︒

現内閣は成立以来教育の振興が国運発展の根抵たるを信じ︑深く思ひを学制の改正に致し︑品製に大学令及高等学校令を

公布すると共に︑之が実際の効果を収むるの途を講ずるの極めて緊要なるを認め︑各般の事情を考察して計画に遺漏なか

らんことを期せり︒市して統計に徴するに大正六年度に於て官公私立専門学校及之と同一程度の学校に入学を志願したる

者の数約五万六千人に対し︑入学者僅に約一万四千人に過ぎず︒該志願者の中には一人にして二校以上を志願せる者あ

り︑又従来入学を阻止せられたる者年々累加し来れる事情あり︒前記の数字を基準とするは或は妥当にあらざるべしと難

も︑我国高等教育機関の狭小にして学生の収容力寡少なるがため︑青年子弟をして向学の志を遂げしむること能はざるの

事実︑極めて大なるものあるは之を証して余りあり︒而して大正六年に於ける中学校卒業者の数二万千余人を基本とし︑

従来の増加率に依り大正八年より六年の後なる大正十四年に於ける中学卒業者の数を推定すれば︑其の数殆んど三万人に

達すベく︑市も此等の卒業者にして高等の学校に入学を志願する者の数は︑大体に於て毎年卒業者の約三分の二なるに依

り︑此等の者を収容せんが為には︑大正十四年には二万人に対する設備を為すを必要とす︒内閣はこの計数により︑内は

国民向学の趣向に考へ︑外には宇内の大勢に察し︑更に帝国財政の現況と其の将来とに鑑み︑慎重攻究以て高等教育機関

の適当なる拡張を計画せるに方り︑天皇陛下は長くも此の趣を聞召され十二月二十五日御思召を以て内結金一千万円御下

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賜の旨御沙汰あらせられたり︒吾人は此の優還なる聖旨を拝して感激措く所を知らず︑最善を尽して之が計画を実行し︑

以て聖旨の万一に奉答せんことを期し︑即ち皇室の御下賜金を基として財政の策を樹て︑高等教育機関拡張に関し必要な

る法律及予算案を帝国議会に提出し︑其の協賛を求めんとす︒

現在高等程度の学校の収容力は︑官立学校六千人︑公私立学校八千人︑計一万四千人にして︑之に既定計画に属する未

開校の官立学校の収容人員二千二百人を以て加ふるも総数一万六千二百人に過ぎざるを以て︑前記二万人を収容せんが為

には其の差数三千八百人に対する拡張を要す︒而も従来入学志願者官立学校の門に踊集するの傾向より見るに︑今後公私

立学校収容力の増大は容易に之を期待すること能はざるを以て︑新に官立の高等学校十校︑実業専門学校十七校︑専門学

校二校を増設し︑且つ既設学校に就き若干の拡張を行ひ︑以て収容力の拡張拡充を図らんとす︒又高等学校の増設に伴ひ

其の卒業生約二千人を増加するに至るを以て大学の収容力を拡張するの必要を認め︑新に帝国大学に四学部を増設し︑

叉既設の学部即ち分科大学の拡張を行ふと共に︑東京高等商業学校及び医学専門学校五校を昇格して単科大学たらしめん

此等計画の遂行上教官の供給に就いては︑固より多大の考慮を廻らすの必要あるにより︑其の準備として文部省外国留

学生を増派し︑且つ帝国大学学生給費の制度を拡充せんとす︒

叙上の計画は急速に之を実行するの要あるを認め︑大正八年度以降大正十三年度に至る六箇年度聞に之を完成し︑遅く

も大正十四年度までには総て授業を開始せんことを期す︒以上の計画実施に要する臨時費は︑建設拡張費三千九百五十余

万円︑教官養成費四百五十余万円にして︑之を大正八年度以降大正十三年度に至る六箇年度の継続費となさんとす︒市し

て此経費は︑皇室御下賜金及公債又は借入金を以て之を支弁せんとす︒

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さらに大正八年一月二十四日に貴族院において阪本彰之朗氏がおこなった質問に対して︑総理大臣原敬氏のなした答弁

の一部を附記すれば次の如くである︒

︹前略︺今日義務教育の制度も永く布かれて居りまして︑就学児童は百分の九十九迄に達して居る所も可なり多いので

あります︒左様に段々義務教育を受ける者が増加いたしましたが︑是より進んで中学に入る者も増加し︑最近各地に於て

中学の増設があり︑その生徒も年々卒業する者も多いのであります︒そして此の中学を終って高等の学校に入学いたさむ

とすれば︑その門戸は甚だ狭いのであります︒故に年々数万の子弟が高等教育を受けることが出来ずして︑

待たなければならぬ情態であります︒又︑その間屡々落第も致しますれば︑甚だ精神上にも面白からぬと思ふのでありま

す︒従って是は社会上及ぼす影響も甚だ面白からぬのであります︒故に高等教育機関の拡張は今日の状態に於ては極めて

必要なりと考へるのであります︒今回の大戦争も終りまして︑将来国運の発展を図るのには︑各方面夫々力を用ひなけれ

ばならぬことはありますけれども︑殊に教育の如きは十分なる力を尽しませなければ︑将来列国の競争に応ずるには難い

であろうと信ずるのであります︒

さて之を致さんとすれば︑矢張り歴代内閣の苦しんだ通りに財源に困難を来すのであります︒しかし財源に困

難を来すというを以て今日世界の大変化を受けつつある我国としては︑之を延ばして置くことは出来ないのでありまずか

ら︑己むを得︑す公債又は借入金に依って此計画を遂行しようと考へたのであります︒固より学校を増設するということは

一時臨時の費用であります︒しかして之を維持し︑其学校を将来に維持して行くということは

是は普通の国費に依るの外ありませぬが︑学校を建築するということだけは臨時の費用であります︒

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然るに斯様な計画あることが上聞に達しまして︑畏れ多くも内格金下賜の御沙汰を拝しました︒是は宮中のこ

とを彼是付度して申すのは恐曜の至りでありますが︑然し乍ら教育のことについて大御心を労せられ︑其他百般のことに

つきましても︑今日の事態に応じて斡念いたさせらるるというを拝察いたしまして︑如何にも恐曜に堪へぬのでありま

す︒すなわち偶々高等教育機関拡張の計画あることが上聞に達しまして︑内需金一千万円御下賜相成るということの御沙

汰︑御趣意であります︒殊に此教育の事について斯の如き御沙汰を拝するということは︑唯々感激の外はないのでありま

す︒之に依って一番困難を致して居る年々数万の学生が其道を得て有難く感ずるのみならず︑一般国民も其恵に浴しまし

て︑将来我国の所謂国運発展に貢献すべき所の国民が出来るということは誠に喜ばしいことで︑国民一般も之を聞いて感

かくて貴衆両院において此の高等諸学校拡張増設は可決されたのであるが︑その審議の過程において述べられた意見の

主なるものを摘記しておくことも無意味ではあるまいと思う︒

斯の如き経費を追加予算として議会に提出するのは︑会計法第五条に紙触するの嫌いがある︒

財源を公債又は借入金に求むるは妥当でない︒

巨額の御下賜金を単に中流以上の子弟の教育機関のみに充て︑国民一般に均需すべき普通教育機関︑殊に下級国民の

思沢に浴すべき国民教育︑盲唖教育︑感化教育等にも及ぼさないのは宜しくない︒

御下賜金以外の金額三千四百五十三万余円の財源は之を公債及び借入金に仰ぐと称するが︑これは虚構であって︑そ

の実は地方の献金を以て之に充当せんとする底意である︒個人篤志家の寄附を仰ぐは差支無きこと乍ら︑府県市町村税

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等として賦課によって政府への献納金を捻出せんとするに至つては︑地方財政に悪影響を及ぼす倶がある︒

一時に斯くも多数の学校を増設することの可否は十分考究の余地がある︒

同戦時下実業界の好景気によって教育界に有為の人材の払底せる折柄︑

難であり︑教官の速成︑組製濫造に陥るであろう︒

小学校教師の優遇及び中等学校教師の優遇がより急務である︒

一時に多数の高等諸学校の教官を得ることは困

y

既設学校の内容充実に力を注ぐことを先とせねばならぬ︒設備不完全な新設学校の濫造は内容貧弱となり︑教育の効

果をあげることは不可能である︒

官学偏重︑官学万能主義に堕し︑私学の軽視圧迫である︒

男子のみの高等教育偏重であり︑女子の高等教育を等閑に附している︒

拡張増設さるべき学校の種類︑学部の性質等について異論があり︑之等の研究は新たに文部省に設けらるべき教育諮

問機関を権威あるものたらしめ︑之に諮問して決すべきである︒

新設学校の位置に関して不適切なるものがある︒

しかしてこの大正八年度から同十三年度にいたる六カ年間の高等教育機関の大拡張計画の内容は︑新たに官立高等学校

O校︑実業専門学校一七校︑専門学校二校の増設を骨子とし︑なおその外に既設若干学校の拡充︑若干帝国大学の学部

の増設及び拡充︑既設専門学校五校の単科大学への昇格などが含まれていた︒

このうち実業専門学校一七校の中で︑新興産業経済界の要求に応えるものとして︑幹部技術者の養成のために高等工業

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学校その他の一群は重要であるが︑時代の要望を最も大きく担って打ち出されたのは︑平和産業の経営を支える基幹要員

の養成を目ざす高等商業学校の増設であって︑それは次の八校で第一位を占めていたのである︒すなわち当時迄の官立高

等商業学校は東京︵東京商科大学

1 現一ツ橋大学の前身︶︑神戸︵神戸商業大学||現神戸大学の前身︶︑それに山口︑1

長崎︵以上は明治三十八年創立︶︑小樽︵明治四十三年設立︶の五校であったのが︑名古屋︑福島︑大分︑和歌山︑高松︑

高岡の八校を加えることになったのである︒

第十三高商としての誕生

学校は︑地方の教育や文化の向上に役立つもっとも重要な存在である︒ましてそれが高等教育の学校であれば︑その地

域の無限の発展に資するのであり︑高岡に官立の高等商業学校が設立されることに決定したときの地もとの喜びは︑筆舌

を絶するものであった︒それは︑第十三高商として︑中橋文政の六カ年計画の股りを結ぶ官立高商であり高等教育機関で

あった︒有為な青年は勉学の刺戟を与えられ︑卒業生は社会の進展に貢献するとともに︑また地域の経済文化の発展に役

立つことになり︑高岡はその拠点として俄かに脚光をあびることになった︒学校の創立ほど社会に明るい希望の光を放

ち︑また有益な夢をもっ事業は他にないとされる所以である︒

もともと大正八年からわが国の高等教育機関の拡張︑新設の動きが進んでいた︒高等商業学校としては︑既に東京︑神戸︑

山口︑長崎︑小樽の各校が︑はやくから設立されていたが︑これに続いて大正九年に第六高商として名古屋が︑同十年に第

七高商︵福島︶と第八高商︵大分︶︑大正十一年に第九高商︵彦根﹀と第十高商︵和歌山﹀が︑また同十二年には第十二局商

︵横浜︶と第十二高商︵高松﹀が︑最後に大正十三年︑第十三高商としてわが高岡高等商業学校が設置されたのである︒

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教育拡張計画にもとづいて︑第十三高等商業学校が北陸の高岡の地に設置されるということは︑必ずしも最初から決定

公表されていたというわけではなかった︒とかく新設学校の設置場所の問題は︑ややもすれば政治問題に発展し易く︑議

会において論議の紛糾した例も稀ではない︒

しかし北陸地方については文部省の方針どおり︑高等商業学校は高岡市に︑高等工業学校は福井市にと割り当てられた

のである︒これは富山の売薬と並んで高岡の商業︵銅器や漆器の特産も含めて︶が長い伝統に育くまれ︑商J部として全悶

に問えており︑正しく古川商設置の立地条件にかなっていたからであろう︒だが日時に︑決定当時の文部次官市弘氏が︑地

元高岡市のしかも学校近傍の旧家たる南家の出であって︑学校の位置並びにその設立については公私とも多大の尽力を惜

しまれなかったことも︑大きな要因であった︒いわば同氏は﹁高岡高商の生みの親﹂でもあった︒

さて第四十一回帝国議会の協賛を経た高等教育機関拡張計画は︑大正八年度以降七カ年間の継続事栄として足次実施に

うつされたのであるが︑これら新設の各高等商業学校は前述の如く第七︵福島︶︑第八︵大分︶︑第九︵彦根︶︑第十︵和歌

た︒それら新設の各高商の建築設計は︑

しかしてそれぞれ誘致運動の具体的な展開につれて︑ その創立予算は︑何れも略々月額のものであっ

モデル校の水準にかなって︑類似の外観を呈していた︒

いわゆる地元負担の問題が具体化したのであるが︑各地元の特殊

事情があるとはいえ︑次第に前例への踏襲が見られ︑事は順調に進められたようである︒

本校創立の予算は︑建築費及び設備費とも合計八十万八千五百四十円であった︒そのうち地元負担分は三十二万円であ

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った︒それを富山県及び個人の寄附で折半した︒後者は殊に前田侯爵家からの五万円を始め高岡市民有志の個人的寄附に

かかるものである︒かようなわけで本校の創立については地元の本県官民︑県政当局の負担︑徳川幕政期に薄主をつとめ

た前田家から篤志による多大の浄財を得たのである︒

資料・高岡高商創立の地元負担

高岡高商の地元負担寄附金については︑まず高岡市が地元として個人篤志家をつのってその十六万円を引受けるという

方針のもとに︑大正十年十月十八日の第二三三回高岡市議会において四カ年にわたってこの十六万円の寄附金募集を行う

ことの決議をし︑直ちに県知事にこれを伝えてその申請をした︒因みに当時の高岡市長は鳥山敬二郎氏であった︒

それら資料のうち︑大正十三年の高岡市長より富山県知事への申請書は次の如くである︒

高庶発第二二号大正十三年三月七日出議

I

三月八日施行

市費寄附許可申請

大正十三年度ニ於テ別紙ノ通リ市費寄附犠客月二十八日当市会ノ議決ヲ経候条許可相成度此段申請候也

四万壱千円也

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但︑高岡高等商業学校設立費寄附︵本年度支出額︶

高岡高等商業学校建築費ノ方へ寄附セントスルモノトシテ大正十年度ヨリ四ヶ年間ニ継続支出セントスル︒

またこの地元負担に関する富山県会における議決資料を﹁富山県政史﹂第三巻によって摘記すれば︑次の如くである︒

大正十一年度支出額

大正十二年度各年度支出額大正十三年度

一︑本費は︑国に於て本県に高等商業学校設立せらるる為︑之が建築費及び設備費を︑

自大正十一年度至大正十三年度

至大正十三年度

一金参拾弐万円

金七万五千円

金八万千円

金八万弐千円

大正十一年度支出額 教育費中高等商業学校設立費寄附金継続年期及支出方法

総予算向

国へ寄附するものである︒

教育費中高等商業学校設立費寄附金継続年期及支出方法変更

↑金参拾九万五千円︵実際所要額金参拾弐万円﹀一金参拾弐万円

O

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以上に見る通り最初の寄附金議決は大正十年十二月十六日なされており︑当時の富山県知事は東園基光氏であった︒

高等商業学校の設置決定によって︑本校の所在地は︑当時の高岡市の中心部から約二キロ東北方の郊外︑高岡古城公園

から北東につらなる小丘陵の東北端にあたる土地が選ばれた︒そこは古定塚の地内で︑以前は昼もなおうす暗い草木で蔽

われ︑広くその辺の一帯が俗に士山貴野と称された︒因みに校友会誌も﹁志貴野﹂と命名されている︒しかしてその当時か

ら既にその附近には県立高問中学校︑県立高岡工芸学校及び県立工業試験場がつらなり︑文化教育の一大センターを形成

する素地をもっていたといってよい︒遠景には東に雄偉壮大な中部山岳国立公園の北アルプス連山︑いわゆる立山連峯の

雄姿が晴天の雲表にうかんでいるが︑この天下の絶景を眺めつつ︑本校に学ぶ幾百千の学徒らは︑無限の啓示を感得し︑

心性の浄化に導かれたのである︒関野︑志貴野などと古称された但郷が︑慶長十四年三六O九年︶に前田利家の長子利

長の築城により聞け︑高岡と改称され︑加越能三州の要衝として栄えたのも宜なる哉と忠われる︒

また︑ここから西北方に約四キロのところに︑万葉時代の越中国守大伴家持にゆかりの深い標高二七三米の二上山が望

まれ︑家持の思い出と共に学徒の情操を養ってくれた︒この二上山と立山連峯との問︑すなわち北から西︑南︑東へかけ

ての平野地帯には水田が展開し有名な砺波の散居村が点在する︒その聞に四キロ程北方を眺めると庄川と小矢部川の合流

する河口に伏木港があり︑碇泊している船舶や各種工場の煙がたえず望見される︒またそこからは﹁奥の細道﹂で百蕉が

﹁早稲の香や分け入る右は有磯海﹂と詠んだ︑その同じ早稲の呑と有磯海の汐の香をが今になお伝わってくる︒

以上のような環境の好条件は︑その後全国各地から笈を負うて本校に馳せ参じた多数の学生のすべてに強い印象をあた

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各年度の卒業記念アルバムの中に如実に描き出されているし︑ ぇ︑学生生活の聞はもちろんのこと︑卒業してからも末︑氷く忘れることの出来ない想い出となっていった︒その証左は︑

また学友会誌や同窓会誌をみても︑その問の消息を十二分

本校創設当時の敷地の総坪数は一万六千三百二十一一時であったが︑その後間もなく運動場拡張の必要が認められて︑別

に四百九十四坪が購入された︒その敷地の購入は県及び地元よりの寄附金の一部をもって支出せられて︑文部省へ寄附す

るという形がとられた︒また地均し工事も文部省はこれを県に委託して行わしめた︒その敷地購入及び地均しに要した金

額は十二万五千八百三十八円であった︒因みに地均し工事はなかなかの大事業であって︑

ず︑その後においても学校は巨額の費用を支出したのであった︒ 実は創設当時のみでは完成せ

敷地の購入がなされ︑地均し工事のある程度の進捗をまって︑大正十三年七月に文部省建築課出張所が敷地内に開設さ

れた︒そして建築課自らは専ら設計と監督に従事し︑工事自体は松村組大阪支店とその他地元の建築業者をして請負わし

められた︒最初の建物は︑建築事務所即ち文部省建築課出張所として使用されたバラック式の小舎であった︒それがなが

︿学友会卓球室として使用されていたのであるが︑その後も講堂の後に残っていて物置となっている︒

かくて実際に本建築に着手されたのは大正十三年九月二十四日であったのであるが︑それから僅かに半カ年にして本館

の大部分︑それに簿記教室︵永年消費組合の室として︑

︵一年合併教室として永年使用したるもの︶などの建築が完了した︒そして新入第一学年生の授業にはとにかく差支えな

いまでになった︒因みに本校創立計画による建築工事が全部完了したのは︑建築に着手されてから三カ年余の昭和二年十

さらに第三回生が第一学年生に入学した またその後二年合併教室として使用したるもの︶及び実践教室

月であった︒すなわち第一回入学生が第三学年に進み︑第二回生が第二学年に︑

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創立期の高商校予算

学校及図書館特別会計|

経 常 部 | 臨 時 部 | 経 常 部 | 臨 時 部

』 円l 円 円 | 円

大正13年度[ 16. 405, 2301  81, 2501  1. 131, 3001  23, 624, 280  14年度I11. 088, 9081  308, 8001  975, 0001  45,符l,5601  124, 104, 340  15年度 1111.9佃,0201 2. 520. 89ol  133, 397, 3601  247, 826, 210  昭和2年度 I139, 080. 8881  1. 904, 1601  44, 101. 64ol  185, 692, 688  3年度 I139, 562, 0421  1,  337, 78 451, 6101  145, 204, 172  4年度 I150, 096, 85ol  1. 034, 1601  580, 6401  151, 111, 650  5年度 I161, 345, 54ol  1.  150, oool  1. 900. oool  164, 395, 540 

メ込

時︑つまり学生が漸次増加してその定員に達するにつれて校舎が完成していっ

たわけである︒かくて竣工した建物の総延坪は三千九十七坪であり︑この工費

は五十九万二千百二十四円であった︒そしてこれら全部の建築及び附帯工事の

引継ぎを文部省建築課から学校当局が受けたのは昭和二年十一月九日であっ

た︒なお器具︑機械︑図書の類は本校においてこれを設備した︒

資料・創設期の年度予算

創設期における本校の年度別予算をみれば次の通りであって︑昭和二年が完

成年度であって︑それ以前が創設進行中であり︑昭和三年以後は平常年度とい

かくて昭和三年秋には本校開校祝賀式が盛大に行われたのであるが︑その際

における公式の﹁工事報告﹂をここに附記すれば次の如くである︒

本旦局岡高等商業学校ノ開校式ヲ挙行セラルルニ当リ工事施行ノ顛末ヲ報告

スルハ小官ノ光栄トスル所ナリ

義ニ政府ハ大正八年度以降ノ継続事業トシテ高等諸学校ヲ増設スベキ計画ヲ

立テラレ︑就中︑高等商業学校ハ全国ニ八校ヲ新設シ︑其ノ一校ヲ高岡市ニ設

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居眠スルコトニ決定セラレタリ︒認−一於テ富山県ヨリ金三十二万円ノ寄附ヲ申請許可セラレ︑敷地ノ購入及地均シ工事ハ之 ヲ岡県ニ委託シ︑其ノ完了ヲ倹ツテ大正十三年七月文部省建築課出張所ヲ敷地内ニ開設シ︑専ラ工事ノ設計監督ニ従事

シ︑昭和二年十月ヲ以テ工事全部ノ完了ヲ告グルニ至レリ︒然シテ其ノ設計ハ実用ヲ旨トシ︑装飾的設計ハ成ルベク之ヲ

避ケ指名競争入札ニヨリ請負ニ付シ之ヲ実行シタリ︒

買収セル敷地ノ面積ハ一万六千三百二十一坪ニシテ︑其ノ購入及地均シニ要セシ金額ハ十二万五千八百三十八円ナリ︒

又竣工セシ建物ノ総坪数ハ三千九十七坪ニテ︑此ノ工費金五十九万二千百二十四円ヲ支出セリ︒叉建物一坪当リノ建築費

ハ本館木造二階建三百円︑講堂木造平家建ギャラリー付三百六十四円︑図書閲覧室並一一研究室木造二階建三百十六円︑商

品陳列室鉄筋混凝土造二階建三百八十円︑寄宿舎木造二階建二百三十六円ニ相当セリ︒又器具・機械・図書類ハ本校ニ於

テ之ヲ設備セリ︒

本工事着手以来前後ニ亘リ︑何等ノ故障ヲ生ゼズ工事ヲ完了スルヲ得タルハ︑御臨場閣下各位ノ御後援一一依ルニ外ナラ

ザルコトト深ク感識ノ意ヲ表シ︑悲ニ工事施行ノ概要ヲ報告ス︒

昭和三年十月二十日

文部大臣官房建築課長文部技師

建設に着工以来︑建築物の完成毎に正式に引継がれて行った︒建物の種類︑数量︑費用などは﹁建物及建築費調﹂によ

り︑またそのレイアウトは﹁建物配置図﹂によってうかがうことが出来る︒そこで両者を本章の末尾に収載することにし

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一 五

(18)

一 六

創立事務の進捗と初代校長の任命

学校の建築と平行して本校創立に関する制度並びに組織の整備も順調に推移した︒まず大正十三年九月二十五日には勅

令第二百二十二号をもって文部省直轄諸学校官制中に改正がおこなわれ︑その第一条中に﹁高松高等商業学校﹂と並んで

更にまた同日付勅令第二百二十三号をもって本校の職員を校長一人︑教授五人︑助教授一人︑書記四人と定められた︒

ついで九月二十七日には文部省告示第三百六十五号をもって︑本校の事務所を当分のあいだ文部省内に置く旨が公示せら

れ︑十月八日には福島高等商業学校の只見徹教授が本校校長に任命せられた︒これから文部省内の創立事務所時代が始ま

るのである︒尤も︑口ハ見校長はこれよりさき既に同年二月二十五日付をもって高岡高等商業学校創立委員を嘱託せられ︑

八月頃には上京して文部省内の仮創立事務所で執務を開始された︒

只見初代校長の郷里は埼玉県栗橋町であって︑利根川に架せられた有名な栗橋の鉄橋に程近く︑一面の田園地帯の中

にあって︑質素で風格のある農家がその生家である︒只見家の先代は︑郷土における学者・教育者として聞え︑その門下

から幾多の俊秀が輩出し︑郷党の師父と仰がれていた︒只見初代校長は明治三十四年東京高等商業学校︵現︑一ツ橋大学

の前身﹀を卒業︑直ちに教育界に身を投じ︑高等教育に専念せられ︑わけでも山口高商教授として研究と教育に活躍せら

れた︒のち後福島高商の創設に際してその教頭に赴任せられ︑蒲生校長を助けて創業の難事に当られた︒只見初代校長の

風格︑経歴並びに最近の福島高商の創立事務に参与された経験などは︑すべて本校の基礎を築く上に益するところが大

であった︒制度︑人的構成︑校則や生徒綱領など先生の教育方針は巧まず具現されている︒

(19)

かくて大正十三年十二月十九日には文部省告示第四百十七号をもって︑本校の位置を富山県射水郡下関村︵後に高岡市

に編入︶に定められ︑大正十四年四月より授業開始の旨が公示せられた︒つづいて同十四年一月七日には文部省告示第二

号をもって入学生徒募集要領が公示せられ︑一月二十一日には文部省令第三号をもって本校規程が定められ︑同時に本校

規則制定の件が許可せられた︒

これらと前後して︑只見校長を補佐して多端な創立事務に従事するため︑大分高商から八木沢誠三郎教授が簡抜されて

本校教頭に任命され︑また庶務課長たるべき竹上喜作氏と教務課の掛長たるべき加須屋義喜氏も書記に任ぜられ︑ともに

文部省内の創立事務所において執務した︒またこの創立事務所において最も重要事項である教官人事及び事務職員人事が

審議され︑その人選も着々と進められていった︒

開校に先だって制定された本校規程は後述の通りであるが︑その特色は次のようである︒まず実業人に益々要求せられ

る法制に関する智識を確実にするため︑法律学の時聞を一年から三年にわたって比較的多く設けたこと︑日本海沿岸に位

置する高等商業として第二語学中に露西亜語を加えたこと︑選択学科目を多くして︑教官並びに生徒をして比較的広汎な

範囲にわたる諸問題につき自由に討究する機会を与えたこと︑などは学科課程における特色であった︒

資料・創立当初の本校規程

高岡高等商業学校規程

大正十四年一月二十一日

(20)

第一条

第二条 高岡高等商業学校ノ修業年限ハ三年トス

高岡高等商業学校ノ学科目及其ノ程度左ノ如シ

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(21)

川 口 ﹁ 一 一

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一︑本表中︵商︶印ヲ附シタルハ商業学校出身者ノミニ︑

近世史︑統計学︑海外経済事情等ノ巾二学科目ヲ︑遺択肢習セシム

西 西

但シ学校ノ都合ニ依リ其ノ一種父ハ数種ヲ紋クコトアルベシ

本校卒業者一一シテ更一一既修ノ学科目ヲ研究セシムルコトヲ得

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本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

(22)

右の規程に規程に基づき︑その実施規則として高岡高等商業学校規則が制定された︒次の章別から成る︒

総則︵第一︑二条︶

学年︑学期及休業日︵第四︑五条︶

入学︑在学︑退学及懲戒︵第六!第二十四条﹀

修業及卒業︵第二十五三十条﹀

またその施行に必要な細則も次の内容のものが定められた︒

職員服務規定︵一三カ条︶

生徒心得︵二O

服制︵本校の紋章﹀

宿

第一章第二章

第三章

第四章

第五章

第六章

第七章第八章

i

授業料ハ第三十四四十一条︶

(23)

舎生規約︵一六カ条︶

学業成績考査ニ関スル細則︵一五カ条︶

図書借覧細則︵一五カ条﹀

文書取扱規程︵一二カ条︶

O

傭人服務心得

給仕小佐︵六カ条︶

このようにして制度的にも︑人的にも︑また建物や設備についても開校の準備が予定通り進捗したので︑大正十四年三

月十一日の文部省告示第百十三号によって︑一ニ月二十日には文部省内の創立事務所は高岡の本校内に移転された︒さらに

先に公示された生徒募集要領によって三月二十九日及び三十日の両日にわたって︑高岡本校及び東京商科大学︵現・一ツ

橋大学︶において第一回の入学試験が実施された︒さらに先に公示された生徒募集要領によって三月二十九日及び三十日

の両日にわたって︑高岡本校及び東京商科大学︵現・一ツ橋大学︶において第一回の入学試験が実施された︒志願者は数

七百五十名のうち入学を許可された者は百六十三名で︑四月七日に合格発表が行われた︒

(24)

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第一回の入学式と開校式

A

北陸の地高岡にはじめての意義深い高等商業学校の第一回入学式は︑大正十四年四月二十五日に挙行せられた︒この第

一回入学式における只見校長の挨拶を次に掲げる︒

本日五−一入学生百六十三名ヲ迎へテ第一回ノ入学式ヲ挙行スルニ至リタルハ︑予ノ最モ喜ピトスルトコロナリ︒抑本校

ノ設立ハ大正八年第四十一帝国議会ノ協賛ヲ経タル高等教育機関ノ拡張計画一一拠リタルモノニシテ︑︷目立高等商業学校卜

シテハ該計画ノ最後ニ属スルモノトス︒本校ノ創立費ハ建築費及設備費合計八十万八千五百四十円ニシテ︑其内三十二万

円ハ富山県及個人ノ寄附一一係ルモノトス︒敷地ノ総坪数ハ一万六千三百二十一坪ニシテ︑県ハ右ノ寄附金ノ一部ヲ以テ敷

地ヲ買収シ︑文部省一一寄附セルモノトス︑初メテ本校ノ建築ニ着手シタルハ大正十三年九月二十四日ニシテ︑僅カ半ヶ年

ニシテ本館︑簿記教室︑実践教室等ノ建築ヲ了へ︑弦ニ第一回ノ入学式ヲ挙グルニ至リタルモノトス︒

生徒諸子ハ常ニ我国道徳ノ大本タル教育勅語ヲ奉体スベキハ申ス迄モナキコトナルガ︑生徒心得第一条ニ質実剛健︑醇

厚真塾︑和衷協同ノ諸徳ヲ奨メ︑校風ノ樹立ト其発揚ヲ期セントスルハ︑暴ニ国民精神作興一一関スル詔書ヲ拝シ恐健ノ外

ナク︑特ニ以上ノ諸徳ヲ奨ムルヲ以テ本校教育ノ精神トナスモノトス︒諸子克ク此意ヲ体シ︑堅実ナル校風ノ樹立ニ努メ

(25)

ラレタシ︒然モ諸子ハ当市一一於ケル最高学府ノ生徒タルノミナヲズ︑将来第一回ノ卒業生トシテ我国商業界ニ活躍シ︑本

校ノ真価ヲ社会−一紹介スベキ任務ヲモ有スルモノナレバ︑切−一諸子ノ自重ヲ希望ス︒木校ノ校規ハ︑諸子ガ今日マデ学ピ

タル中等学校ノ其レニ比スレパ楠寛大ナリ︒コレ全ク諸子ノ自覚自重−一依リテ徳器ノ大成ヲナサシメントスルノ超旨ニ外

ナラズ︒若シソレ誤ツテ校規ヲ素スモノアラパ︑全校風紀ノ振粛ヲ図ラムガタメ之ヲ処分スルニ一時陪セザルベシ︒

大正十四年四月二十五日

高岡高等商業学校長

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本校は高等商業の拡張計画の最終校として設立され︑しかも日本海沿岸における最初にして唯一のもので︑最初から士山

願者が多数に上り︑以後も減少しなかった︒

入試の試験実施地であるが︑第一回は高岡と東京の二カ所であったが︑第二回以後は高岡と東京と京都の三カ所で行わ

れるのが一般であった︒

また入試期日は第一回は三月二十九日︑三十日︑第二回と第三回は二十二日︑二十三日のいずれも二日間であったが︑

第四回以後は十九日︑二十日︑二十二日の一一一日間にわたるのが普通であって︑学科試験と口頭試問︵人物考査︶とが実施

入試結果の発表は第一回は四月七日であったが︑以後は大体において四月一日を原則とした︒

(26)

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入学者数ザ志扇薮一比率 163  (1442s)7sci=o.217

157 

(15417)ris~ = o.22s強|

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2. 4川|話十0.1 l

151 

第四回(高岡・東京・京都)| 33・此20,223414 百=O.270

159  第五回C1:'桐・引く・京都) 43・此20,22( 4・413)7百二om

159 

第六回〔高岡服京都)| 5 3・19 20 4・12) 471=0.337 入 試 ・ 入 学 比 率 調

(入学式)

入 試 期 日

15322,23

(潟一日(高|河・東京)

2322,23 第三月(高岡・東京・京都〕

入学式の挙行も第一回は四月二十五日であったが︑以後は四月十日過

ぎ︵十一日十七日︶に行われるのが常例であった︒

したがって合格比率は毎年若干の変動をま

ぬがれなかったが︑創設期においては大体のところ二割乃至一二割前後し

たものとみて差支えないようである︒

これによれば第一回入学生の場合の志願者総数は七五O名︑入学者総

入学比率は0・二一七強である︒しかしこれは名目入

試合格率ともいうべきものであって︑実際受験者数六一四名で受験合格

者数一五二名を除したところの実質合格率は0・二四七強となるのであ

る︒すなわち実際受験者数六一四名とは︑試験検定志願者六九六名︵こ

の外に無試験検定志願者が五四名あった︶から受験欠席者一O八名を差

引き︑これに更に無試験検定に不合格で試験検定を受けた者二六名を加

えたものである︒また︑受験合格者数一五二名とは︑試験検定志願者中

の合格者一四二名と無試験検定に不合格で試験検定を受けた者の中の合

O名との合計である︒これはまた他方︑入学者総数二ハ一二名から

無試験検定合格者一一名を差引いた数と同一である︒なお中学卒者と商

業卒者とに分けてみれば︑志願者総数七五O名のうち中学卒者は四六五

参照

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