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図像解釈の意義と実践── いかに観察眼を養うか ──

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Academic year: 2021

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0.はじめに

 元号が令和に改まり、日本はお祝いムード一色であった。それもつかの間、5月28日に20人殺傷 という残忍な事件が起こった。登校中のバスを待つ児童が襲われ、小学生1名と保護者1名が殺害 され、18人もの児童が重軽傷を負った。驚きが冷めやらぬ6月1日に、また別の衝撃が走った。今 度は父親が息子を殺害する事件が起こった。一見関係の無い二つの事件であるが、共通項があり、

そのキーワードは「ひきこもり」であった。更には、2つとも事件の原因は「ひきこもり」ではな いという反論が出るなど、「ひきこもり」は連日のように紙面を賑わすことになった。この時期、

内閣府は「40才から60才の中高年の推計ひきこもり人数は61万人に上る」という驚くべき調査結果 を発表した。

 「ひきこもり」をコミュニケーションという見地から考えると、コミュニケーションの拒否行為 と考えられよう。もちろん、その拒否には割合や対象者が異なり、一言で「ひきこもり」と言って もその状況は千差万別である。しかしながらここで重要なことは、その「ひきこもり」の件数が年々 多くなってきている事実である。現代社会において人間はコミュニケーションを取らなくなってい るのか、その理由は何なのか、問題は根深い。

 コミュニケーションというと、言語を使う Verbal Communication(以後 VC と記す)のみに力 を入れ、言語以外を手段とする Non-Verbal Communication(以後 NVC と記す)が軽視されてい る感が強い。NVC を行う能力は、訓練を受けることなく、人とコミュニケーションをすることで 自然と身に付く能力であると思われてきた。それが人とコミュニケーションをとらなくなるとその 能力は育たなくなり、社会生活を営む上で支障をきたす原因になるのか。

1.図像解釈の意義

 SNS の進歩と普及によりコミュニケーションのあり方が変わってきた。望めば、他者とは一切 関わらず一人で快適に過ごすことさえできるようになった。必要な情報を必要な時に必要な量だ け、自由に入手することができる環境にある。言い換えると、望まなければコミュニケーションを 最小限にとどめることができ、コミュニケーションを全く行わなくても済んでしまう環境である。

こういった状況は、人間社会で生活する上で将来的にマイナス要因となる恐れがある。この環境下

図像解釈の意義と実践

── いかに観察眼を養うか ──

加 藤 裕 章

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では、コミュニケーションを行う相手が眼前にいないので、その相手から言語以外の情報を直接的 に得ることがなくなる。そういった生活を営み続けていると他者から情報を積極的に得ようとする 機会が減っていき、結果として NVC を行う力が養われないことになる。人間は五感の中で視覚か ら得る情報が一番多い。そう考えると、この力の根幹にあるのは、必要な情報を見抜きその意味合 いを理解する力、いわゆる昔から観察眼と呼ばれてきたものである。現代はこの観察眼が育ちにく い生活環境となっているのである。

 コナンドイルのエデインバラ大学医学部時代の師ベル教授は、卓抜した観察眼と推理力を持って いた。たちどころに病気を診断し、その病人の人となりをも言い当てたと言われている。このベル 教授こそがホームズのモデルであるのだが、観察眼と推理力は訓練によって高めることができるも のだ、と学生達を指導したのだそうだ。

 読売新聞2002年2月3日の WEEKLY コラムに、当時ハーバード大学助教授であった李啓充先生 の「名画が養う医学生の観察眼」が掲載された。イエール大学では、「絵画鑑賞コース」を履修す ることで医学部の学生達の診断能力が高まっている、という趣旨であった。そのコースでは「名画 を鑑賞するのではなく、一枚の絵からどれだけの情報が読み取れるかを徹底して訓練させられる」

とあった。言い換えると、そのコースは、絵画の図像を解釈することによって観察眼を育てている ということになる。

 観察眼というものは、何も医者という職にのみ大切な能力ではなく、人間社会でコミュニケー ションをうまく行う上で必要なものである。今回は、ゴヤの「La boda(村の結婚式)」(1791〜92 年制作 プラド美術館所蔵)(作品番号1)を題材にして、図像を解釈することが NVC 能力を高め、

しいては観察眼を育てる訓練になることを確認したい。

2.NVC

① NVC と図像

 人間が行うコミュニケーションは、その手段を言語とする VC と言語以外とする NVC に分けら れる。NVC の手段は、身体動作にかかわることから所有物にまで多岐にわたる。身振り手振りと いった身体動作学(Kinesics)の分野のものや、人と人との距離、近接空間学(Proxemics)の分 野のもの、服装、化粧、または所有物に渡り、枚挙にいとまがない。その中で言語に一番近いもの は、図像・絵である。それは、表意文字が絵から文字となったという事実からも容易に理解できる。

人類が文字を持たない時から、絵によってコミュニケーションは行われてきた。アルタミラやラス コーの洞窟の絵はあまりにも有名である。もちろん現代でも、文盲率の高い地域では図像を使って 情報を提供している。文字ができる前は、人類は時間と場を超えて情報のやり取りをする時は、絵 画を使っていたのである。

 言語と図像では情報を伝達する速さに違いがある。言語は情報を一つずつ伝えるのに対して、図 像はまとめて一気に伝えることができるという利点がある。

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② 視覚から得る情報

 コミュニケーションを行う上で VC と NVC が同じ内容を示している時には問題は生じないが、

異なった情報を示す時は受け手は混乱する。どちらの情報を優先したらよいか、が問題となる。

 UCLA メラビアン博士の提案した「メラビアンの法則」の主たるところは、VC と NVC で異な るメッセージを受け取った場合に、どちらの情報を優先させるか、ということにある。視覚55%、

聴覚38%、言語が7%という割合で人間は重点を置く、と博士は言う。この数値自体には誤差があ り、異論もあろうが、視覚から得る情報が最優先されるという考えには問題が無いと考えられる。

 例えば、顔から Yes を、言葉から No という情報を得た者は、総合的に判断して通常 Yes と認 識する。逆に、顔の表情から No を、言葉から Yes という情報を得た者は、No と認識するのである。

具体的には、幼子の悪戯に対し、親が言葉で「やってはいけない」と否定しながらも笑顔を見せる と、子供は表情の笑顔を優先し、やっても良いと判断するのである。

 上記のことは異文化間ではどうなるのか。最近の英語のテキストには題材としてコミュニケー ションのトラブルの話題が増えている。それは、NVC に関するものばかりである。2014年度の選 択科目で使用したテキスト「Make Your Ascent to Better English Reading」(Chart Institute)

Lesson 13 では、エチオピア社会においてアメリカ人がとった行動が取り上げられている。アメリ カ人は母国でやっていた行為をそのままエチオピアで行った。すると、「犬として扱われた」とい うクレームをエチオピア人から受けたというトラブルである。アメリカでは何でもない行為がエチ オピアでは認められないということである。このアメリカ人は VC においては問題ないが、NVC の点において文化的な誤りを犯してしまったのである。異文化間によるコミュニケーションの難し さを示す一例である。

 メラビンが言うように、異文化間でも視覚からの情報が一番重要な要素となる。後述するが、異 文化間では同じものを見ても、見るパーツや事柄が異なる。それを材料に判断を行う。その判断に 基づいて行動する。異文化間では目に入る情報が異なるのだから、目に入った刺激に対する反応と しての行動が異なるのは当然のことと言える。

③ 異文化間による物の見方の違い

 コミュニケーション英語 III のテキスト「POLESTAR English Communication III」Lesson 5  Part 2 では顔の表情認識がテーマとなっている。「東洋人は目を、西洋人は顔全体を見る傾向があ り、それが感情を伝えるための顔文字にも同じことが言える」と結論付けている。リチャードニズ ベット氏は、人はその所属する文化圏、民族、国家によって物の見方が異なる、としている。同じ ものを見ても、文化が異なると、重要視する対象が異なるということである。ニズベット氏の実験 によると、魚が泳ぐ同じ水槽を見ても、アメリカ人は大きな魚のみに目を向け細かなものは切り捨 ててしまう。一方日本人は、細かな魚、海藻、小石まですべてを網羅するように対象を見る傾向が ある。このことは、それぞれの社会が何を求めるかに影響を受けているのかもしれない。

 Multiculture の社会では、同じものを見ても民族が異なれば目に入るものが異なり、それを基に

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した考えは当然異なってくる。だから、沢山の情報を出して理解できるようにするようになる。一 方、日本のような単一民族の Monoculture の場合は、同じものに目をやるので同じ考えになりや すい。日本が察する文化をもつ理由のひとつがそこにある。

④ 異文化に対する考え方

 「水は方円の器に従う」と言う。水は四角い器に入れば四角く、丸い器に入れば丸く形を変える、

ということである。それは文化やその価値観を考えるためのヒントになる。ある文化圏に入ったら 水のように形を変えよ、つまり、「郷に入れば郷に従え」ということである。その文化の価値観に 合うように考えて行動せよ、ということである。異文化に触れ、理解する上ではそういう姿勢でな くてはならない。しかし、最も大切なことは別にある。水は自身の形を変えても本質の H2O は変 えていないということである。人間に当てはめて考えれば、異文化に接した時にも、善悪の判断基 準や自身が育んだ価値観は安易に変えてはならぬ、ということだと私は思う。文化間には優劣など はなく、自身の文化を捨て異文化を受け入れる前に、なぜ違うかという理由を考えなければならな い。自身の文化で構築した価値観の座標軸をしっかり持つことが肝要である。

⑤ 図像を解釈する道具

 図像を解釈する際に使う道具がある。それは、図像とその図像が指し示すことがら、内容の関係 である。それをアトリビュートという。例えば、鏡は全てのものをありのままに映し出すと考えら れ、そこから「真実」という意味となった。手のひらに聖痕があれば、キリストか聖フランチェス コであることがわかる。聖フランチェスコは天から聖痕を授かったとされているからである。

3.「村の結婚式」の図像解釈

① 選出理由

 この作品は、日本の文化圏の者には何が描かれているのかわかりづらい。しかし、タイトルを見 るとすぐに理解でき、また分からなった理由も思い当たる作品である。その大きな理由は異文化間 の慣習の違いによるものであり、タイトルから花嫁の衣装の色が原因だ、とすぐに認識できるはず である。日本人が持つ花嫁=白という感覚が普遍的なものであるという概念を崩す作品である。コ ミュニケーションは異文化間では、文化の壁に阻まれスムーズに行われないことがある、というこ とを示唆する作品である。

② 作者

 作者は1746年3月30日に生を受け1828年4月16日82才で生涯を閉じたフランシスコ・ホセ・デ・

ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes)である。名前はスペイン語圏の 人名慣習により、第一姓(父方の姓)はゴヤ、第二姓(母方の姓)はルシエンテスである。ゴヤは、

デイエゴ・ヴェラスケス(Diego Velazquez)とともにスペイン最高の画家と考えられている。ヴェ

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ラスケスはポルトガル人で、1623年24歳で宮廷画家となった。一方、ゴヤは1786年、40歳で国王カ ルロス3世付き画家に、1789年に新王カルロス4世の宮廷画家となる。1792年には不治の病に侵さ れ聴力を失ってしまう。1799年、53歳の時にようやく首席宮廷画家となったのである。アラゴン地 方サラゴサの貧しい村で職人の子として生まれたゴヤが、収入と名声が約束された宮廷画家になる ことは簡単なことではなかった。ゴヤは63点のタピストリーの下絵であるカルトンを描いたが、こ の「村の結婚式」は最後のカルトンと言われている。プラド美術館所蔵である。

③ この絵の中のアトリビュート アイコンタクト

 視線を合わせることをアイコンタクトというが、コミュニケーションを行う際にアイコンタクト をしなくてはならない文化と、する必要のない文化がある。前者では興味関心があれば必ずアイコ ンタクトをするものと考える。そう考えると、この場面では、本来ならば花嫁が花婿の方を向いて アイコンタクトしていなければならない。

視線

 人間は興味関心があるものに目を向け、無いものには目を向けないものである。視線の先にその 対象物があり、その対象物に対してどういった気持ちでいるかが目に現れる。娘たちの目は花嫁に 向けられているが、好意的とは思えない。中には三白眼のものもいる。二人の結婚を祝福している 眼差しではない。同様に、司祭達は父親に対して否定的な視線を送っている。

 描かれている中に視線をこちらに向けている者が一人だけいる。真実を見抜くような目をしてこ ちらを見ている。この少年の風貌はどことなくゴヤに似ている。ゴヤ本人であろうか。

花嫁の衣装

 日本では花嫁は白を着る。それは、嫁いだ家に染まるという意味合いを持つ。ここで描かれてい る花嫁の衣装とヴェラスケスの「マルガリータ」(1659年制作 ウィーン美術史美術館所蔵)に描 かれているマルガリータの衣装とは同じような色合いである。この肖像画が現代のお見合い写真と 同じ意味合いを持っていたことを考えると、この色合いをゴヤが選んだことは意味深い。青い絵の 具は高価であった。青として使える天然素材は僅かで、ウルトラマリンは金と同じくらい高価で あったそうだ。当然ながら、絵の内容において大事なものに使うようになり、聖母マリアの衣装に 使われる。

花婿の衣装

 赤色はゴヤの他の作品では「カルロス4世」(制作年1789年 スペイン・プラド美術館所蔵)(作 品番号2)や「カルロス4世の家族」(制作年1800年から1801年 スペイン・プラド美術館所蔵)(作 品番号3)の中で、男性の衣服に使っている。前者では国王の肖像画であり、赤い服を着ている。

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また後者では、王妃マリア・ルイサ・デ・パルマが中央に描かれ、その両脇に右ドーニャと左フラ ンシクコが描かれている。そのフランシクコが赤い服を着ている。両者とも高貴な人物であること から、この花婿は赤色の衣装をまとっているので、当然、身分が高く財力があることを示している。

花嫁の父親の衣装

 「緑」には良い意味も悪い意味もある。日本では、美しい髪を「緑の黒髪」と表現したり、交通 信号機など、「緑」は良い意味を表すことが多い。一方英語圏では、アメリカでの永住権の Green  Card のようにプラスの意味もあれば、green-eyed「嫉妬深い」という悪い意味を表す時にも使わ れる。ゴヤのスペインでは、緑を表す verde は、文字通り緑という意味で使われるが、悪い意味 でも使われる。「卑猥な」という意味がある。「現代スペイン語辞典」(白水社)の用例には viejo  verde が載っており、「色狂いの年寄り」という意味である。この絵の中では年を取った父親が緑 の服を着て正に viejo verde となっている。ゴヤは花嫁の父親に否定的な意味合いを持たせている。

 日本では想像できないが、今でも世界では靴を履かずにはだしで生活をしている子供たちが大勢 いる。理由は貧困である。1990年頃には、路上生活をしていた子供だけでなく大人でさえ、裸足で 生活をしている者がいた。この絵の中でも裸足の子供がいる。

トランペット

 トランペットは、「名声」等が広く鳴り響く、という意味になる。この場合は、結婚という人生 における重要なイベントが行われていることを広く示している。

④ 描かれているもの 人間 3人のフォーカルポイント・主人公

 ここでは老若男女、合わせて20人以上もの人物が描かれている。この中で主人公は誰か、つまり 一番重要な箇所、フォーカルポイントが何か、ということである。フォーカルポイントは、①他と 色が違う、②他と比べて大きい、③中央に位置している、④明暗の差があり他よりも明るい、といっ たことから見つけることができる。

 実際に構図としての中心が物語の中心となっていることは多い。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」

(1495年制作 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院所蔵)では、キリストを中心に左右シ ンメトリーになっている。キリストのこめかみに遠近法の中心点、消失点があることから、画面の 中心に位置していることからも、キリストが話題の中心だと分かる。また、他の人物の身振り手振 りがキリストを指していることからも判断できる。内容的には、キリストが口を少し開いて描かれ ており、「銀貨30枚で私を売った者がいる」というキリストの言葉に対する使徒達の反応である。

話の中心はキリストである。

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 ここでは左から年代順に描かれ、先頭が子供、花嫁、中央に花婿、花嫁の父親、最後尾が老人と なっている。男女の別は問わず、人間の一生を表している。赤い衣装を着た男が花婿で、その前の 青い衣装の女性が花嫁である。話の中心人物であり、絵の中央に描かれている。更には、周りの者 より明るく描かれ、色合いも華やかである。こういった理由から、この二人が主人公であると見当 がつく。もう一人緑の男も明るく描かれている。この男は花嫁の父親である。この3人がフォーカ ルポイントになる。更に、この絵は花婿を中心に左右に分かれている。左半分は娘たちが花嫁に視 線を送っているので、花嫁が中心とわかる。一方、右半分の中心は花嫁の父で、画面右の者達が父 親に視線を送っている。

 花嫁は、その足元を見ると、靴を左右逆に履いている。一度でも靴を履いた経験があれば、左右 を間違えることはない。このことから、描かれている他の子供と同じように、これまで靴を履いた 生活をしてこなかったことが分かる。つまりは、靴を買えない程貧しい家庭環境にあった、という ことをうかがい知ることができる。

 花婿は、華やかな赤色の衣装をまとっており、道化のように描かれている。お世辞にも器量が良 いとは言えないが、その衣装から財力があることが十分うかがえる。花婿は花嫁を逃がさないよう にと、後ろからその腕をつかんでいる。

 父親は、他のものと比べて動作が大きい。何を急いでいるのか、帽子を取り、慌てている。娘の 意に反する結婚をこの父親が強要したのか。花婿の財力に目がくらみ、娘を嫁にやったのか。花嫁 が花婿に対して目も合わせないといったつれない態度をとっているのを見て、花嫁の元に向かおう としているのか。この結婚が破談にならないようにと、花嫁を説得するのだろう。

⑤ 描かれているもの 背景とその意味

 背景と人間とのコントラストで一番有名なのはダ・ヴィンチの「モナリザ」(1503年〜1506年制 作 ルーヴル美術館所蔵)である。「モナリザ」では相反するものが描かれている。モデルのジョ コンダ夫人と背景が内容的に対をなしている。モデルはミクロ的な生と死を、背景は地球規模のマ クロ的な生と死を表している。

 ゴヤの他の作品に目を転じれば、1814年作「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺」

(1814年制作 プラド美術館所蔵)(作品番号4)では、銃を向けられた白いシャツを着た若者が両 手を上げて広げたポーズをとっている。背景ではなく、この場合は前面に、そのポーズと呼応する かのように死者が同じポーズで横たわっている。若者が次の瞬間には死んでいくことを暗示してい るのである。このように時の流れを示すこともある。この若者のポーズはキリストの磔刑のポーズ であり、若者の手のひらには聖痕もある。

 ここでは、石造りの橋がアーチを作っている。当然中央が高く両サイドが低くなっている。この アーチと相反するかのように、並んでいる村人達は逆の形のアーチを作っている。その一番低いと ころに花嫁がいる。本来は結婚式では、花嫁は笑顔でこの上ない幸福を感じているものである。し かし、この花嫁からはそうは読み取れない。一般論として、結婚式が人生の一番良い時であること

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を示しているのが背景である。一方、村人が作るアーチは花嫁の心情を示している。この花嫁にとっ ては最悪の時を迎えていることを示しているのである。一般論と現実との対比である。

⑥ 結婚式とわからない2つの理由

 次の2つの理由からこの絵の画題が結婚式であることがわかりづらい。

 一つ目は、花嫁の衣装の色である。現代では花嫁は白という印象が強い。招待された女性は式や パーテイーでは白い衣装で出席することを避けることが慣例ともなっている。ところが主人公であ る花嫁が白でなく青色の衣装を着ている。そのことで、結婚式という発想をしづらくなっている。

 更に、この花嫁と花婿は視線を合わせていない。アイコンタクトをしていないのである。この二 人が、見つめ合って手を取り合っていれば、少なくとも向かい合っていれば、結婚式だとわかる可 能性が高い。花婿は花嫁の腕を背後からつかんでいるが、花嫁は花婿と視線を合わせていない。興 味関心があれば自然と視線が向くものである。マザーテレサは「愛」の反対は「無関心」であると 言ったが、花嫁は花婿に興味関心が無いような素振りである。その意味で愛が無いのである。しか も花嫁の表情が楽しそうに見えず、無表情であるからだ。その理由は単純明快で、本人が望んだ結 婚ではないからであろう。愛のない政略結婚なのである。

⑦ ゴヤのねらい

 抽象的な概念を具体的なもので示すのが絵画の特徴の一つである。ここでは、マンサナーレス川 とそこに架かるトレド橋が描かれている。しかし、村人達は橋の上を渡らずに、橋の下を渡ってい る。本来あるべき道を歩んでいない、ということを示している。醜いが財力がある中年男と若く美 しい娘との対比して描かれている。この結婚には本来の理由である「愛」とは別の理由の「金」が あり、欺瞞に満ちた結婚式であることを表している。

⑧ まとめ

 この絵画を読み解くことは、250年以上前に生きていた作者のゴヤとコミュニケーションをとる ことと考えられる。図像は時空を超えて NVC を成立させる道具となる。時と場所が異なれば当然 文化も異なり、従って価値観も違ってくる。そのため、簡単には NVC は成立しないかもしれない。

しかし今回のように成立しない理由を考え、原因となる価値観の違いに触れることで、更にそれを 理解し受け入れることで溝は埋まり、NVC の成立に近づくことになる。違いに対して否定するの ではなく、なぜそういう価値観が生まれたのかを知ろうとすることは、人間理解にもつながる。そ れは日々の生活を営む上で役立つ姿勢であろう。人間一人一人にも文化がある。なぜ違うのか、な ぜそう考えるのか、を考えることが他人を理解することにつながると思う。他人を理解することが 他人を受け入れることの第一歩である、と私は考える。

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5.おわりに

 10月28日の朝日新聞の朝刊一面に「中高年のひきこもり 支援課題」と題する記事が掲載された。

ひきこもり状態の人は40代が最多だが、支援を受けているのは20〜30代が多く、40代以上の当事者 をいかに支援につなげるかが課題である、と記されていた。ひきこもり支援センターが各地に設置 され課題解決に尽力している。前述の5月に起こった殺傷事件後には、センターの電話が鳴りっぱ なしだったそうである。

 ひきこもりの人達のコミュニケーション能力が低くなる恐れがあることに触れた。一方、支援す る側は、ひきこもりの人とのコミュニケーションを成立させるため、相手の低くなった能力を補う ために高いコミュニケーション能力が必要となる。発信する側の情報が少ない分、その少ない中か ら必要な情報を取り出し、コミュニケーションを成立させなければならない。これは容易なことで はない。

 ここで述べた状況下で必要とされるのは、NVC 能力である。言葉以外の情報から相手を理解し なくてはならない。そのためにも NVC 能力を高め、観察眼を持つ必要がある。図像解釈がその一 端を担うことができれば、と願うばかりである。

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使用作品一覧 作品番号1〜4

作者:Francisco José de Goya y Lucientes 所蔵:スペイン プラド美術館

出典:スペイン プラド美術館公開サイト El Museo del Prado lanza el sitio web Goya en el Prado http://www.museodelprado.es/sala-de-prensa/noticias/noticia/volver/72/actualidad/el-museo-del- prado-lanza-el-sitio-web-goya-en-el-prado/

作品番号1

La boda(村の結婚式) 1791-1792制作

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作品番号2

Carlos IV(カルロス4世) 1789制作

作品番号3

La familia de Carlos IV(カルロス4世の家族) 1800制作

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作品番号4

El  3  de  mayo  en  Madrid  o “Los  fusilamientos”(1808年5月3日 プリンシペ・ピオの丘での銃 殺) 1814制作

参考文献一覧

西洋絵画の巨匠10 ゴヤ  大高保二郎著  小学館 スペインゴヤへの旅    中丸 明著   文藝春秋 西洋絵画のモチーフ    池上英洋著   誠文堂新光社 絵画の見かた       池上英洋著   新星出版社 絵を見る技術       秋田麻早子著  朝日出版社 木を見る西洋人 森を見る東洋人

リチャード・E・ニスベット:著 村本由紀子:訳 ダイヤモンド社

参照

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