1.誕生から小学校時代まで:自然豊かな環境と温かい人間関係
2.中学校時代:勉強好きと嫌なことの実体験の意義=先が見えないまま自分を探る 時期
3.高校時代:人生・進路を自分の個性と突き合わせて考える=先を見定めながら伸 ばす時期
4.大学時代:
4.1 東京学芸大学時代:勉強中心に自分を教養に挑戦させる時期 4.2 東京大学教育学部時代:自分の専門に悩む時期
5.研究生時代:生活上,自分が最も弱くされた時期
6.大学院時代:専門を固めるとともに,人生の使命感を抱いた時期
(以上,前号:カリキュラム研究の個人的回顧と展望(1))
7.大阪大学助手時代:専門が保障され,自分の基礎的素養を準備した時期
そんな東大紛争の中を,博士課程 1 年が終わろうとしていた頃,細谷先生を通して,大 阪大学に助手の就職口があるがどうか,というお尋ねがあった。筆者は,当時,朝日新聞 論説委員で,後の文部大臣,永井道雄氏の「八ヶ岳構想」という,東京一極集中はよくな い,地方の峰を高くすべきだとの主張に共感し,東京にはいくらでも優秀な人がいるから,
自分は都落ちと言われようとも地方に出よう,と考えていたので応諾した。この選択は,
関東生まれの人間が関西を知ることとなり,次いで中部地方を知って,日本全国を知る上 で大いに役立った。その頃の筆者の座右の銘は,地方に出ても,「燕雀安くんぞ鴻鵠の志 を知らんや」と「鶏口となるも牛後となるなかれ」であった。また中学校時代から,「論語」
の「学びて思わざれば則ち罔し,思いて学ばざれば則ち殆し」も,机上にメモしていつも 見ていた。
大阪大学時代は文学部・教育学科の助手として働いた。文学部助手会に出てみると,み
カリキュラム研究の個人的回顧と展望(2)
安彦 忠彦
な筆者よりも年長で,聞くところによると,筆者が助手になるまでは,みな博士課程修了 での採用で,筆者の場合もその条件で探したが,東大にも京大にも候補者がいなかったの で,やむなく筆者が採用されたのだという。それだけ助手といえども高い質を求められて いたと言ってよい。ところがそれが無理となり,筆者が助手になって以後は,その後の助 手はみな若くなった。そのせいか,助手会の幹事をまず筆者が赴任早々なのにやらされ,
半年後の紛争時にはもう前面に出て動かなければならなかった。
この助手時代には,大阪万博があり,個人的には両親を呼んで案内したが,その際に親 子喧嘩をして,親子といえども甘えは許されず,結局は他人であるという経験をした。し かし,何よりも忘れられないのは大阪大学の紛争であった。赴任して 1 年目の後半から,
つまり東大紛争の半年後に大阪大学も紛争となり,それから 2 年間キャンパスに入れず,
教授会・助手会も,学外のあちこちで開かざるを得なくなって大いに困ったが,暇な時間 はかなりあった。その時間を使って研究は進められたけれども,むしろ助手会幹事として の活動を主にすることとなり,ここでも少数派の助手たちの意見を聞くようにして,助手 会としても教授会や学生たちに対して,過激な動きが生まれないように配慮したのだが,
今でも悔いが残っていることがある。
それは,全共闘系の学生によるキャンパス封鎖が続いていたある時,主任教授の扇谷 尚先生に呼ばれて行くと,教授は「実は総長から,君に会いたいと言ってきたが,会うつ もりはあるか」ということだった。それは,その前に当時の釜洞醇太郎総長が,各学部を 回って教授会の意見を聞く場を設けたとき,助手会の意見も 20 分ほどなら話してもよい とのことで,幹事の筆者が制限時間を超えて真剣に話したことが,総長の呼び出しのきっ かけだという。即答を避け,考えさせてほしいと答えて数日後,非公式とはいえ個人的に 陰で動いて,教官や学生から妙な疑念を持たれたくない,お会いするときは公の場,みん なの前で話したいのでお断りする,と正式に返答した。
その後,かなり経ったある時点で,封鎖をしていた学生が,話し合う用意があると暗に 伝えるようなビラを出したのを見て,そこでよほど間に立って動こうかと秘かに思ったの だが,それ以外に何も動きがなかったこともあり,結局,何もしないうちに警官隊の導入 に至ってしまった。筆者が学生と総長との間に立って話し合いの仲介をしていたら,警官 隊の導入は避けられたかもしれなかったのである。ただ,警官隊の導入によって逮捕され た学生は皆無だったのが,せめてもの慰めであった。こういう時の状況把握とタイミング の取り方の難しさを痛感した。
研究の面では,この頃から理論・実験研究を推進して,大学院時代の東先生のゼミでの まとめを,「適性と評価-個別指導におけるその意義の再検討―」という論文によって,
大阪大学学生相談室紀要『カウンセリング研究』第 4 号,1971 年に行ったことで,その後
の「個別化・個性化」と「学力評価・カリキュラム評価」研究の基礎固めをした。次の愛 知教育大学時代に向けて,学力と教育課程・カリキュラムとの関係を「学力の客観的対応 物が教育課程・カリキュラムである」と規定する方向性を得たのである。
もう一つ,研究面での基礎的原理的部分に影響したものとして,紛争後に起きた教育哲 学講座主任の森 昭教授の舌禍事件があった。それは,森教授がある講義か何かの折に,
部落差別問題から見て不適切な発言をしたという,院生からの部落解放同盟への告発によ るものだった。筆者は森教授の下の助手でもあり,教育学科のスタッフ全員が同盟の本部 に呼ばれて丸一日「糾弾」を受け,大きな新聞ダネになった。こんなことで,なぜここま で言われなければいけないのかと,最初は不満を持って臨んだが,糾弾を注意深く聞いて いると,同盟側の憤りもよくわかり,終わるころには十分理解して,今後このようなこと のないように自分も気を付けようと思った。これは関東で生まれ育った人間には,十分理 解されないかもしれないが,部落問題・人権問題への関心を深めさせてくれた貴重な体験 であった。
さらにもう一つ,毎週日曜日に大阪から京都までバイクに乗って,雨の日も風の日も,
可能な限り無教会キリスト者の先輩,当時京都大学理学部教授の富田和久先生が主宰する 北白川集会に通った。富田先生は,当時大学で同僚の文学部教授の塩谷堯先生の助けを 得て,25 人ほどの会員の集会を続けておられ,聖書講義とキリスト教講演会を通して伝道 に努めておられた。先生からは,物理学者らしいすっきりした構造的な論理と,温厚な笑 顔と謙虚な人柄を通して,実に自然な絶対者への従順と科学者としての人間的限界を教え られた。時々,筆者は買いかぶられて難しい質問をされたので閉口したが,先生は誰をも 裁くことをしない方であった。けれども,公の場で一般の人向けに語るときは,その透明 で明晰な論理を通して,実に鋭く現実を分析し,人間の根本的な次元の問題の解決がない 限り,この世的な平和や平安はないことを痛言された。そんなときは預言者的な雰囲気を 漂わせる方であった。筆者が大阪大学の紛争で助手として苦労していた時に,先生も京大 で紛争中に理学部長をされていたこともあり,時に意見交換をしたが,筆者は自分の方の 問題への対処法を先生に求めたことはない。先生の心労が並大抵のものでないことを知っ ていたので,先生には一切相談しなかった。
また筆者が大阪大学を離れて後,先生が,研究室の電気系統の器具の腐食による無臭の 有害物質により,慢性的な難病の喘息にかかられたことも,筆者が愛教大でコピーに喉を やられた経験をしたので,先生の寿命を縮めるものではないかと恐れていた。結局,先生 はこの病気の重篤化により天に召されたので,筆者も自分の病気が心配だったが,幸いに して筆者は,アメリカへの研究留学とその後の対応,コピー機の改良により,喉の病気か ら解放された。しかし,数年前に純粋ヘルペスという病気にかかり,処方のタイミングが
遅れたため,喉の炎症が慢性化し,今に至っている。
8.愛知教育大学専任講師・助教授時代:自分の専門への使命の自覚とその達成 への見通しをもった時期
大阪大学時代の研究の一つに,「教育工学」への理論的興味がある。これは,東大院生 時代に,東先生のゼミでアメリカの「教育工学educational engineering(technology)」 を取り上げ,その在り方について議論していたこともあり,大阪大学に来てからも,助教 授の元木 健先生が「発見学習とプログラム学習の統合」の方向を,ゼミのメンバーで模 索していたこともあって,プログラム学習の延長として,「教育工学」は勉強せざるを得 なくなっていた。そこへ大阪市立大学の佐藤三郎先生が編者で,その関係の新書を出版す る話があり,筆者も分担執筆者として,「教育のシステム化の方向は避けられないが,そ れを開放的で柔軟なものにすべきだ」と,新たにシステム論を取り入れて一章をまとめて いた。それが教育課程研究とともに運よく認められて,愛知教育大学(以下,愛教大と略 称)に専任講師として呼ばれることとなり,8 月の夏休みから愛知県に移ることとなった。
愛教大時代は,歴史研究と理論・実験研究に精を出した。文部省の科学研究費を獲得し て,明治以降の中学校の教育課程の歴史研究を始めてみたが,資料集めが難しく,途中か ら,それよりも第 2 次世界大戦後の新教育のカリキュラムが,愛知県の教育現場にどのよ うに,どれほどに受け入れられたのかを解明することにテーマを変えた。そのために県下 の中学校を訪問調査して,できるだけ実態に近い資料として,その時期の研究授業におけ る学習指導案を主に収集,整理することに方針転換した。なぜなら,愛教大の卒業生が学 校現場にいて,ちょうど戦後 30 年ほどになり,校舎の建て替えによって,新教育時代の 資料が廃棄され始める時期に当たっていたからである。これによって,博士の学位請求論 文も書けるであろうとの見込みのもとで,3 年ほど収集活動を行った後,これらを分析し ようと計画した。
ところが,収集してきた資料は千点以上に上り,県下の学校のもので返却の必要があっ たので,すべてコピーして返すことにしていた。当時の湿式コピー機は臭気のある揮発性 の溶液を通してコピーするものだったが,夏休みに 10 日間ほど一日中コピー室にこもり,
換気もせずに一時に集中的にコピーをしたところ,喉に赤く炎症を起こし,結果的に扁桃 腺を手術して切除することになった。その後も,資料返却のためにコピーは続けざるを得 ず,再び熱心にコピーをしたところ,また喉を痛めてしまい,慢性の咽喉頭炎となってし まって,コピーどころか,コピーしたものを読むことすらできなくなった。結局,このた めに研究室に農薬用のマスクをして行くような羽目になり,歴史研究による研究成果を出
すことは諦めざるを得なくなった。その時の資料は当時の教科教育研究センターに整理保 管していたが,まだ愛知教育大学に残っているならば,誰かが研究上有効に活用してほし いと願っている。ただし,収集物には県内地域によって数量に精粗があり,不十分な地域 は補充する必要があるので,部分的利用に限られるかもしれない。
そんな中,理論・実験研究の方は,愛教大の卒業生が学校現場に多数出ていたので,種々 の授業研究を行うことができた。その意味で,卒業生は筆者にとって,かけがえのない「宝 物」だと位置づけ,評価していた。愛教大附属の中学校(名古屋と岡崎)を中心に,附属 の両方の小学校や岡崎の附属特別支援学校と,お互いに意見を交換し合って,実践研究を 蓄積した。またそれ以外の公立中学校とも親しくして頂き,岡崎市,安城市,西尾市,そ して新城市などの,三河地方を中心として「個を大切にした授業」とか「わかる授業」と いった,集団学習・一斉学習の中でも,個々の子供を大切にする授業をいかに創り出せる か,に関心をもった学校に出入りして,共同研究をすることが多かった。
ただ筆者の関心は「教育課程研究」の面からの授業研究であって,純粋に「指導方法・
指導技術」を対象とする授業研究にはあまり関心がなかったので,多少その点での意見の ズレを感じた先生方が多かったように思う。個別化・個性化も,教育課程・教材にまで踏 み込んだ授業研究でないと,筆者は不満が残ったので,そういう部分まで踏み込んでくる 先生方,例えば,理科の授業書を開発・改訂する「仮説実験授業」の研究会に関心を持つ 先生方,「社会科の教材」にまで検討を深めるような先生,国語や数学にも教材面で研究 しようとする先生方など,教科に関係なく「教育課程・教材」をも含む授業研究に精力を 注いだ。この点で,子供と指導方法・形態に主たる関心を持ち,教科内容や教材に対して は,思考を刺激する上での手段的な価値しか置かない,「社会科の初志をつらぬく会」の 研究者・実践家とは意見を異にした。
しかし,授業研究の分野では,何と言っても名古屋大学教育学部の存在が,学生時代か ら大きかったので,筆者は,事実をつくる教員の養成を目的とする愛教大でも,職場とし て十分満足だったが,名古屋大学(以下,名大と略称)だったら移ってみたいと秘かに思っ ていた。そんなときの 1980(昭和 55)年の前期に,名大から愛教大に非常勤講師で来て おられた石黒一三教授が,後期から名大教育学部に来ないかと,声をかけてこられたので ある。筆者は石黒先生とはそれまで一面識もなく,なぜ声をかけてくださったのかを聞い たところ,実は石黒先生は,細谷先生と名大教育学部の前身岡崎高等師範学校以来,長年 親しい関係にあり,筆者の最初の著作『学校の教育課程編成と評価』明治図書,1979 年が,
細谷先生に献呈されていたのを見て,筆者がどんな人物か,前期に愛教大に来て見ていた のだとのことだった。石黒先生の見識の一つは,学者として言行一致でなければならない,
ということだった。教育学者の中には,口では受験教育批判をしていながら,自分の子供
は受験中心の進学校に通わせている人もいたことを問題視していたのである。その意味で,
教育学者としてご自身の子育てをご自身の理論で行って見せる,という良心的な責任意識 の高さは独特であった。この石黒先生との関係でも,細谷先生のご恩を感じたものである。
なお,この著作は 37 歳の時のもので,筆者は有力な教育学者が大体この年齢までに単 著を刊行していたので,それを一つの目安にして研究していたから,粗い内容とはいえ刊 行出来て嬉しかった。今から見ると,自分の学問的・思想的な柱の部分は,この本の中に ほぼすべて入っている。その意味で,処女作とするにふさわしい内容であったと思う。
9.名古屋大学助教授時代:専門への使命達成への過程を実現しようと努めた時期
1980(昭和 55)年の秋から名古屋大学教育学部に転任したが,筆者は大変嬉しかった。
名大に来てからは,主として,前期中等教育に関わる,自己評価を取り入れた,強い個を 育てる教育課程づくりのための授業研究と,アメリカの中学校改革を中心とする教育課程 の比較研究とを行った。筆者にとって名大は「日本の授業研究発祥の地=メッカ」であり,
重松鷹泰,上田 薫という「社会科の初志をつらぬく会」の指導者を中心に,筆者が引き 継いだ教育内容講座の廣岡亮蔵,教育社会学の木原健太郎,マルクス主義教育学に依拠す る杉山明男など,筆者の一つ前の世代の著名な学者が,自らの授業研究をそれぞれの立場 から競い合って展開していたので,名大は授業レベルの戦後の教育研究をリードしていた と,筆者は高く評価していた。筆者自身も,立場は違うが実証的な授業研究を通して,教 育学の成果を実践的に示そうとする点で,深く学べる場所だと考えていた。実際,学校現 場に出入りする名大の研究者は,上記の方々の弟子に当たる次の世代になっていたが,愛 教大よりもずっと多かった。筆者も,教育内容・教育課程・カリキュラムに結び付けた授 業研究を,そういう人たちから学ぼうと心がけた。
同時に筆者は,「教育課程は学力の客観的対応物」であるとの観点を,すでに明確に持っ ていたため,「学力評価」を「教育課程評価」と結びつけてとらえる見方を打ち出し,「学 力論」の世界に「評価論」の方からアプローチして,独自の視点として論じるようになっ た。それが後に,学校に「総合的な学習の時間」が導入されて以後,「評価はすべて自己 評価である」との考えから,数値によらない自己評価が現場にも必要とされ,現在に至る まで,教育評価の分野で「自己評価」論が確立される基礎となった。筆者の『自己評価―
「自己教育論」を超えて―』図書文化,1987 年は,思想信仰上の恩師,関根正雄先生に献 呈されたが,その後ロングセラーとなり,2005(平成 17)年まで 13 刷を数えた。愛教大 以後に協働した実践家の事例を活用し,教育学者として,「自己評価」の重要性を学界に 初めて認知させたことが,筆者の独自の貢献として後世に名を残せたことは,幸せなこと
である。(田中耕治編著『人物で綴る戦後教育評価の歴史』三学出版,2007 年)
そんな中で,筆者は若いうちから欧米への研究留学を望んでいたが,愛教大,名大とも,
文部省の在外研究員制度にはすでに多くの先行候補者がいたため,その順番で機会を待つ のは諦めて,ハーバード・エンチン研究所とフルブライト委員会の若手研究員の募集に応 募した。前者には教科書研究で応募したが不合格となり,後者にはその翌年,アメリカの ニュー・タイプの中学校(ミドル・スクール)の実地調査研究で応募したところ,運よく 合格となった。この時,筆者が東大の院生時代に,非常勤の授業に来ていた国際キリスト 教大学教授の小林哲也先生が,幸運にも英語による面接試問の委員だったこと,そして,
面接試問に臨むときに当時の委員会の日本所長だったC.ヤンさんが,「質問に答えるとき は,相手の質問をよく聞いて理解してからにすること。意味が少しでも分からなかったら,
何度でも聞き返した方がいいんですよ。いい加減な理解で答えをするのはよくありませ ん」と助言してくれたことが,大いに役立った。これによって 1984 年7月から 1985 年 8 月まで 1 年余の間,家族と共にフロリダ州ゲインズビルGainesville市のフロリダ大学に 滞在した。理由は,まずミドル・スクール運動の創始者の一人のW.アレギザンダー教授 を継いだ,P.ジョージ(Paul George)教授がこの大学にいたこと,そして筆者は寒いの が嫌いで暑い方が好きだったこと,の二つである。ハーバード大学やシカゴ大学などは,
みな冬は寒いところだった。
この年度は,アメリカの中学校で,偶然にもミドル・スクールとジュニア・ハイ・スクー ルの数が逆転した記念すべき年度だった。筆者は,自分の子供たち 3 人全員を,一番上の 娘は地元のミドル・スクールに,真ん中の娘と末っ子の息子は地元の小学校に入れて,保 護者・研究者・部分的な教員補助者という一人三役で,これらの学校に頻繁に参与観察に 入り,その後盛んになる「学校のフィールド・ワーク」(アクション・リサーチ)的な研 究の走りとなる活動をした。その結果が拙著『よみがえるアメリカの中学校』有斐閣,
1987 年である。
実は,筆者のこの仕事にはモデルとなるものがあった。それは,名大の同僚で教育心理 学者の故梶田正巳氏だった。彼はハーバード・エンチン研究所研究員としてボストンに 1 年間滞在した際に,ボストンを中心にアメリカのマサチューセッツ州の小学校をフィール ド調査して,『ボストンの小学校』(有斐閣)という本を出しており,筆者はその中学校版 を出したかったのである。彼は単身での渡米研究だったので,その著書には保護者や子供 の目線は入っていなかった。しかし,彼のこの調査方法は先駆的なもので,学校の参与観 察による文化人類学的な研究法に基づく成果として,筆者は高く評価し,彼の始めた学部 の授業「学校のフィールド・スタディ」に筆者も参加させもらい,学科を越える学部・大 学院合同の研究実習として,共同開講していたほどだった。アメリカの教育の実情が実に
丹念に描かれていたのである。そして,P.ジョージ教授の名を教えてくれたのも,この 梶田教授だった。
1984 年夏に行ってみて気付いたことだが,フロリダ州は大西洋岸にあり,日本から最 も遠いアメリカだったことである。幸い日本人が少なく,英語で生活するにはかえってよ かった。また「フルブライター」であることは大変名誉なことで,共産圏からも招かれる アメリカ政府の客人であり,どこに行っても歓迎されたが,年齢が高めだったことで,逆 に日本の教育のことを英語で話すよう,数回求められたのには閉口した。拙い英語で何と かやり通したが,最後まで聴き取りの能力は十分なレベルのものにならなかった。筆者の 子供たちの方はすぐに適応したが,当初は言葉が通じず,本当に不安だったと今でもいう。
ジョージ教授の一家とはすぐに親しくなり,教授にも似たような年齢の子供たちが 3 人い て,子ども同士も友達となり,アメリカ滞在では大変お世話になった。帰国後は,ジョー ジ教授との共同研究や,息子さんの名大附属中・高等学校への体験留学などでも交流を続 け,いまだに親しい交際が続いてきている。彼と気が合った理由は,この年は,アメリカ 教育学会AERAと全米教育協会NEAの下部組織ASCDの年次大会が偶然同じ日にあり,
どちらの年次大会に行きたいかと聞かれて,先述のように実践重視の立場から後者に行き たいと答えたら,彼も同感だということで,二人とも後者に出席したことによる。
もう一人,アメリカの研究者として忘れられないのは,ウイスコンシン大学のM.アッ プル教授である。彼はユダヤ系アメリカ人の新マルクス主義者で,筆者とは立場が根本的 に違うが,人種差別,性差別等,ほぼあらゆる差別に反対するその思想的傾向は,筆者の ような少数者をも大切に扱うとともに,やはり実践を重視し,その批判理論により民主主 義的な言論を展開していた。何よりも,志を同じくする教師と協働して,その種のグルー プの中で唯一人,実践的にも「民主的学校Democratic School」を創って見せていたことに,
筆者は感銘していた。年齢的にも一つ彼の方が若かったと思うが,率直な意見交換ができ たのである。
その後,この種の前期中等教育の教育課程の比較研究を進めたいと思い,イギリスのロ ンドン大学大学院教育学研究科の比較教育学者で,後の欧州比較教育学会会長のR.カウ
エン(Robert Cowen)教授や,イギリス・カリキュラム学会会長のケンブリッジ大学教
育学研究所のカリキュラム学者 M.ジェームズ(Mary James)教授などとも親しくなり,
相互訪問して調査研究を行った。この二人のお陰で,イギリスのロンドン市内のミドル・
スクールのフィールド・スタディを,3年にわたって行うことができたことは,筆者に とって,博士学位請求論文を仕上げる上で,見通しをもつことに大いに役立った。
事実,その後,数年して文部省の短期在外研究の 3 カ月を与えられたとき,フランスの 中学校段階のコレ-ジュcollègeの学校調査を行うとともに,ドイツとアメリカの実地調
査の補いが可能となり,何とか学位論文を完成させることができた。中学校に当たる前期 中等教育のカリキュラムの,米・英・独・仏・日の 5 ヵ国の比較研究で学位を取ることに なるとは,当初は思いもしなかったので,院生時代の指導教官の山内先生に恩返しができ て,ある意味で嬉しかった。山内先生からは,テーマ設定の時以来,時々だがいつも温か い励ましをもらっていたからである。ただ,学位は若い時に,妻にその取得を約束してい たので,公刊した本は妻に捧げたが,「奥さんに献呈するとは,日本人には珍しいね」と 何人かの先輩や後輩に言われたのを,かえって不思議に思ったものである。
アメリカでの研究留学から帰ると,名著『斎藤喜博を追って』昌平社,1979 年を読んで 接触を持ち始めていた,先述の向山洋一氏の方から連絡があり,民間教育研究団体として
「教育技術の法則化」運動を始めたいとの誘いがあって,名古屋に全国組織の支部をつく りたいから,ついては支部長になってほしいとの要請があった。筆者は大体組織は好きで なかったから,当初は嫌だと断ったのだが,本部・支部の関係は平等とする,10 年で運動 を一度やめるなど,新しい組織づくりをするというので,この運動に賛同する一定数の名 古屋市及びその周辺の現場の先生方と,その人たちの声にも応える形で「せんの会」とい う有志の会をつくり,その会の研究者としての責任者の一人となった。しかし数年経って,
向山先生が独断専行で実践やその記録を評定する,中央主導の運動の在り方に疑問をもっ た。向山先生の実力が際立っていて,筆者らのレベルが低かったこともあり,東京の本部 の意向ばかりが全国的に絶対視され,向山先生も多くの実践家からまつりあげられるのを 是とする言動を続けたので,私も名古屋の会の有力なメンバーも徐々に批判的になった。
これには,教育関係の出版社として大手であった,明治図書の編集部長の江部 満氏,
とくにその片腕であった樋口雅子氏の,向山先生とこの運動への入れ込み・惚れ込みによ る肩入れが大きく影響した。江部氏には,その晩年になるまで筆者は好意的に接して頂い たが,この時以後,向山先生は明治図書の看板教師となり,斎藤喜博以後の実力ある実践 家と高く評価されるとともに,最後の全国的な民間教育研究運動の指導者ともなったと 言ってよい。なぜなら,この運動以後,誰もこれといった大きな運動を起こした実践家は いないからである。
結局,筆者はこの運動にも深く入っていくことができず,名古屋の「せんの会」は 3 年 ほどで実践家が運動を離れるようになり,その後 5 年ほどで休眠状態となって筆者がやめ てからは消滅した。筆者は,この運動の良さを評価していたが,何でも向山先生の「独裁 的な=一面的な」実践評価,ただし,かなり多様な実践がよしとされたが,それも向山先 生の評価でしか認められないこと,また「指導技術」の方に重点があったことで,筆者の
「教育課程・カリキュラム」への関心はほとんど満たされなかったため,徐々に運動への 熱が冷めていった。「法則化」運動自体の発展は望んでいたが,筆者自身が関われるのは
ごく部分的だと見て前面に出るのは避け,「後衛」意識が抜けなかったので身を引いたの である。そして,1990 年の日本カリキュラム学会の共同創立に力を入れた。
他方,個人的思想・信仰上の活動としては,名大に来る前から,時々,無教会の先輩で,
矢内原忠雄元東大総長の弟子の,故合田初太郎氏が主宰する名古屋聖書研究会に出て,聖 書を学び続けていたが,名大に移ってからは,名大聖書研究会の顧問だった,理学部数学 科の浪川幸彦氏を助けて,名大聖書研究会に出るようにしていた。この聖書研究会は,当 初,名大文学部助教授で,後に名大を離れた無教会キリスト者の英文学者,新井明氏に よって始められたと聞いているが,筆者が参加した時のメンバーは,教会に通っている学 生が多かった。数年して一時,韓国の新興宗教団体で勝共連合を唱え,強引に入信を求め る統一教会により,研究会メンバーも激しい勧誘活動にさらされ,浪川氏を中心として何 とか防御に成功したが,以来,キリスト教への誤解が広がり,学生たちの宗教への関心は 冷えて行ったため,筆者は自ら大学の外に証しと伝道の場所を変えることで,研究会を浪 川氏に任せた。
ところで,助教授時代の終わりごろだったかはっきりしないが,例年,東京の関根先生 の千代田集会の冬の新年集会が,茅ヶ崎のユースホステルで開かれていた時期のある年,
筆者も参加していて,食事の場でちょうど関根先生の横に座ることになった。そのとき,
先生が急に「安彦君は,自分で集会を持っていないの?」と質問され,筆者は「いいえ,
自分の集会など持っていません。名古屋の無教会の集まりに出たり,名大の聖書研究会の 顧問をしたりしています」と答えると,話はそれで終わった。
しかし,その後,その先生の言葉を忘れられず,ついに「そうか,先生は,私が独立の 集会を持っていても不思議ではないと思われたのか」という考えに至り,そこで,その後,
自宅のある愛知県日進市の市民会館の一室を借りて,毎週「日進聖書研究会」を公に持つ こととした。会館の職員からは,新興宗教の団体ではないかと疑念を抱かれたりしたが,
毎回,家族以外に数人の参加者があり,多い時でも 7,8 人,少ない時は 3 人で,讃美歌な しの集会をもった。時々,愛知教育大学で旧知の間柄だった,教育社会学者として著名な 故橋爪貞雄氏や,東大後輩の佐々木弘一氏,浪川幸彦氏などが参加してくださったが,名 大を離れて,東京の早稲田大学に勤務するときまで細々と続けた。しかし,新たに信仰に 導けた人は皆無に等しかった。筆者には集会による伝道は向いていないこと,また求めら れてもいなかったこと,ただ,証しは求められていたこと,を体験で知ることができた。
10.名古屋大学教授・附属学校長時代:専門の使命達成と自分の独自性を打ち 出す時期
筆者は,先述のようにほぼ院生時代から,37 歳ごろに単行本を 1 冊公刊し,40 歳までは 幅広く勉強して守備的能力を固め,40 歳を過ぎたら攻撃的に自分の主張を打ち出そうと考 えていた。そこで,フルブライト留学は大きな転機となった。帰国後,数年して前例に従 い 46 歳で教授となり,この時期に立て続けに「個別化」に関する著書を書いたが,大体 それまでの理論・実践研究のまとめをし,合わせて自分の独自の主張を入れるようなもの となった。『「授業の個別化」その原理と方法を問う』明治図書,1993 年は,薄いものだっ たが,その要点をまとめ,自分の主張を明確に打ち出したものである。実現はしなかった が,韓国の学者から翻訳したいとの希望があったと,明治図書の編集部から聞いたことが ある。
そんな中で,イギリスから帰国して直後に,時差ボケも影響して,車の運転中にコンク リート壁にぶつかる自損事故を起こし,手術と入院生活を 40 日間ほどする経験をした。
そこで,いつ死ぬことになるかわからないと痛感して,たとえ不十分で合格ラインぎりぎ りであってもよいから,若い時から周囲に約束していた学位論文を,中学校の「前期中等 教育」のカリキュラムの比較研究でまとめ上げることに努めた。大学院時代からの論文に,
新たな書き下ろしを加えて,後にそれを『中学校カリキュラムの独自性と構成原理』明治 図書,1997 年として公刊することができたが,まさに「ケガの功名」といった感じで,こ の事故を起こさなかったら,書き上げることはなかったかもしれない。
論文の出来は,もっと推敲すれば短くできたともいえる,あまりよくなかったものだが,
筆者の若い頃からのものを集めてまとめているので,一種の集大成ともいえるものだっ た。ただ,かなり実証性を意識して,若い頃から仮説を立てて事実をもとに実証していく といった方法を自覚的に行っていた。若いうちは何もデータがないのに理屈だけで仮説を 立てていたが,この段階になって初めて「前期中等教育のカリキュラムは自立への基礎と 個性の探求を目指すという点に,小学校や高校のそれとは異なる独自性がある」という,
実証可能な仮説に具体化することができていた。
この 2 点を中心に,日本を含む 5 か国(米・英・独・仏・日)の中学校に当たる諸学校 のカリキュラムを,実地に調査し,資料を集め,比較検討した結果,その仮説がほぼ妥当 であると証明したつもりである。これが「中学校のカリキュラムの独自性は何か」という 長年の問いに答えるものになったことは,他の研究者がまだ何も明確に論じていなかった ので,それなりの価値があったと思う。しかし,学界の評価はほとんどなく,唯一,当時,
青山学院大学にいたドイツの中等教育研究を専門とする,東大の後輩の今井重孝氏が,日
本比較教育学会誌上で好意的な書評をしてくれたのが嬉しかった。このような実証的な比 較研究を,明確な仮説の許で実証的に展開し,最後に実際の日本の授業研究で,事実を創 るところまで含めた研究は,少なくとも中学校のカリキュラム研究にはいまだに見出せな い。筆者は事あるごとに,筆者の関心を継いで,中学校の研究をしてほしいと学界で述べ てきたが,分野の異なる教育社会学者の志水宏吉大阪大学教授以外に,いまだに有力な研 究者は現れない。
その後,附属中・高校長に選ばれて,初めて管理職的な立場で教育の実践現場に関わっ た。わずか 2 年の任期で,筆者の頃は校長職の仕事が大変だから,1 期で再選はなしとい う原則だった。ところが,前任校長時代に 2 つの大きなミスがあり,附属学校は学内的に も学外的(国との関係)にも窮地にあり存廃の声も出ていた。ミスの一つは,中学校の入 試選抜で,抽選時にダブルチェックをせずうっかりミスをして,結果的に定員を越えて 10 人余計に入学者を出さねばならなかったこと,もう一つは,その入試関係の受験書類 に本籍地を書かせていたこと,である。前者は抽選用具の確認不足によるものであり,後 者は部落差別問題の観点から,受験書類に本籍地を書かせないことがすでに常識化してい たのに,まだ附属学校はその欄を削除していなかったことである。ともに新聞ダネになり,
とくに後者は,新聞の投書欄で指摘されたことだったので,大学内でも「教育学部・附属 学校は何をしているのか」と批判を受けた。
筆者は,そんなことが起きて直後の校長だったので,まずはこの二つのミスの挽回に努 めた。事前に数代前の先輩校長に「校長として大切なことは何ですか」と聞くと,ご自分 の校長時に,体育の時間に子供が怪我をしたことと,文化祭が終わった日の夜,生徒がボ ヤを起こしたこととを口にされ,「生徒の命に関わることと,建物は国有財産だから火事 を起こさないことだね」と言われたことは,忘れなかった。その上で 1 年目は,学校の「自 己点検・自己評価」を,他大学の附属学校は当該学部の報告書の一部として,1 章を割り 当てられて済ませていたのに対し,本校はその報告書を,筆者の任期の 1 年目に,単独で,
独立したものを作成して出すこと,もう一つは,附属学校としての実習や研究の役目を明 確に示すために,新しく国の方針として導入される予定の「総合的な学習」については,
小学校での実践の評判はまずまずだったが,中学・高校の良い実践事例がないので,本附 属学校がその良い事例を世に問うことだった。後者は,筆者が関係していた国の研究開発 学校制度の募集に応募させていたので,2 年目に全国へ公開発表する計画を立てた。
前者については,全国で我が附属学校だけの企てであったこと,後者は,実践の評価を 教育学部の教育心理学科の教官の方たちの協力を得て,できるだけ客観的な評価をしたこ と等の努力により,ともに広く認められ,とくに後者は公開発表会が大好評で,新聞にも 大きく取り上げられ,附属学校の存在価値をアピールできた。実践の評価も,学部の速水
敏彦教授を中心に,専門教官が客観的な心理学的手法で精密に示し,しかもその成果が極 めて高く出たので,筆者も文部省の関係者に,こういう実践にすれば,やり方次第で成果 が上がると,自信をもって説明・宣伝できた。これは,実際は,それまで附属学校内の一 部のボランティア教員によって行われていたものを,研究開発学校に応募する際に全校的 な取り組みに変えたことが基礎にあり,元来は附属学校の独自の取り組みだったのであ る。その成果が,筆者の監修した『中・高「総合的学習」のカリキュラム開発』明治図書,
1997年であるが,中身はみな附属学校の先生方が考案したものであり,筆者は校長として,
この実践研究に,大きな枠組みと理論的な裏付けを与えて,全体としての体裁を整えたに 過ぎない。
一応この 2 年間で,1 年目は,主に入試改革と職員会議の改革を中身とする,独立の自 己点検・自己評価報告書の形で出すことによってマイナスの評価をゼロにし,2 年目は,
この中・高の総合的学習の公開発表でゼロをプラスにすることができたと思っている。こ れにより附属学校の存続がすぐに問われなくなったわけではないが,その後の今に至る附 属学校の発展の基礎にはなったように思う。それは,校長であった筆者に対して,校長を 退任するとき,思いがけずPTAから感謝状をもらったからである。筆者は,これは筆者 個人の結果ではなく,先生方全員の努力の賜物だと思い,ずっと校長室に黙って残してお いたのだが,耐震改築時に見つかり,その時の校長に「先生個人の名前が入っているので,
ご自宅にお持ちください」と言われ,現在は手元にあるが,中身は筆者にではなく,附属 学校への感謝であるから,やはり附属学校にあるのがベターである。
むしろ校長の経験の中で忘れられないのは,子供たちとの間に起きたエピソードであ る。そのうちの二つを記しておこう。一つは,校長として最初に全校朝礼の場が体育館で あった時,筆者が演壇に立っても子供たちが静かにならないので,静かになるまで待つこ とにして黙って立っていたが,一向に静かにならないため,ついに大声で,「人が演壇に 立って話そうとしているのに,話を聞こうとしていないのは失礼だ」と叱ったのである。
話し終わって校長室まで戻ってくると,筆者と親しい一人の先生が後を追ってきて,校長 室に入りドアを閉めてから,「先生,まあそう怒らないでください。」という。筆者は「何 でこの先生はそんなことをいうために,校長室にまでついてきたのか?」と怪訝に思った が,次の瞬間,「ああ,そうか。この先生は,私が叱ったのは生徒ではなく,先生方だっ たのではないかと思ったのか。そうだとすると,新校長と先生方との間に,今後望ましく ない関係が生まれるのではないかと心配したのだ」と理解した。筆者が校長になると決まっ たとき,附属学校の先生方の中には身構えていた組合関係の人もいたからである。
そこで,「これから気を付けるから」と言って,その先生には引き取ってもらい,その 後の対応を考えた。つまり,怒鳴らずに静かにさせるにはどんな方法があるか,を考えた
のである。ただやはり次ぐらいは,先の私の注意を聞いていたのだから,先生方も注意し て生徒を指導し,筆者が演壇に立つときは静かになるのではないか,と期待していた。と ころが 2 度目の朝礼でも前回と同じで,静かにならなかった。皮肉にも,先の先生の心配 は思い過ごしだったのである。でも今度は筆者は怒らず,話している生徒を無視して話し 終え,黙って校長室に戻ってきた。筆者は,要するに先生方は,生徒たちが自分で悪いと 気づくまで,何も厳しい指導は行わないのが本校の伝統なのだと理解した。そこでもう 1 回だけ,朝礼の時,生徒が変わるかと思って我慢したが,やはり彼らは話をしていた。
さすがに筆者もこのままではまずいと思い,生徒が朝の集会のときに絶対に話さないよ うにするにはどうするかを考え,セミプロとしての自覚からいろいろ試みた。そしていく つかのやり方をやったあと,最後に思いついたのが,物理的に生徒同士で話ができないよ うにしてしまう方法で,「体操の体形に開け!」と命じることが効果的だろうと思った。
しかし,これは指導技術としては「最低の技術だ!」とすぐに思った。なぜなら,彼らに 何も考えさせていないからである。でも,まずは効果があるかどうか,やってみなければ わからないと,次の朝礼の集会で,まだしゃべる者がいたので,思い切ってやってみた。
体育館は広いので,生徒全員が体操の体形に広がっても,まだ壁までには余裕があった。
生徒たちが広がっても,私はマイクを使っているので,全員に十分聞こえるのである。と たんに静かになって生徒たちは話ができなくなった。話そうとすると,少し大きな声を出 さなければ,相手に聞こえないので,そこまでする勇気のある生徒はいなかった,という ことである。
筆者は静かになった生徒に,いつものように話して壇を降りた。驚いたのは,その直後 である。何と朝礼を指揮していた生徒指導担当の先生が,「いまの体形だと静かでよいので,
これからは校長先生がやってくださったこの体形で朝礼をします!」と,生徒たちに向 かって言ったのである。それを聞いて筆者は「ああ,附属学校の先生でも,この程度の力 量か。私のこのやり方は指導技術としては最低だと思っていたのに・・・」と,本当に落 胆した。確かにこれは「片々たる技術」であるが,これを使えると,本来聞かせたい主た る話を,しっかり聞かせることができるのである。ところが,附属学校などの頭の良い先 生は,こういう技術を馬鹿にして,そんな技術は不要だという。筆者は全くそう考えない。
もう一つは,中学校 3 年から校内暴力がひどくなり,周囲の子供や,その話を聞いた保 護者からも苦情がきたほどの,成績会議でも問題になった男子生徒が一人いた。しかし,
中学校までは義務教育だから,退学や転校を求めることはできないと,先生方は我慢して いた。
その子供が,そのまま高校 1 年に進学したところで,また校内暴力を起こした。今度は もう義務教育ではないので,彼を退学させたい,あるいは「進路変更」という名の他校へ
の転校を促したい,と職員会議で先生方は決めてしまった。しかし,それを保護者に言い 渡すのは校長の筆者である。職員会議での話し合いにも出ていて,その子供の問題行動に ついて,筆者はあることに気が付いていたが,あえて先生方の結論に反対はせず,処分の 結果を保護者と本人に言い渡す覚悟を決めていた。
数日後,いよいよ本人とその両親に「残念ですが,職員会議の決定として,お子さんに は進路変更,事実上の本校退学を勧めることとなってしまいました。どうかご了承くださ い。」と筆者が両親に伝えると,父親が開口一番「あんたたちは教育の専門家だろう。俺 の子一人ちゃんと教育できないで何だ!」と怒り始め,強く反発してきた。筆者は暫く黙っ て聴いていたが,ついに,職員会議のときに先生方にも言わなかったことを,その父親に 向かって言った。
「実は,お子さんの問題行動の原因は,お父さん,あなただ!お子さんは,あなたが 自分のことをどれほど心配してくれているのか,それが知りたくて学校でいろいろ問題 を起こしていたんです。ところが,何をやっても学校に来てくれるのはお母さんばかり。
お母さんは自分のことを心配してくれているけれども,お父さん,本当はあなたに心配 してほしかったのです。そのために問題行動でサインを出していたのに,お父さんに気 づいてもらえない。このお子さんの寂しさがわかりませんか?お仕事がどれほど大変か は,私たちのような大人にはわかりますが,お子さんの年齢ではまだわからないのです。
もっと,お子さんのことを気にかけてやってください。」
そういうとそのお父さんは,何を言うか,責任逃れだと言い返してきたので,もう話に ならなかった。そこで,筆者は「お父さん,今日のところは一度お帰りください。そして,
家で 3 人でよく話し合ってから,またお出でください。」と言って,その日は帰ってもらっ た。数日後,3 人が揃って来たときはまるで態度が変わっていて,結局,その子は学校の 勧めに従って本校を退学し,他校に転じて行った。筆者の言葉は,他の先生方も前からそ う思っていたらしく,「大学・学部の安彦先生だから,あの親に向かってあのように言え るんですよ」と後で言われたが,高校の先生方には言えなかったのかな,と今でも思って いる。
この子供については,個人的に後日談がある。数か月後,その生徒に名古屋市内のある 交差点でばったり出会ったところ,その生徒が「先生,実は俺の父親,癌になってしまっ て,もうあまり長くないんだって」というのである。交差点での立ち話だったので,「そ うか。それじゃお前はしっかりしなくちゃいけないな」というと,真面目な態度で「うん。」 と答えて,寂しそうな背中を見せて静かに別れた。以後,どうなったか筆者は知らない。
なお,学習指導要領改訂の実証的データを集めるために,昭和 51 年から文部省の研究 開発学校制度が始まり,筆者はその 10 年目ぐらいからこの企画評価協力者会議の一員と
して参加を求められ,初めて国の教育行政施策の一環に関わるようになったが,その際に 親しくなったのが当時文部省の磯田文雄氏である。磯田氏の教育への学問的関心の純粋さ に触れて,日本カリキュラム学会にも入ってもらい,現在に至るまで個人的に親しく学問 上の交わりを続けている。学指導要領改訂の作業の一環を担うものとして,同氏との関係 を省くことはできない。
また,このようなカリキュラムの研究開発に関わって書き残しておきたいのは,長野県 カリキュラム開発研究会と香川県の社会科教員,日詰裕雄先生との関係である。前者は,
青木善保先生のお求めに応じて,長野県にも 1 時間ごとの授業研究ではなく,カリキュラ ム全体を押さえた単元レベルでの授業研究を普及させ,カリキュラム改善に役立てたいと の志を同じくして,これまでの 20 数年間を歩んできた。一時は会員が減ってどうなるか と思ったこともあるが,現在はまた最初の会員数を越える人の参加がある。また後者は,
香川大学附属高松中学校が研究開発学校に指定されてから何回か,その運営指導に入り今 に至っているが,最初の指定の時の副校長だった日詰裕雄先生との交わりが,その後も継 続しており,実に 20 年近い長い研究交流である。信頼のおける先生方の真剣な実践には,
本当に敬意を表しており,「教育の世界では,実践の方が研究よりも価値があること」の 確信を強めている。
11.名古屋大学教育学部長時代:専門の内容を変えて,成果実現に努めた時期
その後,学部評議員として梶田正巳教育学部長を 2 年間支えたあと,2000 年 4 月から 2002 年 3 月まで,20 世紀から 21 世紀をまたいで教育学部長を務めたが,それは教育心理学 科の教官の支持が大きかったからである。評議員時代から国は大学院重点化という,国立 大学を大学院に重点を置く大学とそうでない大学の二つに差別化する政策を打ち出し,名 古屋大学も理系学部は積極的に大学院重点化に踏み切ったが,文系学部はどこも小規模 で,実績が十分でなかったこともあり,足踏みをしていた。筆者は,名大教育学部が,最 初から教育学科と教育心理学科の 2 学科で構成されてきて,教育心理学の比重が大きかっ たことを独自性として打ち出し,当時の梶田正巳学部長を強く支援して大学院重点化を実 現し,従来の大学院「教育学研究科」を「教育・発達科学研究科」という,他の国立大学 にはない独自の研究科に改組する方向で努力した。途中,文系学部の重点化は,条件に見 合う学部から認められるという状況があり,それが最も遅くなるのは教育学部だろうと言 われていたのが,そうでないところまで話が進んだため,教育学部の学内での評価が変 わった。結果的には,文系学部の認定は全学部一斉だったのだが,これにより,教育学部 の予算は,全講座が文系の実験講座と認められて一気に 2 倍以上になり,文系学部の中で
その予算総額はトップになって,学部の発言力は一気に強まった。
これを受けて筆者は次の学部長として,附属学校との関係強化,学部講座の大講座化の 強化,大学院後期課程の実践家向け学位コース設置,文系学部事務部の統合,国立大学の 法人化に積極的に取り組んだ。文系学部事務部の統合については,筆者は賛成だったが他 の文系学部は消極的で,実現したのは筆者が名大を去って数年後のことだったが,当時は 時期尚早だったのかもしれない。各学部事務部は人員削減をされては叶わないとの,職員 組合等の抵抗があったのかもしれないが,筆者に各学部から直接明確な反対の意思表示は なかった。また,国立大学の法人化等も,筆者は大学の主体性が確保されるなら前向きに 検討するという考えだったが,教授会メンバーの多くはそういう方向で受け止めず,消極 的だった。結局,学部長時代の 2 年間は,学部に医学及び臨床心理学系の「発達心理精神 科学教育研究センター」(現在の「心の発達支援研究実践センター」)を創設したことぐら いしか,学部への貢献はできなかった。
しかし,研究上は,管理職についている 2 年間で,学界の自分の専門分野の研究の進展 に追いつけない状態となったので,少し方向を変えることとした。これは,北白川集会で 富田先生が 2 年間の理学部長を経験した後,筆者たちに洩らしたことを参考にしたのであ る。そこで,この頃から「脳科学」研究が盛んになったのを知って,かつて 1970 年代の 大学院時代に大脳生理学が盛んになり,これが心理学系の研究に関係が深かったので,心 理学に飽き足らなかった筆者は当時から興味を持っていて,その後の発展として期待して いた。「脳科学」は大脳生理学とは異なる,機能的磁気共鳴画像法fMRIなどの非侵襲的 な新しい研究手法で脳内の血流を調べるなどにより,急速に研究成果を増やし始め,心理 学,とくに記憶や思考などの認知心理学や発達心理学の分野に大きな影響を与えるように なっていた。そこで,あらためて,子供の成長・発達を脳科学的な研究の成果をもとにし て,カリキュラム開発をすることができないかと考え,学部長職の仕事の合間を使って,
その全体構想を練り,これは英語論文で,アメリカの専門雑誌に寄稿しようと,米国人留 学 生 の 助 け を 借 り て 書 き 上 げ た。 そ れ が ”Developmental Stages and Curriculum Development: A Japanese Perspective",(in) Journal of Curriculum and Supervision, ASCD, Winter 2002, Vol.17, No.2, 160-170である。権威ある全米教育協会NEAのカリキュ ラム関係の下部組織ASCDの専門誌に,2 人のレフェリーから好意的な評価を得て,予想 外に一発で審査に通って掲載され,早稲田大学に変わるときのおみやげとなった。
12.早稲田大学特任教授時代:専門研究の行政への適用と新しい分野の開拓に 努めた時期
早稲田大学時代は,大きく二つの活動で終始したように感じている。一つは文科省の第 3 期以後の中教審委員としての活動,もう一つは,脳科学の教育への適用に関する集中的 取り組みである。前者については,その前段階として,筆者は,昭和 50 年代から始まっ た「ゆとり教育」を見直すための,教育課程に関する有識者会議の委員の一人に選ばれた のだが,その契機をつくってくれたのは,東大聖書研究会の後輩で文部官僚になっていた 雨宮 忠氏であろう。その後も同氏とはタッグを組んで,教育課程行政の健全な姿を追求 して,種々の活動をさせて頂いた。ただ早大に招かれたのは,専門でも東大でも先輩であ る今野喜清教授によるものである。
この活動の中で感じたことは,中教審の委員として文科省の推薦で最初に出席したの は,第1期の安倍内閣の時で,教育基本法の改正作業が一段落して,国会に提出する改正 案が第 2 期の中教審委員によって確定されていたので,それを具体化した事務局の法文案 を確認する場であった。その場では,もう修正はできないという段階である旨知らされた が,質疑応答はできたので,筆者は 2 つの質問をした。1 つは,新聞等でも話題になって いた「教育の政治的中立性」を規定する旧法第 10 条「教育行政」についてと,もう 1 つは 第 8 条「政治教育」及び第 9 条「宗教教育」の位置についてであった。第 10 条の方は,「不 当な支配」の中身に政府・自治体の長=行政府の長が含まれるか否かの議論をしたか,第 8,9 条の方は,これらは「教育内容」を指す事項なので,本来ならば「教育目的・目標」
の条文の次に来るべき条文ではないかと思うが,そういう議論はあったか,というもので あった。前者はあった,後者はなかった,という簡単な回答で終わり,他には誰からも質 問はなかった。
中教審の総会を構成する正委員は 30 人だが,この時に親しく交わりをもったのが文科 省の合田哲雄氏である。彼は改革室長として学習指導要領の改訂の責任者とされ,何度か 早稲田大学の筆者の研究室を訪れ,筆者との議論を通して改訂原案をつくっていたが,主 導したのは教育課程部会の木村 孟氏や梶田叡一氏であった。このお二人と違い,筆者は 始めから「私はご意見番であり,案の作成責任者は役人である君たちだ」といって,役人 が依りかかってくるのを牽制した。それによって筆者自身の研究者としての立場を守ると ともに,文科省の役人自身の力量と役割を高めて,他省の役人との予算折衝などで対等に 議論できるようにしようと努めたのである。
なお,この時期に,教育専門家の意見を聴くために,「社会科の初志をつらぬく会」会 長の上田 薫先生とお会いしたり,手紙のやり取りなどをして親交を深め得たことは,個
人的に大きな恵みであった。その結果,中教審委員としての筆者に対する,学界などの外 からの評価は,ごく一部の人を除き,「安彦さんはブレがない」といった信用をある程度 保つことができた。こういう行政との関わり方は,現在でも妥当なものであったと考えて いる。とくに,中教審と「教育再生(実行)会議」との異同を,前者が,一省の審議会と はいえ公的な責任を持つ,法律に依拠するものであるのに対し,後者は,各省を超えるも のとはいえ,法律上の裏付けはなく,内閣のプライベートな非公式の会議に過ぎない,と いう「性格」の違いを明確に自覚してほしかったが,ジャーナリズムもいまだに曖昧なま まにしている。
ここで唯一残念だったのは,学級定員削減の議論であった。クラスの定員を 40 人以下 にする動きがあって,何人がベストなのか,その実証的なデータはないのか,という議論 であった。筆者は,アメリカの議論でも,日本人教育学者の研究でも,何人がベストだと いう研究はなく,何とも言えないという事務局の役人の回答に対して,それを知っていた ので明確な反論や提案ができずに終わり,教育学の無力さを痛感した。後に,この問題は,
あまりに漠としたもので,「問いの立て方が悪い」ということに気付いたのだが,教育学 の問題の場合は,その種のものが多い。結局,当時は,より少ない方が教育効果はベター だ,という程度でしか答えられなかったため,財務省に対する具体的な定員減の予算要求 までには至らなかった。その後,早大の河村茂雄教授が研究結果として出した,「学習上 は 30 人以下がよいが,生活上は 30 人ぐらいがよい」という答え方が妥当ではないか,と 今では考えている。
後者で忘れられないのは,脳科学者の大阪大学教授の津本忠治氏と,脳科学委員会への 参加の際の利根川進氏の発言である。津本氏は大阪大学医学部の教授で,脳科学的な専門 知識については,全体を見ることのできるバランスのある学者だった。筆者が教育に脳科 学の成果を生かそうとすることに対しては協力的で,脳科学の最新の成果を分かりやすく 教えてくださった。現在でも活躍しておられ,筆者のような浅学の者にも偏見がない方で ある。
他方,脳科学の成果を各方面にどう生かしていくかを検討する「脳科学委員会」が,文 部科学省内に公式に設置された時,筆者も教育関係の分野の有識者として委員にされた が,脳科学の専門家の方々の中に,ノーベル賞学者の利根川進氏がおられた。そこで,最 初の会合の時,自己紹介を兼ねて「これまでの脳科学の研究成果は,まだ教育実践の成果 や心理学の成果の後追いで,特別支援教育の世界で障害をもった子供の一部には役立つけ れども,教育一般の世界に生かせるものはまだ稀である」と不満を述べると,ご自分の番 になったときに利根川先生が,「いま,教育界に生かせる脳科学の成果はまだほとんどな いとのお話がありましたが,私の考える所でも,もし教育界で脳科学が生かせるとすれば,
それは少なくとも 30 年先になると思います。」と言われた。それを聞いて筆者は「さすが に利根川先生だけのことはある。教育を甘く見てもいないし,脳科学をひけらかしもしな い。謙虚な態度だな。」と感銘を受けた。
実際,あれからもう 30 年経ったけれども,いまだに脳科学が教育界に与える影響は限 定的である。最近でこそ脳科学がポピュラーになったが,それは五感の働きとの構造的な 関係や思考,記憶,感情,加齢などの機能的な働きの仕組みなどに関する研究は進んでい るが,年齢を追って行われる縦断的発達の研究が少ない。とくに子供の成長・発達を抜き にしては論じられない,筆者の専門とするカリキュラム研究の方面では,まだ心理学のレ ベル以上に生かせるものは,アメリカ国立衛生研究所NIHのJay Giedd研究員らと,
Harvard大学のK.Fischer教授の研究以外には,いまだにまれであると言ってよい。それ
でも,心理学とくに発達心理学の方では,追認的補強のレベルだが,脳科学の成果を抜き にして,教科書は作れないほどになっている。そんな中を,筆者は早稲田大学の当時の同 僚,中垣啓教授(認知心理学)・坂爪一幸教授(神経生理学)とともに,『子どもの発達 と脳科学―カリキュラム開発のために-』勁草書房,2012 年を刊行して,科学研究費の補 助による成果を世に問うことができた。筆者独自の「子供の興味・要求の中心の移行によ る発達段階論SINCT(Shifting Interest- and Need-Center Theory)」を,脳科学の成果 をもとに示して学界に検討を求めてもいるが,まだ早稲田大学の関係者以外に誰も関心を 示してくれない。誰かが,正面から検討することを期待している。
13.神奈川大学特別招聘教授時代:専門分野への反省と新しい貢献を考える時期
早稲田大学を定年 70 歳で終わり,まだもう少し働けるなと思って,次の働き場を探し ていたところ,神奈川大学から声がかかった。それは,名古屋大学の先輩教授の故田浦武 雄先生のご子息,田浦正巳氏が文科省から同大学に出向していて,私を呼ぶとよいと推薦 してくれたこと,そして早稲田大学での最終講義をわざわざ聴きに来てくださった,同大 学の前常務理事(当時の事務局長)の小林孝 氏の強い支持があったことによるものだっ た。神奈川大学で問題のあった教職課程について,中教審の元教員養成部会長だった筆者 を呼べば,改善のテコ入れになると考えたらしかった。しかし,小林氏とは,以後,大変 親密な関係になり,思いがけず 3 期 9 年間も同大学に籍を置く結果となって,ついに 2021 年 3 月の任期終了により退任することとなったのである。
この 9 年間で筆者にとって最大の出来事は,小林氏との信仰的交わりの深まりだった。
同氏は大学勤務の傍ら,第二次世界大戦後の日本文学の中で,椎名麟三,埴谷雄高などの 実存的関心を深める文学者を対象とした文芸評論家として,すでに高い評価を受けている
人でもあった。同氏は 2011 年 3 月 11 日の東北大震災に強い衝撃を受け,自らを含む人間 の未来に対して,かなり悲観的になっていたときだったため,筆者が内村鑑三の流れを汲 む,無教会キリスト者であることを,先の早大での最終講義で知り,筆者と共に内村鑑三 の思想・信仰に触れたい,ついてはその著作を読む読書会を毎月持ってほしい,と求めて きた。以後,これまで,毎月のように内村の著作を読んできたが,その途中から「内村の 再臨信仰に希望を見出した」とのことで,何とその成果として,評伝『内村鑑三―私は一 基督者である-』御茶の水書房,2016 年を書き上げ,出版した。
その後,筆者の助言などをもとに,さらに九州大学に,椎名麟三・滝沢克己・内村鑑三 の 3 人を取り上げて,西洋キリスト教思想の日本的受容の観点から,これまでの著書・論 文を統一的にまとめた大部の学位請求論文を提出し,2019 年,九州大学から博士の学位を 授与された。2020 年 12 月には,その後の読書会で推敲してきた,内村の聖書注解の全体 の学びの原稿をまとめて,『内村鑑三の聖書講解』として大部の一書が教文館から刊行さ れた。2019 年,関根正雄先生のご子息で,内村鑑三研究会という場で交わりを始め,今 は相互に非常に深く理解し合い,「存在の所与性」を明示して独自の倫理学を打ち出した,
前東大文学部教授の関根清三氏の仲介によるものである。筆者と関根清三氏との交わりは,
筆者の学生時代に,正雄先生の千代田集会でお会いして以来の再会だったが,東京を離れ て以後は本当に 50 年ぶりのことで,小林氏のお陰による親交である。
この間に,小林氏は,内村の著作の導きにより無教会の信仰を与えられて,現在は神奈 川大学を去られたが,無教会キリスト者として,公私に活躍しておられる。筆者は,また 彼の仲介で,神奈川大学の学生向け出版物として『教育史の中の内村鑑三』御茶の水書房,
2016 年を刊行することができ,神田の三省堂書店で「2016 年話題の書」の一冊にも選ばれ,
東大の学部時代の卒業論文の成果を一部に入れて残すことができた。小林氏とこのような 関係になるとは夢にも思っていなかったので,晩年のかけがえのない慰めとなった。
学者として社会的には,この時期は中教審を離れたが,文科省内の有識者会議の座長と して,その後の学習指導要領改訂に関する,中教審の審議の準備作業には責任をもったた め,学習指導要領改訂に関する答申に対して,準備責任者として意見を求められ,『「コン ピテンシー・ベース」を超える授業づくり』図書文化,2014 年に個人的見解を述べて,そ の長所・短所を指摘した。先述の合田哲雄氏は改訂前の学習指導要領の責任を持ったと同 時に,改訂後の新学習指導要領にも責任を持ったことになり,結果的には,従来学校現場 の裁量を認めていた「指導方法・指導形態」まで学習指導要領に規定し,「主体的・対話 的で深い学び」になるよう示して,新学習指導要領の内容を大幅に増やしたので,筆者は
「もはや大綱的基準ではない」と批判した。それでもまだ文科省との関係は残っており,
現在も文科省の役人に知恵を与えられたらと,政治家や財務省の役人,ジャーナリズム,