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近代ドイツにおける戦時女性動員と社会活動の形成

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著者 北村 陽子

雑誌名 社会科学

巻 41

号 1

ページ 149‑173

発行年 2011‑05‑31

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012431

(2)

《研究ノート》

近代ドイツにおける戦時女性動員と社会活動の形成

北 村 陽 子

本研究は,戦争とジェンダーを問う視角から生み出された近年の研究成果をもとに,

戦時の女性動員のあり方を,解放戦争期以降のドイツ語圏について経年的に確認する ことを課題とする。

解放戦争期に民兵とその家族の支援を目的とした女性組織は,戦後ほとんどがその 大義を失って解散された。残ったものの多くは,女子教育とくに家事に関する教育を 施すことで下層少女への就業チャンスを増やす組織として存続していく。1848/49 年 の三月革命期には,愛国的な女性の支援活動が再開されたほか,政治的な主張をする 女性協会もいくつか設立された。革命後は政治的反動の影響で女性組織の活動も停滞 するが,戦争の危機が高まる 1859 年以降は再び多くの女性協会が設立され,平時にも

「戦争の準備のため」に女性看護婦の育成を課題とするようになった。ほかに女子教育 の拡充を求める市民女性の組織も結成され,帝政期には女性の社会活動や政治参加を 要求するフェミニズムと結びついていく。第一次世界大戦期には,市民女性の組織が

「祖国女性奉仕団」の結成を呼びかけ,傷病兵看護と兵士遺家族支援を旨とする「戦時 扶助」が組織された。

戦争終結とともに戦時扶助は解体されるが,女性による兵士遺家族支援は,自治体 の社会政策の中核としてシステム化されていく。しかし 1933 年以降,このような女性 の愛国的な活動は,政権の命令下で実践されるべき義務へと転化されていった。

は じ め に

ドイツの軍事史では近年,戦争とジェンダーの関係を問うことから,新しい成果が生み 出されている[プレーヴェ 2010, pp. 151 – 157]。本研究は,それらの成果をもとに,戦 時の女性動員のあり方を,対ナポレオン戦争期以降のドイツ語圏について経年的に確認 することを課題とする。

筆者は以前,第一次世界大戦期の女性動員と社会活動の発展についてまとめたことが ある[北村 2006]。その際,自らを動員した女性たちは,それ以前の女性の戦時活動を,

ときに参照し,ときに批判していた。ではその参照され,批判された動員のあり方とは

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どういったものだったのか。本研究はそうした関心から出発して,ドイツにおける戦時 女性動員の系譜をたどり,それが戦時に限定されない女性の社会活動に発展していく過 程を明らかにする。

戦争とジェンダーの関係を問うたときの転換点は,ハーゲマンの研究史概観によると,

一般兵役令の導入(たとえば 1813 年のプロイセン)であり,これ以降軍隊が男性化され たという。軍の構成員が男性に限定されたため,女性は糧食や軍需品を運ぶ輜重Troß要 員としても軍にとどまれなくなったからである。そのため,「危機に瀕する祖国」に貢献 したい女性は,戦費の寄付,兵士たちの装備を整えること,兵士遺家族の生活支援をする といった,祖国前線での「愛国的」な後方支援に先を争って参加した[Hagemann 2008, S. 106 – 107]。これらの戦争によって窮乏したものの支援という公領域での活動を呼びか けたのは,クヴァタートが指摘しているように,「国母Landesmutter」とみなされた君 主の妻や娘たちであった[Quataert 2001, p. 31]。19 世紀以降の戦時におけるジェンダー 関係は,一方で男性は兵士として前線で武器を取り,女性は後方支援という性別役割分業 を構築し,他方で女性たちが男性不在の家庭や祖国前線を守るために,本来は女性に認め られない公領域の活動に参加するという,「二重らせん」構造になっていた[Hagemann 2008, S. 94]。一般兵役令で軍隊から排除された女性たちは,祖国前線での「愛国的」な 支援活動を通して,「ドイツ・ネイション」に寄与しようとしたのである[姫岡 2009, pp.

239 – 241]。

多くの女性組織は,解放戦争という非常時が終わったあとにはその目的を果たしたと して解散を余儀なくされている。それは男性側が,女性が行なう家庭外活動の政治化を忌 避したことも理由である。いくつかの女性組織は,こうした男性側の危惧を織り込んで,

政治領域への参与をあらわにせず,女性の課題とされた慈善活動を前面に出して存続を 図った。とくにそれは看護の専門家を養成するための,おもにキリスト教の宗派別に組織 された女性団体や,女性の戦時活動の中心となった縫製や料理,洗濯といった家事につい て主として貧困層の少女に教育を施す組織である。これらの一部の組織を除いて,19 世 紀のドイツ語圏における女性組織は,図 1 にあるように,戦争あるいは革命といった非 常事態,たとえば 1848/49 年の三月革命,1859 年のオーストリアとフランスの戦争から 1864 年の対デンマーク戦争,1866 年の普墺戦争,1870 年の普仏戦争までの統一戦争など の動乱を契機に地域ごとに結成されるものであった[Huber-Sperl 2002, S. 57]。

統一戦争後の女性の戦時動員組織は,そのまま慈善活動に参入して存続するものが増 えていく。また慈善活動のあり方そのものも変化する。従来からのキリスト教的な隣人

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愛という善意にもとづくだけでなく,科 学的な知識と実践に裏打ちされた支援が 要求されるようになったのである。そう した要求に合致した扶助員の養成や,一 般に女子への中等・高等教育実施といっ た改革要求は,「愛国的」な活動の中心と なった上流女性ではなく,市民女性たち が熱心に主張した点である。 1863 年に デュナンの提唱で軍事看護を中立化する 国際赤十字委員会が設立されたことも,

女性による看護実践を恒常化・専門化す る改革の流れを後押しした。1860 年代以 降,専門知識を備えた看護婦や扶助員の 養成,教員の育成を実践するべく,医学・

衛生学・法学・経済学などの知識と実習 を取り入れた社会活動の専門学校が設立 されていく。

第一次世界大戦は,これらの戦時女性 動員の伝統と,看護や社会活動の専門化

という経過を下敷きにして,女性の後方支援が大規模に組織された戦争である。それを いち早く実践したのが,王権の庇護をもたない市民層の女性団体であったことが,それ までの戦争とは異なる点である。王朝由来の愛国的な組織や赤十字のほか,労働者層の 女性組織も含めた 1914 年の後方支援は,社会全体と同様に女性の動員も総力化された活 動であった。この女性の後方支援はまた,自治体レベルの行政と協働した,はじめての 経験でもあった。

以上概観したような,「長い 19 世紀」における女性の戦時動員の具体的なあり方を経 年的に確認するうえで利用できる研究成果には,ひとつには女性運動との関連で論じる 視点からのもの,もうひとつにはそれぞれの戦時の女性たちの活動を論じたモノグラフ がある。前者の女性運動に関連する研究には,第二帝政期に興隆した第一波フェミニズ ム運動の時期に,ローカルなレベルで女性たちが社会活動を実践していたことを,「母 性」をキーワードに分析したザクセ[Sachße 1994],第一波フェミニズム運動の母性主

図 1 愛国的・市民的女性協会の発展概要 1810 年− 1910 年.

図中の「ギリシア人・ポーランド人救済組織」は,1820 年代から 30 年代のギリシア独立革命やロシア領における ポーランド人弾圧などの際の難民支援組織を指す。これら の動乱は,直接ドイツ語圏が関わったものではないので,

以下の叙述では割愛する。(網かけ部分は一時的な組織)

出所:Huber-Sperl 2002, S. 57.

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義を論じた姫岡[姫岡 1993],女性の社会活動をローカルレベルで分析したシュレーダー

[Schröder 2001]の研究がある。またドイツの女性たちを総体的に論じたフレーフェルト の通史[フレーフェルト 1990]は,200 年を通して女性を社会のなかに位置づけた先駆 例である。

戦争におけるジェンダー関係を論じた研究で,全体を経年的に概観しているのは,女性 の慈善組織における王朝の伝統を強調したクヴァタート[Quataert 2001]である。また 16 世紀から第一次世界大戦までの戦争とジェンダーの関係についてハーゲマンとプレー ヴェが編集した論文集[Hagemann/Pröve 1998]も,戦時の女性協会の動向をつかむに は有益である。そのほか各戦時期については,次のような文献がある。

まず解放戦争期については,1844 年にヴァイマル公国における女性協会の活動を中心 にまとめたグレーフェの文献[Gräfe 1844]と,それをふまえて解放戦争期のドイツ語圏で 結成されたほぼすべての戦時女性組織を網羅したレーダーの浩瀚な研究[Reder 1998],

イメージ分析から戦争とジェンダーの関係を照射したハーゲマンの論考[Hagemann 1997]がある。1848/49 年の三月革命期に関しては,リップが編集した革命中の「下から」

の女性の活動を論じた共同研究[Lipp (Hg.) 1986]が嚆矢となる。統一戦争期に関して は,ヴェストファーレンの愛国的な女性協会を分析したダニエルの小論[Daniel 1989a],

同時期に設立された赤十字の通史を著したリーゼンベルガーの研究[Riesenberger 2002]

が示唆に富む。そのほかチカリングは愛国的な活動を帝国主義的に実践した植民地協会 のなかのジェンダー構造に切り込み[Chickering 1988],ズィヒティング・ヘンガー(ヘ ンガー)は帝政期以降の愛国的な女性組織を政治的に位置づけた[Süchting-Hänger 2000;

Süchting-Hänger 2002; Hänger 2007]。そして第一次世界大戦期については,女性労働 者の日常世界を描いたダニエルの画期的な研究[Daniel 1989b]のほか,二つの世界大戦 期における兵士の妻を取り巻く状況を比較したクンドゥルスの研究[Kundrus 1995],同 じく二つの世界大戦期について戦争とジェンダーの関係を多角的に論じたハーゲマンら の論文集[Hagemann/Schüler-Springorum 2002]で,女性の戦時動員のあり方が検討 されている。

これらの研究成果をもとに,以下では戦争における女性の役割を確認するため,それぞ れの戦時・非常時の女性動員を特徴づけ,それらがどういった関連性をもつか示したい。

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1 解放戦争期

1.1 女性の動員―「愛国的」な活動のはじまり

ナポレオン軍のモスクワ退却後,ドイツ諸邦が戦時体制に突入したことは,女性たちを も大量に動員する契機となった。まずフランスを範とした一般兵役令が,1813 年のプロ イセンを皮切りにドイツ諸邦で発令され,一般の住民が国家防衛のために軍に召集され た。ただしこの一般兵役令は,女性たちを軍隊から排除するものであった。それまでは輜 重隊や戦闘員の家族として軍に同行することもあったが,この法令によって女性たちは 兵士のパートナーとしての地位を失った。そのため愛国心を行動で示したい女性たちは,

君主の妻や娘たちが革命下のフランスに倣って呼びかけた「ドイツのため」の行動に集 結したのである[Reder 1998, S. 15]。それまでも戦時には募金活動などの女性たちによ る愛国活動は散見されたが,組織的に行なわれたのはこのときがはじめてである。

たとえばプロイセンでは,宣戦布告とともに 1813 年 3 月 6 日,王女マリアンネを筆頭 とするホーエンツォレルン家の女性たち 12 名が,各地で「祖国の安寧のための女性協会 Frauenverein zum Wohle des Vaterlandes」の設立を呼びかけている。

「祖国は危機に瀕している!国王が忠義深いあなたたち愛すべき臣民にこう申し述 べたのを聞いて,皆さんはこの危機を打開するために急ぎ馳せ参じてくれました。男 性たちは剣をもって…しかしわたしたち女性も勝利を得る手助けをともにしなけれ ばなりません。わたしたちも祖国を救うために男性たちと一体にならなければなり ません。そのために,祖国の安寧のための女性協会という名の組織が設立されるので す…この協会は,現金だけでなく,価値のある小さなものも犠牲として受け取ります

―誠実さのシンボルである結婚指輪や,耳に輝くイヤリング,首飾りなどのことで す。月ごとの会費や物資やリネン類や紡いだ糸や布,そして原料を加工する労力も犠 牲として受け取ります。これらの犠牲は,武器や衣服を整える必要のある防衛軍兵士 のために使われます。そして女性たちが紡ぎだす豊かな慈善には,傷ついたものを 看護し,治癒させ,祖国への感謝のために再起できるようにすることも含まれます」

[Hagemann 1997, S. 192 – 193]。

ベルリンの看護協会をはじめとして,女性たちを動員する動きはプロイセン以外にもま たたく間に広まり,傷病兵看護を掲げた女性たちの愛国的な組織が,1815 年までに少な

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くとも 573 団体が結成されている[Reder 1998, S. 26]。また貧しい兵士たちの装備を整 えるための「価値のある犠牲」は,「鉄のために金を供出いたしましたGold gab ich für Eisen」というスローガンのもと集められた[Hagemann 1997, S. 193]。

この「祖国のため」に組織された協会の活動は,次のようなものである。一般の住民で 地域防衛隊に召集されたものや義勇兵などで金銭的理由から装備を自弁できない場合に それを整えてやり,戦争遂行に必要な資金・物資・兵士用の衣服の寄付を募り,軍隊の ための旗や包帯などリネン類を縫い,傷病兵を収容する軍病院を設立・運営し,看護婦・

料理人として傷病兵の世話をし,さらには残された兵士たちの家族の面倒を見,傷病兵 や戦没兵士遺族の生活を支援した[Reder 1998, S. 15]。ただし,前線での傷病兵回収お よび野戦病院での看護については,危険性が高いとして宗教組織から派遣される男性看 護士が行なっていたので,女性たちが担当したのは,内地の陸軍病院での看護であった

[Reder 1998, S. 374 – 375]。このように軍隊や前線から排除された女性たちにとって,旗 やリネン類を縫う活動は,祖国のために,そして「ドイツ・ネイション」のために貢献 していることを実感できた唯一の機会ともいえた[Reder 1998, S. 369]。

1.2 戦後の女性協会―ヴァイマルの例

これら「戦うもの,傷ついたもの,遺されたもの,戦争によって窮乏したもの」[Gräfe 1844, S. 18]といった,戦争による犠牲を被ったものへの支援は,戦争が終結したからと いって終わるわけではない。また各ラントは,いわば急造した国民軍,とくに郷土防衛 軍に参加した兵士や義勇兵のなかで,傷病者となったものや彼らの遺家族への公的支援 は想定していなかった。そのため,戦時中の傷病兵看護という目的を継続して,これら の窮乏する傷病者やその遺家族といった,戦争による犠牲者への支援を継続して行なう ことが考えられた[Reder 1998, S. 383]。

あるいは,「この[戦争の]機会に下層の状況を知るにつけ,彼らの大部分は,母親 的な愛に満ちた監督なくては生きられないことが明らかになった」として,直接の戦争 の犠牲者でなくても,窮乏するもの全般の救済へと支援の対象を拡張する組織もあった

[Reder 1998, S. 384]。それはたとえば「プロイセン女性協会Frauen- und Jungfrauen- Verein」(1814 年設立)のように,傷病兵に仕事を斡旋し,衣服を与え,彼らの子どもを 学校にやり,毎月の小遣いを渡すなど,戦争の犠牲者に対する支援を継続した組織であ る[Quataert 2001, p. 60]。

このような一般的な救貧・慈善を実践する組織のほか,窮乏を予防する方策として導入

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されたのは,貧困家庭の少女たちに,縫物や洗濯など家事労働を教え,家事使用人とし ての勤め口を得られるようにする労働学校 Indsutrieschuleである。こうした女子教育に もとづく貧困対策の例のひとつに,ヴァイマル大公妃マリア・パヴロヴナを代表に戴く

「愛国女性機関 Patriotisches Frauen-Institut」(1814 年 2 月 11 日設立)(同年 8 月 1 日 に愛国支援機関Patriotisches Unterstützungs-Institutと改称)がある[Gräfe 1844, S.

27, 37]。この組織は戦後の活動を,「女性愛国協会に関する規定」で次のように定めた。

「慈善活動や国家の目的にかなう活動への参加が呼び覚まされたが,講和の後でも,

女性たちは献身的な活動を,すなわち戦争で犠牲を被り欠乏に苦しむ人びとを戦争 の直接の被害者として援助をするよう心を砕くという願いを放棄できない。それゆ えヴァイマルでは,これまでにない新しい考えとして,窮乏するものへの支援や愛 国感情を促進するための協会が作られた…やがて窮乏に対処することは,教育の実 践的な側面を改善することにあると気づかれた。愛国的な活動を目指すことで,市 民的な福祉を促進できる可能性が喜びをもって気づかれたのである。それゆえいく つもの都市で,これまで顧みられてこなかった少女への教育や授業を重視する組織 が設立された」[Gräfe 1844, S. 37 – 38]。

戦後も活動を継続するために協会が課題としたのは,窮乏者支援と女子教育であった。

とくに女子教育については,1817 年に公国内に 20 の労働学校が設立され,5 − 17 歳の 少女 813 人が「将来乞食に陥らないようにする」ために,編み物や仕立て,亜麻や羊毛・

綿の紡ぎ方,洗濯,料理,菜園仕事などを学ぶカリキュラムで進められた[Gräfe 1844, S. 20, 65, 73]。この教育内容は,同時代のグレーフェの評価によれば,協会を運営する女 性たちの思惑である,よい使用人を育成することに合致していた。いわば上流女性たちの 利己的な目的にそったカリキュラムだったとはいえ,彼女たちの活動を通して,窮乏する 家庭の少女たちに何らかの技能を身につけさせるという公共性や,貧困を予防するため という「民族の幸福」といった考え方に社会の目を向けさせた点で,ヴァイマル「愛国 支援機関」は先駆的な役割を果たしたとグレーフェも称賛している[Gräfe 1844, S. 152, 164 – 167]。

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2 三月革命期

2.1 政治化する女性

1830 年代にはベルリンなど大都市では大衆貧困がはじまり,工業化が進む 1840 年代に は中間層も窮乏するなど,貧困は無視できない問題となった。この問題に対応するために 各地で救貧を課題とする組織を結成したのは,カトリックやプロテスタント諸派の女性 たちであった[Rumpel 1986, S. 219]。たとえば単身の多くは高齢女性が,仕事と住居を 求めて居住型の教育施設を共同で設立したり,そうした施設のある組織に援助を求めた のである。これとは別に,1840 年代には,労働学校に限らない女子教育の全般的な拡充 を求める声も聞かれるようになった[Huber-Sperl 2007, S. 61 – 62;フレーフェルト 1990, p. 70]。また 1847 年に飢饉が発生した際には,スープ・キッチンやそのほか困窮者への 食料供給を目的とする女性組織が,ドイツ諸邦内に相次いで設立された[Rumpel 1986, S. 222 – 223]。

三月革命といえば,ルイーゼ・オットーなどの女性たちが自らの教育の拡充やさまざま な権利を主張したり,政治的な活動に参加した最初の画期としてよく知られている[Lipp 1986, S. 292 – 298; フレーフェルト 1990, p. 68]。一方で多くの女性が,1813 年のときと同 じく,戦争や動乱の際の「愛国的」な活動に参加したことも忘れてはならない。

1848 年 2 月のパリにおける革命が報じられると,ドイツ諸邦でも次々と検閲廃止や結 社の自由といった民主化を求める組織が立ち上げられた。3 月末までには各地で「愛国協 会」が設立されているが,それは「ドイツの物品購入」促進を掲げる団体であった。他 方でヴュルテンベルクのように,1848 年 4 月に市民軍が動員されると同時に,次のよう に宣言する女性たちもいた。

「わたしたちの祖先たち,名声の衰えないドイツの女性たちは,祖国が危機に陥った ときに男性たちが払った犠牲を一部肩代わりしました。たとえば財産・宝石を祖国 の祭壇にささげ,武器や装備を整えることで。今わたしたちも同胞女性に呼びかけ ます。貧しい男性に戦いの装備を整えてやるために,自発的な愛国の贈り物をする ことで,その目的を果たそうではありませんか」[Kuby 1986, S. 254 – 256]。

1813 年の経験は,ヴュルテンベルクに限らずドイツ語圏のいたるところで引き合いに出 され,女性たちは自由を求める同郷の義勇兵たちのために,軍旗・軍服やリネン類を縫

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い,自弁できない兵士に装備を整えたのである。各地から集まった反国民議会の義勇兵 たちに装備や糧食を準備することも,女性たちの「愛国的」な活動であった。国民議会の 解散後も,西南ドイツ地域の女性たちは,自由を求める闘争を続けた義勇兵への援助を 継続した。具体的には,傷病兵を看護したり,包帯などリネン類を作ったほか,その闘 争が最終的には諸邦の為政者に制圧されたのちには,義勇兵の亡命者を支援した[Kuby 1986, S. 257 – 258]。このほか,1848 年 5 月,ドイツ連邦が海外進出のために提案した艦 隊建設の呼びかけにすぐさま応じて募金活動を積極的に展開するなど,革命期の女性た ちはさまざまな「愛国的」な活動を実践したのである[Kuby 1986, S. 250 – 251]。

革命の最終盤となる 1849 年 4 月,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国のドイツ連 邦加入をめぐってデンマーク王国との間で戦争が勃発した。この際,両公国を支持する ドイツの諸邦では,義勇兵や一般の男性たちが動員されたが,彼らのためにも女性たち は同じような支援活動を組織している。また,戦後にプロイセンの抑圧的な政策に抵抗 したシュレスヴィヒの義勇兵を支援したり,彼ら義勇兵が難民として逃れてきた際に受 け入れたり,くじを販売してその売り上げを難民に支援として給付するなど,動乱後も 多くの女性組織が支援を継続している[Kuby 1986, S. 261 – 262]。

2.2 反動期―「社会的母性」による公領域への参加

このような革命期の動乱に際して,多くの女性たちが 1813 年のときとは異なって政治 的な活動にも積極的に参加したため,為政者側は厳しい対応をとった。女性が政治組織 に参加することを禁じる結社法が 1850 年にプロイセンで導入されたのをはじめとして,

早くから憲法を制定するなど民主主義が進んでいた西南ドイツにおいても,1851 年から 1852 年にかけて制定されたのである[Lipp 1986, S. 301]。

女性の政治化を避けたい為政者側は,そうした抑圧を代替するように,救貧や慈善と いった女性の支援活動を促進したが,その際には「本当の人道主義にのっとった」支援,

とくに傷病兵や兵士の遺家族への支援などの慈善活動を推奨した。たとえば 1814 年設立 の「プロイセン女性協会」は,傷病兵や兵士の遺家族への食料配給などの扶養を,対デ ンマーク戦争後も継続して行なうようになった[Quataert 2001, pp. 57, 60]。しかしそれ は,ドイツ初の女性機関紙『女性新聞』に 1850 年に掲載されたように,「存在の直接的 な困窮を越えて,困窮の原因へのもっと深い問いかけに進み,救済すること」を女性た ち自身が重視するようになった[フレーフェルト 1990, p. 72]ためでもあった。

女性たちの慈善活動を促進するこの方針には,プロイセンで 1850 年 2 月 27 日に制定さ

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れた家族援護法が実効性をもたなかったことが影響している。これは兵士の遺家族支援 をゲマインデに義務づけたはじめての公的援護法であり,ゲマインデは兵士の遺家族す なわち寡婦,14 歳以下の遺児,兵士の被扶養者であった両親および 14 歳より上の遺児に 支援を給付することとされたが,財政上の理由から十分な給付がされないことが多かっ た[Daniel 1989b, S. 170; Quataert 2001, p. 62]。1851 年に傷病兵看護や兵士の遺家族支 援を実践するプロイセン国内の女性協会が「国民的な感謝 Nationaldank」にまとめられ たのも,そうした欠陥を補完する意味で女性の支援実践を活用しようとした一例といえ よう。この組織ほどではないにしろ,結社法の制定によって,出納業務の決済は男性が 行なうものとされたため,女性たちの活動は,為政者(男性)に管理されるようになっ ていった[Quataert 2001, p. 63]。

このような統制下に置かれたとはいえ,三月革命後には,解放戦争後に比べてより多く の女性協会が,兵士の遺家族に加えて窮乏するすべての人びとへの支援活動を継続した。

その際の方法は,家庭内の女性(妻・母・主婦)の役割である扶助活動を,公的な役割 として実施するというものであった[Rumpel 1986, S. 218]。結社法によって政治的な参 加を一切認められなくなった女性たちにとって,唯一公領域で活動するチャンスとして 残されたのは,女性の課題である「母親的な愛に満ちた監督」を実践する「社会的母性」

の役割だったのである。

3 統一戦争期

3.1 傷病兵看護の国際的連携―赤十字の創設

1859 年にはじまった北部イタリアをめぐるフランスとオーストリアの戦争は,とくに 西南ドイツ諸邦の人びとに戦争に巻き込まれるという恐れを生じた。戦争に備えた傷病 兵看護のための,あるいは扶養者たる兵士の不在から窮乏する家族を支援するため,王 族の女性たちの呼びかけで,バーデンやバイエルン,プロイセンなどで相次いで女性協 会が組織された[Quataert 2001, p. 73]。ただしそれらの多くは,プロイセンの組織のよ うに,戦争の危険性がなくなるとすぐに解散された[Daniel 1989a, S. 159 – 160]。

しかし有事に際しての女性動員を恒常化したところもあった。そのひとつ,バーデ ンでは,大公妃ルイーゼの呼びかけで,「戦争および戦争の脅威によって窮乏したもの の支援および傷病兵の扶助」を目的として設立された「バーデン女性協会 Badischer Frauenverein」が活動を継続している[Hänger 2007, S. 57 – 58]。参戦しなかったとはい

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え,この協会は規約にあるように,「戦時と平時とを問わず生じる傷病者の看護要員,つま り実践・理論ともに備えたキリスト教徒たる女性を育成する必要がある」[Riesenberger 2002, S. 91]という認識のもと,継続して看護要員の育成に取り組んだ。とはいえ,こう して知識と実践を学んだ看護婦たちの需要は,戦時でもなければほとんどなく,その多 くは自宅待機を余儀なくされた。こうした需給バランスのミスマッチを解消し,育成し た看護要員を活用するため,バーデン大公の肝いりでいくつか病院が建設され,女性看 護婦の雇用を生み出すことも行なわれている[Riesenberger 2002, S. 93, 95]。

ところで,看護の専門といえば想起される赤十字の構想が,このフランスとオーストリ アの戦争を契機にアンリ・デュナンによって提唱されたことは周知のことであろう。彼 は敵味方の区別なく傷病兵を看護する理念を実現するため,1860 年代初頭にドイツ各邦 を回って協力を要請し,プロイセン王妃アウグスタなど王侯貴族の知己を得た。そのつて で,バーデン,ヘッセン,プロイセン,ヴュルテンベルクなどの代表が,1863 年 10 月の 国際赤十字設立会議(ジュネーヴ)に招待されている。これに触発されて,各ラントでは 男性を中心にした軍事看護組織が結成された[Riesenberger 2002, S. 29]。たとえばプロ イセンでは,兵士の看護を課題とする「傷病兵看護協会Verein zur Pflege verwundeter und erkrankter Krieger」が設立された。この団体は,戦時に動員された女性組織が祖国 前線で兵士の遺家族支援を主たる課題としたのと対照的に,前線での傷病兵の看護を行 なうことと,戦後も看護士・看護婦の育成活動を継続していくことを課題とした[Daniel 1989a, S. 160]。

同様の動きは,1864 年 2 月 1 日にドイツ連邦とデンマークとの戦争が再度始まったと きにも見られた。開戦直後にキールで「軍病院支援委員会」が設立されたのをはじめとし て,ハンブルク,ザクセンなどで相次いで,前線における傷病兵の看護組織が男性たちに よって結成されたのである。プロイセンでも同 2 月 6 日,傷病兵看護協会の下部組織とし て「戦場の傷病兵看護のためのプロイセン中央委員会Centralkomitee des Preußischen Vereins zur Pflege im Feld verwundeter und erkrankter Krieger」がベルリンで設立 された[Riesenberger 2002, S. 38]。男性の官吏や軍人が中心となったこの団体は,前線 での傷病兵看護にあたる人員としてヨハネ騎士団所属の医師や男性修道士,それにボラ ンティアの男性看護要員を軍の衛生班に派遣した[Daniel 1989a, S. 161; Riesenberger 2002, S. 39]。

女性たちも二度目の対デンマーク戦争に際してあらためて傷病兵看護協会を設立した が,活動範囲は祖国前線での病院などに限定されていた。むしろこれまでの非常時と同

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じく,縫製作業や兵士遺家族支援に力を入れる活動を継続したり,その目的のためにあ らたに活動をはじめる女性が多数を占めた[Daniel 1989a, S. 160 – 161]。

なおプロイセンだけで 150 にのぼった男性主体の傷病兵看護協会の大半は,戦争が終結 した 1865 年には解散されている。それは,ミュンスターの協会が主張したように,「ま だ生じていない戦争や将来のための犠牲を前もって払う準備はない」として,人びとの 関心が薄れたためである[Daniel 1989a, S. 161]。

3.2 女性組織の恒常化

対デンマーク戦争後も活動を継続した「戦場の傷病兵看護のためのプロイセン中央委 員会」は,1866 年 4 月,来るべきオーストリアとの戦争を視野に入れて規約を改正し,平 時にも戦争に備えることをより明確にした。すなわち,「平時には戦時中に要求される傷 病兵看護のための準備を行なうが,それは,寄付を集め,必要な物資を製作し,看護士・

看護婦を組織として養成することと,ほかの看護要員の育成組織と連携することを通し てである」と[Riesenberger 2002, S. 37]。

このように準備したうえで,2 か月後の 1866 年 6 月に実際に戦端が開かれると,女性 たちも解放戦争や対デンマーク戦争のときと同じく,傷病兵看護や兵士の遺家族支援の ための組織を結成した。とくに女性たちによる看護協会の設立は,プロイセン政府も強く 要請した。なぜなら命を落とす兵士の数は,戦闘行為そのものによるよりも,怪我や病気 の際に十分な看護が受けられない場合に多かったことから,為政者側が前線での傷病兵 の治療・看護以上に,祖国前線における治癒過程での看護を重視したためである[Daniel 1989a, S. 162]。そのほか,兵士の遺家族支援としては,彼らへの食料提供を旨とした援 助も行なわれた。その一例は,リナ・モルゲンシュテルンが開戦直後に設立した「ベル リン国民のキッチンBerliner Volksküche」であろう。この施設は,開戦によって物価が 高騰したために,食べるものにも困った兵士の家族たちに,持ち帰りの昼食を提供する ものである。旧来からある慈善施設(スープ・キッチン)とは一線を画し,窮乏する兵 士遺家族や一般に困窮する家族への支援を戦後も継続することを掲げた点が特徴である

[Fassmann 1996, S. 191 – 193]。

プロイセンでは普墺戦争の停戦日である 1866 年 11 月 11 日に,平時にも傷病兵看護や 兵士遺家族支援を継続する「愛国女性協会Vaterländischer Frauenverein」が,王妃ア ウグスタの呼びかけのもと結成された。クヴァタートは,ドイツ語圏の女性協会に王権の 影響力が強いことを喝破したが,なかでも個人的な血縁関係が各地での協会設立を促し,

(14)

また帝政期に進む組織間のネットワーク化にもつながったと指摘している。具体的には,

ここで名を挙げたプロイセン王妃アウグスタの母親は,解放戦争後も女子教育に力を入 れたヴァイマルの「愛国支援機関」を呼び掛けた大公妃マリア・パヴロヴナであり,ま た 1859 年に「バーデン女性協会」を組織した大公妃ルイーゼはアウグスタの娘であった という[Quataert 2001, p. 42]。

王妃アウグスタが呼びかけた「愛国女性協会」は,規約の第 1 条にあるように,「プ ロイセンの傷病兵看護協会の女性協力者からなる」赤十字の下部組織であった[Daniel 1989a, S. 163; Quataert 2001, p. 42]。この組織は,プロイセン各地の戦争犠牲者のための 支援協会を統合し,協会員を戦時看護の要員として教育し,また宗派・身分を超えて募 金・看護などの面で協力することを目的とするものであった[Süchting-Hänger 2000, S.

134]。ただし看護婦の養成と戦時のための募金活動という,戦争を想定した目的設定が 狭すぎたことから,参加組織および加入者数が伸び悩んだ。そのため 1869 年の第二回総 会では,地域の女性組織に,病人や寡婦,遺児や子ども全般への扶助といった一般福祉 への参入を推奨する方針を示して,加入組織の増加を見込んだ[Daniel 1989a, S. 163]。

「愛国女性協会」への参加組織と加入者数は,それぞれ 1886 年に 594 団体 68,324 人から,

1895 年には 839 団体 131,678 人,1910 年には 1,507 団体 482,869 人,第一次世界大戦中の 1916 年には 2,335 団体 795,762 人にまで増加している[Daniel 1989a, S. 178 – 179]。対デ ンマーク戦争後と違い,「愛国女性協会」は,はじめから平時も活動を継続することを想 定していた。そのため 1867 年から 1869 年まで続いた東プロイセンでの飢饉とチフス流行 に際して,「愛国女性組織」とその下部組織は,親を喪った子どもたちに食料を与えたり 里親を探すなどの支援活動にいち早く取りかかることができたのである[Riesenberger 2002, S. 49]。

傷病兵の看護,なかでも前線における看護を業務として,1869 年 4 月 20 日にドイツ赤 十字が設立された。各ラントの傷病兵看護のための男性協会を「戦場における傷病兵看護 のためのドイツ赤十字中央委員会Zentralkomitee der Deutschen Verein zur Pflege im Felde verwundeter und erkrankter Krieger vom Roten Kreuz」に統合する形で結成さ れたドイツ赤十字は,国際赤十字委員会の会合が 2 日後にベルリンで開催されるという タイミングで,本部をプロイセン王国の首都ベルリンに置くこと,すなわち各ラントの 協会がプロイセン傷病兵看護協会の主導,ひいては戦時中のプロイセン協会の主導を認 めて設立されたのである[Riesenberger 2002, S. 52, 63]。

この男性主体のドイツ赤十字にはしかし,1870 年 9 月にはじまった普仏戦争の際に批判

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の声が高まった。批判の内容は,前線での傷病兵収容に当たる男性ボランティア看護要員 は看護の基礎教育ができておらず,その行動も独断と恣意に満ちているというものであ る。そのため女性看護婦をフランスの前線まで随行させた部隊もあったという[Quataert 2001, p. 80; Riesenberger 2002, S. 59]。他方で普仏戦争中の愛国的な女性組織は,祖国前 線での看護実践,寄付やくじ販売による活動資金の徴募という従来からの支援活動のほ か,駅での軍隊移動の補給や戦争犠牲者のためのバザー開催など,新しい分野の活動に も取り組むようになった[Quataert 2001, p. 79]。戦後にはとくに,戦時中の経験から女 性の看護婦養成が急務とみなされたことから,各地の女性看護協会は,プロイセン「愛 国女性協会」のように,男性主体のドイツ赤十字に加入するよう求められたのである。

それを象徴するのは,1871 年 8 月 12 日に,7 つのラントの女性看護協会が,「ドイツ 女性協会連合Verband der deutscher Frauenvereine」を結成し,連合としても個別組織 としてもドイツ赤十字に加入したことである[Hänger 2007, S. 58]。それらの組織は,プ ロイセン「愛国女性協会」をはじめとして,ヴァイマル「愛国支援機関」(1817 年設立),

「ヴュルテンベルク慈善協会」(1817 年設立),「バーデン女性協会」(1859 年設立),「バ イエルン女性協会」(1859 年),それにプロイセン組織の影響から看護婦養成のために設 立されたザクセン「アルベルト協会」(1867 年)とヘッセン「アリス協会」(1867 年)で ある。このように男性看護組織に参加したことは,一方で女性の戦時活動を,より大き な軍事目的,国家目的にますます組み込んでいくこととなり,同時に社会のなかでの関 係と同じく女性たちをいっそう男性に従属させていった。他方で恒常的な組織として活 動していくなかで,統一戦争後の愛国的な女性組織の活動は,傷病兵や兵士の遺家族支 援の生活支援から敷衍した,一般に窮乏者を支援する地域福祉にシフトしていったので ある[Quataert 2001, p. 79, 81]。

3.3 女子教育の改革要求

解放戦争以降にヴァイマル「愛国支援機関」などがはじめた女子教育は,実践的な家事 労働の教育を目的としていた。しかし革命や戦争などの非常時に,あるいはその後に,看 護やそのほか扶助活動に従事するには,専門知識や実技の習熟が必要であると論じられ るようになる。そこで,家事に限定しない女子教育の拡充を課題として,「全ドイツ女性 協会Allgemeiner Deutscher Frauenverein」(以下ADFと略記)が 1865 年にシュトゥッ トゥガルトで組織された。この協会は,たとえば小学校教員やタイピストの育成・養成 など女子への中等・高等教育や職業教育といった女性への教育全般の拡充と,それにも

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とづく就業チャンスの拡大を主張していく[Huber-Sperl 2002, S. 64]。あるいは家事使 用人としてではなく,女性たちが自立した母親として家庭のなかで子どもの養育および 教育ができるようにすることも目指した[姫岡 2009, p. 235]。

このADFが王朝のパトロンをもつ愛国的な組織と大きく異なるのは,設立の契機が直 接には戦争支援と関係しないことと,協会を設立・運営したのが市民層の女性たちであっ た点である。また王族女性たち「国母」が施す慈善とは異なる形で,女性的資質を社会の なかで発揮する前提を教育し,科学的な知識と技術に裏打ちされた「社会的母性」にもと づく支援活動を標榜したのも特徴である[Quataert 2001, pp. 82 – 84; 姫岡 2009, p. 235]。

とはいえ帝政期には,愛国的な女性組織の活動とADFに参加する女性協会との間には,

実質上それほど大きな違いはなくなっていく。たとえば 1880 年 10 月のドイツ赤十字の 会合では,戦争支援が差し迫って必要ではないこともあり,プロイセン「愛国女性協会」

をはじめとする女性協会員たちを公的救貧に参入させるよう促進すべきことが決議され た。これを受けて,愛国的な女性組織は,いくつかの地域でゲマインデ単位の救貧シス テムに参与し,貧困家庭を訪問・調査する名誉職の扶助員に女性を何名も輩出していく ようになった。そのほかスープ・キッチンや孤児院の開設・運営,少女たちを集めた居 住型の教育施設を設立・運営したり,看護婦の派遣仲介も行なった[Quataert 2001, pp.

120 – 123]。世紀転換期にはしかし,ヴィルヘルム 2 世の新航路政策宣言によって,植民 地をめぐる争いが近々生じるという予測から,愛国的な女性組織は一般福祉の部門を縮 小し,再び看護など戦時支援に活動を集中させていく[Süchting-Hänger 2000, S. 134]。

上記の赤十字の会合から 1 ヶ月後の 1888 年 11 月,加速度的に広がる貧困に対応する ため,ドイツ全土から社会政策家たちが集まって,「ドイツ救貧・慈善協会Deutscher Verein für Armenpflege und Wohltätigkeit」を設立した。ここにはADFの女性たちも 参加しているが,彼女たちはこれからの救貧の在り方を,とくに女性扶助員を専門化す ることで変えていく意気込みをもって加わったのである。なかでも地域福祉で活動する 女性たちの専門性を高めることを目指したミナ・カウアー,ジャネッテ・シュヴェリー ン,アリーセ・ザロモンらは,1893 年にベルリンで社会活動に関する教育を集中的に行 なう「社会的支援活動のための女性グループMädchen- und Frauengruppe für soziale Hilfsarbeit」を結成している。ザロモンはここでの教育内容をさらに高度化し,あわせ て女子の中・高等教育を充実させるねらいから,1908 年に「女性のソーシャルワーク専 門学校 Soziale Frauenschule」を創設した[Sachße 1994, S. 108 – 113 ; Fassmann 1996, S. 261 – 263]。ここでは 1 年間の基本コースで学んだあと,1 年間の上級コースで病院や

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地方の救貧扶助システムでの実習および医学,衛生学,経済学,社会保険制度などの実 務に必要となる専門分野の知識を学ぶ。修了生は,救貧扶助や青少年福祉,工場監督官 や学校監督官など行政の末端扶助員や,視覚障害者施設,病人看護,託児所や産婦ケア ホームの扶助員といった民間組織の実務者として有給職を得ている[Schröder 2001, S.

81, 255]。ADFやこれらの市民女性の組織は,相互の連携を図り,「母性を組織する」こ とを目指して,1894 年に「ドイツ女性団体連合Bund Deutscher Frauenvereine」(以下 BDFと略記)を設立した[姫岡 1993, pp. 34 – 35]。

3.4 もうひとつの愛国組織―植民地協会

プロイセン「愛国女性協会」など,慈善や地域福祉に重点を移した愛国的な女性組 織とは別に,「愛国」の意味を帝国主義的に解釈した女性たちが,1890 年以降いくつ か組織を結成した。それはたとえば 1893 年に設立された「ドイツ・オストマルク協会 Deutscher Ostmarkenverein」の会員の妻や娘たちが 1895 年に結成した「ドイツ・オス トマルク女性協会Deutscher Frauenverein für die Ostmarken」である。同じように,

「ドイツ艦隊協会Deutscher Flottenverein」(1898 年)の女性部門として「ドイツ女性 艦隊協会Flottenbund deutscher Frauen」(1905 年)が,「ドイツ植民地協会Deutsche Kolonialgesellschaft」(1882 年)の女性部門として「ドイツ植民地協会女性連合Deutsch- kolonialer Frauenbund」(1907 年)が,それぞれ結成されている[Chickering 1988, pp.

167, 172, 176]。これらの女性部門は,各協会の目的のために女性の力を結集することを目 指したもので,たとえば「ドイツ植民地協会女性連合」は,植民地で家事奉公人として働 きたい女性や,混血児の出生を避けるためにドイツ人男性の妻になるドイツ人女性を海 外に送り出すことを活動の中心に置いていた。ここでは「ドイツ的なアイデンティティ」

の維持が課題とされたが,同時に女性は家政すべてをこなすという社会に浸透した性別 役割分担も厳格に守られたのである[Chickering 1988, p. 178; 姫岡 2009, p. 245]。

統一戦争以降,植民地を除いて大きな戦争がなかったことは,女性組織に活動の方向 転換を促した。すなわち平時の課題として看護など「戦時の準備をする」活動のほかに,

兵士遺家族支援を敷衍した一般福祉に力を入れるという転換である。他方で女子教育を 専門化する要請から,ADFなど市民女性たちの組織が結成され,それにともなって,女 性の就業チャンスが拡大し,女性たちも職種別の組織をつくったり,女性クラブを設立し たりするようになった。地域レベルの扶助活動を中心とする点では,愛国的な女性組織

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にも市民女性の組織にも大きな違いはなく,また帝政期には,BDFなどネイション・レ ベルで同様の活動をする組織の連合やネットワーク化が進んだ。さらに女性の社会参加 をよりいっそう進めるため,「女性参政権同盟」などの政治的な権利要求を組織した団体 も設立されていく[Huber-Sperl 2002, S. 66 – 67]。

この女性の政治参加については,女性組織の間で見解が決定的に異なっていた点であ る。ADF参加者やベルリンの女性グループ設立者たち,それにBDFに加わったうち市民 女性が中心となった組織の多くは,教育や職業それに政治決定に女性がさらに参加でき るようにと強く要求した[姫岡 1993, pp. 74, 124]。これに対して,愛国的な女性団体は,

会計など重要事項の決定で男性に従属させられることに不満をもちながらも,女性参政 権には否定的であった[Chickering 1988, p. 165 ; Daniel 1989a, S. 169]。性別役割に沿っ た活動を展開した植民地協会の女性たちも,男女同権を謳う女性参政権運動とは距離を 置いていた[Chickering 1988, p. 183]。 このように,内にさまざまな見解を含みながら も,19 世紀末の女性組織は,程度の差はあれ地域の一般福祉,わけても窮乏する家族の 支援に不可欠な存在になっていたといってよいだろう。

4 第一次世界大戦期

4.1 祖国女性奉仕団の結成

バルカン戦争(1912 − 1913 年)により,ヨーロッパでの戦争勃発がにわかに迫ってき たまさにその 1913 年に,ドイツ全土で解放戦争 100 周年記念祭が大々的に開催されたこ とは,プロイセン「愛国女性協会」など愛国的な女性協会を,あらためて看護など直接 戦争支援に結びつく活動にシフトさせる契機となった[Süchting-Hänger 2000, S. 139 – 140]。

1914 年 6 月 28 日のオーストリア皇太子暗殺と 7 月 23 日のオーストリアによるセルビア への最後通牒により,ヨーロッパでの戦争が現実味を帯びてきた 7 月 31 日,ドイツ政府は オーストリアの同盟国として参戦を決定し,全土に向けた総動員令を発した。これにいち 早く呼応したのはBDFであった。会長のゲルトルート・ボイマーは同日,兵士の遺家族 支援に関する帝国援護法を補完する「戦時扶助Kriegsfürsorge」を女性の課題とすること を宣言し,傘下の団体に「ドイツ・ネイション」に奉仕する「祖国女性奉仕団Nationaler Frauendienst」(以下NFDと略記)に加わるよう要請した[Altmann-Gottheiner(Hg.)

1916, S. 5; 北村 2006, p. 23]。翌 8 月 1 日にボイマーらBDF首脳部は,NFDによる「戦

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時扶助」への助力をプロイセン内務省に申し出ており,それは 8 月 14 日に認可されてい る[Daniel 1989b, S. 81]。兵士の遺家族支援に関する帝国援護法は,1850 年のプロイセ ン家族援護法を原型として,北ドイツ連邦の結成時,またドイツ帝国の創建時にも引き継 がれたものである。2.2 で指摘したように,ゲマインデの財政力によっては十分な給付が できないこともあったため,1888 年 2 月 28 日付で,ライヒが援護額を償還するよう改定 されている[Daniel 1989b, S. 170 – 172]。ボイマーたち市民女性は,女性の「戦時扶助」

というサーヴィス給付を通してこの援護法を補完すること,すなわち国家の目的のため に女性を動員することを自発的に提案したのである。

ここで想定されている「戦時扶助」は,1813 年以来行なわれてきた女性の戦時活動と 同じく,傷病兵の看護と兵士の遺家族支援であり,具体的には次の内容を含む。すなわ ち,傷病兵の看護(ただし 1877 年の陸軍衛生班規定により,女性の看護は原則として前 線ではなく後方か祖国前線の病院で行なう),慰問袋の寄付,女性の失業対策として雇用 創出や就業斡旋(縫製・刺繍作業所の設立),食料供給,妊産婦とその子どもの支援,家 賃補助,難民支援,遺族への物資支給,などである[Altmann-Gottheiner(Hg.)1916, S. 15; Süchting-Hänger 2000, S. 140]。と

くに軍事看護については,愛国的な組織 が従来行なってきた活動が先んじている ことから,NFDは赤十字の女性部門を構 成する愛国的な組織と協力したほか,労 働問題に対応するために,労働者層を代 表するSPD女性とも連携した[Kundrus 1995, S. 100, 103; Hänger 2007, S. 62]。ま た「戦時扶助」は,資金調達のため,1813 年と同じく「鉄のために金を供出いたし ましたGold gab ich für Eisen」のスロー ガンを用いた(図 2)。

NFDに集結した市民女性たちは,自ら が行なう「戦時扶助」は,君主を後ろ盾 とする愛国的な女性組織の活動,すなわ ち傷病兵の看護と兵士の装備準備を重視 した戦時支援とは異なることをさかんに

図 2  第一次世界大戦期フランクフルトにおける金供出の ポスター。「フランクフルト女性たちへ!」の呼びか けの最後にスローガン。

出所: Historisches Museum Frankfurt, Ein Krieg wird ausgestellt. Die Weltkriegssammlung des Historischen Museums (1914 – 1918), Frankfurt am Main 1976, S. 152.

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強調している。女性協会が平時にも活動を継続し,福祉部門に参入していった普仏戦争 以降の経験から,NFDでは兵士の遺家族,さらに広く戦争によって窮乏する家族が自立 した生活を送れるよう支援していくという[北村 2006, pp. 27 – 29]。戦時支援は平時の 社会活動の延長である,というのが市民女性たちの自負であった。

地域ごとに編成されたNFDは,その立場や支援内容も各地域で異なっていた。たとえ ば,女性組織が結集し,兵士の遺家族支援を一手に引き受けたベルリンやフライブルク,

フランクフルトの例に対して,シャルロッテンブルクやハノーファーなどのNFDは男性 を中心とする兵士遺家族支援団体の下部組織として組み込まれた。また市の行政に直属 する形で支援実践の末端を担ったハンブルクやカールスルーエの事例に対して,行政シ ステムの一翼を担いつつも女性組織独自の支援活動を進めたマンハイム,行政からは完 全に独立して活動したケムニッツなどの例がある。またエムデンなど女性協会が少ない 農村地域や,中核となる女性組織が強力な指導力をもったエッセンやヴァイマルなどで はNFDは結成されず,統一戦争期と同じように傷病兵看護を行なう赤十字を母体にして 女性たちが動員された[Kundrus 1995, S. 111]。

4.2 兵士遺家族支援の展開―失業対策と食料供給

先に見たように,開戦と同時にさまざまな形態で女性が「戦時扶助」に動員されたが,

第一次世界大戦期の祖国前線における兵士遺家族支援は,主として二つの分野に集約で きる。それは女性の失業対策と食料供給である。開戦直後には,外国からの帰還者を含 めて 6 割の女性が職を失うほど失業率が高かったことから,NFDなど「戦時扶助」を実 践した女性組織は,「窮乏への直接的支援以上に雇用の創出が大切」であり,また「失業 した女性は,帝国法による援護だけでは生活を維持できない」ことから,早急に女性の

(再)就職が必要と見なした。対策の中心として実施されたのは,従来戦時中に行なわれ ていたリネン類などを縫製する女性たちの作業の賃労働化である。

各地で設立された「縫製作業所Nähstube」は,ベルリンやフランクフルトの例にみら れるように,NFDだけでなくそれに参加しなかった宗派系の女性組織,それに労働組合 が共同で運営にあたった。兵士の妻を優先的に雇用した「縫製作業所」は,戦争省および ドイツ赤十字と契約して,軍隊や陸軍病院で必要な包帯・シーツなどのリネン類や軍服,

毛糸製品,一般に衣類などの縫製作業を請け負った。ベルリンでは一日あたり作業所で 800 人,家内労働者として 900 人が,フランクフルトではそれぞれ 1,500 人と 5,200 人が 雇用されたが,問題は,1915 年半ばには武器製造の物資と同様に糸や布などの材料が不

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足するようになったことである。そのため 1916 年にはどの地域の作業所もほぼ機能不全 に陥った。他方で,ハイデルベルクやフランクフルトのように,ゲマインデの労働局と 連携して職を斡旋するNFDもあった。これらの都市では,主として兵士の妻のためにシ ステムが導入されたが,就業経験のない女性も多かったため,斡旋できる職種が在宅で できる縫製作業や陸軍病院での短時間の看護補助などに限られ,需給バランスがとれず に全員に斡旋できないという問題もあった[Altmann-Gottheiner(Hg.)1916, S. 15; 北 村 2006, pp. 34 – 35]。

「戦時扶助」のもう一つの重要な課題は,祖国前線における食料供給である。NFDに参 加した女性たちは,1914 年 10 月以降順次導入された自治体によるパンや小麦,ミルク,

じゃがいもなど基礎食品の配給業務を補助していた。しかし 1916 年に入ってほとんどす べての食料が配給対象となり,5 月 22 日以降は帝国食料庁による国家統制が進むと,詐 取が多いなどの苦情が配給を補助するNFDに相次いで寄せられたため,女性たちが配給 を受ける家族主婦の立場から分配を取り仕切るようになっていった。また中立国からの 輸入でようやくしのげるような食料不足のなか,海水魚などなじみのない品目や無駄を 出さない調理法を兵士の妻たちに向けて講習したことに加えて,栄養価を考えたうえで 効率的に調理するシステムとして,開戦直後から各地で戦時給食センターKriegsküche を設立した。1866 年の「ベルリン国民の台所」をモデルにした給食センターでは,兵士 の遺家族や失業者を中心に窮乏する人びとに,無料でまたは安価に昼食が提供された。乳 幼児や妊産婦,学童たちへの食事提供はとくに重視された活動であった[Kundrus 1995, S. 138; 北村 2006, p. 35; 藤原 2011, pp. 44 – 48]。

4.3 1920 年代以降への展望

第一次世界大戦の終結とともに,各地のNFDは 1920 年中にはすべて解散された。「戦 時扶助」に参加した女性組織は,それぞれ戦前の活動に戻っていく。あるいは敗戦や体 制転換によって資産や後ろ盾を失って解散されたものもあった。そのなかでプロイセン

「愛国女性協会」は,1918 年末にベルリン中央協会が活動停止宣言を出して地方協会の解 散を促したにもかかわらず,地方組織の多くがそのまま活動を続行した珍しい例である

[Daniel 1989a, S. 173 – 174]。後ろ盾となっていた国王一家がオランダに亡命したプロイ セン「愛国女性協会」は,王権の庇護のもと特権を認められてきたとして強く批判され,

またヴェルサイユ講和条約でもその第 177 条および 178 条によって,活動領域を非軍事の 看護に限定されるなど,いくつもの特権を剥奪されていった。このように協会にとっては

(22)

不利な状況下でも,会員数はそれほど減少せず,終戦時の 1918 年 11 月には 2500 支部,

90 万人だったものが,設立 60 周年の 1926 年 11 月にもなお 2400 支部,70 万人を擁して いた。このプロイセン「愛国女性協会」が 1926 年 3 月にあらたに名誉総裁に大統領ヒン デンブルクを迎えたことは,統治者が庇護するという解放戦争以来の愛国的な女性組織 のあり方が,ヴァイマル期にも変わることなく踏襲されたことを示す[Süchting-Hänger 2002, S. 156 – 157; Hänger 2007, S. 67, 75]。

兵士の遺家族を含めた戦争によって窮乏した家族への支援は,1920 年代にはデュッセ ルドルフやフランクフルトなどのいくつかの自治体で,行政の支援システムとして制度 化されていく[Nakano 2008]。そのシステムのなかで,窮乏する家族の支援を担ったの は,すでに 19 世紀から地域の一般福祉に参入し,第一次世界大戦期にNFDなどで祖国 前線の兵士遺家族支援や看護の実務を担った市民女性たちであった。

ナチ期には,女性組織に否定的な党の方針から,あらゆる女性組織は,BDFのように ナチ党からの命令を受け入れて自ら解散(1933 年 5 月)していくか,強制的にナチ女性 団 NS-Frauenschaftの下部組織「ドイツ女性活動Deutsche Frauenwerk」(1933 年 9 月 結成)に合一されていく[Daniel 1989b, S. 174; 姫岡 1993, p. 150; Süchting-Hänger 2002, S. 366]。赤十字の女性部門は,1937 年の赤十字法で,ドイツ赤十字そのものがナチの民 族福祉団 Volkswohlfahrt に組み込まれたあと,完全に解体された[Hänger 2007, S. 83]。

女性組織を「統合」した「ドイツ女性活動」には,ほぼすべての女性が加入を強制され た。そしてそこでは定期的に主婦講座が開催され,効率的な調理の方法,衣服の手入れ の仕方,果物の保存の仕方など合理的な家事の方法が伝達された。女性たちには,そう した知識をもとに家庭生活を維持すること,そして第二次世界大戦がはじまった 1939 年 9 月以降には祖国前線を維持することが果たすべき義務として課せられた[Frevert 1989, S. 52]。解放戦争以降,「愛国的」という旗印のもと,自発的に傷病兵の看護や兵士の遺 家族支援を行なってきた女性たちの戦時活動は,ここではっきりと国家目的のために強 制されるものとなったのである。

お わ り に

戦時支援は,戦闘行為によって生じた傷病者を看護するのみならず,広く戦争によっ て不利益を被ったものの支援を指す。解放戦争以来その支援を実践したのは,戦時中に 動員された女性たちであり,19 世紀後半には平時も活動を継続する組織においてその専

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門性をよりいっそう高めていった。

解放戦争期に民兵とその家族の支援を目的とした女性組織は,戦後ほとんどがその大 義を失って解散された。存続したものの多くは女子教育とくに家事に関する教育を通し て,下層少女に就業チャンスを増やす活動に集中した。1848/49 年の三月革命の際には,

愛国的な活動が再開されたほか,政治的な主張をする女性協会もいくつか設立された。革 命後は政治的反動の影響で,女性組織の活動も停滞するが,戦争の危機が高まった 1859 年以降は,再び協会設立が急増する。また,デュナンが提唱した赤十字の活動に呼応し て,看護を目的とする組織のネットワーク化が進められる。さらに 1866 年には,プロイ セン「愛国女性協会」など女性看護婦の育成活動という「戦争の準備」を,平時にも継 続することを想定した女性の「戦時」支援組織がはじめて結成されたのである。

同時期の 1865 年に,従来の女子教育を拡充することを唱えて,女性の社会活動とその 専門化を要求するADFが市民女性によって設立された。この時期以降,一般福祉のほか,

とくに市民女性の就業チャンス拡大を要求する組織が,女性のさらなる権利要求を主張 するフェミニズムと結びついて,女性参政権運動を展開していくことになる。

第一次世界大戦の開始と同時に,市民女性の屋上団体BDFは傘下の組織に「戦時扶助」

への協力を呼びかけた。1914 年の女性の戦時支援は,赤十字とその傘下の愛国的な女性 組織が主として看護を担当し, BDF参加組織を中心としたNFDが兵士遺家族支援を担 うという二重構造となった。戦争終結とともにNFDは解散されるが,戦前から活動して いた多くの女性協会は,そのまま一般福祉,とくに兵士遺家族やそのほかの戦争犠牲者 など,ヴァイマル共和国が主たる救済対象と措定した人びとへの支援を継続していく。

以上のように「長い 19 世紀」の女性の戦時動員を概観すると,解放戦争時の女性たち の活動が,その後の戦時・非常時において常に参照されていたことは明らかである。そし てその時点ではできなかった女性協会の恒常化は,1860 年代以降に,戦時の看護をより 専門的に行なうため,そしてそれを敷衍した女子教育を拡充するため,という目標を追求 する過程で実現した。こうして平時にも活動を継続するようになった女性組織は,支援 対象を戦争による窮乏者だけでなく一般に窮乏するものすべてに拡大するとともに,窮 乏に陥らないようにする教育支援を含めた一般福祉に重点を置くようになっていく。し かし戦時支援中心の愛国的な女性組織も,平時も継続した看護協会や女子教育の組織も,

いずれも女性特有の活動を通してドイツ・ネイションに貢献することを目的として自発 的に支援を実践した点では一致していた。他方でこれらの女性の活動そのものは,一貫 して公領域に出すぎないよう男性の管理下に置かれたことも同様である。これら共通す

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る点はあるにしても,市民女性たちの自意識のなかでは,第一次世界大戦期の「戦時扶 助」に参加した女性たちの見解からも明らかなように,「国母」として上から見守る愛国 的な組織の方針と,「社会的母性」を専門化した社会活動で科学的に支援する自らの方法 を厳然と区別していた。過去の支援活動を参照しつつ批判することで発展してきた女性 たちによる社会活動は,第一次世界大戦後には,自治体の「家族扶助」システムに組み 込まれ,実務を担う女性たちに公的な決定権が与えられるまでになった。しかし 1933 年 以降,このようなさまざまな形態の女性による愛国的活動はすべて男性の支配下に従属 させられ,政権の命令下で実践されるべき義務へと完全に変えられたのである。

 参考文献

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参照

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