足 利 義 教 の 法 華 経 談 義
│
│ 林 光院 住 持 雲叟 と 義 教│
│
堀 井
佳 代 子
は じ め に 近年
︑室 町幕 府と 仏教 の関 わり につ いて
︑国 家的 な祈 禱や 追善 仏事 を中 心に 検討 が進 めら れ︑ 具体 的な 法会 開催 の 状 況や 禅宗 のみ に偏 るこ との ない 幕府 と仏 教の 関係 が明 らか にさ れた
⑴
︒こ れ ら の 研究 に よ って
︑仏 事 や 法会 へ の 理 解 は格 段に 進ん だが
︑幕 府の 国家 的位 置づ けや その 正統 性に 関わ る法 会や 仏事 に分 析が 集中 して いる
︒し かし
︑辻 善 之 助以 来の 室町 将軍 個人 の信 仰を 明ら かに する とい う視 点も
︑こ の時 代を 考え る上 でや はり 重要 なの では ない だろ う か⑵
本 ︒ 稿 では 足利 義教 の個 人的 信仰 の具 体相 の一 端を 明ら かに する こと を目 指し
︑彼 の行 った 経典 の﹁ 談義
﹂を 取り 上 げ る
︒義 教 の訪 れ た 寺院 や 行 っ た仏 事 に つい て は﹃ 蔭 凉軒 日 録
﹄か ら 詳細 に 知 るこ と が 出来 る︒ す で に 蔭 木 英 雄 氏 は
︑﹃ 蔭 凉軒 日録
﹄か ら︑ 義教 が地 蔵信 仰を はじ めと する 雑 多 な信 仰 を 持っ て い た こと
︑禅 宗 に はそ れ ほ ど強 い こ だ わ りの なか った こと 等を 指摘 して いる
⑶
︒本 稿で は﹁ 談義
﹂の 検討 から
︑改 めて 義教 の信 仰を 考え たい
︒
― 425 ―
第一 章 談義 の 実 施 経典
の談 義と は︑ 僧が 経典 の内 容を 解説 して 講義 する こと であ り︑ 僧侶 は説 話な どを 用い なが ら経 典の 内容 を分 か り や す く伝 え る︒ 具 体的 な 談 義 で話 さ れ た 内 容 は︑ 数 々 の 談 義 書 か ら う か が う こ と が 出 来 る⑷
︒ ま た︑ 貴 賎 を 問 わ ず
︑広 く 談 義が 聴 聞 され て い た こと が こ の時 期 の 諸記 録 に し ばし ば 見 える
⑸
︒な お
︑論 語 等の 経 書 の 講義 も
﹁談 義
﹂ と され
︑禅 僧や 儒者 が行 って いる
⑹
︒室 町将 軍も たび たび 僧侶 から 談義 を聴 聞 し て おり
︑足 利 義 満も 義 堂 周信 か ら 楞 厳 経 な どの 談 義 を受 け た こ とが
︑﹃ 空 華 日用 工 夫 略集
﹄に 見 え る⑺
︒ 談 義自 体 は︑ 室 町時 代 の 社会 で 広 く 行わ れ て い た と言 える だろ う︒ 将軍 足利 義教 が談 義を 聴聞 した こと は︑
﹃ 蔭凉 軒日 録﹄
﹃看 聞御 記﹄ から 五例 が確 認で きる
︒こ の義 教の 談義 につ い て はす でに 三時 知恩 寺を 論じ るな かで 中井 真孝 氏が 触れ てい るが
⑻
︑談 義を 行っ た僧 侶も 含め て再 度検 討し たい
︒ 第
一節
足 利義 教の 談義 義教 の聴 聞し た談 義を 一覧 にし たも のが 表1 であ る︒ これ らの 談義 の特 長は すべ て入 江殿
︵三 時智 恩寺
︶を 会場 と し てい る点 にあ る︒ 入江 殿は 後深 草天 皇皇 女陽 徳門 院︵
?〜 一三 五二
︶の 御所 に淵 源を もつ 尼寺 であ り︑ 皇女 や足 利 家 姫君 が多 く入 室し てお り︑ 足利 義教 の女 聖智
︵了 山聖 智・ 一四 三三
〜一 五二 六︶ も︑ 永享 五年
︵一 四三 三︶ 十一 月 二 十五 日に 入寺 して いる
⑼
︒義 教の 談義 の初 例は
︑永 享七 年︵ 一四 三五
︶八 月十 七 日 に 始ま り 十 月二 十 六 日に 結 願 し た 三部 経談 義で ある
⑽
︒義 教室 三条 尹子 は毎 日聴 聞し たと され
︑義 教 は 初 日の み 聴 聞し て い る︒ また
︑南 御 方
︵伏 見
足利義教の法華経談義 ― 426 ―
宮 貞成 親王 室・ 後花 園天 皇母
︶も 九月 十一 日・ 十月 十四 日に 聴聞 して いる
︒ 二度 目は 翌年 の永 享八 年八 月十 五日 に始 まり 十月 十五 日に 結願 する
︑相 国寺 僧雲 叟を 講師 とし て行 われ た法 華経 の 談 義で ある
︒こ の初 日は
︑入 江殿 に入 寺し てい た義 教女 聖智 が小 松谷 長老
︵律 僧聖 芳・ 満詮 男・ 泉涌 寺住 持︶ の弟 子 と して 喝食 に な っ た日 に 当 たり
⑾
︑談 義 も これ に 合 わ せて 開 催 され た も のと 思 わ れ る︒ この よ う に義 教 の 談 義に は
︑ 入 江殿 に入 室し た女 聖智 に関 わる 要素 も強 いの であ るが
︑そ れと は異 なる 要素 も見 受け られ る︒ 他の 例も 参照 しつ つ 続 けて 確認 して きた い︒ 永享 九年 の③
・永 享十 年の
④は
︑前 回同 様︑ 法華 経の 談義 であ る︒ 半年 以上 の間 隔が 空く が︑
②③
④は 一連 のも の と して 行わ れて いた よう で︑
③の 初日 に 当 たる 永 享 九年 八 月 十 六日 に は﹁ 去 年よ り 談 義中 絶
﹂︵
﹃ 看 聞御 記
﹄︶ と︑
② が 中断 され
︑③ で再 開さ れた こと が示 され てい る︒ また
③④ も一 連の もの であ った よう で︑ 義政 のと きに
︑先 例で あ る 義教 の法 華経 談義 に言 及す るな かで
︑
︵ マ マ
︶
普 広院 殿御 代︑ 雲叟 和 尚法 華 経 講説
︑何 日 被レ
始 哉 之 事︑ 被二
尋 下一
︒ 引レ
記 可レ
申之 由 之︒
⁝按
二
記 録一
︑法 華 経 御 談 義︑ 永享 九年 八月 十六 日始
︑同 十年 六月 二日 満散
︒
︵﹃ 蔭 凉軒 日録
﹄寛 正五 年︹ 一四 六四
︺九 月二 十八 日条
︶ と
述べ られ
︑③
④を とも に雲 叟の 行っ た一 連の 法華 経談 義と 捉 え てい る⑿
︒②
③④ は一 連 の もの で
︑雲 叟 は三 年 に わ た って 法華 経の 談義 を行 って いる
︒ 次の
⑤永 享十 二年 の談 義は 入江 殿を 会場 とし
︑戒 壇院 が講 師と なっ て華 厳経
﹁普 賢行 願品
﹂の 談義 が行 われ た︒ 戒 壇 院と は東 大寺 戒壇 院長 老で あっ た普 一志 玉︵ 一三 八三
〜一 四六 三︶ であ る︒ 義教 は永 享元 年︵ 一四 二九
︶の 春日 参
― 427 ― 足利義教の法華経談義
詣 の際 に︑ 東大 寺を 訪れ
︑そ こで 摂政 藤原 持基 とと もに 志玉 を戒 師と して 受 戒 し てお り⒀
︑義 教 は志 玉 に 深く 帰 依 し て いた こと が知 られ てい る⒁
︒ 会場 の入 江殿 は三 時知 恩寺 とも 呼ば れる 浄土 宗 系 の 寺院 で あ った が
︑義 教 は宗 派 に こ だ わら ず︑ 自ら の選 んだ 人物 に談 義を 行わ せて いる と言 える
︒ また
︑義 教の 談義 の参 加状 況は
﹃蔭 凉軒 日録
﹄に 詳し く見 える が︑
②の 永享 八年 九月 二日 には 義教 の御 咳気 のた め に 談義 が延 期さ れ︑
③の 永享 九年 九月 十一 日に は頭 痛に より 談義 を欠 席し
︑翌 日に この 欠け た分 を補 うべ きこ とを を 命 じて おり
︑熱 心に 参加 して いた 様子 が窺 える
︒談 義の 内容 には 義教 の個 人的 な信 仰が 多分 に反 映し てい たと 言え る だ ろう
︒そ こで 注目 され るの が︑
②③
④の 談義 の講 師を つと めた 雲叟 とい う僧 侶で ある
︒多 くの 弟子 を持 ち︑ 華や か な エピ ソー ドも 多い 志玉 に対 し︑ 雲叟 はほ とん ど注 目さ れて こな かっ た︒ また 彼の 事績 や経 歴も 不明 な点 が多 い︒ し か し義 教と 関わ りの 深い 僧侶 と言 える だろ う︒ 第
二節
足 利義 政の 談義 義教 の息 であ る義 政も 談義 を開 催し てい る︒ これ を一 覧に した もの が表 2で あり
︑四 度の 開催 が確 認で きる
︒① の 観 音経 の談 義は
︑殿 中に おい て鹿 苑僧 録の 瑞渓 周鳳 を講 師と して 行わ れた
︒こ れは 長禄 三年
︵一 四五 九︶ 九月 五日 か ら 十月 二日 にわ たっ て行 われ
︑﹁ 新 造之 間﹂ のた めと され る
︒こ の 時期 に 行 われ て い た 新造 室 町 殿に 関 わ って 開 催 さ れ たも ので あろ う⒂
︒ 義政 はこ の談 義の 準備 に際 し︑ かな り細 かに 指示 をし て い る︒ 開 催の 正 式 な日 程 が 相国 寺 側 に 知 らさ れた のは 直前 の八 月二 十七 日で ある が︑ 早く も四 月八 日に 観音 経の 書写 を命 じて いる
︒こ の新 写観 音経 は六 月 十 七日 にほ ぼ完 成す るが
︑翌 日に は義 政が
︑も との 経典 と新 写の 字が 異な ると して
﹁御 不審
﹂を 露わ にし てい る︒ こ れ に対 して
︑蔭 凉職 の季 瓊真 蘂は
︑も との 経典 の略 字を 正字 に直 した だけ であ ると 解答 して いる
︒さ らに 経典 への 指
足利義教の法華経談義 ― 428 ―
示 は続 き︑ 二十 一日 には
︑﹁ 嵯 峨本
﹂の 如 く 加点 す る こと を 命 じ︑ 三 十日 に は︑ さ らに 朱 点 で﹁ 声﹂ を書 き
︑七 月 中 に 献上 する よう 命じ てい る︒ これ は観 音経 談義 で義 政自 身が 用い る経 典で あっ たと 思わ れる が︑ 確か にこ のと きの 談 義 では 講師 の瑞 渓に も︑
﹁ 其の 声を 正し く﹂ や﹁ 懇誦
﹂せ よ と 要求 し て いる
︒義 政 は 観 音経 を 正 しく 唱 え るこ と に 力 点 を置 いて いた こと が分 かる
⒃
︒次 に行 われ たの が︑ 長禄 四年
︵一 四 六
〇︶ の② 法 華経 談 義 であ り
︑室 町 殿に お い て 瑞 渓周 鳳が 講師 を勤 めた
︒八 月十 五日 から 二十 七日 とい う短 期間 であ り︑ 法華 経一 巻を 一日 とい うペ ース で終 わら せ て いる
︒ま たこ の談 義は
﹁法 華経 御受 持﹂
﹁ 御受 経﹂ と呼 ば れ てお り
︑経 典 の読 み 方 を 習う た め に行 わ れ たこ と が 分 か る︒ この とき も少 し前 から 経典 の準 備が 進め られ た︒ 義政 は厚 紙の 嵯峨 本法 華経 が気 に入 らず
︑薄 紙の もの を探 さ せ て点 本︵ 嵯峨 本か
︶と 校正 させ
︑献 上さ せて いる
⒄
︒① とと もに
︑義 政の 経 典 へ の強 い こ だわ り が 見え る
︒こ の 二 例 は義 政が 経典 の読 み方 を学 ぶ要 素が 強い が︑
③④ の寛 正五 年︵ 一四 六四
︶十 月十 四日 から 翌七 月二 十四 日に 行わ れ た 法華 経談 義は これ とは 異な って いる
︒ この とき は永 享八 年︵ 一四 三六
︶か ら十 年に かけ て義 教が 行っ た法 華経 談義 を先 例と して 行わ れ︑ 様々 な部 分で 義 教 の談 義の 方式 が踏 襲さ れて いる
︒義 政は 早く から 義教 の法 華経 談義 を意 識し てい たよ うで
︑す でに 長禄 三年
︵一 四 五 九︶ に義 教の 法華 経談 義の 期間 を問 い合 わせ てい る⒅
︒ また 例日
︵赤 口日
︶と 重 な っ た場 合 に 義教 の と きは ど う 対 処 した かを 問い 合わ せて いる
⒆
︒ま た日 程も
︑ 旧
記者 其講 説三 年之 内四 十度 也︒ 今者 来年 勝智 院殿 大祥 忌八 月八 日之 前︑ 可二
了 畢一
之由 被二
仰 出一
︒然 則今 月十 四 日 始之
︒毎 月五 度御 精進 之日
︑可
レ
有二
御聴 聞一
也
︒
︵﹃ 蔭凉 軒日 録﹄ 寛正 五年
︹一 四六 四︺ 十月 八日
︶
― 429 ― 足利義教の法華経談義
と あり
︑義 教が 四〇 回︑ 講義 を聴 聞し たと いう こと で︑ 毎月 五回 行っ て四
〇回 を消 化し て︑ 来年 八月 の母 日野 重子 の 忌 日に 間に 合わ せる とい う計 画が 立て られ てい る︒ 義政 がど のよ うな 意図 で法 華経 談義 を行 った か精 確な とこ ろは 分 か らな いが
︑義 教の 法華 経談 義が
︑後 に参 照さ れ︑ 踏襲 され る重 要な 事例 であ った こと は指 摘で きよ う︒ 以上
︑義 教・ 義政 の談 義を 整理 した
︒義 教は 自由 に講 師を 選び
︑法 華経
・華 厳経 を聴 聞し てい る︒ 義政 は正 しい 読 み 方の 習得 を目 指す とと もに
︑義 教の 法華 経談 義を 踏襲 した
︒と もに 彼ら のそ のと きの 関心 を反 映し て自 発的 に行 わ れ たも のと 言え る︒ 第二
章 相国 寺 僧 雲叟 第
一節
雲 叟の 事績 次に 義教 の法 華経 談義 の講 師で あっ た雲 叟に つい て述 べた い︒ 雲叟 は善 入派 の黙 庵周 諭の 弟子 雲叟 梵慶 でな いか と さ れ る が確 証 は なく
⒇
︑詳 し い 経 歴は 分 か らな い
︒相 国 寺僧 と さ れ︑ 永 享九 年 二 月 に は 林 光 院 住 持 を 命 じ ら れ た!
︒ 永 享 十 一年 十 月 十三 日 に 寂 し︑ その 仏 事 は林 光 院 で行 わ れ た"
︒﹁ 和尚
﹂と 呼 ば れて い る こと か ら︑ か つ ては ど こ か の 寺で 住持 等に 就い てい たの であ ろう が︑ 詳し いこ とは 分か らな い︒ しか し﹃ 蔭凉 軒日 録﹄ から は︑ 雲叟 と義 教と の 強 い関 わり が見 える
︒
︵ 1︶ 室町 殿で の斎
・将 軍御 成へ の相 伴 雲叟 が初 めて
﹃蔭 凉軒 日録
﹄で 見ら れる のは
︑永 享八 年︵ 一四 三六
︶五 月二 日条 であ り︑ この とき 同年 八月 十五 日 に 始ま る法 華経 談義 の講 師を 命じ られ て いる
︒︵ 雲 叟 の事 績 に つい て は 表3 参 照︶ 談義 は 十 月十 五 日 に終 わ る が︑ こ
足利義教の法華経談義 ― 430 ―
の 間に も義 教は 雲叟 を御 所に 招き
︑さ らに 別の 日に 彼の 煎点
・斎 を請 うて いる
︒ 義教 将軍 期に は毎 年正 月二 十五 日に 御相 伴衆 と呼 ばれ る禅 宗の 長老 た ち に よっ て
︑殿 中 で御 斎 が 行わ れ た!
︒こ れ は 三宝 院満 済も
﹁鹿 苑院 殿以 来御 佳儀 歟﹂ と述 べる
︑恒 例行 事で あ っ た が"
︑ この 場 に 等持 寺
・等 持 院・ 相国 寺 な ど の 住持 とと もに 雲叟 が参 加し てい る#
︒ これ は義 教の 指示 によ るも ので
︑永 享 九 年 には
︑義 教 か らの 参 加 の命 を 雲 叟 は 一度 辞退 する が︑ さら に命 じら れて 斎に 参加 した こと が見 える
$
︒ また
︑雲 叟は 義教 の隆 寿院
・密 厳庵 への 御成 の相 伴も 命じ られ てい る%
︒ 特に 隆 寿 院 は三 宝 院 満済 の 追 善仏 事 が 行 わ れた 場所 であ り&
︑ この 御成 も満 済の 追善 供養 に関 わる もの と考 えら れる
︒義 教 は 満 済を 深 く 信頼 し て いた と さ れ る が'
︑ 確か に隆 寿院 での 満済 の 追 善仏 事 の 費 用を 支 出 する な ど︑ 死 後も 手 厚 く 供養 を 行 って い る(
︒ こ の満 済 の 仏 事 に雲 叟を 関わ らせ てい るこ とは
︑義 教が 彼を 信頼 して いた こと を示 すの では ない だろ うか
︒
︵ 2︶ 義教 の信 仰に 関わ る面 恒例 の年 始の 斎や 御成 への 相伴 以外 にも 雲叟 は義 教と 深く 関わ って いる
︒法 華経 談義 の間 にも
︑
⁝ 互用 之罪 御不 審故
︑為
レ
御二
使于 雲叟 和尚
一
︒
︵﹃ 蔭 凉軒 日録
﹄永 享八 年八 月二 十四 日条
︶
⁝ 於林 光院 蒙二
使 命一
︒即 蓮経 中事 也︒
︵﹃ 蔭凉 軒日 録﹄ 永享 九年 十一 月九 日条
︶ と
︑﹁ 互 用之 罪﹂
﹁蓮 経中 事﹂ 等︑ 経典 の内 容 に関 し て︑ 雲 叟に 訊 ね てい る
︒﹁ 互 用 之罪
﹂は 三 宝 物を 互 い に濫 用 す る 僧 侶の 過 罪 で ある
)
︒お そ ら く教 義 に 関わ っ て
︑雲 叟 に説 明 を 求め た も のだ ろ う
︒こ の よう に 教 義の 理 解 に 関し て
︑ 義 教は 雲叟 を頼 って いる
︒特 に雲 叟は 法華 経に 明る かっ たよ うで
︑死 の約 半年 前に
︑蔭 凉軒 を訪 れ︑ 病中 の訪 問を 謝
― 431 ― 足利義教の法華経談義
し て雲 叟自 身の 所持 して いた 唐本 法華 七軸
・不 動像 を献 じて いる
!
︒
︵ 3︶ 受戒
・逆 修 また
︑義 教は 雲叟 から 戒を 受け てい る︒ 表1
③の 永享 九 年の 法 華 経談 義 が 終わ っ た 六 日後 の 十 月九 日 に 命 が下 り
︑ 十 五日 に授 戒が 行わ れて いる
︒
⁝ 授経
・受 戒・ 供仏 之事
︑有
レ
命二
於雲 叟和 尚一
︒
︵永 享九 年十 月九 日条
︶
⁝ 雲叟 和尚 被レ
奉二
授 戒一
︒ 同御 台 受 経・ 受戒
︒公 方 御 布施
︑則 盆 一 枚・ 金 香合 一 箇︒ 同 仏供 養 御 布施 百 貫 文︒ 御 台 受戒 御布 施︑ 則御 小袖 十重
・盆 一 枚・ 香 合一 箇
︒受 経 御布 施 則 砂 金一 裹
・銀 盆 一箇 也
︒侍 者 賜二
御 小 袖 三重
・ 香 合一 箇一
︒ 公方 亦同
︒
︵ 永享 九年 十月 十五 日条
︶ こ
のと き義 教と 妻の 三条 尹子 がと もに 雲叟 を戒 師と して 受戒 して いる
︒尹 子は すで に表 1① の談 義の 最終 日に 円頓 戒 を 受け てい る︒ 法会 の最 終日 に結 縁の ため に授 戒す るこ とは
︑こ の時 期は 広 く 見 られ る"
︒こ の とき の 授 戒が ど の よ う な性 質の もの であ った のか は詳 しく 分か らな いが
︑雲 叟が 重用 され てい たこ とは 言え るだ ろう
︒ また
︑永 享 十 年 三月 十 六 日か ら 四 月二 十 八 日 の四 十 九 日間
︑義 教 は 等持 寺 に お いて 逆 修 を行 っ て い る#
︒﹃ 蔭 凉 軒 日 録﹄ 永享 十年 三月 四日 条で は︑
﹁ 御逆 修之 勤行 人数 十 員 書﹂ が献 上 さ れて 逆 修 を 行う 僧 侶 が定 め ら れて い る
︒後 の も のに なる が︑
﹃ 蔭凉 軒日 録﹄ 文明 十八 年︵ 一四 八六
︶十 二月 十四 日条 には
︑ 相
公問 曰︑
﹁ 先御 代於
二
等 持寺
一
御逆 修勤 行 衆 有二
平 僧一
否
﹂︒ 愚 云︑
﹁ 永享 十 年 三 月於 等 持 寺御 逆 修 有之
︒其 時 林 光
足利義教の法華経談義 ― 432 ―
院 雲叟 和尚
・焼 香住 持瑞 渓・ 維那 中佐 首座
⁝﹂ と
あり
︑義 政の 質問 に対 する 亀泉 集証 の言 であ るが
︑雲 叟が 勤行 人に 入っ てい たと され てい る︒ この よう に雲 叟は 義 教 の宗 教的 営為 に関 わっ てい る︒
︵ 4︶ 義持 との 関わ り また 義教 以前 にも 雲叟 が談 義を 行っ てい たこ とが
﹃満 済准 后日 記﹄ に見 える
︒
︵ a︶ 御所 様自
二
今 日一
因 幡堂 御参 籠︒ 為二
御礼
一
参申 入了
︒雲 叟和 尚金 剛経 談義 在之
︒如 法殊 勝喜 耳了
︒
︵応 永二 十八 年︹ 一四 二一
︺四 月九 日条
︶
︵ b︶
叟 和尚
被二
談申
一
︒
同丁 聞︒
︵ 応永 二十 八年 十月 十一 日条
︶
︵ c︶ 於二
等持 寺一
法 華経
□談 義在 之︒ 雲□ 和尚 読
⁝
︵ 応永 二十 八年 十一 月六 日条
︶
︵ d︶
⁝還 御二
於等 持寺
一
︒首 楞厳 経御 談義 在レ
之云 々︒ 読師 南禅 寺雲 叟和 尚︒
⁝
︵ 応永 三十 年二 月四 日条
︶
︵b
︶︵ c︶ は︑ 欠損 のた め読 めな い部 分が 多く
︑記 事全 体の 意味 は取 れな いが
︑談 義に 関わ るも ので ある こと は分 か る
︒残 った 字か ら雲 叟を 講師 とし た談 義の 開催 を想 定で きる
︒こ の﹃ 満済 准后 日記
﹄に は談 義の 事例 が多 く見 られ る が
︑醍 醐寺 内で の修 法や 経法 の教 授に 関わ るも のが 多 い!
︒ し かし こ こ で挙 げ た︵ a︶
〜︵ d
︶は
︑醍 醐 寺 内で 行 わ れ た 僧侶 のみ が聴 聞す る 談 義で は な い︒
︵c
︶︵ d
︶は 等 持寺 を 会 場 とす る
︒ま た︵ d︶ は﹁ 御 談義
﹂と 表 記 し てお り
︑ 明 らか に足 利義 持の ため に開 催さ れた もの であ る︒
︵ a︶
︵b
︶は 満済 が個 人的 に聴 聞し た可 能性 も残 るが
︑少 なく と
― 433 ― 足利義教の法華経談義
も 雲叟 は︑ 応永 年間 から 談義 を行 う僧 とし て活 動し てい たと 言え る︒ また
︵d
︶か らは
︑こ の当 時︑ 雲叟 が南 禅寺 に 所 属し てい たこ とが 分か る︒ 義持 と雲 叟の 関係 は︑ 義教 ほ ど明 確 に 見え な い が︑
﹃康 富 記
﹄宝 徳 二年
︵一 四 五
〇︶ 九月 六 日 条・ 康正 元 年
︵一 四 五 五︶ 十二 月七 日条 では
︑応 永二 十六 年︵ 一四 一九
︶に 義持 の強 い希 望に よっ て︑ 雲叟
︵従 尊房
︶に 禅師 号が 授け ら れ たと する
!
︒こ の応 永の 禅師 号宣 下に つい ては 他に 史料 がな く︑ 信憑 性に 欠 け る が︑ 雲叟 と 義 持と の 関 わり の 一 端 を 示す かも しれ ない 史料 とし て挙 げて おき たい
︒ 以 上︑
﹃蔭 凉 軒 日録
﹄を 中 心 に雲 叟 の 事 績に つ い て述 べ て きた
︒こ れ ま で 戒壇 院 志 玉 に つ い て は︑ 義 教 に 相 伴 し
︑ 授 戒し
︑逆 修を 行っ たと して
︑義 教の 崇敬 を受 けた 僧と され てき たが
︑実 はこ れら すべ てを 雲叟 も行 って いる
︒そ れ だ けで はな く︑ 雲叟 の死 の直 前に は︑ 義教 は幾 度も 蔭凉 軒に 雲叟 の病 を見 舞う よう 指示 を出 し︑ また 医者 も派 遣し て い る︒ かな り手 厚く 雲叟 を扱 って いる こと が分 かる
︒ 第
二節
林 光院 住持 雲叟 雲叟 の経 歴を 述べ る上 で重 要な のが
︑永 享九 年︵ 一四 三七
︶二 月四 日の 林光 院住 持就 任で ある
︒林 光院 は現 在は 相 国 寺内 にあ り︑ 梅の 名木
﹁鶯 宿梅
﹂の ある 庭を 持つ こと でも 有名 であ るが
︑こ の頃 は二 条等 持寺 の付 近に あっ たと い う"
︒林 光院 は足 利義 満の 男・ 義持 の弟 の足 利義 嗣の 塔所 でも ある
︒義 嗣は 反 乱 を 企て た と して 捕 ら えら れ
︑応 永 二 十 五年
︵一 四一 八︶ 正月 二十 四日 に殺 され た#
︒ この 間︑ 義嗣 は林 光 院 に 幽閉 さ れ︑ 林 光院 殿 と 呼ば れ た
︒ま た︑ 林 光 院は 加賀 国横 北郷 をは じめ とす る多 くの 所領 を持 つ富 裕な 塔頭 とし て知 ら れ る$
︒ こ の林 光 院 の住 持 と して 名 前 が 確 認で きる 最も 早い もの が︑ この 雲叟 であ る︒ 雲叟 とい う僧 侶に つい て知 るた めに
︑林 光院 につ いて 少し 見て いき た
足利義教の法華経談義 ― 434 ―
い
︒ 林光 院の 創建 に関 して は︑ 細川 武 稔氏 が 指 摘す る よ うに
︑﹃ 碧 山 日 録﹄ 応仁 二 年︵ 一 四六 八
︶正 月 一日 条 に
︑林 光 院 は絶 海中 津に よっ て開 かれ
︑そ の門 流が 住持 とな って いた が︑ 義持 が円 覚寺 から 竺雲 を呼 んで 以降
︑諸 派か ら住 持 を 出 す よう に な った と あ る!
︒ 林 光院 住 持 が諸 派 か ら出 て い る こと は 確 かで あ る が︑
﹃碧 山 日 録﹄ の 記事 は
︑東 福 寺 霊 雲院 での 正月 の斎 に参 加し てい た老 僧の 言を 記し たも ので あり
︑そ のま ま受 け取 るべ きで はな いと 思わ れる
︒す で に 林光 院の 歴代 住持 は︑ 蔭木
・中 井両 氏が 明ら かに され てい る"
︒ その 成果 に よ り なが ら
︑彼 ら 住持 の 経 歴を 見 る こ と で︑ 林光 院の 性格 を考 えた い︒ 雲叟 の次 に林 光院 住持 とな った の は星 巌 俊 列︵ 一三 七 八〜 一 四五 二
︶で あ る︒ 彼 は絶 海 中 津の 弟 子 で︑
﹃扶 桑 五 山 記
﹄に よる と︑ 正長 元年
︵一 四二 八︶ 十二 月二 日に 第四 十世 相国 寺住 持と なる が︑ 翌年 に退 院し た︒ 永享 八年
︵一 四 三 六︶ 八月 九日 に再 び住 持と なっ て入 寺し たが
︑翌 年に 退院 して 雲居 庵主 と な っ た#
︒ そし て 永 享十 一 年 四月 に 雲 叟 の 後任 とし て林 光院 住持 に就 くよ う命 じら れた
︒嘉 吉元 年︵ 一四 四一
︶五 月十 日に は林 光院 住持 であ った こと が確 認 で きる
︒そ の後 も︑ 修山 光謹
・春 渓洪 曹・ 竺華 梵萼
・徐 崗梵 詳・ 楚岫 景昭
・蘭 坡景 䠷が 住持 とな った こと が確 認さ れ る$
︒星 巌俊 列は 二度
︑相 国寺 住持 を務 め︑ その 後に 林光 院主 とな った が
︑春 渓 洪 曹も 林 光 院主 に な る前 に 二 度︑ 相 国 寺住 持に 就い てい る%
︒ 他に 修山 光謹
・徐 崗梵 詳・ 楚岫 景昭
・蘭 坡景 䠷 も
︑林 光 院住 持 を 務め る 前 後に
︑相 国 寺 の 住 持と なっ てお り&
︑ 竺華 梵萼 は 林 光院 住 持 と なる 以 前 に南 禅 寺 住持 と な っ てい る'
︒林 光 院住 持 は 相国 寺
・南 禅 寺 の 住持 経験 者の ため のポ スト とい う性 格が 見え る︒ 他の 住持 の経 歴を みる と︑ 雲叟 も相 国寺
・南 禅寺 住持 を務 めて い て もお かし くな いが
︑﹃ 扶 桑五 山記
﹄の 相国 寺住 持位 次や 南禅 寺住 持位 次等 のな かに
︑雲 叟を 見出 すこ とが 出来 ない
︒ 現 段階 では
︑住 持経 験者 と同 等に 尊重 され た存 在で あっ たと して おき たい
︒
― 435 ― 足利義教の法華経談義
また
︑﹃ 蔭 凉軒 日録
﹄に 見え る﹁ 林光 院﹂ への 言及 の偏 りに 注意 した い︒
﹃蔭 凉軒 日録
﹄は 永享 七年
︵一 四三 五︶ 六 月 から 起筆 して いる が︑ ここ から
︑雲 叟が 林光 院 に任 命 さ れる 永 享 九年 二 月 ま での 間
︑﹁ 林 光院
﹂や そ の 住持 に つ い て の内 容は
︑そ のな かに 見ら れな い︒ 雲叟 の住 持任 命前 後に
︑前 任者 の退 院の 記事 が無 いこ とも 不審 であ る︒ 雲叟 の 住 持就 任以 降は
︑林 光院
=
雲 叟和 尚と して 多く の記 事が 見え る︒ また 他の 塔頭 や寺 院に は将 軍御 成が しば しば 見ら れ る のに 対し
︑林 光院 への 将軍 御成 は一 切見 えな い︒ 林光 院は 本来 それ ほど 重要 な寺 院で はな く︑ 住持 が設 置さ れた の も
︑雲 叟が 最初 であ った 可能 性が ある ので はな いだ ろう か︒ 推測 の域 を出 ない が︑ 林光 院住 持は 御相 伴衆 に混 ざっ て 活 動 し なく て は なら な い 雲 叟に 適 当 な立 場 を 与え る た め に︑ 足利 義 教 が新 た に 創出 し た ポ スト な の では な い だ ろ う か
︒
お わ り に 本稿
では 義教 の行 った
﹁談 義﹂ を出 発点 にし て︑ 雲叟 とい う僧 侶と 足利 義教 との 関係 につ いて 述べ た︒ 本稿 で述 べ た 点を 整理 する
︒
①足 利義 教は 入江 殿︵ 三時 知恩 寺︶ で数 度の 談義 を行 って いる が︑ その 講師 には 禅僧 の雲 叟・ 華厳 宗の 志玉 が充 て ら れた
︒ま た足 利義 政も 数度 の談 義を 行っ てい るが
︑彼 の場 合は 特に 読経 のた めの 経典 の読 み方 を習 得す る面 が強 か っ た︒ 談義 には
︑そ の時 々の 主催 者の 個人 的信 仰が 強く 反映 され てい る︒
②雲 叟は 談義 だけ では なく 義教 の逆 修や 授戒 にも 関わ って いる
︒義 教の 個人 的な 仏事 に深 く関 わり
︑義 教の 信仰 を 支 えた 僧侶 であ った
︒雲 叟の 事績 につ いて は不 明な 点が 多い が︑ 義持 将軍 期か ら︑ 談義 をよ くす る僧 侶と して 認識 さ
足利義教の法華経談義 ― 436 ―
れ てい た︒ 義持 自身 も雲 叟の 講義 を聴 聞し てい る︒
③雲 叟は 林光 院住 持と なる が︑ 雲叟 以外 の林 光院 住持 は相 国寺 及び 南禅 寺住 持の 経験 者が 占め てい る︒ 雲叟 も彼 ら と 同等 の立 場に あっ たか
︑同 等に 尊重 され た存 在と 言え る︒ 亀 泉集 証 は﹃ 蔭 凉軒 日 録﹄ に︑ 義 教は 景 南 英 文・ 瑞渓 周 鳳 を特 に 信 仰 した と 述 べた
︒!
し か し 本稿 で の 検 討 か ら
︑ 従 来ほ とん ど言 及さ れる こと のな かっ た僧 侶︑ 雲叟 が義 教の 信仰 を支 える 存在 とし て浮 かび 上が って きた
︒林 光院 の 塔 頭と して の性 格な ど論 じ残 した 点は 多い が︑ それ らは すべ て他 日を 期し たい
︒
* 史 料 は 続 史 料 大 成
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄︑ 続 群 書 類 従
﹃ 満 済 准 后 日 記
﹄︑ 増 補 史 料 大 成
﹃ 康 富 記
﹄︑ 大 日 本 古 記 録
﹃ 建 内 記
﹄︑ 図 書 寮 叢 刊
﹃ 看 聞 日 記
﹄ を 用 い た
︒ 註
⑴ 原 田 正 俊
﹃ 日 本 中 世 の 禅 宗 と 社 会
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 九 八 年
︑ 細 川 武 稔
﹃ 京 都 の 寺 社 と 室 町 幕 府
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 二
〇 一
〇 年
︑ 大 田 壮 一 郎
﹃ 室 町 幕 府 の 政 治 と 宗 教
﹄ 塙 書 房
︑ 二
〇 一 四 年 な ど
︒
⑵ 辻 善 之 助
﹃ 日 本 佛 教 史
﹄ 四 中 世 篇 三 岩 波 書 店
︑ 一 九 四 九 年
︑ 同
﹃ 日 本 佛 教 史
﹄ 六 中 世 篇 五 岩 波 書 店
︑ 一 九 五 一 年
︑ 玉 村 竹 二
﹁ 足 利 義 持 の 禅 宗 信 仰 に 就 て
﹂︵ 同
﹃ 日 本 禅 宗 史 論 集
﹄ 上 思 文 閣
︑ 一 九 七 六 年
︑ 初 出 一 九 六 三 年
︶︑ 村 尾 元 忠
﹁ 足 利 義 持 の 神 仏 依 存 傾 向
﹂︵
﹃ 中 世 日 本 の 諸 相
﹄ 下 巻 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 八 九 年
︶ な ど
︒
⑶ 蔭 木 英 雄
﹃ 蔭 凉 軒 日 録 室 町 禅 林 と そ の 周 辺
﹄ そ し え て
︑ 一 九 八 七 年
︒
⑷ 談 義 書 に つ い て は
︑ 中 村 麻 理 子
﹁ 中 世 に お け る 僧 侶 の 学 問
│ 談 義 書 と い う 視 点 か ら
﹂︵
﹃ 弘 前 大 学 国 語 国 文 学
﹄ 二 八
︑ 二
〇
〇 七 年
︶ を 参 照 し た
︒
⑸
﹃ 看 聞 御 記
﹄ に 見 え る 伏 見 宮 貞 成 親 王 の 聴 聞 し た 法 華 経 談 義 と そ の 背 景 に つ い て は
︑ 柴 佳 世 乃
﹁ 伏 見 宮 と 法 華 経 談 義
│ 心 空
・ 鎮 増 と の 関 わ り に 及 ん で
│
﹂︵ 松 岡 心 平 編
﹃ 看 聞 日 記 と 中 世 文 化
﹄ 森 話 社
︑ 二
〇
〇 九 年
︶ が 詳 細 に 述 べ て い る
︒
⑹
﹃ 看 聞 御 記
﹄ に は
︑ 伏 見 宮 貞 成 親 王 の 所 望 に よ っ て
︑ 永 享 五 年
︵ 一 四 三 三
︶ 八 月 二 十 九 日 に 中 原 康 富 が 論 語 談 義 を 行 っ た こ
― 437 ― 足利義教の法華経談義
と が 見 え
︑ そ の 後 も 永 享 八 年 十 月 二 日 条
・ 嘉 吉 元 年
︵ 一 四 四 一
︶ 二 月 二 十 三 日 条
・ 嘉 吉 三 年 四 月 二 十 三 日
・ 二 十 九 日 条
・ 同 年 五 月 四 日
・ 十 日
・ 十 四 日
・ 十 九 日 条
・ 同 年 七 月 十 九 日 条
・ 八 月 十 九 日 条 な ど で
︑ 康 富 に よ る
﹁ 談 義
﹂﹁ 読 書
﹂ が 見 え る
︒
⑺ 辻 善 之 助 編 纂 著
﹃ 空 華 日 用 工 夫 略 集
﹄ 太 洋 社
︑ 一 九 三 九 年
︑ 永 徳 二 年
︵ 一 三 八 二
︶ 六 月 二 十 三 日 条 な ど
︒
⑻ 中 井 真 孝
﹁ 崇 光 院 流 と 入 江 殿
│ 中 世 の 三 時 知 恩 寺
│
﹂︵ 同
﹃ 法 然 伝 と 浄 土 宗 史 の 研 究
﹄ 思 文 閣 出 版
︑ 一 九 九 四 年
︑ 初 出 一 九 八 二 年
︶︒
⑼ 中 井 氏
︑ 前 掲 論 文
︒
⑽ た だ し
︑﹃ 看 聞 御 記
﹄ 永 享 七 年 十 月 二 十 一 日 条 で は
﹁ 御 談 義 三 部 経 了
︑ 阿 弥 陀 経 被レ
談
﹂ と あ り
︑ 三 部 経 が 一 旦 終 わ っ て さ ら に 阿 弥 陀 経 を 始 め た よ う で あ る
︒
⑾
﹃ 看 聞 御 記
﹄ 永 享 八 年 八 月 十 五 日 条
︒ 小 松 谷 長 老 に つ い て は
︑﹃ 満 済 准 后 日 記
﹄ 永 享 四 年 十 月 二 十 一 日 条
︒
⑿ 他 に
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 永 享 十 年 五 月 四 日 条 か ら も 雲 叟 が 談 義 に 関 わ っ た こ と が 見 え る
︒
⒀
﹃ 満 済 准 后 日 記
﹄ 永 享 元 年 九 月 二 十 四 日 条
︒
⒁ 大 屋 徳 城
﹁ 室 町 時 代 の 華 厳 学 者
﹂︵ 同
﹃ 日 本 佛 教 史 の 研 究
﹄ 法 蔵 館
︑ 一 九 五 一 年
︑ 初 出 一 九 二 八 年
︶︑ 大 谷 由 香
﹁ 智 積 院 新 文 庫 所 蔵 志 玉 口 述
・ 道 瑜 筆 録
﹃ 梵 網 古 迹 下 巻 聞 書
﹄ に つ い て
﹂︵
﹃智 山 学 報
﹄ 六 三
︑ 二
〇 一 四 年
︶︒
⒂ 川 上 貢
﹁ 義 政 の 御 所
﹂︵ 同
﹃ 日 本 中 世 住 宅 の 研 究
︹ 新 訂
︺﹄ 中 央 公 論 美 術 出 版
︑ 二
〇
〇 二 年
︑ 初 版 一 九 六 七 年
︶ に よ る と
︑ 長 禄 二 年 十 二 月 五 日 に 土 地 の 検 分
・ 作 事 事 始
︵﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄﹃ 在 盛 卿 記
﹄︶
︑ 室 町 殿 の 建 物 の 一 部 の 上 棟 が 二 月 二 十 一 日 に
︑ 移 徙 は 同 年 十 一 月 十 六 日 に 行 わ れ て い る
︵﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄︶
︒
⒃ も ち ろ ん 経 典 の 内 容 の 理 解 も 意 識 し て お り
︑ 九 月 三 日 条 で は
﹁ 科 註 之 本
﹂ を 献 上 す る こ と を 指 示 し て い る
︒
⒄
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 長 禄 四 年 六 月 十 四 日 条
・ 七 月 十 五 日 条
・ 七 月 二 十 九 日 条
・ 八 月 三 日 条
・ 十 一 日 条
・ 十 二 日 条
︒
⒅
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 長 禄 三 年 十 月 二 十 四 日 条
︒ 他 に 寛 正 五 年 十 月 八 日 条 で は
︑ 義 政 は
﹁ 普 広 院 旧 記
﹂ を み て お り
︑ さ ら に 翌 日 条 で は
︑﹁ 法 華 経 講 義 講 日 旧 記
﹂ を 献 じ ら れ て い る
︒
⒆
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 寛 正 五 年 十 月 十 六 日 条
︒
⒇ 中 井 裕 子
﹃ 室 町 時 代 の 相 国 寺 住 持 と 塔 頭
│ 蔭 凉 軒 日 録 を 中 心 に
﹄ 相 国 寺 教 化 活 動 委 員 会
︑ 二
〇 一 三 年
︒ な お 東 福 寺 住 持 に 雲 叟 霊 瑞 と い う 僧 侶 が 見 え る が
︑﹃ 扶 桑 五 山 記
﹄ に 応 永 十 四 年
︵ 一 四
〇 七
︶ に 死 去 し た と あ り
︑ 別 人 で あ る
︒
!
﹃ 看 聞 御 記
﹄ 永 享 八 年 八 月 十 五 日 条
︑﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 永 享 九 年 二 月 四 日 条
︒
足利義教の法華経談義 ― 438 ―
!
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 永 享 十 一 年 十 月 十 四 日
・ 十 五 日 条
︒
"
蔭 木 氏
︑ 註
⑶ 書
︑ 細 川 武 稔
﹁ 室 町 幕 府 年 中 行 事 書 に 見 え る 寺 社 の 参 賀
﹂︵ 同 氏
︑ 註
﹇ 1
﹈ 書
︑ 初 出 二
〇
〇 一 年
︶︒
#
﹃ 満 済 准 后 日 記
﹄ 永 享 三 年 正 月 二 十 五 日 条
︒ た だ し 義 政 将 軍 期 に つ い て は
︑﹃ 満 済 准 后 日 記
﹄ で 確 認 す る 限 り
︑ 正 月 二 十 五 日 は 天 神 講 等 が 行 わ れ て お り 禅 僧 に よ る 斎 は 見 え な い
︒
$
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 永 享 九 年 正 月 二 十 五 日 条
・ 永 享 十 年 正 月 二 十 五 日 条
・ 永 享 十 一 年 正 月 二 十 五 日 条
︒ な お 永 享 十 年
・ 十 一 年 に は 御 相 伴 衆 以 外 に 雲 叟 に 加 え
︑ 大 愚 性 智 も 参 加 し て い る
︒ 大 愚 性 智 は 直 前 に は 常 在 光 寺 の 住 持 で あ っ た が
︑ 南 禅 寺
・ 東 福 寺 等 の 住 持 も 務 め た
︵﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 永 享 九 年 五 月 二 十 二 日 条
・ 二 十 四 日 条
︑﹃ 延 宝 伝 灯 録
﹄ 十 四
︶︒
% 他 に
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 永 享 九 年 十 月 二 十 日 条 で は
︑ 御 相 伴 衆 と と も に 行 幸 の 御 座 の 飾 り を 見 て い る
︒ 二 十 一 日 に 行 わ れ た 室 町 第 へ の 後 花 園 天 皇 の 方 違 行 幸 の 設 え を 見 せ た も の か
︒
&
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 永 享 八 年 六 月 二 十 九 日 条
︵ 隆 寿 院 御 成
︶︑ 永 享 九 年 十 一 月 二 十 一 日 条
︵ 密 厳 庵 御 成
︶︒ '
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 永 享 八 年 九 月 二 十 四 日 条
・ 二 十 六 日 条
︒﹃ 建 内 記
﹄ 嘉 吉 元 年 六 月 十 三 日 条 に は
︑ 満 済 の 七 回 忌 に 義 教 が
﹁ 龍 樹 寺
﹂ に お い て 作 善 を 行 っ た と あ る
︒﹁ 隆 寿 院
﹂ と 同 一 の 寺 院 か
︒ な お 満 済 の 命 日 は 六 月 十 三 日
︒ ( 森 茂 暁
﹃ 満 済
│ 天 下 の 義 者
︑ 公 方 こ と に 御 周 章
﹄ ミ ネ ル ヴ ァ 書 房
︑ 二
〇
〇 四 年
︒ ) 永 享 八 年
・ 嘉 吉 元 年 に
︑ 満 済 の 仏 事 の た め に 銭 百 貫 文 を 隆 寿 院 に 贈 っ て い る
︵﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 永 享 八 年 六 月 二 日 条
・ 嘉 吉 元 年 六 月 三 日 条
︶︒ 永 享 七 年 も 義 教 が
︑ 隆 寿 院 で 満 済 の
﹁ 仏 事 注 文
﹂ に 目 を 通 し て お り
︑﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ は 割 注 で
﹁ 蓋 其 資 自レ
官 出 故
﹂ と し て い る
︵ 永 享 七 年 九 月 二 十 六 日 条
︶︒
*
﹃ 望 月 仏 教 大 辞 典
﹄﹁ 互 用 罪
﹂ 項
︒ +
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 永 享 十 一 年 五 月 十 四 日 条
︒ , 芝 氏
︑ 註
⑸ 論 文
︒ - 蔭 木 氏
︑ 註
⑶ 書
︑ 二
〇 頁 に
︑ こ れ 以 降 は 毎 月 逆 修 を 行 う よ う 命 じ ら れ た
︑ と 指 摘 さ れ て い る
︒ .
﹁ 宗 海 僧 正 為二
疏 談 義一
自二
今 日一
入 寺
︒ 宿 坊 桜 町 如
二
前 々
一
︒ 当 年 始 也
︒﹂
︵ 応 永 三 十 一 年 二 月 九 日 条
︶ な ど
︒ / 宝 徳 二 年 の 記 事 は
︑ 清 少 納 言
︵ 清 原 業 忠
︶ が
︑ 右 大 弁 日 野 勝 光 か ら の 問 い 合 わ せ に 対 し
︑ 本 朝 現 存 人 蒙
二
禅 師 号
一
例
︑ 応 永 廿 六 年 四 月 廿 三 日 従 尊 房
︿ 雲 叟 ト 云 歟
︒﹀ 外
︑ 不レ
得二
所 見一
之 由 を 返 状 で 述 べ
︑ こ れ に 中 原 康 富 が
﹁ 尤 不 審
︒ 但 勝 定 院 贈 太 相 国 御 信 仰 之 僧 也
︒﹂ と 不 審 と し な が ら も
︑ 従 尊 房 が 義 持 の 信 仰
― 439 ― 足利義教の法華経談義
す る 僧 侶 で あ っ た と 述 べ た も の
︒ 康 富 は こ の 日 が 賀 茂 祭 で 廃 務 日 に 当 た る た め
︑ 政 務 は 無 か っ た の に 宣 下 が 出 て い る 点 を 不 審 と す る
︒ ま た
︑ 康 正 元 年 に は
︑
⁝ 応 永 廿 六 年 四 月 廿 日
︑ 勝 定 院 有二
御 執 奏
一
︑ 雲 叟
︿ 従 尊 房 也
﹀ 被レ
許二
禅 師 号一
了
︒ 其 外 古 今 希 有 也
︒ 其 時 分 即 有二
御 沙 汰一
︑ 為二
不 快 例一
︒ 向 後 無二
左 右一
不レ
可レ
被二
許 容一
之 由
︑ 後 小 松 院 被
二
仰 出
一
了
︒
⁝ と
︑ 雲 叟 の 事 例 を
﹁ 不 快 例
﹂ と す る
︒ し か し こ の 内 容 も
︑ 朝 廷 側 が 禅 師 号 の 許 可 を 出 さ な い た め に
︑ 勘 申 で 判 明 し た 断 片 的 な 情 報 を つ な ぎ 合 わ せ て 話 を 作 っ て い る よ う に も 見 え る
︒ な お
︑ 応 永 二 十 六 年 四 月 二 十 三 日 条 に は
︑ 従 尊 房 の 禅 師 号 宣 下 に つ い て の 追 記 が 見 え る
︒ 宝 徳 二 年 以 降 に 康 富 自 身 が 書 き 付 け た も の か
︒
!
﹃ 山 城 名 勝 志
﹄ 葛 野 郡 一 林 光 院 項 な ど
︒ な お 林 光 院 に あ っ た と さ れ る 鶯 宿 梅 に つ い て は 雨 野 弥 生
﹁ 創 生 さ れ る
﹁ 銘 木
﹂│
﹁ 鶯 宿 梅
﹂ 伝 承 の 中 世 的 変 容
﹂︵ 堤 邦 彦
・ 徳 田 和 夫 編 集
﹃ 遊 楽 と 信 仰 の 文 化 学
﹄ 森 話 社
︑ 二
〇 一
〇 年
︶ が 詳 し く 論 じ て い る
︒
"
こ の 事 件 と そ の 影 響 は
︑ 桜 井 英 治
﹃ 室 町 人 の 精 神
﹄ 日 本 の 歴 史 一 三 講 談 社
︑ 二
〇
〇 一 年
︑ 七 九
〜 八 四 頁 に 詳 し い
︒
#
﹃ 加 賀 市 史
﹄ 通 史 上 加 賀 市 役 所
︑ 一 九 七 八 年
︑ 第 五 章 第 六
・ 七 節
︑ 蔭 木 氏
︑ 註
⑶ 書
︑ 二
〇 四
〜 九 頁
︒ ま た 林 光 院 の 所 領 リ ス ト が
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 長 享 二 年
︵ 一 四 八 八
︶ 七 月 五 日 条 に 見 え る
︒
$ 細 川 氏
︑﹁ 足 利 氏 の 邸 宅 と 菩 提 寺
│ 等 持 寺
・ 相 国 寺 を 中 心 に
│
﹂︵ 同 氏
︑ 註
﹇ 1
﹈ 書
︑ 初 出 一 九 九 八 年
︶︑ 中 井 氏
︑ 註
⒇ 書
︒
% 蔭 木 氏
︑ 註
⑶ 書
︑ 二
〇 四 頁
︑ 中 井 氏
︑ 註
⒇ 書
︒
&
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 永 享 九 年 七 月 十 三 日 条
︒ 雲 居 庵 は 天 竜 寺 の 塔 頭
︒ ' 中 井 氏
︑ 註
⒇ 書
︒ (
﹃ 扶 桑 五 山 記
﹄ に よ る と
︑ 宝 徳 元 年
︵ 一 四 四 九
︶︑ 康 正 三 年
︵ 一 四 五 七
︶ の 二 度
︒ )
﹃ 扶 桑 五 山 記
﹄ に よ る と
︑ 修 山 光 謹 は 長 禄 三 年
︵ 一 四 五 九
︶︑ 徐 崗 梵 詳 は 康 正 三 年
︵ 一 四 五 七
︶ に 住 持 と な る
︒﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ に よ る と
︑ 楚 岫 景 昭 は 延 徳 二 年
︵ 一 四 九
〇
︶ に 住 持 と な る
︵ 同 四 月 二 十 二 日 条
︶︒ 蘭 坡 景 䠷 は 中 井 氏
︑ 註
⒇ 書 に よ る と
﹃ 万 年 住 持 籍 簿
﹄ に 応 仁
・ 文 明 の 乱 の 間 の 住 持 と し て 見 え る と い う
︒ こ れ ら 住 持 は
︑ 中 井 氏
︑ 註
⒇ 書 の 成 果 を 参 照 し て い る
︒
*
﹃ 南 禅 寺 歴 代 住 持 籍
﹄︵ 桜 井 孝 雄
﹃ 南 禅 寺 史
﹄ 下 法 蔵 館
︑ 一 九 七 七 年
︶ に よ る と
︑ 長 禄 二 年
︵ 一 四 五 八
︶ の 入 寺
︒ +
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ 文 明 十 九 年
︵ 一 四 八 七
︶ 三 月 十 四 日 条
︒
足利義教の法華経談義 ― 440 ―
表 1 足 利 義 教 の 聴 聞 し た 談 義
no
年
西 暦
月 日
経 典
場 所
講 師
備 考
出 典
① 永 享 七 一 四 三 五 八 月 十 七 日 三 部 經
・ 阿 弥 陀 経 入 江 殿
│
十 月 二 十 六 日 に お わ る
︒ 上 様
︵ 三 条 尹 子
︶ 毎 日 聴 聞
︒
看
② 永 享 八 一 四 三 六 八 月 十 五 日 法 華 経
入 江 殿 雲 叟
十 月 十 五 日 に お わ る
︒
看
・ 蔭
③ 永 享 九 一 四 三 七 八 月 十 六 日 法 華 経
入 江 殿 雲 叟
去 年 か ら 講 義 中 絶
・ 十 月 三 日 に 五 巻 お わ る
︒
看
・ 蔭
④ 永 享 十 一 四 三 八 五 月 二 日 法 華 経
入 江 殿 雲 叟
六 月 二 日 に お わ る
︒
看
・ 蔭
⑤ 永 享 十 二 一 四 四
〇 四 月 八 日 華 厳 経︵ 普 賢 行 願 品
︶ 入 江 殿 普 一 志 玉︵ 戒 壇 院
︶ 四 月 二 十 八 日 に お わ る
︒
蔭 凡 例:
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄︵ 表 で は
﹁ 蔭
﹂︶
﹃ 看 聞 御 記
﹄︵ 表 で は
﹁ 看
﹂︶ に 見 え る
︑ 義 教 の 聴 聞 が 確 認 で き る 談 義 を 集 め た
︒ 表
2 足 利 義 政 の 聴 聞 し た 談 義
no
年
西 暦
月 日
経 典
場 所
講 師
備 考
出 典
① 長 禄 三 一 四 五 九 九 月 五 日 観 音 経
殿 中 瑞 渓 周 鳳
十 月 二 日 に お わ る
︒
蔭
② 長 禄 四 一 四 六
〇 八 月 十 八 日 法 華 経
室 町 殿 瑞 渓 周 鳳
八 月 二 十 七 日 に お わ る
︒
蔭
③ 寛 正 五 一 四 六 四 十 月 十 四 日 法 華 経
入 江 殿 瑞 渓 周 鳳
十 二 月 二 十 一 日 に 二 の 巻 が お わ る
︒ 蔭
④ 寛 正 六 一 四 六 五 二 月 十 二 日 法 華 経
入 江 殿 瑞 渓 周 鳳
七 月 二 十 四 日 に お わ る
︒
蔭
― 441 ― 足利義教の法華経談義
表 3
﹃ 蔭 凉 軒 日 録
﹄ に 見 え る 雲 叟 の 事 績 年
月 日
史 料 表 記
内 容
備 考 永 享 八
︵ 一 四 三 六
︶ 五 月 二 日
雲 叟 和 尚 義 教
︑ 雲 叟 に 法 華 を 講 ぜ さ せ る こ と を 大 智 院 主 に 命 ず
︒ 六 月 二 日
雲 叟 和 尚 義 教
︑ 二 十 日 に 雲 叟 を 御 所 に 招 く
︒ 六 月 二 十 日
雲 叟 和 尚 義 教
︑ 御 所 で 雲 叟 和 尚 の 煎 点
・ 斎 を 請 う
︒
御 小 袖 五 重
・ 盆 一 枚
・ 段 子 一 端
・ 引 合 十 帖 を 賜 る
︒ 六 月 二 十 五 日 雲 叟 和 尚 義 教
︑ 二 十 九 日 の 隆 寿 院 御 成 に 相 伴 す る こ と を 命 ず
︒ 六 月 二 十 九 日 雲 叟 和 尚 隆 寿 院 御 成 に 宝 山 和 尚
︵ 宝 山 乾 珍
︶ と と も に 相 伴 す る
︒ 八 月 六 日
雲 叟 和 尚 義 教
︑ 法 華 講 説 を 行 う 日 は 十 二 日 を の ぞ く と す る
︒ 八 月 十 日
雲 叟 和 尚 義 教
︑ 法 華 講 説 を 行 う 日 を 十 五 日 に 定 め る
︒ 八 月 十 五 日
│
法 華 講 説 を 入 江 殿 で 行 う
︒
十 月 十 五 日 に 終 了
︒ 八 月 十 六 日
雲 叟 和 尚 義 教
︑ 雲 叟 を 講 座 に 座 ら せ る よ う 命 じ る
︒ 八 月 十 九 日
雲 叟 和 尚 法 華 講 説
︒ 季 瓊 真 蘂 が 使 と な り 雲 叟 に 謁 す
︒ 八 月 二 十 四 日 雲 叟 和 尚 互 用 の 罪
︑ 不 審 の 為
︑ 義 教 が 雲 叟 に 使 を 派 遣 す る
︒ 十 一 月 三 日
雲 叟 和 尚 義 教
︑ 雲 叟 の 講 説 は 来 春 に 開 始 す る こ と を 命 じ る
︒ 十 二 月 五 日
雲 叟 和 尚 義 教
︑ 雲 叟 和 尚 の 帰 洛 は い つ か 尋 ね る
︒
十 一 月 二 十 六 日 に す で に 帰 洛
︒ 十 二 月 八 日
雲 叟 和 尚 雲 叟 と 山 中 諸 塔 の 院 主
︑ 七 条 袈 裟 を 賜 る
︒ 十 二 月 二 十 三 日 雲 叟 和 尚 雲 叟
︑ 米 十 石 を 拝 受 し た お 礼 を 述 べ る
︒ 永 享 九
︵ 一 四 三 七
︶ 正 月 二 十 二 日 雲 叟 和 尚 義 教
︑ 二 十 五 日 に 雲 叟 に 御 所 に 来 る よ う 命 じ る
︒ 辞 退 し た が 再 び 命 じ る
︒ 正 月 二 十 五 日 雲 叟 和 尚 南 御 会 所 に 御 相 伴 衆 が 参 る
︒ 雲 叟 も 加 わ る
︒
各 御 小 袖 二 重
・ 段 子 一 端
・ 盆 一 枚
・ 杉 原 十 帖 を 賜 る
︒ 二 月 四 日
雲 叟 和 尚 義 教
︑ 林 光 院 は 雲 叟 を 住 持 に 請 う べ き こ と を 命 じ る
︒ 五 月 十 二 日
雲 叟 和 尚 義 教
︑ 不 審 の 事 を 雲 叟 に 尋 ね る よ う 命 じ る
︒
足利義教の法華経談義 ― 442 ―
五 月 十 四 日
雲 叟 和 尚 雲 叟
︑ 復 命 す る
︒ 六 月 十 九 日
林 光 院 江 瓜 十 籠
・ 海 苔 折 三 合 を 賜 う
︒ 七 月 五 日
林 光 院 粽 子 百 を 賜 う
︒ 七 月 八 日
林 光 院 江 瓜 百 籠 を 賜 う
︒ 天 竜 寺 は 百
︑ 臨 川 寺 は 三 十
︒ 七 月 二 十 四 日 林 光 院 江 瓜 五 十 籠 を 賜 う
︒ 八 月 十 六 日
雲 叟 和 尚 法 華 講
︑ 始 ま る
︒ 講 師 は 雲 叟
︒
寛 正 五 年 九 月 二 十 八 日 条 に よ る
︒ 九 月 三 日
林 光 院 松 茸 折 二 合 を 賜 わ れ る
︒ 香 厳 院 に も 一 合
︒ 九 月 六 日
林 光 院 納 豆 百 把
・ 松 茸 折 一 合 を 賜 わ れ る
︒ 九 月 八 日
林 光 院 雲 叟
︑ 松 茸 二 籠 を 拝 受 す る
︒ 九 月 二 十 六 日 雲 叟 和 尚 義 教
︑ 雲 叟 の 風 疾 を 慰 問 す る
︒ 十 月 九 日
雲 叟 和 尚 義 教
︑ 授 経
・ 受 戒
・ 供 仏 の こ と を 雲 叟 に 命 じ る
︒ 十 月 十 五 日
雲 叟 和 尚 義 教 に 授 戒 す る
︒ 御 台
︵ 三 条 尹 子
︶ も 授 戒
︒ 十 月 二 十 日
林 光 院 義 教
︑ 行 幸 の 御 座 の 飾 り を 御 相 伴 衆
・ 雲 叟 に 見 せ る
︒ 十 一 月 九 日
林 光 院 林 光 院 に 使 命 を 蒙 る
︒ 蓮 経 中 の 事 で あ る
︒ 十 一 月 十 五 日 林 光 院 胡 桃 五 籠
・ 蜜 柑 一 折 を 賜 う
︒ 十 一 月 二 十 一 日 雲 叟 和 尚 密 厳 庵 の 御 成 に 鹿 苑 院 等 の 住 持 と 雲 叟 が 相 伴 す る
︒ 十 二 月 八 日
林 光 院 折 五 合 を 賜 う
︒ 十 二 月 十 一 日 林 光 院 折 五 合 を 賜 う
︒ 永 享 十
︵ 一 四 三 八
︶ 正 月 十 一 日
林 光 院 義 教 か ら
︑ 二 十 五 日 に 雲 叟 も 参 る べ き 命 が 下 る 正 月 二 十 五 日 雲 叟 和 尚 御 所 で 御 煎 点
︒ 御 相 伴 衆
・ 雲 叟
・ 大 愚 和 尚
︵ 大 愚 性 智
︶ が 参 る
︒ 二 月 二 十 九 日 林 光 院 折 二 合 を 贈 る
︒ 三 月 六 日
林 光 院 菓 子 折 一 合 を 賜 う
︒
― 443 ― 足利義教の法華経談義
三 月 十 六 日
雲 叟 和 尚
︿ 林 光 院
﹀ 等 持 寺 で 逆 修 を 行 う
︒
文 明 十 九 年 正 月 十 五 日 条 に よ る
︒ 四 月 二 十 八 日 林 光 院 逆 修 満 散
︒ 雲 叟 に 御 蚊 帳 を 賜 う
︒ 恭 蔵 主 は 小 袖 を 賜 る
︒ 五 月 二 日
︱
法 華 講
︑ 始 ま る
︒
六 月 二 日 に 終 了
︒ 五 月 四 日
林 光 院 義 教
︑ 雲 叟 に 講 を 始 め る べ き こ と を 命 じ る
︒ 六 月 十 一 日
林 光 院 御 折 五 合 を 賜 う
︒ 六 月 十 七 日
林 光 院 御 折 を 賜 う
︒ 七 月 六 日
林 光 院 南 禅 寺
・ 林 光 院 に 江 瓜 百 籠 を 賜 う
︒ 等 持 院 は 三 十
︒ 八 月 三 十 日
林 光 院 梨 実 折 二 合 を 賜 う
︒ 九 月 八 日
林 光 院 菓 子 を 賜 う
︒ 九 月 二 十 二 日 林 光 院 石 榴
・ 松 茸 生 栗 少 し を 林 光 院 に 賜 う
︒ 九 月 二 十 六 日 林 光 院 御 折 五 合 を 賜 う
︒ 十 月 二 日
林 光 院 松 茸 折 二 合 を 賜 う
︒ 十 月 四 日
林 光 院 松 茸 折 二 合 を 賜 う
︒ 十 月 六 日
林 光 院 粽 子 一 百
・ 松 茸 折 一 合 を 賜 う
︒ 十 月 九 日
林 光 院 折 三 合 を 賜 う
︒ 十 月 十 二 日
林 光 院 松 茸 折 一 合
・ 蕎 麦 折 一 合 を 賜 う
︒ 十 一 月 二 日
林 光 院 菓 子 折 を 賜 う
︒ 十 一 月 十 六 日 林 光 院 折 三 合 を 賜 う
︒ 十 一 月 二 十 六 日 林 光 院 折 二 合 を 賜 う
︒ 永 享 十 一
︵ 一 四 三 九
︶ 正 月 十 二 日
林 光 院 折 を 賜 う
︒ 正 月 二 十 五 日 雲 叟 和 尚 御 相 伴 衆
・ 大 愚 和 尚
・ 雲 叟
︑ 殿 中 で の 御 斎 に 参 る
︒ 閏 正 月 十 七 日 林 光 院 御 折 三 合 を 賜 う
︒
足利義教の法華経談義 ― 444 ―