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近世国家の形成と戦争体制

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(1)

近世国家の形成と戦争体制

著者 曽根 勇二

学位授与大学 東洋大学

取得学位 博士

学位の分野 文学

報告番号 乙第171号

学位授与年月日 2005‑06‑27

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00003975/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

第一︑部 徳川政権形成期の奉行人の動向

(3)

第一章 慶長四年の徳川家康と片桐且元

はじめに

・:7 第・日 「釣.i コ;い、滋ll;ぺ侭L. 川〉

 慶長...年.八U−﹁︐八日︑題臣秀占が死去したが︑その後︑とのような政治状況になったのてあろうか︑11.ハ体的な状

況を.小す史料は多くはなく︑次の文書はそのうちの数少ない貴弔な史料と思われる.まず史料1を見てみよう︒

  史﹂オー一  ﹁ノ士→﹂

  71近かた迄之御折紙︑披見申候︑W人修理御代官所之儀︑池備後万へ被相渡之由︑尤候︑将又︑浅利儀承候︑

  相心得申候︑猶面之節︑吋申承候条︑不能具候︑恐々謹..︑n    なほ      卯月..川 家康・川判︶

      片桐市.止殿

 従来︑秀吉死後の政治運営は︑五大老と五奉行による﹁合議体制.﹂て行われたとされる︒諮川機関としての五人

老︑執行機関の五奉行が機能し︑秀吉以来の﹁.公儀﹂が維持されたとの考え方である︐一秀吉朱印・状に代わり︑五人

老連署状がその機能を代行したのである.秀吉が死去し︑その位置に徳川家康をはじめとする五人老がきて︑国政

とLての政治運営かなされた︒ところが五人老の相互に対立関係があり︑慶長四住−閏︑︑一月︑前川利家が死去すると︑

(4)

あ5口を星三しあつ ー1︸ー︶ーイ可h桐け川は中㌦の立場にあ︐たとふ︑﹂れるか︑浅利氏の〃を後援していたようであるバ

しり

い て

 、

{ へ

1以  る

長 と

    、

゜ー︑ぽ川氏当..の浅利頼平が人坂で死去したことで︑ようやく事件は終結﹇た 長束ル家を中心ヒし︑ん々バ牙仁

f

・︑r8ユ  ー文︐・r.:.<..ー

しカ前田利⁚︑家など︑政権内部の人︑物まで巻き込んでいた. へ は人ド村川川陸介か調停にぺるか︑1昆

 、た︑慶.長年川に\﹂ら.︺文禄四年になるとへ日戦にまで及h.かことがあ

 、その堀廻Uて家臣ぽ利氏と対︐いψ・抗争Lた

 、

.\..ノdト年︹文禄.足︶から始まり︑∪文禄ノー

丈川ソ 義︸ー/︐t−・二は浅.川事僧のことてあるコ  ミー‡の人名秋日C斗ふ︑ー ⊥ ︐ト秀㍑政権に服属寸ること一︑L人呂権力の確Lゾを図っ

.」/ , ;・: ・〜.IIl、ピ{↑ぞr:i・1.ノン1㍑/・.t奉li }・脇川

一1﹂旭昧 ︐﹈ノー︵且

浅 利 事 件

 そこでます前掲の史料ーにある右記・の課顯 を川ら・かにLてみよう 浅利儀 ド桐n.兀.の政ム川的一動・同を追求すること︑

l

  @   ト

隆 人完 饗藷 曇讐 篠す

    o

﹁也備後方

点を中心に検討し︑

そ・

しノ)

ら検討した研究が少ないのでそれを

.補  う   、2慶長...年︐八月︑秀吉の遺...口などにより︑贈:秀頼

﹁家ととなった .のような政治史の中に−史料1を位置付けてみたいが︑ー1・この時期についてこれま一︑﹂11︑へ体的な史料を提.小しなが

12H

.κ大老と.力奉行の一.合議体制﹂か崩れてしまう.︑

翌慶長./1.年九月︑関ヶ原の戦を迎えるのである.︑ 秀占以来の﹁公儀が家康独自に運営されつつあり︑そ

 、

(5)

::ψ

 こ      かる

さのこ   次Lと浅

1諮墾霞1!1−i

の再る候今L)

度浅利ヒ洛之儀︑夏中ヨリ節々︑片桐市.止より早々罷登候.血︑可然之由被仰ド候得共︑.不得隙候条︑

は兀目は

︑此中.分面片︑時も急L洛仕候へ之由︑御状被.卜候間︑.不取合⁝能登候︑︵ド略︶

と︑﹁h時も急ヒ洛﹂を勧めたのは且元自身であり︑とても中ぴ.のL立場にあったとは思えない︒故に

...にわたり片桐且.兀は︑佐々に中立を.小す書状を送ったのであ.る︒

対立・抗争てあるが︑浅利氏が上洛したのち︑慶長︐.年九/1︑..日︑浅利氏は長束.正家に秋川氏との抗

     已禦顯[霞

  【.∪. 兀年︵文禄五︶..月.︐十五日︑秋田・浅利両氏の調停を佐々.汁.孝に頼んだが︑史料2によ

フ立場であることを.小し︑.両者を召喚したヒで取り調へを実施するよう依頼した︒し

人れをしたのである︒

八月︑.−﹁日付秋田氏家.臣宛の浅利氏家臣明石左近・松尾七蔵連署状の.部である.. 各さまさしのけ︑ひいき可申トにてハ︑.史て無御座候︑只今とりあいのやう二.小候︑頼被川二付︑此四五卜目已前にも飛札参候間︑双方めしよせられ御糺明のLにて︑被仰候︑︵中略ン貴殿次第二あさり御よひのほせ候て︑よく候ハんやと川候︑我等かたよりハ候︑太⁝郎殿被〃日安汀︐円鉄⁝やと川−候︑御透二弾.ル殿へ被仰︑御よひパ眠ても︑よく候ハんや︑

㌦脳ー.﹄h市.正﹇花押︶

(6)

「il 剖: {、』lllJ没櫓『三・∫klOi〃ノ4s 」ノ、ノノliJJr:.] 230

      ぺ  こ争の被害と︑天.止十八年以降︑秋田氏に対する軍役・物成の状況を報告した︒ここで浅利氏の軍役滞納が確認され︑      前田利家・浅野長吉の 御肝煎の筋目一がありながらも︑浅利氏は敗北したのである︑.ところが処罰される直前︑

浅利頼.平の.死去という結末を迎えた.︑頼.平の死去は︑浅利氏家臣あるいは秋田実季による毒殺とも考えられるが︑

浅利氏敗北の最大.要因は︑浅利派である片桐且元が積極的には動かず︑結局は中立的な態度をとったからである︒

浅利氏は﹁おちやあ一という秀吉の内儀衆にまで接触し︑﹁秀頼様への御目見得﹂も実現させようとしたが︑さら

に史料1などから︑この事件は秀㍑死後の慶長四年−に至っても︑秀占に対する意識が根強く残っていたのである︑︑

 慶長四年閏..︐月︑︑卜L日︑秋田氏は︑徳川家康の大坂城留守居阿部.止勝に事件の経過を弁明した︑この家康への

弁明は︑同年閏.︑.月..︐日前川利家が.死去し︑五奉行筆頭である.右田...成も同月卜日火脚し︑同月ト..日には家康が

伏見城に・人り︑一人ド殿に被成一た中て行われた.︑秀吉死後の天口議体制﹂が崩壊L︑家康が﹁公儀﹂を運営し始

めたのてあり︑このような政治状況のドて︑秋田氏は家康に弁明したのである.これに対する家康の見解は︑次の

ようである

  史料4﹂

  先度者預御状二付︑借浅利儀出・人候問︑其.兀隙入候共︑ .夜帰二而吋有御出候︑猶以.血.吋申.躯候間︑へP省略候︑

  凡﹄々計㍑...︑ー  ﹂ノ    .i  ︻    ぬピ ヘヨ ヒ     卯川︐六日 家康盲パ判︸      セ ロパ       片桐市︐止殿

 史料4を大島正降氏は慶長..年に比定したが︑史料4は史料iと関連する文け日であり︑慶︑長四年に比定寸べきで

ある.史料4に虹ると︑家康は片桐ほ.兀に浅利事件を処川するよう命じた︑事件が政権の内部にまで及び︑さらに

(7)

内儀衆や秀頼までも巻き込んでいく気配があったので豊臣氏家老の片桐は.兀に処理させたのである︑この時期︑執

行機関である五奉行は機能Lており︑この事件に日.兀自身が従来から関与していたことも考慮Lなけれはならない

が︑最も︑公儀﹂性のある片桐ほ.兀が適任であったに違いない︒なおほ兀はこの時期は人坂城にいたのである︒

第.節 豊臣蔵入地支配

211 耳膓 ・亭  1蜜」<[i9(1.)イ・さ1111≦C,lt (tL_い 村・;ll・L「

 史料1の﹁人修理﹂とは︑もちろん大野治.長のことである︒彼は秀吉に御馬廻衆として仕えた人物である︒秀占

死後︑彼は秀頼に帳候し︑.兀和元年人坂.夏の陣で秀頼に殉じて自害した︒さて﹁人修理代官所之儀﹂のことである

が︑これに関連する文書を次に掲げる.︑

  一史料5﹈

    ぺ・㌘∴︵       艮野ー2︹︑.柚川長盛・k戊11㌢       中u艮  碗ぽfu川  先度大野修理御代官所之儀二付︑預御折需候︑其趣浅弾・増41・長大へ申渡候︑委細中式少・堀帯両人吋被申

  入候之条︑令省略候︑恐々謹︐︐︑口

     らぽ ベイ      後...月け六日 家康︵花押︶

       片桐市止殿

 この文書の年代比定であるが︑﹁浅弾・増右・長大﹂と奉行人の名が見え︑︑石田...成の名は見えないので︑..︑成

が失脚した慶長四年閏一..月十日から︑翌年九11十五日︵関ヶ原の戦︶までの間である︒慶長四年あるいは同五年と思

われ︑さらに﹁後...月一の表記から容易に慶長四年と比定できる︒なお史料1の︒浅利儀.﹂の内容も考え合わせる

(8)

史料1の.池︑備後.L一は池川市成のことである︐彼は摂津池田城じであり︑信長・秀㍑に臼えた武将であるい史 ゾ⑪﹂ρ肩 .J︵−

人名の知行宛行

ご;▲:1・ 1川加1汗三伐}導}.ノノ恒戸.の・{・川  2s・

と︑慶長四年の方が妥当である︒

 史料5では︑大野治長が代官である豊臣蔵入地について︑家康が裁決して︑曲豆臣奉行人に﹁川渡﹂し︑さらにそ

れを札.兀に報告している︑︑中村一氏・堀尾吉晴らは︑.汽奉行と.五大老の中間に位置した﹁中芝﹂と呼ばれたが︑こ

の文書からも彼らが国政に関与していたことが確認できる︑関ヶ原の戦後の豊臣蔵入地は︑片桐ほ.兀・小出秀政の

       両人か管理Lたが︑この時期︵慶長四年︶には︑秀吉在世中と同様︑豊臣奉行人による管川が行われていた︒これに

ついては︑他の文書でも実証できる..

 秀占の遺....口で豊臣家を預かることになった片桐11・九であるが︑﹁公儀﹂を掌握しつつあった家康も︑国政に関す

ることを報告すへきぴ.場にあったのであろう.︑﹁浅利儀﹂に関し︑家康と且.圧の関係もほぼ同様であろう︒ここに

慶長四年という時期の意義を見出すことができる︐

 ところか︑何故人野治︑長の代官所がここで問.題になったのかは.不明である︑慶.長四年卜月.︑日︑Lへ野は家康暗殺

をL方雄久・浅野.長占らと・芦一もに計画し︑.蕗見して.時失脚したことがある︑.もしこの事件に関連Lたならば︑

.浅弾﹂も︑当然曲.口臣奉行人から欠けていなければならないわけで︑﹁人修理代パー1所之儀﹂とは︑やはり彼の家康暗

殺川画と関係はないものと考えるべきであろ.う︒

(9)

      ..目...川   利家      L利柿上      軍一.L      此ル ノ      パパ券       ロ ほプ ゑパゼ      秀家      ㍑︑ζ.      家康        .°・旧小ご        池田備後守殿

 .れ人老連署の形式をもって︑摂津・近汀のうちで池田は..千八百石か宛行われた︒史料1では人野治.長の代官︑所

の所在は.不明てあ一︐たか︑ 池備後方へ被相渡﹂たのは︑この代官所の.部ではなかろうか..つまり人野治長か支

配する代官所が摂津・近江国にあり︑その一部を慶長四年閏︐..月...日︑池田弔成に宛行われたのではなかろうか.      ドロしこの時期の知行宛行は./1.大老連署で行われたので︑慶長四年︑これに家康と片桐ぱ元が関与したことは︑何ら.不自

然てはなく︑両文鈷貝史料1・史料6︶が関連文書である丁円能性もある︒もしそうだとすると︑日.九は︑豊臣大名て

ある池田重成の知行宛一日について︑自ら丁をドし︑家康に報告したことになる︒ .方︑家康は﹁公儀﹂を掌握しつ

つあり︑知行宛行は.灯大老・.h奉行の﹁合議体制﹂の形式が崩れ︑この時期には︑κ大老連署たけで行った吋能性も

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閨四口∫τ・

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η︑江州之内百川L石︑都合﹁八百石之事︑目録別紙在之候︑為本知替被宛 る彼の事跡を︑山ってみると︑次の文古か存Wする︑

(10)

第.部i恒li敗権ii三1戎期の奉川人の動1;i〕 弓4

で本り儀背国 のすおへ は力.交  景奉関よるけの史 制わ性に行ケうこる知料

/ilかさもはに1京なとt也1Ji]

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行能た㍑元就戦期で家行年 としカvσ)ロ)い後

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おわりに

       ぐコィシあ.る.︑五奉行制がわずかでも機能していたこの時期に︑豊臣家の﹁家老﹂片桐目.兀と︑﹁公儀﹂を掌握しつつある五大老家康の関係は︑このような関係を持っていたことになる..翌年関ヶ原の戦後︑.五奉行制が消滅すると︑この且.兀と家康の関係も少しずつ変質していくものと思われる.︑

(11)

二S〜 ば.亭 燈長i1Jli.L )徳ll「家康三:}F・]i{{「じ

と田︼われる 公儀とは秀㍑の達成した国制を指す大名や与社などへの知行宛行は.九人老が承認し︑奉行人によって実務か行われた稿朝鮮出兵の撤兵指へpス本書第部第し章︶を参照 五奉行連署状も川さ11ていた秀占在世中と同様︑基本的には奉行人による国政の実務か継続していたと考える

−へ川議体制⁝とした方かより適切ではないかと思う..秀㍑の.死去から関ヶ原の戦に.至るまての時期︑h奉行連署状は数多く発

給ふ︑﹂れたか︑五L人老連署状とほとんど同内容・同文のものか何点かある.㍑大老か.承認する意味で連署状か出され︑同時に   緊所所蔵謄写本︶二こ ..鬼川.郎︑豊臣政権の知行体系一二.11本史研究﹄第一..八パリ︑ .九L一年︶︑同.太閤検地と朝鮮出兵﹂︵﹃岩波講座日L  史︵新版︶﹂近川.︑ ︐圧L五年︶.....鬼氏は五大老連署による.合議体制﹂と呼んているか︑筆者は力人老・九奉行 譜牒鯨録巷㍑L︹内閣文庫影印叢刊本一︑譜牒鹸録﹄中巻︑

P叫ill〜頁

日桐家御内川御朱印等写東京大㍑史料編 治状況を語ることができないし︑桐ほ︑兀研究の信.要性を感じるもの

で逆 あに

り曹.

秀㍑政冶の精緻な研究をペースとした家康研究の必.要性を問いたい︒ 臣 る執政を必.要とLたのは︑

‖危

氏性

の位置付けを過人.評価する

・P:

丈態的ではなし

ここに を.小すものである︒家康権力の伸長からだけでは︑関ヶ原の戦後の

片政 位が の執 置生

に じ H. 

」L関

が ケ人ることになったのではないか政治伯一なへ.ケモニーを握 そして関ヶ原の戦の勝利によ原の戦か勃発したのである

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た家康であったが︑何よりも日.兀によ ⊂︑家康は﹁公儀〜を掌握し︑.L.×・︑r/イノf 家康は︑ほ.兀を介在キ︑\せながら︑五奉行に執政させていたようである︒こうLた家康と五奉行の問にはもちろん確

  な

ぞか

て推測ではあるが︑秀㍑死後︑.れ人老・L馳ミ︑..﹈︶〜ろfO合議体制 が存在し︑そこで︑公儀 を乎握しつつある ︑たようであるけ.兀は︑関ヶ原の戦後に見るほど︑まだ広範な執政は行っていない︒

(12)

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(15)

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(16)

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はじめに

右コ

一章

関ヶ原の戦後の片桐且元

(17)

 そこで本章では︑人久保長安や.長安系の代日らの動向をふまえながら︑

・同を明らかにし︑当該期の政治状況の︑端を検討する︒ 関ヶ原の戦後における片桐且.兀の動

告コ 一斤牙

節 慶.長六年の知行宛行と片桐且元

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け.兀と徳川奉行人の連署

 関ヶ原の戦後︑多くの武将は論功行賞として知行宛行を受けたが︑これらをまとめたのが表1である︒慶.長六年

一月から奉行人連署形式による知行目録が出され︑とくに彦坂元正・大久保長安・−朋藤正次の..︑人が中心であり︑

家康E導の知行宛行であったことがわかる︒六月以降︑彦坂元正.の名が見えなくなるのは彼が六月に失脚したから

である..十.月以降︑伊奈忠次も署名したが︑表1を見る限りでは︑関東・東海地域だけに関係を持ったようであ

 この知行宛行は︵例外はあるが︶︑ほとんどが畿内とその周辺を対象としたものである.︑早くから先進的生産力を ○

有し︑経済的な分業システムが整備された地域であった︒秀吉政権.トでも︑政権の直轄領やそれを支える奉行人ら

の所領︑さらに寺社領などが点在した︒様々な形での所領が錯綜しへ日い︑国持大名が存在しない﹁︐非領国﹂地帯て

あった︑.これに対し家康は︑ 一国規模の支配権を持つ国奉行を配することで︑この地域の分業体系を統︑的に把握

Lよ・?としたのである.関ヶ原の戦後︑家康がその権力を安定させるために最も力を注いだ地域であった.

(18)

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表1 慶長6年の知行宛行

連  署  奉  行

月 日 宛行先 宛行地域 片桐且元 小出秀政 伊奈忠次 彦坂元正 大久保長安 加藤正次 板倉勝重 長谷川長綱 出 典

1 1月17日 本多忠勝 伊勢 ○ ○ ○ ○ 和泉清司論文

2 1月28日 片桐且元 大和

○ ○ 『家康文書』

3 片桐貞隆 大和 ○ ○ ○ 「片桐文書」

4 2月3日 延暦寺 近江

○ ○

r新修大津市史』

5 石山寺 近江 ○

○ ○ 『家康文書』

6 山村良勝・千村良重 美濃 ○

○ 『新家康文書』

7 2月25日 坪内玄蕃ら5人 美濃

○ ○ 『朝野旧聞』

8 3月5日 伊達政宗 近江 『家康文書』

9 分部光嘉 伊勢 ○ ○ ○

『家康文書』

10 3月27日 川勝広綱 丹波 ○ ○ ○ 和泉清司論文

11 川勝兵衛大夫 丹波 ○ ○

和泉清司論文

12 木下家定 備中 ○ ○ ○

rねねと木下家文書』

13 4月8日 水野分長 三河 ○

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和泉清司論文

14 4月16日 中川秀成 豊後 ○ ○

○ ○ r中川家文書』

15 4月19日 山名豊国 但馬 ○ ○ ○ 『家康文書』

16 5月23日 飯田宅次 近江 ○ ○ ○ r新家康文書』

17 竹中重定 摂津 ○

○ ○ ○ ○

r吹田市史』

18 5月24日 菅沼定仰 美濃 ○

『家康文書』

19 6月18日 八木光政 但馬 ○

r家康文書』

20 7月]9日 松平忠利 三河 ○ ○

和泉清司論文

21 江馬一成 遠江 ○ ○ ○ ○

和泉清司論文

22 9月7日 来島長親 豊後

○ ○ 「佐伯藩史料」

23 9月26日 毛利高政 伊予・豊後 「佐伯藩史料」

24 9月 小笠原定信 近江 (欠) 『家康文書』

25 11月20日 松平乗次 三河 ○ ○ ○

『家康文書』

26 12月28日 宅間忠次 武蔵・相模 ○ ○ ○ 和泉清司論文

27 12月29日 細川藤孝 山城・丹波 ○ ○

『家康文書』

28 玉置小平次 伊勢 ○ ○ ○ r新家康文書』

(注)「家康文書」二中村孝也r新訂徳川家康文書の研究』下巻之一。『新家康文書1=徳川義宣『新修・徳川家康文書の研究」。r朝野旧聞」=r朝野誓聞皇藁」

 (内閣文庫所蔵史籍叢刊)第11巻。和泉清司論文=和泉清司「徳川政権成立過程における代官頭の歴史的役割」(r古文書研究」第25号)。

(19)

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原の戦後・)・時引い/、

 去1によると二c問忠次と松.平乗次の例ては加藤正次は署名していないが︶︑すべて人久保長安と加藤正次が連署して

おり︑この知行宛行における人久保.長安の存在が大きかったことか知られる︒

 さらに表1の9161722出の.分部光嘉・飯田宅次・竹中市定・来島.長親・亡利・尚政らに対し︑片桐且.兀と小出秀政

も連署したことが︑川目される︑これは分部光嘉以.トが秀㍑恩顧の大名であったからと思われるが︑この知行宛行は

単に徳川方たけで行われたものではない︒豊臣家家老のほ︑兀と小出秀政が関与しなけれはならない部分もあったの

である︑関ヶ原の戦とは︑徳川氏と豊臣氏の戦闘ではなく︑﹁専制君主﹂秀吉の後継者争いであったのである︒し

たがってその論功行賞としての知行宛行も︑後継者争いに勝利した家康がE導するのは当然であるが︑戦闘の勝利

者だけで国政を運営することはできなかった︒戦闘に関わらなかった大坂の豊臣氏や︑京都の朝廷︑さらに徳川方

として戦闘を芝えた秀占恩顧の大名など︑家康に対峙できる政治勢力が存在していた︒このうち武家社会における

秀占の遺児秀頼の存在は大きかったはずである︒ ︐方で豊臣氏が望むのは︑まず戦後の政治的な安定であり︑家康

ヒ導の知行宛行に関わることによって︑権威として地位も安泰になったはずてある︒つまり豊臣氏家老の日.九らの

連署も当然のことてあり︑その後︑次第に家康の権力か伸長していったのは歴史的な結果でしかない︒関ヶ原の戦

後の日.兀は︑政治状況に対応しながら︑豊臣氏を運営していたのである.︒

 そこでほ.兀が関与した事例として表1の22を検討してみよう︒史料1がそれである︒﹁来島長親宛豊後国之内御

知行方目録︵写ごという表題であるが︑ほとんどの知行地の所付けは省略した︒       ﹇史料/﹈

  一︑百九拾一  一弐斗四升 日田郡 一野瀬村

   ︵中略︶

(20)

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    合七ビ万四千石

  右︑為与州替知︑被遣候間︑可有御知行候︑御朱印重.而川請︑.司進候︑

      ヒヘロニ    慶長ノ年       ㍍ぷ︑川﹁.二      九月ヒ日  片桐市正.︵書判︶

       .U善11次︑・       賀勝与左衛門︹書判︶       一尺自袴.中        板倉﹇  .﹂右門尉︵書判︶

       ドリ コい むポ       来嶋右衛門市殿

 これによると︑徳川万の加藤正次や板倉勝弔とともに︑且.兀は来島.長親に対し︑伊.r国にあった知行地の替知と

して︑豊後国内に合計..力四モ︑右を与えた︒その替地は所付けを明゜記した豊後国の日川・玖珠・速見郡の..卜.力

村てあったが︑この知行目録の最後の﹁御宋印重而申請︑可進候.一の箇所は注目される︒つまりこの史料ーを発給

したあとから︑改めて家康の領知朱印状が発給されることが明記されたのである︒実はこの部分が最も后.要な意味

を持っていた︒この点こそか秀㍑と家康による知行宛行の基本的な違いを.小すものであり︑同時に両者の置かれた

﹂ψ場を如実に.小すも.のてあ一︐た︒秀㍑がある武将とL地を媒介としたト.従関係を結ぶ場合︑秀☆はその武将に﹁自

分自身の佃知朱印状∴を出して︑その武将に個別領︑じとしての地位を保障﹂た.これに対Lて家康は︑ある武将に

−御朱印弔向申請︑吋進候﹂と︑自身の領知朱印状が出ることを.小唆したが︑実態的には日.兀と徳川方の奉行人の

連署した知行目録を発給寸るだけで︑その武将に個別領主としての地位を保障しただけであった︒表1を見ると︑

この知行宛行形式は全川的な規模で行われていた︒Lかもその後も︑家康自身の領知宋印状が出された形跡は少な

い一﹇たかってこれては︑家康と個別領じとして領知の認められた武将との川には︑秀−︑口以Lの強川なL従関係が

(21)

成ぴ.Lたとはとうてい思えないへ.

 秀占は多︵の軍事動nに武将たちを駆り立てる.方で︑臼分自身の領知朱印状を武将たちに与えることで︑その

︑奉公Lに対寸る 御恩 を︑小した︒この結果︑秀㍑と武将の川には︑強川なド従関係が成ぴしたのである︒これ

に対Lて︑関午原の戦の勝利で覇権を握った家康ではあったが︑日︑兀ら豊臣系奉行人の署名があって︑ようやく幾

人かの武将らに知行宛行状と知行目録を発給することができたのであった.家康か︑ほ︑兀らの存在をなんとしてで

もピ要−・一したのはこうしたところにあった︐

2

杜.几単独の署名

一b  似 } lXi」「… L)・担k>愛、ノ(㍉. 1﹁

 表1の23によると︑慶.長六年九月..ト六川︑日.兀は単独の署名をもってヒ利高政に︑︐与州替地井豊後国内

御知行方日録﹂を出した.この知行目録ては︑沙後国玖珠郡の一.力Lし﹁﹂ー石八斗四人口/日川郡と合わ刈・︑..力L﹁九

白カー 白︑﹈/−日二の所付けか記され︑そのあとに︑︐右︑当座之為御蔵入︑被成御預候条︑白姓等御仕置被仰付︑

.吋力御収納候一との記載がある︑このケースは豊臣蔵入地の代官任命に関するものであったから︑豊臣家を代表す

るほ.兀単独の署名が必要てあった︒ところがこのような場合ても︑﹁重︑血御意之趣候者︑可申入候﹂とある︑日.九

は︑﹁今後︑もし家康から指.小があれば︑そのように通達する﹂と明記した︒豊臣蔵入地に関する知行目録でも︑

家康の意思が反映されていた︒これは逆に覇権を握った家康の意向があるからこそ︑聾臣蔵入地も︑﹁.公儀御料﹂

としての機能を失うことがなかったのである..

(22)

冨」 ,;お 姑・Hll改梯}杉り父}剴・/ノts1Jノ、しリ動ノ[: 24F)

3

家康自身の署名

 史料1でも一重而御朱印申請﹂とあり︑且元の単独署名で毛利高政に与えた知行目録︵慶長六年九月..十六11付﹀で

も﹁重而御意之趣﹂という文言があり︑知行目録の発給は家康主導で行われてきた︒さらに家康自身が署名するこ

ともある..表1の24の小笠原定信に対する知行目録のヶースであるー︑

  ︑史料2一

   御神君御−︐日御自取之山

        御知行日録

  .︑.︑︑白弐拾し石L十.︑升  汀州浅井郡 佐野村

  .︑百L拾弐︑石弐斗八升   同郡    .卜米村内

  有︑知行可有御所務候︑御朱印之儀者︑重而中請吋進者也︑

     ポ翼.−<L︑.卜Lー         ノ戊       /ノー     ︸ ﹂

       クヒ  ぺ           汐イ憤偉川1

 これまでの事例のように奉行人の署名がなく︑袖に﹁御神君御書自革之山﹂と記述され︑単独で家康が署名した

ようである︑後年︑喬忠や家光などの将軍から直接ドされたとも考えられるが︑日︑兀らの奉行人が署名しなかった

ことたけは明らかてある︑ここでも﹁.御朱印之儀者︑重血申請吋進者也﹂とあり︑前述の巳利高政に㌦えた知行目

録でも.屯而御迩之趣 ヒあった︒つまりこれらの知行目録は︑形式的に家康自身か発給するであろう領知朱印状

(23)

ユ4ア

1翅 テn哀L了)lllkiVt」ゴ)1} 村ui l l )L

の副状︵添状︶的な役割を担っていたのである︒関ヶ原の戦後︑奉−行人連署の知行目録が家康の朱印状とワンセット

で機能し︑その奉行人に片桐け元や小出秀政という豊臣秀頼付の家老が必.要であったところにも︑家康権力の実態

が想像できよう︑豊臣氏権力が保持していた﹁公儀﹂としての機能が︑ここでも立証されよう︒

 しかも家康自身の領知宋印状が出されるまで︑種々のr続きが必要であった︒その一端を.小すのが次の文はであ

る.︑  ﹇史料3﹂

  其方御知行分御宋印壱通︑憾二請取候︑掛御目次第二︑御.返可申候︑以ヒ︑      ・聖くいー一      ・つし

       ..ートー︑.︑ー     Lー刊.L       且︑兀︵花押︶      リコ  レる      ピタ び ヒ      駒井中務允殿       まいる

 史料3によると︑且.兀は︑かつて秀吉から駒井重勝へ与えられた領知朱印状︵︑御知行分御朱印﹂︶を川収していた       サ  ヒ      ド   ノか︑その朱印状を返却することを通達した.︑このほかにも︑このような﹁太閤様知行被.卜候御朱印︑通︑片桐市正

殿預り状﹂は存在する︑つまり関ヶ原の戦後︑かつて秀吉から武将たちに与えられた領知朱印状は︑且.九のトに提

出させられていたのであろう︒慶長六年の知行宛行に先立つ作業として必要なことと推定されるが︑東軍に属して

大幅な加増を受ける豊臣大名から秀吉の領知朱印状を回収する必.要はなく︑逆に駒井重勝のように西軍には戦後失

領︑した武将を対象にしたものであったかもしれない︒しかし︑こうした作業を経て︑家康主導の知行宛行は実施さ

れていったのである..

(24)

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 慶.長六年の知行宛行は家康じ.導て行われたが︑ほ.兀は知行目録に署名するだけ一︑﹂はなく︑史料3のような対応も

行っていたのである..関ヶ原の戦後の家康は︑け.兀を﹁.公儀︸奉行人として起用しつつ︑戦後処理の政策を開始し

たのである︑ともあれこのような状況のもとで︑翌慶長﹂年︑近江では全国の慶.長検地の先駆けとして︑ 一国規模

の検地が行われたブ家康の虻場からすれば︑対豊臣氏との関係もあり︑極めて政治性を帯びた﹁公儀﹂の検地の実

施てあった.︑家康は︑戦後処理としての知行宛行や﹇公儀﹂の検地を敏速に行うことで支配の.正当性を獲得する行

動に出たのてある︑.

参照

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○杉山座長 ありがとうございました。.

全ての人にとっての人権であるという考え方から、国連の諸機関においては、より広義な「SO GI(Sexual Orientation and