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近世石鎚修験における本末組織の考察

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Academic year: 2021

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近世石鎚修験における本末組織の考察

教科・領域教育専攻 社会系コース

大 高 康 敬

はじめに

近世期において仏教と修験道の組織がどのよ うなものであったかを先行研究からまとめた。

そして本研究の目的である地域的な修験集団が 石鎚において成立していたか、石鎚山の別当職 をめぐる争論からどのような本末組織が存在し ていたのか、という 2点を明らかにする。

第 一 章 石 鎚 別 当 前 神 寺

本章では、当時の別当寺である前神寺につい てどのような宗教施設があったのかを『注釈西 条誌』の絵図と注釈本文から分析する。『注釈西 条誌』は、矢野益治氏により『西条誌稿本』の 復刻版を使用した。もとになった『西条誌』は、

天保13年 (1842年)に伊予国西条藩主松 平頼学の命により、向藩儒学者日野暖太朗和照 の編述した伊予西条領内村々の郷土誌である。

『注釈西条誌、』より、前神寺が石鎚山別当で あり、院号を金色院と号し、宗派は、古義真言 宗、本寺を持たない無本寺ということが明らか になった。また、京都御室御所である仁和寺の 釈迦牟尼院室を兼帯しているという記述があり、

前神寺は本寺を持たない無本寺でありながら仁 和寺と関係をもっていた。また、前神寺の触頭 は、高野山学侶方であり、前神寺は高野山とも 関係を持っていたことが明らかになった。

『注釈西条誌絵図J前神寺絵図 1'"'‑'6からは、

本尊である阿弥陀如来がまつられている本堂と 玄関があり、玄関の右側は、建造物名が明記さ

指 導 教 員 大 石 雅 章

れていないが、方丈や庫裡といった僧侶が生活 する場所が記載されている。また、密教寺院と しての特徴を持つ護摩堂や真言宗寺院の特徴で ある大師堂が見られる。これは前神寺が真言宗 の寺であるということを色濃く示している。ま た、什物にも弘法大師像、弘法大師筆の心経や 六字名号があり、弘法大師にゆかりのある寺院 である特徴を示している。

前神寺絵図の中に「石鉄蔵王権現神殿」があ り「蔵王権現jという神がまつられている。蔵 王権現は、修験道においては代表的な神である。

前神寺は修験道と関わりが深い寺院といえよう。

また、境内には東照宮があり、徳川家康を記る 祈祷寺としての特徴を見る事が出来る。このよ うに前神寺は、神仏習合の寺院であることがい える。

第 二 章 石 鎚 修 験 の 信 仰 圏

本節では、石鎚修験の組織を知るうえで、

石鎚の信仰がどのようにおこなわれていたのか を史料からみるとともに先行研究をまとめた。

石鎚修験の信仰圏について「石鎚山先達所惣名 帳」に記載されている先達所から分析した。

「石鎚山先達所惣名帳jは、延宝4年 (1 6  7 6年)に前神寺が公儀へ提出したもので、あっ たことがうかがえる。本研究で取り上げた史料 は明和6年 (17 7 0年)に仁岳という僧が書 き写したものである。

この「石鎚山先達所惣名帳」には、石鎚修験

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の先達所が記載されており、先達所の分布は、

石鎚山の周辺地域に集中していたことがわかる。

また、中予と東予の一部に点在し、それ以外の 地域には先達寺院がないということがうかがえ る。これにより石鎚の信仰圏は、広くはないと いうことがわかる。

そして、「石鎚山先達所惣名帳Jに記載されて いる先達所の中に、遍路寺がみられるが、遍路 寺と石鎚修験の先達所との関係を史料から明ら かにすることできなかった。

第三章 前神寺と横峯寺の別当並びに村境争 論について

本章では、氷見村前神寺と小松領千足山村横 峰寺の問で石鎚山別当をめぐる争論ならびに千 足山村と大保木山村の常住山の村の境をめぐる 争論について『注釈西条誌』、『小松藩会所日記』、

『従大公儀御渡石鉄山図面裏書写』の3つの史 料から考察した。

この争論について、千足山村横峰寺の訴えの 内容は、元の村の境は落合川より字四手坂の尾 道から、禅定の道、石鎚山頂弥山までのおねの 道を境に、西側を千足山村としていた。ところ が明和年間に千足山村内の横峰寺と、氷見村の 前神寺が石鎚山別当職をめぐる争論がおこり、

仁和寺門跡の裁断により、石鎚山別当職は、前 神寺が掌握することになった。そのため、石鎚 山蔵王権現に関わる常住山の宮居、敷地は大保 木山村の中に組み込まれた。したがって千足山 村は不便をきたすこととなり、訴えることにな った。氷見村前神寺の訴えの内容は、村の境は、

落合川より字四手坂の尾道から、禅定の道、石 鎚山頂弥山までのおねの道を境とする。その点 では、千足山村の訴えと同じであるが、しかし 弥山の宮居と敷地は、石鎚山別当である前神寺 と大保木山村の地内であるとする。そして前神

寺は、横峰寺が往古別当職であることはみとめ ないとある。

裁断の内容は、石鎚山の別当職は、仁和寺の 裁断のとおり前神寺とし、村の境界については、

公儀が裁断し、常住山の宮居などの山上の施設 が在る地は、千足山村の地内とした。

おわりに

本章では、最後に本稿で検討した内容をまと めた。争論から石鎚山別当職の裁断をくだした 仁和寺は、修験の寺ではなく古義真言宗の寺で ある。仁和寺の裁断を認めることは、真言宗の 本末関係で石鎚別当職の問題を処理したと考え られる。したがってかならずしも「修験道法度」

に規定されている本山派・当山派によって統制 されるというわけではないことがわかる。そし て、前神寺は石鎚修験の中心的な役割を果たし た寺院であると同時に無本寺であるが、古義真 言宗の寺院でもある仁和寺と関係を持っている ことから本末関係とは異なる寺院組織として関 わりを持っていたことがいえる。

東照宮を杷ることで徳川家と縁のある神社で あったことがわかる。

石鎚周辺地域という非常に限定的な地域であ るが、近世期における本末組織を考える上で、

一般的に考えられている、「修験道法度」に規定 された当山派・本山派による統制が必ずしもな されているわけではなく、別の寺院組織によっ て統制された。

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参照

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