NII-Electronic Library Service
日
本デ
ザ
イ
ン
学会
一
50
年
の
歩
み
(
日
本デ
ザ
イ ン
学会
50
年
略 史 )
The
Progress
of50
Years (A
Sketch
ofJSSD
History
)名誉 会員 田中 正 明
第
1
章
黎 明期
の
学会
、そ の
3
年 間
● 「デ ザイ ン問 題研究会
」準備会
「デ ザイ ン学 会」が 誕 生 し た の は
、
昭和28
年 (1953
年 )である。 機 運と して こ の ころは“
デ ザイ ン”
に対す る関 心が高まってい た。
すで に商 業 デ ザ イ ナー
の団体、
日宣美
〈日本
宣伝美術
会〉 (昭 和26
年)、
工業デ
ザイ ナー
の団体、
亅IDA (日本インダス ト リア ルデ
ザイ ナー
協
会〉 (昭 和27
年) が結成さ れて いた。
そ し て新 制 大 学 (東 京 芸 大、
東 京 教 育 大、
千葉 大、
女 子 美 大 など)の第1
回の卒 業 生が出 た 年 なの であ る。
「工芸ニ ュー
ス 」昭 和28
年、
4
月号の“
編 集後 記”
は、
「デ
ザイ ンの 教 育を行っている新
制 度に よ る大 学 が、
今 年はじめて卒 業 生を送りだ した。
その卒 業 制 作 展 をみて感じ られる ことは まず
作 品 ばか りでな く、 その会
場デ
ィ ス プレイに も今ま で に ま し て神 経をつ かっ ていること、
美 術工芸を行っ ていた ところ に も、
もっ と大 衆のた めのデ ザインへ の傾 向が伺 わ れて き てい るこ と、
そ うい うこ と か ら今 年の 卒 業 生に は社 会の中のデ ザイ ン という意識
が よ り強く感
じ られて、
私 達にも う れ し く、
また彼 等 自 身に とっ て も幸の こ とである と思 わ れる。デ
ザ イン の仕 事は あ ら ゆる所 にこ ろ がっ てい る1
彼 等のや る仕 事は山 積し てい る。
実 際に そ れを行 う彼 等 デ ザ イ ナー
の巣 立 ちは私 達に は気強
い存 在で あ る。
」 と書いた もの であ る。
さて こ の年 (昭和
28
年 )の春ご ろ と推定
さ れ るの だ が、
千葉 大学工業 意 匠 学 科 教 授小池 新r .
と、
同じ 学 科の助 教 授 塚田敢と が、
デ ザイ ンの理論 的な 団体 結 成につ い て 何ら かの話合いが あっ たの で あ ろ う。
小池 新二 の 橋渡 し によっ て塚田敢は、
評 論 家 勝 見勝 と会っ て、
デ ザイン につ い て の研 究 会をつ く ろ う と い う 話 を し たの である。
こ の と き、
前田泰 次 (東京 芸 大 )、
河 合正.
・
(横 浜国大 )、
福井晃一
(千 葉 大 ) の名 前が出て、
結局、
小 池、
勝 見、
前田、
河 合、
塚 田、
福 井の6
名が有 志と し て名
をつ らね た。
後に塚 田敢 は 述べ て いる。「た ま た ま 小池 新二氏
の肝人 りで、
勝 見勝と筆 者 が相 会し、 こ のよ うな 研 究 会 組 織の具 体 化を は か り、
前田泰 次 氏、
河 合正一
氏、
福 井 晃一
氏ら と と も に準 備 委 員と なっ て……
」 (「デ ザイ ン学
研 究」第1
号、
昭 和31
年11
月 「デ ザイ ン学 会の歩 み」) と。
勝 見 勝のデ ザイ ン学 会設立に 関する記述の う ち、
最もそれ に近いもの は、
前 年の 「工芸ニ ュー
ス 」昭和27
年11
号に書
か れ たデ ザ イン界の組 織につ い て の 記 事である。
それは学 界、
職 能団体、
ジャー
ナ リズ ム、
産 業 界の4
者によっ て 「デ ザイ ン宣 言] を出し、
さ ら に 「産 業デ
ザ イン協 議 会」 の設立へ もっ て いき たい と している。後
に出 原 栄一
は次の よ う に述べ て い る。 「デ ザ イン運 動 全般をプロ モー
トする 『デ ザイ ン問 題 懇 話 会』 に送りこむ学 会の代 表 機 関と して、 その設立を急が れ たので は な か ろ う か。
初 期のデ
ザ イ ン学 会のサ ロ ン的 雰囲気を知っ ている 人 に はす ぐ 思い当 たる ことが あろうか。 デザイ ン学 会が設 立 さ れ た直 接の 動 機は、
多 分こ の よ う なデザイン機 関 や 大 学の関係 者が集まっ て、
将来
の方
針 や 国会
や 政 府 に建 議 する事 項を語りあう懇 話 会の よ う な もの であ っ た。
」 (「デ ザイ ン学 研 究」) 第51
号、
昭 和61
年、
(「勝 見勝 先 生の業 績」)。
と もかくこ の後、
塚田に とっ ては千 葉 大の 上司 で あ り、
勝 見に とっ て は東 大の先 輩に当 たる小 池 新二 を柱と し て、
勝見のア イデア と 主 導、
塚田 と福 井の 事 務 局 的 役 割、
他2
名の協 力に よ り、
こ の6
名の有 志 が核となっ て事が運 ばれ てい くこと に な る。
ち な み にこ の年、
小池 新二 は52
才、
勝 見勝は44
才、
塚 田 敢は38
才である。こ の
6
名が 「デ ザイン問 題研 究 会」 をつ くるため の有 志として、
さ ら に 何 人 か に呼びか け た。
それが 何人 で 誰 で あっ たのか は不 明であるが、11
人の有 志6 SPECIAL 1SSUF
.
OF JSSD Vo].
11Ne.
32004 デ ザ イン学研究 特 集 号NII-Electronic Library Service の 会 合が 「デ ザ イン問 題研 究 会」準 備 会とい う名で 開催さ れた
。
昭和28
年6
月29
日 (月)。
学士会館
(東大赤
門 前)、
時 刻不明。
出席 者11
名。
小池 新二、
塚田 敢、
福 井 晃一、
山口 正城、
山 崎 幸 雄 (以上千 葉 大 )。
勝 見 勝 (評 論 家 )。
小池 岩 太 郎、
前 田泰 次 (以上東京
芸 大)。
河 合正一
(横
浜 国大
)。
岡田譲
(東京
国立博
物 館 )。
豊口克 平 (産 業工芸試 験 所 )。
これ が デ ザ イン学 会 史上、
公 式 記 録の最 初に あ る 会 合なので あ る。
こ の席上 で、
はっ き り 「’
デ
ザイ ン 問題研究
会」 を設 立 する意 志が確認 さ れ、
その準 備 委 員 と して、
勝 見、
前田、
河 合、
塚田、 福 井の5
名 が選ば れた。 ● 「デ ザイ ン問 題 研 究 会」設 立 会デ
ザ イン問 題 研 究会
“準
備会
”
か ら、次
は “設 立 会”
へ とステッ プが踏ま れ ていく。
昭和28 年
7
月20
日にその会 は 開催される。
朝日新 聞 は、 7
月13
日 (月 ) 学 芸 欄の 「文 化 短 信」で次の よ う に報じた。 「デ
ザ イン問題 研究
会 設 立一
最 近 関心 の高
まっ て き て いるデザイ ンの理論 的研 究を推 しす すめ る た め、
こ の方 面の学 術 研 究 者の中 から学 会 設 立の声 が 出て い た が、デ
ザ インについ ての学 術 研 究のセンター
と し て 『デザイ ン 問題 研 究 会』を設け ること に な り、
設 立 会 を20
日午 後5
時 半 から学士会 館 (東 大 赤 門 前) で開く。
な お、
準 備 委 員に はデ
ザ イン評 論 家勝 見勝、
前
田泰次、
河合
正一、
塚田敢、福
井晃
一
の諸氏
が あ たり、
仮 事 務 所は千 葉 大工学 部 意 匠学 科 内 (松 戸 市 岩 瀬 )に なっ て い る。
」 こ の記 事は、
「デ
ザ イン学会
」 に関 する新聞報
道と し て は最初
の もの で あ り、貴
重 な記 録である。
す なわ ち 昭和28
年7
月20
日 (月) 午 後5
時 半、
会 場、
学士会館 (東 大 赤 門 前)、45
名に対 し て呼
びか け られ た。
実 際の参加者 数は28
人 で あ る。
● 「デ ザ イン学会」 の名 称の誕 生参 加 者は
、45
名 中の28
人 で あっ た。
欠席者
が17
人 である。
出席 率は約62
% である。 出席 者の氏 名 は 不 明。 こ の 日の最も 重要な出来 事は、
会の“
名称”
に つ いて であった。 こ の 日まで 「デ ザ インの 理 論 的 研 究」 と か、
「デ
ザインにつ い て の学 術研究セ ン ター
」 と い う言葉づか いは な されて き た が、
「デザイ ン学 会」 と い う表 現はつか わ れ ていな かっ た。
会の名 称につ いて は、
準 備 委 員 側があら かじ め候 補の名 前を用 意 しておいたの ではないか と思わ れ る。
討 議の末、結
局 投 票に よって決め られ る こ と に なっ た。
1
.
「デ
ザイ ン学
会」2 .
「デ ザイ ン問題 研 究 会」3 .
「意 匠学研 究 会」4
.
「意 匠学会
」5
.
「デ ザイ ン 理論研究 会」6 .
「デ ザイ ン研 究会」7 .
「デザ イン学 研究 会」13
票9
票2
票2
票1
票0
票0
票 出 席者は28
人で あっ た が、
事 務を担当 し ていた福井晃
一
は投 票に 加 わ ら な かっ たの で、合
計27
票であ った。
比 較多
数をとったこ と に よ り、
「デ ザイン学 会」 の名
称が決まっ た。
こ こに 「デ
ザ イン学会
」 が誕生 し たのだが、
実 際に は 「デ ザイン学
会を 設立し よ う」 ということが決 まっ たにす ぎ なかっ た。
●
は じ め て の例会
“
デ ザイ ン学 会”
と名 称が決まっ た後、
昭和28
年8
月15
日 (土)、 「デ ザ イン学 会」 のはじ めて の 「例 会」 が開か れ ること に なっ た。
会の組 織は7
月20
日に決 まっ た準 備 委員
(8
名) だけ で、
会則 などの決 定は、
翌年 (昭29
)3
月の総 会にもちこされ、
それ まで の 間は何 回か 「例 会」 が開か れ るこ と に な る。
そのは じ めて の例 会につ い て、
「工 芸ニ ュー
ス 」昭28 、 9
月 号は次の よ うに報じた。
「
デ
ザ イン用 語の整 理一デ
ザ イン学会、
先 月 号に紹 介し たデ ザイン学
会は、
その後、
8
月15
日 に丸 善に おい て初 めの例 会 を行い、60
余 名の出 席 を得て盛 大 に行わ れ、
当 日の議 題で あ る1
,
パ リ・デ
ザ イン会
議へ の連
絡 (当学 会よ り メッセー
ジ を送ること に決 定 )、 2 .
文 献所 在 目録の作 成、
3 .
デ ザ イン用 語 委 員 会の設 置 等につき検
討を行っ た。
その 際、
誕 生 を み た“
デ ザイ ン 用 語委員会”
は去る9
月7
日、
第1
回の集ま り を も ち、
まず、
“
Design
”
という言葉を定 義づ け るべ く、
各 種 文 献に よるデザインの 定 義を調 査 す る と 同時に、
委 員の問で活 発な意 見の交 換を 行 っ た。
デ ザイン用 語委 員の メンバー
は11
名か ら な る。
な おデザイン学会の幹事 と し て大 智 浩 (教 育 大 )がデ ザイ ン学 研 究 特 集 号 SPECiAL tSSUE OF JSSD Vo1
.
11No.
32004 7NII-Electronic Library Service 加 わっ た
。
」 ● 例 会 とい う名の研 究 会 昭 和28
年の8
月15
日に、
丸 善で第1
回の例 会 が 開 かれて、
実質
的に 「デ ザイ ン学 会」 の活 動が開 始さ れた。 その後、
こ の年に9
月、10
月、11
月、12
月 と 第2
回か ら第5
回まで、 きちんと 「例 会」が 開 か れ た こと は特筆
すべ き で あ ろ う。
例会
という名では あ っ た が、
そ れ は ま さ にデ
ザイ ン問題 につ いての研 究 会で、
ゲス トを招いて話を き き、
質 問を し、
理解を 深めよ うとするもの であっ た。 こ の ことは、
そのま ま 当時のデ
ザイン界の話 題を反 映し た ものであっ た。
● 第2
回例 会 ゲス ト:剣 持 勇こ の年の
9
月、
早 大工学 部にて、会
員剣 持 勇に よ る、
「アス ペ ンの 国際 デ ザイン協 議 会に出席し て」 の 講 演と ス ラ イ ド上映 が 行 わ れ た。
当 時 剣 持は、
通 商 産 業 省 産 業工芸 試 験 所の意 匠 部 長で41
才であった。
は じ め て ア メ リ カの アス ペンのデ
ザ イン会
議に参
加 して来たこと が、
ニ ュー
スであっ た か らである。
●第
3
回例会
ゲス ト:吉
阪隆
正 同じ年の10
月、
芸 大 美術 学 部に て、
会 員吉 阪 隆正 による、
「コル ビ ジュ エ の モデュ ロー
ルにつ い て 」 の 講 演とスライド上映が行わ れた。
当時 吉 阪は、
早 稲 田大 学建築
学 科の助教
授で、
フラ ンスの高名
な建
築 家ル・
コ ルビジュ エ の著 者 「モデュ ロー
ル 」 を翻訳 し、美術
出版社
か ら出 版し、
大い に話 題と なっ たこ とによる。
● 第4
回例 会 ゲス ト :小杉二 郎 同じ年の11
月、
丸 善に て、
会 員小杉二郎に よ る、
「イ ンダス ト リ ア ル・
デザ インにつ いて 」 の講 演が行 わ れ た。
当時 小 杉は、
フリー
の 工業 デ ザイ ナー
と し て活 躍してお り、
毎日新聞社の 「工業 デ ザイン振興 運 動」 の第2
回でミシ ンの デ ザ イン で最 高賞 を獲 得 し たばか りの と きで あった。
●第5
回例 会 ゲス ト:今 泉 篤男同じ年の
12
月、
国立 近 代 美術 館に て、
「抽 象と幻 想」8 SPEC[AL [SSUEOFJSSD Vo1
,
1]No.
32004 デ ザ イン学 研 究 特 集号展を見 学したあ と
、
今 泉 を 囲 んで話を聞 くという も ので あっ た。
こ の年の前 年 (昭27
)に 日本で初めて 国立の近 代 美術館
が 出来
た こ と で話 題と なっ ていた の で、
同 館の次 長をして いた今 泉に話を きこう と な っ たので あ る。
こ のよ う に
毎
月の例 会を精
力 的に運 営 し て き た 「世 話 役」 も、
正式 な 会 則に よ る 運営をすべ く、次
の 年に 「総 会」 を開いたの であっ た。 ● 初の 「総 会」が 開か れ る 昭和29
年の3
月、
丸 善に て総 会が開かれて、
会 則 を決 定したり、
役 員の選 挙を行っ た。「会 則」は学
会
の 基 本ルー
ル で あ り、
は じ め て、
第1
章 第1
条と し て、
「本 会はデ ザイ ン学
会と称 する」 と宣せら れ た。
つ い で、
「構 成お よび 目的」、
「役員」、
「総 会お よび事 業」、
「会 員」、
「経費
」、
「本部
お よび支
部」、
「顧 問 お よ び 客 員」 が決 まり、
付 則 と して会 費 は 正会 員600
円な どが 決め られた。
そ して併せ て設 立 の 「趣 旨」が宣 言さ れ た。
会 則を決め たこと に よ り、
正式に役 員を選 出 する こと に なっ た。 これ は投 票に よっ たの では な く、 あ らか じ め 「世 話 役」 の方が 人事 案 件をつく り、
総会
に計っ て決め た もの だっ た。
これ に よ りデ ザイ ン学
会の新 内 閣が決 まっ た よ うな もの で学 会 と して の体 裁を と とのえた。 役 員一
覧 を記録して おこう 。委
員 長 常 任 委 員 同 同 同 同 同 同 同 委 員 同 同 同 同 同 小池 新二 河合 正.
一
・
勝 見 勝 高 橋 正 人 塚田 敢 浜口 隆一
福井
晃一
前出 泰 次 渡辺 力 新 規 矩 男 新 井泉
大 智 浩 久 保 喜 男 小池岩 太郎 田口柳 三郎 千 葉 大 学工学部 横浜 国立 大学
工学部
デ
ザイン評 論家 東 京 教育 大学
芸術学
科 千 葉 大学工学 部 国立近代 美 術 館 千葉
大学工学 部 東 京 芸 術 大 学 美 術学部 渡 辺 デザイン事 務 所 東 京 芸 術 大 学 美 術学部
女 子美 術 大 学 芸術 学部 東 京 教 育 大学 大 妻女 子 大学 東京芸術大学 美 術 学 部 日本 色 映研 究 所 N工 工一
Eleotronio LibraryNII-Electronic Library Service 同 同 同 同 同 監 査 委 員 同 幹 事 同 豊口 克平 原 弘 細野 尚志 水 谷 武 彦 山口
正
城
安 東 勝 男 服 部 茂 夫 金子 至森 崇
産 業工芸 試験 所 武 蔵 野美 術 学 校 日本 色彩 研 究 所 東 京 都 立大 学 千葉
大学工学 部 早稲田大学
理 工学
部 産 業工芸試 験 所KAK デ
ザイン・
グルー
プ 千葉
大 学工学 部以上 総 員
24
名が、
デ ザイ ン学
会の いわば初代内
閣 の陣客で あった。 委 員 長1
名、
常 任 委 員8
名、
委 員11名、
監査委 員2
名、
幹 事2
名で あ る。●
初 代 委 員 長 :小 池 新二小池
新
二 がデ
ザイン学会
の初
代委
員長に決まっ た の は、
昭和29 年
の3
月 であっ た。
小池新
.
二は、
1901
年 (明治34
) 東 京で生 まれ、
東 大 美 学 美 術 史 学 科を 卒業
し ている。
評 論活 動 をした後、
1951
年 (昭26
) 千葉 大学
工学部教
授と なっ て い る。
千 葉 大 学を定 年 退職した後、
九州 芸 術工科 大 学 学 長と なっ た。1981
年 (昭56
)5
月に79
才で死 去。 委 員 長の役は、1956
年 (昭31
)の6
月、
改 選が あっ て2
年 間1
期で交 替 した。
● 第6
回例 会 ゲス ト:河 合 正一
昭 和29
年6
月、
東 京 教 育 大 学 芸 術 学 科に おいて、 「近 代 建 築の理解のた めに」 とい う 河合
正一
に よ る講 演が開か れ た。
河 合正一
は、
こ の後、
横 浜国立 大学
建築 学 科に勤 務し、後
に教
授と なっ てい る。
● グロピウスの来日 昭 和29
年の夏は、
グロピウス の来 日のニ ュー
ス で、
デ
ザ イン界は も ち き りだっ た。
東 京 国立近 代 美 術 館 での 「グロ ピウ ス とバウハ ウ ス展」 が6
月 か ら7
月 にかけて開催 され た。
デ ザイ ン学 会でも●第
7
回 例会
を学士会館
で開き、
そ れ は 「グロ ピ ウ ス教 授 との 『デ ザ イン懇 談 会』 の報 告」 と して、
前 月 にグロ ピ ウスと懇談 を し た、
勝 見、
山 冂、
塚 田 な どが その様 子を会 員に報 告したものだっ た。
グロ ピ ウスにつ い ては
、
朝日新聞 は次の よ うな記 事 を 載せた。
「同 氏 は71
才。
現 在 は 建 築 家 協 力 団 (TAC
) な どの中心 と し て ア メ リカ で建 築 界の指 導 的 地 位に立っ て いる が、 3
か 月の 日本 滞 在 中は建 築 家 た ちとの会 合 ば か りで な く、
美 術 教 育 者、
工芸 家、
デ
ザ イナー
た ち との数 次の会
合に も出席」。
● 第8
回例 会 ゲス ト:田 口洳三郎 昭 和29
年9
月、 丸 善にて、 会 員田口柳三郎の 「カ ラーダ
イア ルの適 用につ いて」 の講 演 が あっ た。 田 口柳三郎
は、
音と色
につい ての高
名な研 究 者で あ り、
学 士 院 賞、
発明協 会エ ジ ソ ン賞
などを受賞
し、
田口 心 理 物 理 学 研 究 所を主 宰 して いた。
当時 色 彩につ い て関 心がた かまって いたことによ り、
例 会で の講 演 を依頼
し たの であ る。
● 第1
回研 究発 表 大 会が開 催 される昭和
29
年11
月 に、東
京 教 育 大 学におい て、
第1
回 の大 会が開催さ れ た。
第1
回の研究
発表者
は、次
の6
名であっ た。
藤 井 千枝 (横 浜 国 立 大 学 )、
広田長
治 郎 (興 林社
設 計 部 )、
細 野 尚 志 (日本 色 彩 研 究 所 )、
豊口克 平 (産業
工 芸試
験所
)、
山口正城 (千 葉 大 学 )、
阿妻 知幸 (東京 教 育 大 学)。
そ れぞれ の発表
の内 容は その後のデ ザ イン学 会の研 究 発 表の原 型をつ くった と も い え、
その影 響は大 きな ものが あっ た。 ● 第9
回例 会 ゲス ト:本田宗一
郎 昭 和30
年2
月、 丸 善におい て、
本田技 研の本田宗一
郎
を招
いて話を きいた。
世 界の ホンダの社 長 、 本 田宗一
郎はオー
トバ イ・
メー
カー
というだけでな く、
デ
ザ インにつ い て も.一
家 言をもっ て いた。
こ の講 演の あと、
ホンダは大発
展を とげ、
トヨタ、
ニ ッサ ンと並 ぶ会 社となっ たことは周 知の通 りである。
●第
10
回例会
ゲス ト:何
初 彦 昭和30
年6
月、
丸 善におい て、
会 員 何 初 彦に よ る 「マ スコ ミ につ いて」 と 題 す る 講 演 が あった。
こ の こ ろ 「マ ス・
コ ミュ ニケー
シ ョ ン 」 という言 葉が新し い響き を もって いた。 何は、
当時 東 京 大 学 新 聞 研 究 所 助 教 授であった。
デ ザ イン学 研 究 特 集 号 SPECIALISSUEOFJSSDVeLllNo.
32004 9 N工 工一
Eleotronio LibraryNII-Electronic Library Service ● 第
2
回研 究 発 表 大 会昭
和
30
年12
月、東京
芸術 大学美術
学部
に おいて、
第2
回の研 究 発 表 大 会が開かれた。
第1
部の研 究 発 表と第2
部の シ ンポジウムを行っ た。
研 究 発 表 は7
名で、
次の通り で あっ た。
市 川 津 義 男 (文 化 服 装 学 院)、
田 中芳
郎 (東京
芸術
大 学 )、
佐 藤 敬之輔
(武
蔵 野美術学校
)、
知久篤
(]:芸 試 験 所 )、藤
井千枝 (横
浜国立 大 学 )、
塚 田敢 (千 葉 大 学 )、
田口柳三郎 (田 口心 理 物 理 学 研 究 所 )。 第2
部の シ ンポジウム は、
「デ ザ インに お け る装 飾につ いて」で、
討 論 者は、
大 智 浩 (東京教
育大
学 )、久保
喜 勇 (大 妻 女子大 学 )、
須 藤 雅 路 (東 京 芸 術 大 学 )、
豊口克平 (産 業工芸 試 験 所 )、
中田満 雄 (文 化 女 子短 期 大 学 )、 森田茂 介 (法 政 大 学)、
山 崎幸 雄 (千 葉 大 学 )で、
司会
は 小池新
二 (千葉 大 学・
委 員長)で あった。
第2
回大会が終わっ て ほっ と した昭30
年であった が、
あ くる年の30
年度 中の2
月 に例 会を行った。
● 第11
回例 会 ゲス ト:清 家 清昭 和
31
年2
月、
東 京 芸術 大学に おいて、会
員 清家
清に よ る 「アス ペ ン会
議 報告
」 と 題する講演
が あっ た。
清家清
は、
日本
代 表と し て出席し た ア メ リカの コ ロラ ド州ア スペンに て行われ た 第5
回国 際 デザ イ ン会 議の報 告 を行っ たもので あ る。
当時 清家
は、
東 京工業 大 学助 教授で あっ た。
こ の例会を もっ て、
こ の年 度のすべ て の行 事 が 終 わり、
昭和28
年 以 降、29 、30
年と3
か年に わ たったデ
ザ イン学会
の 基 礎がや や 固ま り、揺
ら ん期
を脱
す ること が 出来たの である。
同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 勝 見 勝 く常 任 委 員〉 何初
彦東 大
〈
新
任 〉 久保 喜勇 大 妻 女 大 〈委 員 〉 小池 岩太 郎 芸 大 〈委 員 〉 小池 新二 千 葉 大 〈委 員長 〉 須 藤雅
路
芸大
(新
任 〉 清家 清 東工大 (新 任 〉 高橋 正人 教 育 大 く常 任 委 員 〉 田凵柳三郎 田口研 〈委 員 〉 塚田敢
千葉 大〈常 任
委
員〉 豊口 克 平 産工試 く委 員 〉 浜口 隆一
東 大 〈常 任 委 員〉 福 井晃
一
千
葉
大〈
常
任委
員〉皆
川正
〈新 任〉 前回の役 員 総 数は委員 長を含めて
24
名の委 員 会で あっ た が、今
回 は16 名
の実行
型の 委 員会と なっ た。
新 任を5
名と し た か ら、
留 任 者は11
名 だ けとな り、
いわ ば 運 営 本 位の内 閣と なっ たといえ よ う。 また 初 代 委 員 長が2
か月で、
第2
代の委
員 長にポス トを ゆ ずっ た こ と も特筆
すべ きことだっ た といえ よ う。
● 第2
代 委 員 長 ;山口正 城第
2
代の委 員 長に選 出さ れ た 山口正 城 は、
初 代委
員 長小池
新二 と同じ 千葉 大学
工学 部工業 意 匠 学 科の 教 授であっ た。1903
年 (明 治36
)、
北 海 道 旭 川 市に 生ま れた。 東 京 高 等工芸 学 校 図 案 科 (現、
千 葉 大 ) 卒業
し たの ち、
大 阪市
立工 芸学校
図案
科 (現、
市 立 工芸 高 校 )に勤 務した。
のちに千 葉 大 学工学 部の助 教 授と な り、
つ い で教 授と なっ た。1959
年 (昭34
)、
56
才で死去。 自
由美術家協
会の会 員でも あった。
第
2
章
2
代
目
委員
長
の
時 代
委員 長
:山
ロ正
城
● 初め て の役 員 改 選昭 和
31
年度は、
役 員改選の時期で あっ た。
こ の年、
昭 和31
年6
月 に初めて改 選が行わ れ、
役 員が大 幅に 変更され た。
役 員 を一
覧 して み よ う。
委員 長
山冂
正 城
千葉 大学
〈委 員 〉
委 員 阿 部 公正 横浜国大
〈新任 〉 ● 第
12
回例 会 ゲス ト:小 池 岩 太 郎、
安 仁 屋正義 昭 和31
年9
月 に、
東 京芸大に おいて、
「沖 縄のデザ イン界」 と して、
東京 芸 大の小池 岩 太 郎と琉 球 大の 安 仁屋 正義の講 演 が あっ た。
当時 沖縄は、
“
外 国”
で、
本土復 帰の前であっ た。 小池と安 仁屋 は 両 人 と も、
東 京 美 術 学 校 (現、
東京 芸 大 )の卒 業生 で、
かつ師 弟 の関係に あっ た。
こ の こ ろ沖縄 だ け爪 米軍の統 治下 に あっ て、
反米 斗 爭がさか んで話 題 となっていた。1D SPECIAL ]9SUF
.
OF JSSD Vol.
t]No.
32004 デ ザ イン学 研 究 特 集 号NII-Electronic Library Service ● 第
3
回研 究 発 表 大 会 第1
回、
第2
回 と大会の運 営 経 験をつ ん で、
こ こ に第3
回の大 会が た ん た ん と行わ れ た。
昭和31
年11
月 に、
東 京 大 学 法 文 経37
番 教室 で第3
回大 会 が 行わ れた。 第1
部の研 究 発 表は8
名
で、
発 表の形 式も すべ て第
1
回と同じ に行
わ れ た。
新 しい 発表者
が5
名と な り、
次 第に新 人が登 場 する ところ となっ た。 第2
部 は、 特 別講 演で、
「欧 米の色 彩」 と して、
田口柳三郎が行った。
●第
4
回研究発表
大会
昭和32
年12
月に、
東 京大 学 法文 経37
番 教室 に おい て、 第4
回の大会が行わ れ た。第
1
部
の研究 発 表は5
名に よって行
わ れ、
第2
部のシ ンポ ジ ウムは、 「日本
のデ ザイ ン・
ポ リシイにつ い て1
と題 する もので、
6
名の パ ネ リス トに よって行わ れ、
司会
は勝 見 勝が行
っ た。 こ の大 会を もっ て、
昭 和32
年 度の行事
が終
了 した。
● 「デ
ザ イン学研 究」の創 刊こ の年
、
昭 和31年
の デザイン学
会に とっ ての ニ ュー
スは、
「デ ザイ ン学 研 究」 という名の学 会誌 が 発 行 さ れたことだっ た。
それ までデザ
イン学 会は、
「論 文集
」は も ち ろ ん 「会
報」さ え も な かっ た。
「大会
梗概
集
」 と 「会則」ぐらいが、学
会の印
刷 物 だっ たので ある。
「デ ザイ ン学 研 究、VoLI
No .
ll
の表 紙が印 象 的で あっ た。 内 容は、 論 文というもの でな く、
「発 刊 に際し て」 山口正城、
と か 「デ
ザ イン学会
の歩
み」 塚田敢といっ た記 述と、
随 想のよ うなものであっ た。
しかし ともかく、
「編 集 委 員 会」というものも出 来て、
一
層デ
ザイン学 会は、
学 会ら し く な っ たので あっ た。
● 第13
回例 会 ゲス ト:河合正一
昭 和32
年の3
月、
東 京 教 育 大学に おい て、
「ドイッ のデ ザイン.
亅 と し て、
河合正一
に よ る講演が行わ れ た。
河 合は西 ドイツ のウル ム造 形 大 学に留 学し、
帰 国したところ で あっ た。こ の例
会
を もっ て、
2
代 目委
員会
の山口正城
の1
年 目は無事終
り、
次 ぎに2 年
目 を迎え た ものであった。
● 第14
回 例 会 ゲス ト:中田満 雄、
清 水 千 之 助昭 和
32
年11
月に、
文 化 女 子 短期大
学に お いて、
「ヨー
ロ ッパ を 廻っ て」会 員 中田満 雄、
「ウ ル ムの造 形大 学よ り帰っ て 」会 員 清水 千 之 助の講 演 があっ た。 中 田は、
文 化女 子短 大の教 授であり、
清 水は服 部 時 計 店 精工舎に勤 務して いた。 後に東 京 造 形 大 学 教 授 となっ た。
両 人 か ら ヨ
ー
ロッパのデ ザイン事 情を きこ うとす る ものであっ た。
第
3
章 勝
見
勝委
員長
の時代
が
始
ま る
● 昭 和33 ・34
年 度の役 員の選 出 昭 和33
年 度に入って、
3
回 目の役 員 選 出を行っ た。
こ こで、第
3
代
の委
員長
に勝見勝
が 当選し た こ と は特筆
すべ き こと であっ た。
こ の年
に勝 見が委 員長
に 就 任 して以来、
委 員 長、
理 事 長、
会 長 と呼 称 は 変 わ っ た が、24
年 間に わたっ て トッ プの座にあっ たので あ る。
● 昭 和33 ・34
年 度の役 員 今 回の役 員数は総20
名で、
前 回の 委 員か ら5
名が 退任
し、 5 名
の新任
の委
員が選
出 さ れ た。新任
と し ては、
剣 持 勇、
小山 清 男、
松 原 郁二、
森田茂 介、
山 崎 幸 雄であっ た。
● 第3
代 委 員 長 ;勝 見 勝 第3
代の委 員長に就 任し た勝 見は、
1909
年 (明 治42
)東京
に生ま れ、
1932
年
(昭7
)に東 大 美学
美 術 史 学 科を卒 業、
大 学 院を修 了 した後、
横 浜 専 門 学 校 (現、
神 奈 川大 学) 教授に就 任した。
その後、
美 術・
デ
ザ イン評 論 家と し て活 動、
産業
工芸 試 験 所 「工 芸 ニ ュー
ス 」編
集 顧問 な どを経て、
デ ザイ ン関 係の団 体の顧 問 などをして いたときに委 員 長と なっ た。 こ の年49
才で あっ た。
●第 3
回 の シ ンポジウム勝見 勝は委員長と なっ た最 初の仕 事と して
、
例 会 に シ ンポジウム を相つ いで 行っ た。 9
月 「行 政 デ ザ イ ン」、10
月 「工業 デザイン 」、
11
月 「服 飾デ
ザイ ン」デ ザ イン学 研 究 特集号 SPECIALISSUEOFJSSD Vel
.
HND,
32eO4 11NII-Electronic Library Service の
3
シ リー
ズで あっ た。
そ れぞれ 自ら司 会 をして、
参 加して いる。
● 第5
回研 究 発 表 大 会昭 和
33
年は シンポジウム で明 け暮れた が、 年 を越 した 昭和34 年 1
月に、
法政大
学 本館
で、
第5
回 大 会 を行っ た。
第 1
部の研 究 発 表は、
8
名によるもの で、
こ の う ち 出原栄
一、
郡 山正、向井
正 也 など5 名
が初登場で あっ た。
第2
部の シ ンポジ ウ ム は、
「欧米 諸国の デ ザ イン教 育」 と して、 4
名の外 国 留 学の経 験 者 がパネ リス トと な り、
司会は アー
ト・
センター ・
スクー
ル帰
りの服部
茂夫で あっ た。
● 事 務 局の移 転 昭 和28
年 度 から昭 和32
年 度まで の5
年 間、
千葉 大 学を事務
局と し て 運営し て き た が、
昭和33
年 度に な って、
東京 芸 術 大 学に事務 局が移った。
● 第 15 回例 会ゲ
ス ト;小 池 岩 太 郎、
高田正二郎昭 和
34
年10
月に、
ク レパ ス・
ビル に おい て、
「ス トッ ク ホ ルム国際 会 議 報 告」会 員小池 岩 太 郎、
「デザ インか ら見たア メ リ カの風 物」会
員 高田正二 郎の講 演が あっ た。
第1
回のICSID
(工業 デザイ ナー
団体の 国 際 連 盟 )の総 会に、
日本 代 表と して出 席した小池 の報 告と、
文 部 省 在 外 研 究 員と し て、
ア メ リ カへ 留学
した高田のデザイ ン談議
で あった。
● 第6
回 研 究 発 表 大 会 (京 都 大 会 )昭 和
34
年11
月に第6
回 大会
が開か れ たのは、
京 都 大 学に おい て であっ た。
大 会が東 京 以外の土 地 で開 か れたのは、 今回が はじめて で あっ た。 第1
部の研 究発表は8
名に よ る もの で、
高 山 正 喜 久、
田中正明 な ど、 4
名の新人 が 登場し た。
第2
部の シ ンポジウ ムは、
「クラ フ ト・デ
ザ イン の現 代 的 意 義」 と し て、
京都の河 本 敦夫、
八木・
夫と東 京側の2
名が パ ネ リス トとなり、
司会は京 都の 文化 財保 護 委 員の竜村 謙であ っ た。
12 SPECIAL ISSUE OF JSSD Vnl
.
1tNo.
32004 デ ザイ ン学 研 究 特 集 号● 昭 和
35 ・36
年 度の役 員昭 和
35 ・36
年 度の役 員 改 選が行わ れ、
勝 見委
員 長 の再 選と、
8
名の委 員が退 任し、 小山 清 男、
高 山正 喜 久など8
名
が新
し く委 員と なっ た。 それ と、
前 年 の京 都 大 会の影 響か ら、
京 都 支部
を 設置 すること に な り、
関 西 支 部 委 員と して、
重 成 基、
向井正也ほ か5
名が就任し た。
● 第16
回例 会ク レパ ス
・
ビ ル に おい て、
「世 界デ
ザ イン会 議の経 過 と、
その 成 果につ い て」 と し て、
勝 見 勝、
何 初彦
な ど4
名の報 告 者に よる もの であっ た。
こ の年1960
年 (昭35
)のデ
ザ イン界の最 大のニ ュー
スは、
東 京 で開か れ た 「世界デ
ザイ ン会
議 (WoDeCo
)」で あっ た。
それ だけ にこ の会 議の報 告に は関心 を も た れ た もの であっ た。 ● 「デ ザイ ン学研究」第
2
号 が発行
さ れ る第
1
号が昭和31
年に発 行 されてか ら、 4 年
たった1960
年 (昭35
)10
月に第2
号の 「デザイン学 研 究ll
が発 刊さ れ た。
委 員長の 勝 見 勝は 「デ
ザ イン学へ の 期 待」 と し て冠 頭文を掲 げ、
「デ ザイン学
の 学 問 的体 系」 の確立につ い て期 待を寄せ た。
● 第7
回研 究 発 表 大 会 昭和35
年11
月には、
東 京・
国 立 博 物 館 講 堂におい て、
第7
回の大 会が開か れた。 第1
部の研 究 発 表 は、
8
名
に よっ て行
わ れ た。第
7
回と も な る と、
5
回 目 の発 表をした 塚 田敢 な ど、 2
回 以 上の発表者
が5
名
と な り、
また新 登 場 者も熊 谷 直 勝 な ど3
名であっ た。
第2
部は講演で 「桂 離 宮の意 匠 計 画」柳 亮であっ た、
ス ラ イ ドを上 映し な が らの独
特の美 学を展 開し た も の で あっ た。
● 事 務 局が東 京 教 育 大 学へこ の年
1961
(昭36
) 年度
は、
東 京芸術 大学 から東 京 教 育大 学へ 移っ た。
東 京 教 育 大 学は現 筑 波 大 学で、
当 時、
東京 都 文 京 区大塚 窪 町にあっ た。
N工 工一
Eleotronio LibraryNII-Electronic Library Service ● 第
8
回 研 究発 表 大 会昭和
36
年の第8
回大 会は、
事 務 局を担 当した 東 京教育
大学
におい て、 11
月に行わ れ た。
第1
部
の研究
発 表は8
名で、
初 登 場は 小 山清
男、
細田育 宏 な ど3
名で あっ た。
第2
部
は、
は じ め に 「帰 朝 報 告」 と し て、
小池 岩 太 郎が、
「カ ウフ マ ン国 際デ
ザ イン賞
」 の 審 査 員と して、 スイスに出 席し た来
たこと に よ るも ので あ る。
な お この年
の第2
回カ ウフ マ ン国 際デザ
イ ン賞は、
ウォルター ・
グロピウスに決 定し た。
つ い で
、
シ ンポジウム に うつ り、
「デ
ザイ ン学の体 系」 と し て、
パ ネ リス ト4 名、
司会は勝 見 勝で あっ た。
これ は勝
見が委 員 長と して、デ
ザ インを何
と か学
と し て体 系づけたいと願っ てい たこ と か らの もの であった。
● 「委 員 長」 を 「理事 長」 に か え る昭 和
37
・
38
年
度の役 員 改 選を機に、
創 立 以 来の役 員の呼 称を、
委 員 長 を 「理 事 長」 へ、
委員を 「理事
」 に かえる こと に した。 これ は今 後 活 動 する際
の委員
会をつ く る に 当 たっ て、
そ れの委 員と か委 員 長 とま ぎら わ し く な る とい う理 由 も あっ た が、
と に か く 「学 会」 らしくしたい とい う思いで あった。
これ は 正 式に は昭和37
年の第 9
回大
会にお ける総 会におい て、
会則の一
部改
正と いうことで決 定した。
いてデ
ザ イン学
の体系
をと り上 げ、 メンバー
も勝見
を含
め て4
名の評 論 家によっ て行わ れ た。
● 第17
回例会
ゲス ト:吉 阪 隆正昭 和
38
年 4
月、
東 京 教 育 大 学に おい て、
「有
形学
に つ い て 」 の講 演 が 吉 阪 隆正 に よって行
わ れ た。
吉 阪 は 早 稲田大 学 理工学 部建築学
科の教 授で、
「有 形 学1
とい う独 特の仮
説の上に立っ た考え方の展 開を述べ た もの である。●第 18
回例
会ゲス ト:田中 正 明
昭和
38
年7
月、
東 京 教 育 大 学に おいて、
田中
正明 の 「欧 米のデ ザ イン教 育を見て」 とい う講演
と ス ラ イ ド上映が行わ れ た。
田中は ア メ リカ、
ヨー
ロッパ のデ ザイ ン教 育 事 情の視 察して帰 国したところ で あ った。●
昭38
年度
に 「会 報」第1
号 を発 刊 昭和28
年にデ ザ イン学 会 が 創立 し て か ら10
年が経 過し、
基 礎が ど うやら固まって き た。10
周年
の記 念 事 業につ い ては、
理事 会で い ろ い ろ の案が出た が、
実 現 する に いた ら なかっ た。
し か し 「会報
」だけ は 出し たい と、第
1
号の 「デザイ ン学 会 報」が、
昭 和38
年11
月発行 された。
●
昭 和37
年 ・
38
年度
の役員
改 選委 員
長
を2
期4
年つ と めた 勝 見 勝 が 再 選さ れ、
理 事 長とな り、19
名の理事が決まっ た。
退任
は5
名で、
新 任と し て阿 妻知幸、
松上茂な ど5
名が選 ば れ た。
ま た、
幹 事と して五一
卜嵐 治 也、
真 鍋一
男が委 嘱さ れ た。
幹 事 は 「本 会の事 務を担当」 し た。
●第
9
回研究 発 表 大 会 昭和37
年11
月 に、
東 京 教 育 大 学で開 催さ れ た。
こ の大 会 よ り2
日間に わたっ て行わ れ、
第1
日 に第1
部の研 究 発表
が行わ れ た。 研 究 発 表が10 名と なっ た こと にもよる。10
名の う ち6 名
は、 2
回 以 上の発 表 者で、
朝倉直
己、
清 水 千之助など4
名が新 人であっ た。
第2
日の第2
部は シ ンポジウム 「デ
ザイン学の 体系・
その2
デザイン学 哲 学」 であっ た。 前 回に続 ● 第10
回 研究発表大会
昭
和
38
年11
月 に、
第10
回大 会 が 東 京 教 育 大 学で、
2
日間にわ たっ て行わ れた。
第1
日の研 究 発表
は、
部 門 別に分 類さ れ て、デ
ザイ ン教 育 部 門として6
名 が、デ
ザイ ン各 論 および 関 係 科 学 部 門と し て8
名が 発 表 した。 研 究 発 表 は1
人30
分と さ れ、
比較的余
裕 の あ る発 表で あっ た。
第2
日のシ ンポジウムは、 午 前と午後
の2
つ が行 わ れ、
それ ぞれ 「大 学に お け る デ ザイ ン教 育」パネ リス ト4
名、
司会は高
山 正喜 久、
「人 間工学とデ
ザ イン 」 パ ネ リス ト4
名、
司会は塚田 敢であった。
こ の第
10
回大 会は、
会 員67
名、
会員外20
名の参 加 者を得て、
盛 会 裡に終 わっ た。 デ ザ イ ン学 研 究特集 号 SPECIALISSUEOFJSSDVoLllNo.
32004 13 N工 工一
Eleotronio LibraryNII-Electronic Library Service
第
4
章
創 立
10
周
年
を
越
え
て
● 昭和39 ・
40 年度の役 員 改 選昭和
39 年度、
昭 和40
年 度の役 員 会としては、
6
期 目の理事 会 (役 員 会 )で あっ た。
ひ きつ づ いて 勝 見 勝が 理事 長と な り、
理事 長1 、
理事17、
監 査2 、
幹 事1
の理 事 会であっ た。
退 任 者は河 合正一
、
何 初彦
な ど9
名にのぼ り、
新 任 者は広田長 治 郎、
田中正 明 な ど6
名で あった。
● 第19
回例会
ゲス ト:D.J.プ
ラッ ト夫 妻昭 和
39
年5
月、
国際 文化会 館に おいて、
「ベー
シッ クデ
ザ イン と専 門 デ ザ イン の教 育の接 点」 と 題 し て 講 演とスラ イ ドの上映が、
ディ ヴィ ス・J ・
プラッ ト夫 妻によっ て行わ れ た。
プラッ トは、
アメ リ カの 南 イ リノイ 大 学 デ ザイ ン科の建 築・
イ ン テ リ ア担当 の教
授で あ り、
夫 人は同大 学でグラフ ィックデ ザイ ン の講師であっ た。
● 「デ ザイ ン学会報
」第2
号の発 行昭 和
39
年ll
月 に 「デ ザイン学
会報
」第2
号が発行 さ れたe こ の第2
号 は、
表紙 共12
ペー
ジ で、
「特集
: シ ンポジ ウ ム・
大 学に お けるデ ザ イン教 育」 を ほと ん どの ペー
ジ で 埋 め、
あ と 「学会
記 事」、
「理 事の改 選」、
「編 集 後 記」 な どを編 集している。
「大学
に お け るデ ザ イン教 育」は前 年の第10
回大 会で行 わ れた シ ンポジウム を再 録し た もので あ り、
司 会は高山正喜 久、
パネ リス トは、
清 家 清、
服 部 茂 夫、
田中
正明、
松上茂で あっ た。
● 第 11 回 研 究 発 表 大 会昭和
39
年11
月 に2
日間、
東 京 芸 術 大 学に て開催さ れ た。
第 1 日 は8
件の研究発 表 が あ り、
8 名が発 表 者と なっ た。
第2
日 は、
は じ め に 映 画 「7
つ のデザ イン学 校」 とい う イ リ ノ イ工科 大 学 ダブリ ン教 授の 編 集によ る 映 画の 上映が あっ た。 そ し て 研 究 発表が 午前 中に、
5
名によっ て行わ れ た。
つ ま り研 究 発 表 は13
名に よって行わ れ、
こ の 中、
佐 藤 敬 之 輔な どは7
同 目の発 表となり、
は じ めて の発 表 者は、
益 田 凡 夫、
田中 淳な ど5
名で あっ た。
ま た、
は じ めて共同 14 SPEC 【ALISSUEOFJSSDV〔
}
L凵No.
32004 デザイ ン 学 研 究 特 集 号 研究が発 表さ れ た り して、1
/同大 会を 迎 え て新しい 息 吹が感じ られ た。
午 後はシ ンポジウムで、
「伝 統と 近 代 デ ザ イン」モデレー
ター
高
橋正人、
オリエ ンテー
ター
勝 見 勝、
パネ リス トは出原栄
一
な ど4
名
で あ っ た。
●会
報 第3
号の発 行昭和
39
年度
に編集
が行わ れて いた、
「デ ザイ ン学
会 報」第3
号は、
昭 和40
年4
月に発行さ れた。 体 裁は第 1
号、
第2
号と同 じ で、
内 容は 「会
員・
研 究 実 態 の 調査、
研究
題 目の一
覧」 は注目すべ きも の で、
昭 和38
年3
月にア ン ケー
トを会 員に 発送してあっ たも のを、
昭 和40
年2
月にまと め たもの で、
63
名の 「研 究 題目覧」が
掲
載され ている。
● 昭和40
年、 事 務 局 が 武 蔵 野 美 術 大 学に移
る事
務 局 担当校が、
昭 和40
年 度から東 京 教 育 大 学か ら、
武 蔵野美 術 大学
に移っ た。
創立以 来、
千 葉 大、
東 京 芸大、 教 育 大 と国立 大 学が担当 し て き た事 務 局 が、
私立大 学が担 当したことは変 化のひ とつ で あ る。
こ の12
年間に私
立のデ
ザ イン系の大 学 が 増えたこと もそ の原 因の ひ とつ であっ た。
● 会 報 が4
回発 行 され る昭 和
40
年 度 中に、
「会 報」 が4
回分 発 行さ れ た。
No .
4
(7
月)、
No .
5
(10
月)、
No,
6
(昭 和41
年2
月)、
No .
7
(昭和41 年 4
月 ) で あ る。
No .
7
は 日付 が 年 度こ えて い るが、
実 質 的 な 編 集は年 度 内に行わ れ た。
こ れ らの 会 報の発 行に よって、
会 員は理 事 会の こ と、
学 会の行 事、
委 員会の様
子な ど が理 解できる よ うに なっ た。 ● 第20
回 例会ゲス ト :竹 山実
昭和
40
年8
月に、
武 蔵野美大 銀座 分室 に て、
「デン マー
ク のデザ イン教 育」 と題して、
竹 山実が講 演し た。
竹 山は武 蔵野美 術大 学の教 授であった。
● 第21
回例 会ゲス ト :
向
井 周 太 郎昭和
40
年10
月 に、
湯 島 会 館におい て、
「西独に お ける教育制 度と最 近の推 移」 と 題 し て、
向 井 周 太 郎 N工 工一
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