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1 はじめに 復 原 の 思 想 史 研 究 の 可 能 性 : 本 研 究 の 方 法 と 目 的 , pp

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お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館)  情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html

Title

アンコール遺跡の考古学史にみる復原の思想 : フランス

極東学院所蔵の月間報告の解読 (1)

Author(s)

藤原, 貞朗

Citation

茨城大学人文学部紀要. 人文コミュニケーション学科論集

(9): 139-152

Issue Date

2010-09

URL

http://hdl.handle.net/10109/1586

Rights

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『人文コミュニケーション学科論集』9, pp.139-152 © 2010茨城大学人文学部(人文学部紀要)

−フランス極東学院所蔵の月間報告の解読(1)−

藤原 貞朗 はじめに、復原の思想史研究の可能性:本研究の方法と目的  カンボジアのアンコール遺跡群は、19 世紀の半ばまで大部分が廃墟となって密林のなかに 埋没していたところ、欧米の植物学者や軍人に発見され、調査・研究、そして復原がなされて 蘇った遺跡として知られている。インドネシアのボルブドゥールと並んで、「全面的修復(復 原)」1と形容されるアナスティローシスが採用された遺跡として有名であり、また、1992 年 から 2004 年までユネスコの世界文化遺産リスト中の「危機にさらされている遺産リスト」に 登録されていたことも記憶に新しい。その意味で、アンコール遺跡は、天災と人災に苛まれ続 けながらもかろうじて残存してきた遺跡であり、修復と復原が絶えずなされ、これからもなさ れ続けねばならない場所である。  しかしながら、アンコール遺跡で行われてきた、そして現に行われている修復や復原につい ての研究は、これまで必ずしも十分であったとはいえない。すなわち、どのような修復や復原 がこれまでなされてきたのか、いかなる思想や理論のもとで修復や復原が行われてきたのか、 こうした遺跡保全の根幹をなす問いに答えることのできる研究はいまだなされていない2。た しかに、寺院や遺物の修復や復原に携わっている現地の調査員や研究者たちは、現に関わって いる修復対象の先行研究と修復履歴についての調査を個別的には十分に行っている3。だが、 個別的な事例を束ねる包括的な研究、あるいは綜合的な研究はない。その結果、個別的な修復 や復原の履歴を把握できたとしても、そこに反映されている修復理論、あるいは復原思想とで もいうべき方法論と思想を明らかにすることは難しい。  こうした観点に立ち、本稿は、アンコール遺跡の考古学史のなかに修復や復原に関する方法 論と思想を読み取る試みを行いたい。とくに注目するのは、20 世紀初頭、1908 年から 1930 年 代前半期までの間にフランスの研究者たちが行った考古学的復原についてである。  20 世紀初頭のフランス人考古学者たちの復原思想を読み取るために、本稿が基本資料とす るのは 1907 年から 1973 年にかけての遺跡調査の月間報告である。  近代的な意味でのアンコール遺跡の考古学を開始したのは、19 世紀末から 20 世紀半ばまで 当地を植民地支配したフランスの研究施設「フランス極東学院」の研究者と調査員たちであっ た。本格的な遺跡の保全活動を開始するのは 1907 年以降のことで、そのときからカンボジア 内戦によって活動が一時停止する 1973 年まで、詳細な調査報告が残されている。今日、我々 が参照できる資料としては、遺跡現場の調査員が学院長に向けて書いたこの「月間報告」のほ かに、調査員による「日誌」(手稿)と調査員からの月間報告を受けて院長がとりまとめた「年

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間報告」(年 1 ∼ 2 回発行の『フランス極東学院紀要』に掲載)がある4。本研究では「月間報告」 を主たる資料として、そこに具体的な修復・復原の方法論や包括的な思想を読み取りたい。  「月間報告」を基礎資料とする理由はいくつかあるが、最大の理由は、方法論と思想を明ら かにするためのテキストとしての適性にある。資料の分量でいえば、いうまでもなく、日誌が 一番多く、月間報告、年報の順でその内容が整理されて少なくなる。調査報告の完全な分析を 求めるならば日誌を逐一検討せねばならないだろうが、しかし、日誌はその性質上、観察が中 心であり、考察には誤記も多い。また、直感的な考察以外は思弁的な記述は少なく、復原や修 復の方法論や思想を読み取るテキストとしては必ずしも適していない。これとは対照的に、月 間報告は日誌をある程度整理し、調査結果とその後の方針に対する見解を明確にしている。重 要な調査報告や発見に関しては、日誌をそのまま転記しているケースも少なくない。  さらに月間報告が、すでに電子化され、誰もが参照可能なテキストとして一般公開されてい る点もここでは重要である。日誌は手書きで、タイプ化されているものはほとんどない。そし て、今日に残る膨大な量のメモは未整理のままである。一方、月間報告はタイプで打たれ、電 子化されており、現在では PDF ファイルでインターネット上に公開までされている。電子化 されているため、用語の検索も容易である。たとえば、「アンコール・ワット Angkor Vat」を 検索すれば、この寺院の調査履歴を通読することが可能であるし、また、「アナスティローシ ス anastylose」、あるいは、「復原 restauration」、「復元 restitution」、「再建 reconstruction」などの 単語を検索すれば、各用語がいかなる調査活動状況で用いられているのか、いかなる意味を 持っているのかを比較検討することも可能である5。(本研究によって、月間報告の分析の可 能性と有効性を示すことができれば、今後のさらなる復原の思想史研究の進展を促すこともで きるだろう。)  日誌に比べて分量は少ないとはいえ、それでも 1908 年から 1973 年までの 66 年間書き続け られた月間報告は、約 2500 字の文字で埋め尽くされたページが 2915 ページもある。図表はな く、純粋に文字だけであり、書籍にすれば大判サイズの分厚い本でも 10 巻以上になる量だろ う。本稿が目的とする復原思想の歴史的研究には理想的な資料体である。  これまで遺跡の修復に携わってきた研究者たちもまた、この月間報告を重要な資料とみな し、復旧対象の修復履歴などを確認している。この報告を読み、そこに記されている事柄を分 析した研究者は少なからずいる。しかし、約 3000 ページの膨大な分量の資料を最初から最後 まで通読した者はいないだろう。調査報告書をなんらかの思想を読み取るべきテキストとみな し、精緻な分析を行うことが本研究の方法である。本研究は月間報告のテキスト分析であり、 純粋な意味での考古学的研究ではない。結果として目指すところは「復原の社会史」、あるい は「文化史」を明らかにすることであり、その意味では文化研究として理解すべきものであ る。しかし、文化史研究として自立した思弁的研究を行いたいと思っているわけではない。む しろ、遺跡の修復や復原に従事する研究者や調査員たちの一助となるような実践的な研究をな すこと、実際の遺跡調査のための補助的資料として役立つ論稿を目指している。

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 フランス極東学院によるアンコール遺跡の考古学の歴史に関しては、すでに拙著『オリエン タリストの憂鬱∼植民地主義時代のフランス東洋学者とアンコール遺跡の考古学』において取 り上げた。そこで、19 世紀から 20 世紀前半期にかけての復原の思想についても若干の分析を 行った6。しかし、前著では月間報告を資料として用いず、極東学院が保管する古文書の資料 と『紀要』の年間報告を中心に分析を行った。前著の研究を進めていた 2000 年頃には未だ月 刊報告が整理されていなかったことが理由のひとつであるが、それ以上に、前著の目的がより 広く、植民地主義時代の考古学(学問)と政治との関係を分析することにあったため、具体的 な考古学的調査のプロセスを記した月間報告を通読することよりも、紀要で公表された年間報 告を中心に考察を進め、不足情報を古文書によって補うという方法を採用した。ゆえに、新た に構想された本研究において用いられる資料の大部分は前著では取り上げなかったものであ る。前著の補足として、資料的価値のあるものを構成すること、および、より具体的事例に即 して、修復と復原の思想を明らかにしてゆきたい。 1908 年、初代遺跡事務所長コマイユの作業計画  月間報告は 1908 年 1 月に始まる。  フランスがカンボジアとの協約の締結によって同国を正式に保護国としたのは 1884 年のこ とであり、その前後から、植物学者のアンリ・ムオ(1863 年)、中国との戦争に派遣された海 軍大尉ドゥ・ラグレ(1866 年)、同じく軍人としてアンコール遺跡を踏査したルイ・ドラポル ト(1873 年、1882 年)、エティエンヌ・エモニエ(1882 年)らがアンコール遺跡に入り、廃 墟となっていた遺跡の存在を絵や写真によって欧米に伝えるとともに、遺物の一部をフランス に持ち帰るなどしていた。その過程で遺跡の図面の作成や、建造物の崩壊の原因のひとつと なっていた森林の樹木の一部の伐採をするなど、遺跡の保全活動もほんのわずかだが行われて いた7。とりわけ、アンコール遺跡の美術史的価値を訴えるために美術館の設立や報告書の刊 行に奔走したルイ・ドラポルトは本格的な遺跡保護活動の必要性を認識し、「崩壊していると はいえインドシナの寺院郡の研究はまだ可能」であり、「早急に研究を開始せねばならない」 と 1880 年に刊行した自著に記していた8。そうした要望を受けるかたちで、1898 年には現地 での恒久的な調査を可能とする「インド=シナ考古学調査隊」が創設、それが 1900 年には「フ ランス極東学院」と改名されて本格的な考古学的調査を開始していた。  しかしながら、アンコール遺跡群として知られる建造物の大部分は、当時、カンボジアでは なく隣国のシャム(タイ)の領土にあった。それゆえ、シャム国王の許可のもとに短期の調査 活動を行うことは可能だったが、継続的かつ恒久的な調査と保全を見据えた活動は出来なかっ た。フランス極東学院メンバーのリュネ・ド・ラジョンキエールによる『インドシナ考古学集 成』(1900 年)と『カンボジア建造物記述目録』全三巻(1902-08 年)、ジャン=バティスト・ カルポーによる『アンコール、ズオンドン、ミーソンの廃墟』(1908 年)など、基礎的な遺跡

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リストの作成と写真による資料収集は行われていたが、肝心の具体的な遺跡保護活動には取り 組むことができていなかった9  それが可能となるのが 1907 年から 1908 年にかけてのことである。1907 年 3 月 23 日にフラ ンスはシャムとの協約締結に成功し、主要な遺跡があったバッタンバン州とシエムリアップ州 の管理を移譲されたのである。これを受け、フランス極東学院はシエムリアップに遺跡保全の ための事務所「アンコール保存事務所 Conservation d Angkor 」を設置、初代事務所長にジャン・ コマイユを任命して駐在させた。コマイユは法的手続きが完了しないうちから(すなわち通行 許可および滞在許可証を持たない状態のまま)シャムから移譲されたばかりのアンコール地区 に配属され、すぐさま本格的調査の準備に入ったのだった10。  記念すべき最初の月の調査報告、すなわち 1908 年 1 月の調査報告には、遺跡リスト作成の ためアンコール地区に滞在していた極東学院メンバーのド・ラジョンキエールとともに計画し た四点の「最も緊急を要する作業の概要」が整理されている(『月間報告』4 ページ)11。  1)アンコール・ワットの寺院内の樹木の伐採  2)アンコール・トム城塞内の様々な建造物と城壁周辺の樹木の伐採  3)アンコール・トム内を横断する古道、および城壁門と町を結ぶ古道の復原  4)アンコール・トム南門前の参道の復原 現地入りして 2 ヶ月、最初の調査報告で披露される計画としては、かなり具体的で整理された 内容であると評価してよいだろう。アンコール遺跡の「再発見」からはすでに半世紀が経とう としていた。当地を植民地支配し、学術的活動も本格化させたいと願っていたフランス人研究 者の頭の中では、かなり以前から遺跡保全活動の青写真が思い描かれていたものと想像され る。  我々はこの最初に提案された作業計画から、さっそく綿密な検討と分析を行わねばならな い。ド・ラジョンキエールが作成中であった遺跡リストには 1908 年頃には約 900 点の建造物 が記載されようとしていた。つまり、アンコール地区で復旧活動を待つ廃墟は無数にあった。 その中からここで示した 4 点を最優先すべき作業と抽出しているのである。そして実際、この 計画どおりに最初の数年間の作業は進行してゆく。いかなる判断基準のもとに、これらの「最 も緊急を要する作業」が決定されたのだろうか。なぜ、アンコール・ワットから作業が開始さ れねばならなかったのだろう。どうして、巨大なアンコール・トムのなかでも、城壁の南門の 整備が急がれたのだろう。  様々な疑問が一気に浮上するが、ここでは 3 つの問題提起にまとめよう。  まず、なぜ「アンコール・ワットの寺院内の樹木の伐採」が最優先課題と判断されたのか。 樹木の伐採については続けて次のように必要性が説明されている。曰く、「緊急に樹木の伐採 を行わねばならない。根が参道の石の継ぎ目を脅かし、アンコール・トムの建造物を解体しよ うとしている。とりわけバイヨンの塔の数々と城門である」(4 ページ)。事実、驚くべき速度 で生育する植物の繁茂による遺跡の被害は、アンコール・ワット以上にアンコール・トムのほ

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うが深刻であった。また、アンコール・ワットは当時においても荒れ果てた「廃墟」では決し てなかった。シャムの仏教徒が寺院として使用した現役の施設であったため、他の建造物に比 べて整備は行き届いていた。ドゥダール・ドゥ・ラグレが率いた最初期の踏査(1866 年、も しくは 1873 年)において西門付近から撮影されたと考えられている写真(図 1)をみれば、 雑草が確認できるものの、祠堂も西参道も寺院として使用するには十分整備されていることが わかる。一方、アンコール・トムは悲惨であった。中央に位置するバイヨン寺院の状況を、た とえばエモニエによる『カンボジア誌』第三巻(1900 年)の掲載写真(図 2)やシャルル・ カルポーによる 1901 年の写真(図 3)によって確認するならば、寺院全体が樹木にすっぽり と覆われ、崩壊の危機に晒されていたことがわかる。多かれ少なかれ、アンコール地区の遺跡 はすべて同様の崩壊の危機に晒されていた。それにも関わらず、コマイユが最優先の作業の対 象に位置づけたのはアンコール・ワットであった。彼が提案した作業の優先順位が、必ずしも 遺跡保全のために要求される順位によって決定されているわけでないことは明らかである。で は、どのような判断基準がここで働いているのだろうか。  第二に提起すべき問題は、アンコール・トム内の古道と参道に関してである。これらの「復 原」をコマイユは優先課題のひとつとして挙げているのだが、これもいかなる理由からなのだ ろう。コマイユが挙げるのは建造物本体の復原ではない。その前に参道を復原しようというの である。これについて彼はこう続けて説明している。「都全体のプランを正確に把握し、建造 物の位置を理解するためには、城壁内側の参道の修復が不可欠である」、と。また、もちろん、 建造物の修復を行うためには、その準備として、資材などを運ぶ道を整備せねばならない。そ の限りにおいて、古道の復原を重視するコマイユの選択は理解できる。だが、城壁内の古道だ 図 1  1866 年もしくは 1873 年に撮影されたアンコー ル・ワット。撮影者不明。西側より望む。 © RMN (musée Guimet, Paris) / Richard Lambert.

図 2  《バイヨンの回廊と塔》、エティエンヌ・ エモニエ著『カンボジア誌』第 3 巻(1903 年)挿図。

Etienne Aymonier, Le Cambodge III. Groupe

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けでなく、城壁の外の参道、とりわけ「南門前の参道の復原」を優先したのはどうしてであろ うか。アンコール・トムには 5 つの門があり、それぞれにほぼ同様の四面塔と参道と参道彫刻 があった。どれも同程度に崩壊しており、樹木に覆われていた。1873 年にルイ・ドラポルト が描いた挿絵(図 4)や 1890 年頃の南門の写真(図 5)、あるいは 1900 年代に撮影されたと考 えられる勝利の門付近の写真(図 6)がそれを物語っている。そうしたなかで南門が優先的に 復原対象として選ばれたのはなぜだったのか。  第三の問題提起として、コマイユがここで使用した「復原」という用語についての分析の 必要性を挙げることができるだろう。ここで私が「復原」と訳出したのは reconstitution という 単語である。一般的に「復原(復元)」を表すためには、restauration という単語が使用される ことが多い。しかし、コマイユはここではこれを使わずに reconstitution を使用している。一方 で、報告書の他の箇所でコマイユが restauration という言葉を使う場合もある。2 つの言葉の意 味はどのように異なるのだろうか。そして、これらの言葉の使用法の違いに意図されているこ とは何なのだろうか。  これら 2 つの用語以外にも、月間報告書には「修理 réparation」、「修復 réfaction」、「再 建 relèvement, reconstruction」、「再設置 remise en place」、「全面的修復(アナスティローシス) anastylose」などの「復原」の類義語が多数使用されている。すでに本稿で引用した部分にも「城 壁内側の参道の修復」と訳出した箇所があるが、ここで「修復」と訳したのは réfaction という 単語である。「再び行う」こと、「やり直す」ことを示す単語である。報告書では微妙なニュア ンスの違いをもつ類義語が多数使用されているのだが、それぞれの単語が明確に何を定義する のかについては説明がない。言葉の使い分けを考察することによって、具体的な作業の目的を 理解するとともに、そうした言葉を使用した調査員たちの復原に対する考え方とその変遷を明 らかにしなければならないだろう。  ここに挙げた 3 点の問題提起に対し、以下に順を追って答えてゆくことにしたい。 図 3  シャルル・カルポー撮影《ジャングルに覆われたバイ ヨン寺院》(1901)。 ©2006 Charles Carpeaux.

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アンコール・ワットの整備(1) 訪問者対策と見せる考古学  まず、最初の問題提起、すなわち、なぜ保存状態の最も良かったアンコール・ワットから 「緊急を要する」整備作業を開始したのか、について分析しよう。保全作業の優先順位が、必 ずしも遺跡保護や復旧を目的にしたのではないのだとすれば、どのような要求から優先順位は 決定されたのか。この問い自体には、じつは答えるのが容易である。先に答えを明示しておこ う。  遺跡の保全作業は計画通りに着手され、事務所長の指揮のもとにアンコール・ワット寺院内 図 4  ルイ・ドラポルトによるバイヨンの城壁門の様子。 1873年頃。ガルニエ『インド=シナ踏査旅行』第四 巻(1873 年)の挿画。

Garnier, Voyage d’exploration en Indo-Chine, tome 4, 1873.

図 5  ジ ャ ッ ク・ ポ ル シ ェ 撮 影《 ア ン コール=トム、城壁門南側》、1890 年頃。リュシアン・フルヌローと ジャック・ポルシェ『アンコール の廃墟』(1890 年)の挿図。 Lucien Fournereau et Jacques Porcher,

Les Ruines d’Angkor, étude artistique et historique sur les monuments kmers du Cambodge siamois, E. Leroux, Paris, 1890.

図 6  ピエール・ディウルフィス撮影《勝利の門》、1909 年 頃。写真集『アンコールの廃墟』(1909 年)より。 Pierre Dieulefils, L’Indo-Chine pittoresque et monumentale.

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の雑草や障害となる樹木の伐採が行われた。祠堂や回廊や参道に生えていた低木を伐採したコ マイユはこう報告している。これらの作業によって、「訪問者が〔アンコール・ワット寺院内 を〕すべて周遊できるようにした」(4 ページ)、と。1908 年の最初の 1 年間の月間報告を順に 注意深く読んでみると、多くの箇所で、遺跡にやってくる「訪問者」の存在を強く意識した 文章になっていることが分かる。1907 年のアンコール地区移譲以来、この遺跡にやって来る フランス政府役人や観光客が増えていたことが暗示されている。さらに、年末の 12 月から翌 1909年の 1 月にかけての間に、インドシナ総督がアンコール地区を訪問する予定も計画され ていた。9 月の報告書には、「総督が今年の 12 月か来年の 1 月にアンコールを訪問したいと考 えてらっしゃることは存じております。ですから、さっそく、日差しと雨から総督を守る方法 を考えねばならないでしょう」(32 ページ)とある。  訪問者を意識した言葉が頻繁にみえるのは、アンコール・ワットに関する文章よりも、アン コール・トムの整備に関わる箇所においてである。たとえば、4 つの計画を打ち出した 1908 年 1 月の先述の月間報告において、アンコール・トムの「南門参道の復原」を課題に挙げ、「出 来る限り早く従事せねばならない」と記した上で、その理由を「訪問者たちが廃墟に接近する や否や、好印象を抱くようにせねばならないからである」と書いている(4 ページ)。アンコー ル・トム城壁内の広場の整備も、「訪問者がそこからアンコール・トムのレリーフを眺めるこ とになるであろう」から早急に行いたいとの言葉もみえる。さらに同月の報告において、コマ イユは南門の参道のみならず、南門そのものの整備と復原が不可欠である理由をこう説明して いる。    アンコール・トムの城壁に開いた城門の堅牢なるエレガンスをご存知のはずですが、城門 を容易に観ることができないのはまことに残念なことです。さらにいえば、南門はただ通 過するだけであるにせよ、訪問者が頻繁に訪れるところなので、門を覆い隠している植物 を取り払わねばならないと私は考えます(6 ページ)12。 アンコール・トムの整備については後ほど詳述と分析を行うが、この文章をみれば、第二の問 題提起の答えのひとつも推察できるだろう。なぜ、複数あるアンコール・トムの城門のなかで も南門の整備が優先されたのか。それは「訪問者が頻繁に訪れるところ」であったから、すな わち、アンコール・ワットに最も近い距離にあった城門であり、アンコール・ワットを観光し た訪問客が次にアンコール・トム(のバイヨン)に向かう際に必ず通行することになる門だっ たからなのであった。1912 年にコマイユが刊行した『アンコール廃墟ガイド』に収録された 「アンコール遺跡群略図」(図 7)を注視しよう(ガイド・ブックの発行もまた言うまでもなく 遺跡の訪問客を念頭に置いたもので、本稿の研究にとって重要である。のちほど詳細に叙述お よび分析を施したい)。この図をみれば、アンコール・ワットの西側参道から北に向かって道 が開かれ、それがアンコール・トムの南門に最短距離でつながっていることがわかる。興味深 く、また、驚くべきことに、このコースは、今日の観光コースとまったく同じである。1908

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年にコマイユが計画した遺跡見学のコースが、百年後の今日まで、そのまま引き継がれている わけである。  以上のように、草創期に起草された遺跡保全計画において、まず念頭に置かれたのは「訪問 客に遺跡を見せる」ということ、観光客を誘導する導線を確定して、早く訪問客を誘致できる 場所に変えることであった。1908 年の報告書をみれば、訪れる政府要人や観光客が好印象を 抱く遺跡にすばやく変貌させるために、とりあえずは比較的整っていたアンコール・ワットか ら清掃を開始して観光の目玉とし、そこを基点に見せ場を少しずつ増やしてゆこうという意図 が至る所に透けてみえる。初期に行われたアンコール・ワットとアンコール・トムの保全活動 および修復・復原活動を具体的に検証する前に、この点をまずは抑えておきたい。  次に、保全活動開始当初のアンコール・ワットの報告に焦点を絞り、その問題点を浮き彫り にしてゆこう。  伐採を早々に済ませて、観光客を満足させる見栄えを実現させたかったコマイユであった が、作業は思い通りに進まなかった。1908 年 5 月の報告にこう書かれている。    12 月に行った不十分な清掃作業では、再び植物の繁茂をもたらす結果に終わっている。 もはや同じ失敗は許されない。寺院全体を天辺から〔外〕回廊まで攻撃し尽さねばならな い。この仕事には毎日 50 人のクーリーを使っても、少なくとも 1 年は必要だろう。・・・ 図 7  ジャン・コマイユ作成「アンコール遺跡群略図」。コマイ ユ著『アンコール廃墟ガイド』(1912 年)挿図。

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枝を伐採するだけでは十分でない。根こそぎ樹木を取り払い、鳥や風が落とした種子が芽 を出そうとしている地面の穴の隅々まで除去せねばならない(20 ページ)。 50名の人夫で 1 年かかるという見積もりは大雑把に過ぎるが、それでも、具体的な作業内容 を読んでみると、実に骨の折れる肉体労働の連続であったことは想像できる。たとえば 5 月 31日の日付のある報告では、その日、「二階の 4 つの中庭に堆積していた土砂とその場所に繁 茂していた無数の植物を掃除した」と書かれている(21 ページ)(月間報告には日付のある 日誌のような記述が散見できる)。二階の十字回廊を取り囲む四つの中庭は、かつては雨水を 湛えた沐浴の場であったと考えられているが、20 世紀初頭には水ではなく土砂が溜まり、樹 木が茂っていた。「雨期には、まさに小さな森」を形成していたとコマイユは書く。1 日に なし得たのは、わずか「約 50 平方メートル」の範囲の清掃で、それだけでもドゥコヴィル Decauvilleの蒸気機関の「貨車二台分の樹木の根」が出たという。  かように困難を極めた伐採作業であったので、さらに半月後の 11 月になっても、「アンコー ル・ワットでの作業はまだまだの段階」に過ぎなかった(35 ページ)。当初の予定では翌月に は総督がやってくることになっていた。総督の来訪までには、アンコール・ワットのみなら ず、アンコール・トムの南門、さらにはバイヨンも整備しておくはずだったが、作業ははかど らなかった。10 月の月間報告において計画が大きく変更される。コマイユによれば、アンコー ル・トムでも並行して実験的に樹木を根こそぎ除去する作業を開始したが、除去し終わる前に 雨が降って、再び同じように樹木が生い茂ってしまう。アンコール・ワットと同じように、ア ンコール・トムでも「樹木の除去に一年が必要」であると上方修正するしかなかった。人手も 資金も不足していた。「とりあえずは、訪問者がアンコール・トム内の様々な建造物の眺めを 妨げられない程度に簡単に低木を除去するだけで満足するしかなく、やがて、十分な資金を得 られたら、いまアンコール・ワットで行っているような作業を行う」(32 ページ)つもりだと 書いている。インドシナ総督府の元役人で、管財担当の経験もあったコマイユらしく、月間報 告には、予算への言及もしばしばなされる。総督来訪の際には、もはや綺麗に整備し終えたア ンコール・トムを見せることは不可能であるが、その代わりに、コマイユは「アンコール・ト ムの整備作業の重要性と、それには多額の予算が必要であることを理解していただこう」と記 している。整備が完了できなかったことを逆手にとって、それだけ仕事が大変なのだと訴えた いと書く保存事務所長は基本的には楽天家であったと言えるかもしれない。そうでなければ、 過酷な初期の遺跡保全作業には立ち向かえなかっただろう。 アンコール・ワットの整備(2) 「復原・修復 restauration 」と「修理 réparation 」  コマイユが初期に取り組んだ作業の大半は、植物や崩壊した石材などの障害物除去であっ た。除去ののちに測量を行い、平面図作成のための資料を作るなどの考古学的作業がそれに加

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わることはあった。しかし、崩壊した石材を再利用して建造物を修復したり、復原したりとい う建築学的知識と技術が必要な作業は、初期には行われなかった。コマイユは役人出身であ り、建築の専門的知識に乏しかった。意図的にこうした作業が後回しにされた可能性もある。 建築を学んだ調査員が配属されていたとすれば、初期の整備作業も多少は変わっていたかもし れない。なぜなら、1908 年のかなり早い段階で、アンコール・ワットの建築構造に重大で深 刻な問題があることが判明していたからである。伐採作業を進めていた 5 月に次のような報告 がなされている。    寺院の清掃を行って分かったのは、大部分の石材の状態が非常に悪いということである。 作業の進展につれてそれは明らかとなった。回廊の梁を支える大柱 A の大部分は非常に 危険な状態にある。石材は崩落し、指で触っても崩れるほどで、惰性で現状を保っている にすぎない。支えの柱が早急に必要である。・・・しかしそのためには巨額の費用が必要 であり、我々が使用できるごくわずかな予算ではどうしようもない・・・(24 ページ)。 建造物の石材の劣化と脆弱な建築構造を把握しつつも、少ない予算を口実にコマイユは補強作 業を行わない。「過去のカンボジア人は天才的な装飾家だったかもしれないが、彼らには堅牢 で合理的な建築という概念はまったくなかった」と書き、八つ当たりというべき悪態をつくだ けである(29 ページ)。建造物の補強作業は、コマイユの後に保存事務所長となったアンリ・ マルシャルの活動を待たねばならない。  コマイユが建築学上の知識と技術が必要な作業を避けていたのではないかと思わせる興味深 い記述が 1908 年 5 月の報告にある。アンコール・ワットの伐採作業を一気に根こそぎ行わねば ならないと主張した既出の報告の一部であるが、根元からの完全な伐採を行うのと並行して、 コマイユは「可能な範囲で、石材を元の場所に戻す」作業を行うこともできると示唆している(20 ページ)。植物の除去作業には、一部、石材の移動を伴う場合もあった。地面に崩落した石材の 下から植物が生えている場合には、当然ながら崩落した石材を動かして植物を除去することに なる。その際、崩落した石材が元にあったであろう場所に戻す、すなわち部分的な復原作業を 行うという選択も可能であった。しかし、コマイユは次のように報告を続ける。

   いずれ、より完全な復原une restauration plus complèteをすべき時もやってくることだろう。 元の場所に戻すのはそれほど困難ではないだろうが、今しばらくは、崩れ落ちた石材の山 を移動させるのは止めておこう(20 ページ)。 石材を移動することは「それほど困難ではない」と判断しながら、コマイユはそれをしなかっ た。なぜだろう。ここで彼が「復原 une restauration」という言葉を使っていることに注目して よいのではなかろうか。崩落した石材を元にあったであろう場所に戻す行為を彼は「復原」と 呼んだ。そして、彼は「復原」と呼んだ作業には慎重な態度をとったと考えることができるの

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ではないか。  同じように建造物の石材に手を加える作業でも、コマイユが「復原」とは呼ばす、「修理 une réparation 」と呼び、積極的に作業に取り組んでいるケースがある。アンコール・ワットの 中庭の石畳のケースである。同じく1908年5月の月間報告に出てくる計画なので、「復原」と「修 理」の言葉の使い分けは意識的であったと考えてよかろう。コマイユは中庭の石畳の修復の必 要性を次のように学院院長に伝えている。    厄介な捻挫をすることなく〔アンコール・ワットの〕中庭を周遊できるように、修理 une réparationを急がねばならないとあなたもお考えだろう。この修理は砂岩かセメントでな されることになるだろう。〔しかし、〕もし砂岩を用いるとすれば、砂岩を切り出さねばな らず、2 ヶ月間、10 名ほどの例の中国人連中を使わねばならなくなり、・・・プノンペン から送られてくる資金を悲惨にも無駄に使うことになる。・・・現実には、セメントが唯 一可能な方法であるといわねばなるまい。たくさんの人手を必要としないという利点もさ らにある(22 ページ)。 敷石の石材であれ、過去の歴史的な重要性をもつ建造物の一部であることに変わりはない。復 原に慎重だったコマイユが自身の立場を貫くとすれば、祠堂や回廊と同様にここでも安易な復 原は慎まねばならない、というのが筋であろう。しかし、コマイユはここでは積極的に土木作 業を行った。なぜか。この引用部の冒頭に「厄介な捻挫をすることなく中庭を周遊できるよう に」と暗示されるように、敷石の整備を訪問客受け入れのための緊急的作業だとコマイユが位 置づけていたからに違いない。  ここでさらに問題なのは、コマイユがみずから「修理」と呼ぶ作業を、砂岩ではなくセメン トで遂行したいと強く望んでいるという事実である。常識的に考えれば、建造物に使用された 石材とほぼ同質の砂岩を、痛んだ部分や欠落部分に補って修復するのが適切だろう。しかし、 これでは資金が足りないと彼は言う。とりわけ石の切り出しのような作業は、カンボジアの原 住民ではなく、熟練した中国人の職人が必要であり、通常以上の予算が必要であった。さらに 時間もかかる。資金も時間もないのだから、セメントで行うしかないというのである。ここで はコマイユは功利的観点しか考慮に入れていない。こうした思惑があったからこそ、彼はあえ て「復原」という言葉を使わなかったと推察される。慎重な下準備と調査が必要な「復原」と いう言葉を使用せずに「修理」という言葉を使い、この作業が「復原」ではなく「修理」なの だというある種の詭弁によって、セメントのような近代的工法の採用を正当化しようとしたの ではないか。  言葉の使い分けにどれだけ自覚的だったかは分からない。ただ、なりふりかまわず早急に完 遂させたい作業に対して、「復原」という言葉を使用しにくかったであろうことは想像に難く

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ない。たしかにいえるのは、コマイユが「修理」という言葉を使った作業は、素早く終えてし まいたい仕事であったということである。観光客の到来に備えて、早急にやらねばならない作 業であった。「修復」と言う言葉とセメントという近代的工法の採用、そして、観光客誘致と いう目的、これらが密接に絡み合っている点をこの報告書から読み取る必要がある。  セメントによる「修理」と観光客誘致の結びつきを示す、いっそう問題ある文章をここに付 け加えておこう。同じ月間報告のなかでコマイユはこう続けて述べている。      さらに、〔敷石の修理のために〕セメントを使用すれば、復原 la restauration の跡をわざと 示すことができるだろう。本来の敷石とにせものの敷石にわずかな違いが生まれるからで ある。あるいは、にせものの敷石には、なま乾きのうちに誰も気づかないような特別な印 を付けておくのも良いだろう。それをあなたもいつかは必ず出版せねばならないだろうと 感じておられる『廃墟ガイド』に記してみてはどうだろうか(22 ページ)。 ここで修理の跡とはいわずに「復原の跡」と呼んでいるのはなぜか分からない。先に修理とい う言葉をあえて使っていたことを忘れていたのか、あるいは、それほど言葉の使い分けには強 く意識的であったわけではないということか。いずれにしても、ここで重要なのは、この直後 のコメントである。セメントのレプリカの敷石だと、修復後もオリジナルと非オリジナルの石 材の区別が容易になり、学術的に有益だとの意見を彼は述べる。この言葉をみれば、やはり、 コマイユ自身がこの作業を一種の「復原」だと考えていたのではないか。  そのうえで、彼は、この「修理」作業と観光客誘致との密接な関係を暗示する、きわめて独 創的な着想を披露している。すなわち、セメントにレプリカであることを示す押し印を小さく 入れ、それをガイド・ブックに記して、ガイド・ブックを購入した観光客だけがこっそり分か る楽しみにしようというのである。このエピソードは、いかに初期の遺跡保全が訪問客に見せ ることを念頭に行われていたのかを如実に示していよう。初期においては、多大な時間と労力 を必要とする学術的な復原ではなく、最小限の工夫によって訪問客を喜ばせ、ひきつける魅力 を作り出すことが要求されていたのである。初代アンコール保存事務所長は、さしずめ今でい えば観光推進課の職員でもあったといえようか。管財課出身で事務的能力も優れていたコマイ ユはまさに適任だったわけである。  ―アンコール遺跡の考古学史にみる復原の思想、フランス極東学院所蔵の月間報告の解読 (2)に続く。 注 1 フランス極東学院の考古学部長であったアンリ・パルマンティエは、アナスティローシスを

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d’Extrême-Orient, 1933, p.518. 2 建築学の荒樋久雄は未完となった論考において、数々の「復原研究」を試みていたが、クメー ル建築の分野において、復原に関する研究が「意外と少ないのが現状」と記していた。以下の 文献を参照のこと。荒樋久雄「バンテアイ・クデイの復原研究」『荒樋久雄追悼学術論文集』(石 澤良昭編集)、荒樋久雄追悼学術論文集刊行会発行、2008 年、p.381。また、池亀彩は彼女自身「文 化遺産に関する人類学的研究」と総称する試みのなかで、復原の思想の問題を何度か取り上げ、 包括的研究の必要性と可能性を示唆していたが、今日まで実現されてはいない。たとえば以下 の文献を参照のこと。池亀彩「保存修復理念の移転、フランス植民地時代のアンコール遺跡保 存活動について」『学術講演梗概集 . F-2, 建築歴史・意匠』、日本建築学会、1997、485-486 ページ。 および、池亀「パリ・インドシナ美術館−ムラージュと回復される時間」、山路勝彦、田中雅一 編『植民地主義と人類学』、関西学院大学出版会、2002 年、391-412 頁。 3 参照すべき文献は多数あるが数点挙げるにとどめる。崔炳夏、片桐正夫、重枝豊ほか「アンコー ル西参道に用いられた石造技術の特質に関する研究」『日本建築学会技術報告集』13 号、2001 年、249-254 ページ。および、佐藤桂、中川武「カンボジア、アンコール・トム内プラサート・ スー・プラの建造年代をめぐる見解の変遷と問題点」『日本建築学会計画系論文集』617 号、 2007年、179-185 ページ。 4 日誌は手書きであり、タイプ化されていない。膨大な量の日誌は、現在、フランス極東学院 が保有し(Archive de l’EFEO、極東学院古文書)、希望すれば閲覧することができる。年間報 告は『フランス極東学院紀要』Bulletin de l’École française d’Extrême-Orient (1901 - ) の「年報欄 Chronicle」に記載されている。

5 フランス語で発信されているインターネット・サイトのシサーク CISARK。Carte Interactive des

Sites Archéologiques Khmersの略称。英語ではイマックス IMAKS (Interactive map for Archaeological

Khmer Sites)、日本語では、「クメール遺跡対話型地図」。

6 藤原貞朗『オリエンタリストの憂鬱∼植民地主義時代のフランス東洋学者とアンコール遺跡の

考古学』、めこん、2008 年。復原の思想に関しては、とくに第一章と第五章を参照のこと。

7 拙著『オリエンタリストの憂鬱』前出、第一章を参照のこと。

8 Louis Delaporte, Voyage au Cambodge, l’architecture khmère, Paris, 1880. Réédition, Paris, 1999, p.252. 9 Atlas archéologique de l’Indochine, Paris, 1900; Luné de Lajonquière, Inventaire descriptif des monuments

du Cambodge, 3 vol., Paris, 1902, 1907, 1908 ; Jean-Baptiste Carpeaux, Les ruines d’Angkor, de

Duong-Duong et de My-Son, Paris, Augustin Challamel, 1908.

10 月間報告冒頭(2 ページ)に「1907 年 12 月 4 日にバッタンバンの代表委員会にもたらされた法 令には、私のアンコール地区への配属について何ら言及がなかった」、ゆえに「この 2 ヶ月〔1907 年 12 月から 1908 年 1 月にかけて〕、私はなんら公式の肩書きなしに仕事を行っている」との記 述がみられる。  ちなみに月間調査報告の冒頭においてコマイユは、実質的な調査の報告に先立って、設置さ れたばかりの保存事務所と自らにあてがわれた住居の設備の不十分さについての不満と問題点 を指摘している。本稿の主題を逸脱するので、ここではその内容に触れることも分析すること もしないが、この月間報告が学術的な考古学的報告としてのみならず、当時のアンコール地区 の生活環境や政治的状況を伝える一級の資料ともなっていることだけは指摘しておきたい。 11 以後、『月間報告』からの引用は、注 5 に記したシサーク CISARK に公開されている電子資料か ら行い、本文中に括弧でそのページ数を記すこととする。 12 さらにコマイユは、南門を覆っていた植物群を伐採した 1908 年 5 月にはこう書く。「天気のよ い日には、南門から、すなわち、廃墟に足を踏み入れた瞬間に、バイヨン寺院を眺めることが できる。また、逆に、バイヨンからも、南門のエレガントなシルエットをはっきりと見ること ができる。」(17 ページ)

図 2   《バイヨンの回廊と塔》、エティエンヌ・
図 5  ジ ャ ッ ク・ ポ ル シ ェ 撮 影《 ア ン コール=トム、城壁門南側》、1890 年頃。リュシアン・フルヌローと ジャック・ポルシェ『アンコール の廃墟』(1890 年)の挿図。

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