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聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

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聖 書 Ⅱコリント 11:1~6 (第 36 講) 題 「確かな根拠を持って福音を語り続けたパウロ」 (序)本物の福音だと言える根拠はどこにあるのか * パウロが書いている手紙を見ますと、パウロは自分が語る 福音に対して、とても自信に満ちた自信家であることが見 えてきます。どうしてここまで自信を持って語り続けるこ とができたのでしょうか。それが根拠のない自信であった のか、それとも根拠のある自信であったのか、もし根拠が なければ、それは単なる思い込みに過ぎないものですから、 そのような人の語る福音に力があるとは思えません。 * パウロの語ってきた福音が、神のお言葉として残されたと いうことは、それが単なる彼の思い込みなどではなく、パ ウロの持っていた自信に間違いのない根拠があったという ことを、神が承認されたということでしょう。その根拠が 何であったかを正しく受けとめることができない人に、聖 書から福音を受けとめることはできないでしょう。 * 今の時代だけではありません。この当時においても、福音 から逸れた内容を、福音として伝える偽預言者ならぬ偽伝 道者が無数にいました。なぜなら、サタンが、自分たちの 勢力をそぎ落とそうとする福音を放置するはずがないから です。言わば、正しい福音が語られれば、必ず偽の福音が 語られるので、よほど見分ける力を持たなければ、歪んだ 福音の方が多く引き寄せ、勢力を持ち、見かけがよく、い かにも本物らしく見え、だまされやすいのです。 * 一世紀の終わり頃まで生きていたと思われるヨハネの時代 もそうであったと記されています。「すべての霊を信じるこ とはしないで、それらの霊が神から出たものであるどうか、

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試しなさい」と。見分ける能力がないなら簡単にだまされ ると言っているのです。こう言わなければならなかったの は、すでに偽物が蔓延していたからだと言えるでしょう。 * このことが分かった上で、私たちは自分が受けとめ、信じ、 喜び、それに沿って生きている福音が、神の提供して下さ った本物の福音であることを、自信を持って自分のものに していないなら、必ず、サタンの働きかけに騙されます。 正確な値を示すことはできませんが、おそらく 1 割か 2 割 が正しくて、後はサタンに騙された、人間受けしやすい、 肉の思いさえも大事にさせる偽福音だと思われます。 * このことはイエス様も、終わりの時代になると、サタンが 全力を振り絞った攻撃として、「偽キリストや偽預言者たち が起こって、大いなるしるしと奇蹟とを行い、できれば選 民をも惑わす」(マタイ 24:24)と言われています。し るしや奇蹟まで見せるなら、ほとんどの人は惑わされるで しょう。そのような最終攻撃が何時のことなのか誰にも分 かりませんが、その時は必ず来るのです。 * パウロが自信を持って真理の福音を語り続け、偽物に惑わ されないように語り続けたのは、これは、神とサタンとの 戦いによる代理戦争だと受けとめていたからです。パウロ は決して自分の理解力、知恵、知識が卓越していることを 誇りたくて、自信を示したのではありません。自分がここ まで自信を持つことができるのは、確かな根拠があったか らで、それを知ってほしいと願っていたのでしょう。 * それでは、彼が自信を持つことができた確かな根拠が何か、 そしてそのことは、私たちが、自分の信じている福音に対 して、自信を持って間違いなく神の御心そのものだと言う ことができる根拠を持つ者でありたいと思うのです。

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(1)伝道者としての務めに自信と誇りとを持って * パウロは、コリントのある人たちが、うわべだけしか見て いない人たちであると非難したのは、自分たちのことを批 判されたから逆批判するためではありませんでした。彼ら の福音理解が、世で培われてきた自分たちの肉の思い、自 分の心に対して忠実な、肉的理解によるものでしかなく、 神の御心と遠く離れていたから、その尺度からすべてのこ とを判断するなら、それは腹信仰となってしまい、神の御 心を重んじる神信仰ではなくなると言ってきたのです。 * 自分の心に忠実に生きると言うことが、主の前に砕かれな いままの状態となって霊の目が開かれず、人間的な判断を 下す大きな過ちを犯す結果となることを語ってきました。 自覚しないままであっても、結局は自分の腹を神としてい ることになり、(ピリピ 3:19)その危険性をくどいほど 訴えてきたのです。今日の時代における信仰者も、キリス トを信じているつもりで、知らず知らずの内に腹信仰にな ってしまっている人が多いのです。自分の肉の思い、感覚、 知識に従う信仰から脱皮できないでいるからです。 * 11 章に入って、少し表現を変えて語っていくのです。10 章の最後のところで、自己推薦は腹信仰につながるので、 私は自己推薦をしようとは思わない、主に推薦される人が 確かだと分かっているからだと言った後で、何と、私も少 しばかり自己推薦してみたいと、今語ったことの正反対の ことを言い出すのです。これはあえてこういう言い方をす ることによって、本来はあなたがたから推薦してもらうべ きであるのだがと皮肉っぽく言っているのです。 * それを 1 節で、2 つの表現によって現しています。私は少 しばかり自己推薦してみたい。それを我慢して聞いてほし

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い。いや我慢して聞いてくれるべきだと言いました。最初 の“我慢して聞いてほしい”とは、私が自分の思いを満足 させるために語ってきたことは一度もない。あなたがたを どんなに愛しているか、それは私の愛の深さと言うよりも 神の熱情が私の上に現れた結果であるから、あなたがたも 分かってくれているはずだ。だからあなたがたが推薦して くれるべきところを、代わって私が自己推薦しているのだ から、我慢して聞いてほしいと言ったのです。 * それだけではなく、“我慢して聞いてくれるべきだ”と言い ました。これは、私は最も重要なことについて仲人の役目 を果たしたからだと言います。と言うのは、私がしてきた ことは、ただ一人の男という表現でキリストを指し、キリ ストに嫁がせる純潔な乙女としてあなたがたをささげ、キ リストと婚約させることでした。だから恩のある仲人とし ての言葉を、我慢して聞いてくれるべきだと言ったのです。 * ここは比喩的表現を入れた遠回しな言い方でありますが、 それを簡単に言うならば、あなたがたをキリストに結びつ けたのは私ではないか、そのような私の言葉を聞くのは当 然ではないか。それが、キリストに結びつくという最高の 恵みを受ける手助けをした者に対して恩を感じる態度であ り、感謝と喜びを表すことが、間を取り持った者に対する 現すべき礼儀ではないかと言ったのです。 * パウロは、伝道者としての務めに自信と誇りとを持ってい ました。単なるお節介の仲人などではない。それは、その 人の人生が最高の人生になることが見えている相手との縁 結びをさせる務めだと確信していたからです。感謝される ことはあっても、恨まれることはない。喜ばれることはあ っても、嫌がられることはないと信じていました。その仲

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介者の私の言葉をよく聞いてほしいと言いたかったのです。 * この 2 つの言葉を持って言いたかったことは、神がどんな に深い愛を持ってあなたがたのことを思っておられ、その ためにこの私がその愛に押し出され、神の深い愛に気付く ように語らせてこられたこと。また、私が、キリストとあ なたがたとの間を取り持つ仲人であることを忘れたのです か。そんなにあなたがたは健忘症なのですかと問い詰める ためであったことが分かります。霊的な事柄に対する健忘 症は、不信仰につながりますから十分注意が必要なのです。 (2)歪んだ福音理解になることへの危惧 * 更に 3 節において、パウロが危惧していたのは、彼らが誘 惑を受けることにより、惑わされてほしくないことでした。 それは、せっかくキリストと素晴らしい縁組を得て、最高 の人生が約束されたのに、アダムの伴侶として合わせられ たエバが、蛇の悪巧みによって誘惑され、罪の中に落ち込 んでしまったように、せっかくキリスト信仰に生き、将来 が約束された最高の人生を進み始めたのに、思いの中に汚 れた思いが入り込んできて、キリストに対する誠実な思い が奪われ、キリスト以外に思いが向けられるという節操の なさが出てこないかとの危惧を抱いていると言いました。 * こう言うことによって、最初は誠実な信仰に生きていたこ とを言い表しており、途中から惑わされるような不誠実さ を現す者となってほしくないと言っているのです。もちろ ん最初からキリストにのみ信頼し、キリストと共に生きる という誠実さがなかったならば、問題外ですが、コリント 教会全体として、誠実な信仰であったと言っているのです。 * しかしエバのように、惑わされてしまうならば、最初の誠

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実さは覚えられることはなく、神の御心に沿わない、不誠 実な信仰者として歩み出すことにより、滅びへと向かう者 となることを一番恐れていたのです。パウロが恐れていた というよりも、神が御許に引き寄せられたあわれみの思い が無駄になり、神を失望させることとなるからでした。 * この実例を用いて語ろうとしたパウロの意図はどこにある のでしょうか。エバを引き合いに出したのは、自分の置か れている最高の恵み状態が分からなくなっていたエバは、 自分が神のように賢くなることができるという蛇の巧みな 言葉に騙されて、神と対抗しようという気持ちまではなか ったとしても、神のように何でも正しく判断できる賢さを 持つ者になりたいと考えたのです。これが罪に堕ちる原因 となったのです。 * もちろんコリントのクリスチャンたちも、エバと全く同じ ように、神のように賢くなりたいと思ったのではありませ ん。違った意味で惑わされ、自分の思い、知識、感覚を根 拠とした自分たちの理解、判断が正しいと思い込み、パウ ロの語る福音を否定し出したのです。これは、神の御心に 立たせないようにしたサタンの企みでありました。 * パウロの怖れていたのはこのことでした。4 節で、もしあ る人が来て、と言って、コリントのクリスチャンたちを惑 わそうとして入ってきた人のことを指しています。彼らが、 私たちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ 伝え、あるいは、あなたがたが受け入れたことのない違っ た福音を伝えていたという事実に触れ、そのような福音と 言えない福音に引っ張られることがどんなに恐ろしいこと かを訴え、あなたがたは忍んでくれていると言っています。 * それが具体的にはどのようなイエスを宣べ伝えていたのか

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詳細は分かりませんが、おそらく、人間としてのイエスが 十字架につけられて死に、神としてのイエスが霊的な意味 でよみがえられたというものであったのかもしれません。 少し後の時代のヨハネの時においては、キリストが肉体を 取ってこられたことを否定し、神が汚れた肉体を取るなど 考えられないと教えたのでしょう。(Ⅰヨハネ 4:2,3) * これは小さな違いのように思えるのですが、キリストにつ いての正しい理解が僅かでも歪められるならば、それは真 理の福音だと言うことができません。今日においても、キ リストは神の子であっても、神性を持った神ではないと否 定するエホバの証人という異端がありますが、この一点が 異なっているだけで、それはキリスト教ではなくなります。 なぜなら、キリストの十字架による死が、神性の一つであ る永遠性を持ったお方による贖いの死であるという救いの 福音の根本が崩されるからです。パウロが、このことにこ だわった訳が頷けます。 (3)神の御心に沿った福音かどうかを見分ける * パウロは、自分の語ってきた福音が、神の御心から少しも 逸れていないこと。他の大使徒たちにも引けを取らないと 自負していたこと。弁舌に拙いところはあっても、神から 頂いた知識に全く狂いがないことを言い切っているのです。 これほどまで、自ら語る福音に自信があることを強調しな ければならなかったのは、ちょっと見、納得しやすい、受 け入れやすい福音を伝えるサタンの巧妙な手口の恐ろしさ をよく知っていたからです。 * 神の御心に沿った福音なのか、それともサタンが提供して いる福音なのか、これを見分ける霊的知識を持たないなら

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ば、ほとんどの信仰者は、人間受けしやすいキリスト教信 仰に生きようとするのです。それは人間の思いの中に肉の 思い、罪の思いがしっかりと残っているからです。 * これを見分ける霊的知識を、どのようにして持つことがで きるのでしょうか。もしこれが人間の知識によって少しも 歪むことなく受けとめようとするなら、深い知識と、その ための根気のいる研究と努力と探究心、深い洞察力と、頭 の切れとが必要になってきます。それであるなら、誰が誤 りのない福音信仰に立つことができるでしょうか。 * ほとんどの人には無理です。それだけの素質が備わってい る人はいないと言えるからです。それではどうすれば、神 の御心に沿った福音を把握することができるのでしょうか。 これが 10 章の最後の所で語られている表現で言える人し かないのです。それは主に推薦される人だけです。 * 一体主は、どのような人を推薦されるのでしょうか。神が 推薦されるのは神だけなのです。すなわち、信仰者の中に 宿らせられた聖霊なる神を推薦されるのです。それは、神 のことが分かっている唯一なるお方だからです。隠された 奥義としての神の知恵を、神は御霊によって私たちに啓示 して下さったからです。(Ⅰコリント 2:10,11)それに よって私たちも、僅かの狂いもない真理の福音を持つ者に されるのです。 * しかし、聖霊が宿って下さっていても、聖霊がその人の中 で十分働ける状態になっておらず、隅に追いやってしまっ ているならば、神はその人の内に宿っている聖霊を推薦さ れても、聖霊よりもその人の肉の思いの方が強い状態を保 っていますから、聖霊が働けず、その推薦も無効になって しまうでしょう。

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* パウロが自信を持って福音を伝え、それが神の御心から僅 かも狂っていない、真理の福音であることを強く言い切っ たのは、神が推薦して下さっている聖霊が、隠された奥義 としての神の知恵を提供して下さったからだと、聖霊なる 神の助けを前面に出し、私の福音理解は聖霊なる神による ものだと確信できていたからです。パウロが、自分の福音 理解に自信を持つことができた根拠がここにあったのです。 * この地上には、人間が、世が、本人が推薦しているキリス ト教はごまんとあります。それがどんなにキリスト教らし く見え、大伽藍を構え、大きな勢力になっていようと、神 が推薦されたものでないなら、すなわち、聖霊なる神の働 きかけによる福音理解を基としているものでないなら、す べてサタンが推薦する福音でしかなく、キリスト教でない ことを知らなければなりません。 * 私たちが大胆に、私の信じている福音は、神が示された真 理の福音ですと言い切って、私の内に宿って下さっている 聖霊を、神が推薦して下さっていると自信を持って言い得 ることが重要なのです。遠慮深げに言うべきではありませ ん。内なる聖霊を誇りとし、神から推薦された者としての 福音理解を持ち、その福音に立って今を生きていますと大 胆に告白すべきなのです。その告白の中にサタンは入り込 むことができないのです。くどいほど言いますが、聖霊な くして神からの推薦はないのです。 (結び)実体がないと感じる聖霊が福音の根拠 * パウロは、自分が語ってきた福音が、神の御心から少しも 歪めることなく、正しく伝えてきたという強い自信があり ました。それは自分の知識の豊かさや、確信の強さから出

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た自信なのではなく、間違いのない真理の福音であるとの 自信を持って伝えてくることができた根拠は、自分にある のではなく、自分の内に入って下さった聖霊によるもので あることを伝えてきたのです。 * このように言って、コリントのクリスチャンたちに語って きたことによって、コリントの人たちは納得ができたので しょうか。聖霊、聖霊とパウロ先生は言うけれど、それは 実体のないものであり、ある人たちが伝えているように、 人間が納得できる思いに訴えてくる彼らの方が真実なので はないだろうか、という思いがちらついていたかもしれま せん。おそらく確信できなかったでしょう。 * パウロは、私を信頼してほしいと言わなかったのです。聖 霊が語らせておられる私が語る福音を信頼してほしいと言 っているのです。しかし考えて見ますと、唯一なる神も実 体があるわけではありません。イエス様は歴史上の人物で すが、神性を持ったお方だという確証が確認できたわけで もありません。一度でもそのお顔を見せて下さったなら、 安心するのですが、言葉だけです。しかも人間を用いて語 られたお言葉だけです。それで信用しなさいというのは無 理な話ではないかと人間は考えます。この無理を求められ るのが信仰だと言っていいでしょう。 * よみがえられたイエス様を信じることができないでいたト マスに対して、イエス様は彼に現れて、「私を見たので信じ たのか、見ないで信じる者は、幸いである」(ヨハネ 20: 29)と言われました。これは実際に見なければ決して信じ ないと言った、疑い深い人間の代表として語ったトマスに 対して語られたお言葉なのです。 * 実体のない神が、実体のない聖霊に対して推薦しておられ

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るという、捉えどころのない内容が今日の語ろうとしてい る重要なポイントです。これを疑う人は、信仰を持つこと ができないでしょう。人間にとって実体がないと感じる聖 霊のお働きが、福音が正しく伝えられる唯一の根拠であり、 自信を持ってこの福音に生き、この福音が神の力そのもの であると体験し、神との深い結びつきを頂いていると確信 することができるのです。 * もし聖霊が、私たちの握っている福音の根拠とならないな ら、キリスト信仰も人間の知恵の範囲内のものでしかなく、 それは、優れた人間が考え出した、作られた実体のない宗 教に過ぎないでしょう。そこにどんな力と喜びがあると言 えるでしょうか。聖霊を信じることができないなら、キリ スト教ではなく、単なる蜃気楼に過ぎないでしょう。 * 私たちを救い、根底から造り変え、神の前に意味のある信 仰人生を送るように造られたという福音もあてにはならず、 世の哲学の教えや、立派な人が残した金言の方がはるかに 有意義でしょう。しかし聖霊を信じることができるなら、 人間の知恵を超えた神の知恵に生きる驚くべき道を通され、 神の手の中に置かれた最高の信仰人生があると信じて歩む ことができるのです。 * パウロの語る福音と、異なるイエスを宣べ伝えていた人た ちとの違いは、聖霊が私の内にいて下さると信じているか 否かの違いだと言ってもいいでしょう。今日に生きる私た ちも聖霊を信じて歩むことができないなら、聖書の福音に 本気で取り組む必要がなく、キリスト教会という体裁の整 った教会に加わり、ある程度肉の思いを入れ込んでくれる 優しい信仰、世の楽しみも加えてくれる親切な教会生活を 楽しむしかないと言えるでしょう。

参照

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