要 約:1945 年 12 月 8 日 か ら 10 日 間 に わ た っ て 掲 載 を 指 示 さ れ た,連 合 軍 総 司 令 部 (GHQ)提供の「太平洋戦争史」はその後の日本の戦争観を形成する上で非常に大きな役割 を果たしたと考えられている。同じものが書籍として出版され,都市部の中学校では教科 書として使われた記録もある。ところが,この出版された書籍,及び新聞各紙の掲載した 内容を比較して見ると,その掲載量,個所,一部の表記など様々な違いがあることがわか った。そこで,本稿では連載の背景,GHQ の方針,及びなぜこのような違いが生まれたの かを,GHQ の組織構造とメディアの民主化という点からこの連載の果たした役割について 考察したものである。 キーワード:太平洋戦争史,マスメディア,GHQ,占領期,新聞連載 目次 はじめに 1.“太平洋戦争史”の目的とその背景 1−1.GHQ の“太平洋戦争史” 1−2.新聞連載“太平洋戦争史”のその背景 1−3.「日本人の再教育」と CI&E の制作過程 2.連載“太平洋戦争史”の比較分析 2−1.見出しのちがい(以上,第 91 号) 2−2.数値的比較から見る連載(以下,本号) 2−3.掲載文の冊子との比較から見る連載 3.編集の可能性と民主化の流れ 3−1.編集の可能性 3−2.民主化運動と編集方針 おわりに
2
.連載“太平洋戦争史”比較分析(承前)
2−2 数値的比較から見る連載 ここでは,文字数を中心として連載全体を比較する。比較を行うにあたり,基準とな ──────────── † 同志社大学社会学部嘱託講師 *2012年 2 月 28 日受付,2012 年 3 月 7 日掲載決定論文
新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査
──占領初期の新聞連載とその役割について──(後編)三井愛子
† 1るのは冊子『太平洋戦争史』とする。この冊子は,どの新聞掲載と比べても文字数が多 く,GHQ からの直接の指示で出版されたものである。また全体の掲載文を一行ずつ比 較してゆくと,冊子と紙面の文章は細部をのぞき大部分でほぼ一致することから,オリ ジナルの文章に最も近いと考えられる。 文字数については,冊子,新聞紙面をすべてデジタルデータ化し,機械的に文字数を 調べた。ただ,当時新聞では句点を用いず,その分の文字数に誤差が発生した可能性が ある。できるだけ旧仮名遣いを掲載文章の通りに移し替えたが完全とはいえずおくり仮 名などのちがいから,ここでもわずかながら誤差が生じていると考えられる。文字数は 1桁台まですべて掲載するが 10 文字前後の誤差の可能性を含んでいる。 表 3 は冊子と新聞 3 紙の文字数を比較したものである。その結果明らかになったこと は,紙面に掲載されたのは冊子全体の 90% 未満であるということである。実際に紙面 に掲載された全体の数値を見ても各紙の掲載量に最大 4,800 文字の差が生じていること がわかった。特に連載初日の 12 月 8 日の掲載量は各紙大幅な差があることが表 4 から わかる。初日の掲載は,冊子では真珠湾攻撃に至る第 11 章までの部分である。この日 にあわせての連載開始であったことを考えると,『読売報知』の掲載量は全体の 7 割ほ どでしかなく,『朝日新聞』,『毎日新聞』と比較しても極めて低い掲載量であるといえ る。逆に,『毎日新聞』は全体を見ても 8 日だけを見ても 3 紙の中で最も掲載量が多い。 12月 8 日は既述の通りこの日に限って 4 ページに増量して新聞が発行されているため, 各紙掲載面積の条件はほぼ同じである。 12月 8 日の紙面の特徴として,4 ページの内各紙 2 ページをこの連載に使っている 表 3 「太平洋戦争史」全文掲載文字数比較表 掲載媒体 文字数(掲載量) 掲載文字数差 『太平洋戦争史』: 約 66,516 字 − 『朝日新聞』: 約 55,998 字(82.68%) 約 11,518 字 『毎日新聞』: 約 58,722 字(88.28%) 約 7,794 字 『読売報知』: 約 53,912 字(81.05%) 約 12,604 字 表 4 「太平洋戦争史」12 月 8 日掲載文字数比較表 掲載媒体 文字数(掲載量) 掲載文字数差 『太平洋戦争史』: 約 36,726 字 − 『朝日新聞』: 約 29,564 字(80.50%) 約−7,162 字 『毎日新聞』: 約 31,083 字(84.63%) 約−5,643 字 『読売報知』: 約 25,443 字(69.28%) 約−11,238 字 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 2
が,『朝日新聞』,『毎日新聞』は 3, 4 ページ目の裏表を使う一方で,『読売報知』は 2, 3 ページの見開きで掲載している。視覚的な効果を考えると掲載量が最も少ない『読売報 知』の方がより強い印象を与えることが可能であるページ配分と配置である。また, 『読売報知』について注目すべき点は,連載全体から見た時に文字数にして 12,600 文字 が掲載されていないことになり,これは全体の 19% にあたる量のそのほとんどが 12 月 8日に掲載されなかった文字数差の 11,238 文字であることがわかる。 ところが,2 日目から 17 日の最終日までの連載では冊子と比較した時に最も掲載量 の差が少ないのが『読売報知』であった。『毎日新聞』の掲載量が全体を通して多くあ り,『朝日新聞』の掲載量が少ない。 2−3 掲載文の冊子との比較から見る連載 冊子と新聞 3 紙を比較してみると次のようなことがわかった。 (1)新聞にのみ掲載された文がある (2)新聞に掲載されていない文がある (3)冊子にある文章が 1 紙にはあるが他の 2 紙にはない (4)冊子にある文章が 2 紙にはあるが他の 1 紙にはない (5)冊子に記載されている日時が紙面と異なっている (6)特定の地名や称号などの表記のちがいがある (7)共通性を指摘することはできないが,各紙意図的に掲載から外したと思われる文 言や表現がある (3)(4)については,対象となる個所が非常に多いためここでは割愛する。また(6) についても特に注目すべき点もないと判断し,ここでは取り上げない。また,日米の関 係に直接関係のない部分についてもここでは割愛する。 表 5 「太平洋戦争史」12 月 9 日以降最終日までの掲載文字数比較表 掲載媒体 文字数(掲載量) 掲載文字数差 『太平洋戦争史』: 約 29,790 字 − 『朝日新聞』: 約 25,434 字(85.38%) 約−4,356 字 『毎日新聞』: 約 27,639 字(92.78%) 約−2,151 字 『読売報知』: 約 28,469 字(95.57%) 約−1,321 字 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 3
(1)新聞にのみ掲載された文 まず特に注目すべき点として上げたいのは(1)「新聞にしかない文章」があるという 点である。すべての文章を比較してわかったことは(2)で取り上げる部分以外,冊子 の文章はほぼ同じものが紙面で確認することができ,既述のとおり冊子の文章が最もオ リジナルに近いと考えられるのだが,冊子にない文章が 2 つあることが判明した。1 つ 目は冊子の第 1 章「序論」の最後にあたる部分である。 ① かかる観点から米軍司令部当局は日本及び日本国民を今日の運命に導いた事件(1)を取り 扱つた特別記事を提供するものである。 この文章は序論の 96% を掲載していた『毎日新聞』にはなく,60% ほどしか掲載し ていない『朝日新聞』『読売報知』の 2 紙にほぼ同文が書かれていた。 2つ目は第 2 章 6 節目「反軍国主義の台頭」という部分で,「日本は不景気に襲はれ てゐたが,世界各国と友好関係を保ち得る比較的富裕にして且平和的な国家であつた。 しかし国内的には政治的不安と政府の権力に大変化を来たす脅威とに悩んでゐた。」に 続く次の文章である。 ② 一九三一年(昭和六年)浜口首相は「一愛国者」に暗殺されその数ヶ年後に満州の侵略 は開始されたのであつた 軍国主義者の活動が軌道に乗り始めた時戦争遂行方策に関して 陸軍首脳者の間に軋轢が生じ始めた 『毎日新聞』では第 6 節が全文掲載されていない。『朝日新聞』は上記の文が文末に掲 載されている。『読売報知』も第 6 節のほとんどが掲載されていないのだが,第 5 節の 文末として上記文章の次の部分である「軍国主義者の活動が軌道に乗り始めた時戦争遂 行方策に関して陸軍首脳者の間に軋轢が生じ始めた」のみが掲載されている 以上の 2 カ所で冊子にはない文章が確認できた。各紙が独自に書いたものであれば, 同じ文面になることは考えられないから,この 2 つの文章は翻訳されて配布された際に は存在したが,冊子の発行の際に削除された可能性があるといえる。 (2)新聞に掲載されていない文 冊子にしかない文は全部で 14 カ所ある。そのうち 11 カ所は連載初日の中にあり,各 紙が最大でも 88% 程しか掲載していない中,3 紙共通で掲載が確認できない文章が少 なからずあることは注目に値する。ここで取り上げる 10 カ所は冊子を出版する際に後 から書き足された可能性も考えられるが,編集の段階で各紙がそれぞれ該当部分を文脈 上選んだ偶然性も考えられる。ただ,使われている表現に注目するとこれらの部分が意 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 4
図的に掲載されなかったことも十分に考えられることを指摘したい。その表現の多く は,日本人が読めば痛烈な批判と侮辱を感じるようなものが多いという点である。該当 部分の文章の前後が重要と思われる部分は,3 紙の中で最も多く掲載していないものを 取り上げ,3 紙に共通する部分を下線で示すことにする。 1つ目は第 2 章「満州事変 −第二次世界大戦の序曲−」の最終節「反軍国主義者の 台頭」の文末である。 ① スティムソン国務長官は米国政府は世界大戦の如き戦争が勃発すれば我々の文明は破壊 されるであろうし,又それ故に我々はかくの如き戦争の再発を防止する平和機構を支持す るに決意したのであると述べている。 次に,第 4 章「国内の政治的不安」4 節目「軍部の「戦争商売」に非難集中」の一文 である。この部分の特徴は,『北海タイムス』の社説の引用が掲載されていることであ る。『毎日新聞』はこの節をすべて掲載していないので,『毎日新聞』が掲載していない 部分を抜粋する。番号②,③は継続した 1 節であり,紙面上に見られなかった該当個所 で 3 紙に共通した部分に下線を記している。②の下線部では,『朝日新聞』は「吾人は 一部有力筋…」から「一層険悪となつた」までのより多くを掲載していないのだが, 『読売報知』だけはこの下線部分のみを掲載していない。文末にも該当部分③がある。 『読売報知』は「彼等の無責任な…」から掲載がなく,『朝日新聞』はこの部分だけが掲 載がない。『毎日新聞』の傾向として,細かく削除個所を選別するのではなくこのよう に大きく掲載から外している場合がしばしば見られるが,1 節分丸ごと掲載されなかっ たのはこの部分だけである。 ② 東京の時事新報はこの軍閥蜂起を以て天皇の御陵威に対する公然の挑戦と評し,次の通 り糾弾してゐる。即ち同紙は社説において 「蜂起軍に関し最も遺憾な点は将校連が天皇陛下の命令に服さず,遂に反乱者としての 汚名を冠せられるに至つたことである。彼等はたゞに殺人を行ひ軍規を犯したばかりでな く實に天皇の命令にもそむいたものであつた……」と述べてゐる。 軍部の「戦争商売」に非難集中 軍部は他の諸国が好戦的意向を有してゐると非難し,排外思想を鼓吹することに努力を 集中したが,これらの主張が明らかに誤謬である事は北海タイムスの社説に於て明瞭に暴 露された。因みに同紙は自由主義的傾向をもつ地方紙で当時弾圧のきびしかつた最中に於 て猶敢然真理を語る勇気を持ち合わせてゐた。社説の要旨次の通り 「国民は外国に対し如何なる戦争もしてはいけない。吾人は一部有力筋によつて目下推 進されつつある無謀な戦争宣伝にも係らず,戦争の懸念を抱くべき何等の根拠も見出し得 ない。これら一部の者は狂人からなる好戦的団体の幻影を追ひ求めてゐるのである。満州 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 5
事変勃発当時はこの一団は戦争の警鐘を乱打する為め能ふ限りの事をした。何も知らぬ大 衆は事実この掛声に踊らされたが,其後日本が国際連盟を脱退するに及び情勢は一層険悪 となつた。 ③ 今や警鐘は依然喧すしく打ち鳴らされ好戦的団体は国民に対し,日本は世界を相手に戦 はねばならぬと説得しようとしてゐる。軍部の他の一過激階級は国民が海面から脅威を受 けてゐるとの宣伝を行ひ,五ヶ国軍軍縮会議が無視される場合に備へて,より強力な海軍 を保有しなければならぬことを提唱してゐる。これら人心の攪乱者は全世界に対する国民 の一致協力を煽り立て且つ彼等の危険極まる戦争熱を伝播してゐるが,目的は彼等自身の 利益を満たす以外の何ものでもないのだ。彼等の無責任な宣伝に供される主な手段は日本 が今猶所謂る「非常時」の真只中にあるといふ愚劣な信念である。しかし教育のある者並 びに正常な常識人は等しくかかる「非常時」なるものは存在しない事を知つてゐるのであ る。かかる方法によつて国民を愚弄し国民の協力を強ひるが如き非国民的且つ非立憲的と もいふべきである」 4つ目は第 5 章「国際的火薬庫(その一)(一九三三−一九三五)(昭和八年−昭和十 年)」の第 3 節である「日本,帝国主義的意図を否定」にあり,コーデル・ハル国務長 官の言葉として書かれたものの末尾である。抜粋は『読売報知』の削除部分全文であ る。コーデル・ハルの言葉を全文掲載していないことがわかる。その中で『朝日新聞』 は下線部のみ,『毎日新聞』は「ハル長官は日本政府が…」から掲載がない。 ④ 一九三四年(昭和九年)五月十六日ハル国務長官は齋藤駐米大使と懇談を遂げた。長官 は従来も屢々齋藤大使と会見し,米国最大の希望は平和政策の遂行にある旨日本政府に納 得せしむべく努力を重ねてをり,十六日の会もこの線に沿つたものであつた。ハル長官は 三日後更に齋藤大使と会見してゐるが,その際大使は日本政府は過去数週間中外に声明し 来つた外交方針,即ち日本は極東の平和維持に関する限り優先権を保有するといふことを 単に繰り返したに過ぎなかつた ハル長官は日本政府が何故特にこの極東における優先権 を持ち出したのか,またこれは将来は結局「東洋の制覇」といつた性格にまで発展するの ではなからうかと質したが,大使はかかることは日本の企図するところではないと言明し た。 次でハル長官は,目下再軍備強化に関する噂が世界の随所に拡まつてゐること,しかし てこれが責任は主として日独両国にあると思惟されてゐる点を指摘し,更につけ加へても し世界が日本は何等覇権に対する野心もなくその他不当な干渉を行ふ意図も持ち合さない ことを了解すれば日本はこの軍拡論議に責を負はずに済むだらうと述べた。 次に,第 6 章「国際的火薬庫(その二)(一九三五−一九三七)(昭和十年−昭和十二 年)」の 2 節目「ルーズヴエルト大統領声明」では 3 紙が次のほぼ同量の文を掲載して いない。抜粋は『読売報知』からである。下線部が 3 紙共通で掲載のない部分である。 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 6
⑤ かかる警鐘が打ちならされてゐる最中にあつて欧州諸国,特に小国はドイツの再軍備を 抑へ難い危惧の念をもつて注視してゐた。スイス駐剳米国大使ヒユー・ウヰルキンソン氏 は「かかる規模とかかる速度をもつてするドイツの再軍備は一途に侵略を目的としてゐる としか考へられない」といふ感情が全欧州に瀰蔓してゐるとの報告を寄せた。 一九三六年(昭和十一年)一月二十二日ハル米国務長官は駐米英国大使サー・ロナルド・ リンゼイ氏と会談し 「近代世界において最も了解に苦しむことは,独裁者達が殆ど一夜にして三千五百萬のイ タリア国民,六千五百萬のドイツ国民を逆立ちさせ,彼等の精神的動きを極めて自由に操 り得ることだ,然も翌朝になればこれ等国民は蹶起し直ちに最前線の塹壕に行かせてくれ とせがむのである」と述べた。 また,同章最終節「日独両国軍事協定を締結」では,抜粋元である『読売報知』がよ り多くを掲載していないが,『朝日新聞』『毎日新聞』は該当部分のみが掲載されていな い。 ⑥ この防共協定は共産党の活動を抑圧するため両国が情報を交換し,且つ一致行動をとる ことを申し合わせたものである。既にこれまで両国の接近を示唆する兆候は多々あつた が,防共協定こそは日独両国が共にその外交政策において共通の目的を有してゐることを 端的に確認した最初のものであり,また両国が今後演じようとしてゐる役割をも明示した のである。 一九三六年(昭和十一年)十二月四日,グルー大使は右協定に関し次の報告を寄せた。 「日本の外務省は軍事問題乃至日本のフアツシヨ国家群参加に関しては日独両国間に相互 的諒解は存在しないと全面的否定を行つたが,東京に駐在する各国外交代表は一般に日独 両国の参謀本部が既に秘密軍事同盟を結んでゐるとの見解を有してゐる」 この後 7, 8 章にはこのカテゴリーに属するものはなく,次にあるのは第 9 章「歐州 の危機は遂に大戦乱へ」である。第 4 節目「ミユンヘン,チェコスロヴアキア事件」, 第 6 節「ポーランド」,第 8 節「ロウランド地方」,第 9 節「フランス降伏へ」では 4 カ 所の文章はどの紙面に掲載されていない。ただし,ここでは直接日米関係には触れてい ないため割愛する。第 9 章は『毎日新聞』の 71% を上限に掲載量は非常に少ない。内 容の中心はヨーロッパの戦況が中心であり日本の状況には直接関係ない部分も多く,各 紙この部分で大幅に掲載量を調整したと考えることができる。 10章には該当する個所はない。太平洋地域に展開した日本軍の動向を中心に書かれ, 真珠湾攻撃への道程を記している。各紙それぞれ掲載個所は異なるが,冊子と同量の文 が確認できた。 連載初日の最後の部分になる 11 章「日本軍ニユーギニアに進出」では,該当する個 所が 1 カ所確認できた。第 4 節「香港陥落」の次の個所である。 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 7
⑦ それ以後といふものは援将物資は封鎖された海岸線からか或ひは空中輸送によつて闘争 の大陸に持ち運ばざるを得なかつた 以上の 11 カ所が連載初日にはどの紙面にも掲載のなかった文章である。連載 2 日目 以降には 4 カ所しかない。12 章,13 章には該当個所はなく,14 章「連合軍の攻勢益々 熾烈化す」では,1 節目「「好機」と「殲滅的打撃」と「内戦防禦」」にある東条英機の 言葉を引用した次の部分で下線部のみが 3 紙共通で掲載されていない。以下の抜粋は 『毎日新聞』からのものである。『朝日新聞』は下線部の該当個所,「『このことは敵に対 し致命的打撃を与へんと十分に準備してゐる帝国海軍に対しても同様である』と述べて ゐる。」の 2 カ所が掲載されなかった。『読売報知』は「『日本から…』と述べてゐる」 までの短い部分が該当する。この一文は『朝日新聞』が意図的にこの文言を編集の対象 としたことで 3 紙が共通で掲載がない個所となっている。 ⑧ 匠瑳胤次少将は一九四四年二月二日次のやうなことを言つてゐる。 「日本は米英の攻勢企図を充分に認識して彼等の戦闘力を弱化せしめるやう努めつつあ る,これによつて我が内戦防御陣は戦争遂行中不変のものとならう」又東條首相は一九四 四年の初め国内の不平が囂々として起りつつあつたのに驚き,「日本は当時物的にも人的 にも戦備は改良され,今や敵の攻勢に対する一時的な受身の段階を過ぎて,遠からず攻勢 に転ずるであらう」と述べてゐる。「このことは敵に対し致命的打撃を与へんと十分に準 備してゐる帝国海軍に対しても同様である」と述べてゐる。 同章第 9 節目「支那基地 B 二九「内線」を攻撃」では次の個所が該当した。抜粋部 分は『朝日新聞』の編集個所だが,下線部のあとの「これこそ…予告でもあった」まで は掲載がある。『毎日新聞』『読売報知』はこの部分が掲載されていない。 ⑨ 当時鞍山は日本第二の製鉄所を持つてをり,軍需生産の二割に当たる銑鉄及び鋼鉄を生 産してゐた。この作戦で B 二九爆撃隊は一時間に亘つて爆弾を投下し続けたが,B 二九 の損失は僅かに二機であつた。この攻撃は支那において行はれたものの中最大のもので支 那を基地とする航空機としては未曾有のものであつた。又これこそ日本の軍需工場を更に 破壊する攻撃への予告でもあつた。 サイパン及びグワム基地の攻略,支那基地航空兵力の強化,数百の艦上機を擁し行動自由 なる第五八機動部隊の海上機動によつて,太平洋の戦ひは組織的に,又全力を出して日 本々土を空襲する戦への形相を呈して来た。 最後に 17 章「フイリツピンの戦い(その二)−最後の段階へ−」の最初の節「比島ゲ リラ隊の活躍」では,各紙の掲載に大きなちがいがあることがわかった。『朝日新聞』 は下記の抜粋部分全体を掲載していない。下線部が 3 紙共通の部分だが,『毎日新聞』 は「このゲリラ部隊の中には」から「兵士がはゐつているものもあつた」までが掲載さ 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 8
れていない。『読売報知』は波線で記したように,非常に細かい編集が行われているの がわかる。 ⑩ ゲリラ隊の中には,米軍が降伏した後日本軍の圧政から脱し,山岳地帯に逃れた米人の 指導者や兵士が入つてゐるものもあつた。彼等は短波のラヂオ・セツトを使用して,豪州 にあつたマツカーサー司令部と連絡を続け,またその補給は潜水艦によつて絶えず送られ てゐた。米軍がレイテ島に上陸するや,彼等の活動は日本軍に対するサボタージユといふ 孤立した行動や日本軍を悩ます行動となつて現はれた。しかし乍ら,これらの孤立したゲ リラ隊は協同行動を必要とする時には再び集結し, 以上が冊子には見られるが新聞紙面では掲載されていない文章である。各章,各節の 流れを損なわないように編集することによって,各紙が対象とした部分が重なったのは 偶然であり,日本語の流れからもそこが最も適していると考えられた部分であったとい える。 (5)冊子に記載されている日時が紙面と異なっている 紙面と冊子を比較して見ると,日付のちがいがあることがわかった。冊子の第 8 章 「日本軍閥独裁制の発展 −一九三八年−四〇年の政治展望−」の第 3 節「独ソ協定批 判」では,平沼内閣の総辞職を 1939 年 8 月 23 日としているが,新聞各紙は 28 日と記 載している。実際には新聞紙面の方が正しい。また第 15 章「東條首相の没落 −日本, 最後審判の年を迎ふ−」の 2 段落目にあるヒトラーの暗殺計画について触れた部分の日 付として冊子,『朝日新聞』,『毎日新聞』は 1944 年 7 月 27 日を記しているが,『読売報 知』だけが 20 日を記載している。暗殺計画について調べると 20 日が正確であると思わ れる。同じく第 15 章の第 3 節「内閣更迭は単なる間に合せ」にはミッドウェー海戦の 日付が冊子では 1943 年(昭和 17 年)とある。新聞各紙では 1942 年(昭和 17 年)と 記載しており,これも新聞紙面の日付が正確である。第 16 章「フイリツピンの戦ひ (一)−レイテ,サマールの戦闘−」第 1 節目「空母集団日本航空へ威力を無力化」で は,「八月の初め」とあるが,『朝日新聞』のみは「9 月」としている。正誤については 不明であった。また同章第 3 節「米軍レイテ島に上陸」では 11 月 20 日にアメリカによ ってフィリピンに対する誓約が果たされたとしている日付は,『毎日新聞』『読売報知』 では 10 月 20 日と記載している。米軍がレイテ島,サマール島に上陸したことについて 触れていることから,調べてみると 10 月 20 日が正しい日付であるとわかった。最後に 第 18 章「硫黄島と沖縄 −日本への飛石−」の最初の部分で「一九四五年(昭和二十 年)の二月の第二週目の終から硫黄島は連続六十六日間爆撃されたのである」と冊子は 記しているが,3 紙ともに 1944 年(昭和 19 年)としている。硫黄島の戦いは終戦の年 のことであるから,新聞各紙の表記が間違っている唯一のちがいがここにあった。この 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 9
連載は終戦の後の 12 月であるが,わずかに 10 ヶ月前のできごとについてその日付が間 違うのだろうかという疑問が残った。この場合,記載ミスがそのまま掲載されたと考え るのが妥当であるかもしれない。 (7)意図的に編集の対象となった可能性 これまで各紙の共通点などを上げてきたが,ここでは特に意図的と思われる編集削除 の対象となった個所をいくつか取り上げる。 第 1 章では『朝日新聞』から次の 2 カ所を取り上げる。 ① これによつて始めて日本の戦争犯罪史は検閲の鋏を受けることもなく,また戦争犯罪者 達に気兼ねすることもなく詳細に且つ完全に暴露されるであらう ② 軍国主義者と同一の戦線に立たなかつた者は皆,国家の安寧を乱す「危険」分子として の烙印を押され,しかも一度の審問を行ふことすらなく獄舎に放り込まれるといふ横暴振 りに遭つたのである このようにとても強い言葉で軍国主義を批判した言葉が掲載されていない。同じよう に毎日新聞では次の一部だけが文章の中から削除されている。この部分は『朝日新聞』 『読売報知』では掲載されている。 ③ 何といつても彼らの非道なる行為で 第 2 章では『読売報知』からは次の個所が掲載されていない。日本軍による中国での 行動を批判的に扱っている部分が掲載されていない。 ④ 表面的には新国家は支那人のものであつたが,各省大臣についてゐる日本人「顧問」達 は日本占領軍司令官と同一人物たる駐満大使に対し責任を有してゐたのである。 新国家が成立一週年記念日を迎へない中に,日本軍と「満州国」とは熱河省を侵しこれを 併合した。又「満州国」に通ずる長城を占領して支那軍を長城外に釘付けにし,長城外か ら新国家を妨害できぬやうにし,日本軍は長城外に非武装地帯を設置したがこの地域は華 北の北平及び天津の城門に亘る広範囲のものであつた 同じく『読売報知』では第 3 章末から第 4 章にかけての次の個所を掲載していない。 中国での軍部の行為に対する痛烈な批判と皮肉,侮蔑的な表現が掲載の対象から外され ている。 ⑤ 華北に於ける完全なる日本の支配は政治的領域に於ても或は経済的領域に於ても成功し たとはいへないものであつた。即ちこれは一九三六年(昭和十一年)及び一九三七年(昭 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 10
和十二年)の始めに於て次第に明らかとなつて来た争へない事実なのである 第四章 国内の政治的不安 当時の満州事変は漸く第三年目を迎へたばかりだつたが,この平和国家への侵略がもたら した政治的不安はこの頃燎原の火の如く燃え上つて行つた。政府の後盾を持つ候補者連中 が総選挙で一敗地に塗れた事実は明かに日本国民の憤懣を暴露したものであり,同時に満 州事変に対する国民の不評をまざまざと見せつけたものであつた。一方満州において勝利 の陟々しくないのに焦慮した軍部は,ここにおいて日本史上最も恐るべき暴力とテロの活 動を開始するに至つたのである さらに『読売報知』は第 7 章末尾の部分からも中国での残虐行為について書かれた部 分が削除の対象となっている。 ⑥ 死人に口なし,併し日本兵は彼等自身が持つてゐる写真でその恐る可き反抗を充分証明 することが出来る筈である。 この南京の残虐行為こそ,結局中国を徹底抗戦に導く結果になつたのである 中国に関する既述の削除は『読売報知』だけではなく『朝日新聞』にも見られる。第 9章の「新東亜秩序」では次の部分が掲載されていない。 ⑦ 併し対支攻勢が失敗したとみるや,平沼男は中国における外人居住地域に対する嫌がら せを行つて外国勢力を中国から除去しようとし,同時に防共協定を軍事協定にまで持つて 行かうとした 連載初日の最終章にあたる第 11 章では,『朝日新聞』から「バターン死の行進」と言 われる部分で次のような一文が掲載されなかった。 ⑧ 日本軍の獣性は降伏のその日から初められバターンからサンフエルナンド迄で八十五哩 の道を歩みながら彼等の惨虐性の焔は盛に燃えさかつたのである ここでは『毎日新聞』を取り上げていないが,『毎日新聞』はまとまった段落や節な ど比較的大きく掲載の対象から外しているため,特定の部分ということではない。しか し,連載 2 日目からの第 12 章では「珊瑚海海戦」という所から次の 2 カ所が掲載され ていない。 ⑨珊瑚海々戦 この戦争に対する日本の大本営発表は日本海軍が最初のしかも甚大なる損害を蒙つたにも 拘らず,その損害を明確にしようとしなかつた ⑩ これ等の誤れる発表は,その後,不幸にも日本国民をして真の戦争の進行状態に対し目 を蔽はしめたのである 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 11
また特定の人物をあげている部分もある。以下の抜粋はすべて『朝日新聞』からであ る。一つ目は第 17 章「フイリツピンの戦い(その二)」から,ルソン島に米軍が上陸し た時のことが書かれている部分からである。陸軍大将山下奉文について次のような表現 が使われていた個所が削除されている。 ⑪ 山下が米軍の最後の一兵まで殲滅すると豪語した ⑫ 比島総指揮官として威張つてゐた ⑫はその後に「山下大将は,」と続く。一方で,第 19 章のサンフランシスコ講和会議 にかかわるアメリカ大統領ローズヴェルトについて書かれた次の部分も掲載されていな い。 ⑬ 四月十三日,デモクラシー新世界の指導者の一人たるルーズヴエルト大統領は,その公 的生涯の最大の勝利を実現せんとしつつある時,脳溢血のため逝去した どのような意図でこの部分が削除されているのかは判断が難しいが,アメリカの正当 性を強調している部分が考えられる。 原爆投下にかかわっても最終章第 20 章では次の個所が掲載されていない。 ⑭ 爆弾投下の後四時間に亙つて塵埃と煙が市中を包み,市外数ケ所に火災発生が認められ る程度であつたので,直ちにその損害の程度を見極めようとすることは不可能な有様だつ た 以上 14 カ所,特徴的な部分のみを取り上げた。実際に全文を調査していくと非常に 細かく編集がされており,各紙に掲載された連載は苦心の編集の末といった様子がうか がえる。 このように,新聞連載「太平洋戦争史」は各紙に様々なちがいがあり,一定とはいえ ないまでも多くに部分で日本批判を少しでも避けようとする傾向があったようである。
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.編集の可能性と民主化の流れ
3−1.編集の可能性 当時のマスメディアは GHQ の直接管理下にあり,事前検閲も行われていたにもかか わらずここまでに確認できたようなちがいが各紙に見られた。GHQ が掲載を指示した ものは検閲の対象から外れるという前提があるにせよ,なぜ各紙これほどまでに異なっ た掲載が可能であったのかという疑問が浮上する。 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 12結論から述べれば,これは CI&E(民間情報教育局)と CCD(民間検閲局)の職務 の範囲を定めた GHQ の組織構造に起因するものであると考えられる。この 2 つの部局 に関して,それぞれを調査・分析したものは多く,すでにあげた「日本人再教育プログ ラム」など占領統治を円滑に進めるために重要とされる活動が行われていた。ところ が,GHQ 内の各部署がどのように連携していたのかを記したものはほとんど見当たら ない。このことに触れている文献の中で,松浦総三が『調査情報』に 1972 年 1 月号か ら 21 回連載した「体験的戦後ジャーナリズム論」の第 1 回「占領軍言論政策の二重 性」(2)で紹介したメリーランド大学マッケルディン図書館日本課主任であったジャック ・シギンズの講義原稿にこの組織構造上の要因が詳しく紹介されている。シギンズは CI &E新聞課の任務と CCD の検閲の任務の間には職務上の協力関係または相互関係がな いことを指摘している。紙面編集の指導的役割を果たす部署,つまり検閲を役目とする 部署である CCD と掲載されるべき情報を指導する部署,ニュース・サービスの役目を 担っていた CI&E では所属の組織系統も別であり,当然考慮されるべき連携関係もな かったのである。どちらも組織としての GHQ の内部にある部署ではあるが,「これら 2つの局は,まったく分離した計画のもとに,異なった道を進んだ」(3)ようである。CI& Eは「民主主義の道に従った日本の報道を形成する責任」を託されていたが独占的では なく,CCD は「言論の自由に責任ある報道を日本で発展させる命令は受けていない」 ことから,「連絡はあったが」この両者には「共通の事務的な打ち合わせはなかった」(4) とされている。 これらのことを裏付けるように,山本明は「新聞「編集権」の成立過程」(5)で,民間 情報教育局新聞課は 1946 年 5 月まで,編集面に対する直接的指導の役割を与えられて いなかったとして,バーコフ新聞課長の言葉を引用している。 「編集上の方針とか,そういうものに関する限り自分は日本の新聞にたいして,どうせよ, こうせよという権利をもつている訳ではない。また自分の事務所の仕事は検閲のことにも関 係がない」(6) このように「新聞課の役割はニュース・サーヴィスに限定される」(7)ことを明らかに した。CI&E の作成した「太平洋戦争史」は CCD にも原稿がわたされていたのか,ま たもしわたっていたとすれば,CCD ではそれをどれほど重要視したのだろうか。全く 関与していなかったとは考えがたいが,掲載内容をチェックしていなければ今回明らか になったような各紙の独自の編集が可能であったということになるのだろうか。この疑 問については今後に課題を残すことになった。とはいえ,当然このような構造上の“死 角”の存在を,新聞検閲が始まってから報道活動における様々な模索をしてきた大新聞 である 3 紙が知っていて利用したと考えるのが自然ではないだろうか。掲載量の限界な 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 13
どは GHQ にとっても最初から考慮の内であったことも要因の 1 つとはいえるが,各紙 の比較から見られた掲載内容の選別と思われる明らかな差は,この“死角”を活用した 結果である可能性は非常に高い。これにより先述のように極端ともいえる批判的な文言 を含んだ部分を多少削ってもそれを戻すように指導されることはなかったと考えられ る。 3−2.民主化運動と編集方針 紙面を比較してゆくと,掲載対象から外れた部分には各紙の意図する具体的な傾向を 読み取ることは非常に困難であった。日本軍,軍事政権,大本営,戦果に関する虚偽報 道,政治家,活動家,軍人など個人を上げた日本側への痛烈な批判,そしてその対極に あるアメリカの正当性の誇示などいくつかの要素を選び出し,3 紙それぞれの傾向を見 いだそうとしたが一定の傾向を特定することはできなかった。ただ実際にはこれらの要 素を各紙それぞれがその時々に応じて編集削除の対象としていたことは明らかである。 冊子の単位でみる各章ごとに各紙が紙面上に掲載可能な文字数の範囲での調整が優先さ れている一方で,一部特徴的な削除と思われる個所もいくつかある。『毎日新聞』は掲 載量の多さからも最小限の編集と見ることができ,指定されたものを可能な限り掲載し たと見ることができる。一方『読売報知』は掲載量が最も少ない点からも明らかなよう に,GHQ の指定原稿に対して大幅な編集を加えたという対比が可能である。『朝日新 聞』はこの 2 紙の中間に位置するような傾向が見られ,他紙とは異なり「支那」という 表現のほとんどを「中国」と変更するなど,対外的な方向性の変更も見られた。この大 きなちがいはいったいどうして生まれたのだろうか。 その大きな要因の 1 つとして考えられるのが,終戦からあまり時をおかず本稿で対象 とした 3 つの新聞社では組織的な改革,民主化運動が激しくなっていったことが上げら れる。ただ,その方向性もスピードも 3 社それぞれに異なっている。この民主化運動の 進行方向と速度のちがいは多少ながらも各紙の掲載内容にも影響したと考えられる。 最初に明確な動きを見せたのが『毎日新聞』であり,執行部の総入れ替え,上申書, 「編集根本方針」,「毎日憲章」など大きな動きを見せた。1945 年 8 月 20 日には,社長 の奥村信太郎が辞任,同月 29 日には編集最高幹部が総退陣している。ここでは特に戦 争責任についての表明はなかったが,毎日新聞社の動きは驚くべき速さであった。毎日 新聞社の行動の中でも特に注目したいのは,「編集根本方針」と「毎日憲章」である。 「編集根本方針」は GHQ からの問い合わせに対する回答として 45 年 11 月に出された ものであると『「毎日」の 3 世紀』(8)に記されており,「終戦直後の諸問題に対処する姿 勢を 9 項目に亘って詳述し「自由な新聞」の確立を表明したもの」(9)とされている。こ こでは次の 3 つが掲載されていた。 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 14
1.国民大衆に,敗戦の冷厳な事実を更に一段と的確詳細に認識させて軍国主義的思 想の完全払拭に努める 1.国民の自暴自棄的傾向を阻止し,国民に対して平和日本再建の気力を懐かせるよ うに努める 1.日本の国情と民族性に適応した民主主義政治の確立に努める この方針は 1950 年に再度修正されたが,過渡期の所産としても第 1 項にかかれてい る「軍国主義的思想の完全払拭」は今回の連載とも大きな関係がある要素である。「毎 日憲章」(10)の制定は 1946 年 2 月であり,連載より後ではあるがその内容は GHQ の意 図するところに沿うために様々な準備がなされていた時期と同時期であり,掲載量が最 大であった理由が伺えるものである。『毎日新聞』に掲載された連載を冊子と比較する と,他の 2 紙のようにあちこちを掻い摘んだように細かく文章を削るというものではな く,冊子にある 1 節を大きく掲載から外す,小さい部分でも複数段落をまとめて削除す るという傾向がある。他紙との傾向の差異はこうした初期に出された編集方針の影響が 考えられる。 『読売報知』は「読売争議」として有名な戦後日本を代表する労働争議が起こってい る。歴史に残る労働争議としては,日本の新聞社を見ても最初であり最大であった。読 売争議の詳細については本稿では触れないが,当時の読売新聞社の編集方針に影響がな かったとはいいきれるものではない。9 月 13 日から始まった社内改革の動きと上層部 の対立は激しくなり,GHQ は鈴木東民ら争議を起こした側を支援したが,「太平洋戦争 史」の連載はすでに第 1 次争議の終盤にかかった頃であった。12 月 12 日に社長正力松 太郎は A 級戦犯として巣鴨プリズンに拘置され第一次闘争の幕が下りる。第 1 次の争 議は GHQ による支援があったがその後の対日政策が変更になったことから第 2 次では 争議を起こした側は敗北する。こうした背景を考慮しても判断が非常に難しいのは,激 しい民主化運動の流れとして労働争議を見た場合,GHQ が支援したにもかかわらず, GHQが重要視したと思われる連載初日の掲載量が最も少なく,むしろ非協力的な姿が 伺えるのはなぜかということである。連載開始時点では争議は終盤にさしかかってお り,2 回目と 8 回目から最終回までの掲載はほぼ 100% であり,3 紙の差はほとんどな いにしろ最も掲載量が多くなったのは,こうした背景があったのではないだろうか。具 体的な編集方針が明示されたわけではないが,GHQ による争議への支援があったこと, 争議の最大目的である人事の刷新などが大幅な方向転換を生み出したと考えられる。 『朝日新聞』の場合も「社内革命」「十月革命」などと称されている社内での変革への 対立騒動が起こっていた。この騒動は 1 週間ほどでおさまるが,社主村山長挙・親米派 鈴木文四郎などが戦時中の東京や大阪などの編集責任者などを追いやろうとし,旧編集 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 15
陣による反撃が起こった。こうした対立が全社に広まり,結果として双方が退陣すると いう人事の大幅な刷新へとつながる。騒動のあった当時東京編集局長だった細川隆元は 「私の編集方針としても,親米と民主主義を紙面作成の基本方針とする以外に手はない わけだが,アンマリ歯の浮くような態度は努めて避けて,ステップ・バイ・ステップに 紙面を変えていこうと考えてもいたし,又実行もしていた。」(11)として,「革命」の起こ る前段階までの『朝日新聞』の編集に関する方向性を示していた。 昭和 20 年 11 月 7 日付の『朝日新聞』に朝日宣言「国民と共に立たん」(12)と銘打って 掲載されたものがある。当時政経部次長であった森恭三によれば,これを書いたのは政 経部長の長谷部忠に命じられた森本人で,10 月 23 日にかかれていたことがわかる。起 草と掲載の日時のずれの明確な原因は不明だが,騒動のただ中にあって,宣言にあるよ うに上層部のほとんどが辞任することになる話し合いの最中にかかれたため,新しい上 層部が決まってから発表された。細川は「この宣言文そのものは,実は戦争協力者たち によって起草されたものだから,物事の内幕というものはおもしろいものである。」(13) としている。 田中哲也は,『或る戦後史『朝日新聞』の軌跡』(14)の中で先の宣言について次の 4 つ の点を上げてその重要性を示した。1 つ目に,10 月 23 日の従業員大会において採択さ れた宣言が,そのまま朝日新聞社の宣言として掲載されたこと。二つ目に内容につい て,「朝日新聞は支配層とは手を切り,働く大衆の側に立つことを明言している。新聞 がこれほど自己の立場を明確に示したことはかつてなかったこと」であるとしている。 3つ目に宣言が朝日新聞の総意に基づいていること,4 つ目に,他社に与えた影響の大 きさを上げている。 細川はこの騒動の中心的な人物の一人であるが彼らの要求で,社長村山長挙の辞任, そして重役も総退陣となったが,局長クラスも同様に退陣となり,細川他編集局長クラ スはほぼ全員が辞任した。ただ,それぞれの後任人事が細川らの判断で決められたこと を考えると,細川らの考えた編集の方向性が大幅に変わったとは考えがたい。騒動に関 わり細川が「実際毎日や読売と比較すると,明らかに朝日の紙面は転向が派手でなく, モッサリとした作り方だったことは事実である。こんなことはこっちは百も承知で作っ ていたのだ」(15)としているように『朝日新聞』の編集方針が他の 2 紙とは少し違ったこ とが伺える。 ここまで戦後の『朝日新聞』の社内で起こった民主化運動による紙面への影響を考察 してみたが,『朝日新聞』に関してその民主化運動は主として人的なものが多く語られ るだけであり,特に具体的な編集方針が示されたわけではなかった。 このように,明確な一貫性のある編集方針,またその傾向を見いだすことは困難であ 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 16
ったが,全体の傾向は敗戦後まもなく始まった民主化運動の流れからも読み取ることが できる。戦後の政治的・社会的に不安定な状況と変革への動きのなかで,直接統治を受 けた新聞各社のやはり同様に不安定な状況と変革へのマスメディアとしての動きが,同 じ連載を掲載したのにもかかわらず,これまで見てきたような特徴のつかみにくいちが いにあらわれたといえるのではないだろうか。
お わ り に
占領期の最大のメディアである新聞の社会的役割を検証する上で,この時期に掲載さ れた最大で最長の連載である「太平洋戦争史」を取り上げ調査検討をおこなった。その 役割は当時のメディアに課されたものであり,強制された面と望んだ面との両面が表裏 一体となっていたといえる。「日本人再教育プログラム」初期の重要なプロジェクトと して行われた「太平洋戦争史」の新聞連載は,全国紙 3 紙を比較してみると掲載に大き なちがいがあることがわかった。そしてそのちがいはそれぞれに異なった各社の民主化 運動が背景にあり,その影響を受けた可能性が非常に高いといえる。GHQ はマス・メ ディアの直接管理を行っていたが,その組織的構造は入念に準備されていたといえる一 方で完全なものではなかった。構造的欠陥とまではいいきれないが,その不完全性が生 み出した“死角”が,新聞社の活動許容範囲を多少なりとも広げることにつながり,そ れが今回の連載における各紙の相違につながったと結論づけることができる。ただし, この相違が各紙の読者全体における戦争観形成の相違へとつながったかどうかについて 今後に課題を残した。 「日本人再教育プログラム」をひとつの大きなパブリック・リレーションズ活動と見 るとき,日本人の戦争観はおおむねこのプログラムの中で意図されたように形成された 見ることが可能である。すでに述べたように「日本人再教育プログラム」には目的とさ れる 5 つの項目があり,第 1 項の「軍閥主義と極端な国家主義の撲滅」および第 2 項の 「日本の敗戦の事実を明らかにし,日本国民に戦争の責任,日本軍の犯した残虐行為及 び日本指導者の戦争犯罪を熟知せしめる」とある。その目的を果たすための重要な役割 を担ったのが新聞連載の「太平洋戦争史」であり,ラジオ番組の「真相はかうだ」であ る。吉田裕は「日本国民の戦争観の『矯正』」(16)と表現しているが,この「矯正」は日 本社会に一定の定着を見た。新聞連載「太平洋戦争史」は各紙の掲載個所にちがいがあ るが,どのように編集をしても目的とするものは伝わる構成になっていた。パブリック ・リレーションズの手法から考えると編集は当然想定されるものであり,それをふまえ た上で文章は構成される。当時すでにアメリカでは様々な分野で使われていたパブリッ ク・リレーションズの手法をもってこの長大な連載が作られたかは不明だが,多くのパ 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 17ブリック・リレーションズの専門家達が GHQ の活動には参加していたことはすでに明 らかである。私たちの身近に日常的にあるパブリック・リレーションズ活動は 1945 年 当時であっても,このような一国の社会における世界観形成に大いに活用されているの である。 本稿の調査・検討は十分とはいえず今後に多くの課題を残したが,これまで詳細な比 較検証が行われていなかった新聞連載「太平洋戦争史」を『朝日新聞』『毎日新聞』『読 売報知』の 3 紙を対象とした比較・検討をおこなうことでこれまで注目されていなかっ た,各紙の連載の詳細な相違点とその背景の一部を明らかにすることができた。様々な 議論がなされる日本の太平洋戦争史観が形成された過程で新聞各紙がわずかな行動の許 容範囲内で独自性をもって活動していた一面を見いだすことができたと考える。 資料:「太平洋戦争史」文字数比較表(全体) 資料 2:太平洋戦争史比較(比較表例) 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 18
資料: 「太平洋戦争史」文字数比較表 章 冊 子 『 朝日新聞』 『 毎日新聞』 『読売報知』 文字数 日 付 文 字数 掲載量(%) 字数差 日付 文字数 掲載量(%) 字数差 日付 文字数 掲載量(%) 字数差 1 2 ,240 12 月 8 日 1,348 60.18 892 12 月 8 日 2,163 96.56 77 12 月 8 日 1,357 60.58 883 2 4 ,391 12 月 8 日 3,891 88.61 500 12 月 8 日 3,516 80.07 875 12 月 8 日 2,782 63.36 1,609 3 4 ,009 12 月 8 日 3,737 93.22 272 12 月 8 日 3,991 99.55 18 12 月 8 日 2,773 69.17 1,236 4 2 ,774 12 月 8 日 2,390 86.16 384 12 月 8 日 1,226 44.20 1,548 12 月 8 日 1,836 66.19 938 5 3 ,096 12 月 8 日 2,528 81.65 568 12 月 8 日 2,458 79.39 638 12 月 8 日 2,240 72.35 856 6 2 ,725 12 月 8 日 2,098 76.99 627 12 月 8 日 1,998 73.32 727 12 月 8 日 1,417 52.00 1,308 7 2 ,703 12 月 8 日 2,601 96.23 102 12 月 8 日 2,677 99.04 26 12 月 8 日 2,209 81.72 494 8 1 ,861 12 月 8 日 1,340 72.00 521 12 月 8 日 1,827 98.17 34 12 月 8 日 1,305 70.12 556 9 4 ,136 12 月 8 日 2,801 67.72 1,335 12 月 8 日 2,945 71.20 1,191 12 月 8 日 2,830 68.42 1,306 10 4,892 12 月 8 日 3,737 76.39 1,155 12 月 8 日 4,663 95.32 229 12 月 8 日 3,397 69.44 1,495 11 3,899 12 月 8 日 3,093 79.33 806 12 月 8 日 3,619 92.82 280 12 月 8 日 3,297 84.56 602 12 3,498 12 月 9 日 3,383 96.71 115 12 月 10 日 3,049 87.16 449 12 月 9 日 3,484 99.60 14 13 2,838 12 月 10 日 2,749 96.86 89 12 月 11 日 2,826 99.58 12 12 月 10 日 2,821 99.40 17 14 5,064 12 月 11 日 3,552 70.14 1,512 12 月 12 日 4,396 86.81 668 12 月 11 日 4,044 79.86 1,020 15 3,109 12 月 12 日 3,113 100.13 −4 12 月 12 日 2,960 95.21 149 12 月 12 日 3,053 98.20 56 16 2,140 12 月 13 日 2,122 99.16 18 12 月 13 日 2,130 99.53 10 12 月 13 日 2,129 99.49 11 17 3,229 12 月 14 日 2,769 85.75 460 12 月 14 日 3,052 94.52 177 12 月 14 日 3,038 94.08 191 18 3,607 12 月 15 日 2,788 77.29 819 12 月 15 日 2,969 82.31 638 12 月 15 日 3,617 100.28 −10 19 2,839 12 月 16 日 2,179 76.75 660 12 月 16 日 2,821 99.37 18 12 月 16 日 2,839 100.00 0 20 3,466 12 月 17 日 2,779 80.18 687 12 月 17 日 3,436 99.13 30 12 月 17 日 3,444 99.37 22 Tot al 66,516 54,998 82.68 11,518 58,722 88.28 7,794 53,912 81.05 12,604 8−De c 36,726 29,564 80.50 7,162 31,083 84.63 5,643 25,443 69.28 11,283 9∼ 17 29,790 25,434 85.38 4,356 27,639 92.78 2,151 28,469 95.57 1,321 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 19
資料:太平洋戦争史 紙面比較の一例 第五章 国際的火薬庫(その一)(一九三三―一九三五)(昭和八年―昭和十年) 『太平洋戦争史』 『朝日新聞』 『毎日新聞』 『読売報知』 日本,帝国主義的意図を否定 これより四日以前,日本外 相は,グルー駐日大 使 に 対 し,日本が中国における特権 を要求するとか,中国の領土 保全,政治的主権を侵害する とか,あるひは他の諸国が中 国と善意の貿易を営むことに 対し妨害を加へんとするなど の意図は全然ない旨を闡明 し,日本は支那において他国 を故意に刺戟するやうな行動 は一切採らないことを確約し た。グルー大使は以 上 に 対 し,米国政府並びに国民は日 本が政策に関する声明をあれ これ並べ立てるよりもむしろ 一層具体的にこれを実證する ことを遙かに望んでゐると回 答した。 一九三四年(昭和九年)五 月十六日ハル国務長官は齋藤 駐米大使と懇談を遂げた。長 官は従来も屢々齋藤大使と会 見し,米国最大の希望は平和 政策の遂行にある旨日本政府 に納得せしむべく努力を重ね てをり,十六日の会もこの線 に沿つたものであつた。ハル 長官は三日後更に齋藤大使と 会見してゐるが,その際大使 は日本政府は過去数週間中外 に声明し来つた外交方針,即 ち日本は極東の平和維持に関 する限り優先権を保有すると いふことを単に繰り返したに 過ぎなかつたハル長官は日本 政府が何故特にこの極東にお ける優先権を持ち出したの か,またこれは将来 は 結 局 「東洋の制覇」といつた性格 にまで発展するのではなから うかと質したが,大使はかか ることは日本の企図するとこ ろではないと言明した。 次でハル長官は,目下再軍 備強化に関する噂が世界の随 所に拡まつてゐること,しか してこれが責任は主として日 独両国にあると思惟されてゐ る点を指摘し,更につけ加へ てもし世界が日本は何等覇権 に対する野心もなくその他不 当な干渉を行ふ意図も持ち合 さないことを了解すれば日本 はこの軍拡論議に責を負はず に済むだらうと述べた。 中国→支那 中国→支那 支那→中国 長官は従来も屢々齋藤大使と 会見し,米国最大の希望は平 和政策の遂行にある旨日本政 府に納得せしむべく努力を重 ねてをり,十六日の会もこの 線に沿つたものであつた。 指摘し,→指摘した 更につけ加へてもし世界が日 本は何等覇権に対する野心も なくその他不当な干渉を行ふ 意図も持ち合わさないことを 了解すれば日本はこの軍拡論 議に責を負はずに済むだらう と述べた。 日本,帝国主義的意図を否定 →日本,意図否定 中国→支那 中国→支那 中国→支那 ハル長官は日本政府が何故特 にこの極東における優先権を 持ち出したのか,またこれは 将来は結局「東洋の制覇」と いつた性格にまで発展するの ではなからうかと質したが, 大使はかかることは日本の企 図するところではないと言明 した。 次でハル長官は,目下再軍 備強化に関する噂が世界の随 所に拡まつてゐること,しか してこれは責任は主として日 独両国にあると思惟されてゐ る点を指摘し,更につけ加へ てもし世界が日本は何等覇権 に対する野心もなくその他不 当な干渉を行ふ意図も持ち合 わさないことを了解すれば日 本はこの軍拡論議に責を負は ずに済むだらうと述べた。 中国→支那 中国→支那 一九三四年(昭和九年)五 月十六日ハル国務長官は齋藤 駐米大使と懇談を遂げた。長 官は従来も屢々齋藤大使と会 見し,米国最大の希望は平和 政策の遂行にある旨日本政府 に納得せしむべく努力を重ね てをり,十六日の会もこの線 に沿つたものであつた。ハル 長官は三日後更に齋藤大使と 会見してゐるが,その際大使 は日本政府は過去数週間中外 に声明し来つた外交方針,即 ち日本は極東の平和維持に関 する限り優先権を保有すると いふことを単に繰り返したに 過ぎなかつたハル長官は日本 政府が何故特にこの極東にお ける優先権を持ち出したの か,またこれは将来 は 結 局 「東洋の制覇」といつた性格 にまで発展するのではなから うかと質したが,大使はかか ることは日本の企図するとこ ろではないと言明した。 次でハル長官は,目下再軍 備強化に関する噂が世界の随 所に拡まつてゐること,しか してこれは責任は主として日 独両国にあると思惟されてゐ る点を指摘し,更につけ加へ てもし世界が日本は何等覇権 に対する野心もなくその他不 当な干渉を行ふ意図も持ち合 わさないことを了解すれば日 本はこの軍拡論議に責を負は ずに済むだらうと述べた。 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 20
註 ⑴ 『読売報知』ではこの部分は「事件」ではなく,「出来事」と記載されている。 ⑵ 松浦総三著『戦後ジャーナリズム史論 出版の体験と研究』出版ニュース社 1975 は,21 回の連載中 19回を編集したものであり,この 1 回目の連載はここに収録されていない。 ⑶ 松浦総三 連載「体験的戦後ジャーナリズム論」第 1 回「占領軍言論政策の二重性」『調査情報』TBS 1972 No.154 p.34 ⑷ 松浦 前掲⑶ p.34−35 ⑸ 山本明「新聞「編集権」の成立過程」『同志社大学人文科学研究所紀要 第五号』1962 p.45 ⑹ 山本 前掲⑸ p.54−55 ⑺ 山本 前掲⑸ p.54−55 ⑻ 『「毎日」の 3 世紀 −新聞が見つめた激流 130 年−』(下巻)毎日新聞社 2002 p.12−13 ⑼ 前掲(8)p.13 ⑽ 「毎日憲章」1946 年 2 月制定 出典:前掲⑻より p.12 毎日新聞は言論の自由独立を確保し真実敏速な報道と公正な世論の喚起を期する。 毎日新聞は全従業員の協同運営により社会の公器としての使命を貫徹する。 毎日新聞は社会正義に立脚し自由,人権,労働を尊重する。 毎日新聞は民主主義に則して文化国家の建設を推進する。 毎日新聞は国際信義に基づき世界平和の確立に寄与する。 ⑾ 細川隆元『朝日新聞外史 騒動の内幕』秋田書店 1965 p.167 ⑿ 出典:森恭三『私の朝日新聞社史』田畑書店 1981 p.68 宣言 国民と共に立たん 支那事変勃発以来,大東亜戦争終結にいたるまで,朝日新聞の果したる重要なる役割にかんがみ, 我等ここに責任を国民の前に明らかにするとともに,新たなる機構と陣容とをもって,新日本建設に 全力を傾倒せんことを期するものである。 今回村山社長,上野取締役会長以下全重役,および編集総長,同局長,論説両主幹が総辞職するに 至ったのは,開戦より戦時中を通じ,幾多の制約があったとはいえ,真実の報道,厳正なる批判の重 責を十分に果たし得ず,またこの制約打破に微力,ついに敗戦にいたり,国民をして事態の進展に無 知なるままに今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せんがためである。 今後の朝日新聞は,全従業員の総意を基調として運営されるべく,常に国民とともに立ち,その声 を声とするであろう。いまや狂瀾怒濤の秋,日本民主主義の確立途上来るべき諸々の困難に対し,朝 日新聞はあくまで国民の機関たることをここに宣言するものである。 朝日新聞社 ⒀ 細川 前掲⑾ p.189 ⒁ 田中哲也『或る戦後史『朝日新聞』の軌跡』汐文社 同時代叢書 1978 p.62−64 ⒂ 細川 前掲⑾ p.167 ⒃ 吉田裕『日本人の戦争観 戦後史の中の変容』岩波書店 1995 p.30 参考文献(脚注・本文中で紹介しなかった資料を中心に掲載) 朝日新聞社編『声 1』朝日新聞社 1984 朝日新聞社編『日本とアメリカ』朝日新聞社 1971 新井直之『新聞戦後史』栗田出版 1972 五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』大阪書籍 1989 講談社学術文庫 2005 五百旗頭真『占領期 首相たちの新日本』講談社学術文庫 2007 五十嵐武士『戦後日米関係の形成』講談社学術文庫 1995 甲斐 弦『GHQ 検閲官』葦書房 1995 嘉冶隆一・荒垣秀雄『天声人語 1』朝日新聞社 1981 マーク・ゲイン『ニッポン日記』上・下筑摩書房 1951 半藤一利『日本の一番長い日 決定版』文春文庫 2006 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 21
熊倉正弥『言論統制下の記者』朝日文庫 1988 高桑幸吉『マッカーサーの新聞検閲 掲載禁止・削除になった新聞記事』読売新聞社 1984 式 正次『新聞外史』新聞之新聞社 1958 思想の科学研究会編『共同研究 日本占領』徳間書店 1972 思想の科学研究会編『共同研究 日本占領軍 その光と影』(上・下)徳間書店 1978 鈴木文史郎『ジャーナリズム批判』弘文堂 1950 袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様』大月書店 1985 袖井林二郎『マッカーサーの二千日』中央公論新社 1976 油井大三郎『なぜ戦争観は衝突するか 日本とアメリカ』岩波現代文庫 2007 日高六郎編『戦後資料マスコミ』日本評論社 1970 モニカ・ブラウ『検閲 1945−1949 禁じられた原爆報道』時事通信社 1988 保阪康正『昭和の戦争を読み解く』中公文庫 2006 保阪康正『占領下日本の教訓』朝日新書 2009 保阪康正『新版 敗戦前後の日本人』朝日文庫 2007 細川隆元『朝日新聞外史 騒動の内幕』秋田書店 1965 松浦総三『増補決定版 占領下の言論弾圧』現代ジャーナリズム出版会 1969 森 恭三『私の朝日新聞社史』田畑書店 1981 山本 潔『読売争議 1945・46』御茶の水書房 1978 山本武利『占領期メディア分析』法政大学出版局 1996 石坂 丘「対日言論制作と SWNCC」『文研月報』NHK 総合放送文化研究所・放送世論調査書 1980. 6 p.23 −34 向後英紀「占領文書にみる対日放送政策の形成過程 米国立公文書館の記録を中心に」『放送研究と調査』 NHK放送文化調査研究所 1984. 10 p.2−11 新聞連載「太平洋戦争史」の比較調査 22
The purpose of this study is to analyze the difference of publication on the newspaper serial “the History of the Pacific War.” This newspaper serial was mandatorily provided by the General Headquarters (GHQ) during the occupational period after the Second World War to major Japa-nese mass media. The serial started December 8, 1945 which overlay the date of the Pearl Har-bor attack in 1941. In an interesting twist, there were differences of compilation on the actual se-rial among Asahi, Mainichi, and Yomiuri-Hochi including expressions, choice of topics and dele-tion of entire stories.
In this part of the paper, actual numbers and sentences that appeared differently from the booklet which is the closest to the original script or newspapers respectively are analyzed in de-tails. Some sentences in the newspaper edition are not on the booklet, and vice versa. Mainichi published the most of what GHQ provided and Yomiuri-Hochi the least. The newspaper editions of each newspaper also published different parts of the provided story. In the last part of this pa-per, the causations of the difference among the newspapers are analyzed from point of the organ-izational structure of GHQ and movement for democracy on Japanese newspaper companies.
Key words : the History of the Pacific War, Mass Media, GHQ, News Paper, editorial control
Comparative Research on Newspaper Series of
“the History of the Pacific War” in December 1945 :
The Role of Serialized Story in Early Occupational Period(Second Part) Aiko Mitsui