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制定の歴史を通して見たる帝國憲法の本義(四)-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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(1)

制定の歴史を適Lて見たる帝国憲法の本義︵空

清 水 谷 隆 蒐

五 明治九年の観音剋創勅語に依って節仙段階に入った憲法制定の準備過程は、明治十凶年の園舎開設勅諭烏依っ て鋳二の段階に入つた。従来は唯漠然と約束され、準備されてゐたに過ぎぬ藩政は、之に依って賛鴻期が確約さ れ、此の時より展蟄に準備に着手されたからである。囲命開設の勅諭といふのは次の通りである。 験他宗二千尤百有飴年ノ沌緒ヲ嗣キ中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ大政ノ統﹁ヲ線撹シ叉夙二立憲ノ政牌ヲ建 テ後世子孫緩クヘキノ菜ヲ馬サンコトヲ期ス耕一l明治八年三光老院ヲ設ケ十仙年二府願愈ヲ閑カシム此レ憤 漸次基ヲ創メ序二楯テ歩ヲ進ムルノ過ご由ルニ非サルハ無シ爾布衆亦験力心ヲ諒トセン 麒ル三止閲/慣観各宜キヲ殊ニス非常ノ寄柴賛三種蓼二便ナラス我蹴我宗照臨シテ上−こ聖上還烈ヲ螢ケ掛漠

商工経済研究 弟十三巻弟一戟︵環㌍監︶

制定の歴史を適して見た.る帝国憲法の本義 ︵山︶ ︼

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(2)

第十三巻 第一沢

六こ︶ こ

ヲ弘メ古今ヲ攣飽シ断シテ之ヲ行フ資脱力聖夜り警明治二七三年ヲ期シ議員ヲ召シ囲禽ヲ開キ以テ耽れ

跡蕊テ成サントス今夜廷臣備品シ恨スニ時日≠以1㌃際立ノ警常ラシム共糾出際収量テハ験親ラ衷ヲ 裁シ時−1及テ公布スル桝アラントス股惟フユ人心準ム訂隠シテ時愈速ナルヲ兢フ浮首相助カシ皆;大計㌢

温ル是レ官シク今二冬ア誤訓ヲ明敏シ以テ朝野駄璧公布スヘシ若シ仇ホ披ラ三躁急ヲ辞ヒ乳欒ヲ煽シ囲安

㌢昏みルモノアラ八鹿スルニ臨地︵ヲ以テ升へシ特三讐妄筑シ爾有衆千絵ス。

率勅

太政大臣 三 傑 瞥∵吏∴

此の段階に於ては憲汝解伴の資料となるものが観る′多い?隕でも汲も重蓼ないの町、上掬勅諭の炊恐を促進

し、購釆の憲法の内容を確定した十四年の政欒である。

十凶年の敦欒といふのは、政府が明治二年以来宮棚の国費を慧ぐ込むで迫り上げに北海道開拓使の朗有柑建物

艦船製造品由酪、僅かに参拾八篤胤、それ孟⋮利息望十年年射で銅眉貿易商脅に都下を許可した事件に封し、

鴬々として起った螢蜘的反封を、大隈二派の政府厩覆陰謀なりとして彼等を政府より放逐した事件である。併

し、この排下問題は、賓はプレの政腰を捲き起した誘因に起首ないので、その原因はー郵に大隈が宥栖川左大臣心

耳を通して上呈した﹁奏法﹂にある。喜を以て表せば、大隈を除く甜参議等ほ■、憲政・S蜜施別報其の内容に闘\

ん、大儀と所見を異にし、大隈は、開拓使官有物排下問萄を利用し、政府を赦慰して∵奏議﹂に含まれた自己

の藩札を行はんとするものだと考へたのである。﹁奏法﹂並政欒の粧締は次の通である。

(3)

見より発、元老院は命を受けて寄港の草案を起草した。しかし、岩倉等は之に不満であつたので、政府自らの

手に於て憲嘩を起草すべく着々準備してゐ㌔然るに争の方針すら未だ定まらざみに懲り、民間の遊動は滴々機

烈となつて釆た。此脆に於て政府も愈々自らの意見を確立するの必要を感じ、天皇に上奏し指診議をして其の意

見を上らしむることにしたゥ持参議は神路絢に隠じ概々意見を上つ㌔ところが大隈猫ト音札を上らないので、

天皇は有榊川宮を通じて督促せし習っれに。すると、大隈は﹁御前に召された時に親しく書上する﹂皇ろで、

豊田に依る意見の開陳を回避した。併しへ天皇は之を躇させ給はなかったのセ、巳むなく倉見警毒し、十四年

主月宮ぉ通しで之一曾上つた。是が﹁奏議﹂である。

奏議の全文は後摘の通であるが、をの要旨は次の緒鮎にあ㌢

て二圃議−掟の開立は時械既に熟せるを以て、速に開立の年月を布告し、窓法の制定及議事堂の創築に着手せら

るべきこと

一、無法は疾裁を以て制定せらるべきこと

一、憲法は十四年申に制定し、同年末又は十五年常に公布せらかべきこと

︼、議員は十五年末に挟撃し、閣議院は十六年首を以で開立せらるべさこと

て議院内閣制に依り、閑談院に多数を占むる政某の首領を以て内閣を組織ヤしめらるべきこと

∵、姦議、各省卿、輔、諸局長、侍講、侍従長等を政篤官、其の他を永久官とし・政義官の外議員を簸ねしめ

制定の磨ぬを通して見たる静観憲法の本義 ︵〓︶ ≦

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(4)

ざること

仙、現内閣を以三政蒐を親政し、園議院開立の年〃公布後に於て、速に施政の主義を見めらるべきこと

大隈はこの輿論を有栖川宮に託するに懲り、奏璽糾は何人にも示さゞるべきことを以てしたが、官は姦後軍

の貴大なるに驚き、之を三億と岩倉に示し富後、御前へ上られた。示され王二雇や碧倉の驚いたことは無論で

ぁる。そこで、岩倉はlニ條と相談の上、右奏議の取下げを厩ひ、伊藤に之を見せしめた。伊藤は之を見て梱度に

︵一︶

︵二︶ 憤慨した。伊藤が何故かう憶鹿したかは明かでないが、彼が岩倉に法った書簡、岩倉の﹁踵右臼胚霊巳等より推

論すると、伊藤の腹は悠うでもあつたらうかと思はれる。

﹁大隈は十四年末迄に態疲を制定し、十六年首には議禽を開設←ようとしてゐるが、図鱒の何たるかをも桝へ

す、外観の憲法をその随躍り入れて、挽急に怒法を制定せんとすることには、紀封に同意出来ない。それも和め

より意見の相違とい∴の誓昌むを得ないが、轟に自分が自分の建議を彼れに示した際には、彼れは自分に同意

の旨星口ヘて退きながら、今密かにか∼る秦議をする。是は自分に封して情義を破るものである。自分は大隈の

意芯のあるところを諒解するに苦しむ。著しぺ隈が何鹿追も自分の主張を行はんとするならば、共に腐食に託ち

て事を行ふことは出来ない。﹂

兎も角、伊藤は憤激して岩倉に酢意を表明した。併し、此の時は三條岩倉の仲裁もあり、大隈も伊藤に面脅し

て他意なき一を述べたので、伊藤も那慮を捌へし共に囲事に=力を致すことゝなつた。 発十二義 第 細 沢 ︵四︶ 四

(5)

一 票こ 伊藤博文の岩倉に挺り熟る帯解︵岩倉公賓記下谷七〇〇貫︶

﹁⋮⋮大隈此節之建盈義仕條過警意鼎忌避諭こテ三晶鈍晶久聖儲雪隠従僕事㌫禁申且亦現今撒衰

之大勢チ執療仕備忘還相違仕儀舐歴史欧洲之沿革欒故之彗想像スル蒜雷管見ニチハ彼建白こ戟ス蒜ノ如

ク成攣容易三野得候モノ★∴不存候到底如斯二大膿之眼首背馳候←ご耳!琴幣且恐縮之至二御座候妄想甘御讐

番組侯外幾回熟考仕候而モ手段無御座候⋮⋮﹂

詰︵こ︶ 座右日歴発雷

﹁念フ警り再蒜フ苧ノ義ハ伊藤ノ論卜異同如何ン歪ナシ基フ其管伊藤冒條公こ向昌ク大隈建臨

内見チ以テ雷ル姦三警ルア得ス如何!レご拷キニ我建讐同望雪意見ノ異同チ間フ同意ノ旨チ以芸 フ然シテ今此志チ以テ邪よ娃富ス同氏斯ノ如キ義チ以蒜ハン⋮レハ共三顧学童孟チ行フ共潤釆ノ品質 \

よ相文難ク孟ノ異同ノ、、、ナラス同氏菅情讐破ル自ラ職チ云々スル大こ憤怒ノ語免アヮ遠誉之蒜ク﹂

ところが、小康を稗にのほ束S聞で、開拓使官有物彿下問題が起るに及んで間顧は再燃した。

あ品の開箱に封する攻撃が起つ蒜には、大腿は澄警屈従し→畢だ居思ったが、この時政府攻奥の中

心芳し忘のは慶應義塾協豊還であり、此の連中は平素より大鹿の門に出入し、前G葵議の際にも此の遡 中の意見が加って、彼れの怒法論が生じたのであつたっ︵彼の秦議を細密した者は彼等の中の一人忘失野文警 あった︶そこで騒ぎが大きくなろに綻って、これは大隈が民間の政客を煽動し、内外呼厳して此螢に出たものと 老へらる∼に莞た。即ち薩痘の勢力i態法上の漸進蓋晋てJ品逐して自己い意見筈はんとする大隈の ︵吾 五 制定の歴史を通Lて見たる帝国憲法の本義

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陰謀であると考へられた。 事驚はどうであつたか明かでないが、兎も角、新聞の論調は激越となる。各所の拭給倉は膵劾の蘇勢を撃げ る。途には政肘の御用新聞記者である福地濾叫郎さへ、新富鹿で政府攻撃の大横詮をする迄に至った。さうして それ等の諭訓は、聞合の由設なき薦、藩閥が斯くの如き膠手な振舞をするのだといふにあつに。さなうだに図倉 願望運動に脅へて居た政府は此の攻螢に遭竺壷の脅威を感サるに至つに。それ詐りではない。流言は頻りに飛 んで、大隈等は今にも暴動を癒すとさへ風詮されるに至った。借りにさうでないとしても、かの激昂せる民衆の 昂奮は何時何如なる形式で爆敬するかも知れ従い。共の民衆はといへば、人橋論を信奉し、民主主義に徹底せる 甚だ危険な行癒である。政府が狼狽したのも無理はない。常時衆議の叫人たる黒‖柄降が岩倉に送ったとされて ゐる書簡の†節に次の如き文字がある。 ﹁賛に図鰭に関する無此上危急之場合に而苦慮鵠在中候⋮⋮⋮返す′′\も姑息之蛸壷に惹かれや断然にる御 慶分無之候而は臍を囁とも不被焉及︵尾佐竹日本憲政皮二九二宵収録︶ 同じ様に政府の狼狽さ加減を侍へたものとしでは倫次のものがある。 常時の政欒は政府人の敬狂と千旦若やう烏有疎で私︵隈澤諭晋︶は其後岩倉から度々呼びに来セソツト其の 茶室のような庭で間食主人公は何かラフイ心配な様子で此度の一件は政府中質に容易ならぬ動柿である。西 南戦争の時にも随分苦労んたが今度の始末はソレよりも六かしいなんかと話すのを開けば飴梓騒いだものと 葦†三食・第 劇 渋 ○ハ︶ 六

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ll−−11

察しられる?︵確翳白停尾佐竹日本憲政虫〓九一三収錐︶ 兎も角政府督格の限には今回の琴伸ば普商戦車以上に映しにのであるり 斯ケな簿と政府はもう夢中せあ宅政府は東北より神道車の革鷲を千仕辟に奉迎して形勢を宮上し、十月十〟 ● 日御還車即夜御前合議料開催して大隈参議免郵﹂陶魯開設勅諭、開拓佗官有物排下底分取消等の件を議した。.此 の中大供の東壁力飯についでは議容易に決しなかりたので、有楢川嘗と岩倉の磯議にせけ、囲倉開設の勅諭と開︰ 拓便官有物排下虞分取消の件のみを議決し、大隈に封しでは伊藤と西郷︵梶造Yよ力離職な勧告することになつ た。大旗は即夜開八よりの酎職拗許を受け酢棄を提糾し㍍。翌十二甘には土摘の開合開設の勅諭が晩発され、.二︰ 十〓Hには太政官職融を政信して、参議と各省卿との兼任を後喝し、叉別に参事院な唱いて閣貞を交逸し、此魔 に藤髭中心の純﹂内閣が成正しに。是が所謂十指年の政、鸞である。 以上を念頭に崖いて十四年の政欒が持つ悪法僻繹の資料としての偶伯を者療して見たい。 此の政欒は政治上より見れ、ば大旗の放逐に依る既婚の純劇化、岩倉努背景よす藤長勢力の確立であつた。去こ ろが大隈諺険て他の諸参議及大臣は憲法埋諭の七に於ても脚数の意見を抱懐し、大隈猫り異なる意見を持つて居 のであるら、 だか此の政欒は憲法細論の上から言りても、政府の純叫化でふ∵り、賂来に封する憲法制定方針の確 耳であつた。爾も泉倉を智恵とする薩長内−翔は革の後も故郷を栄接し、岩舟の授後に於ては∵伊藤、1黒田等が首 班として防長内閲を榊擬してゐる。その伊藤は繭には憲法準腑の焉軟洲ド派追を命ザゃれ、後には大命を奉じ、 制定の歴史を申して見怒る帝国憲法の本義 ︵七︶ 七 へ \

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首相枢硯箱を鹿任しっ∼音波の制定に潜ってゐる。政嗟に因りて決定せられたる方針が制定の時に於て攣覚せら れT居たと見るべき根梯は何題にもない。此の意味に於て、十川年の政轡は憲法解稗の資料として重要なる意味 キ持って来る。 では如何なる方針が政攣に依って決定せられたか。制定方針の公に表明せられたるものは、勿論上述の﹁勅諭﹂ である。併し、是は、どうかと富へば、拙攻的である。其の具慨的なる内容を知らんとせば棉他の材料に伐らね ばならぬ。私はかゝる材料として囲倉開設勅諭燥彼の前夜諸参議が連署進奏しに意兎宙を恕げ庇いと思ふ。 意見書は可成長文である。其の中憲法珊論に関する部分塞げると次の通㌻る。︵諸詣雫鴛七六⊥ 憲法ヲ定ムルノ棟準二寧アハ臣等縮蒜以馬ク痩幽ノ本各瀕流ヲ殊一一ス彼ヲ以テ此レニ移スヘカラス租宗基ヲ 創メ停フルニ紳器ヲUテス民卜之ヲ守ル萬世不易ノ邁ナリ陛下時機ヲ照竪シ古今ヲ欒通シ牌二政樵ヲ分テ之 ・ヲ魔庶工公ニセントス慧軍1粗末ノ遺烈ヲ摘ケ教訓ヲ贋ムルニ過キサルナリ、今風聞政談ヲ虜ス督ヲ祀ルー︻ 好テ欧米詭軟ノ詮ヲ主張シ閲鰭ノ何クルヲ願ミサル者往々之レ有り臣等嘗二之ヲ危ム弼三脚クハ寮汝ノ成各 図ノ長ヲ採酌スルモ我観牌ノ乗ヲ失ハス既ク民議ヲ興シ公一州衆瓜ヲ集ムルモ而モ我烏窒ノ大横ヲ曝サス乾網 ■ ヲ紙撹シ有機ヲ建立シ以テ萬世不抜′基ヲ垂レンコトヲ 臣等叉鶴二按スル一て立憲君治ノ開基ノ以テ某鉦ヲ筆問忘スル研削亦道γリ⋮ニ〓元老院ノ設骨族老成ノ組 杜スル桝夕り二三円陣海軍ハ帝王ノ親ラ統帥スル朔夕り ︵八︶ 八 第十三稔 麓 脚 鍍

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委細三上下閑談院アルハ串ノ両輪アルカ如ジ甲完老院ハ脾二以テ下院卜並ヒ立チ英軍術ヲ持シ忠軍政進ノ 弊デ防竿奪還憲疲ノ保障王象ノ緬艶クラントスルナリ硯テ我力元老院ノ設偉力品ハ端ヲ啓キ軍ア未ダ井蜜ヲ 轟クル三等フス今宜ク其組織ヲ一撃シ之ヲ更張スヘシ其概略友ノ如シ 第鵬 皇族満十八歳−︻室レハ元老官−元シ仔期ヲ眼ラス 節土 筆族鰐佗ノ例ヲ読ケ有辟ノ貴族トナシ北ハ健艮ヲ披キ任期ヲ定メテ元老官二勅使スヘシ 、 第三士鹿ノ封堪武門ノ倣−嘉ケル平民′上墓相シ教育素ヨリ気節有為ノ人多ク其問千田ツ是レ官ク貴族ノ 側部クルヘシ今共中一一披乳之ヲ費用シ輩族卜仇三先老−宛セシメ共報数ヲ収ムヘシ侶之ヲ探ルノ法ハ同 族ノ公選二於テシ仙府願各署千人ヲ拳ケシメ英任期ふ至テモ華族二比スレハ・亦餃短縮二就クヘシ 第四 文武官ノ動攣森ルハ机管見一品ル陸海軍制工学アハ慧シ天子ハ兵馬ノ寵帥云シテ軍人ハ‡栄ノ爪牙 ナり故l義人クル者純ラ観ヲ愛シ翳−一息プルノ築アリテ某ヲ結ヒ政ヲ議スルノ柿アルコトナシ今宜ク其 紀律ヲ制シ陛下叉親ラ之ヲ鼓舞振作シ共鶉方ヲ示シ其レヲシテ侍へテ習風デ成シ以テ永ク開家ノ干城タ ラシムヘシ 之によると、天皇が新に立窓制を採用されんとするのは、組宗の邁烈を掲げその嘉訓を靡めんとせちる、に過 ぎない。従って、各国の長を抹酌・甘るも、蹄櫓S実を失ふ如き制度は、之を採用せざること、殊に近時民間に流 布せらる\詭放なる理論は之を採用せぎること、典髄的に言へば統治樵は天皇之を絶嬉し、試食は立法に帥し参輿 ● ︵九︶ 九 制定の歴史を通して見たる帝圃憲法の本義

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第十ニ⋮谷 第 仙 波 ● ︵脚C︶ 仙○ の槽能を有するに過ぎざるものとなすこと、譲合は二院制となすこと、その上院は皇族華族士族囲豪に動労ある 者を以て雑種すること、軍隊は天皇の親率せらる∼ところとなすこと、要するに立志制を採用するも大横を失墜 せしひるこ′となからしひること、是か意見審の翌日でぁる。即ち鴬見審に表はれた丑意義轟ほ、﹁葵議﹂に表はれ た英樹式自‖‖−主義と興り、叉民間流布の俳蘭西式民主主義とも興り、澗逸式の、否純日本式の君主主義である。 併し、意見書はどうかと富へば飼抽象的である。政攣によつて決定された制定方針が意見習に表はれた以上に 於て如何甘る内容を持ってゐたかは毅に別の朝料に依って知られねば写bぬ。私は斯様な材料として、上述諸参 議の憲法建議中の〓鱒 大隈の秦議と十川年七月に奉呈した碧倉の怒法制定に開する意見育とを挙げ庇い。 天板の衆議は十凶年の三月に泰畠盲れてゐる。北ハの内容は次に述ぶる通であるが㌧十四年の政攣の主凶であ り、改野に依って決定した方針と封既約関係に立つものであるから、左にその全文を視げて見よう。 臣諾テ案スル1森本畢ア而テ柏葉柴へ大網ヲ攣ア而テ細目定ル今日ノ政路1姦ケル應二立ツヘキノ大網有㌢ 今ヤ廟議方二晰流人年ノ盟勅園議院設立ノ夢二及フ則チ意見ヲ論述シテ以テ進ム乗璧採納ヲ賜ラハ何ノ車力 是二義牙γ臣重信誠悦感熱頓首碑冨 明治十g年三月 紀 雛﹁固執院開立ノ年月ヲ公布セラルヘキ番

参 議 大∴ 隈 露 信

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人心大−エ響三叩テ法制太夕後ル、、トキ六典弊ヤ法制ヲ黎填ス人心独ホ後レテ蓮如太ク進ムトキご学制閥ヲ慮 セス故−1共進ム者末ク甚夕多カラス共後ル.、宥和ク少キノ時二倍り法制ヲ改進シテ以才人心二粥フ︵剣チ拾 観ノ良問ナリ 去歳以雑観議院ノ設立ヲ請鹿スル者少カラス英人晶系行工学アハ橙々ノ品評アリト錐要スル三愛等ノ人民ヲ シテ如ノ如キ請願ヲ馬ス三等アシふル者ハ則ハチ是レ人心棺ク脾忘進マントスルノ兆候−一シテ自除丁般ノ人 心ヲ察スルーこ共後ル、者亦甚ク稀少ナラントス琴フハ則チ法制ヲ改進ヤア以テ開議院ヲ開立セラル、ノ時磯 柁ク方工熟スト云フモ可ナり 文人心梢ク進シ法制梢ク後ル、トキハ人心ノ杜著スル桝〓法制ノ改進昆布ルカ名工夫ノ人民三緊嬰ナル外 囲一︻判略スルノ思想卜内閲ヲ改良スルノ思想トハ殆ント共ノ胸裏ヨり放離シ会り唯制法改革ノ軸農工熱中セ シムル三食ラントス是亦閑家ノ不利ナサ 故三民智ノ庶位ヲ察シ園内ノ滑窄ヲ謀ガ別法ヲ改進シテ以テ漸次文意ノ政ヲ布カセラルヘキ染勅ヲ決行アラ セラレンコト是則チ今日應干潟クヘキノ天網應王立ツヘキノ根本ナウ請フ速一〟議院開立ノ年月日ヲ布告セラ レ憲法制定ノ委員ヲ定メラレ議事堂′御報二菅平セラレン○トヲ︵開立ノ年月日第車健一こ詳記ス︶ 節二 閑人ノ輿望ヲ察シテ政府ノ頬骨ヲ任用セラルヘキ尋 常主ノ人物ヲ任用抜擢セラル、ハ固コ“1甘閥人ノ輿望ヲ察セラルヘチコトナレトモ狗裁ノ治髄二於テハ観人ノ ● 別宅の歴史を通しセ見たる帝圃憲法の本義 ﹁T∴︶ 山∵

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輿望ヲ表示セシムルノ地所ナキカ政二或︵功績二察シ或ハ履行二求メ其放観人ノ馬二範望セラルヘシト叡駿 7ルノ人物ヲ娃用シテ政務ノ麒間一一価へラル、や是レ巳ムヲ得サルニ出ル者ナり若シ政鰭二於テ国人ノ輿望 ヲ表示ヤシムル屯ノ地所アランl二其輿望ヲ察シテ以テ人物ヲ任用セラルヘキハ無論ナけ斯ノ如クセ︵則チ 挟按明三共ノ人ヲ得テ真意益々食カルヘシ 立憲ノ政治二於テ輿望ヲ表示スルノ地所ハ何ソ園議院是ナリ何ヲカ輿望卜謂フ議良過寧敷ノ魔璧是ナリ何人 ヲカ輿望ノ踵スル人卜謂フ過年数形ル政教ノ首領是ナリ抑観議員ハ園人ノ推撰スル薯三シテ其ノ思想ヲ表示 スル朗ナルカ故三共推焼ヲ被ムリクル議員ノ望ハ則チ固民ノ望サリ囲民過年数ノ保梼崇敬スル政叢︼仰シテ其 領袖卜仲基スルノ人物ハ卓瓦輿望ノ蹄スル朗−与ラスヤ然別チ立憲ノ治鱒ハ是レ教主力恰常ノ人物ヲ容易−1 叡駿アラセ玉フヘキ軒地所ヲ鈷スル者−;テ弼り撃識絞撰ノ弊ヲ免”レ荒フノ、、、ナラス観衆アシテ野庭寧ノ 壁柑ヲ享有セシムルヲ縛へキナリ何トナレハ斯クシテ撰用セラレタル人物八人民参政ノ地桝ナル閉議院−㌦於 テ過年数ヲ占有スルカ政一−外ニハ則チ立法部ヲ左右スルノ椎ヲ操り又翠玉ノ感触ヲ得テ政府−ェ此チ自琴′人 物ヲ鮫嬰ノ鞄1−配布スルカ故三内ニハ則チ行政ノ寛棟ヲ操ルヲ周へシ是ヲ以テ内外犀フス庶政⋮源ヨリ欒サ 事拷始テ塾頓スヘケレハナリ 共治耀ハ立憲ニシテ英樹靡琴ノ慶摘■フ皐ケス或ハ時小シテ素接粉乳ノ勢撃一章ル列閲治乱ノ迩ヲ揆スルニ足 寄ノ不守一格入スルノ病触ハ常−岬執政者力共地位ヲ谷撥愛情シテ鱒ア辣キト常時ノ署諷力英領遇J頼官ヲ寵 ● 第十三啓 発 劇 班 ︵劇こ︶ 一二

(13)

頚シ能ハサルトヨリ立法部二於テ輿論ノ蹄シタル政義ノ首領卜行敢顕官トノ問二乳轢ヲ生スル三田ラサル者 ナシ夫ノ有名ノ立憲印すル奥園J如ヰモ千七百八十二年以前ハ則是ノ如キ状勢ナりシナ.り然レトキ積年昇 歳ノ経験ヨリ計年以降ハ翠玉モ輿望ヲ察シテ堀官ヲ抹用シ閣議院中多数政盈ノ首領タル諸人t壷職ヲ綬興ス ルー二虫レリ、然輿ショリ以来ハ政府議院ノ問一膚於テ復夕軋轢ノ迩チ見ルコト能ハス河囲政某ノ寧ハ常三議院 一−於テスルモ復夕政府羊於チャサルニ至レり 立寄政髄ノ妙用ハ英資干在テ共形工存セス立法行政司法ノ三権分離シ人民一一参政ノ樺理ヲ附輿スルハ是其形 ナリ議院敦盛政蕊ノ領袖クル人物ヲ延期シテ之ヲ撞婁ノ地位二愚キ庶政ヲ〓源二段セシムル者ハ長英晋ナリ 著シ其形ヲ取テ而テ英資ヲ冷テハ立洛ノ治雄ハ徒二紺豪紛乱ノ端緒ヲ啓クエ足ルノミ然則チ前述セル君主力 人材登鰭ノ茸任ヨリ論スルモ帖問艇寧ノ放球ヨリ論スルモ列囲治乱ノ蜜例二鑑照スル専政府ノ賊官ニハ議院 中ナル多数敦盛政蒸ノ領袖クル人物ヲ任用アラセラレサル可ラス 然レトモ人智ノ薄弱ナルカ馬一二回ハ固民ノ輿望ヲ得クル政叢モ其施設ノ巧拙−一因テ叉衆璧ヲ失ヒ犠院中ノ 多数勢力却テ他ノ政麓二移綺スルコト7ルヘシ是等ノ場合二於テハ敦主亦衆望ヲ察セラレ新勢ヲ得クル政義 申ノ人物ヨリ史−岬鮮官ヲ披撰セラレサルヘカラス議院政眞ノ盛衰ヨリ生スル斯ノ如キ頼官ノ敢迭ハ尤敢然ダ ル秩序アルヲ緊黎トス共新陳交代ノ閉二存スヘキ順序ハ左ノ如クナランコトヲ要ス 内閣ヲ新王組織スルテ嘗テハ聖圭ノ御親裁ヲ以テ議院中−岬多数ヲ占メクリト堕識セラル、政施ノ首領ヲ召サ 制定の歴史を通して見たる帝国憲法の本義 ︵〓ニ︶ 〓ニ

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セラレ内閣ヲ組立ツヘキ旨ヲ御委任アラセラルヘシ然ルトキハ是′内勅ヲ得クル首領ハ其政敵申ノ領袖クル 人物ヲ頼粟ノ諮官−−配起スル釦立ヲ焉シ然ル後公然拳勅㌣ア内閣二入ルヘシ︹内閣ノ組立ヲ委任セラル、ハ 適例政姦ノ骨組ヲ吋トスレトモ時トシテ共晶中自飴ノ人工命セテル、モ町ナり但斯ノ如キ場合卜雄行政長ハ 狛首領ナラサルヘカラス共闘エモ時トシテ此例アルチ見ルナリ︺斯ク股盛政某ヲ堅識セ.ラル、ノ時≠於テハ 政英二閥僻セサル宮方或・ハ三大臣二顧問アラセラレンコソ可ナルヘシ 内閣ヲ組立ル朗ノ政露和ク議院二失勢スルトキハ政府ヨリ下附スル盈犬ナル議案ハ反動鹿ノ焉二攻撃セラレ 歴々議院中二俊英卜馬ルヘシ是則チ内閣政泉火勢ノ兆候ナり斯ノ如キトキハ庶政叫源−一出ルコト能ハサルカ 故二失勢政菰ハ螢時ヲ以テ退職スルヲ常ト㌢ヘシ 斯ク矢数ノ兆候眈主硯然クル時二於テ共政某勢威三谷療シ鉛ホ行政部ヲ考フサルトキハ得執ノ反封某冒議 院工於テ﹁内㈲行政ノ顛官ハ議院言放テ信用ヲ失ハサルヤ香﹂ノ決議ヲ薦サンコーヲ動議スヘヤ是ノ動議二 従ヒ取次シテ耐シテ失信用ナリト決スルトキハ議院ヨリ教主三番寄シ内聞巳三信用ヲ議院−一失フ速−二親裁吏 炊ケルヘキ旨ヲ猫麒スヘシ欠弊政蕊猶ホ退職メサル・トキハ常会ハ議院ノ求−ニ應セラレ之ヲ罷免セラルヘシ ︵英園等ノ例二因り失勢ノ兆候硯ハレシト同時一︼退職スルヲ常トスヘシ︶ 然レトキ執政政故紙工畿院工失勢規ハシ失信用ノ議決ヲ螢ケント欲スルニl臨ムトモ栗シ廣ク闊人ノ茸想ヲ察 シ北ハ蜜二我力政鼓二多数ノ展望テ・ルナ洞識シ現在ノ園議員ハ誤挟サリト認ムルトキ人聖毒ノ允許ヲ蒙り撃主 第十三啓 発 劇 蚊 ︵山四︶ 仙四

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1一特有シまフ議院解散ノ槽ヲ以テ革−−之ヲ散解シ英改撰議員二於テ我力政爵ノ多数クランコ下ヲ望ムヘシ 革シ多数タラハ内閲ヲ永傾セ′ン琴シ無数クラン忘ハ如退職セサルヘカラス是ノ.解散椎ハ桝谷政戴ガ叔後 ノ依頓卜云ラモ可ナつ∴是樵ハ故モ濫用ヲ傾ムヘシ常用スレハ大害ヲ醸ス英園ノ如キモ是例ハ繭三回二過キ ス︶ 以上政鼠更迭ノ・順序ハh大抵英頗ノ例一て依ルモノナ㌢ 第三 政衆官卜永久官ヲ分別スル事 前述スルカ如ク政霹ノ盛衰ヨリ掠官ノ更迭ヲ生スルノ時三方り非更迭、全部二及フヘキヤ僻ク幾分二止ルヘ キヤハ則チ重粟ナル疑問ナサ凡ソ諸般ノ専務︵最モ習熟㌢要ス加フルニ骨相ノ事ノ如キ其細頸ノ條件バ多ク 啓法苫例ヲ参照スルカ故−−最少ノ費融ヲ以テ掩滞ナク最多ノ番ヲ郷セント欲スルニハ罷僚下吏ノ永校勘務ヲ 以テ成モ緊蓼ナリトス然ルニ是等′官吏ヲシテ常二政箕卜更迭ヲ輿−一ヤシメハ其不利不便藍シ音フ可ラサル 者アラン且幾萬ノ官吏共進退ヲ政嬉ノ盛密二繁ケハ各派軋陳ノ勢緒容赦ブ極ムルー一考フン故二宮吏中一l於テ 其職指命ヲ司テ細路ヲ癖執セサル者卜指命二服事シテ細務ヲ親裁スル宥トヲ区別シ・甲ヲ政基官トシテ政策卜 輿l㌦進退シ乙ヲ永久官ハ則チ非政箆官︶トシテ終身劫按′者タラシムヘシ叉上等宮人ノヰニ於テ共地位重職ニ 轟リト雄一閥ノ治安公やヲ保持スル電工政菰二開輿思シムヘカラサル者有り是等ヲハ中立永久官卜偽計一種 ノ終身官トナスヘシ︵英幽ノ例泣伏ル︶ _ 制定の歴兜を癒して見たる静観憲法の本義 〓五︶ ]濫

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第十三容 第 叫 沈

︵〓ハ︶ 〓ハ

政義官ノ橿知ヲ略記スレハ参議各省卿輔及緒局長侍誹侍従長等是ナリ臥上ノ政蒸官ハ大概議員トシテ上下院

二列喘スルヲ得ル者トス︵大抵英均ノ例三伏ル政濃官及ヒ非政散骨ノ別ハ憲法制定ノ時二於テ狛ホ評議ヲ嬰 スルカ故二今唯大螢ヲ摘ク以下亦同シ︶永久官ノ位類ハ各官酷ノ長次官局長ヲ除テ以下ノ奏任官及ヒ属官等 是ナリ是等ノ宮人ハ読点クルヲ得サル者トス︵同例︶ 中立永久官ハ三大緊政撃由輿セス盟主ヲ輔佐シ奉り内閣組立′馬メ最盛政薮;内勤ヲ下サル、時等工於 テ確聞二腑り公平三国益ヲ慮ラレンカ馬メ共非政露骨クランコトヲ望ム且大堅一転ハ輿l義人則闘′官卜定 メラレテ可ナルヘシ︶及ヒ軍官轡祓官法官是ナリ以上三種ノ職︵皆阻内ノ治安公平ヲ保持スルニ在ルカ故ll 共股不備中iEノ令徳ヲ備へンコトヲ欲スヘシ君シ是等′宮人ニシテ熱心政琴南典セハ他泉ヲ厭スルカ鶉メ

蒜ハ兵力戎ハ裁判椎ヲ用ヒ観内ノ治安ヲ妨ケ或ハ其公平ヲ失シ監ヲ騒乱ヲ疎生スル孟ル長英中立不偏

ヲ以テ令徳卜見倣スノ所以ナリ以上ノ宮人モ亦議員クルヲ許サ、ル者トス︵同例︶ 叉永久官則チ非政教官ニシテ政挙手典スルノ迩アレ︵其主長クル者之ヲ退職セシメテ可チリ何斗ナレハ政 鶉官クル主反トノ閲繋二於テ公賓二不利アルコト多ケレハナリ︵同例︶

第凶 虚裁ヲ以テ憲法ヲ制定セラルヘキ事

法規巳−壷テ人之吉保ルトキハ革靴ク定ル法規未夕立クスシテ申ア入党ツ集ルト壷ハ寄動テ琴フス今ヤ錬前 ノ治鰭ヲ天下三雄サレント欲スルー盛り輿完成ご緊嬰ナルハ酢禽璧甲ノ秩序ナり轡発言ヒ指定ルトキハ六 ︳

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馬奔逸シテ秩序容易手牧復ス人力ラス癒二元ツ簾裁夕以テ療法ヲ制零セ⊥フレ是ニ′依テ以テ閲読員ヲ召集セラ

レンコトニプ欲、ス右憲法ノ削軍産テハ内周羊於テ委員ヲ定メラレ準義手セラレ▼ンコトラ巽望ス

藩韓ノ制定ハ盈要ナル、條件≒わテ就中上院ノ組緻下議員ノ横車械鞘撰嘩碓等三軍ア︵最憮密∼用亭ヲ要ス 是専ノ蕗件ハ憲法制定ノ日工上陳スヘキカ故二今是鷹↑l撃盲セス 前速・スル羞ク立富治鰻ノ妙用︵多ク英軍一作スルカ故孟還ハ轡7・簡撃:テ大綱工止ランキトヲ嬰ス叉憲

法ハ二様ノ性質ヲ典鵬ヤンコトヲ要ス二様トハ何ソ其第山郁ハ治囲投機ノ鋸ス・ル析ヲ明ニスル者ナリ其準一

鱒ハ人民各員ノ人櫻ヲ明ニスル著ナリ政囁ノ政行ハレテ人依ヲ豊野.三ル′ノ聾賢ラスンハ共望一口フ可ラせ

ルノ藤寄アラぎ是レ則チ人梯ヲ鮮明スルノ窓草ヲ憲法工添附セント欲スル所以ナリ。

第露 明治十互生季1・議員ヲ撰馨セシメ十六年首ヲ以テ固議院ヲ開カルヘキ寄 立憲政治ノ眞鰭ハ政篤ノ政クルカ故−孟改行政ノ両部ヲ二鰻タラシメ庶政一源三蹄スんノ好結果ヲ得ル一重

ルハ巳一品速夫ル所ナリ之ヲ望貿ルー†立感ノ政ハ疎界ノ秩序ヲ琴フスシテ閣民ノ思想ヲヰ攣一表示セシム

ルユ在り琴ルニ・今園内政菟無キノ時〒於テ卒然閉講院ヲ開設、セハ恨令仙執幾多ノ政箆ヲ生山スヘキモ英銀本

堅固ぞ7ス剛般人民モ亦何レノ敦蕊ハ如何ナル主義ヲ持張スルヤ知ル能ハスシテ政最ノ勢威頻二浮沈スル去

卜多カラン苑シテ琴フハ其混乱紛撰ノ惨態ヲ政治上二現出シ犬ノ配合ノ秩序ヲ虎持スルノ治具三国テ却テ之

ヲ素軋スルン恐アジ減憐セサル∴へ・ケンヤ

制定ゐ歴史を適して見たる帝国憲法の本義 へ一七︶ 一セ

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弟十三惑 第一渋 ︵山八︶ 山八 政教ノ時宜セサル︵蓋シ之ヲ生スルノ地所ナケレハナり然レトモ立憲ノ治醒ヲ晃メラル、ヲ公示セハ放漫ノ 肪穿ヲ後生スルコト應二逮ナルヘシ斯クシテ二軍若クハニ鱒年ノ年月ヲ経過スルヲ許ルサハ各政眞ノ持説大 工世間二硯ハレ図人モ亦甲乙彼此′得失ヲ判定シテ各自二其流脈ヲ立ルl二軍フン是ノ時二於テ議員ヲ撰蓼シ 議院ヲ開立セハ能ク政令ノ秩序ヲ保持シテ以テ立憲冶鱈ノ虞利ヲ牧メ縛へシ 故二議院開立ノ布骨ハ太夕速力ナランコトヲ嬰ス閑立ノ時期ハ卒然急遽ナルヘカラス是等ノ夢理工閃テ考察 スレハ本年ヲ以テ憲法ヲ制定セラレ†五年首薯クハ本年末二於テ之ヲ公布シ十五年末二議員ヲ召集シ十六年 首ヲ以テ始メテ開立ノ期卜定メラレンコトヲ巽望ス斯′如タンハ以テ大過ナカルぺキヲ信スルナウ 第六 施政ノ主義ヲ定メラル︵キ事 凡ソ改定ハ幾多ノ源因ヨリ成立スト錐亦尊ラ施政主轟ノ大膿ヲ同クスルヲ以テ相結集スル者ナリ而テ政麓ノ 義盛ヲ致ス所以J者ハ則チ英雄政主義才人心ヲ得ルト壷ヤトニ允昔ソ叉各政義ガ五二人心ヲ得ンコトヲ望テ 相故螢スル朗ノ鮎モ亦各自ノ主張スル施政主義二在り故.ニ政最ノ寧ハ則チ魔政主義ノ寧ニシテ其勝敗ハ則雄 政主義ノ勝敗ナウ前述スルカ如ク立憲ノ治餞ヲ定嘉セラレ囲人ノ輿望ヲ察シテ政府′顕官ヲ任用セラル、三 至ルトキハ則チ政蕊ヲ成立セサルヘカラス政薮ヲ成立セント欲スルトキハ別チ共ノ持張スル施政ノ主義ヲ定 メサルヘカラス故三現在内閣ヲシテ﹂沢ノ政篤ヲ形ツクル者タラシメント欲・セハ共成立二段緊翠ナルハ則チ 旛チ施政主義ヲ定ムルノ二尊是ナリ然ルカ敬三樹議院設立ノ年月ヲ公布セラル、ノ後二於テ直二硯内閣ノ施

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政主義ヲ定メラレンコトヲ切望ス施政主義去就テハ電信所見ノ准ルアけ他日別二之ヲ具陳スヘシ 論 第七 放 立憲ノ政ハ政鼠ノ政ナリ政濃ノ率ハ主我ノ軍ナリ故三共主義閲廊過年数ノ保持スル所卜馬レハ共祀常政柄ヲ 得へク之二反スレハ政柄ヲ失7へシ是則チ立藩ノ展政一一シテ文展利ノ在ル所ナリ著シ其形愕三則リテ而テ共 眞精ヲ拾テハ猫り閥土ノ不幸ノミナラス蓋シ叉執政者ノ約息ナリ菅1〟執政者常時ノ桐患ナルノミナラス其母 構ノ汚名ヲ後世二追使スルニ至ラシ 恨令潔清明白ノ心事ヲ以テ政ヲ天下二行フモ俺ホ或ハ樺楯自利ノ心アルヲ疑ハル、ハ是レ執政者ノ通患ナリ 然ルニ今ヤ立怒ノ政ヲ施サレントスルノ時二普り立憲固現行ノ通則三反シ其眞利ヲ拾テ、而テ却テ母椛ノ痕 ヲ現ハサハ執政者ニシテ焉ソ国人ノ焉三欣忌セラレサルヲ得ンヤ況ヤ其慮礁ハ却テ速失檎ノ種クルヲヤ 然ワト錐槽勢ヲ弁却スルハ古ヨリ人情ノ難スル所ニシテ惟園家ヲ利スルニ熱渇スル者猫す能ク之ヲ鶉ス政府 三強大ノ威力ヲ苔フル今日ノ執政者ニシテ勢威三谷癌セス立憲政治ノ眞鰭ヲ固定セ︵其徳ヲ筏昆二表示スル 予見ラン叉偏食配合ノ毀啓三閲セサルモ亦自ラ顧テ以テ中心11快然クルヲ得ン 世人常二日フ邦観ノ治乱ハ多ク政治ノ慣忽一脚生スト娼シテ琴フハ敢禽/秩序ヲ素サスシテ静穏ナル政教更迭 J新例ヲ愛立シ政治上二於テ︵閑人二庚申ノ慶摘ヲ享有セシムルノ端緒ヲ啓カシコト是密今日ノ執政着分應 鶉ノ急務エアラスヤ右謹テ誌ス ︵岩倉公賓記下巻七〇二軍1七〓讐ぎ ● 制定の歴史を通して見たる帝周憲法の本菰 ︵山九︶一九

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弟十≡巻・菜膚既

︵二〇︶ こ○

大隈の憲法意見を要約して見ると、て∵憲法は欽定たるべきこと、二、立藩政治は政義の政であるから閣臣は

必ず下院中参政政義の領袖を以て充てらるべきこと、三、内閣の更迭と進退を共にすべき政務官は参議各省姻輔

及諸局長侍儲侍従長等として他は永久官と肯すべきこと、彗右の外太政大臣、左右大臣は内閣更迭等の場合の

天皇の侯高儀問として、軍音響祀官法官は園内の治安公平を保持するものとして申立永久官となすべきこと等で

ある。

しかし、これは奉読の表面に掠はれた署なる嬰旨に過ぎない。昏々は此の要項を生んギ裏面の思想を見逃しで

はならない。

大旗は奏法の諸々に於て斯様字1と窒ろてゐる。﹁立憲政治ノ尿憾ハ政菟ノ政ナルカ故ニ⋮⋮︰・政府ノ感官 一lハ議院中ナル多数最盛政蕊ノ領袖クル人物ヲ任用アラセラレ﹂ねばならぬ。君嘉が人物を任用抜擢せらる.ゝに 雷りでは固より国人の輿望を推察して為さバ∼のであるが、立憲政治に於ては助民の輿誓は議員の班拳を通して

議院に表示せられるから、議院の過半数を占むる政虞を以て内閣を組織せしむれば観民の輿望に添ふことになる

宅私はこ、で彼の思想申特に次の三鮎を指摘ん磨い。それは立篭政治の眞蔑は疲新政治であるといふこと、嘉

主が人物を任用せらるゝに常りては固民の輿望を推察して焉さるべきであるといふこと樹民の輿望は議院の多数

敦によつて表示せられるといふことである。このこ著は結盾同意想の異なる表現に過ぎないが、兜づ其の﹂に

っいで言って見れば、立憲政治は政策政治であるといふ命題は、国家を以て個人ノの自由を擁護する馬の制度とな

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す偲想の生んだ結論である。何者、閉家が統+蘭でなく、罫に個人の自由の焉の制度である花うば、政治は周民 多数の輿繋に塞き且っ開民自らの手に依って馬さるべきは常然であり、闘民多数の輿望を代表するものが多数蕊 であるならば、議禽の多数露が政局を魔笛すべきは弼々首熱となるからである。而して閏家を偶人の鶉の制度と 見る思想は自由主義偶人主義で凍り、政治成層民自らの手に於て為さるべきであると焉す思想は民主主義であ る。愈は此の鮎より﹁奏議﹂の立憲主義は表面君主主歩を楔傍せるに拘らすその資質は民辛王義に立つと晋ひ度 い。英周流の憲法常道諭、それは結局は民主主義思想の生むだ政治論に外烏らない。 嫉官の任免に常りでは図民の輿望を推察して鶉さるべきであるとの立言も周仙思想に基く。閲民の輿望に基き セ任免せられねばならぬといふのは、観衆を個人の自由の焉の存在だと考ふるからである。個人の焉の存在と考 ふるならば頴官は国民の輿望に基き閥民の輿望を括ふものを任命しなければならぬことは常然である。さうして 之は傭人自由主義民主主義的結論である。 閲民の輿望は議院の多数篤に依りで表示せられるといふこと自慣には、個人卓轟的民主秦轟的意味はな車。併 し、議員の選出が固民に代り陶民の棟利を行使せしむる馬のものであるといふことになると、之にも個人主義的 海女主義的意味が加はって来る。而も大隈で議員の選出をかくの如きものと考へでゐたらしいことは、彼が立憲 政治を改築政鱒であると育ってゐることから容易に推論し得る。して見ると国民の輿誓は議院の多数蔑に依功て ● 表示せられるといふ命組も、個人主義的民主主義的色彩あるものといつて差支へない。 制定の歴史を通して見たる帝国憲法の本義 ︵ここ ニー

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第十≡稔 第一舵■ ○〓一︶ ここ ∵かく考へて来ると大隈の立憲主義は、大隈自身が﹁余ノ意見ハ決シテ伊藤卜大異アルコト無シ﹂と言ってゐる に拘らや、伊藤等と甚だ相違きものであり、それを、結崗は民辛王義に立脚し、天皇の大臣任免概を有名無賛た らしむるものである。 さて、大隈の立憲主壷がかくの如きものであるといふことは、十四年の政経の饗生原図←1大隈と他の参議、 大臣との意見の相違1より考へて、政攣に依って決定した政府の制哀方針が、大隈の如きものでないといふこ との消極的な浮揚となる。即ち・、政府の剃髪方針は前に掲げ仁もの以外に於て議院内閣主義でないといふこと、 雷ひ換ふれば大柿内閣主耗であるといふこと及民主素量的個人主義的自由幸義的でないといふことが富ひ得られ ると思ふ。 此度は岩倉の意見寄に依って積極的に政府の決東方針を明かにして見よう。 岩倉の意見育はその全文を弟拘節に掲げにから、胱魔では要鮎を貌ぐるに止める。意見啓に表はれた憲法制定 に閲する意見の要旨は次の通である。 一憲法制定に富りては欽定憲法の倍数を用ふべきこと 叫 帝位栂承に補する法規は別に皇室に関する憲則を制嘉して其の中ぷ之を規定し、憲法の中には之を規定せ ざること 一天皇は立法を除き議院の協賛なくして音戟・講和・條約の締結、文武官の任免、議院の開閉、貨幣の鍔追、

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恩典の授輿、大赦特赦奄を行ふの樺を有せらる\こと℃ 一内閣宰臣たる者は議員の内外に拘らざると、内閣の紺披は議院の左右する所に任ぜしめぎること 山 大臣は天皇に封し賛任を負ふこと 一大臣執政の安住は根本の大政に係る者を除く外主管大臣のみの茸に辟し連碍茸任の法に依らざること 一陣湛軍は天皇親ら統率せらる∼も切となすこと 一意法に協替せしむる雷元老院民撰議院を謬くること ∵元老院は特撰議員と肇士族中之公理議員とを以で相続すること、民撰議院の撰拳法には財産の制限を用ふ べきこと、但し輩士族には財産の制限を加へざること 一旗律の敬集権は政府のみ之を宥し、議院には敬雀碓を看せしめざること 鵬 換算成立に至らざるときは政府は前年度の預欝に依り施行するを得るものとなすこと 一各図の窓法を参酌し憲法中に人民の棟利義務を規定すること 以上の緒項は更に之を革約すると欽寒憲法重森、皇室自律主義、大株内閣案鶉、新主主義となる。其の反封は 協約憲法主義、議院内閣重森、自由主義、民主童義である。 \右の申欽定憲法主義と閣臣の任命槽を天皇に屡せしむべきことば大隈の奏議にも述べられてゐる。併し大隈の 場合には欽定の牌敦を選ぷべきことは、明治八年の聖詔にかく宣はゼあるが散に之に従ひたるに過ぎない。又閤 制定の歴史を通して見たる帝朗憲法の本義 ︵二三︶ 二≡

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臣の件命踵曹天皇に嵐せJめたることも、我が囲が君主出穂る故に天皇の大横となしたるに過ぎない。岩倉切歯 合には欽定憲法主読は、国民との協約に依る憲法の制足が臨民秦樅の思想に基き、又は国民に主柿を議興する結 凝となるべきことを考慮しての上のことである。換言すれば、欽定怒準王鶉は憲法を制嘉するも、全株は依然と して天皇にあるこ七を明かにする焉に採用せられてゐる。叉岩倉の場合には、・閣臣の任命棟を天皇に威せしめた ることは、我が槻に於ては議院内閣主義を採用するものに非ざることを明かにする馬になされてゐる。拭院内閣 主義は立法行政の賛梯を議院に把触せしめ、君主は畢に虚絡を離するに過ぎざるもの上らしむるからである。即 ち岩倉の場合には、閣臣の任命棟を天皇に所属せしめたることも、憲法の制定に園巧主株が囲戻に移植するものに 非ざること、換言す弟ば軍羊重義に攣移するものに非ぎることを明瞭ならしむる焉に、特に揚げられてゐるので ある。上掲嬰項中閣臣は議員の内外に拘らざること、内閣の組鍛は議院の左右するところに任ぜしめ、ぎること、 閣檀の賀任は天皇に封するものなること、そⅥ費任は革猫嚢任たるべきこと、預算不成立の場合には前年度の換 算々施行し得せしむること等の各項も同趣旨 せ強が鵠の條件に外ならない。それは即ち憲淡の制定に因小我が闊が民意圃となうしとを防止せんが焉である。 大柿の下に移るを阻止せんとする岩倉終生の苦心は此應にもはつきりと兢はれる。 皇室の自律主義。之も、帝位棉承のことは皇室自らの定めらる∼ところに従ふべきで、憲法の申に之を規定す ることに依り、牌須恵法政jE ● 第十≡笹 井 W 既 へ〓四︶ こ四

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の如きは軍諾幽に於でのみ許さるべきこ・と=だ∵せする彼の持倫に基いてゐる、。 議俄に磯案桃を輿へざること。是は堺行凄港七は採用されなかったが、試食の本質に関する彼の考︷ヘカは之に 依つで明瞭に推知される。彼れに依れば議禽は天皇の立法碓の行使を翼賛する機関で 樵利を行使する機関ではない。即ち議合は民主主諒に立つ沌のでない。故に蟄零樵を輿へな小。是が彼の趣意で あるらしい。他の要項と同じく飽く迄も観照を維持せんとする華の主眼切魂はれの山であ.るも 憲法申に人民の樵利を規定すること。是は表面、自由秦重恩想に基くやうにも思はれる。け 質に関する岩倉の考へ方、主植の所在に関する彼の考へ方から見て、彼が自由主義的意義に於て﹂﹂天儲の人樵 を保給することが藩法の本質的要求であるとしで1怒法に之を掲げんとしたとは考へられない。彼の趣旨ほ、 人民の権利としで、圃民に必姿なる穂別を保詮することに困り、囲民をして各其の天分を蟄押せしめ、以て囲民 の旋帽を増進し、圃家の不義を質問にせんとするにある。即ち、人民の株制の規定は、岩倉にありては、自由主 読点想に塞くのではなく、却って閑家主故に基いてゐる。被れの主轟は終始二貰非自由主薬非個人主義非民主主 義である。 敢後に軍隊を天皇の親率し給ふ鹿となしにること。是は立憲上の二事議といふ程のもので厄ない。併し我が囲 七於て中世兵鳩の大横が臣下の手に甲し仁ことあるに鑑み、かゝることなき楼患挫に之々定めんとするものでぁ る。大椎の下垂を魔力防止ぜんとの被れの念闘の硯は†れの劇である。 制定の歴史を通して見たる帝国憲法の本義 .︵二五︶ 二五

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常十三巻 第 仙 渋

︵二大︶ 二六

東倉の立琴王益が如何なるものであつたかについては最早之以上に青葉を饗すの必要を感じない。併し政府の

決定方針七精細的に符明する資料としては、今造岩倉の意見書唯二右盛げたに過ぎないから、左にご藤・煩仁

親宇嘉倉の署名ある意見を挙げて吾々の所信を立誇する義としたい。それは明治十五年二月十四日立憲政慣

偏する御許絢に封し、三峰機仁翌・芽の三大臣が著して上つ墓答警ある。︵謂詣周墨芸︶

臣賛美等誠悦誠恐誼自前日奏寄ノ際親ク聖勅ヲ承ハル空足撃姦シ給フニ組宗遺業ノ重キト立憲経憲ノ易カ

ラザルトヲ以テシ解氷闘豪開設ノ日工於テ帝固大腰ノ級遭スル朗何等ノ界隈アル乎何等小党ノ候頃アルヲ要

スル乎及所謂鱒蛋設備ノ要領何如併セテ詳試催葵スル朗アラシム臣等憶恐感激退テ意見ヲ具・へ撃ア聖裁ヲ仰

ク窃二各閣立憲ノ制ヲ察スル、ニ其民卜政ヲ公ニシ天下ヲ以テ私セス怒典ヲ制立シテ上下供二守ル此レ乃チ梗

準ノ存スル朗易フヘカラサル者七シテ其組織構成上下交闘槽限廣疲ノ間違テハ則各紺相同シキ老ア豊富

遠ノ事玉堂上下両院卜之ヲ公ニシ行政ノ事撃フ玉堂二組へ而テ翠玉ハ不可干犯ノ地王立チ宰相代テ其警任

ス是レ各閥ノ大工同シキ朗ナ豊昌一嘉主ハ図械ヲ級増スルノ大義ヲ掲ケ其線フル期ノ催款ヲ列拳セサル者

ァり憲法一一法律ノ公布法律施行ノ條規議院ノ徴集開閉申虚解散外囲締約宣戦講話文武官ノ任免陸海軍ノ統率

勅位ノ叙授恩赦ノ特典貨幣ノ費行等ヲ以テ畢フ君主ノ大野1屠シ摘ウル三埠條ヲ以テスル者アリ憲法ノ明文

三関二フス立法行政ノ賓横ヲ蓼ケテ暦議院ノ栄攣轟セシムル者アリ其他法律起案ノ棟軍フ三軍一馬スル者

ァリ或ハ両院二之ヲ分ツ者アリ制可ノ経常童′批可セサル所ハ直二膠ざア行ハセサル者アリ或ハ之ヲ中止シ

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テ史三界議ヲ符ツ者アリ内閣ヲ以テ王室二巌シ進退二王索ノ撰フ研一岬辟スル者アリ内閣ヲ以テ議院ノ勢力 ノ下二凰セシメ吏代丁一議院ノ欲スル桝二任スル者アヮ是レ各国ノ同シカラサル桝ナウ馬等上組詫以釆闘偲 ノ重千ヲ仰キ下人民習俗ノ宜キヲ察スルニ多言ヲ待タスシテ甲乙ノ問ぷ取拍シ彼レヲ斥ケ此レヲ探ルノ要領 ヲ攫ルニ難カラサルコトヲ知ルナリ伏テ惟フ陛下ノ敦叡必眈二瞭然洞鑑シテ之ヲ裁樟ス㌧朗アラン今略梗概 ヲ英へ敢テ逐傘セサル者ハ毘等駄々最モ供蛋ヲ致シ後日ヲ侠テ更一−廷議ヲ鳩シ陳奏スル桝アラ∴/トスルナ ‖リ. 昨年十月十二日ノ蜜詔ノ旨l一漫ヒ経書設備竣メ将来ノ鶉三規模ヲ構成スル一l奈テハ臣等其重安二任セサルコ トヲ得ス窃︼1以焉ク其ノ要人心ヲ匡正スルニ在ルナリ慧立憲ノ大網ハ開合ヲ開設スん三凝り餌食′用ハ衆愚 ノ琳フ朗ヲ釆ルニ在り故三園禽眈−r開キテ而テ人心漁裂奔蕩収拾シ難キー一重テハ成典明條アリト錐以テ之力 防ヲ馬ス一岬足ラス世道ノ攣ハ常三人心二田ル憲法ノ行ハル、ト行ハレサルト其永久易︵ラサルト欒動偉才キ ト寧フ人心ノ向脊何如卜租ルナり政一−閏家治ヲ制ズルノ邁他ナシ善ク人心ヲ制スルニ秦ルノミ方今政府︵漸 進ヲ以テ標準トス而テ天下ノ人心ハ反テ急躁ヲ貫フ上下ノ博徒々背キテ相馳ス蓋我囲民ノ前日二於ケル懲俗 自一ラ安ンシ鋏隅ニシテ外ヲ餞ミ数百年ノ問相囚テ習ヲ戌シタウシ三朝其焚餞ヲ際シ外囲卜交際スルニ及テ 共勢遽1二偏一1競率シ邁焉﹂仰熱躁シ前事卜相反勤スルニ至り加フルニ欧洲過激ノ政論兜ツ郡部二授染シ青年 子弟新奇二心粁シテ迷フテ返ルコ、トヲ知ラサル者清々トシテ皆是ナリ今ノ勢七由テ往クトキハ其ノ或ハ大局 制定の歴史を通して見たる帝隣憲法の本義 ︵二七︶ こ七

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弗十三巻 第一戦 ︵〓八︶ こ八 う放り大本ヲ傷ツケ塵クニ挽癌スヘカラサルニ至ルモ亦渕ルヘカラス此レ臣等質一昌夜寒心シテ摺クコト能 ︿サル桝ナリ窃二惟フー一人心ヲ制スルノ遣之ヲ既往一−抑フルハ則英米ニシテ之ヲ冥々ノ問ll導キ其好悪ノ由 テ出ル朗ヲ病者矯正スルヲ以テ本トス故二今日ノ急務︵尤教育ヲ隕ミ新進ノ肇ヲシテ平荘著賛食入主卜琴フ シメ浮薄偏僻ノ流二隋ラサラシムルニ在り但現今ノ勢英由テ釆ル朗既三日ノ政一一非ラサルトキ︵之ヲ匡正 スル所以ノ薯右亦婿一l久シキヲ積ソテ燃後一品ハ功数ヲ親ントス此レ亦大事ヲ暴行、スル言買必時日ヲ要スル 所以ナヮ 共他蟄ノ筍且正伸スヘカラサル智之ヲ條貌スルコト左ノ如シ 箋有財産︵各囲ノ例︼一依り閻魔−分別シ固愈ノ毎年議定スル朗ノ外二軍フシメ以テ卓皐ノ食厳二於テ要用ナ ル供常ヲ蚊カサル一州債フヘシ 華族ノ攣一於ケルハ門菓相承ケ英耀ノ腰光−1籍ル将氷上院ヲ組織シ以チ畠窒ヲ環衛シ憲欝ヲ維持スルニ於テ 其負荷極メテ重シト謂フヘシ但封建ノ飴世々納袴二居ヴ往々曙霧戯朽ノ流クルコトヲ免レス今ノ華族ヲ以テ 椅テ以テ柱石ノ茸二任セントスルハ或ハ英名驚相柄ハサルコトヲ恐ル、ナガ今宜ク其章弟ヲ教育シ示スラ万 割ヲ以テシ甚志気ヲ振作シ其精柵ヲ磨拗シ畢識有馬ノ人ヲシテ其周−壷起セシムルニ足り叉梢管制ヲ改良シ 其腐朽ヲまり換フルニ清新ノ元素ヲ以テスヘキナリ 人民ノ上流三位雷シ固ノ重力ヲ荷フコト輩族三次ク者ヲ士族トス而テ士族ハ制度ノ攣一因ヴ新クエ共産ヲ失

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ヒ其大牢ハ宋夕叫定′方杏アラス此レ尤宜ク意ヲ加へテ安撫鰍導シ其報放ヲ収メ息艮ノ門族タラシムヘシ 行政各部ノ樺眼童任監督ノ方法及選蓉ノ規則並二秩然整頓シ條アリテ黄レス以テ立法議院卜相應答スルニ足 ラシムヘシ而テ嘗創ノ飴屡改良ヲ経クリト雄偽完備≠紋キ未夕散漫ヲ免レサル者アり 合計ノ二啓一二仝テハ尤モ民心ノ闊スル所輿論ノ指ス朝夕り蓋維新ノ柴穂川氏積弊J飴ヲ承ケ加フルニ武功文 治二時並蓼ケ陸梅二軍ヲ草始シ外交ヲ贋偵シ囲費ノ雑多デル前古ノ未夕曾テ見サル朗タワ而テ朝廷専ラ仁慈 ノ政ヲ激キ税率ヲ冤滅シ巣南ヲ勧奨ス蓋卑官減膳ノ莫アヮテ愈計仇快乏ヲ資クルコトヲ発レサルハ典故亦知 り如キニ非ラサルナリ現在出入相慣ハサル一l非ス而テ急ナル朗ノ者ハ紙幣ノ鋪却一−在り臣等略其方法ヲ憲実 シ歩行スル所アラントス 以上数件臣等廷臣一旗︼−心ヲ努シ旛ヲ致シカノ及フ所ヲ轟シ成緒テルヲ朔シ以テ陛下ノ盛意二奉答シ脚力没 献ノ莫ヲ賛襲センコトヲ願フ朗ナウ勝二廷臣卜其節目ヲ審議シ遽東上奏喜以テ艶裁ヲ乞ハントス臣賛美等調 性誠恐頓首 明治十五年二月二十四日 制定の歴史を池.して見たる帝国憲法の本義 機﹁ 左大臣 岩 右大臣 太政大臣

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第十二番 第 則 渋 ︵ニ5︶ tニ○ 吾々は愈々結論をー陳適すべき場合に到達した。大隈の奏議と岩倉の意見書を通して見るとき、聴聞憲法は明か に大株再開主義である。それは議院内閣を否認するものではないが、議院内観着必曹とするものではない。憲法 の大臣烹任は天皇に封するものであり、叉個別の糞任である。.連帯煮任は議院内閣制の上に坐れたる受任制度で あつて内閣が叫政乾から城ることを前提としてゐる。内閻が仙政寛より成るとき、各大臣の行ふ政魔はそのまゝ 改造の政貸である省である。政基の政策を行冬眠り、その次鯉に奥らざりし故を以て茸任を登る1を得ない。大 臣が他省大臣所管の政務につき連帯して茸に任するのは此の埋に因るのである。簡閲議合は天皇の統治機開であ る。その櫨限は語法に議昏の協賛脊必要としたる立法事項、預算、其他議禽の擢狼に嵐せしめられ仁る寄項を外 にしては、特に試食に附話せられたる事項に限り之努審議し待るに止る。桝謂自由立法事項につき、試命に本来 協賛癖あらとなすは誤である。天皇は統治楷を繚捜し、憲法が議禽の協賛を必要としたる事項、及裁判所に委任 して行はしむるを憲法上の要件としたる事項を除きてはそのすべてを親裁せらる∼繹である。憲法は明かに大横 ︵未 完︶ 内観主義であり、自由主義、民主主義に反封する意味に於て君主章義である。 附託 本署迄の要顎 て序説 二、五箇條の御督文を通して見たる憲法の本義 三、明治八年の聖詔を中心として見た ろ憲法の本義 四、明治九年の国憲起創勅語と之に基き起創ノせられたる元老院の国憲安む迫Lて見たる療法の本義 ︵以ヒ覇躾迄︶ 五.明治十四年の政靡を逸して見たる態法の本義︵本躾︶

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