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『人間本性論』の構造再解釈序説―観念説の役割をめぐって―-香川大学学術情報リポジトリ

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『人間本性論』の構造再解釈序説―観念説の役割をめぐって―

石 川   徹

 デイビッド・ヒュームが提示した諸々のアイデアは、現代哲学の様々な領域において、刺激を与 え続けている。ヒューム主義という言葉は、それぞれの哲学的問題の領域において、批判されるに せよ擁護されるにせよ、一定のタイプの考えを代表するものとして取り扱われている。しかし、同 じ言葉で呼ばれてはいても、それらは必ずしも、統合して一つの体系的なヒューム主義をなしてい るわけではない。ヒューム主義と呼ばれているものも多種多様である。こうした不整合が起こるの は一つには、ヒューム自身の哲学的著作、特に『人間本性論』(A Treatise of Human Nature)の解釈が 多様であることに起因している。ヒューム自身の構想では「人間の学」(Science of Man)という人 間本性に関する探究を基礎にして諸学問の体系を提示する著作であった1。思ったような評価が得 られなかったため、彼自身はこの著作を若書きの未熟なものとして否定したが、彼が後年その内容 をいくつかの形に分散させて書き直した内容に関しても、それがそもそも『人間本性論』と実質的 には同じであるという本人の言をどれだけ信用していいかについて解釈者の意見は一致しない。そ れゆえ、ヒュームのテキストにある様々なアイデアを現代の論者にとって都合よく取り出したもの が、ヒューム主義として独り歩きをしているともいえる。  さらにまた、このような意味での現代におけるヒューム主義のイメージが独り歩きをした結果、 ヒュームのテキストの解釈にバイアスを与えるという悪しき循環を起こしているような例もみら れる2。もちろん、ヒュームの哲学に体系性を求めること自体が間違いであるという可能性はある。 しかし、少なくとも『人間本性論』序文で述べていることから考えて、ヒュームの最初の意図には 体系化への意志があったことは否定できない。  これまで筆者は、彼の体系への意志を念頭に置きつつ、ヒューム哲学の真の独創性は、自らの採 用した観念説(theory of ideas)という枠組みを自ら批判し、その枠をはみ出す部分の説明にあると いうことを明らかにしてきた3。この解釈の方向自体の正しさは疑っていないが、それだけではま だ不十分である。なぜなら、ヒュームが理論的土台とした観念説で説明しようとした事柄がどのよ うなものであったかは必ずしも明らかではないうえに、観念説に合わない事柄をある場合は排除 し、ある場合は付加的な説明をして救っているが、この扱いの差異がどこから生じているのかも必 ずしも明らかではないからである。例えば、彼のもっとも重要な業績の一つである因果性批判にお いて、因果関係の最も重要な要素である必然性に関して、観念説の枠組みに基づいて、そのような 観念を与える印象が存在しないとことを主張する(1.3.7)。ところが、抽象一般観念(abstract general idea)(1.1.6)や実体の観念(idea of substance)(1.1.7)に関しては、それら観念が感覚印象にさかの 人間環境教育講座

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ぼれないがゆえに、虚妄だとして退けられる。  それに対して、必然的結合の観念に関しては、さらに探求が進められ、観念説の枠を逸脱した習 慣による推論という説明に帰着する(1.3.3-14)。この扱いの違いに特に明快な説明がなく、正当化 されているようには思われない。この理由が不明確なわけは、ヒュームが何を基に何を説明しよう としているか、説明されるべきものと説明するものとの間の関係が不明確であることによると思わ れる。  なぜ筆者がこのようなことを問題にするに至ったのか。それは『人間本性論』第二巻『情念論』の 諸議論の研究4により浮かび上がったある仮説によるものである。本論文では、その仮説に至った 筋道を示す。そのために、ヒューム『人間本性論』第一巻の構造に関する解釈の概略を述べる。第 二に第二巻の議論の進め方を検討しつつ、その議論は一体何を明らかにしようとしたのか、その前 提となる議論の層を区別する。そして、第一巻と第二巻の関係を再考する。第三にはこの仮説に よって『人間本性論』全体の構造に対して何を明らかにしうるかを検証することが必要である。し かし、それは『人間本性論』すべての議論に及ぶので、ここでは取り掛かりとして、その一部であ る、反省(reflection)の印象としての情念、とりわけ欲求(desire)の概念に関して、新たに何を述べ ることができるかを検討することに留める。 1  すでに述べたように『人間本性論』は序文において学問体系の構想を「人間の学」として語ってい る。その体系の基礎をなすのが人間本性の探求であり、さらにその探求の基礎、唯一の堅固な基礎 が経験(1.intr.7)であるとヒュームは述べている。まずこのことの意味を実際のヒュームの議論に 則して考えてみよう。  第一に問題になるのは、諸学の基礎となる「人間本性」の探求とはどこまでの範囲を指すのかで ある。大まかに言えば三つの可能性がある。第一の可能性は「知性論(of understanding)」のみとす る立場である。これは知性の探求によって,われわれの知的能力では、どのような知識が得られ、 それをどのような形で得るのが正しいのかという学問の方法論を提示する論理学を第一巻がなして いると考えられるからである。第二の可能性は、知性論と情念論(of passions)を人間の本性の二大 機能として、いわば人間のあり方についての基本的な考えを提示するものと考えることである。個 体としての人間に焦点を当てていると考えれば、この考えも自然であるだろう。第三に三つの巻す べてを一体のものとみなす立場である。第三巻は道徳という社会的な問題に向いていて、人間本性 の学問の上に立つ個別科学のような印象も与えうる。しかし、第二巻で最も中心的な題材として取 り上げられている間接情念(indirect passion)は他者を前提とする社会的な情念であることから考え ると、二巻と三巻のつながりは極めて深い。またヒュームが人間の社会的なあり方を人間の基本的 な存在の様態としてとらえているとするならば、これもまた、人間存在の基礎論たりうる。  以上、いずれの可能性にもそれなりの根拠があり、解釈の道筋がありうるが、それらの可能性す べてに対して、本論文では十分に考察をすることができないので、一つの決断に基づいて選択をし ておきたい。この決断の妥当性自体は、情念論に関する筆者の論考5と、この決断基づく解釈から 得られる知見によって明らかになるであろう。  ここではこの決断に至った経緯を明らかにしておく。選択したのは第二の可能性である。その理 由はヒュームがその議論のベースにおいている観念説の役割への注目である。第一巻の議論も第二 の議論もその基本に観念説がある。第三巻は第二巻で得られた情念についての知見を活かしつつ、 人間の社会的なあり方の基礎を提示しているので、その意味では人間学の基礎をなす人間本性の理 論とすべきではある。しかし、その基礎とされる内容そのものは観念説ではなく、観念説によって

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得られた知見を基にしたものである。観念説に基づいた議論はほぼないと言ってよい。そう考える と観念説をその本質的な部分として含んでいるのは、第一巻と第二巻である。  確かに現代のヒューム主義的な理論に関しては、その多くは観念説という道具なしに述べること ができる。つまり観念説抜きでもヒューム的な哲学的直観は生かすことができる。様々なヒューム 主義理論はそのように生み出されたものと言える。しかし、ヒューム自身の議論に則して辿ってい くと、観念説によって全体を組み立てようとする意図が読み取れる。ヒュームの哲学を全体として 読み解くためには、観念説は外せない要なのである。したがって、まずは観念説の果たす役割を明 らかにすることが、ヒューム哲学の全容を知るための重要なステップである。したがって、本稿で はまず第二の立場をとって考察を進める。 2  『人間本性論』はまずヒューム流の観念説の提示から始まる。その概略についてまとめておこう。 まず精神的な諸作用のすべての対象を知覚(perception)とする。知覚はあくまで精神内の対象であ り、第一巻第四部第二節においては、ロックらの説が含意しているように思われる知覚表象説を批 判してその困難を取り上げている6ことから考えると、ここでは知覚はすべて精神内のことと考え られていると、とるべきである。つまり、ヒュームの議論の対象は知覚という精神内の対象を吟味 することで進められていく。この手続きが、観念説を全体の議論の前提として置いていることを示 している。そして、問題はそのような観念説によって、ヒュームが何をしようとしたかである。  さて知覚の区分として、ヒュームはいくつかの分類を導入する(1.1.1-2)。一つは印象Impression) と観念(idea)の区分であり、もう一つは印象における区分として、一次的な印象としての感覚 (sensation)の印象と、二次的な印象としての、反省(reflextion)の印象であり、これを広義の意味で の情念であるとする。(ただしこの広義の情念は一般的な用語としての情念より広い概念としてお かなければならない。観念から生まれる二次的印象という定義の方を優先的に考える必要がある。 この観念説における定義と日常的な用語の間の関係こそが本論文を含む研究計画の一つの主題であ る。)したがって、知覚には大雑把な分類としては感覚の印象と感覚の観念、情念の印象と情念の 観念7が存在することになる。さらに知覚には単純と複雑の区別が導入され、特に知性論において 観念の離合集散によって、人間の知的な働きおよびその結果を描くことに使用される。  知性論においては、印象と観念の区別は感覚的経験と思考に対応し、したがって人間が正しいと 考えている認識を、すなわち観念を感覚的経験にさかのぼることが可能であるか否かによって批判 的に吟味するという役割を持っている。ヒュームが印象と観念を区別するとともに、観念には必ず それに先行する印象が存在するという原理(1.1.1.4))を観念説において提唱しているのは、われわ れが持っている知識の基礎が経験であるという経験論の原理の、観念説における表現となってい る。  したがって、以降の知性論では、知性の産物である、我々が知識と考えているものの分析が進 むことになる。知識はその多くは観念の結合によってあらわされる。したがって、知識を考え るために関係の分類が行われる(1.1.5)。彼によれば関係(ここでは彼の言う哲学的関係8)は類似

(resemblance)、同一性(identity)、時間空間的関係(Relations of space and time)、量ないし数(quantity and number)の関係、同一の性質における程度の違い(degrees in the same quality)、反対(contrariety)、 因果関係(relations of cause and effect)の7つである。この分類の妥当性は問わないことにして、 ヒュームはこれを観念が同一である限り変化しない関係と、観念が同一でも変化しうる関係とに分 ける(1.3.1.)これは一般的には数学や論理学等の経験に依存しない分析的知識と経験に依存する経 験的総合的知識の区分と理解されている。ヒュームにおいては、前者は絶対的に確実性を保障する

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ことのできる知識を構成し、後者についてはそのような正しさを保障することができない蓋然的知 識として区別する。そして、『本性論』においてはこの関係の区別に基づいて我々の知識と思考の 枠組みを探求するのである。  それらの区分は第三部「知識(Knowledge)と蓋然的知識(probability)」において最初に述べられ ている(1.3.1.1)。しかし、彼が知識と呼ぶものは観念の内容が確定すれば、その内容が確定する。 よって、あまり議論はされずに、以降の中心的な議論は我々の蓋然的知識の核心をなす因果関係に 充てられる。  先にふれたように、因果関係批判は因果関係の根本をなす必然的結合の観念の元となる感覚印象 の非存在をもとに探求を進め、必然的結合の観念が原因結果間の推理の被決定感を基にしたもので あることが主張される(1.3.14)。この意味では、因果関係は感覚のみに与えられるのではなく、感 覚の観念と反省の印象の両方から成り立つということになる。一般にはこれを習慣という新たな原 理を導入していることとみなすことで終わっているが、だからと言って観念説を放棄したことには ならないので、観念説の表現を借りればそうなるということである。  さらに因果的知識と並んで、ヒュームの懐疑論の対象とされるのは外的存在(external existence) および人格の同一性(personal identity)の観念である。これらも議論の構造は同一である。日常的な 信念と言われるもの、すなわち我々の認識とは独立の外的な対象の存在の信念と、常に同一の私と して存在する自我の同一性の信念が、感覚印象にさかのぼることができないがゆえに、そのまま受 容するわけにはいかない。故に他の説明原理も含めて、我々の基本的信念を説明するという構造に なっている。つまり、第一巻の重要部分は、われわれの日常的信念、特に疑い得ない我々の世界認 識の枠組みそのものにかかわるような信念を、観念の理論より導いた経験論の原理により批判す る。そしてこれらが我々に与えられる経験的データを超えた内容を主張する信念であることを示 す。それらの補正はヒュームが設定した当初の正当化の範囲を超えていて、それゆえそれらは理論 的な正当化とみなされることはできず、自然への信頼として語られることになる。つまり彼の論述 は一方の立場から見れば懐疑主義になり、他方から見れば自然主義となる。しかし、観念説の範囲 の逸脱は観念説の放棄ではないことに、より注目すべきである。第一巻の重要部分は、知性論すな わち観念の領域だけでわれわれの知識は完結していないことを示している。 3  さて、第二巻では観念説の果たす役割はどうなっているだろうか。ここで観念説の果たす役割は 第一巻とは全く違うように見える。  その理由はいくつか考えられる。第一に説明の対象が知性論においては観念である。直接的経験 は印象であり、それ自体は究極的な所与として受容され、それを前提として問題とされるのは、そ の直接的経験を超えて構成されている知識である。つまり、知性論においては探求の直接の対象が 観念であるのに対し、情念論においては探求の対象が印象であるという違いがある。知性論におい ては、受け入れられている信念も、その構成要素たる観念を印象までさかのぼっていくことでしか その正当性を保障されないのに対して、情念はそもそも印象として定義されているので、それ自身 の実在性は確保されている。したがって、情念の実在性をめぐるような批判的議論はそもそも存在 しえないことになる。  では第二巻では何が行われていることになるのか。詳細は『人間本性論』の解説9にゆずるが、基 本的には情念の因果的機構の解明が中心になる。しかし、情念の因果的解明と言っても、通常の意 味での現象の因果的解明というわけではない。例えば第二巻の中心をなすのは間接情念の解明であ り、その際提示されているのはいわゆる、印象と観念の二重の連合という観念説レベルでの因果モ

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デルである。第一巻と比較すれば、先に説明したように観念説のモデルと日常的信念の間の食い違 いを明らかにすることによって、探求の基礎である観念説と日常的信念をともに救うという構造に なっているのが第一巻であるのに対して、第二巻では観念説のモデルは、日常的な信念の構造を観 念説に翻訳するものである。決して観念説によって日常的な思考を批判的に考察するものでも、観 念説によって説明しきれない部分を明らかにしてそれ以上の因果的メカニズムを展開するという 役割を持つものでもない。単純に間接情念の基本的情念とされる自負(pride)と卑下(humility)、愛 (love)と憎しみ(hatred)についての基本的理解を観念説の言葉に翻訳したものである。しかしなが ら、このモデルの正当性自体をヒュームは極めて気にしていて、その証明に相当な分量が充てられ ている。  それでは結局ヒュームはこのような論述によってどのようなことをなそうとしていることになる のだろうか。印象と観念の二重の連合(関係)のモデルの構築は何か新しい知見をもたらしている ようには見えない。なぜなら、この二重のモデルは情念についての我々の日常的な理解すなわち、 自負と卑下が自分についてのものであり、自分の良き性質ないし悪しき性質によって引き起こされ る情念であり、愛と憎しみはこの対象が他者に変わったという理解を観念説において表現したもの だからであり、観念説によって何か新しい知見が生み出されているのではない。例えば、自負の情 念は自分の容姿が優れているという信念によって引き起こされる。これ自体は特に何の不思議もな い常識的な理解である。しかしながら、この因果関係は知性論において展開された因果関係とはか なり様相を異にする。知性論における因果関係はその基本は恒常的連接(constant conjunction)にあ る。恒常的連接の経験が知性において一方の観念を他方から導きさす推論を引き起こす習慣を形成 させ、このときの精神の被決定感が因果推論における必然性を生み出すとされる。この議論の当否 はともかく、この因果関係がただちに先の情念の因果関係にそのまま適用されるものではないとい うことは明らかである。なぜなら、原因となるのは信念であり、信念は個別的な対象ではなく命題 としての内容も持つ、観念が結合したものである。しかも、それは優れた性質とそれによって生み 出された精神における快という形の一般的な因果関係に回収するわけにもいかない。私という特別 な対象に関係する場合のみ、その性質は自負を生み出すからである10。また同時にその情念はそれ を生み出した原因となる優れた性質に直接向かうのではなく、自己を対象とするという。これは普 通に考えれば、いわゆる間接情念の持つ志向的な性質を表現するものと考えられる。ここでヒュー ムが解答しようとしているのは本来志向的な関係を表現するように構成されていない観念説を使っ て、志向性を含む日常的な意味での情念の発生に関する因果関係をいかにして表現するかという問 題なのである。ここで守られようとしているのは日常的信念ではなく観念説である。そのことを確 認しておこう。 4  では、情念論の独創性はどこにあるのか。それが問題である。情念は印象であるのでそれ自体の 存在主張は必要がない。それをわざわざ観念説のモデルにおける構築として、アクロバティックに みえる組み立てをしているのはなぜか。私見では、これこそが第一巻と第二巻とをつなげる鍵なの である。  情念、というよりもヒュームが問題にしようとしている情念は、反省の印象というのがまさにふ さわしい。なぜなら彼のしようとしていることは、確かに情念の因果機構を明らかにしようとする ことではあるが、観念説のレベルに還元しての因果関係ではない。自己や他者や様々な事物やその 属性、さらにはそれらが与える快や苦、そのようなまさに人間が生活し生きている世界を前提とし ての話である。しかもその中でそれぞれに反応し適応し評価し生きていく人間が存在している世

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界、それが、ヒュームが情念論で問題にしている世界である。すなわち人間たちの住む日常的世界 のあり方そのものを前提にして、人間がそれに対して反応して暮らす世界である。それはヒューム の『人間本性論』の枠組みで言えば、人間の他の人間についての認識すなわち観念によって構成さ れる観念の世界である。  このように日常的な世界認識を前提において、われわれは情念を自己理解している。ただそれだ けでは必ずしも十分に明晰判明というわけではない。ヒュームはこれらの情念のあり方を個別的な 事実に即して丁寧に解きほぐしていく。ただこの解明は知性論とは違い観念説のレベルで行われて いるわけではない。それはヒュームが間接情念の原因を個別に取り上げていく際の論述から明らか である。ヒュームはこれを印象と観念の二重の関係の正当化として論じていたりするが、むしろこ れらは二重の関係によって分析されて、明らかにされたのではなく、もっと違うレベルでの仕事と 考えられる。すると、これこそが世界のあり方を把握する知性論と世界に対する人間の反応を主た る探求の対象とする情念論との結合を示すものであると考えることができる。すなわち第一巻と第 二巻は並列的に人間学の基礎的部分をなす二本の足ではなく、知性論の上に情念論が積み重なる、 しかも不可分の形で積み重なるという構造をしているのである。そう考えると、印象と観念の二重 の関係というヒュームの情念の記述も、単なる思い付きではなく、彼の考えていた人間本性論の基 礎構造を示すものであると考えるのがもっとも合理的である。 5  さて、このような解釈に基づき、ヒュームの『人間本性論』の議論を再解釈していくというのが 筆者の今後の研究プログラムである。これは極めて大きな射程をもち相当な時間を必要とする。今 回は、その第一歩として、ヒュームにおいて、欲求というものがどう考えられているかに関する ヒューム解釈者たちの議論の前提になっている理解の誤りを指摘して、この解釈の有効性を提示す ることにしたい。

 マイケル・スミスはその論文“Humean Theory of Motivation”11において、現代の心の哲学における

ヒューム主義的理論とよばれるものを提示し、それに対する批判的な言説を取り上げている。そこ での主要な議論はともかくとして、その前の共通の前提として、解釈者は一様にヒュームの議論 を、彼が欲求を印象としてとらえているがゆえに、彼の議論を現象論的な説と名付けている。しか しながらこの解釈がヒュームの言う印象の性格を誤解しているが故の誤りであることを示したいと 思う。  ヒュームは欲求を情念であるとする。これはヒュームの言う狭い意味での情念には必ずしも当て はまらないが、多くの情念にはそれに欲求が伴う場合が多い。ヒュームの説明では、愛には善意 が、憎しみには怒りが伴うという。そしてこれらは、それを持つ主体の認識を経て生じる場合がほ とんどであるので、反省の印象という情念の広い意味に当てはまる。  さて注釈者たちはなぜヒュームの考えを現象論的と呼び、その不十分性を指摘するのであろう か。端的には印象と観念の説明においてヒュームが、感じることと考えることという日常的な区別 をとり入れて説明し、また感覚における印象とは感覚の対象が現前しているときに受け取るものと していることから起こる。これらのことから、印象が印象として存在しうるのは、それらが充分な 勢いと精気をもって存在しているときに限るとしていると解釈されるからである。つまり、情念は それを精神に意識されているときにのみ存在しているとヒュームの論述からは読み取れる可能性が ある。したがって、欲求もいわばその欲求を感じているときのみ存在しているというふうに解釈で きる。ゆえに意識に現象しているときだけ欲求は存在しているという意味で現象論的解釈とスミス は呼んでいるのである。つまり、ある時点での精神に意識されているもののみが欲求と呼ばれるも

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のになる。これは我々の通常の意味での欲求の理解からすれば極めて限局されたものである。なぜ なら、例えば長い時間を見据えた展望をもって何かを欲求する場合、例えば何かの資格を取るため に勉強するというような場合、その資格を取るという欲求についての意識は多くの場合現前してい ない。しかしだからと言ってそのような欲求を持っていないということには通常の理解ではならな い。それは普段の生活ではニュートンの運動方程式を意識することはなくても必要な時に使えるな らばその知識を持っていると言って何ら差し支えないことと同じである。  もう一つの問題は、情念としての欲求が今現在意識されている感じにすぎないとするならば、欲 求の対象そのものは感じとしての欲求とどう関係しているかがわからないことになる。欲求の対象 そのものは現場に実在しているとは限らないし、未来の存在していない状態を希求している場合 も、その存在しない状態が今現前する感じの中に含まれていると考えることは難しい。要するに彼 らの言う現象論的な解釈とは、ヒュームの言う印象をすべて感覚印象と同じように、それ自体で論 理的に独立した他との内的な関係を持たない存在であるかのように考えることにより成立する。そ うである以上そもそも志向的な関係は初めから存在しえないのであるから、このようになることは ある意味で当然である。そして、そう考えた時に行為の説明として必ず内的な欲求の存在を必要と するという理論を、ヒューム的理論とすること自体も疑わしいということになる。  ヒューム的な理論と言われるものは要するに第一巻の感覚の印象を主とした説明のみを基にした 解釈により成立しているように思われる。間接情念の印象と観念の二重の関係の説明において、例 えば自負の印象は、このメカニズムの中では四つの構成要素の一つでしかないように描かれてはい る。しかし、逆に考えればこの一つの感じられる要素を仮に取り出すことが可能だとしても、その 感じられるということだけでは自負の情念であると特定することはできない。なぜなら 自負には 自己という対象と、自分に関係する優れた性質という原因ないし理由が不可欠だからである。もし これらのことが自負の印象とつながっていなかったとしたら、人はそれを自負の情念とは認識しな いであろう。自負が自負であるためには単独の印象では足りない。信念ないし観念の世界との結び つきが必要なのである。  このように情念の理解にはそれが観念の世界を背景にすることが不可欠である。とすればその構 造こそ明示されてはいないが、間接情念同様に欲求の構造も類似のものとして考えることができ る、何故なら、欲求も通常の場合は欲求に特有の感じがあり、欲求の対象があり、そして欲求を生 み出すような世界に対する信念が存在しているはずだからである。そして、善意(benevolence)と 怒り(anger)はまさにそのような欲求として記述されている12。このように第二巻の情念論の論述を 丁寧に見ていけば、ヒュームの解釈者たちの固定観念が不十分であることは明白である。  そして  この不十分さが、ヒュームの『人間本性論』全体の構造を見定めることに影響を及ぼしているこ とが見てとれる。 結語  本論文ではまだ研究のプログラムを示しただけに過ぎない。しかし、この一例を見ただけでも十 分追求してみる価値のある考えであり、また同時に従来常識の部類に属してきたヒューム解釈を掘 り崩すだけのインパクトを持った解釈であることが示せたと考える。今後はこの解釈を前提に様々 なヒューム主義的理論を生む元となったヒューム解釈を検討しつつ、『人間本性論』の基本構造を 明らかにする計画を遂行していく。

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 『人間本性論』序文(1・intr.・9)David Hume, A Treatise of Human Nature, 3Vols. (1739-40) 本論文では テキス

トとしてはDavid Hume, A Treatise of Human Nature, ed. By David Fate Norton & Mary J. Norton, Clarendon Press, Oxford,(2007)を使用する。『人間本性論』の引用箇所は最近の慣例に従い特に断りのない限り同書の(巻・部・ 節・段落番号)数字で示す。 2 例えば、論理実証主義者としてのヒューム、現象主義者としてのヒュームなどがあげられる。 石川徹「ヒューム懐疑論の検討」関西哲学会紀要19号(1985) 情念に関する拙論はいくつかあるが、その現在時点での集大成は訳書デイビッド・ヒューム『人間本性論第 二巻 情念について』訳石川徹、中釜浩一、伊勢俊彦 法政大学出版局、2011における解説「ヒュームの情念 論」である。 5 同上

 「感覚に対する懐疑について(of skepticism with regard to the senses)」という説の眼目は感覚が欺くことがある

から信頼できないという主張ではない。経験論の基礎である感覚経験が事物について本当の知識を伝えるも のではないという、経験主義哲学の根本にかかわる主張を主題としている。感覚経験が事物そのものを伝え るものでは必ずしもないという経験的知識から、観念とは独立した対象を措定して説明する、いわゆる知覚 表象説を二重存在説としてその困難を明らかにすることを重要な部分として含んでいる。 7 情念はそもそも印象の区分として導入されているので、情念の観念についはここでは言及されていない。し かし、第二巻においては共感というメカニズムの導入に伴って出てくるので、このような区分になる。共感 のメカニズムについては『人間本性論』第二巻『情念について』の筆者の解説を見よ。 8 ヒュームは関係という語をその使用に則して、哲学的関係(philosophical relation)と自然な関係(natural relation)に分類する。後者は日常において我々が対象同士を結び付けて考えているときの関係に近く、観念 説のレベルでは連合と置き換えてもよい場合がほとんどである。 9 註4を見よ。 10 石川徹「ヒューム因果論の検討」『哲学』日本哲学会p.119-129(1990) 11 Michael Smith、‘The Humean Theory of Motivation’, Mind,96(1987)

12 愛と憎しみは欲求を持たない純粋な感じとして記述されており、その点で愛と憎しみとは区別されている。

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Abstract

An Introductory Consideration for new interpretation of Treatise of

Human Nature - Roles of the theory of ideas-

Toru ISHIKAWA

 We would like to present a new point of view on the system of Hume’s Philosophy.

 Many contemporary philosophers get various inspirations from Hume’s philosophy. As a result, there are a lot of theories which are called “humean’ and these theories are often incoherent each other. This inconsistency arises partly because we cannot appreciate the system of Hume’s philosophy exactly.

 We think we have to reconsider how the theory of ideas work in his argument. First the theory of ideas plays a very important role in both first and second volumes of Treatise but differently.

 In former it gives a basis for the criticizing our commonsense beliefs, in the latter it connects our world of passions with the world of understanding. This understanding of how the theory of ideas work gives us an insight of new research program on Treatise.

 For example, we point out the defect of so-called phenomenological interpretation of desire which underlies humean theory of motivation. This result gives us a good expectation of our research program. It gives a new understanding of Hume’s philosophy.

参照

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