• 検索結果がありません。

はじめに 満 鉄 併 行 線 禁 止 規 定 の 存 否 と 法 的 効 力 について 1 満 州 交 通 史 稿 における 検 討 長 岡 大 学 教 授 兒 嶋 俊 郎 筆 者 は 研 究 ノート 満 鉄 併 行 線 禁 止 規 定 をめぐって 2 において いわゆる 秘 密 議 定 書 は 存

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "はじめに 満 鉄 併 行 線 禁 止 規 定 の 存 否 と 法 的 効 力 について 1 満 州 交 通 史 稿 における 検 討 長 岡 大 学 教 授 兒 嶋 俊 郎 筆 者 は 研 究 ノート 満 鉄 併 行 線 禁 止 規 定 をめぐって 2 において いわゆる 秘 密 議 定 書 は 存"

Copied!
57
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

論  文

 兒 嶋 俊 郎 満鉄併行線禁止規定の存否と法的効力について

         

『満州交通史稿』における検討

・ ( 1 )

 広 田 秀 樹 国際政治経済におけるレーガン革命

         

―グローバル資本主義への歴史的転換点創出としての1980 年代アメリカ世界戦略の展開―

         

・ (11)

 山 川 智 子 医療事務の資格試験と業務を取り巻く環境について

 大 濱 晴 美 

―医療事務管理士試験対策からの考察―

・ (21)

研究ノート

 松 本 和 明 新潟港の近代化についての一考察

         

―新潟健康舎の設立および展開と村山米策・川上佐太郎―

・ (35)

平成24年度長岡大学教員教育研究活動

・ (49)

長 岡 大 学

研   究   論   叢

第11号

目  次

2 0 1 3 年 7 月

長   岡   大   学   研   究   論   叢     第 11号 長 岡 大 学    2013年7月 2009.4-2016.3

(2)

満鉄併行線禁止規定の存否と法的効力について

『満州交通史稿』における検討

1 長岡大学教授

兒嶋 俊郎

はじめに 筆者は「研究ノート 満鉄併行線禁止規定をめぐって」2において、いわゆる秘密議定書は存在せず、外務省「松 本記録」にある「秘密事項」のタイトルを代えたものが、日本側が主張した「秘密議定書」(1932 年 1 月 14 日外務 省公表)の実態だったのではないかと指摘した。 この点に関しては、筆者が以前から検討に携わっている『満州交通史稿』3にも記載がある。満鉄にとって併行線 の禁止は極めて大きな問題であり、それを満鉄がどのように認識していたかは重要である。実際『満州交通史稿』 は日清間のいわゆる「秘密議定書」の存否やその効力について詳細な検討を行っている。そこでの検討は、「秘密議 定書」の問題性を強く照らし出している。以下においては『満州交通史稿』の該当する部分を紹介しつつ、改めて 満鉄併行線禁止規定について検討したい。 1 満鉄併行線禁止規定再論 はじめに満鉄併行線禁止に関する「秘密議定書」の問題について、筆者の今までの議論を大まかに整理しておき たい4。満鉄と並行する路線の敷設に関する問題は、新法庫門鉄道の建設など比較的早くから懸案として浮上してい たが、抜き差しならない事態となったのは張学良政権のもとで国権の回収が進められ。いわゆる「満鉄包囲網」の 建設がすすめられたときである5 この時日本側が中国の鉄道建設を非難した根拠が、満鉄併行線の建設を禁じた「秘密議定書」であった。その内 容は十六項目に及ぶが、その三項目目が併行線禁止規定とされるものである。それは以下の通り。 「清国政府ハ南満州鐵道ノ利益ヲ保護スルノ目的ヲ以テ該鐵道ヲ未タ回収セサル以前ニ於イテハ該鐵道附近ニ之 ト併行スル幹線又ハ該鐵道ノ利益ヲ害スヘキ枝線ヲ敷設セサルコトヲ承諾ス」6 この 16 項目の取極のタイトルは「満洲ニ關スル日清条約付属取極」とされ、「取極」という用語を用いているこ とから、主権国家間の正式の取極との印象を与える。しかしこの「取極」には署名がなく日付もない。正式の外交 文書としては形式を欠いたものといえよう。 1 満州、満州国といった用語には本来「」を付すべきであるが、煩瑣になるためそのまま使用する。また「支那」といっ た差別的表現も出てくるが、資料を引用する場合はそのまま使用する。もとより筆者はこの言葉に込められた差別的意味 には強く否定するものである。 2 「満鉄併行線禁止規定をめぐって」『長岡大学 生涯学習研究年報』第 7 号 2013 年 5 月 3 『満州交通史稿』は満鉄が満洲国政府から依頼を受けて行った、満州地域に関する包括的な交通史編纂事業の成果であ る。交通史編纂の事業は、敗色濃厚となる中完成を見なかった。しかし作業途中に残された膨大な原稿群があり、それが ここでいう『満州交通史稿』である。満鉄が関係諸方面の膨大な資料を活用して取り組んだ活動の成果には、歴史的資料 として貴重な成果が含まれており検討する価値があると考えている。なおより詳しくは、拙稿、「第 2 章 未完の交通調」 (『満鉄の調査と研究』青木書店 2008 年、以下『調査と研究』と略す)を参照されたい。 4 詳しくは前掲「満鉄併行線禁止規定をめぐって」を参照されたい。 5 この時期の日中間の交渉に関して近年重要な資料集が刊行された。一つは『満鉄档案資料匯編 第四巻 日本独占中国 東北鉄路交通』(解学詩主編 社会科学文献出版)の「第三部分 日本略取 “満蒙新五路” 中国反帝路運動高漲」-特 に「四 中国人民決起激烈反帝運動」、「五 1931 年日本玩弄的鉄路談判騙局」である。ことに「四」の資料には東北各地 の動向を示す資料が入っており貴重である。もう一点は、『史料 満鉄と満州事変 山崎文書』(上 満洲事変前史)であ る。井村哲郎と加藤聖文による資料の解説と解題も貴重である。 6 『日本外交文書竝主要年表』(上) 250 頁 「秘密議定書」を外務省が「公表」したのは 1932 年 1 月 14 日である。公表した内容は、外務省情報局発行の『国際事 情』で見ることが出来るが、これは今日『日本外交年表竝主要年表』所収のものと変わりない。外務省が公表したとする 文書は和文、中文、英文(英米両政府に通知したとされる)からなるが、『国際事情』及び『日本外交年表竝主要年表』所 収のものは和文のみである。

(3)

筆者はこの資料は日中間で結ばれた議定書などではなく、日本側が「日清満州ニ關スル条約」の会議録から日清 間の合意事項を選択して作成した内部的な取りまとめ資料に、先のタイトルを付したものだと考えているが、その 理由は以下のとおりである。 まず前提として会議録を確認しておこう。それは日清条約締結のための会議で、満鉄併行線禁止の合意が存在し たか否かという点である。この点については間違いなく存在したといえる。1905 年 12 月 4 日の第 11 回本会議にお いて、日本側全権小村寿太郎、内田康哉の要求に応じて、中国側全権袁世凱が承諾している。その内容は、第 11 回会議議事録付属書第七号、第八号に記録されている7。またこの点は中国側の資料でも確認することができる8 しかし管見の限り、改めて別に会議をもって「秘密議定書」を締結したという証拠はない。むしろ否定的な文書 が見出される。外務省の「松本記録」9には「秘密事項」10なる文書が残されている。本資料は全 17 項目からなり、 1 から 16 まではいわゆる秘密議定書の 16 項目と内容、表現ともに全く同じである。唯一異なる 17 項目目は、日清 交渉の記録を「秘密」として公開を禁じるとした内容である。またこの資料冒頭には、「日清交渉ニ於イテ協定シ会 議録ニ明記ス」と書かれており、これら 16 項目が会議中に日清両国間の合意事項をまとめたものだったことがうか がわれる。また 16 項目の上には該当する会議録の号数、頁が記載されている。しかしこの資料はあくまでも日本の 外務省が内部的に会議での合意事項を整理した「メモ」の類と考えるべきものであり、その内容・形式から日清間 の交渉を経た文書などとはみなしえないものである。そして満鉄併行線禁止に関しては、正式の「日清条約」やそ の付属議定書ではまったく触れられることがなかったのである。 しかし日本側は会議での合意とそれを会議録に残したことを根拠に、日清間で満鉄併行線の禁止が確約されたと の認識を持った。それがよくあらわれているのが、「日清条約」批准のための枢密院会議における小村寿太郎の説明 である11。小村は条約の意義を説明する中で日清間に「秘密約束」が存在するとし、その中で併行線の問題を取り 上げている。以下がその説明である。 「・・・又一ノ旅順長春間鐵道ト併行スル幹線ヲ敷設セス又南満州鐵道ノ利益ヲ害スル枝線ヲ敷設セストノニ条 アリ…」 このように天皇臨席のもと「秘密約束」としての満鉄併行線禁止を説明した以上、日本の外務当局にとってこの 点は、動かすことのできない事柄になったのではなかろうか。しかし本当にそのように確たるものであったのか。 『満州交通史稿』は満鉄の交通史編纂の過程における検討ではあるものの、日本側の認識に多くの問題点があった ことを明らかにしている。 2 『満州交通史稿』における「鉄道権益ニ関スル支那側の保障」12の位置づけ 7 詳しい経緯は前掲拙稿「満鉄併行線禁止規定」8~10 頁を参照のこと。念のため付属書第七号と第八号を以下に引用し ておく。 「付属書第七號 中国政府為維持東省鐵路利益起見於未収回該鐵路之前充於該鐵路附近不築並行並行幹路」 「付属書第八號 中国政府為維持東省鐵路利益起見於未収回該鐵路之前充於該鐵路附近不築並行並行幹路及有損該鐵 路之利益之支線」 8 『清季中日韓関係資料』(中央研究院近代史研究所編 1972 年 全 9 巻)の 6208~6209 頁にかけて下記の記載がある。 「中国政府為維持東省鐵路利益起見於未収回該鐵路之前○ 不明 於該鐵路附近不築並行並行幹路及有損於該路利益之支路」 9 故松本忠雄衆議院議員が外務省参与であった時、政治、外交、条約等の重要文書を筆記したものを、氏の没後遺族が外 務省に寄贈したもの(外交史料館 HP による). ( http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/senzen_1.html ) 10 「秘密事項」『満州ニ關スル日清条約及付属協約締結一件(北京条約)』(松本記録) アジア歴史資料センター B06150008700 11 この点も詳しくは前掲「満鉄併行線禁止規定をめぐって」10 頁を参照されたい。なお会議が開かれたのは 1906 年 1 月 6 日である。 12 『満州交通史』第五章第四節第三項「鉄道権益ニ関スル支那側の保障」、執筆は「満州交通史編纂室 川本久雄」。川本 はロシアからの権益移譲を論じた第三節も担当している。執筆にあたって利用した資料としあがっているものは下記の通 り。 「一 外務省保管文書寫 一 外務省情報部編 国際事情続編第五

(4)

『満州交通史稿』の第五章第四節第三項には「鐵道権益ニ關スル支那側ノ保障」というタイトルがつき、 その中で満鉄併行線の禁止を含む、日本側諸権益の問題を取り扱っている。そこでこの第三項で満鉄併行線 禁止を論じている部分を紹介したいが、まず満鉄併行線禁止問題をあつかったこの部分が、『満州交通史稿』の 中でいかなる位置にあったかを確認しておこう13 この部分は、『満州交通史稿』の第五章「日露戦争当時ノ日本鐵道ノ進出」の、第四節第三項にあたる。残された 原稿の第四節にはタイトルがないが、本来は「支那ノ日本鐵道権益ノ認識」というタイトルが用意されていた。つ まりポーツマス講和条約でロシアから日本に移される権益を、中国側がどのようにとらえていたかを記した部分な のである。 第五章は七つの節から構成されているがその内容は表1のとおりである。なお各節・各項のタイトルは実際に残 された原稿に付されたタイトルを原則としたが、タイトルが付されていない場合は当初構想された時のタイトルに よって補った(( )で囲んで表記)。 表 1 『満州交通史稿』第五章の構成 第五章 日俄戦争当時ノ日本鐵道ノ進出 第一節 (日露戦争の勃発) 第一項 日露外交交渉決裂 第二項 関係諸列強情勢 第二節 (日本国軍用鉄道ノ活躍) 第一項 朝鮮における日本の鐵道敷設 年表 朝鮮鐵道の敷設 第二項 安奉軽便鐵道の建設 第三項 新奉軽便鐵道の建設 第四項 東清鐵道南満洲支線の占領と管理 第三節 露國ノ鐵道権益割譲 附録 第四節 (支那ノ日本鐵道権益ノ認識) 第三項 鐵道権益ニ関スル支那側ノ保障 附録 日本政府公表ノ所謂秘密議定書 第五節 (満鉄會社ノ設立) 第一項 満鐵会社設立ノ経緯 第二項 満鐵会社ノ本質論 第六節 (満鉄會社ノ業務開始) 第一項ノ一 譲渡鐵道港湾ノ引継 第一項ノニ 譲渡鐵道ノ準軌改築 第三項 鴨緑江架橋問題 第四項 隣接鐵道トノ連絡 第七節 営口線ノ確認 (出典 : 『満鉄の調査と研究』162~163頁、「表2-8」より作成) この表1の構成から明らかなように、第五章は日露戦争の勃発から講和の実現。そしてロシアから日本に鉄道権 一 満鉄法制文書 満鉄本線ノ地位ニ就テ 満州駐兵権問題 満鉄附属地ニ於ケル行政權ニ就テ 抗議ヲ受クル虞アル 諸問題 一 国際的ニ見タル我國ノ満洲ニ於ケル特殊地位(N 三三-五五) 一 満洲ニ於ケル日本ノ特殊地位(N 三五-五五) 一 満洲ノ鐵道ヲ繞ル日米露支(K 二五-五二) 一 南満州鉄道附属地ニ於ケル日本ノ管轄権(ヤング著、拓務省譯)(N 三五-十一) 一 華府會議大観」 13 『満州交通史』がどのような体系を目指し、実際にどれほどのものが残ったかについては、とりあえず前掲「第 2 章 未 完の交通調」の表2-8「『満州交通史』鉄道政策編の構想と残存原稿」(前掲『調査と研究』162~167 頁)参照のこと。

(5)

益が譲渡され、それが満鉄の設立につながっていくという、満鉄成立に関わる重要な過程を扱っている。それはす なわち、満洲にロシアが持っていた鉄道-及びそれに付随する諸権益-を日本が獲得し、それによって満鉄を設立 して帝国主義的権益を満州に確立していく過程である。 その第四節に「支那ノ日本鐵道権益ノ認識」があり、その第三項として「第三項 鐵道権益ニ関スル支那側ノ保 障」が書かれたのである。満鉄併行線禁止を含むいくつかの問題が、日本の権益を確立・維持するうえで重要な問 題だと認識されていたといってよいであろう14 3 「鉄道権益ニ関スル支那側の保障」の紹介 以下資料を紹介する(下記目次に示した内の「第三 鐵道守備兵駐兵権」と「附録」は省略する)。まず第三項の 目次は以下のとおりである。 「極秘 第五章 第四節 第三項 鐵道権益ニ関スル支那側ノ保障」(満州交通史編纂係 川本久雄) 目次 鐵道権益ニ関スル支那側ノ保障 第一 緒言 第二 南満州鐵道併行線建設禁止特権 イ 秘密議定書ノ存否 ロ 併行線禁止特権ノ由来 ハ 併行線禁止特権ニ關スル紛争 法的問題、併行線ノ意義ニ關スル問題 第三 鐵道守備兵駐兵権 イ 鐵道守備兵駐兵權ノ法源 ロ 鐵道守備兵駐兵權ノ性質及存続ニ關スル論争 ハ 附記 安奉線鐵道守備兵駐兵權 附録 一 日本政府公表の所謂秘密議定書15 「第一 緒言」では併行線禁止等の特権を獲得したことなど、日本側の権益確保について述べ、「第二 南満州鐵 道併行線禁止特権」で、具体的に併行線禁止に関する内容を述べている。まず「イ」では秘密議定書そのものの存 否とその性質。「ロ」では秘密議定書なるものが成立するに至る経緯が述べられる。そして「ハ」でこの併行線禁止 に関する紛争が語られるのであるが、それに伴って改めてこの議定書の法的効力が論じられている。 (1) 「第三項 鉄道権益ニ関スル支那側ノ保障」「第一 緒言」 緒言では満洲に関する日清条約と秘密議定書によって、駐兵権や満鉄併行線敷設禁止の「特権」を獲得したこと(下 線部①参照)。またそのほかさまざまな権益を獲得したことを記すとともに、1915年調印の南満州及東部蒙古に 14 実際第五章第三節「露国ノ鐵道権益割譲」(担当は川本久雄)では、目次に先立って川本が以下のように「御願」なる 文を書いている。 「本稿『露国ノ鐵道権益割譲』ハ、日本 (以下8字不明) 活躍ヲ始ムルニ至リタル基底ヲ爲セルモノニテ畢竟満州交 通史ハ總テ此ノ上ニ建設セラレタル派生的現象トモ見ルヲ得ベク満州交通史上ニ於ケル本稿ノ位置タルヤ最モ重要ナリ ト謂ハザルベカラズ、従ッテ本稿ハ斯界ノ権威者ニアラザレバ軽々ニ之ヲ執筆シ得サル所ニ属シ・・・」 この文章の趣旨は、この部分は自分が担当するには負担の重すぎるということだが、引用からこの部分の重要性が当事 者にもよく自覚されていたことが分かる。 15 この付録の内容は、前掲拙稿「研究ノート 満鉄併行線禁止規定をめぐって」所収の外務省が公表した二種類の「秘密 議定書」なるものと同じである。詳しくは拙稿の「2 満鉄併行線禁止規定」を参照されたい。

(6)

関する条約並付属公文16等によって、返還期限の延長等の権益を確保したと述べている(下線部②参照)。 「第一 緒言 満洲ニ關スル条約締結ト同時ニ明治三十八年十二月二十二日其附属協定及附属秘密議定書ヲ締結シテ清国ハ日本 ニ對シ新ニ鐵道権益ニ關スル各(1字不明)ノ保障ヲ與ヘタ 附属協定ニ於イテハ第二条ヲ以テ鐵道守備兵駐兵權ヲ間接ニ許シ、第六条ヲ以テ安奉線ノ一時的軍用鐵道ヲ改造 シテ恒久的経済鐵道トナシ日本ニ於イテ引続キ経営スルコトヲ承諾シ、第八条及第十一条ヲ以テ南満州鐵道所要材 料ノ免税及安東経由鉄道貨物ノ減税特権ヲ設定シタ ①附属秘密議定書ニ於イテハ第一条ヲ以テ吉長鐵道借款權ヲ許輿シ、第二条ヲ以テ新奉鐵道ヲ確認シ、第三条ヲ 以テ南満州鐵道併行線敷設禁止特権ヲ附輿シ、第六条ヲ以テ奉天省ニ於ケル鐵道附属鉱山ニ關スル協定豫約ヲ爲シ タ(下線-兒島) 右各種保障ノ内南満州鐵道併行線敷設禁止特権及鐵道守備隊駐兵權ニ就テ以下詳述ヲ試ミ其ノ他ハ各々他ノ詳説 ニ於イテ詳説ス。尚支那ノ保障ニ係ル日本ノ鐵道権益トシテハ ②南満州及東部内蒙古ニ關スル条約及附属交換公 文ニ依ル南満州鐵道及安奉鐵道ノ期限延長竝南満州鐵道ニ對スル支那ノ買収權ノ喪失、吉長鐵道ニ關スル諸協約類 ノ根本的改定豫約、南満州及東部内蒙古ニ於ケル鐵道借款優先權、満蒙五鐵道ニ關スル交換公文ニ依ル五鐵道ニ對 スル借款優先權、満蒙四鐵道ニ關スル交換公文ニ依ル四鐵道ニ對スル借款等アレドモ 是等ハ孰レモ他ノ章節ニ於 イテ之ヲ詳述ス」 (2) 「第三項 鉄道権益ニ関スル支那側ノ保障」「第二 南満州鉄道併行線禁止特権」 1) 「第二 南満州鉄道線敷設禁止特権 イ 秘密議定書ノ存否」 ここでは併行線禁止に関する「秘密議定書」がそもそも存在したのか、また言われる所の議定書の性格はどのよ うなものなのかを検討し、以下のように三点にわたって重要な指摘を行っている。 第一点はいわゆる秘密議定書が、議定書の形式を整えていないことを指摘しさらに、文書が会議録から「摘録」 したものであると指摘している(下記資料下線部③参照のこと)。 第二点は秘密議定書なるものが、秘密にされることが決定した会議録の中の、秘密約束事項16項目のことだと 明確にしていること(下記資料下線部④参照のこと)。 第三点として、秘密議定書として存在するか否かという点については、「存否孰トモ謂フヲ得ベシ」としつつ、形 式的には存在しないといえるが、実質的には存在するとすべきだ、としている(下線部⑤参照のこと)。 以上前掲拙稿で指摘したこと、すなわち日本政府がその存在を酋長した秘密議定書なるものが、会議録中の「秘 密約束」16項目を「摘録」したものにすぎないことが明らかにされている。 「第二 南満州鉄道線敷設禁止特権 イ 秘密議定書ノ存否 南満州鐵道併行線敷設禁止特権ハ所謂秘密議定書第三条ヲ以テ左ノ如ク規定シタモノデアル 16 「南満州及東部内蒙古ニ關スル条約竝付属公文」1915 年5月25日北京にて調印、5月8日東京にて批准書交換。本 条約の第1条は、大連・旅順租借地と満鉄・安奉線の期限をともに99年に延長するとした。また「附属公文」の「期限 計算ノ件」において、大連・旅順の租借期限を 1997 年とするとともに、満鉄の還付期限を 2002 年とした。また露清間で 締結された中東鉄路契約を継承して、「運転開始ノ日ヨリ三十六年ノ後支那国政府ニ於イテ買戻スヲ得ルノ一節ハ之ヲ無 効トスヘク」とされ、期限延長だけでなく有償による買い戻しの権限まで放棄させるに至った。また安奉線期限は 2007 年とされた。(以上条約に関しては『支那及満洲関係条約及公文集』外交時報社編 1934年による)

(7)

第三条 清国政府ハ南満州鐵道ノ利益ヲ保護スルノ目的ヲ以テ該鐵道回収以前ニ該鐵道ニ近ク若ハ之ト併行シ 該鐵道ノ利益ヲ害スル虞アル他ノ鐵道ノ本線又ハ支線ヲ敷設セザルベキコトヲ約ス 従ッテ併行線敷設禁止特権ニ關シテハマヅ秘密議定書ノ存否及性質ヲ究明スルヲ要スルカ ③所謂秘密議定書 トハ議定書ノ形式ヲ備ヘタルモノニ非ズシテ 満洲ニ關スル条約會議ノ議事録ヨリ摘録シタル秘密事項デアル。 明治三十八年十一月十七日満州ニ關スル条約第一回會議ニ於イテ会談ノ要領ヲ定メタルカ 其ノ一トシテ議事 ハ厳ニ秘密ニスル事ヲ定メ 十二月十九日第二十一回會議ニ於イテハ更ニ議事ヲ秘密ニスルノミナラズ議事録ノ 事項ヲモ永久ニ秘密ニスル事ヲ協定シタ。 日本全権ハ一定ノ約束事項ヲ条約文中ニ挿入セン事ヲ主張シタル所 全権ハ對内關係上之ヲ条約文トシテ公ニ スル事困難ナル事情アリ ④両国全権ノ記名調印セル議事録中ニ記入スルニ止メ公表セザリシモノ十六箇条アリ タルカ 之ガ所謂秘密議定書ト稱セラルルモノデアル。 従ッテ秘密議定書ハ形式ヲ備ヘタル議定書ニ非ズ 又之ニ挙ゲラレタル事項ハ其ノ第何条ナリト稱スルヲ得 ザルモノナルカ 所謂秘密議定書ニ於イテ便宜第一条乃至第十六帖ト爲セルニ依リ 便宜其ノ第何条ト稱スルノ ミデアル。 ⑤斯カル點ヨリシテ秘密議定書ノ存否及性質ガ問題視セラレ 延イテハ其ノ効力モ亦疑問視セラルルカ其ノ存 否ニ就テハ存否孰トモ謂フヲ得ベシ。形式的ニハ存在セズト爲スヲ得ベク 実質的ニハ存在ストナスヘキデアル。 秘密議定書全十六箇条ハ明治三十九年二月其ノ要領英譯文ガ日本政府ヨリ英米両国政府ニ對シ極秘トシテ内報 セラレ 又昭和七年一月十四日日本外務省ハ之ヲ公表シタ(附録第一號参照)。蓋シ外務省ハ坊間之ガ存否ニ疑ヒヲ 持チ支那側ニ於イテモ其ノ存在ヲ否認スルモノアリタルニヨルモノデアル 2) 「第二 南満州鉄道線敷設禁止特権 ロ 併行線敷設禁止特権ノ由来」 ここでは併行線禁止が日清間で問題とされるに至った経緯が明らかにされている。 まず1905年11月29日(第7回會議)において、日本側から提起されたものだと指摘している17。その内容 は注の9に記したとおり、6項目からなる追加提案であり、併行線禁止にかかわるものはその第二であった(下線 部⑥参照)。 会議では日清双方が要求事項を出し合い、それを修正しつつ合意を形成していったが、この6項目の追加措置も このようなプロセスで提示されたものである。そして『満州交通史稿』は、中国側が12月4日の第11回会議に おいて、この第二項に関して「別段ノ異議モナク」対応したと書いているが、これは事実ではない。まさにこの点 をめぐって論争が生じたのである18(下線部⑦参照) 次にこれらの特権は、ロシアと清国の間に既に締結されていた既得権益(下線部⑧参照)を、日露講和条約など 17 「満州ニ關スル日清交渉談判筆記」アジア歴史資料センター・B06150027000 1905 年11月29日の第7回本会議の最終版で日本側から(小村全権)6カ条の追加提案がなされた。併行線の禁止につ ながる提案はその第二条である。なお全六カ条は以下の通り。 「付属書第二號 日本側全権委員提出追加條款 第一 日清両国政府ハ交通及運輸ヲ増進シ且之ヲ便易ナラシムルノ目的ヲ以テ南満州鐵道ト清国鐵道トノ接續業務ヲ 規定セシカ為メ可成速カニ別譯ヲ締結スルコト 第二 日清両国政府ハ南満州ニ於ケル鐵道ノ利益ヲ保護スルノ必要アルニ由リ同地方ニ於ケル鐵道敷設ニ關シテハ両 国政府間ニ豫協議ヲ整フヘキコト 第三 清国政府ハ旅順及芝罘間、牛家屯営口間及鐵道線路ニ沿ヘル日本ノ電信施設ヲ承認シ ニ営口北京間ノ清国電柱 ニ一線ヲ附加スルコトヲ承認スルコト 第四 南満州鐵道ニ要スル諸般ノ材料及鐵道守備隊ノ需要品ハ各種ノ税金及釐金ヲ免スルコト 第五 清国政府ハ満州ニ於ケル農商業ノ発達ヲ圖ル為メ同地方ヨリ各種雑穀ノ輸出ヲ許スコト 第六 清国政府ハ正約及別約ニ協定シタル事項ニ關シ最恵国ノ待遇ヲ日本ニ與フルコト」 この後この第二号の中文版が「付属書第三號」として付されている。 18 この点については前掲「満鉄併行線禁止規定をめぐって」『生涯学習研究年報』第7号 2013 年)の7~10 頁参照の こと。

(8)

によって日本が継承したものだとしている(下線部⑨参照)。 しかしその解釈には相当の問題がある。下記資料の第三条が既得権益の根拠とされたものである。内容は中東鉄 道南部線によって「利益」を受ける「全地域」において「外国人」の鉄道建設を認めないと定めている。しかしあ くまでも「外国人」に対してである。また山海関鉄道(京奉線)の延長に関しては、清国独力で建設する場合には建 設と南部線接続を「阻止」しないとしている。 にもかかわらず、満州交通史の解釈は⑨の通り、清国自身の京奉線接続を認めず、さらに京奉線以外の鉄道の建 設を認めない、というものである。この解釈に無理があることは一読明らかであろう。 「ロ、併行線敷設禁止特権ノ由来」 満洲ニ關スル条約會議ニ於イテ明治三十八年十一月二十九日日本全権ハ會議ニ提出シタル協議事項大綱ノ追加 トシテ六箇条ヲ提出シタルカ 其ノ第ニ(条)ニ於イテ左ノ如ク記シタ ⑥ 第二 日清両国政府ハ南満州ニ於ケル鐵道ノ利益ヲ保護スル必要アルニ依リ同地方ニ於ケル鐵道敷設ニ關 シテハ両国政府ニ豫協議ヲ整フベキコト ⑦十二月四日ノ會議ニ於イテ清国全権ハ日本全権提出追加協議事項六ヶ条ニ對應スル意見書ヲ提出シタルガ第 二(條)ニ關シテは別段ノ異議モナク雙方討議ノ結果前期秘密議定書第三條ニ掲ゲタル文言ヲ決定シタルガ条約ニ 掲ゲザルコトトナシ會議録ニ記入シタ 茲ニ注意スヘキハ本権益ハ秘密議定書ニ於イテ新規ニ設定セラレタルモノニ非ズシテ ⑧既ニ露國ガ南満州支 線ヲ敷設スル時ニ其ノ源ヲ撥シテ居ルコトデアル。 即チ明治三十一年五月七日締結ノ遼東半島租借及中立地帯確 定ニ關スル追加協定第三條ニ左ノ如ク規定ス 第三條 露國シベリア鐵道ヲ遼東半島ニ接續セシムル鐵道ノ終點ハ旅順口及大連湾ノ二港トシ 該半島海岸ノ 他ノ地點ト爲サザルコトニ同意ス。又該計画鐵道ノ便益ヲ受クル全地域内ニ於イテ外国人ニ對シ鐵道敷設 ノ特許ヲ與ヘザルコトヲ相互ニ約定ス。露国政府ノ上記新支線ノ最近地點ニ至ル山海関鐵道ノ延長敷設ニ 對シテハ若シ清国政府ガ該線ヲ自国ノ費用ニテ敷設スルコトヲ欲スルナラバ阻止セザルコトノミニ同意ス ⑨即チ南満州鐵道ノ附近ニ於イテハ外国人ハ鐵道敷設ヲ認メザルノミナラズ 清国自身ノ敷設スル京奉線モ南 満州鐵道ノ最近地點ニハ達シ得サルモ之ト接續スルコトハ認メラレズ 況ンヤ京奉線以外ノ鐵道敷設ハ禁止セラ レタルモノデアル。而シテ本件権益ハ日露講和条約第六条及満洲ニ關スル条約第一條ニ基キ當然日本ガ獲タル所ナ ルガ之ヲ明確ニスルタメ更メテ秘密議定書ニ規定シタモノデアル 因ニ露国ハ明治三十一年「遼東半島租借地及中立地帯確定ニ關スル追加協定」ニテ本件権益ヲ得タル上更ニ明治 三十二年六月一日「北京以北及及以北東鐵道敷設ニ關スル露清交換公文」ニ於イテ北京以北及及以北東ニ露国国境 ニ向ヒ鐵道ガ敷設セラルル場合ニ於ケル優先借款權ヲ得、同年四月英国トノ間ニ締結セル「清国ニ於ケル鐵道利益 ニ關スル英露間ノ取極」ニ於イテモ同様ノ了解ヲ得タ。 日本ハ之ラ満州ニ於ケル露國ノ特権ヲ継承セルモノト解セラルルガ 日本ハ單ニ南満州鐵道ノ利益ニ關スルモ ノノミニ限定セルモノナルガ如シ」 3)「第二 南満州鉄道線敷設禁止特権 ハ、併行線敷設禁止特権ニ關スル紛争」 ここでは「秘密議定書」の法的有効性が論じられている。リットン調査団に提出された、顧維鈞の意見書 の内容と、それに対する日本側の見解が主たる内容である。

(9)

1.「法的問題」 *いわゆる「秘密議定書」の有効性について-中国側の見解 この秘密議定書の有効性について、日本政府は有効であるという立場をとったが、中国側は無効を主張した。第 一に、中国側はいわゆる秘密議定書なるもの 16 項目は、日本側が会議録から「任意」に選択したにすぎないと明 確に指摘している(下線部⑩参照)。第二に会議録の記載は、正式の条約または協定に合致した場合のみ拘束力を もつものであり、そうでない場合は全く拘束力を持たないと指摘している(下線部⑪参照)。 さらに中国側は日本の主張は、日露講和条約第四条-「満洲ノ商工業発展ノ為ニスル支那ノ施設ヲ妨ゲザルベキ 日本ノ義務」19-に反すると指摘した。 また日本側が、ロシアと清国の間で締結された「満州還付条」20と、イギリスロシア間の「清国ニ於ケル鐵道利 益ニ關スル英露間ノ取極」の中でロシアが得た権益を日本側が継承したという点も否定した。 前者は「満州還付条約」「第四条第一項第三號後段」が、山海関新民屯鉄道延長に関して、ロシア・清国間で 協議を行うこととしたことをさす。 後者は、イギリスとロシア間の取極である「清国ニ於ケル鐵道利益ニ關スル英露間ノ取極」第一条21によって、 ロシアが長城以北において鉄道に関する利益を得たことをあげたことを指す。 日本側は、この二つが日本側に権利として継承されたと主張し、これに先の「秘密議定書」を合わせ、日本側の 併行線禁止特権の根拠であると提示したのであるが、この主張に対して中国側は、日本が継承した権益にはこの二 つの取極は含まれないことを指摘した(下線部⑫参照)。 *日本側・『満州交通史稿』の見解 この点に関する『満州交通史稿』の反論は以下のとおりである。はじめに確認しておきたいのは、この「秘密議 定書」なるものが、会議録からの恣意的な選択を並べたものにすぎないという中国側の見解に対する反論がないこ とである。つまり秘密議定書と称するものが、実は会議録からの合意事項の抜粋でしかなかったことを(暗黙の)前 提としているのである。そして議事録記載事項の有効性を強調するのである。 『満州交通史稿』はまず「秘密議定書」の効力について、法理論と実際の両面から検討する必要があると述べ、 法理論にしたがえば議事録の効力は、中国側の主張と同じ見解になるとしている(下線部⑬参照)。ここでは「秘密 議定書」の効力の検討が「議事録」の効力にすぐに置き換わっている。にもかかわらずすぐ次では、「秘密議定書」 が独自の文書であったかのような表現が登場する。下線部⑭がそれである。以下に引用する。 「所謂秘密議定書ハ該議定書掲載事項ヲ包含スル議事録ニ依リテ成リタル満州ニ關スル条約及附属協定ニ関連 ヲ有セザルニ依リ法理論上原則トシテハ其ノ効力ナキモノト解スルヲ得ベシ。」 表現が分かりにくいのであるが、「秘密議定書」は議定書に載せられた事項を含む議事録-の経緯を経て-成立し た、満州条約と同付属議定書に「関連ヲ有セザルニ依リ」法理論上効力を持たない、と言っている。 19 「講和条約」第4条は次の通り。「日本國及露西亜國ハ清国カ満州ノ商工業ヲ発達セシメムカ為列国ニ共通スル一般ノ 措置ヲ執るニあたり之ヲ阻礙セサルコトヲ互ニ約ス」 20 「満州還付条約」は 1902 年4月8日、北京にて調印された。該当個所は次の通り。 「三 今後満州南部ニ於イテ該鐵道ヲ延長シ或ハ支線ヲ敷設シ及営口ニ於イテ橋梁ヲ架設シ又ハ現ニ同地ニ在ル山海 関鐵道ノ終駅ヲ遷移スルノ計畫アル時ハ豫メ露清両政府間ニ協議ヲ整ヘタル後之ヲ行フヘシ」 なお『満州交通史稿』は上記の通り、「満州還付条約」第四条第一項第三号を該当個所として示しているが、筆者が参 照している条約集では、第四条の「三」が該当個所と思われるのでその部分を引用した。筆者が参照した条約集は『支那 及満洲関係条約及公文集』(外交時報社、1934 年)である。 21 「清国ニ於ケル鐵道利益ニ關スル英露両国間ノ取極」(1,899 年4月 28 日、セント・ペテルスブルクにおいて調印)の 第一条は次の通り。 「大不列頓国ハ自国ノ為又ハ大不列頓国臣民若クハ其ノ他ノ人ノ為ニ清国長城以北ニ於イテ何等ノ鐵道譲渡ヲモ要求 セサルコト及露西亜国政府ノ賛助ニ係ル該地方ニ於ケル鐵道譲輿ニ關シテハ直接ト間接トヲ問ハス妨害ヲ加へサルコト ヲ約ス」

(10)

「しかし」と『満州交通史稿』は反論する。ではなぜ「議事録ヲ作成シタルヤ」と述べ、日清間の合意を清国の 事情に配慮して記載したものであり、一般的な法理の原則によって解釈するのは妥当ではないとした(下線部⑮参 照)。 しかし日本側の主張が根拠薄弱であり、そのため権益が十分に維持されてこなかったとの認識も持っており、「日 本ノ有スル權利ノ弱體ナリシコトハ之ラ問題ノ発生ヲ一層容易ナラシメタルモノト謂フヲ得ベシ」と述べているの である(下線部⑯参照)。 「ハ、併行線敷設禁止特権ニ關スル紛争」 「法的問題 ・・・・顧維鈞よりリットンに提出セル書面ニヨルモ左ノ如シ ⑩秘密議定書ト稱セラレル十六箇条ハ事実假約定ノ日々ノ会議録中ヨリノ任意ノ選択ニ過ズ。⑪右条項ハ 會議ヨリ生ズル正式条約又ハ協定中ニ後ニ合一スルカ又ハ論議セラレタル主題ノ意味ニ晦冥ヲ與フルニ非ザ レバ何ラ拘束力ヲ有スルモノニ非ズト思惟ス。 ・・・・・・・ 従ッテ單ニ議事録中ノ一部ヲ成ス所謂秘密議定書ハ満洲ニ關スル条約及附属協定ガ日 支両國政府居ニ依リ批准セラレタル時其ノ法律上ノ意義及拘束スル性質ヲ失ッタ。日本政府ガ右議事録中ヨ リ十六箇条ヲ一方的ニ選択シ且夫レヲ任意ニ列挙シテ支那トノ正式且拘束力アル正文トシテ他ノ諸政府ニ公 ニ提供シタルハ国際關係ニ於イテ異例デアル。 ・・・・ 中略 ・・・・ 右ニ協約ニ依ル露国ノ権利ハ日本ガ之ヲ継承セリト爲シ該二協約ト秘密議定書トノ三協約ヲ以テ日本ハ其ノ根 拠ト爲セルモノナルガ ⑫日本ガ露国ヨリ得タルハ東清鉄道南満州支線ニ關スル権利ニシテ 前記ノ権利ハ日本 ノ継承セルモノニ非ズ。 ・・・・ ・・・・ 中略 ・・・・ 所謂秘密議定書ガ効力ヲ有スルヤ否ヤハ又法理論ト実際トノ両面ヨリ之ヲ観察スルヲ要ス。⑬法理論上ハ原則ト シテ議事録ハ正式条約トナルカ又ハ正式条約ニ関連シテ始メテ其自体ノ効力ヲ生ジ 又ハ関連条約解明上ノ効力 ヲ生ズルモノト爲スヲ妥当トスルモ 正式条約ト何等ノ関連ヲ有セザル場合ハ効力ナキモノト解スルヲ得ベシ。 ⑭所謂秘密議定書ハ該議定書掲載事項ヲ包含スル議事録ニ依リテ成リタル満州ニ關スル条約及附属協定ニ関連ヲ 有セザルニ依リ法理論上原則トシテハ其ノ効力ナキモノト解スルヲ得ベシ。 然ルニ支那政府主張ノ如ク全然其ノ 効力ナキモノトセバ何ガ為ニ係ル事項ニ關シテ會議ヲ爲シ且議事録ヲ作成シタルヤ。 ⑮會議ヲ爲シ且議事録ヲ作 リタル事ハ何等カノ効力発生ヲ予期シタルモノニ依ルモノトミルコトヲ得。・・・・併行線ニ關スル議事録ハ既述 ノ如ク満洲ニ關スル条約會議ニ於イテ日支両国全権間ニ論争ノ見ルベキモノモナク容易ニ其ノ成立ヲミタモノデ アル。而シテ日本全権ガ之ヲ条約文中ニ挿入セン事ヲ定義シタルニ對シ支那全権ハ對内關係上特ニ議事録ト爲シ置 ク事ヲ求メ之ニ決シ斯クテ本件ハ始メヨリ議事録タルノ運命ヲ有シタルモノデアル。 従ッテ永久ニ議事録トシテ 置クベキ特約ノ下ニナレル本件議事録ガ一般法理ノ原則ニ 従ッテ効力ナキモノトナスは妥当ナリト謂フヲ得サ ルハ當然デアル。 之ヲ要スルニ⑯其ノ効力ハ完全ナリト謂フヲ得サルモ其ノ存在ハ厳トシテ動カスベカラザルモ ノト解スベキデアル。」 2.「併行線ノ意義ニ關スル問題」 最後に何をもって併行線とするのかの議論がきている。『満州交通史稿』は「秘密議定書」取極の際、併行とい う表現は曖昧なので、清国側がマイル数を明示することを提起したのに対し、日本側は清国の鉄道事業を制限して いるという印象を与えかねないということで、距離の明示を行わなかった。結局「併行ノ意義」については合意が 成立しなかったとしている。 ここでまず注目されることは「秘密議定書取極ノ際」という表現を用いることで、議定書作成のために独自の会 合が行われたかのように記述していることである。これは「秘密議定書」が独自に作成されたという主張の為の表 現だと思われる。日清間のやり取りも同様である。(下線部⑰参照)。

(11)

次に注目すべき点は結局「併行」の意味に関して日清間に合意はなかったとしていることである(下線部⑱参照)。 「⑰秘密議定書取極ノ際支那側全権ハ併行ナル語ハ漠然タルニ依リ哩数ヲ以テ明確ニセン事ヲ要求シタルガ日本 全権ハ之ニ對氏併行ノ異議ヲ確定する事は帰って日本が満洲ニ於ケル支那ノ鐵道ヲ制限セントスルモノナルガ如 キ印象ヲ與エル虞アリトナシ其ノ結果⑱併行ノ意義ニ關シテハ意見ノ一致ヲ見ルニ至ラナカッタ。 ・・・ 以下略 ・・・」 4 さいごに 以上『満州交通史稿』「第五章 第四節 第三項 鐵道権益ニ關スル支那側ノ保障」によって、いわゆる満鉄併行 線禁止の「秘密議定書」の問題を検討してきた。 明らかになったことは、『満州交通史稿』は明らかに「秘密議定書」なるものが日清間の交渉中議事録に残された 日清間の合意事項のことだと認識していることである。そしてその法的効力に関しても法理論的には無効だと認識 していた。にもかかわらず、日本側の権益を維持しようとする立場に立って様々な論を展開したのであるが、管見 の限りあまり説得力があるようには思われない。にもかかわらず既述のような無理な議論を展開したのは、満鉄併 行線禁止という「秘密約束」が日清間にあるという大前提が枢密院においてかたられてしまったために、この後日 本側はそれ以外の対応が取れないことになったためと思われる。見掛け上日本優位のもとで進められた交渉も、日 本側外交団の能力や論理を再検討する必要があるように思われる。またいわゆる「秘密議定書」は明らかに偽造さ れた文書であり、日清交渉から四半世紀を経て、無理に無理を重ねる外交が生み出したお粗末な文書だったように 思われる。

(12)

国際政治経済におけるレーガン革命

―グローバル資本主義への歴史的転換点創出としての 1980 年代アメリカ世界戦略の展開―

長岡大学教授

広田 秀樹

―目次― はじめに 1.1970 年代までの国際政治経済 2.1980 年代のレーガン革命 3.レーガン革命の影響 おわりに 註 主要参考資料 はじめに 1989 年のベルリンの壁崩壊、1991 年のソ連崩壊後本格的に始動したグローバル資本主義、グローバリゼーション、 地球一体化の展開から 20 年以上が経過した。この間世界経済は 3 倍以上に拡大した。ボーダレスワールドを現出さ せたグローバル資本主義は、世界のあるゆる国家が世界中の資本・人材・情報等の資源(世界資源)を自国以外か ら大胆に導入することを可能にし、多数の国家がその発展戦略を梃子に急速に発展している。「世界資源」の呼び込 みをベースに発展戦略を成功させた国家の勢いは極めて目ざましい。例えば名目 GDP で、グローバル資本主義化が 始動する以前は全く目立つことがなかった国家が大躍進している。中国は 8 兆ドル GDP で世界第 2 位、世界トップ の 15 兆ドル GDP のアメリカに迫っている。ブラジル・ロシアは 2 兆ドル GDP でヨーロッパの経済大国イギリス・ フランス・イタリアとほぼ並んだ。インドが 1.8 兆ドル GDP でそれらの国を追っている。その他、東南アジア・ア フリカ・南米諸国等あらゆるエリアがボーダレスワールドの時代となった今、国内の自由市場経済化、政治的民主 化、法整備等を進め、「世界資源」を呼び込み急速に発展をしている。一方、成熟先進国にあってもグローバル資本 主義の恩恵は多大である。世界中の安価で多様な商品が入手可能になるなどの成熟先進国の消費者利益は拡大した。 また、金融業界・ホテル業界・製造業・外食産業等諸産業への世界からの資本の流入は成熟先進国の経済のサプラ イサイドの強化を実現している。人類史におけるグローバル資本主義化は概ね全世界的に恩恵を創出することにな っていると考える。 振り返ってみると、グローバル化・グローバル資本主義化への決定的な転換点を創造したのは 1980 年代のアメリ カのレーガン政権だった。レーガン政権は、それ以前の政権即ち 1940 年代後半・1950 年代・1960 年代・1970 年代 までのアメリカの歴代政権が採用した国際政治戦略とは質的に異なる、「軍事テクノロジー・軍事力・同盟力・外交 力・諜報力・経済力・教育力・ソフトパワー」等、国家のあらゆる「力」を最大化し、国家の総合力の優越性を創

造し、それを後ろ楯に世界を「力」で変えるという「力による平和(Peace throuth Strength)」という戦略をとっ

た。レーガン政権の国際政治戦略は世界の約 3 分の 1 を占有していたソ連を司令塔とする社会主義圏を一挙に崩壊 させグローバル資本主義への道を開くことになった。その意味でレーガン政権の世界戦略遂行は国際政治経済にお ける「レーガン革命」とも言える。本稿では、1970 年代までの国際政治経済の様相と、1980 年代に現出した「レー ガン革命」、「レーガン革命」の影響を包括的に考察したい。 1.1970 年代までの国際政治経済 第 2 次世界大戦中、アメリカ大統領のフランクリン=ルーズベルト(FDR)は「ドイツ・イタリア・日本」の全体 主義勢力に対抗するため「アメリカ・英国・ソ連」の連合体制を構築した。1945 年に入り第 2 次大戦の終結への目

(13)

処がついて行く中で、フランクリン=ルーズベルト自身は「米ソ協調」の継続を念願しつつヨーロッパへの米軍の 恒久的駐留を想定していなかったが、第 2 次大戦後の国際政治戦略を必ずしも明確には描いていない面があった。 その FDR は 1945 年 4 月に死去した。FDR 死去後、副大統領から昇格したハリー=トルーマン大統領は第 2 次大戦の 最終決着、大戦後の対応に奔走した。 根本的に自由主義・資本主義を基幹理念とするアメリカにとって、社会主義システムを導入し共産主義体制の世 界的拡大を国家理念とするソ連との「第 2 次大戦中に形成された連合」は政治体制的イデオロギーを棚上げした上 での一時的な共闘であって恒久的なものになるはずがなかった。事実、第 2 次大戦が終了すると米ソ関係は協調か ら緊張、悪化へと急速に変化する。1946 年 3 月、イギリスのチャーチルが「鉄のカーテン」演説を行い、1947 年 3 月には、トルーマン自身が「世界は自由主義陣営と共産主義陣営に分かれておりアメリカには自由主義陣営を守る 使命がある」という「トルーマン・ドクトリン」を発表し、それが事実上の「冷戦の公式宣言」となった。国際政 治は「西側(自由主義・民主主義・資本主義)VS 東側(社会共産主義・プロレタリア独裁主義・計画経済)の対決」 という様相に変化し緊迫した。1947 年頃から現出した「冷戦」は「事実上の第 3 次世界大戦」となって行く。 この頃アメリカの冷戦初期の戦略的リーダーとなるジョージ・F・ケナンは、モスクワのアメリカ大使館勤務後、 ワシントンの国防大学での研究生活の後に、1947 年には国務省内新設の政策企画本部の初代本部長になった。そこ で 1950 年に辞任するまで、ジョージ・マーシャル国務長官の下でヨーロッパ復興援助計画(マーシャル・プラン) の立案に関わった。その間、1947 年にケナンは、『フォーリン・アフェアーズ』誌 7 月号に Mr.X の名前で、論文「ソ 連の対外行動の源泉」を発表し「ソ連の膨張傾向に対する長期の辛抱強い、しかも確固として注意深い封じ込め」 という「ソ連封じ込め戦略」の必要性を主張した。 1949 年 4 月、北大西洋条約機構(NATO)が結成された。1949 年 8 月にはソ連が原爆実験に成功し、9 月に世界に 公表した。1949 年 10 月には中華人民共和国(中国共産主義政権)が成立し、世界における社会主義・共産主義勢 力のウェイトは増して行った。1949 年の時点でアメリカは社会主義陣営の急拡大に大変な脅威を感じ、トルーマン 政権の国務長官ディーン・アチソンは対社会主義戦略強化の必要性を大統領に進言した。1950 年 1 月、トルーマン 大統領の指示によって国務省・国防総省に政策検討グループが設置された。グループの責任者は、ジョージ・F・ケ ナンに代わって国務省政策企画本部長になった、ポール・ニッツェが担った。このグループは、1950 年 4 月に、「NSC68」 (国家安全保障会議報告第 68 号)を完成させ大統領に提出した。その中で、NATO 諸国の再軍備のためのドル資金 供与等の包括的な対ソ連・社会主義戦略が示された(1) 1950 年 2 月には「中ソ友好同盟相互援助条約(中ソ連合)」が結成されアメリカへの脅威は最高度に高まった。 1950 年 6 月、朝鮮戦争が勃発し共産主義勢力の韓半島侵攻が起き、1953 年 7 月まで軍事衝突は続いた(2)。朝鮮戦争 は共産主義勢力による自由主義陣営のリーダーとしてのアメリカの覇権・信用(クレディビリティ)への挑戦であ ったし、アメリカが完勝という形では決着をつけられなかったことは、アメリカの同盟国や世界に対して、米国の 覇権・信用(クレディビリティ)は絶対なものではなく、不安も残す結果となった面もあった。 第 2 次大戦後は、核兵器の登場により核兵器を所有する覇権国が関与する軍事紛争では常にその所有を国家指導 者は判断上念頭に置く必要があった。核所有大国が直接ぶつかる戦争は回避される傾向になり。その代わり第三世 界における覇権国の代理戦争という限定戦争の形態で現出した(3) 第三世界にあっては、1940 年代後半・50 年代・60 年代の時点で、植民地支配からの脱却、ナショナリズムの台 頭、貧困からの脱却、生活向上への願望を背景にして、激しい民族解放運動・社会変革運動が起きていた。それら の運動の中には急進的革命的暴力的な運動に発展するものも多かった。それら民族解放運動・社会変革運動は当初 は純粋な反植民地主義的な民族解放・貧困解決の運動から始まったものであったが、次第に国際政治における東西 冷戦の構図の中に入って行くことになった。即ち、ベトナム、キューバ、ニカラグア等、多数の第三世界の運動で は、その思想的バックボーンをマルクス主義にもとめるリーダーが力を持って行った。事実、それらの国における 変革のリーダー達は、世界共産主義運動の司令塔であったソ連とコンタクトをとり協力を仰ぐようになって行った。 さらに、急進的な社会主義革命路線ではないにしても、インドのネルー、インドネシアのスカルノ、エジプトの ナセルに代表的なように、社会主義的政策に傾斜した国家戦略を描く第三世界の指導者も多かった(4)。1955 年のネ ルー・スカルノ・ナセルに加えて中国の周恩来が参加したバンドン会議は第三世界の団結をアピールし、その後 1960

(14)

年代には、アフリカで民族開放闘争が進み多くのエリアで独立が達成された。第三世界の多くの国では社会主義的 戦略の有効性への傾向が強くなっていった。 アメリカは第三世界において「リベラルで穏健な中道勢力」が力を持って賢明にナショナリズムを調整し、自由 主義・民主主義・市場経済・資本主義経済を基盤にして国をまとめることを願った。しかし現実の第三世界で、資 本主義経済を指向する勢力は「リベラルで穏健な中道勢力」とはならなかった。韓国・台湾・シンガポール・ブラ ジル・チリ・パナマなど、当時の大半の「西側に所属する第三世界の国家・地域」は、事実上の独裁政権、多数が 強力な軍事独裁政権にならざるをえなかった。逆に言えば、1950・60・70 年代の膨大な貧困層を抱えた第三世界の 社会状況では、社会主義勢力が台頭し政権を奪取されるリスクが常にあり、そのような独裁体制でなければ国家的 ないし社会的統率ができなかった面もあった。アメリカは常に第三世界での世界共産主義拡大を目指すソ連の工作 を警戒する必要があり、ワシントンは常に第三世界における変革運動を「東西冷戦の構図」で見て警戒しソ連の脅 威と同一視するようにならざるをえなかった。 日本・イタリア・フランス・イギリス等、西側資本主義国の内部においても、1950 年代、60 年代時点では、国内 の民衆の生活は十分に豊かとは言えず貧しい社会状況が存在していたのが現実であった。ゆえに、西側資本主義国 内にいても潜在的な社会主義者・共産主義者、左翼は多かった。特に社会への問題意識を持ち勉強する学生・知識 人・大学人等の多くは左翼的だった。左翼は純粋な正義、高尚な使命感をイメージさせ「知的なブランド」の響き さえもち、逆に非左翼的な考えは何か前近代的な、かつての軍国主義的な古い間違った思想というイメージが特に 知識人の間では一般的だった。 1960 年代、国際政治における西側全体へのリーダーシップという点でも、アメリカのヘゲモニー(覇権)は圧倒 的な強さを持てないでいた。例えば、国際政治において西欧諸国自体にアメリカから離れるような動きがあった。 即ち、1963 年 1 月、仏独協力条約(エリゼ条約)が締結されドイツがフランスへ接近した。この間、ケネディ政権 はドイツのコンラート・アデナウアー首相に、「アメリカとフランスのどちらを選択するのか」と迫った。アデナウ アーはアメリカの要請を受け、同条文の前文に、「大西洋共同体への忠誠」を示す文言を入れたのであった(5) 総じて、1950・60・70 年代の世界にあっては、東側・社会主義勢力の力は強く勢いがあった。東側・社会主義陣 営が優位に立つ様相も相当程度あったと言える。世界が急速に共産主義化する歴史的潮流が実在した。米国はマー シャルプランを中心とした西ヨーロッパへの支援、日米安全保障条約をベースにした日本への多様な支援、世界各 地への米軍駐留化、そして、朝鮮戦争、ベトナム戦争等、時として多数の米国人の犠牲をも辞さず、その勢いに対 抗した。米国の対社会主義戦略の展開がなかった場合、アジア全域を始め全世界的なレベルで急速に社会主義化し た可能性も強かった。 国際政治戦略という視点からも、1950・60・70 年代のアメリカは、「苦しい国際政治対応」しかとれなかった。 1960 年代後半から 1970 年代前半のベトナムでの事実上の西側対東側、米ソ代理戦争の中で、アメリカは泥沼には まり、国力・国威を衰弱させていった。ベトナム戦争の膠着状態から抜けだすためにとった国際政治戦略がデタン トだった。ニクソン・キッシンジャーは中国に接近し「米中関係」を構築しつつ、ソ連との協調を探り、ベトナム 戦争の泥沼からアメリカを引っ張りだし安定の回復を目指した。 デタント戦略は、ヨーロッパでの 1975 年のヘルシンキ宣言、1970 年代の米ソ間の戦略兵器制限条約(SALT)の 締結という一定の成果を現出したかに見えた。しかし、1970 年代後半のベトナムからの撤退・米中関係形成・対ソ 連デタントという戦略は、現実にはアメリカの「苦しい対応」、「調整の対外戦略」であって、ソ連等の世界共産主 義拡張戦略は勢いを増していった。事実、1970 年代後半から、中米のニカラグア・エルサルバドル、アフリカのア ンゴラ等を中心に、ソ連の支援を受けた共産主義勢力が台頭していった。 1975 年にアメリカがベトナム戦争から撤退した時、社会科学者ダニエル・ベルは、論文「アメリカ例外主義の終 焉」で、「今日、アメリカ例外主義の信念は帝国の終焉、パワーの弱体化、この国の未来に対する信頼の喪失ととも に消えうせた」と述べた(6)。アメリカはその他の国と同じ普通の国だと。

(15)

2.1980 年代のレーガン革命 1970 年代後半アメリカの保守派・外交エスタブリッシュメントは、アメリカ国民の自信喪失、世界の地域紛争介 入への拒絶反応の国民心理、ベトナム後遺症に直面し、それらを克服しなければアメリカが世界で指導力を発揮す ることはできないし、できなければ世界は社会主義・共産主義化するという深刻な危機感を抱くようになっていた。 1970 年代後半から 1980 年代は、世界が歴史的な分水嶺・岐路に直面した時代だった。全体主義的、大きな政府的 な社会主義に世界全体が傾斜するのか、自由主義・自由市民社会・資本主義・民主主義的に世界が傾斜して行くの か、あるいは、調整に失敗して大戦乱になるのか。1980 年代は世界史的に最も山場の時代となった。 1970 年代後半、デタントがソ連対応、社会主義圏封じ込めへの戦略の一つであったが、「デタントは、共産主義 体制ソ連を甘やかし、妥協するようなもので、何の解決にもならない、長続きしないという」という考えを主張し、 従来の対社会主義ソ連への調整戦略、デタント戦略を中心とした国際政治戦略に強硬に反対するグループがアメリ カには形成されて行った。アルバート=ウォルステッター・シカゴ大学教授、CPD(現在の危機に関する委員会)、 アメリカンエンタープライズ(AEI)、ヘリテージ財団、スタンフォード大学などの強硬派の学者やグループである。 特に、原点の国際政治戦略思想の潮流をつくっていった国際政治学者アルバート=ウォルステッターの影響力は絶 大だった。アルバート=ウォルステッターは、アイゼンワーやニクソンの共和党政権の戦略にも反対したほどに、 一貫した対ソ連強硬路線を主張した人物で、ウォルステッターの思想が世界をやがて変えることになる。ウォルス テッターはレーガン革命の原点となる人物であった。 巨大な岐路の時代の国際政治の舞台に、まさに彗星の如く登場してくるのが、ロナルド=レーガンだった。レー ガンは、アルバート=ウォルステッターの思想の影響を受けたリーダーで、「ソ連封じ込め」でなく「ソ連打倒」を 国際政治戦略の中心に置いた。レーガンの国際政治戦略は、それまでの「ソ連封じ込め」を完全に止揚した、次元 的質的に飛躍した国際政治戦略でその土台には、力の重視、力による平和戦略があった。力がれば、調整や遠慮な どせず世界を変えることができるという考えである。 レーガンは貧しいアイルランド移民の末裔として生まれ、世界大恐慌の最中に青春時代を経験した。大恐慌の時 代、フランクリン・D・ルーズベルト大統領のラジオ演説での激励を聴き青春時代を走り抜いた。レーガンはFDル ーズベルトを尊敬し若き日は民主党支持者で民主党員だった。しかし社会の階段を昇りながら、民主党の政策等に 疑問を有するようになり次第に共和党支持者に変化して行く。1960 年代には、宗教右派社会的な(秩序・規律を重 視するグループ)・大企業(小さな政府・規制緩和・自由競争を望むグループ)・高額所得者(減税を希望するグル ープ)・ネオコン(共産主義打倒を望むグループ)・軍と軍関係企業(国防力強化を望むグループ)など広範で多様 なアメリカの保守派の各勢力を統合できるような共和党保守派のスター的存在になって行く(7) 1980 年の大統領選挙で現職民主党政権のジミー・カーターを破ったレーガンは、1981 年 1 月第 40 代アメリカ大 統領に就任した。レーガン政権発足後、アメリカは世界戦略において一挙に従来の方法から転換した。レーガンは 国際政治において、アメリカの軍事力・諜報力・同盟力・外交力・経済力・メディア力・文化力等あらゆる力を最

高度に高めソ連共産主義体制を打倒し世界を変革することを目指した。「力による平和(Peace through Strength)」

戦略の実行であった。レーガンは「強いアメリカ」「闘う国家アメリカ」を掲げソ連を「悪の帝国」と呼び世界への 社会主義・共産主義浸透の潮流に真っ向から対決した。レーガン政権の戦略は 1970 年代までの政権の戦略の基本ス タンスであった「ソ連封じ込め」ではなく「ソ連打倒」であった。それは「ソ連封じ込め」という調整を第一に考 えた戦略を完全に止揚した次元的質的に飛躍した国際政治戦略で、戦略遂行の後ろ盾として「力の重視」をおいた のであった。 1981 年頃レーガンが閣議で最初に、「ソ連は悪の帝国で打倒すべきだ」と言った時に、皆、ジョークと思ったと いう。レーガン大統領が真剣に、ソ連打倒を決意していると分かってきて、皆びっくりしたという(8)。当時、レー ガン政権の閣僚の多くですら最初は、ソ連を打倒することなど不可能だと思っていた。また世界中が不可能と思っ ていた。しかし、レーガンだけは本気だった。「社会主義体制・共産主義体制のような制度、システムは世界からな くさなければ、世界は良くならない、平和にならない、進歩しない」というのがレーガンの信念であり本気で打倒 を決意していたのであった。なぜレーガンは、社会主義体制・共産主義体制を嫌ったのか。レーガンは「自由の価 値」を最大に認める指導者であった。またレーガンは自由主義・民主主義・市場経済を基幹理念とするアメリカは

(16)

世界の進歩への責任を有するといったアメリカの歴史的使命を強く自覚したリーダーであった。ゆえに「反自由・ 事実上の独裁体制・大きな政府の非効率社会・アメリカへの覇権の挑戦・宗教の否定ないし軽視・事実上の人権抑 圧・世界への共産主義拡大の流れをつくり国際政治を不安定にしている・・・」といったソ連の国家的要素が「ソ 連打倒」の基本的理由だったと考えられる。 レーガンは猛烈な軍事拡大を断行した。戦略兵器レベル、戦術兵器レベル、それらを総合的に支える軍事テクノ ロジーの面でも、米国の軍事力を強化し、 SDI を打ち上げたことに象徴的なように、戦略兵器レベルで完全にソ連 が追いつけない段階の軍事システムの構築の方向まで宣言した。レーガンの軍事力強化は最終的にソ連の追随を不 可能にし、米国の軍事的「絶対的優位性」を確立させた。そして軍事拡大レースで対決しようとしたソ連を結果的 に疲弊させることになった。軍事的な絶対的優位性を後ろ楯にしてアメリカは、INF 全廃交渉を中心とする当時の 対ソ連外交でソ連側を圧倒し、アメリカ側の要求を認めさせソ連の対外拡張戦略を放棄させることに成功した(9) 1989 年 1 月レーガンは「冷戦は終わった」と宣言した。事実、1989 年から東ヨーロッパで民主化・自由化運動が 台頭し、東ヨーロッパの社会主義政権は連続的に崩壊し、11 月には、冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊した。 1991 年 1 月から 3 月にかけて、アメリカは湾岸戦争で先端技術をベースにした圧倒的な軍事テクノロジー・軍事力 を世界にみせつけ勝利した(10)。1991 年 12 月には、東側社会主義陣営の司令塔であったソ連自体が崩壊し、名実共 に冷戦は終結した。冷戦はアメリカの勝利に終わった。 1980 年代のレーガン革命は世界をグローバル資本主義へとシフトさせて行く一大契機を創造した。即ちレーガン 革命後、世界の経済的基幹システムは資本主義化し地球全体に資本主義システムが急速に波及しグローバル資本主 義が現出されることになる。 3.レーガン革命の影響 レーガン政権は、1970 年代までの経済の需要サイドからの調整にウェイトを置いた経済政策からサプライサイド 強化に重点を置く政策へのシフト、大型減税や民営化推進を中心とした個人・民間サイドの自由裁量の拡大による 経済活性化等の「国内政策上のレーガン革命」も展開し、それが米国経済社会の再生強化を実現させ国際政治での アメリカの攻勢を支えるバックボーンとなった。結果として、1980 年代にアメリカは軍事的・経済的な点を中心に しながら文化力等ソフトパワーも含め多様な点での「圧倒的優位性」を国際政治経済において確立することに成功 した。ブッシュシニア・クリントン・ブッシュジュニア・オバマと続く米国の歴代政権は、レーガン政権がその基 盤・原点を構築した「圧倒的優位性」を背景にグローバル化の推進、そのレベルアップへと国際政治を動かしてい くことになる。レーガン以降、アメリカの「力の優位性」は、最高度に構築されて行くことになる。レーガン時代 からスタートし高まって行くアメリカの「力の優位性」はやがて、もはや他国からの調整、意見には一応対応して 冷静に配慮するが、根本は必要ない、なくても世界を動かすという段階にまで達することになる。「アメリカ主導の 世界秩序構築」の潮流の原点はレーガン時代につくられたと言える。「レーガン前のアメリカ」と「レーガン後のア メリカ」は質的に異なり、「レーガン後のアメリカ」は完全にレベルアップされたアメリカと考えるべきである。1980 年代以降の「レーガン後のアメリカ」は完全に復活し、経済的、軍事的、文化的、諜報作戦でも、経済浸透でも、 圧倒する力を後ろ盾にしての世界変革を目指すようになる。 レーガン政権の時代に、既に、国際社会全体への強力な介入主義は、明確だった。国際政治学者ケネス・ウォル ツは、「国家主権、自決権、内政不干渉の権利よりももっと根本的なものがある、われわれは、民主的な政府を転覆 する権利はないが、非民主的な政府に対抗する権利はあるという考えが、レーガン政権の高官にはあった」と述べ ている(11)。軍事力や圧倒的な力を後ろ盾に内政干渉してでも独裁政権・人権抑圧政権は打倒して自由主義・民主主 義をつくれというスタンスは、レーガン政権から始まっていた。アメリカの変革の挑戦に対して、敵対する国やリ ーダーは、打倒する。その際、極論を言えば同盟も必要ない、同盟国ですら同調しないときは「有志連合」を選択 する。「アメリカが世界を変える。自由主義に、民主主義に。危ない兵器は手放せ、自由経済を進めよ、独裁なんか やめろ。」といったスタンスを展開する段階まで達していく。 2001 年 1 月 20 日、ブッシュジュニア大統領の就任式が行われた。その就任スピーチで、ブッシュジュニアは次 のように述べた。「弱さが挑戦を招くことのないよう、挑戦を凌駕する国防力を構築する。新たな世紀が新たな恐怖

参照

関連したドキュメント

第16回(2月17日 横浜)

18.5グラムのタンパク質、合計326 キロカロリーを含む朝食を摂った 場合は、摂らなかった場合に比べ

その後 20 年近くを経た現在、警察におきまし ては、平成 8 年に警察庁において被害者対策要綱 が、平成

・  平成 7 年〜平成 9 年頃、柏崎刈羽原子力発電所において、プラント停止時におい て、排気筒から放出される放射性よう素濃度測定時に、指針 ※ に定める測定下限濃

原子力規制委員会(以下「当委員会」という。)は、平成24年10月16日に東京電力株式会社

委員会の報告書は,現在,上院に提出されている遺体処理法(埋葬・火

② 

平成 24