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道徳教育に関する一考察
(Max Sehelerに於ける模範の道徳的意義)
A stucly on tho moral. edueaion. (Tlle inor:Ll meaning of a model iユ1 Max Scheler)輪 健
]XEisira 1〈lenji 二 目 次・・灘購駿熱る
3.模範とヲ艶範
5.模 範 の 座 7.山畠と澄徳庵勺形戌2.模範の木質
4・模範とその追随新
6.模範の在り方
. 嗣 「人間の精紳的生戎は決して車なる流れる過程でもな く又挾義の発蓬でもなく,それは同時に消徳的形成(Sit− tliche Bildullg)である」(1)とすれば,此の道徳的形成 に対して模範の原理は如何なる埴位と意味とを持つだろ うか。 Schqlerの倫理学は実質的価値倫理学(d1e niateriale Wertethik)と云われる如く,価値とは如何なるものか, そしてその世界は如何なる構造を有するものかと云うこ とを解明しようとする。ところで聖徳酌劇職は価値の価 値として,対象価値の実現に即した作用価値であり,人 格は本質酌に異なる諸作用の「直接的に共に体験された 統一」⑭それ自体として,「作調の根源的主体」(n)であっ て,此の作用の背慶や外に「単に考へられたもの」(ehl nur gelachte3 Ding>(4)とか,又はK:antの如く,「実 践的理性活動の出発点のX」(5)としての理性人格でもな い。人格は作用価値としての鎌脚的価値の根源醗担持者 (6)であるから,実質的価値論理学はまた同時に人格主義 倫理学でもある。(7)それ故に「最高価値的且積亟的価値 的人絡の理念の中に於て,爾先天的な仕方に於て一定の 質的な類型が匿別されるか否か,またされるとすれば如 何なる類型があるか」のと云うこと.を積極酌に示すごと はScheler倫理学にとっては極めて重要のことである。 人格(個人的にも肚会的にも)の酒徳層形戌はか様の最 高鱈値灼且積亟的価笹的入絡の理念の追求である。而し てかNる人絡の理念が根源酌には模範であるのであるか ら道徳白勺世界の形成(個入的にも肚比量にも)にとって 模範はその形成原理として,極めて重要な置去酌地位と 意味とを持つものと云わなければならない。 謡 普i蕾愛当的なものにのみ葱徳自’竃価値を認める1{an七の 立場よりすれば,道徳白勺価値は,実蹉理性の事実として の普遍妥当の1萱悠律に対する意欲の合法性に帰せられる から,価値と云えば凡て普通安寧封勺価値のみである。そ り り して入格は此の蓮徳寧に従う隈り,初めて理性人格とな り るのであるから,理性人格としての人間には本来何等の の ゆ本質的差異もなく,従って蓮葉存在自身’はKantにとっ ては問題とならないのみならず,個的人格と桜色ことは Contra(1icto ill Adjectoを意味ナるにすぎ1ない。従っ てKalltにとっては当為の個的安当と云うことは道徳津 の普遍妥当性の破壊である。何んとなれば1魚ntに於て は,凡ての当為は規範的当為として普遍愛当灼でなけれ 菰ならないから。それ故に「意志の普遍化の可能性,原 理に対する意志の有用性(雪rauglichkeモt)カ§1〈antの善 の根拠である。」(9)これに対してSchelerによれば,「凡 ての当為は価値に基付け(Eundieren)られるが,逆に価 値は全然理想的当為(idenle3 Sollei})に基付けられな い。」(エ。〉而も価値の中で最高価値は人格価値であるから, 正に消徳約最高規範は最高なる入格の価値に基付けられ る。従って「純檸に三段論法的に実質的にもまた最高価 値的人格の理念は,道徳杓存在と態度に対する最高の規 範である」(II)と云5ことが出来るQ Schelerは此の意味 に於げる最高の規範をK:an七的ま規範と匿別して模範 (Vorbild)又は理想(ldei1>(1Cz)と呼んでいる。第一に Kant的規範は人格の意欲と行為に関するものであるが, り S3helerの膜範は人格存在自身に対する.。第7二にKant 的規範(Normative Sollen)の当為要求は行酋の普遍 愛当性であるが,Schθ]erの嘆範(ldeale Flollen)の当 )2
滋 大 論集
第 1 集 1 9 5 2 為要求は,入門存在自身(学的妥当惟)の生成である。 最后に前者は行為に対するその実現の要求として,既 の要求内容を実現せんとする意欲に関するのに対し,後 門はそれの実現せられると否とにか製わらず理念的に存 する。それ故に規範的当為は当在すべぎもの(sein 8011) が与へられた現実に於て実現されて居らないことを予想 するから,現実の世界に於てのみ可能であるが,理想豹 当為は価値の在り方としてその実現とは無関係に可能で ある。「理想的当為は現存及び非現存の内容に制限せら れて居り,そして非現存から現存への,現存から非現存 への移行に基付けられている。これに対して義務当為 り の(1’flicht Sollen)は,專ら非現存価値にのみ基付けられ ている。」(鞘規範当為の内容ほr汝は不正をすることな vi,;れ。」(Du sollst nich七Unre :tht tu11.)(14)という命題 の形に,理想的当為の内容は「不正はあるべきでない。」 (Unrech七soll nicht sein,)(15)という命題の形に全て表 現される。それ故に規範的当為からすれば,行為がその 内容としての不正をしないようになればなる程,その行 為は道徳1勺ではなくなるという奇妙な結論になる。これ に対して理想的当葛の,不正はあるべぎでないと云う要 求は.それの実現如何にほ何等の関係もなく,常に道徳 り る む 酌に戎立する。洞察された模範の人格価値は,それ自穿 り りその実.現如何にか」わらずあるべきものヒしての当為要 求をもつている。「理想約当為ほ,その日付げ(ti alldie− rtmg)を本質的には価値と実在機との関係に於て有する の が,義務当為は非実在酌価偵の実現への方向を持ってい る。それ故に実現された価櫨について,此の価1直は合壁 の 務酌であるべきであると云5ことは無意味である。」(16> それは丁度幸馬主蔑に対して,人聞は本来幸逼を追求す るから,幸覇を追求すべし,と云う幸揺主義の鼻翼原理 が無意味であると同様である。幸颪主義はその戌立のた めには,その前提を否定しなければならないと云う自己 矛百に隔る。同様のことが規範倫理学についても妥当す る。Kantの嚴禰主義(Rigorismus)は,入間’こ対する 彼の不信と云う根本前提からの必然的な論理」勺帰結であ り の る。「Kantの凡ての前提は,人間ぽ実矧理距から眼を転 ずるならば,箪なる自然的存在(N就urwe3elD一機械的 な衝動の束(eic meohanisches TriebbUndel)一であり, 凡ての池愛は自愛に,然し愛は一一般に利己主義一自愛と 利己主義はKantに対しては同義一に,そして既の利己 主義は感覚的快楽への力求(S七reben)に帰せられる。」(1り そして之等の前提は,「感覚主義の共魑の根本酌誤謬」(18) でもあるが,またKa■七倫理学の前提でもある。従って か様の前提の上に立つ彼の主観主義酌自律主旨約嚴粛主 義は,実は彼の否卸した感覚主義とその基盤を同じくす るものと云わなければならない。こ托がH⊂ゐbes酌人間 のKan七郎実跨理性を要する所以である。(ls)更にSche− lerは極言して,か様の嚴粛主義をKantの個人的傾向 に帰せしめている。 「私は此の態隻を凡ての所与詳審に 対する全く根源約な敵対性或はまた所与に於ける不信頼 と云弓語を以て,混沌としての所与に対する彼の不安と 恐怖と呼ぶことが出来る。世界は外に,自然は申にと云う ことはK鋤t的に醗訳すれ1ご,これが世界に対する彼の 態度であり,自然は形成され,組織され,支配せられる ものである。世界も自然も敵対白勺なものであり,混沌で ある。」(LI o)か様のKallt的立場からは客観キ勺な価値の世 界の存在とその構造とは発見さるべくもない。それ故に Ka11七的先験主義を一一貰した思惟態変は,「世界憎悪 (Welthass),世界敵対(NYe/t 一= feindscha£t>,世界への 原理的な不信頼」(o.1)である。難処から無制限の主観主義 的自律主義が生}して来,そしてそれはまた必然酌に嚴浦 主義とならざるを得ないQ然し「泊岸は全く人格及び此 の入格に帰せられる限りの人格の作用の道徳杓責任(S沁 tliche Relevanz)の諮提でしかすぎない。」(吻から,「そ れ故に自律的入質は決してそれだけで既に善人格ではな い。」(2りにもかかわらず,K:al}tによれば,「漸齢勺洞察 と漕徳約意欲とは決して区別せられず,同時に善悪と云 う言藁の意義は理性人格自身が与える(自己ウ1法)とこ ろの規範法則に帰せられる。」(恥従つ.て1〈aiitの主観主 義.杓自律主調によれば,自律的なものは普遍妥当的であ り,そしてこれのみが道徳的であると云うことになる。 然し道徳嚢i勺簡値の問題と,此の価値の帰属の問題とは興 然区別されなければならない。規範は実現せらるべき行 為の普遍愛当性に関し,従って個的なものの附加は規範 自身の破漿を意味するが,模1趣は理想として正に個的な ものであり,実現せらるべき入格的個奇勺価醸本質に於て その存在の窮極酌意義を有するのである。此の意味に於 て入格の個挫を否定し,人格を普遍愛当約な理性人格一 り 般とのみ見るKanもに於で,模瓶の此の窮趣紅lil奮的意 義が許容せらるべくもなかったのは当然と云わなければ ならない。 Sn 模晦と規範との間こは如何なる本質関係があるだらう か6これに関しては全く根反する二つの立場がある。一一 つは1魚nt的立場であり,一つはScheミe c的立場である と云い得る。Ka11七によれば,「若しも善の概含;が先立て る実製靴法則からi写出せられずに,反対にこの法則の基 礎であらねばならぬとすれば,それはただ或物一その存 在が快を約束しかくてそのものを生’鎚ために主観の 因果性をEVち欲求能ノ」を規走するところの或吻一の概念 のみであり得る。ところで如何なる表象が庚と結合せら道徳教育に関する一考察(三輪)
3 む り れ,これに反して如何なる表象が不快と結合せられるか ということを先天的に洞察することは不可能であるから, .直接に何が善であり,何が悪であるかを決定することは りただ経験に挨つほかはないであら「)。」(t.5) ・・「然るに善 む む り 又は悪は常に理性法則によって磯物を意志の対象とする ように規定せられるところの意志に対する関係を意味す『 る。この意志は対象や対象の表象によって決して直接に は規定せられずに理性の法則を行動の動因(これによっ て対象に実現せられ得る)とするところの能力である。 故に善叉は悪は本来入格の行為に関係せられるのであっ て,人格の感覚状態に関係せられるものではない。」㈹ それ故に1〈an七に於ては善悪の概念は根源的には理語法 の則に対する行為の合法凝性又は反法則盤であるから,人 格自身の道徳性は人格の行為の道徳性に還元せしめられ, 従って同様に入絡の模庵価値も亦行為の規範価鍍に帰属 せしめられる。入格はK:antに於ては「可能なる埋性作 用のX」(Subje!d(X)m、glicher VernUnftakte)(27) として理性者一一般の人格と見られるが故に何等の個虻価 値をも持たない。それはただ理性法則に対する理哩作用 の出発点(X)たるに留まり,そこには積亟的に何等の り り 人格存在も尚われない。人格存在自身の価値は,入格の 作用と合法釣理性意志の価笹の中に解潰ぼられる。「汝 の意志の格率が,常に同時に悪霊杓立法の原理として妥 当し得るよ5に行為せよ。」(LB>と云う定言命令に於て示 されている如ぐ,Kantにとっては本来風格的個的当為 は存すべぐもなく,当為は凡て規範的当為として整遍愛 り も こ当切である。そ’り趣に模翫は普遍安当約規抱の具転化に しか過ぎず,模亟性としての入歯的1証約当為は規範的当 為の直観化としてf壁1:鮒存在がその自然:1勺傾向に打ち克 む むつて普遍作当杓規範を実現ダるために高々その鼓羅の役 に立つものでしかないことになる。 これに反して入格を普遍箕当的な胆嚢人格とみずして, 「個的具体約自己価値釣作用中心(individuelles Konk− rete38eU,stwer七ige翫L1くtzentrUm)」(29)として個絢人格 存在を認め,そしてその価1直本質を「入格的救済(Per− sうnlidle 11eil)」(1。)とし,此の個的入格の救済を最高善 とする8chelerによれば,「凡ての普遍妥当(底入格に 対する普遍安当拗なる八事ほ,最高価寒湿ら人格の紳 聖なる存齪(das Heiligsein der PefβQu)及び最高善 廓ら個酌人格の救済より見れば価健の極小を示すにすぎ ない。勿論入格ほ既の普遍抵当的な価纏を認めず実現し なければその救済を得ることは出来ないが,然し普遍妥 当的な価値は,入格がその実現によって自己の救済を得 るところの凡ての可能なる酒乱的価値を自からの中に包 含するものではない。」(’”1)従って普遍妥当的な価値は人 格の庁為の餌艇であっても決して入絡自身の価値ではな り ゆ い。入格の価値本質はそれが正に個的であるということ である。最高善としての自己救済とは宗教酌に云うなら ば,「紳の精粋の眼前に展開してい.る善の無限の充実に於 ける護る一定の場所に於て善があり,そしてそれが私に 対する善であり,私の理想魯勺価値本質を含み,それ故に 私は経験的にもまたそれになるべぎである。又次のよう にも表現することが出来る。邸ち,此の個的価値本質は 齢の愛一般の方向に裁てのみならず,私に対する紳の愛 の方向に於て存するから,私に対する理想際(ldealbil(1) となる。」(;2)此の私の価値理想(Wert iden1)に基づい て私の存在理想(Seinq.ideal)が規定せられる。か様に 考察するならば,人格的個的理想的当為としての模範姓 は,直接人格存在自身に影響を与へるもので,決して行 為の規範一溢徳徳一の単なる直観化につき’るもので はなく,逆に,模範の上に立ってのみ規範の実現は,道 徳的意義を得ると云わなけ’ればならない。凡ての人格作 り用は正に人格の作用であり,「根源的に乱箱は悪と呼、まれ 得るもの,自口ち凡ての個々の作用以前に且独立に善悪と 云う実質的価値を担持するものは正格であり,人格存在 である。」(33)若しもKantのよ5に道徳的価値を本来道 徳法則に対する人面の意欲の単なる合法則産に帰するな らば,碑と悪魔との道徳性は何によって区別され得るだ ろうか。悪魔の意志が悪であるのは,悪魔の定立する道 徳法則が悪であるからであり,根源的には悪魔自身が悪 しき存在であるからに外ならないのである。それ故に善 悪は,法則に対する行為について初めて云い得るのでは なくて,法則その亀のが本来善悪と云われるのである。 紳と悪僧との本質的相異は彼等の定立した法則に対する 意欲の合法則塗ではなくて,定立された法則自身の相異 であり,窮極約には,榊自身と悪魔自身との本質約相異 に帰せられなければならない。神はその本質に於て善で あり,悪魔はその本質に於て悪であるから紳の定立した 法則は善の法則であり,悪魔の定立した法則は悪の法則 であると云わなければならない。それ故に根源的に善又 は悪と云われ得るのは,輪軸の単なる合法則性でほな く,法則自身であり,更にそれを定立する人格存在自身 である。従って正しくK:antとは逆の結論が生ずる。 邸ら善人格によってのみ善い道徳法則が定立ぜられ,既 の善い道徳法則に適合する行為が初めて善い行為となる のである。「義務規範はそれを定立する人格なしには存 しない。」(均と云う根本事実から出発しなげればならな い。道憩的価値の根源酌敵持者は入格自身’であり,人格 の凡ての諸作用の道徳的価値ほ眈の人格自身の道徳白藍価 値に懸歌1ナられているから,溢徳教育は本質轟こば人心 サ ゆ り り 存在自穿に関し,それは言葉通りに人格の教育であらね ばならないと云うことは留意されなければならない。そ4
滋 大 論 集 第 1 集 J 9 5 2 れ故にK:antの強調した「道徳法則に対する璽i扱」(’35)は また本質的には,此の道徳法則の定立岩としての.人格存 在自身に対する奪敬に帰せしめられなければならない。 K鋤tに干ても「奪赦は常に人格にのみ関し,決して物 件には関係しない。」㈹と云われるにもか玉わらず㍉そ れほ理性法則の蓮筆者としての理.性人格にしかすぎない。 凡ての価格を超越した愈嚴性を持つ人格の定立する濫徳 律であるから,初めてそれはまた門口の対象となるので ある。璽制する人格に対しては最も深い体験関係が戎期 する。そして最も深い体験闘係は愛の関係である。愛は .赤い絃(rote Fade1i)(‘]7)の如く心の論理として一切の作 用に先行し,之を基付ける。愛(憎)は価値世界の発見者 であり,比の作用によって価値の世界は拡張もせ’られ., 縮少もせられる。働ん格の鯨敬は人格への愛に基付く。 愛に基付けられた曾敬に於て穫範入魂は個的理想的当為 として,私に対し,此の当為奨求によって私の人格的全 存在は規定せら派,私は経験約にも此の模範人格に追随 しなければならない。か’様に規範の道徳性はその定立者 としての入国存在自身の道徳性に基付かなければならな いと云うことは,凡ての澄徳的規範領解に妥当する原理 である。愚敬の感情にほ何等の強制も含まれて居らな り り い。吾々は麓敬する入格(撹範人格)に対してはよろこ り んで追趨する。人格は根源杓には人格「模範人格〉にのみ 追随ナる。此の憐薩人格への追随には既こその模範入絡 価値の洞察が前提せられている。それ故に愛に蓬付く人 格酌結合によってのみ追越関係は成1kし,そして此の追 り り り 随関係の上にのみ初1うて,頬範,命合も道葱的となる。 息子に対する父の命令(gebot)の母性さ抗るのはドー家 的にはそれが単なる父の命令であるからではなくて,家 族叢岡体に於げる杜会人格としての父に対する電敬に拠 るのであり,酔の命令を信ずる君には,それが正こ本質 善としての紳の命令なるが故でらって,道なる立法者と しての耐iの命令であるから信ぜられるのではない。道徳 教育の戎否の分技点は正に;}ヒの点である。「倫理肇は実 際,幾阿学が幾阿学釣に何が真であるかを教え得るが如 く,道徳的に何が善であるかを教えることが出来る。然 し倫理学は道徳的意識に何物をも損いることは出来ない。 ただその固有の内容と原理へ向け得るのみである。倫理 学は適徳的意識からそれに含まれているところのものを 引ぎ出し得るのみである。吐の点に於てもまた倫理学は 純檸数学と同様である。両者の相異は倫理学が意識にの ぼせる原理と内容は,命会,規範,価値であると云うこと だけである。哲学的倫理学は道徳的意識の助産術(Mai・ eしltik)でちる。」c9)此の道徳的学究は賢徳約意欲に媒介 されて初めて実淺杓となる。而して此の道徳的意欲の領 域が,道切教育の本来杓な領域である。それ故に哲学約 倫理学の最高現実的課題は,「徳を如何に教育すべきで あるかと云うことを教育者に教育すること」(4。)である り のと云もれる。薄徳教育はそれが1萱徳の教育である限り数 学の教育と何等異なる点はない。然し同時にまたそれが ゆ り 道徳の教育である点に鞭て数学の数育と異ならなければ リ ロならない,,潭徳教育は本質豹には道確1的価値の実現に関 するQ道徳甦価値の根源的担持者は既魂のよ5に人格自 身であるから,道繧教育は根源約には入格自身の在り方 に関する。教育の電戎否は結局,教晒その人の問題に煽着 すると云われるが,既のことは別しても道徳教育に愛曝 する。人を動かすものほ窮極的には知識や権威や地位や 名郎等ではなくて之等を持っている人間自身である。徳 ほ孤ならず,積善の家には余慶ちりと云われる如く,有 徳の人の存在自片が人を動かし,1亘徳的にも教育する。 偉大なる教育者は,卓抜した教育の理論家であるよりも, 高ぎ人格奢であり,天姓の教育者である。此の意味に於 て教育者は他に対する教育者であ7n i’hitに,自己自身t,に対 する教育者であらねばならない。「財崖をでぎるだけ多 く獲たいとか,名聞や栄饗のことにあくせくせず㌧叡智 や真理や魂のことは出来るだけ善くたるようにあくぜく し,心掛けること」(tl)にi致育の秘密があり,「己が為にす るは君予の学なり,人の為にするは小人の学なり。而し て己が為めにする学は入の師となるを好むに非ずして自 ら人の師となるべし。入の為にする学は人の師とならん と欲すれども途に師となるに足らず。」(4])と云われるが 如く,教えるための学問ではなくて,学ぶことによるi敦 育に一切の教.響は終結ナる。教師は何よりも先づ第一に 人間道(IN・leaselienkeiinei’)であるべぎである。教緬自 身の中なる定格の充実の,跡肖らなる発露孝に流宵暁育の 根源がある。そル吸に教師が学{二如し同ll・に得て生3…の愚 敬の対象であるところに初めて報徳数育は成る。此の遊 標の念のないところに於げる所謂道徳教育は 重のパリ サイイスムであってむしろ反渣徳教育であるとさへ云.・ 勝る。勿論置徳嶽:育はそれ自身道慰i勺意識を必らずしも 道悪的意欲にまで導くとは限らない。既処1ご窪恋藪:首の 限界がある。然し1嵐色1致育は正にぜれが道徳茨i二ずである ことに於て既の必継嘘を要求する。そして此の必然性は 教師の入格存任自身に侯つよ解直はない。此のことは教 師の模範入営を意味ずる。模籠としての数日の人格に対 する奪敬は必然、勺に模範へと追陥せしめずにはおかない。 道徳教育の彪の下当の要求は,師弟の此の模籟とそれへ の追随との関係の上に鞭てのみ実現せられる。従って道 徳教育をして道徳的たらしめるものは根源約には教師の 存在自身が予約に生徒の模範的存在であることである。 模範としての教師にして初めて,その説盾も助言も寒寒 も指示も将又命含禁上も何等の遅制をも俘わざるのみな遣徳教育に関する一考察 (三輸)
5 らず,自律的規範として,生徒自身を行為にまで推進す ることが出来る。従って「凡ての規範はそれを定立す る人絡の可能的な積極郎又}書痙極白《価値白く外観性(V〔レr− bild加ftigkeit)によつて価値及び不価値を有し,既の模 範的なもの(Vorbiidhaftes)の積極的又は清宵白∼価値’1月三 は模範として彷く人格の積極的又は消極酌価値本1賀によ って規定される。」(4n)と云い得る。 四 模範関係は需に入野間に於てのみ存し,動物の世界に 於げる摸倣関係とは本質離に異なる価値関係である。此 .の人格関係としての暗記関係は直接{/、験酌であって,「A の継目齪積極的入戸価イ『〔が,]≧に於ける同様なる入楕価 値め根源に対して直接に規罪し得る唯…の関係」(44)であ る。人格存在の道徳配形成は,比の直接的督生半烈日関 係に於てのみ可能である。このことはまた既述したよう り り に人を動かすものほ根源酌にほ匠様なる入であると云弓 ことを意味する。純粋なよき撲範程深刻な入里離感化を 及ぼすものはないし,人格的感化程道徳教育に於て強く 要求せられるものもない。愛ほ愛を呼び起す。(憎みに 於ては逆に同じことが云い得る。)愛する者は愛翻/,愛 されれる者は愛せずには居られないと云らことは愛の本 質である。既の蔦:味に於て愛はその本質に於て相互愛 (MitlieLe)である。そ事故に愛に導かれての相互愛に於 て模簿人格と遜随者との愛の相互鑑召験関係は無限に1契 化される。(灘こ於てはこれに無限の拡張が加わる)そし て此の愛の無限の1突化はまた愛の当事者の一体化を惹卜 する。それ故に模範入墨とその追随者とは,愛に於て一一 体化さtl,旺の一一休化の程度に応じて追随者の夫々の聖 徳墨形威は成り,追随者もまた限りなく模籔人格存在に まで島まる。既の愛のイご1験[更係は,模範入1名が,現存の 人格であろうと,置去のものであろうと或いはまた同胞 に於てであろうと異国人に於てであろうと樹勢の膨象関 係には何等影響せられない。それは本質酌には,歴史的 敢会艶制約には超越酌である。道徳教青に於ナる窮極目 標は生徒がよい行為をすることにあるのではなくて,彼 り ゆ 自身が端甑によい行為をするような善い人格となり,従 の つて善い入格であると云うことである。榊の日離の善で ある所以は,調咄身が善であると云う事実に基付く。同 様に同人の善入たる所以は,彼の存在自身が善であると いうことである。彼がその行うよい行為によって初めて 善となるのではなくて,彼の存在自身が本来善であるか ら,彼は実蹉堅にもまた必然朗に善行為をし,又しなけ ればならない。既の意味に於て道徳教育は根源酌には人 当の功徳酔形成であって,1強徳醜意欲や行為にあるので はない。而も既の入格存在の解糖甑形成は道徳嶽育以上 であって,それは榎範人格存在による直接雑人絡傑感化 均桝にはそれへの途はないから,溢徳藪育に於ける穫範 の道徳白勺意義は一段と高まらなくてはならない。「重土 に於てかくも根源離に,かくも直接貞勺に而も必然離に人 の り格自身を善たらしめるものぼ,善人格をその善に於て洞 察的且単層こ直観するより他には何物もない。此の関係 は善となり得る(M∼:91ichen Gllt−werden)と云う点に 撃て,既の善生成の生じ得ると考え写る夫々の可能なる 他の麗係に絶対離に優越する。此の関係はAに対するB の命令(Gebot)又は命令服従(:ReEehlE gehorsain)の関 係に優越する。なんとなれば,Aは(自己命令の場合に もまた)命令者の価値への自律的且直接酌洞察からそれ り り に追随することが出来ず,更に彼は行為のみを目標とし 得,心情を沢んや人格自身の存在を目標とすることけ出 来ないから。」㈹Sprangerも亦「胃壁がその難生贋判條 を以って私激する一個の入間」(均が青年の:萱包隠形成に 於ける決定的なものであることを彊乱している。既述し たように道徳教育は道徳酌意欲と行為との形成であるが 故1に,それは外的強制的な躾の撤育につらなることは出 来ない。躾は道徳教育への手段としての教育ではあって も,それ自身湖畔教育たることは出来ない。漕徳i数育は訓 の ゆ 練以上であるQ然し渣徳教育}ま此の道徳的意欲と行為以 .ヒに1!1ることは出来ない。此の限界以⊥に(ilで,人格自身 の酒田的形成の原理として,模範人格存在とその人格的 感化とが重要の意昧を持って来るQ「此の模範人絡によ る嚇異の詳解関係は凡ての所謂直徳教育に優越する。何 んとなれば既に論じた如く,か様の激育は人格酌存在と その心情とを道徳的ならしめることが出来なくて,むし ろ夫々価値及び不価値を持っている人絡存在とその心情 とに,経験創世展の機を与え.得るのみであり,1而もか様 リ ビ の教育作用が改善(Besfferun.p’)の意図の下に於て行わ れるところでは,か様の意図的道徳教育は,撤育作用の 総体としては不道徳となる。」(‘り愛に基付く直接的人格 関係に基礎をおかない作為的な所謂道徳教育は生徒の心 情に,溌んや入内存在自身に影響を与え得るどころか, 功利お算の狡智を刺戟し,溜徳を損得計算の具に堕せし めるのみである。全人靴模範関係は凡ての溢徳教育の基 底である。不道徳的道徳教育(似面非なる道徳撤育)と 道徳蹴聖徳教育との分岐点は,それが罫引存在の擬範関 係の上に立つか否かである。此の模範関係による敏師と 生徒との一体化によって,生徒は致わぼ嶽師の人格の中 に仮干せる理想的な自己人格にまで覚醒され,実饅献に も亦此の人格になろ5とする。然し生徒の此の理想郎自 己人格への途は直接的ではなくて間接的な途であり,教 師は模範性を媒介としてのみ可能である。生徒ほ裂師に 追随し,此の鎧随に於て理想的自転入興に到駕する。そ6