文学的美意識と「日本」 : 川端康成と三島由紀夫(
二)
著者名(日)
瀧田 夏樹
雑誌名
井上円了センター年報
号
6
ページ
33-57
発行年
1997-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002829/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja交学的美意織と可杢
川端康成と三島由紀夫︵二︶瀧田夏樹§§§
︵五︶ 雪 人のくるぶしを埋める程に降り積もった雪の庭で、揮ひとつの男が、居合い抜きの瞬間の緊張を見せながら、 自ら抜いた日本刀の切っ先に視線を送っている。細かい雪はなお降りやまず、植込の下陰や、雪を背にした男の 裸体の黒い胸や腹のこちら側にしきりに落ちる白いものが、はっきり写し取られている。男の筋骨はしっかり締 まってたくましいが、下半身が意外にきゃしゃなのが目を引く。撮影は昭和四十四年二月、三島由紀夫があらゆ る意図をこめて遺そうとした、殆ど自画像ともいえる写真である。 豊富な写真を収める、ジョン・ネイサンの三島由紀夫伝では唯一、二ページ分を割かれているこの写真は、晩 年の﹁三島﹂のイメージを効果的に伝えてくれるものとして、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地本部から撤を飛ばす最後 の映像と双壁をなしている。この写真には、後の方の報道写真が﹁解説﹂を必要とするような複雑さを一切含ま ぬ、明快に視覚化された作品性がある。三島由紀夫という作家を知らぬ外国人でも、この写真から﹁日本﹂を名 指せる人は多いのではないだろうか。その意味では、一般に肉体性に乏しい﹁日本﹂を身体性によって伝える力 を持った、貴重な国際性を指摘することも出来る。但し、この作家にとって、雪降る二月と﹁剣﹂が何を意味す 33 文学的美意識と「日本」るのかを知る外国人は皆無に近い筈だ。 二・二六事件当日を平岡公威は、学習院初等科の五年生として迎えた。十一歳の少年はその朝何も知らずに登 校して、級友から大臣が襲撃され殺された事件を知らされる。事件の意味は理解できぬながら、生徒たちは、大 きな不安に満たされた。事件の舞台は東京の中枢部であり、いわば学校のすぐ裏手で血生臭い大きなことが起こ っていたのだった。しかし勿論、臨時休校となって帰宅した少年たちの身には何一つ不祥事は起こらなかった。 34 その雪の日、少年たちは取り残され、閑却され、無視されてゐた。少年たちが参加すべきどんな行為もな く、大人たちに護られて、ただ遠い血と硝煙の匂ひに、感じ易い鼻をびくつかせてゐた。悲劇の起つた邸の 庭の、一匹の仔犬のやうに。 と三島由紀夫は回想している。︵﹁二・二六事件と私﹂︶この文章にむつかしい意味は少しもない。少年たちの状 況が、開かれた感性描写の比喩を通して説明されており、比喩なるがゆえにこの誇張はむしろ説得的だ。そして こうした誇張された実存描写は、われわれに直ちに、これが昭和後期の文体であることを教えてくれるだろう。 ﹁悲劇﹂を﹁戦争﹂に置き換え、﹁邸﹂を﹁国家﹂に置き換えれば、第二次大戦の年月を少年として地方で過ごし た経験を盛り込んで書かれた、大江健三郎の作品﹃飼育﹄のどこかに挿入されても違和感のない同質的文体をす ら感じさせる。だがすぐそれに続けて書かれている次の文章の誇張には、少年たちの健康な危機感のレベルを故 意に高める判断が働いている。
少年たちはかくてその不如意な年齢によつて、事件から完全に拒まれてゐた。拒まれてゐたことが、却つ てわれわれに、その宴会の壮麗さをこの世ならぬものに想像させ、その悲劇の客人たちを、異常に美しく空 想させたのかもしれない。 クーデターが、何らかの意味で悲劇であることは否定すべくもないが、それをドラマとしての﹁悲劇﹂に見立 て、判断する時間的なゆとりは少年たちにあり得なかった。事件の深刻さ、臨場感はあった。だが事件から彼ら を﹁完全に﹂隔てていたのも、年齢の障壁ではなかった。当事者以外の、大多数の日本人全部が、この事件の前 に﹁完全に﹂無力であった。ひたすら何らかの解決を祈る局外者であったのだ。作家を含めた当時の学習院生徒 たちに関する、この後代からする推定には、思い込みを装った全く別の動機が働いているようである。さらに又 彼が、この﹁当時十一歳の少年﹂の、事件に関する直感のなかに、二十歳で際会した敗戦経験の折りの一つの深 刻な実感と、密接に結ばれる内容があると述べるとき、少年の﹁空想﹂が言葉以上の判断力までを負わされてい ることに気付く。 十一歳の直感が、少年の人生に、小さくはない影響を与える例は、他に求める事が出来る。明治二十二年二月 十一日、帝国憲法発布の日の朝、式典への出席準備中だった文部大臣森有礼が、自宅において右翼のテロリスト に襲撃、殺害されたとき、同じく学習院生徒だった有島武郎は年齢も同じ十一歳であった。この事件の彼に与え た影響の大きさはすでに定説で、たとえば或る略年譜には、﹁明治二十二年二八八九︶十一歳 二月十一日、 文部大臣森有礼刺殺され、強い衝撃をうけた。この頃から海軍志望をやめ、漠然と農業に憧れをいだく。﹂︵﹃新 潮日本文学アルバム﹄︶と書かれている。この前後の事項の間の関連は微妙なものを含む。但し、高級官僚の優秀 35 文学的美意識と「日本」
な子弟なら選ぶ、例えば東京大学法学部を経ての官界入りといったキャリアとは全く別の、辺境の開拓地にある ﹁札幌農学校﹂を出発点とする、そして有島武郎の一生を貫くユニークな歩みの根本のところに、この﹁衝撃﹂ が﹁密接に﹂係わっていると見るのは、かなり自然なことのように思われる。この国粋主義的な陰惨な事件の、 時代に及ぼした影響の大きさの一例として、また十一歳少年の思想の真摯と高さを考えさせるものとして記憶に あたいしよう。三島由紀夫の場合はどうだろうか。 この文章を書いている四十一歳の現時点まで、一本の線で繋がる大きな心のわだかまりを、彼は﹁神の死﹂と いう比喩的な言葉で表現している。﹁神﹂とは何だろうか、又その﹁死﹂とは何をいうのか。敗戦までは﹁現神﹂ ︵あらひとがみ︶という呼称が行なわれていた﹁天皇﹂の神性の虚構が、天皇みずからの行動において啓示された 折りの衝撃と悲しみの込められた言い方であるが、明らかに一般の国粋主義的な言辞とは異なる、三島固有の語 である。一方﹁悲劇の客人たち﹂は、この事件の関係者を指しているように見えながら、ここで意味されるの は、決起し反乱軍として処刑された青年将校たちと兵士らであろう。この十一歳少年の単純な空想はしかし、こ の政治的事件について作家が立論し、さらにこれを文学作品化する上でのむしろ必要な方法論だったと見ること が出来るのではないか。それは、大いなる﹁神﹂の死と、その﹁神﹂の超絶した威光と正義を信じて敢えて法を 犯し、みずからその虚構に裏切られて死んでいった﹁神話的英雄﹂の悲劇の成立のためのものだった。そのよう なギリシャ悲劇的な構造の上に、彼の﹁二・二六﹂三部作は配置されるのだが、立憲君主制の下における天皇と、 個々の日本人の心の中にあった天皇像の間に開いた亀裂が一方で、三島由紀夫に昭和の前期から後期への転換を も肯定させない程に深刻なものになって行く背景について、先の﹁雪と剣﹂の写真は、何一つ語ってはくれない のである。 36
そういう意味で、この写真は、これまた余りにも﹁三島﹂的なイメージを作った﹁聖セバスチャン﹂ーグイ ド・レー二作品の構図にならい、手を高く交叉して縛され、裸体の同じ箇所に深々と三本の矢を射込まれて、大 木に架刑された忘我の境の活人画的肖像とは、大いに性格を異にする。三島由紀夫の﹁聖セバスチャン﹂には、 グイド・レーこのそれにある﹁何か音楽のやうな物憂い逸楽のたゆたひ﹂︵﹃仮面の告白﹄︶ではない、苦しげな ﹁殉教者﹂の表情がぬぐわれていないが、見るものはむしろ、模倣の表現の喜びに同調していればよい。そこに この人の表現者としての真骨頂を見れば足りる。昭和後期の芸術表現の一つが紛れもなくそこにある。それに対 して、この一九六九年二月撮影の﹁春の雪﹂に包まれたパフォーマンスが、見るものに投げ掛ける疑問は、白刃 に見入る人の衝動のありかであり、その答えは、つきつめてみた所で、結局はわからないのである。 ︵六︶ ﹁春警 遺作﹃豊饒の海﹄第一巻﹁春の雪﹂の冒頭には、主人公の松枝清顕の心に、最も強烈な印象を残していた日露 戦争の一枚の写真のことが語られ、これが、大きな物語の発端を荷なっている。日露戦争がおわった年、松枝 と、この四部作全部を歩きとおすことになる親友、本多繁邦はともに十一歳であった。その友に、﹁そのときの ことをよくおぼえてゐるかときいてみたが﹂彼の記憶もあいまいで、提灯行列のことぐらいしか思い出せないと いう。 あの戦争がをはった年、二人とも十一歳だったのであるから、もう少し鮮明におぼえてゐてもよささうな ものだ、と清顕は思った。したりげにその頃のことを話す級友は、大てい大人からの受売りで、自分のある 37 文学的美意識と「日本」
かなきかの記憶を彩ってゐるにすぎなかった。 38 十一歳という時期は所詮そんなものだということとともに、この一種無責任な年齢にも、国家にとり、ひいて は個人にとって重要なことが起こり得ること、その事件がどういうものを、どんな方向性を以て残すかが語られ ようとするのである。清顕にとって、日露戦争は、セピア色のインキで印刷され﹁得利寺付近の戦死者の弔祭﹂ と題された、明治三十七年六月二十六日撮影の一枚の報道写真であった。 それは、戦争報道写真ながら﹁ふしぎなほど絵画的﹂な構図をもった、戦場での慰霊祭の実写で、数千の完全 武装した︵たぶん第二軍の︶兵士らが、中央に設けられた白木の墓標と白布の祭壇にむかって心をささげている 光景であった。遠望を収めた野の果てまでも兵士らは広がり、群がり、半円を描いてうなだれている。 前景の兵士らも、後景の兵士らも、ふしぎな沈んだ微光に犯され、脚絆や長靴の輪郭をしらじらと光ら せ、うつむいた項や肩の線を光らせてゐる。画面いっぱいに、何とも云へない沈痛の気が漆ってゐる。 この弔祭図のたたえる限りない﹁悲哀﹂の感情が、十八歳の清顕の原体験に等しいものになった理由について は、ほとんど語られない。その戦争で二人の叔父が戦死したということを除いては。しかし、一本の墓標に向か って、それを取り巻く巨大な集団から、﹁口につくせぬ思ひ﹂が、﹁波のやうに押し寄せ﹂ているものすごい圧迫 感について、著者が簡潔ながら明確に、﹁徐々にしめつけてゐる﹂﹁重い鉄のやうな巨大な環﹂と述べていること を、見逃してはなるまい。見るもののこうした感動は、慎重に構図を選んだらしい従軍写真班の意図した効果で
あったろうが、その群衆図からは、観衆の心をゆすぶる一個の劇的効果ともいうべきものが醸し出されていたの だ。 そして、この写真のことがその後引用、言及されるのは、﹁春の雪﹂のほぼ二ヶ所に過ぎない。一回目は、或 る雪の朝、綾倉聰子のたっての願いで、学校の授業を欠席した清顕が、降りしきる雪のなかを、ふたり乗りの人 力車でドライブを試みた場面である。それは、幼なじみの恋人同士が初めて経験する密室 幌のなかでの恋の 冒険で、この時ふたりは、初めて唇を合わせもしたのであるが、幌をあけて麻布三連隊の営庭を見渡せるあたり を走らせていた時、清顕は、不意にあの日露戦争の弔祭の幻を見たのである。ただし、このとき、兵士らの肩に も帽子にもすべて雪が積み、見た瞬間に、彼らがみな死んだ兵士であることを彼は悟った。そして、あの数千の 兵士が集まっているのは、自分たち自身を弔うためであるのだと思った、とあり、激しい死者への同化が認めら れる。 もう一ヶ所は、洞院宮治典王殿下と綾倉伯爵長女聡子との結婚の儀が、いよいよ天皇の勅許を得て実現されよ うとするとき、みずから可能性の芽を摘み取った筈の恋を、強引に再開しようとする清顕の、その重大な決心を 告白された本多が、かつて清顕に見せられた例の写真のことを思い出して言及し、こんなコメントを付ける場面 である。 強ひてこじつければ、かうなんだ。︵略︶/明治と共に、あの花々しい戦争の時代は終ってしまった。︵略︶ もう若い者が戦場へ行って戦死することはたんとはあるまい。/しかし行為の戦争がをはってから、その代 りに、今、感情の戦争の時代がはじまったんだ。この見えない戦争は、鈍感な奴にはまるで感じられない 39 文学的美意識と旧本」
し、そんなものがあることさへ信じられないだらうと思ふ。だが、たしかに、この戦争ははじまってをり、 この戦争のために特に選ばれた若者たちが、戦ひはじめてゐるにちがひない。︵略︶/行為の戦場と同じやう に、やはり若い者が、その感情の戦場で戦死してゆくのだと思ふ。それがおそらく、貴様をその代表とす る、われわれの時代の運命なんだ、⋮⋮ 40 清顕は微笑を浮かべただけで答えなかったが、自己の行為が﹁時代性﹂によって弁明されたのだ。この段階ま でに、清顕は、これまでの優柔不断を一榔し、綾倉家の老女蓼科の手引きで聰子と密会し、初めて体を合わせ、 恋する男になり、その眉には、凛凛しい英雄らしさが宿っていた。その恋は、しかし社会的に絶対に﹁不可能﹂ の恋であり、﹁死﹂は、﹁感情﹂が﹁行為﹂と一つになったと同時に﹁運命﹂的にはらまれていた。だがこの﹁不 可能﹂の条件なしには、この優雅な青年に本物の恋はありえなかった。 彼は﹁大地震﹂、﹁大戦争﹂、﹁國の大本﹂を揺るがす出来事を夢みた。そうなれば、﹁あの人を助けにゆく﹂の にと。しかし、聰子があれこれの経緯ののちに、密かに清顕の子を堕うし、奈良・月修寺に剃髪・出家し、﹁洞院 宮家の御都合による﹂婚約破棄が報ぜられたあと、恒例の御歌合会で天皇のお顔を仰いだとき、﹁お上をお裏切 り申上げたのだ。死なねばならぬ﹂と考える。その点でも、二歳年上の聰子の決心は早かった。納采の儀まであ と一二ヵ月という頃、彼女は、﹁君はのちのちすべてを忘れる決心がついてゐるんだね﹂と聞かれて、﹁ええ。ど ういふ形でか、それはまだわかりませんけれど。⋮⋮﹂と答えている。この言葉は、この四部作の結末と結び合 う重要なものであるが、この聰子の言葉と実行は、﹁得利寺付近の戦死者の弔祭﹂の図のどこにあてはめたらよ いのだろう。
そのことをも含め、この日露戦争の戦場慰霊祭写真は、少なくとも﹁春の雪﹂一巻では十分な意味の開示を受 けてはいないのではないだろうか。本多は自分の解釈を﹁こじつけ﹂と自認しているが、清顕の見た幻にも、か なりの飛躍が感ぜられる。一本の墓標に迫ってゆく、戦死した戦友への熱い兵士らの思いとは全く別の、主観的 世界からの把握なのである。それらはともに、過去のこの粛然たる状況とは無縁の世界に生きなければならぬ者 の、ニヒルな精神状況を、もどかしく裏書きするためのものである。これは、﹁あの戦争の花々しい時代﹂明治 と、国家存亡を賭けた戦争の皆無だった﹁われわれの時代﹂大正時代の差を歴然と語ろうともしてもいる。しか しこの二人の青年が十八歳だった頃、日露戦争の写真が、それ程﹁古び﹂ていたかは疑問で、ここにも、二つの 時代の断絶の観念を誇張するためのテクニックが無視できない。 国家の存立が戦争と直結していた﹁行為﹂の時代が終わり、﹁感情﹂の時代が始まった、と本多は説いた。彼 らが十一歳のとき、﹁戦争﹂は終わり、戦場で死ぬ機会を失したものたちの運命は、﹁感情の戦場で戦死﹂するほ かはない。そんな戦争があることは、凡庸なものの到底信じられないことであると。しかし清顕は、そのために 選ばれた代表なのだ。では清顕はいったい何をしたか。彼は、洞院宮治典殿下という皇室にゆかりの深い方の結 婚の儀を妨げ、その妃となるべき人を奪って、仏門に追い込み、最高の権威に無礼をはたらいた。行為の面から いえばそうであるが、あらゆる形骸を踏みにじって感情をいつわらなかった一途な恋は、世間から忘れ去られる ことで成立ち、そこに価値を主張し得るのだ。 当の若宮は、待たされた挙げ句、聰子が﹁脳をわずらった﹂という信じがたい言い訳に接したわけであるが、 感情を少しも表情に出されることはなかった。しかし、慰めに来られた母宮には、次のようなエピソードをもら している。 41 文学的美意識と「日本1
私は何となく、ずっと以前、私が少尉のころに、宮中で起ったことを思ひ出しました。そのことは以前に お話し申し上げましたね。私が参内したとき、廊下でたまたま、山県元帥に会ひました。忘れもしません が、表御座所の廊下でした。元帥は拝謁を終って退出するところであったと思ひます。いつものやうに通常 軍服の上に広衿の外套を着て、軍帽を眼深にかぶって、両手をぞんざいにかくしへつっこんで、軍刀を引き ずるやうにして、あの長い長い廊下を歩いて来ました。私はすぐさま、道を空けて、直立不動の姿勢で元帥 に敬礼しました。元帥は軍帽の庇の下から、あの決して笑はない鋭い目で私のはうをちらりと見ました。元 帥が私を何者か知らなかったわけはありません。しかし元帥は、つと不機嫌に顔をそむけて、答礼もせず に、そのまま傲岸な外套の肩を聾やかして、廊下を立去りました。/私はなぜか今、そのことを思ひ出して ゐたのです。 42 ここには、その言い訳の嘘を見抜いた繊細な心と、虚偽的な儀礼で塗り固められたものの裏側にひそむ、猛々 しいまでに得手勝手な無礼の横行を感じる、若い皇室人の﹁感情﹂がある。二人の若いシャム皇族の、学習院留 学生をも含んで展開される、この﹁春の雪﹂一篇は、主人公清顕の二十歳という早世で終わるが、危篤に近い状 態になったのが二月二十六日、帰京後二日で亡くなったという事実が、もの言いたげに読者には残される。 ︵七︶ 豊⋮饒の海 つづく﹁奔馬﹂一篇は、もと松枝侯爵家の書生で今は右翼塾の主宰者、飯沼茂之の息子飯沼勲を主人公として 展開される。十九歳、国学院大学の予科一年生で剣道三段であるが、奈良桜井の大神︵おほみわ︶神社の奉納試
合で優勝した、この眉目秀れた青年の存在を、偶然この催しの招待に応じた本多は、この時に初めて知った。勲 は、この作品で、二つ役割をになっている。一つは、すでにその最初の出会いの折り、裸になった勲の左の脇下 という目立たぬ場所にある、三つ星のような﹁ほくろ﹂が、本多によって素早く目撃されて、清顕にもあった同 じ肉体的特徴その他から、彼が、清顕の﹁輪廻転生﹂した姿にほかならぬことが確認されるのだが、こうした本 多の判断による見方を、読者も共有すること、となる人物であること。もう一つは、彼の唯一の愛読書、山尾綱 紀著﹃神風連史話﹄から最も強く影響された行動パターン、少数の同志を集めて憂国の至情を直接的に示す過激 な行動に、一直線に走り込む、感情的、短絡的人物像を生きることである。 時代は昭和七年、五・一五事件の第一報が人々を驚かせた頃に始まり、翌八年十二月二十九日、勲が伊豆山稲 村の蔵原武介別荘で、この﹁財界の黒幕﹂を刺殺したのち、夜の海に面した崖で割腹自殺を遂げるまでの、一年 有半。昭和六年三月、十月の、軍部によるクーデター未遂事件に端を発し、七年二月、三月の血盟団による右翼 テロ、五・一五事件と続くテロリズムの季節であり、勲たち学生グループの行動も、東京市内六ヶ所の変電所、 銀行襲撃計画などは、五・一五の小型版を思わせる。ただし、彼らの計画は、右翼・軍部のそれ以上に、長期的 なクーデター展望を持たず、当初あてにしていた﹁堀中尉﹂にうまくかわされて以後は、一人一殺ののち直ちに 自刃という、テロのためのテロの成就が目的となった。 しかも彼らの計画は勲の父親の知るところとなって、寸前に逮捕され裁判を受ける。本多は、裁判官を辞任 し、弁護士としてこの事件を担当する。﹁世間﹂の同情も厚く、判決主文﹁被告人二対スル刑ヲ免除スル﹂をも って、被告たちは、ほぼ一年後に全員釈放された。そして、その三日後に、勲のテロと自刃はものの見事に果た されるのであるが、行為の寸前に相手に下した宣告は、﹁伊勢神宮で犯した不敬の神罰を受けろ﹂というものだ 43 文学的美意識と「日本〕
った。蔵原は、十日前、伊勢神宮参拝の折りに、玉串をうっかり尻に敷くという失敗を冒し、それを大々的に報 ずる﹁皇道新聞﹂のニュースが、釈放された勲の目に入っていた。﹁幻でないもの﹂にすがりつく思いの彼の心 に、新たな目標が与えられた、といえる。 勲の、右翼少年として典型的な衝動的な行動形態、その教養の偏向と狭さは、熱烈な忠義の感情、真摯な人柄 と平衡して的確に描出されている。生活空間も、十九歳という年齢にふさわしく小さくて、乏しい。あるのは、 ﹁農村の疲弊﹂﹁労働不安﹂に対して無策な現体制への怒りと憂悶である。これが、﹁禁刀令﹂を﹁神代固有ノ風 儀﹂としての帯刀を侵すものとして行動した、明治七年の﹁神風連﹂の反逆を活写した一冊の著述によって火を つけられる。この本を、勲は、本多、堀中尉、洞院宮治典殿下にまで読ませようとした。本多は、時代を全体像 からつかむ必要を説き、﹁純粋性﹂と歴史を混同せぬよう忠告し、中尉は、好意ある同感を示した。無謀ともい える反乱計画、自滅を意味する武器の選択の誤り、予想どおりの失敗と自刃の結末からみるなら、その本がおよ そクーデターの教科書たり得ないことは明らかで、勲の行動の動機は、ひたすら﹁いかに死ぬか﹂にあった。 44 第三巻﹁暁の寺﹂は、四巻をなすこの作品の要をなす役割をになっている。時代は、太平洋戦争を含み、巻半 ばで敗戦が来るのであるが、著者はこれを分かって第一部、第二部とした。また、人格の異なる主人公を登場さ せた前二作の種々の人物を、この一巻でまとめる必要もある。さらに、輪廻転生の小説としては、読者に相当の 理解を得なければならない。そのために、本多のタイ、インド訪問、その強烈な体験と、帰国後書物で得られた 知識や発見が、すべて第一部に投入された。その結果、輪廻転生の主体である﹁無我の流れ﹂、すなわち﹁阿頼 耶識﹂こそが、刹那ごとの新たな生まれ変わりである世界の本質なのだと悟った本多には、昭和十六年十二月八
日の開戦も、帝都を焦土と化した戦火も、すべて色槌せて見えた。事実、第一部と第二部の間には、なんの緊張 感も存在しない。敗戦は言及されもしない。もともと司法にたずさわる者として、﹁マヌの法典﹂に興味をもっ ていたとはいえ、この部分に関する本多の悟り方には概念性が濃く、清顕と勲に彼が認めた﹁輪廻転生﹂の確信 がなければ、この淡泊さ自体が説得力を失ったであろう。 他人の左脇の下という秘部に関する特徴を覗き、これをひそかな生きがいとすること自体がそうであったが、 本多という謹厳実直型に、﹁覗き﹂という性癖があり、これが趣味にまで発達する事実を、読者はこの巻で初め て知らされる。︵三島文学の読者にとっては、なにも初体験ではないにしても︶さて第三巻の転生の候補者は、タイ 王室の十八歳の﹁月光姫﹂︵ジン・ジャン︶である。本多は、昭和十六年、開戦まえのタイ訪問中、当時七歳だっ た姫にお目にかかったことがあった。変わった子で、﹁自分は日本人の生まれ変わりで、故郷は日本だ﹂と思い 込み、周囲からは、気がおかしいとして保護されていたのだが、父がかつての日本留学生の王子バッタナディド であり、清顕の遺した﹁夢日記﹂や、亡くなる前のうわごとからのヒントもあり、本多には期するところがあっ た。会ってみて、姫の本多に対するただごとならぬ親密な態度、ためしに問うてみた﹁松枝清顕﹂﹁飯沼勲﹂に 関するプライベートな日付に、ことごとく正確に︵翻訳をとおして︶答えられたことから、姫が、二人の生まれ 変わりであることの確信が生まれた。だが姫の水浴の折りの瞥見では、最後の証拠である﹁ほくろ﹂は見えなか った。 バンコックと、ヒンヅー教徒の聖地インドのベナレスでの、本多の魂を揺るがす宗教体験は、彼をますます怠 惰な、﹁見る﹂ことにかまける人間にしたと言えよう。戦争の跡のまだ癒えぬ昭和二十七年、十八歳で日本に勉 強にやって来たジン・ジャンは、乳房もゆたかな少女で、日本語も上手に操れたが、子供時代のことは何ひとつ 45 文学的美意識と「日本」
記憶していなかった。彼の生活は、今や、彼女の転生の事実を確認する目的を中心に回り出し、この魅力的な南 国の王女を、年がいもなく恋人のように追い始める。彼が、御殿場ニノ岡にしつらえた別荘に、当時はまだ珍し かったプールを設けたのは、ジン・ジャンを泳がせるためだったし、別荘の彼の書斎に隣るゲスト・ルームとの 境の壁に、巧妙に﹁覗き穴﹂をしつらえた目的も、彼女の裸体を観察するためであった。何度かの失敗ののち、 その覗き穴によって、ジン・ジャンの左脇の見つけにくい奥にある、三つ星のほくろをついに確認するが、彼女 はそのとき、思いもかけず、同性愛の行為に耽っているところだった。日本では何一つ得るところなくタイに帰 ったジン・ジャンが、殆どなにもせぬまま、二十歳の春、コブラに噛まれて急死したことを本多が知ったのは、 ほぼ十五年後の昭和四十二年のことだった。かくて本多の﹁戦中﹂﹁戦後﹂は、徹底して受け身に、そして虚無 のうちに過ぎる。 46 四部作﹃豊饒の海﹄の最終巻﹁天人五衰﹂は、昭和四十五年五月二日︵土曜日︶、帝国信号通信社清水港事務 所で、沖を通過する船を見張る安永透の目の前に、荘洋と広がる駿河湾の、刻々に変化する海と空の変化の描写 から始まる。彼は﹁凍ったやうに青白い美しい顔をし﹂た十六歳、眺めるための天賦の美しい目を持つが、﹁心 は冷たく、愛もなく、涙もなかった﹂と紹介される。そして、貧しい孤児の境遇に少しも傷つけられなかった彼 の、他に対する自我は、﹁硬い厚い侮蔑の樹皮﹂だった。彼の左脇の乳のかたわらに、スバル星のような三つの ほくろがあることを、透はいつからか﹁あらゆる人間的契機から自由な恩寵﹂の証として、ひそかに考えるよう になっている。 当年七十六歳の本多が、この少年と関わりをもつのは、言うまでもなく、この印によった。かなり偶然の機会
で、三保の松原を二度訪れた折りに、この信号所に偶々立ち寄って、少年の印を認めるなり、﹁あの少年を養子 に貰はう﹂と決心する。しかし決心させたのは、そればかりではなかった。わずかの時間の観察と会話によっ て、﹁刹那のうちに、少年の内部の磨き上げられた荒涼とした無人の工場﹂1本多自身の自意識の雛型1﹁最 醜の機構﹂を的確に認めたからだった。愛することを知らず、世界を虚無に変え、人間を無に導く﹁純粋な悪﹂ に出会ったと本多は思ったのである。今までつながって来た三人との違いは、この少年が小﹁本多﹂でもあると いうことで、﹁精巧な贋物﹂かも知れないのだ。二十歳の天折という例外的運命をためし、かつは、普通の人間 として育ててみたい。 本多は、透の出生時をジン・ジャンの死亡時と重ねて検討する労を、今回は中途で放棄した。しかし、IQ百 五十九の少年に、家庭教師の東大生三人をつける英才教育が直ちに始まった。著者は、本多の抱く或る期待によ って拾われたこの﹁悪﹂の少年に、周囲の平凡な世界を細かな策略の仕掛けで次々に排除してゆき、本多との生 活のなかに自分だけの根をしっかりと張らせる。或る日の日記に透は恐ろしいことを書く。 二十歳になったら、父を地獄の底へ突き落としてやる。その精密な計画を今から立てておくこと。 果たして、昭和四十九年、東大入学と同時に透は牙をむき出し、八十歳の老人に容赦なく暴力を揮うようにな った。しかもやり方が巧妙で、透を悪く言うものはいなかった。彼の二十歳のゴールも迫った或る日、透に自分 の卑しさを一挙に見せつけ罰したのは、本多の別荘の隣人で老年の女ともだち久松慶子だった。彼女にだけは、 輪廻転生の秘密まで打ち明けられていたのだ。透は薬物自殺をはかり、一命はとりとめたが、視神経を冒され、 47 文学的美意識と「日本」
自慢の両眼は失明した。準禁治産の状態の透は、二十一歳でなお生きていた。八十一歳の本多は、癌研で即刻 ﹁良性の﹂﹁膵臓嚢腫﹂手術を勧められた折り、一週間の猶予を願い奈良の月修寺訪問を企てる。六十年前と全 く同じ道を、痛む体を押さえながら、門跡聡子に会うために、寺の内玄関の白い障子の前に立った。感激でいっ ぱいの本多に、門跡はしかし、﹁松枝清顕﹂といふ人物の名は﹁きいたことも﹂ない、もともといもしなかった 人なのではないか、と反問して、本多を呆然とさせる。それは、よどみのない、当年八十三歳になる門跡の言葉 であった。﹁松枝﹂﹁勲﹂﹁ジン・ジャン﹂がいなかったとしたら、ではこの自分は⋮⋮、というのに、﹁それも 心々ですさかいに﹂と、答えられるのだった。 48 ︵八∀ 虚無の庭 三島由紀夫は、この小説を昭和四十五年、すなわち彼の自刃の年の、八月中旬に書き上げ、コピーを編集者に 渡した。そして、自分が作家として学んだことは全部注ぎ込み、あとなすべく残されている仕事は、自殺するこ とくらいだと冗談めかして述べていた。この作品に全精力を使い果たした、という手紙も書かれている。欄筆の 文字は、十一月二十五日、すなわち自殺当日午前零時に書き込まれ、すべて計画どおりの、仕事ぶりだった。 ﹁暁の寺﹂は、内容が混んで慌ただしく、小説としては十分にこなれていない感じであり、﹁天人五衰﹂は叙述 に厚みが欠けるなど、執筆時期と重なる異常な状況を思わせるが、死期から逆算して計画どおりに完結させる意 志力は、驚嘆に値する。安永透の物語のストーリーの始まりは、作者の死の当年で、物語は著者の死を乗り越え て進み、八十一歳の本多が、彼自身の死の近さを覚悟する時期は、作家の死後五年を閲した頃である。時間的に も、アイロニカルな計算が成り立っている。作中人物﹁本多﹂に向かって、﹁松枝﹂﹁勲﹂﹁ジン・ジャン﹂と一緒
に、著者までが、﹁貴様、一体いつまで生きている気だ﹂と呼び掛けているような含意がある⋮⋮。しかし、こ の次々早死にをする主人公たちの記憶を生きがいに、最後まで歩もうとした本多は、作品中でも、その生涯の記 憶が﹁幻﹂に過ぎないのではないかと老尼に諭され、深い孤独のなかに呆然と取り残されて終わるのだ。 本多の記憶が、聡子の忘却に負けた形であるが、すべての経過を本多とともに追ってきた読者自身が、すかさ れた思いにとらえられる箇所である。本多はいわば﹁どこにもない場所﹂に置き去りになるのである。たしかに 聡子は、﹁すべてを忘れる﹂決心を清顕に語り、それがこの部分をめざしている布石ではあったであろうが、老 尼の言葉の強さは﹁忘却﹂という語をはるかに超えるものがある。﹁有﹂を﹁無﹂と言い切ることは、忘却や解 釈の問題とは関係がない。本多は、その瞬間その場から一歩も動けなくなる筈だ。しかしその取り方は、本多と ともに読者の手にゆだねられているのである。作品はすべてそこで終わり、作者ももういないのだ。門跡と、そ の前身の聡子とは、つながっていて、しかもきれいに切れていると見るほかはない。こうした非論理的な﹁虚 無﹂の庭は、何ひとつ説明しない。小説の時間が走っている間、聡子は空無をのみ所有していたのだから。 さてこの七年という制作期間中に書かれたエッセイに﹁小説とは何か﹂︵昭和四十三ー四十五年︶がある。その 中で作者は、彼にとって初めての経験である、﹁作品外の現実﹂と﹁作品の時間﹂との長い緊張関係について述 べ、今回ばかりは、前以て作品の終決部を考えておき、現実の諸条件を凍結して書き進めることが、不可能だっ たと書いている。作品と現実の未来は不確定のまま浮遊し、作品の終決点が現実と一致することはなく、作品が 完結したとき、現実の方は捨て去らねばならぬ、そのどちらをとるかという選択の留保から来る緊張なしには、 作品はありえなかった、と書かれている。 4g 文学的美意識と「日本」
このあたりの事情は、大戦末期、アメリカで、最後の大作といってもよい﹃ファウスト博士﹄を執筆していた トーマス.マンを思わせる。アードリアン・レーバーキューンという、ドイツ的天才作曲家の仕事と呪われたフ ァウスト的宿命を、絶望的戦闘を続けるドイツ国内にあって、ナチズムに身を売った祖国ドイツの運命とだぶら せて、幼なじみの親友ツァイトブロームが綴る手記という体裁をとった作品である。作中に、友人の役割で作者 の分身的人物を投入している点、大戦の帰結は不確定で、ことに著者マンが﹁現実﹂への抵抗をばねに書いてい る、その﹁現実の時間﹂との緊張が無視できぬ要素になっている点が、似ているといえるが、マンの場合は、一 九四五年五月に欄筆、作品の終結は、よろこばしいドイツ降伏と一致している点がちがう。﹃豊饒の海﹄の場合 は、その欄筆の日付は、著者がストーリーの世界からはげしく引き離され、自分の﹁現実﹂の終着点に向かって 突っ走るべき合図ともなった。 ここでトーマス・マンを挙げたのは、西欧文学からその精髄を的確に吸収した三島由紀夫が、現代小説家とし て唯一、殆ど自分の師匠ともみなして、よく読んでいた形跡を残しているからである。マンの名が名指されるこ とは、たとえばラディゲのように多くはない。しかし、ことに長編執筆に際して彼が念頭においた作家は、誰よ りも、﹃トニオ.クレーゲル﹄から﹃ベニスに死す﹄を経て﹃魔の山﹄に至る、このドイツ作家、リアリズムの可 能性を極限まで利用しつくし、二十世紀を代表するドイツの巨匠となった、ノーベル賞作家トーマス・マンであ ったことは、比喩を鎮めた息の長い文体からも、容易に想像されるところである。これより約十年前の公開日記 ﹁裸体と衣裳﹂︵昭和三十三年二月十七日から翌年六月十六日︶によって、少しくわしく考察してみよう。 その一年四か月の間に、著者は、長編﹃鏡子の家﹄を制作し、九百四十七枚の大作を完成している。最初の百 枚以外は書き下ろしであった。この間に三十三歳の著者は、結婚、長女の誕生、念願の新居をトし引き移るな 50
ど、人生の大事を経験している。つまりそれは、後半期の﹁三島﹂にとっての重要な転機を含む期間であった。 ﹁日記﹂は、その前の成功作﹃金閣寺﹄︵昭和三十一年︶で世界的作家への道を歩みはじめた作家が、次の作品と して、﹁戦後は終はった﹂といわれた時代を背景に、著者の青春と時を同じうした、戦後の時代のモニュメント を書き上げようとして始められた、﹃鏡子の家﹄の成長を中心として、緊張と晴朗な文体で書き継がれている。 この長編はまた、あらゆる意味をこめて、作家が期待をかけ、彼自身はその期待を満たしたという自信を以て発 表したものであった。﹁わたしの好きなわたしの小説﹂と呼ぶこの作品は、彼の最高傑作になる筈のものであっ た。そして、これコ作で何年か食ひつなぎ次作に備へるといふ、西欧型の文士生活にはひることを夢みてゐ た﹂。ここで大切なのは﹁西欧型の文士生活﹂という部分である。もともとトーマス・マン型ー銀行マンタイプ の仕事ぶりだった三島由紀夫が、仕事の原理を、より意識的に﹁西欧型﹂に切り替えようとしていた。これは、 いきおい、一時代を主人公とした作品形成の原理とも絡み合い、また大いに外国を意識した態度でもあった。 昔は、退屈な小説としか思えなかった、マンの﹃ワイマールのロッテ﹄が、思想小説の執筆をめざす作家の前 に、実に大きく﹁豊醇﹂なものに見え出したのである。彼は、マンがゲーテから引き継いでいる﹁ドイツの小説 に於ける江洋たる会話の叙事詩的な流れ﹂をうらやむ。作中ゲーテが登場し、目覚め、独白が始まるまでに、浩 潮なこの小説は、すでに全九章のうち六章を費やしており、ワイマールの旅館﹁象屋﹂に到着したてのシャルロ ッテを、次々に訪問する文豪ゲーテ側近のものたちとの、延々たる会話でうめ尽くされているのだ。その途方も ない対話の海を通って行くうちに、読者の目が、﹁あらゆる激情のかなた、晴朗なニヒリズムと世界包括的イロ ニイに身を包んだ神﹂でしかなかったゲーテ像に対して、﹁次第に批評的なものに高まり﹂、ゲーテの目覚めとと もに﹁その広大無辺の、冷たく、又燦然とした精神世界の只中へ飛び込んでゆくのである﹂として、三島由紀夫 51 文学的美意識と「日本」
は、マンのこのユニークなゲーテ小説を、﹃トニオ・クレーゲル﹄に説かれている﹁芸術家﹂のいかがわしさのテ ーマの、三十六年後における完全な開花であると絶賛している。驚嘆すべき精緻な作品理解であるといえよう。 このマン作品と三島作品の間には、表面のあらゆる相違にもかかわらず、構造、内容の両面での関わりが指摘 出来るように思われる。まず第一に、描くべき巨大な対象を奥にひそませながら、これを直接ただちに描くこと をせず、何人かの人物をとおして浮かび上がらせる構造上の類似が挙げられる。マンの場合はゲーテ、三島作品 の場合は、﹁戦後﹂が終わった時代がこれに当たる。場面はワイマールの﹁象屋﹂旅館に固定され、シャルロッ テは、自分は動くこともならず、そこに腰を据えて、次々に自分を訪問してくるゲーテの学僕リイメル博士、同 じくゲーテの友人で文学サロンをもつショーペンハウエル夫人の娘アデーレ、それにゲーテの息子、財政局参議 官アウグストらの口から、磐しい裏ばなし的情報を聞かされる。それぞれ当事者によるそれらの﹁ゲーテ﹂は、 畏敬をもって語られながら、なまなましい現実の人間像をふんだんに感じさせる﹁批評性﹂を帯びた報告であ る。それら生身のゲーテと、読者がその挙げ句に飛び込んで行って、シャルロッテとともに経験することになる ﹁ワイマールのゲーテ﹂とでは、また次元の差といってよい程の違いが感じられるのである。マンは、ゲーテの 複雑な人格を、筆を尽くして説明せず、一挙手一投足によって語らせている。 マンのこの作品の味到には、しかし読む側の、並々ならぬ我慢と、ゲーテそのものへの志向が前提となる。 ﹁ゲーテ﹂なる対象の大きさと、その﹁燦然とした精神世界﹂の共有という土台の上で、マンは心おきなく名人 芸を展開しているのだといえよう。一方、著者が、彼の精神的肉体的分身の四人の青年を、中心の鏡子の家に出 入りさせて、一時代の連帯と推移、そして決定的な終焉を描こうとした﹃鏡子の家﹄には、描こうとする﹁時 代﹂に、そのような古典主義的な意味での、具象性の欠如が感じられてならない。人物たちの行動は、なにか途 52
方もなく基本的なことを忘れている人の行動を見ているような無意味さと滑稽がつきまとっている。時代のニヒ リズムを描きたかったという著者は、互いが互いに恐るべき括淡たる人間関係の連帯感、ニヒルな生態をスピー ディーに描き重ねてゆくが、作者の試みはうまくゆかず、ニヒリズムは迫って来ないのである。それは、原点と しての鏡子の位置の不明確にもつながっている。シャルロッテの集めた情報は、同時に読者のものとなっている のだが、鏡子は殆ど行動せずに終わってしまっている。﹁象屋﹂旅館には、シャルロッテにうるさがられながら、 次々にこれら重要な客を案内してくる番頭のマーゲルがいるが、鏡子の家には、少しつつ成長しながら、一度も 姿を現さぬ﹁父親﹂を待ち続ける、小学生の娘﹁真砂子﹂がいる。不思議なことに、この女の子にだけ、実在感 があるのは、どういうことだろうか。批評家にも黙殺され、売れ行きも桁外れに伸びず、著者は落ち込む結果と なった。どこに﹁失敗﹂の原因はあったのだろうか。 小説の最後の、真砂子が待ちに待った日、犬好きの父親よりも早く、七頭の西洋犬がこの家に躍りこんで来る 場面は、強烈な印象を残す。無類の犬好きのために、離婚された鏡子の夫は、どういう理由で帰って来るにせ よ、読者の興味を引くまでにはいたらない。どんな夫が入って来るのかは、最後まで問題にならず、描写もな い。犬の匂いが立ち込めるが、夫の姿はまだない。﹁夫﹂を虚無の庭に置いたままで、つまり現実がどう変わる のかが未知のまま、小説は閉じられるのである。 ︵九︶ ︹美のかたちピ ﹁みんな欠伸︵あくび︶をしてゐた。これからどこへ行かう、と峻吉が言った﹂に始まるその作品の出だしの 一章には、そういう失敗を予感させるものはない。一同が画家の夏雄の運転する車に乗り、月島の埋立地に遊び 53 文学的美意識と「日本」
にゆこうとする途中、勝関橋の開閉時にかかって、しばらく待ち呆けをくう場面がある。﹁かうして四人のゆく てには、はからずも大きな鉄の塀が立ちふさがってしまった﹂の一文は、この作品のテーマを予告するものであ った。虚無的戦後の終わりを予告する﹁壁﹂の比喩であるが、全体として、その見えない壁が感じられないのは 何故であろうか。開閉橋はいつかまた閉じて、通常の交通が回復するのである。そういう意味では、この壁は擬 似的なもので、一時期の気分を左右するに過ぎぬものである。戦災による徹底的な破壊の焼け跡は、急速に復興 し片付けられ、そして何かが戻って来ようとしていた。その何かは、最終場面でも姿を現すにはいたらなかった 鏡子の夫によって、象徴されるものであろう。しかもその夫は、この第一章で、すでに紹介はされていたのであ る。この章の終わりで、真砂子が、玩具箪笥の下の方から引っ張り出して、街灯の明かりに寄せてひそかに見る 一枚の写真のなかの、父の写真によってである。すなわち﹁それはいかにも気力のない、肉の薄い、しかし端麗 な若い男で、縁なし眼鏡をかけ、頭を七三に分け、神経質に固く締めたネクタイのごく小さな結び目を襟のあひ だに見せてゐる﹂のだ。千枚にも及ぼうとする量のなかでの、この無力そのものの中年紳士の微量な描写は、そ れ自体の象徴力を留保してはいても、作品に機能するには余りに弱過ぎる紹介ではなかろうか。そして、アイロ ニーの基準として、象徴天皇﹁裕仁﹂像を重ねようとしているとも取れる、この部分の強烈な皮肉は、目的を達 していない。 この大いなる齪頗の作品に比べて、モデル自身が、肝腎の破壊行動を完壁に実行してくれている、その前の作 品﹃金閣寺﹄には、あらゆる意味で、著者の本領は十分に発揮された。京都の臨済宗・鹿苑寺の国宝、金閣放火 全焼という大事件は、昭和二十五年七月二日未明に起こり、犯人の大谷大学生の僧侶、林養賢は自殺未遂で捕わ れ、その動機を金閣の美に対する妬みとして告白していた。周知の犯罪の実行に至るまでを内容とする作品で 54
は、小説の想像力が加え得ることは、わずかなものに過ぎない筈であった。しかも三島由紀夫は、犯人の生い立 ちを追って、克明な取材をもとに、犯行の動機を組み立て、厚みのある一編の叙事詩をつくることに見事に成功 した。はじめ美しいとは思えなかった金閣が、もっぱら父による崇拝的な教えによって、意識の中心を占めるよ うになり、やがて主人公は﹁美﹂に捉えられる。その﹁美﹂をふりほどこうとし、その﹁美﹂を取り巻く俗世間 のいつわりに反抗し、遂に自分の半生を支配して来た、その﹁美﹂の担い手である建造物を灰儘に帰せしめるに いたる道筋が、十二分に語られている。細かい動機が、孤独な青年の周りに張り巡らされ、否応なく行為の一点 にしぼられてゆく。 この作品をめぐって著者と行なわれた、小林秀雄の対談﹁美のかたち﹂のなかで、小林は、個々の人物の実在 感の無さを指摘し、彼の目から見て、この作品を﹁小説﹂とは呼べない、魔的な程に三島の才能のあふれる﹁持 情詩﹂だと述べている。また﹁美﹂については、﹁美とは実在に対する信仰以外のものではないらしい﹂という 考えを述べて、近代小説が複雑に展開して﹁フォーム﹂を見つけにくくなっている現状を認めつつも、結局は、 そういう言葉でしか言えない﹁姿﹂のようなもの、言葉にはならぬものがあることを、強調している。つまり詩 的な作品としての出来栄えを高く評価したけれども、リアリズム小説としては、認めなかったのである。作品の 美は、すべて作者の想像力によって紡ぎ出されたもので、現実の出来事とは関連のないことが確認された。小林 秀雄がもっとも批判した箇所は、犯人を自殺させなかった最終場面である。おそらく、そこで現実の回復があり 得たということなのであろう。しかしいずれにしても、現実の事件とモデルの人物があることが、﹃金閣寺﹄を 小説たらしめる最大の条件であったことは確かである。学生金融﹁光クラブ事件﹂によった﹃青の時代﹄、東京 都知事選挙に出馬して破れた有田八郎をモデルにした﹃宴のあと﹄、近江絹糸のストライキを扱った﹃絹と明察﹄ 55 文学的美意識と「日本」
などのモデル小説でも、作者の想像力は適切に働き、傑出した出来栄えを示している。 抜群に豊富で深い内外の文学教養と、詩的想像力を駆使して、戦後の文学的話題をさらった三島由紀夫が、そ の本領の頂点を極めた大作が﹃金閣寺﹄であったが、同時に自分の作品の﹁美のかたち﹂について省察する契機 をも得た。﹃鏡子の家﹄は、はじめて開かれた形で、自分の時代と切り結んだ作品であったが、現実の回復はな らなかった。しかし、その後に成った二つの作品﹃美しい星﹄、﹃午後の曳航﹄︵昭和三十七・三十八年︶には、彼 自身の精神の形が、トーマス・マン的なアイロニカルな手法で、展開されているのが認められる。 ﹃美しい星﹄は、宇宙人だと自分たちを思い込んだ一家の、敗北とそれぞれの星への帰還の物語である。﹃午後 の曳航﹄は、永年の航海生活を打ち切り、未亡人との結婚を決意した一人の二等航海士を、彼女の一人息子、十 三歳の﹁登﹂と彼が所属する学校仲間六人が、謀殺してしまう話である。前者では、﹁美しい星﹂地球を滅亡の 運命から救う使命に目覚めたこの﹁宇宙人﹂一家が、結果としてその愛に破れ、円盤の迎えを受けて地球を脱出 するのだが、彼らが﹁地球人﹂にうさんくさく見られ、だまされ、謀られる受難史でもある。後者は、大人の力 にはとても及ばぬ非力な少年グループが、自分たちの期待を裏切ったものを、おだて、謀って、これを排除する 復讐謂である。この両者にわれわれは、三島由紀夫の正義感の形と、激しさを見る思いがする。彼の正義感に は、期待を裏切られ、だまされ、あざむかれたことへの、くやしさの思いが基本にある。裏切られたものは、我 慢し、耐えるが、最後には、その相手を抹殺するか、自己そのものを消すしかない。﹃金閣寺﹄の溝口の放火は、 この例にもれないであろうし、﹃豊饒の海﹄では、これを最後に、小説家自身が虚無の庭に消えて、文学読者を 煙に巻いた、とも言えよう。 56
三島由紀夫がどうしても納得できなかったのは、二・二六事件の処理の仕方、敗戦時の天皇の﹁人間宣言﹂を 含む戦後民主主義のあり方、また自衛隊という名の軍隊のあり方などだった。現状変革を準備するために、昭和 四十二年から自衛隊に体験入隊し、訓練を受け始め、﹁国土防衛隊﹂ ﹁祖国防衛隊﹂等の構想を経て、昭和四十 三年、私兵組織﹁楯の会﹂を集め、日本刀を備えた。昭和四十四年十一月三日には、﹁楯の会﹂結成一周年記念 のパレードを、国立劇場屋上で行い、八十一名の隊員の閲兵を行なった。このとき、出席を懇請された川端康成 は、﹁駄目なものは駄目なのです。どうしても断ります﹂として、受けず、三島由紀夫を激怒させた。両文豪の 決裂の日だった。遺作﹃豊饒の海﹄執筆時の﹁作品外の現実﹂とは、こうした一切の出来事を含むものであっ