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簿記・商業教科書

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Academic year: 2021

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はじめに 明治維新という新しい夜明けと共に、外国の文化がわが国に流れこんできた。経済の急速な 進展の影には常に会計という後方支援があった。わが国においても江戸時代にすでに豪商によ る会計制度がある程度確立し、なかには管理のための会計も用いられていた。近江商人の研究 が盛んな本学には、こうした方面の業績が多く残されている。ここでは会計学、殊にその出発 点とする簿記学について、その黎明期の教育を出版物を通してとりあげてみたい。 簿記教育はその導入が非常に難しい。きちんと系統的に教えないと「モノ」にならない。現 代会計は基本的には期間損益計算をその目的としているので、期間収益とその費用との対応に よって期間損益を求めるのが建前である。しかし、簿記ないし会計学教育の黎明期は明治維新 後であり、日本の文明は西欧から吸収したものがきわめて多かった。 日本の制度の確立は、法的には大陸法に依存していたために、商法による計算規則も資本の 増殖を財産の計算に依拠していた、いわゆる純資産増加説であった。この考え方は長く続き、 簿記教育の伝統となっていった。とりあげた簿記教育の出版物もほとんど100%この財産計算 的損益計算によっている。また、このような財産の増減による損益計算の教授法の方が簿記の 初学者には理解しやすい。 簿記教育と平行して商業活動の知識も同等に必要であるので、商業教育についてもふれてみ たい。ただし、参照した書物は滋賀大学の前身である滋賀師範学校および彦根高等商業学校の 図書館に所蔵されているもののうち、代表的な書物について述べる。 1 1494年 世界最初の簿記書―ルカ・パチオリの『ズムマ』(図1) 簿記会計に関心をもつ人でルカ・パチオリを知らない人はいない筈である。Luca Pacioli: Summa de Arithmetica Geometria Proportioni et Proportionalita、Venice.1494 『算数・ 幾何学・比および比例全書』がこの書物の正式名称である。600頁からなる大きな書物である が、元来この書物は書名からわかるように数学の書物である。

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家庭教師をしていて商人に 関する帳簿のつけ方をこの 富豪から学んだ。数学書の 1つの章に、イタリーの自 由都市の商人が用いた原始 的な複式簿記を解説したの である。まさに世界におけ る活字の書物としての最も 古い類に数えられる稀 き f こう 書 しょ の1冊である。 平井泰太郎神戸大学教授 は、神戸高商を1918(大正 7)年に卒業するに当って、 卒論としてゲイスベイクの英訳になるパチオリの簿記を全訳した。後年ドイツ留学の土産とし てパチオリの原本2冊を買い求められ、今も神戸大学の蔵書となっている。(太田哲三『会計 学の四十年』32∼33頁 中央経済社 1956年) パチオリは北イタリア、トスカナの出身、フランチスカ教派の修道僧であった。同時に数学 者であり教育者であり旅行者であり、名声一世に高かった人である。(平井泰太郎『簿記教科 書』三訂版 三省堂 1939年) 2 洋式簿記のはじめ―洋式簿記がわが国にいつ入って来たのか 通常は1873(明治6)年の『銀行簿記精法』と、これも同じ1873(明治6)年の『帳 ちょう 合 あい 之 の 法 ほう 』 であるといわれている。前者の『銀行簿記精法』は1872(明治5)年、政府が国立銀行条令を 発布して銀行の設立を慫 しょう 慂 よう した際に、その実務を伝えるために英国人のアレキサンダ・アラ ン・シャンドAlexander Allan Shand(1844∼1930)を招いて口述させた。紙幣寮九等出仕の 海老原済と海浦精一(1852∼1912)の2人が翻訳したのが、この『銀行簿記精法』である。こ の書物は和綴5巻からなり木版刷りのものである。銀行の簿記法が述べられ、帳簿は横書きに なっており、数字は壱弐参である。

後者の福沢諭吉(1835∼1901)『帳合之法』慶応義塾出版局 1873∼76(明治6∼9)年(図 2)は全4巻からなっている。この帳合之法はわが国最初の簿記書といわれているが、この書 の原典はBryant & Stratton: Common School Book-keeping、New York 1871、初版1861 である。訳者の序文に「1871年アメリカ商売学校ノ先生『ブライヤント』並ニ『ストラットン』 ノ両人ガ著述セシ学校用『ブックキィピング』ト云フ書ナリ 『ブックキィピング』トハ帳合

第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷

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福沢諭吉がこの書の翻訳を思い立った理由は、次のように興味深いものがある。 「第一古来日本国中ニ於テ 学者ハ必ズ貧乏ナリ 金持ハ必ズ無学ナリ 故ニ学者ノ議論 ハ高クシテ 口ニハヨク天下ヲモ治ルト云ヘドモ 一身ノ借金ヲバ払フコトヲ知ラズ 金 持ノ金ハ沢山ニシテ 或ハコレヲ瓶ニ納テ地ニ埋ルコトアレドモ 天下ノ経済ヲ学ビテ 商売ノ法ヲ遠大ニスルコトヲ知ラズ 蓋シ其由縁ヲ尋ルニ 学者ハ自カラ高ブリテ 以為 ラク商売ハ士君子ノ業ニ非ラズト 金持ハ賤シメテ 以為ラク商売ニ学問ハ不用ナリトテ 知ル可キヲ知ラズ 学ブ可キヲ学バズシテ 遂ニ此弊ニ陥リタルナリ 何レモ皆商売ヲ軽 蔑シテ コレヲ学問ト思ハザリシ罪ト云フ可シ 今此学者ト此金持トヲシテ 此帳合ノ法 ヲ学バシメナバ 始テ西洋実学ノ実タル所以ヲ知リ 学者モ自カラ自身ノ愚ナルニ驚キ 金持モ自カラ自身ノ賤シカラザルヲ悟リ 相共ニ実学ニ勉強シテ 学者モ金持ト為リ 金 持モ学者ト為リテ 天下ノ経済更ニ一面ヲ改メ 全国ノ力ヲ増スニ至ラン乎 訳者ノ深ク 願フ所ナリ」 この翻訳書は原本の直訳では あるが、彼の国の姓名では不便 であるとして、日本の普通の町 人の名前に入れ替えて読み易く 工夫が施されている。因みに後 世においても江戸時代の商人の 会計に関する研究書には、たと えば小倉栄一郎『中井家帳合之 法』1962(昭和37)年 ミネル ヴァ書房があり、帳合之法とは 会計学乃至簿記学と同意語とな っている。 マルシュの『馬耳蘇氏複式記簿法』巻一・巻二 文部省 1875∼76(明治8∼9)年 この本はマルシュの著作を山中市兵衛が翻訳し、東京書林が出版したものであり、複式簿記 の事始めの感じがする。すなわち、事と物とを仮りに人と看 み 做 な し、いわゆる擬人法によって取 引を処理しようとするものである。多くの取引を設定し各種の帳簿を用いて記帳法を示してい る。今日簿記と呼ばれるものが帳簿記入法から由来したものと言われているのに対して、マル シュのものは返り点を打って「記レ簿法」となるものと思われる。いかにも明治の文明開化を 思わせて興味深いものがある。 図2 『帳合之法』1873(明治6)年

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同じような趣旨でマルシュの『馬耳 蘇氏複式記簿法』(図3)上・中・下の 三巻 文部省 1876(明治9)年があ る。この書物もアメリカの経済発展に ともなう会計処理法の進んだところ を、マルシュの書物に小林儀秀が翻訳 を施したものである。この書物で興味 があるのは帳簿面の記入の順序、いわ ば転記の順序をシューマーレンバッハ によるコンテンラーメンのようにその 流れで示している。 イングリスの『商家必用』記簿教則 単認之部初編 上・下冊 加藤斌ひん訳 新民社蔵版 1877(明治10)年 この書物は1872年英国出版チャンブル氏教則書中、イングリス著作の『ブックキーピング』 を加藤斌が翻訳したものである。その内容は「商方取引勘定ノ帳面ノ類別記方等ヲ載スルモノ ナリ」として記帳法を教えている。帳簿としては、仕切帳……今日の仕訳帳で借方、貸方に分 け、貸借平均の原理にしたがって取引が処理・記帳される。財 も 本 と 帳……今日の総勘定元帳で、 この2種類の帳簿を主要簿として、以下の補助簿が掲げら れている。懸売帳……今日の売掛金元帳、懸買帳……今日 の買掛金元帳、現金帳……今日の現金出納帳、手形帳…… 今日の受取手形記入帳と支払手形記入帳、倉 く 庫 ら 帳……今日 の商品有高帳。 『帳合之法』といい『商家必用』といい、資本主義先進 国英米の力を垣間見ることができて興味深い。 森下岩楠・森島修太郎『簿記学階梯』丸善 1878(明治11)年 著者の森 もり 下 した 岩 いわ 楠 くす は慶応義塾出身の三菱商業学校長、森島 修太郎は慶応義塾から商法講習所(現在の一橋大学)に移 り、同所の助教を経ている人物である。福沢諭吉はこれら の門弟に外国語の翻訳をゆだねたのであるが、本書の第1 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷 図3 『馬耳蘇氏複式記簿法』の帳簿記入の順序図 1876(明治9)年 図4 『簿記学階梯』1878(明治11)年

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Debits and Creditsに相当する。第2章の「口訳座の事」はPackardのManual of Theoretical Training in Science of Accountsの翻訳であり、第3章の「貸借仕訳の事」もPackardの第2 章Record of Transactionの翻訳である。福沢諭吉の門弟には森下、森島の他に竹田等という人 物がいて、1884(明治17)年にE. G. FolsomのLogic of Accounts 1873を訳して『簿記学原論』 という書を刊行し、この書物は後年わが国の理論簿記の中核となっている。(日本会計研究学 会編『近代会計百年』1978年) 3 東京高等商業学校(現在の一橋大学)を中心とする簿記教育 簿記の教育は、現在の一橋大学の前身の東京高等商業学校が中心になった。明治10年代には、 フォルソム著のLogic of AccountsやLogical Book Keepingを教材として研究されていた。その 中から東A せき 五郎教授、下野直太郎教授、佐野善作教授(後に東京商科大学学長)の逸材が輩出 したのである。東A五郎は1901(明治34)年に同文館から『簡易簿記教科書』、下野直太郎は 1895(明治28)年に『簿記精理』、また佐野善作は1897(明治30)年に同文館から『商業簿記 教科書』を出版した。これらは簿記についての初歩的手ほどきの書であり、複式簿記の原理の 説明と貸借対照表と損益計算書を示すにとどまっている。 前田貫一『農業簿記教授書』(図5)上・中・下 東京書しょ肆し 1884(明治17)年 商業に関する簿記が中心に講 ぜられている時代に、本書のよ うな農業に関する簿記書は珍し い。しかも、外国書の翻訳によ らずオリジナルな簿記技術を考 案したのは素晴らしい。 この書物の発行された明治の 初期は序文にある如く、「文化 月に進み農工商の業も亦従って 旺盛の域に向う。就中農業の如 き挙世の着目する所となり、開 墾耕種牧畜養魚より幾百の農具 に至るまで改良に次ぐ改良をな して物産も亦増加し、事務は益々繁忙になり金銀貨物の出納も増加の一途を辿っている」。し たがって、今日の農業はただに耕種牧畜にとどまらず、作業上諸算のことをも精緻綿密でなけ 図5 『農業簿記教授書』1884(明治17)年

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ればならないとして損益計算を重視している。上巻では取引の例を示し、中巻では日記帳、棚 卸表、現金出納帳、元帳、手形帳等の帳簿組織を掲げ、下巻では取引にもとづいて決算までを 取り扱っている。この時期にすでに借方、貸方の観念を掲げ、複式の記帳を行っている。今日 の農業簿記のはしりとして貴重な文献である。 吉田良三『甲種商業簿記教科書』上・中・下 同文館 1922(大正11)年 この書物は 1911(明治44)年の初版本を1917(大正6)年に改訂し、更に1920(大正9)年 に再改訂したものである。東京高等商業学校の吉田良三教授は、会計学の草分けであり、簿記 を学問として樹立した第一人者である。この書物は甲種とあるから旧制の商業学校、今日の商 業高等学校の生徒を対象に執筆されたものである。上・中巻を商業簿記、下巻を銀行簿記に当 てている。授業時間は商業簿記については1学年毎週4時間、銀行簿記は1学年毎週3時間を 標準としている。 この書物の内容は、第1編で簿記の総論を取り扱い、第2編では単式簿記による記帳および 決算を扱い、第3編にて複式簿記による貸借仕訳の法則から説き起こして、勘定科目の設定、 主要簿・補助簿の記帳方法を説明し、決算にいたっては予備手続から始まって本手続等、微に 入り細に入って解き明かしている。帳簿組織にいたってはきわめて精緻化されていて、高度な 簿記教科書となっている。今日の日本商工会議所主催の簿記検定試験のレベルで言えば、優に 2級程度の範囲を消化しているものと思われる。 太田哲三『簿記教本』下巻 瞭文堂 1925(大正14)年 東京高等商業学校教授、後に大学に昇格して東京商科大学太田哲三教授は、大正末期に中等 教育用として『簡易商業簿記』、『最新商業簿記』、『改訂最新銀行簿記』『改訂最新会計学教科 書』、高等教育用としては『商業簿記精義』などを刊行した。その後も太田教授の著作はわが 国の会計学界をリードする多くの労作がある。その領域は財務会計、管理会計にまたがり、そ の代表作に『固定資産会計』がある。 この書物は損益計算を前面に打ち出した、いわゆる動的会計観の思想により費用性資産を主 張しているが、これは制度会計のバックボーンとでも言うべき基本的会計理論となっている。 筆者も、もう40数年前に太田教授の原価計算の名講義を聴いている。 高瀬荘太郎『新商業簿記』至文堂 1932(昭和7)年 この書物は東京商科大学の高瀬荘太郎教授によるものである。高瀬教授は『暖簾 の れ ん 』の研究者 として有名であり、吉田茂内閣の時の文部大臣として活躍された。会計学の基礎科目としての 簿記はだれしも一時は担当されるのが常となっているので、おそらくそのような意味で会計学 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷

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平井泰太郎『簿記教科書』三省堂 1932(昭和7)年(図6) この書物は1936(昭和11)年に改訂がなされ、その 後も三訂版が出るなどベストセラーとなった簿記書で ある。この書が上梓されるに当って平井教授の愛弟子 である彦根高等商業学校の山下勝治教授に負うところ が大きい。筆者も会計学に手を染めた動機は、山下教 授の聴講による。平井泰太郎教授は先に述べたように 会計学の研究のため渡欧し、後に経営学者として名を 馳せた著名な学者である。 この簿記書は前述の太田教授の簿記書と並んで、わ が国の先端をいくものである。教育対象を中等学校に 置いているけれども、高等教育にも充分役立つように 内容は洗練されている。第1編を簿記の概念に当て取 引の処理から決算までの総論とし、第2編で勘定科目 により各論を扱い、第3編では帳簿組織として補助記 入帳を特殊仕訳帳化する高度な会計処理法を説明して いる。第4編の最終編では親子会社の連結財務諸表の作成方法まで説き及んでいる。 4 商業教育 今日ではマーケティングの名称が一般的であるが、黎明期は商業取引の仕組みを教育する事 が先決であった。従って商業取引についての術語の説明とその応用が中心となっている。『商 業概論』、『商業要論』、『配給論』などの名称が散見される。 足達丑六編『高等小学商業教授書』(図7)同文舘 1904(明治37)年 1904(明治37)年、文部省の実業学務局員足達丑六が佐野東京高等商業学校教授、村瀬同校 講師などに、高等小学校で教えるに必要な商業知識の調査を依頼し、その結果が本書となった ものである。時あたかも日露戦争の最中にあり、列強に伍していくために商業教育の必要性を 痛感していたことであろう。商品の仕入れ・販売の業務に付随する帳簿のつけ方から火災保険 につけること、運送業務に至るまで、およそ商取引に関する実務をこと細かに取り扱っている。 さらに荷為替取引など貿易に関することまで述べている。この時期に高等なことを教えたもの と驚きを禁じ得ない。 図6 『簿記教科書』1932(昭和7)年

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この書物より10年前に、東京高商の山本邦之助教授 が『商業新書』1893(明治26)年という書物を刊行し た。同書は商業に関する初歩的な知識を教授する程度 であった。大正初期には商業学の大家の東京高等商業 学校の上田貞次郎教授が『実践商業教科書』を冨山房 から刊行した。この書物の特徴は、模擬実践によって 小学校の児童に確実な知識を与えようとして、理論上 の系統よりも実践上の取引順序に重きをおいている 点。またもう一つの特徴は、商業道徳および商業経営 法に留意し、かつ実社会との関係を密にする目的で、 新聞記事や統計の最新のものを多くとり入れた点であ る。 増地庸治郎『女子商業読本』(図8)文政社 1928(昭和3)年 東京商科大学助教授、東京商科大学専門部の増地庸 治郎教授は、上田貞治郎教授門下の経営学者である。 『経営要論』なる名著は、筆者も若き日に愛読したも のである。旧制の商大には附属の専門学校があった。 神戸商大(現在の神戸大学)、大阪商大(現在の大阪 市立大学)にも専門部があったので、教官はほとんど 併任であった。商業学も昭和に入ると現代味を帯びて 来て、高等小学校用の商業については地方的事情もあ り、きわめて一般的に記述されていた。 (清水 哲雄) 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷 図8 『女子商業読本』1928(昭和3)年 図7 『高等小学校商業教授書』1904(明治37)年

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