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(1)

倫理摘要

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

11

ページ

141-210

発行年

1992-03-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002934/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

倫理摘要

(3)

1.冊数

  1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)   182×135mm 3.ページ   総数:221   緒言: 3   目録: 1   資料:   目録: 7   本文:163   資料: 37〔術語索引ほか〕 10〔倫理試験問題〕 籔灘 螂き (巻頭) 4.刊行年月日   初版:   明治24年5月22日   底本:4版明治34年9月10日 5.句読点   なし 6.その他   (1)原本の術語索引,倫理学者   年代表,倫理試験問題は省略し   た。

(4)

倫理摘要 緒 言  余は倫理学を専門とするものにあらず。しかるに世間その人に乏しきために、先年普及舎のもとめに応じて﹃倫 理通論﹄と題する一書を編述せしことあり。その書ベイン、スペンサー、ダーウィン等の書に基づき道徳進化の 理を論定せるものなれば、世これを評して教科用書に適せずという。しかして余おもえらく、倫理の道理は古来 東洋にありて存し、わが国にもその道あり、なんぞ必ずしも西洋を待つを要せんや。ただ東洋の短所は、実験上 の事実をもって論拠を構成せざるの一点にあり。この欠点を補うものは西洋近世の進化説なり。これ余がさきに、 進化の原理に基づきて倫理書を編述したるゆえんなり。しかるに昨年以来、郁文館の倫理教員その欠を告ぐるを もって余その講席を占むるに至り、本年また哲学館講師国府寺氏転任以後、同氏に代わりて倫理科を受け持つこ ととなり、倫理の要領を講述するの際適当の用書の必要なるを感じ、更に一部の倫理書を編述するに至れり。す なわちこの書なり。しかしてその書、普通の教科用書を目的とするものなれば、倫理の大要を略述するに過ぎず。 故に題して﹃倫理摘要﹄という。  余は、学校の修身道徳は理論の上にあらずして実行の上にあり、書物その物の上にあらずして教員その人の上 にありと信ずるものなり。しかるに今日世の道徳を論ずるもの曰く、古来倫理学者おのおのその説を異にし道徳 の原理いまだ一定せざれば、いずれの説によりてこれを実行すべきや、実に惑わさるべからずと。余いささかそ の惑いを解かんと欲し、本書を編述するに至る。よろしく結論につきてその意を見るべし。   明治二四年五月一日       著 者 誌 141

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   倫理学派名義考       42

      1        直覚教︵一口︷已⋮亘Oコ①=ω日︶  直覚とは推理思量を待たず直接即時に覚知するを義とし、直覚教とはこの先天性の本心および規律を原理と立てて道徳 を講ずるものをいう。故にその学派は経験学派、功利学派に反対して、快楽の目的にあらざることを論ずるなり。        主楽教︵=①△o己ω∋︶  主楽教は全く直覚教の反対論にして、快楽をもって人生の目的とする学派なり。古代にありてはアリスティッボス氏お よびエピクロス氏これを唱え、近世に至りては倫理学者多くこの主義を取るに至れり。これを要するに、直覚教は道徳の 原因について目的を論じ、主楽教は結果について目的を論ずるの別あり。        感覚教︵oDoコ゜・讐︷o口巴⋮ω∋︶  哲学上にありて人の智識思想は全く感覚より発達するものと唱うる論、これを感覚論もしくは感覚教と名付く。その説、 近世ロック氏これを唱え、ミル氏、ベイン氏、スペンサー氏等これを継述せり。この主義に基づきて倫理を論ずるときは、 善悪の情操は苦楽の感覚より発達すという。また道徳上肉体の快楽情欲を目的とするものを、感覚主義もしくは唯覚教 (Oり F5ω已①一︷o◎ゴ]︶と名付くるなり。        自利教︵団oqo︷ω∋︶  自利教あるいは一名主我教は自己を目的とし、あるいは自己を起点と立つるものにして、哲学上にてはデカルト氏およ びフィヒテ氏の主我論これに属し、倫理学上にてはホッブズ氏のごとく自利心をもって諸善行の動機原因となすものこれ に属するなり。        利他教︵≧q9°力日︶  自利教と利他教とは、前者は自己の快楽を目的とするも、後者は他人の快楽を目的とするの別あり。近世ベンサム氏、 コント氏、ミル氏等の功利教は、この利他主義に基づきて社会一般の幸福を目的とするに至りたるものなり。        功利教︵ご[一=⇔①﹁一①O一ω﹁コ︶

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倫理摘要  功利教は社会多数の幸福利益を目的とするものにして、近世ベンサム氏、ミル氏等これを主唱せり。しかしてその説、 エピクロス、ホッブズ諸氏の論のようやく発達したるものに外ならず。ベイン、スペンサー諸氏もこの主義に属するなり。        経験教︵国∋〇三巳ω∋︶  経験教は経験をもって真理判定の標準とする論にして、倫理学上にありては道徳の性情および行為は教育経験によりて 発達したるものとし、感覚教および功利教の唱うる主義に合するなり。        実験教︵]℃Oψカ一亘く一ω∋︶  実験教はコント氏の唱うるところにして、学術の研究を実験の範囲内に限り、その外に及ぼさざる論なり。この主義を 宗教上に応用して、人間を目的としてこれを崇拝する宗教を組織せり。これすなわち人間教︵知o蒜850︹工已日①ユ蔓︶な り。        人類教︵﹀葺ゴ﹁o℃o∋o壱宮゜力∋︶  人類教とは、人類の性質を神の上に適用して人性的の神を立つるをいう。しかるにまた人の性質を神とし、人性の外に 神なきを唱え天に神ありとするは、人中に包有せる神性の変態に外ならずとする論も、これを人性教すなわち人類教とい う。この論はフォイエルバッハ氏の唱うるところなり。        社会教︵ω09巴︷°。日︶  社会教は、人間の同等同権なる道理に基づき社会共同主義を唱え、私有財産を廃することを主張するものなり。しかし て今日私有財産の制度あるがごときは全く天理に反するものとす。イギリス人ロバート・オーウェン氏この主義を唱えり。        共産教︵○○∋∋已田一ω∋︶  共産教は社会教と同じく財産共有論を唱え、共同の労力によりて得たるものを平等に分配し、もって貧富の別なきに至 らしむる論なり。その党フランスに起これり。        虚無教︵Z一宮一一ω∋︶  哲学上にありてはヒューム氏の論のごとく物心万有の実在現存を否定して懐疑の極端に陥りたるものを虚無論といい、 43       1 社会上にては社会主義の極端に走りて社会の一切の階級秩序を破壊するものを虚無党という。その党ロシアに行わる。

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       懐疑教︵o力8葺o︷ω日︶  懐疑教は、真理は不可知、不可得なるものとし、物心の実在を疑い諸論の断定を排したるものにして、古代にありては 幽 ピュロン氏これを唱え、近世にありてはヒューム氏これに陥る。またその道徳を論ずるや、善悪の標準の自然に一定すべ きを疑い、風俗、習慣、法律、世論等によりて定まるものとす。        独断教︵Ooσq∋①己ω日︶  懐疑教の反対に立つものを独断教と名付く。独断とは仮定説にして、いまだ証明の十分ならざるものを確実なりと断定 するをいう。宗教家の説多くはこれに属す。また近世デカルト学派の説もこの一種となすなり。        批判教︵ρ三息゜D∋︶  経験学派は経験の事実をもって確実なりと仮定し、独断学派は思想の専断をもって真実なりと仮定するも、更にその真 否を審判せざるべからず。かくして先天性の道理あることを考定して新哲学を起こしたるものは実にカント氏にして、氏 はその哲学を批判教すなわち批判哲学と名付けり。        道理教︵知①[一〇白①一一ψoコ]︶  道理教一名合理教あるいは唯理教は感覚教に反対して、真理を判定すべきものは感覚にあらずして道理の力なりとす。 ライプニッツ氏の説およびカント氏の論のごときは一種の道理教なり。またこれを宗教学上に考うるときは、そのいわゆ る道理教は超理教に反対して、神命天啓のごときは道理に一致するものとなす。近世道理によりて宗教上の諸問題を説明 せんことを試みたるものは実にスピノザ氏なり。その他カント、フィヒテ等の諸氏も一種の道理学派なり。        超理教︵o力已Oo∋①后﹁巴︷ω∋︶  超理教すなわち理外教は、神をもって道理以外万有以上に位するものとし、その体のごときは我人の道理によりて到底 知るべからざれば、すべからく神の啓示を待たざるべからずと唱え天啓論を主唱するものなり。この論に反対したるもの、 一方にありては道理教あり、他方にありては万有教あり。        神秘教︵呂ぺω江o一ω∋︶  神秘教すなわち秘密教は我人と神と相通ずることを得、神の意はわが心において相感ずるものとし、一切の不思議をみ

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倫理摘要 なこの交感の理をもって説明するなり。その説、古代にありては新プラトン学派これを唱え、近世にありてはドイツにエ ックハルト氏ありてその義を主唱し、ついで神智学派の一人なるべーメ氏またその主義を唱道せり。        万有教︵ウ臼①け已﹁①一一ωゴO︶  万有教すなわち物理教は、宇宙問の事物はみな万有自然の道理によりて支配せらるるものなることを唱え、唯物教 (ウ S①け①﹁︷知=oワ日︶とその論を同じうす。古代分子学派の説、近世フランス唯物学派の論等はみなこれに属す。この論に反対 したるものに超絶教︵↓﹁①コむ力OΦ昌ユO口吟①一一ω∋︶および唯心論︵注①巴[切∋︶あり、また超理教あり。超絶教は超理教と異なりて、 全く道理以外にあることを意味するにあらずして、我人先天性の道理は経験の範囲を超えてその外に進到すべきことを意 味するなり。        必至教︵り4000gDω一[①﹁一①コ︷oり白P︶  必至教すなわち必然教は自由意志論に反対して、我人の行為は因果必然の規律によりて支配せらるることを唱え、物質 の変化が必然の規律に従うがごとく心意作用もまたその規律に従うものにして、我人はこれによりてきたすところの影響 結果を随意に左右すべからざるものとす。しかしてわが心の作用は必然の規律によりて一定するも、物質の自然律に従う とは多少その性質を異にするをもって、ミル氏のごときは必至教の代わりに定道教︵[︶O[O﹁ヨ[コ一ω日︶の語を用いたり。        一運=︿叩教  ︵︼可①︷①一一〇力当コ︶  運命教はやや必至教とその意を同じうし、我人の挙動運命は自然に 定して動かすべからざるものとするなり。しかし てその説に二種あり。一は、神人以外に神人を支配すべき一種の勢力もしくは規律ありて、我人は決してこれに抗抵する ことあたわずといい、一は、神が世界万有の運命を前定したるをもって、我人の力よくこれを動かすべからずという。        楽天教︵OO江日冨∋︶  この世界は全智全能の神の創造するところなれば完全快楽の世界なるべしと立つるもの、これを楽天教という。哲学上 にてライプニッツ氏の論はこの主義なり。また中世にありてはセント・アンセルムス、セント・トマス諸氏この説を唱え

り。       45

      1        多苦教︵㊥①⑩op︷﹁白一〇カゴロ︶

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 多苦教すなわち厭世教は楽天教の反対にして、この世界は苦難不幸の境遇なりとす。 ならびにハルトマン氏の唱うるところなり。       厳粛教︵︾ωOO[一n一ωゴP︶  自ら厳粛なる規律をもって一身を制抑し、固く正義純徳を守るものを厳粛教という。 ストア学派等これを実行せり。 これ哲学上ショーペンハウアー氏 その主義は古代ピタゴラス学派、 146

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倫理摘要

倫理学略史

 方今倫理学史を講ずるには東西両洋に分かち、東洋倫理学史、西洋倫理学史の二編を設けざるべからず。しかして東洋 倫理学史にてはインド、シナ等に発達せる倫理説を叙述し、西洋倫理学史にてはギリシア、ローマ、ならびに近世イギリ ス、ドイツ、フランス等の諸国に発達せる倫理説を叙述せざるべからず。しかるに東洋の倫理説はそのおもなるもの久し くわが国に伝わり、したがいてその書今なお多く存し、多少その説をうかがわざるものなきをもってこれを略す。故にこ こに叙述するところは、ひとり西洋倫理学史の要略なり。  西洋倫理学史は古今その部類を異にするも、一脈の系統に従いて発達せるものなり。あたかも一根より発生したる樹木 の数枝を分出するがごとし。故に一脈の系統史によりてその発達を叙述することを得るなり。まずこれを上世、中世、近 世の三段に分かつを常とす。あるいは古代近代の二期に分かつことあり。上世倫理史にてはギリシアの諸説を叙述し、中 世倫理史にてはローマ以来近世に至るまでの間に起こりたる諸説を叙述し、近世倫理史にては近世イギリス、ドイツ、フ ランス等の諸邦に起こりたる諸説を叙述するなり。もしその中世の説を上世の部に加えて講述するときは、古代近代の二 期に分段すべし。今、余が左に講述せんとするところは、この古代近代二期の分段法によるものなり。なぜなれば、中世 の倫理説はギリシアの余派を伝うるものもしくはヤソ教の道徳説に外ならざれば、別にその一段を設くる必要なきをもっ てなり。        古代倫理史  古代倫理史を講ずるにも、これを前中後三期に分かつ方法と、前後二期に分かつ方法あり。前後二期に分かつときは、 ソクラテス以前と以後とをもって分段を立つ。前中後三期に分かつときは、ソクラテス以前と、ソクラテス、プラトン、 アリストテレス三氏の間と、エピクロス、ストア以後とをもって分段を立つ。あるいはソクラテス以前と、ソクラテスよ り懐疑学に至るまでと、懐疑学以後とをもって分段を立つることあり。しかして前期の倫理説は別に論ずべき価値を有せ ず。けだし当時の論題は宇宙万有のいかんにありて、いまだ人倫道徳の上に及ぼさざりき。しかるに宇宙の問題を一転し 47       1 て倫理上に移せしは、ソクラテス氏その人の力なり。故にソクラテス氏は一般に称して倫理学の初祖となす。

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 ソクラテス氏 中期の倫理学を講ずるには、ソクラテス氏の説より始めざるべからず。氏は道徳と智識との関係を論じ て曰く、徳は智識より生じ不徳は無智より生ずと。その意、人の不善をなし不徳を行うは、不学無智にして是非を弁ぜざ るによる。人たれか好みて不善をなすものあらんや。故にもし人をして善に移らしめんと欲せば、その智力を養成し善悪 邪正のなんたるを知らしめざるべからずというにあり。これを智徳一体論という。その説、今日の理論に考うるに欠点な きにあらざれども、氏一代の言語行為に至りては一点の間然するところなく、実に古今無比の道徳家と称せざるを得ざる なり。  ソクラテス氏死後、門弟の説多端に分かれておのおの一派を開くに至れり。その派中、互いに反対して相争いたるもの はキニク学派、キュレネ学派の二なり。キニクの初祖をアンティステネスという。その主義は、妄念を離れ貧苦を忍ぶを もって道徳の行為となせり。キュレネ学派の初祖をアリスティッボスと名付く。氏は肉体上の快楽をもって道徳の目的と なせり。この二者ともに極端の説たるを免れず。しかるにソクラテス氏の門下より出でて完全の道徳説を起こしたるもの はプラトン氏なり。  プラトン氏 氏はソクラテス氏の高弟なり。その倫理を論ずるや師の智徳一体論を継ぎ、その説をして一層高尚完全な らしめたるものなり。けだし氏は道徳の本源をきわめて理想の本体あることを知り、これに達するをもって政治道徳の目 的となせり。我人の精神のごときは、その本源は理想の体より分派したるものなれども、わが肉体の間に存する間は感覚 上の諸欲これを纏縛するをもって、我人の目的はこの欲情を制止し、その精神をして自由を得せしむるにありという。し かれども氏は、現在世界を苦界となすにあらず、また苦痛を忍ぶをもって徳行の本意とするにあらず、ただ快楽そのもの をただちに倫理の目的とせざるのみ。かつ氏は師の説を継ぎ智識をみがくの必要を説けり。その門下に出でて大儒の名を 得たるものはアリストテレス氏なり。  アリストテレス氏 氏はプラトン氏の道徳論の理想の一局に偏するを見て、中庸の説を立てたるものなり。中庸とは、 過不及を制してその中を得るをいう。これを徳とす。しかしていかなる行為は中庸なるやを判定するものは智識の力なり。 故にその論ソクラテス氏の智徳一体論と同一なるがごとしといえども、意力をもって過不及を制止せざるべからずという に至りて、ソクラテス氏とその説を異にす。 148

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倫理摘要  ゼノン氏 以上、ソクラテス氏、プラトン氏、アリストテレス氏の三大学派の外に、当時互いに相争いたるものはスト ア学、エピクロス学の二派なり。ストア学派の初祖をゼノン氏と称す。氏の説は天命論にして、天地自然の規律をもって 道徳の原理となすものなり。この道理に背くをもって不善不徳とし、これに従うをもって正道善行とす。その人の目的を 論ずるも、快楽は必ずしも善なるにあらず苦痛は必ずしも悪なるにあらず、よく苦痛を堪えて固く正道を守るをもって目 的となす。しかしてその道徳は実に厳粛をもって名あり。  エピクロス氏 つぎに、エピクロス学派はエピクロス氏の唱うるところにして、氏は快楽をもって善悪の標準とし、苦 すなわち悪、楽すなわち善にして、我人の善を求め悪をいとうは、その実、苦を避けて楽に就くの本心に外ならずという。 しかして氏は苦楽に肉体上と精神上との二種に分かち、精神上に重きを置けり。故にその目的とするところも下等の快楽 にあらずして、高等の幸福を得るにあること明らかなり。またその快楽は、苦痛を除きて心に安息を与うるをもって足れ りとす。  これより以後ギリシアの学、懐疑派の手に落ち、その説、疑念をもととし、いたずらに空理を争うに過ぎず。故に倫理 学史上また論ずべきものなし。くだりてローマに入り一、二の学派ありしといえども、その論多くはギリシアより伝わり しものと東洋より入りしものとに外ならざれば、これまた倫理学史上必要の部分にあらず。その後ヤソ教の興るに当たり、 世間の道徳は全くその教えの占領するところとなりたるも、これ宗教的道徳なり。今、本書の目的は学術上倫理を講究す るにあれば、またこれを除く。くだりて中世の末年に当たり煩墳学派と称する一種の学行われしも、その説ヤソ教とアリ ストテレス氏の倫理説を混同せしものに過ぎざれば、これまた考うるに足らざるなり。よってこれより、近代の倫理学家 の異説を叙述すべし。        近代倫理史  近代倫理史は種々の分段をなすものありて一定し難し。故に余は分段法を用いず、年代の前後と学説の類同とに応じて 左のごとく序列せり。  ホッブズ氏 近世史上一種の倫理を説きたるものはホッブズ氏をもって始めとす。氏は、人の性情は自利自愛に基づく 49       1 ものにして、百般の行為はこれを帰するに自利自愛に外ならず。しかして、よくこの私心を抑制して人をして正義正道を

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守らしむるは、君主の命令もしくは政府の法律よりよきはなし。故に氏は君主をもって善悪の標準となせり。これをもっ て、氏の説は政治と道徳とを混同するに至れり。      ㎜  カンバーランド氏 ホッブズ氏ひとたび自愛説を唱えてより以来、これに反対する論者続々世に起これり。そのおもな るものはカンバーランド氏、カドワース氏、クラーク氏、プライス氏等なり。カンバーランド氏はホッブズ氏に抗して一 種の幸福論を唱うるものにして、道徳の目的は人民一般の幸福を進むるにありという。故にその論、今日の功利学家の説 に近し。しかして氏は道徳の本心を論じて、人の善を求め悪を避くる性情は道理力によりて生ずるものなれば、世のいわ ゆる良心は道理力に外ならずという。すなわち我人が人民一般の幸福を進むるをもって人間の目的たるゆえんを知るは、 我人の有する道理力によるという。故にその説を道理教と称す。  カドワース氏 氏はホッブズ氏に抗して、善悪邪正の基本は天然に定まるものにして、人の意志をもって左右すべきも のにあらず。故に政府の法律をもって道徳を規定せんとするがごときは、大いに道理に反するものなり。しかして氏は道 徳心の本源は智力なりという。これまた道理教の一種なり。  クラーク氏 氏は、人の行為の一定の規則に従い、事物の間に適合するをもって道徳の目的とす。すなわち善悪の標準 は適合なりという。適合とは言行の一致して相違せざるをいう。しかしてその本心を論ずるに至り、氏はこれを智力の作 用に帰す。これまた、その説の一種の道理教たるゆえんなり。  ロック氏 氏はホッブズ氏の説を継ぎ感覚学派を開きたる人にして、善悪と苦楽との関係を論じ、最上の快楽これを幸 福とし、最大の苦痛これを禍害となせり。しかして道徳の発達は天神の賞罰、国法の制裁、世論の勢力によるものとなす。 語を換えてこれをいえば、道徳心は経験習慣によりて発達するものとなす。故に氏をもって経験学派に属するなり。  シャフツベリi氏 氏はもっぱらホッブズ氏の自利説に反対して、人の目的は善を愛求するにありとし、この情はその 起源ならびに性質において全く外界の事情より独立せるものにして、賞罰教育等の方法によりて成来するものにあらずと いう。  バトラー氏 ロック氏に反対して本然論を唱えたるものはバトラー氏なり。氏は人に本来良心の存するゆえんを説きて、 善悪の標準はこの良心に外ならずという。故に氏を称して良心論者となす。かつ氏は人間の目的は自利自愛にあらざるゆ

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倫理摘要 えんを論じて、我人の務むるところは良心の命令に従いて仁慈愛他の行為を施すにありという。故にその論、愛他教の一 種なりというも不可なることなし。  ハチソン氏 氏はバトラー氏とその説を同じうせざるも、良心をもって善悪の標準となすに至りては同一なり。けだし 氏は情に動静の二種あることを説きて、静情をもって我人固有の本心となせり。しかして静情とは人を愛する無私の公情 をいう。故に氏は博愛をもって人間の目的となすものなり。  ハートリー氏 氏は心理学上において観念連合の原理を唱えたるものにして、その連合の理を倫理学の上に及ぼし、単 純の感覚互いに連合して複雑なる道徳上の情操を構成するに至るという。故にハチソン氏のいわゆる無私の公情は、ハー トリー氏の説によるに、苦楽の感覚の連合して生じたる結果に外ならざるべし。  マンドヴィル氏 当時またハチソン氏に反対して、人に天賦の良心の存せざるゆえんを証明せしものはマンドヴィル氏 なり。氏は、人の本心は自利の私情のみ、しかして人に愛他の情あるは識者の方便より出でたるものにして、固有の天性 にあらずという。けだし氏は人に虚名を好む自尊自負の情あるをもって、おのおの自ら道徳家とならんことを勉むるによ り、識者の人を教導して道徳家となすことを得るも、またこの情のその人に存するによるという。これ氏の説を自愛教の 一種となすゆえんなり。  ヒューム氏 当時社会一般の幸福すなわち功利をもって道徳の標準を立てたるものはヒューム氏なり。氏は人に仁慈博 愛の心ありと許すも、全く己をすてて人のためにするがごとき無私の愛他心あることを説かず。しかして氏は人の道徳心 は愛他の公情と自愛の私情相合するものと信じ、この二情によりて人は自他兼全の幸福を目的とするに至るという。故に 氏は功利教の一種を唱うるものというべし。  プライス氏 当時また道理をもって道徳の本心と定めたるものはプライス氏なり。氏は道理すなわち理解力をもって善 悪の標準とし、諸行為の実際に適応してその事情に合同するときは善行となり、適応合同せざるときは悪行となる。しか してその適不適を知定するは道理力によらざるべからずという。故に氏は道理教の一派なり。かつ氏は自愛論者に抗して 人に無私の公情の存するゆえんを説き、また人間の目的は社会一般の幸福にあることを論ぜり。  アダム・スミス氏 またここに愛他教の一種を唱えたるものはアダム・スミス氏なり。氏は同情すなわち同憐の情をも 151

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って道徳の本心となし、この情の発達したるものをもって上等の道徳家となせり。かつ氏は自身の行為の善悪を知らんと 欲せば、他人の位置にありて判断を下さざるべからずという。けだし人みな己に偏する弊あればなり。  リード氏 また別に天賦の良心を唱えたるものはリード氏なり。氏は道理力の道徳の基本にあらざるゆえんを論じて、 我人の力は外界の事情を知定することを得るも内界の道徳を判定するにあらず、これを判定するものは本来心内に存する 天性なり。これを道念もしくは良心と称すという。  ステユアート氏 リード氏に継ぎて天賦の良心を唱うるものはステユアート氏なり。氏は道徳の基本は内界にありて存 し、人の生来有する天性なりという。  ブラウン氏 氏はリード氏、ステユアート氏のごとく、本然性の存することを説きて経験説に反対せり。しかして心性 の発達については多少連合の理を加えて説明を与えたり。  カント氏 ドイツ哲学者中大家の名あるカント氏は一種の道理学派にして、道理をもって道徳の基本と定めり。氏の学、 これを称して批判哲学という。その中に実践道理批判の一部ありて、もっぱら道徳の原理を論ぜり。氏はその理を体形と 実質とに分かち、実質は外界の経験よりきたり、体形は心内にありて本来存する純理より生ずという。純理とは経験の結 果にあらざる普遍必要の道理をいう。これ先天性道理なり。この道理に基づきて道徳本心および義務の起こるゆえんを証 明せり。これその説を道理教の一種となすゆえんなり。  ヤコービ氏 氏はカント氏の門弟にして、その説のカント氏に異なるは、道理に代うるに情操をもってしたるにあり。  フィヒテ氏 氏の説はカント氏より出ずるも多少異なるところありて、氏はもっぱら心内の自由を発揮するを目的とし、 道徳上の行為は良心の命令に随順して自由を保全するにありとす。しかしてその目的を達するには、ただにこの現実世界 の外に精霊世界の存在を信ずることを要すという。かつ氏は幸福をもって人の目的となさず、徳を修むるをもって最上の 善行となす。  シェリング氏 氏は道徳の基本は天神を信ずるにありとし、道徳の行為は我人の精神その中心なる天神に帰向するより 生じ、この帰向あるものこれを徳とす。しかして徳と幸福とは同一にして、徳の完全を得たるものすなわち幸福なりとい う。 152

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倫理摘要  へーゲル氏 氏はシェリング氏を受けてカント氏を継ぐというも、多少両氏に異なるところあり。氏の倫理を論ずるや、 その論三段に分かれ、第 は純理の道徳、第二は個人の道徳、第三は社会の道徳これなり。かつ氏は心性作用中意志をも って道徳の起点とし、そのいわゆる善は純理上の道徳を行為上に実践せるに至るものをいい、悪はこれに反するものをい う。  ショーペンハウアー氏 氏は絶対的意志を説きて、我人の心性の活動は一として大意力の発顕ならざるはなし、しかる にこの世界は快楽少なくして苦痛多きをもって、この不幸の世界に執着する情は務めて抑制せざるべからずという。これ 世間その説を呼びて厭世教となすゆえんなり。  バレー氏 氏は功利説を唱え、道徳の標準は神意および功利にありという。しかして氏は本然の良心を排し無私の公情 の存せざるを説くといえども、その論、神意を立つるをもって、人に仁心あるは天神の命ずるところなりという。故に氏 の説は功利説と天神説の相合したるものというべし。  ベンサム氏 現今世間に行わるる功利説はヒューム氏およびバレー氏の説中に起源すといえども、広くその原理を応用 して道徳法律一般の目的と定め、かつその論を構成して 科の学説となしたるものはベンサム氏なり。これ氏の功利教の 初祖と呼ばるるゆえんなり。氏は道徳も法律も苦楽の両情に基づくものとなし、その情の発達は連想の規則によるものと なす。かつ氏は人間の目的に関して幸福一途を説き、そのいわゆる幸福は無苦有楽を義とし、最大苦を除き最大楽を求む るをもって目的となせり。すなわち最多量の幸福を最多数の人に与うるをもって目的とするなり。  マッキントッシュ氏 氏はベンサム氏と同じく功利教を唱え、人間の目的および道徳の標準は幸福に外ならずというも、 その解釈に至りて少異あり。すなわち氏は、幸福は我人の直接にこれに向かいて進衝するものにあらざるも、諸善行を裁 定する標準なりという。かつ氏は、良心は天賦にあらずして経験連想によりて発達したるものなり、しかしてそのいまだ 発達せざるに当たりては自利の私心あるのみという。  クーザン氏 フランス学者中、倫理を論ずるものまた多し。クーザン氏その一人なり。氏は功利説を駁し、道徳は決し て経験の結果にあらず、徳義は決して自利心の発達にあらずという。また氏は無私愛他の情操を唱うる論者に対して、感 53       1 情はときどき変遷するものなれば道徳の原理となすべからずという。故に氏は、道徳の原理は道理に外ならずして、行為

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の善悪は道理によりて判定すべしという。 ジュフ。ア氏氏はクーザン氏の門弟なるも・その説ク|ザン氏と少異あり・すなわち氏は純善をも・て道徳の董と取 なし、道理をもって道徳の本心となし、幸福をもって人間の目的となせり。  コント氏 氏は実験哲学の初祖にして、その倫理を説くも他の学派と大いに異なるところあり。氏は倫理学をもって社 会学の一部分とし、人の互いに相愛し相親しむの情は一個人の経験より生ずるにあらずして、人々互いに結合協和すべき 天性を有するによるという。故に親愛の情は社会発達の原理にして人世の大目的なりとし、この情に基づきて道徳を講ず るもの、氏の倫理学なり。  ヒューエル氏 氏は常人普通の知識に基づきて道徳を論ぜり。これを常識論という。およそ常人の考うるところによる に二種の説あり。その一は徳をもってもととし、その二は楽をもってもととす。しかしてひとりその一方を取りて他を排 するは世人の許さざるところなり。故に氏はこの両説を統合して、徳と楽との二者をもって道徳の原理となせり。  ミル氏 近年ベンサム氏に継ぎて功利教を唱うるものはミル氏なり。氏は父子ともにこの説を継述し、道徳の目的およ び標準は幸福なりとし、幸福は快楽ありて苦痛なきをいい、苦痛と快楽とは人の感情にして、善悪は全く単純の感情より 生じ、天賦の良心も愛他の公情もみな単純の感情より生ずという。しかしてその発達は観念連合の規則によるとなす。  スペンサー氏 氏は功利学家の説のごとく幸福の目的なることを許すも、進化の原理を応用して善悪の標準、道徳の本 心の進化を説くに当たりては、大いに従来の功利学家の説に異なるところあり。氏は、道徳上の行為は人類特有にあらず して、下等動物のすでに有するところなり、すなわち下等動物の目的なき挙動進みて目的ある挙動を生じ、目的ある挙動 進みて道徳上の行為を生ずという。また天賦良心の起源を論じて父祖の遺伝性なりとなす。これその説を進化教となすゆ えんなり。

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倫理摘要

第一章緒論

      第一節 倫理学の名義  余これより倫理学を講述するに当たり、まずその名義、性質、関係を説明せざるべからず。そもそも倫理学は 人の行為意志の正邪善悪を論究指定する学なれば、道義徳行の学と称するも可ならん。その字、英語のエシック スもしくはモラル・フィロソフィーあるいはモラル・サイエンスを訳したるものにして、エシックスは風俗習慣 を意味するギリシア語より転じ、モラルは行儀作法を意味するラテン語より転じきたりて、ともに今日人類の道 徳に関する学問に適用するに至れり。近ごろわが国の学者この語を訳して道徳学、道義学、修身学等、種々の名 称を用い訳字一定せずといえども、余は倫理学の名称を用うるなり。もしこの学の性質を知らんと欲せば、学と 術との別を知らざるべからず。       第二節 学と術との別  およそ学と称するものは理論に属し、術と称するものは実際に属す。故に事物の道理を研究するものは学にし て、実際の用法を講習するものは術なり。たとえば物理学、化学のごときは学なれども、建築製造のごときは術 なり。今、倫理学は学の部門に入るべきや術の部門に入るべきやの問題を考うるに、学と術との二者に関係する もののごとし。すなわち善悪正邪の道理を講究するときは、これを単に学というべし。しかして直接に実際上の 行為挙動を講習するに至りては、術といわざるべからず。しかれども余がここに倫理学と題せしは、実際の方法 155

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を講習するにあらずして道理を講究するにあれば、もとよりこれを学というべし。もしその方法に至りては、む        56 しろこれを修身の法もしくは術と名付けて、倫理学と称せざるを適当なりとす。       1        第三節 倫理学は実用学なること  すでに倫理学の一科の学なるを知らば、学科中のいかなる部類に属するやを論ぜざるべからず。およそ学科中 に理論学と実用学の二種あり。すなわち学中に学と術との二種あるがごとし。そのいわゆる理論学は学中の学、 実用学は学中の術なり。これその目的の異なるに従いて、便宜のためにその別を立つるのみ。けだし理論学は単 に事物の原理原則を知るを目的とし、更にその実際上の事情いかんを問わざるも、実用学はそのすでに定まりた る原理原則を実際に応用せんと欲して、その方法いかんを講ずるものなり。もしその方法を実施すれば術となる。 今、倫理学のごときは理論上道徳の原理原則を研究するも、その目的とするところは実際の応用にありて、実際 上の方法いかんを目的として講究するものなればいわゆる学中の術にして、応用学の部類に属せざるべからず。 これに反して、心理学のごときは理論上の研究にとどまるをもって理論学というべし。しかりしこうして、倫理 学を実用学と定むるは、心理学のごとき理論学に比較していうのみ。もしひとり倫理学中にありてその講究する ところを見るときは、理論実用の二科を兼有するものなるを知るべし。        第四節 倫理学と心理学との関係  更に進みて倫理学のいかなる学問なるやを明らかにせんと欲せば、その学と心理学、純正哲学、宗教学等の関 係を論ぜざるべからず。まず心理学は心性の現象を論究する学なれば、余はこれを心象の学という。心象には感 情、智力、意志の三種ありて、その各種の性質規則を論究するものを心理学とす︵﹃心理摘要﹄第五節、第六節、

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倫理摘要 第七節を見るべし︶。しかるに倫理学は人の行為挙動の規則を講究するものなれば、この三種の作用中、意志に属 する学というべし。なんとなれば、意志は人の行為挙動を命令指揮する作用なればなり。かつ心理学は意志の作 用を論ずるも、その性質規則を知るにとどまる。しかるに倫理学はその規則の応用を論ず。これ余が倫理学を実 用学となすゆえんなり。今この両学の別を略示すること左のごとし。   O 心理学は広く感情、智力、意志三種の作用に関係し、倫理学はそのうち主として意志作用に関係するな     り。   口 心理学は意志の規則を講究するにとどまるも、倫理学はその応用を講究するなり。  かくのごとく両学その性質を異にするも、二者の間に密接の関係あることは余が弁を待たずして知るべし。た とえば、学理上行為の起源、道徳の本心を知らんと欲せば、心理学によらざるべからざるがごとし。故に倫理学 中、その一部分は心理学に属する学理を研究するものなるを知るべし。        第五節 倫理学と純正哲学との関係  つぎに純正哲学と倫理学との関係を考うるに、純正哲学は形而上の純理を推究する学にして、倫理学は心身現 象の上に発動する行為を論定する学なれば、二者の異なるところあるは明らかなりといえども、またその間に多 少の関係ありて存するを見る。たとえば、道徳上人間究寛の目的、善悪絶対の標準等を論定するに至りては、純 正哲学の研究を待たざるべからず。これをもって、古代は倫理学を純正哲学の一部分として研究せしことあり。 かのギリシアの碩学プラトン、アリストテレス諸氏のごとき、その倫理を論ずるや純正哲学の範囲を出でず。近       研 世に至りても初年にありては純正哲学と混同し、いまだ一科独立の学となるに至らず。しかしてその一科独立の

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学となりたるは近く昨今のことなりといえども、なお画然たる界線を両学の間に引くこと難し。もし今日にあり て研究の方法を論ずるときは、近年実験学の進歩により、倫理学上理学的研究法を開くに至れり。これにおいて 今日は、倫理学は理学なるや哲学なるやの問題を引き起こせり。この問題のごときは一、二言のよく説明すべき にあらずといえども、これを理学とするはただその研究上帰納実験の方法を用うるというにありて、その研究の 目的とする事柄に至りてはすこぶる無形にわたり、一般の有形的理学と大いに異なるところあり。したがいてそ の方法も帰納実験のみにて尽くさざるところあれば、やはりこれを哲学の一部分となさざるべからず。ただ今日 は純正哲学の範囲を脱して、独立の学科を組成せりというべし︵理学と哲学との別、ならびに倫理学は哲学の一 種なるゆえんは、余が﹃仏教活論第二編顕正活論﹄総論中に説きしをもって、よろしくその部を参見すべし︶。       第六節 倫理学と宗教学との関係  つぎに宗教学と倫理学との関係いかんにつきて一言せざるを得ず。およそ宗教はその種類のなんたるを問わず、 多少人の道徳を説かざるものなく、いずれの国にありても宗教によりて道徳を立てしは古代一般の風にして、す でに欧州のごときも中古にありては世間の道徳は全く宗教の支配するところとなり、この二者密接の関係を有す るのみならず同一なるもののごとく考うるに至りしも、近年学術の進歩に伴い全く宗教の範囲を脱して道徳の独 立を見るに至れり。けだし宗教にありては人間の目的、行為の善悪賞罰等、みなその原因を天地以外の世界、人 間以上の天神に帰し、その道理を訓示するものをもって宗教学となすといえども、倫理学は人間世界にありて人 智をもって道徳の性質を講究するものなれば、両学の別おのずから知るべし。かつ欧州中いにしえの道徳は全く 宗教の支配するところなりしも、近年の道徳はようやくその範囲を脱して独立の講究法を開くに至れり。 158

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倫理摘要        第七節 倫理学と政治学との関係  つぎに政治学と倫理学と密接の関係あれば、その異同を弁ずるもまた贅言にあらざるべし。そもそも人は社会 的動物にして、その禽獣と異なるゆえんも、衆人共同団結して社会を成し国家を成すによる。しかしてそのいわ ゆる社会国家は一個人の集合によりて結成したる団体に外ならざるも、その団体につきて学理を講究するものは 社会学政治学なり。なかんずく政治学は国家の機関運動を講究する学なれば、倫理学と同じく人間の目的意志等 を論ぜざるを得ずといえども、両学決して相混同すべからず。すなわち倫理学は一個人の上にその目的意志を論 じ、政治学は国家団体の上にその目的意志を論ずるの別あり。たとえ倫理学において社会国家に対する義務を説 くことあるも、一個人としてその関係を示すに過ぎず。しかれども古代にありてはもちろん、近世に至りても初 年にありてはこの二者を混同して説明を下せり。古代孔孟の説、近世ホッブズの学のごとき、みなしかり。また 倫理学にありても道徳の規律、義務、賞罰等を論ずるに至りては、二者多少混同して説かざるを得ず。これその 関係の密接なるゆえんなり。        第八節 倫理学を講ずるに諸学を要すること  以上、心理学、純正哲学、宗教学、政治学と倫理学との関係ならびにその異同を述べたれば、倫理学の独立の 学科なることを知ると同時に、倫理学を講究するに他の諸学を参考せざるべからざるゆえんを知るべし。すでに 今日にありては倫理学は宗教の範囲を脱し、政治学と区域を異にし、純正哲学と相離れて独立したるも、以上の 諸学と密接の関係を有するをもって、倫理学を講究するものは必ず自余の諸学を講究せざるを得ず。ことに心理 学のごときは倫理学の一半を占領するものなれば、決してその講究を怠るべからず。その他、論理学、美学、教 159

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育学等もみな多少の関係あるをもって、あわせて講究するを要するなり。        第九節 倫理学講究の方法  つぎに倫理講究の方法を説かんとするに、倫理学は一科独立の学問にして、その研究は理学実験の方法による ことはさきにすでに一言したるも、その方法のいかんに至りてはいまだ説明を与えざりき。けだしその方法に二 様あり。一は歴史上倫理道徳の発達進化してきたれるものについて研究する法にして、これを歴史的もしくは沿 革上の研究法というべし。一は比較上もしくは分類上倫理道徳に関する事実を彙集対照してその性質を研究する 法にして、これを比較的もしくは分析上の研究法というべし。この二種の方法あるも、これみな理学的すなわち 客観的研究法なり。客観的研究とは外界に現ずる事実上の研究をいう。これに反して主観的研究法あり。その法 はすなわち内界の思想もしくは想像上道徳の原則を考定する研究法なり。これを理学的研究法に比すれば、哲学 的研究法と称せざるを得ず。しかるにこの二法のごときはおのおの一方の研究にして、いまだ完全の法というべ からず。もしその中に完全の法を得んと欲せば、この二法を統合して更にその上に一法を立てざるべからず。果 たしてかくのごとき法を得るに至らば、主観客観の一方に偏する弊を除きて完全の道理に到達することを得べし。 余この法を名付けて理想的研究法といわんとす。これを他法に比するに、ひとりこの法のごときは真正の哲学的 研究法と称すべし。けだし古代の研究法は主観一方に偏したるもののごとく、今日の研究法は主観客観両法を目 的とするも、その実客観一方に偏するがごとし。故に余いまだ理想的研究法の完備したるものを見ず。これを要 するに、倫理の研究に主観的、客観的、理想的の三法ありて、客観的研究上にまた歴史的比較的の二法あり。余 が本論において講述せんとするものは、この数様の研究法によりて論定したる倫理道徳の性質規則の大要なり。 160

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       第一〇節 倫理学講述の順序  これより本論に入りて倫理の大要を述べんとするに当たり、まずその順序を一言すべし。およそ人の倫理道徳 は行為挙動に関するをもって、その学を講ぜんと欲せば必ず道徳の行為規律を論ぜざるべからず、道徳の行為規 律を知らんと欲せば必ずそのよりて起こる道徳の本心を知らざるべからず。その本心はすなわち道念もしくは良 心というものこれなり。良心の作用を知らんと欲せば必ず善悪の分かるるゆえんを知らざるべからず。すなわち 善悪の標準これなり。しかして善悪の標準は人間究寛の目的に関するをもって、これを知るにはまずその目的を 論定せざるべからず。故に本論は左の数章に項目を分かてり。   目的論  標準論   良心論  意志論   行為論  規律論  このうち目的論、標準論はもっぱら純正哲学に関し、良心論、意志論はもっぱら心理学に関するをもって、両 学の範囲に属する部分もあわせて講述すべし。

第二章 目的論

倫理摘要      第一一節 目的論に二種あること およそ人のこの世にあるや、必ず一般に目的とするところなかるべからず。 もしその目的なきときは、この世 161

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に生存すべき理由あるべからず。政治なり道徳なり、みなこの目的を達する方便に外ならず。これを人間究寛の 目的という。その目的いかんに至りては学者の説多端にして一定し難しといえども、要するに二種の説あり。す なわちその一は人に一定の目的なしと論ずるもの、その二は人に一定の目的ありと論ずるものこれなり。第一説 中にまた三様の見あり。その一は懐疑論より起こり、その二は宇宙論より起こり、その三は進化論より起こるも、 これ必ずしも目的なしというにあらず、真正の目的は人智をもって知るべからず、もしくは目的は変遷して一定 せざるものなりというにあり。また第二説中に幸福を目的とする論およびこれに反対する論、すなわち幸福論非 幸福論の二様あり。この二者をあるいは主楽教直覚教と称す。主楽教とは、幸福快楽を主とするをもってその名 あり。直覚教とは、我人が人間の目的を知り道徳を判ずるがごときは、生来固有の能力によりてただちに覚了す るものなりと立つるをもってその名あり。しかしてその能力を直覚力という。        第=一節目的なしと唱うる論意  まず一定の目的なしと唱うる論意を述ぶるに、懐疑家は天地万物の現存を疑い、論理思想の規則を疑い、万事 万境は知るべからず、あるいは虚無なりと唱うるをもってその名あり。果たしてその言のごとくならば、人間究 寛の目的のごときは到底人智をもって知るべからざるものなるべし。また古代懐疑学とその性質を同じうするも のに、誰弁学と名付くるものあり。その論によるに、道徳上の善悪は人の意志、世間の世論等によりて定まるも のにして、自然に一定せるものにあらずとす。これまた一定の目的を立てざる論なり。宇宙論者は人類をもって 宇宙万物の一小部分とし、人間の規則は宇宙万物の規則なりと唱うるをもって、宇宙の目的を離れて別に人間の 目的あるにあらずという。これ全く目的なしというの論にあらずして、ただ宇宙の目的の外に特に人間の目的を 162

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倫理摘要 立てざるのみ。またこの論に似同せる理想論中に、この人間世界をもって迷界とし妄境とするものあり。この説 によるも、人間そのものに真正の目的ありというを得んや。つぎに進化論者の論ずるところは、この世界は古来 変遷進化してやまざるものなれば、人間の目的のごときも古代は古代の目的あり今日は今日の目的あり、あにそ の間一定不変の目的あらんやというにあり。これまた一定の目的なしというにとどまり、必ずしも目的なしとい うにあらず。        第=二節 幸福論の分類  つぎに一定の目的ありと唱うる論を考うるに、その一は幸福論なり。この幸福論の中に、自己一人の幸福を目 的とするものと社会公衆の幸福を目的とするものの二様あり。そもそもこの幸福論は、古代にありてはエピクロ ス氏これを主唱し、近世にありてはベンサム氏これを再興し、ミル氏これを継述して、今日大いに勢力を得るに 至れり。しかしてベンサム、ミル諸氏の論は社会公衆の幸福利益を目的とするものなれば、これを功利教と名付 く。世に実利主義というものこれなり。もし自己一人の幸福を唱うる論者を挙ぐれば、近世にホッブズ氏ありマ ンドヴィル氏あり、ともに自愛論者なり。自愛は自己一人の幸福を目的とするものなり。これを自愛教もしくは 利己主義という。シナに楊朱の自愛説あり、ギリシアにアリスティッボス氏の快楽主義あり。これに対して他人 の幸福を目的とする説あり。これを愛他教もしくは利他主義という。孔孟の汎愛を説き、バトラーの良心を説き、 アダム・スミスの同憐を説くがごときは、やや愛他教に近し。この自愛愛他両教を兼ぬるもの、これを兼愛教と いう。シナに墨子の兼愛説あり。ベンサム、ミル諸氏の功利教は墨子の説と大いに異なるところあるも、社会一       皿 般の幸福を目的とするものなれば一種の兼愛教というべし。これに対して自愛愛他両説は偏愛教と称せざるべか

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らず。またその幸福を説くや、肉体の快楽と精神の快楽との別あり。快楽はすなわち幸福なり。ソクラテス氏の 門下に出でたるキュレネ学派のごときはもっぱら肉体の快楽を説き、エピクロス氏のごときは精神の快楽の肉体 の快楽に勝ることを説けり。        第一四節 非幸福論の種類  幸福論に反対するものは非幸福論なり。その論者は幸福の目的と定むべからざることを論じて智識、理想、正 義、中庸等、種々の目的を唱うるに至る。まずソクラテス氏は智識を進むるをもって目的とし、プラトン氏は理 想に達するをもって目的とし、キニク派は欲念を脱するをもって目的とし、アリストテレス氏は中庸を得るをも って目的とし、ストア学派は天命に従い正義を守るを目的とし、釈迦は惑障を断じて浬藥に入るを目的とし、孔 子は至善にとどまるにありといい、老荘は無為に帰するにありといい、カドワース、クラーク、プライス等の諸 氏は道理教を唱え、バトラー、リード、ステユアート等の諸氏は良心論を唱えて、ともに幸福論を排す。その他 種々の異説あるも、要するにその論、全く幸福の正反対を取るものと、幸福の一部分を許すものとの二種に分か つべし。キニク学派のごときはその第一種に属す。なんとなれば、快楽をすてて苦痛を忍ぶをもって徳行とすれ ばなり。ソクラテス、プラトン、アリストテレスのごとき、および近世の非幸福論者のごときは、その論意、諸 善諸徳の完全したるものにはおのずから幸福の伴いきたるべきをもって、幸福を得んと欲せば徳義善行を修めざ るべからずというにありて、全く幸福を排するにあらず、ただこれを真正の目的とせざるのみ。故にその説、第 二種に属すべし。 164

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倫理摘要        第一五節 非幸福論者の唱うる難問四条  これより幸福論と非幸福論とを対照して両論の長短を示すべし。まず非幸福論者の幸福論を排する論点、左の ごとし。   臼 幸福は人間唯一の目的にあらざること。   ⇔ 人々の幸福おのおの別にして一定すべからざること。   日 幸福は古来経験の結果に過ぎざること。   四 幸福の性質分量は算定すべからざること。  第一条の意は、事実についてこれを考うるに、古今万国あまたの人民中には、現に幸福をもって目的となさず して幸福に反対する禍害をもって目的となすものあり、また幸福に関係なき徳義をもって目的となすものあるを 見る。故に幸福は人間一般の目的とするところにあらずというにあり。第二条の意は、甲某の幸福とするところ にして乙某の幸福とせざるものあり、丙某の禍害とするところにして丁某の幸福とするものあり、あるいは妻子 をもって最上の幸福とするものあり、あるいは富貴をもって第一の幸福とするものあり、あるいは妻子も富貴も 幸福にあらずして知識学問をもって無比の幸福とするものあり。故に幸福は一定すべからずというにあり。第三 条の意は、たとえ一定の幸福ありと許すも、我人が幸福の目的たることを知るは従来の経験によるのみ、すなわ ち従来の経験上、社会多数の人みな幸福をもって目的としたる結果を見て、幸福は人間の目的なりと想定するに 過ぎず。しかれどもひとり従来千百年間の経験の結果を見て、いずくんぞ幸福は将来永遠の目的と憶断するを得       面 んや、いわんや人を命令してこの目的に服従せしむるをや。我人の必ずしもこれを遵守せざるべからずというべ

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き道理なきは明らかなり。故に幸福は人間の目的にあらずというにあり。第四条の意は、幸福はすなわち快楽に して、快楽を離れて幸福あるにあらず。しかして快楽には肉体の快楽あり、精神の快楽あり、耳目の快楽あり、 思想の快楽ありて、その種類一ならざれば、その分量を推算測定することはなはだ難し。もし人の行為の善悪を 判定するに当たり、多少の苦と多少の楽と同時に起こるときはいずれを取るや。必ず苦の量と楽の量とを比較し て、楽多きを得たる方を取らざるべからざるべし。しかれども一事の善悪を知らんと欲してあらかじめ諸苦諸楽 を加減し、その結果の幸福分量いかんを知らんとするも、到底算定すべからざるは明らかなり。故に幸福をもっ て目的となすべからずというにあり。        第一六節 幸福論者の第一条に対する答弁  以上四条の難点につき幸福論者の答弁を挙ぐるに、第一条に対する答弁は事実上これを考うるに、幸福に反対 するものをもって目的となすものあるがごとく見ゆれども、その実決してしからず。たとえば身を殺して仁をな すものあり、苦を侵して道を求むるものあるは幸福に反対するがごとしといえども、もしその人の本心に入りて これを見るに、その人自ら最も幸福とするところのものを選びてこれに就きしは明らかなり。すなわち道を求む るものは道をもって最上の幸福とし、仁をなすものは仁をもって第一の幸福とするによる。けだし快楽に肉体上 精神上の二種あるをもって、肉体の快楽をすてて精神の快楽を求むるも、これ決して幸福論に反するものにあら ず。かつ人の心性作用には習慣連合の規則ありて、幸福快楽と正義徳行とは我人の思想上互いに連合するをもっ て、幸福の目的を徳義の上に移し、幸福に関係なき徳義をもって目的とするものなきにあらず。これあたかも幸 福と財宝との間に観念の連合するありて、幸福の真正の目的なるを忘れ、財宝を求むるをもって目的とするもの 166

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倫理摘要 あるがごとし。故にあまたの人民中には幸福外の目的を求むるものあるも、その実全く幸福を離れたるものにあ らざるなり。これによりてこれをみるに、幸福は人間唯一の目的なりと論定することを得べし。もしまた真に一 身の快楽をすつるものあるも、その人の意は他人の幸福を進むるにあるは明らかなるをもって、社会公衆の幸福 とする功利教の説には反せざるものというべし。        第一七節幸福論者の第二条に対する答弁  つぎに、第二条に対する答弁は甲、乙、丙、丁おのおのその幸福とするところを異にするも、これただ物柄の 相違のみ、幸福の相違にあらず。妻子と富貴とはその物柄異なるも、幸福というに至りては一なり。故に幸福は 人間の目的なりというも、なんの不可あらんや。かつそれ幸福の物柄のごときも、社会一般に認めて幸福とする ものに至りては大抵一定して動かざるものなり。たとえば、健康長寿は人の一般に幸福とするところにして、疾 病短命は一般に不幸とするところなり。たまたま二、三のこれに反対を唱うるものあるも、その説をもって一般 の通則となすべからず。もしその一般に幸福とするところのものについて論ずるときは、人の目的はおのずから 一定すべし。かつ人はその平常なすこと行うこと、みな直接もしくは間接に幸福を目的とせざるはなし。故に幸 福の目的たることは実際上、世人のことごとく許すところなり。ただその幸福に、品位の下等なるものと高等な るものあり、自己一人のためにするものと社会公衆のためにするものとの別あるのみ。故に我人はなるべくその 品位を進め、なるべく多数人民の幸福を計らざるべからず。これ世に功利教の起こりしゆえんなり。        第一八節幸福論者の第三条に対する答弁      67       1  つぎに、第三条の幸福は経験の結果なりという駁論に対して答弁するところを見るに、およそ将来の目的を定

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むる良法は、従来の経験に考うるより外なし。もし経験によらず事実に照らさずして目的を定むるときは、その 説空想たるを免れず。かつ経験上これを見るに、太古より我人は幸いに幸福を目的としたるをもって、社会人類 ともに繁栄して今日に至りしなり。もしこれに反し、仮に幸福は目的にあらずして禍害すなわち目的なりと定む るときは、いかなる結果をきたすべきや。人類社会ともにたちまち滅亡して、今日に現存すべからざるは必然な り。故に人間の目的は経験の結果によりて定めざるべからずというにあり。        第一九節幸福論者の第四条に対する答弁  つぎに、第四条に対する答弁は、人の行為を見ていちいちその結果までを予定し、その幸福の分量を推算する はすこぶる難事なりといえども、我人には従来の経験あるをもって、その経験に照らすときは、いかなる行為は 幸福をきたし利益を生ずるやを知ること容易なり。またこれによりて、目的と行為と適合するとせざるとを判定 すること難からず。すなわち我人は将来の経験によりて、甲の行為は福利を生ぜり、故に目的に合す、乙の行為 は禍害を起こせり、故に目的に反すと知りて、だれも疑わざるものなり。故に我人は行為を判定するに、いちい ちその結果を推算するを要せざるなり。        第二〇節幸福論中功利教の勢力  以上の説明を見るに、幸福論に対する難問はことごとく答弁することを得。かつその論は経験上の結果、事実 上の定則に基づくものなれば、今日大いに学問社会に勢力を得るに至れり。しかしてその勢力を得たるものは幸 福論中、社会公衆の幸福を目的とする功利教の説なり。功利教は最多量の幸福を最多数の人に与うるを目的とす るものなれば、これを一名最大幸福説という。いわゆる自他兼愛説なり。自愛は自己に偏し愛他は他人に偏する 168

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倫理摘要 弊あれば、兼愛の方その中を得たりといわざるべからず。かつ今日社会団結のときに当たり、我人みな社会の一 元素なれば、自己一人に対する外に社会に対する責任を有するは明らかなり。故に最大幸福説をもって目的とせ ざるべからず。これによりてこれをみるに、幸福論はこれを理論に考うるも事実に照らすも、諸論中最もその当 を得たる目的というべし。これ幸福論者の論点なり。        第二一節 非幸福論の長所  しかるにまた非幸福論を主唱するものは、その論の長所を挙げて幸福論を排斥す。そのうち第一四節に挙ぐる 第一種の説のごときは、これを主唱するもの少なしといえども、第二種の説に至りては、これに同意を表する学 者すこぶる多し。その論点はさきに述ぶるところを見て知るべしといえども、更にその要を摘出すれば左のごと し。   H 人間の目的は全く幸福を離れたるものにあらざるも、幸福の外に別に我人の求むべき目的ありて、幸福     はこれに伴いて生ずるものに過ぎず。その意すなわち幸福は目的にあらずして結果なりというにあり。   ⇔ 人間の目的はいやしくも人たるもの必ず共同一致して遵奉せざるを得ざるものにして、我人はこれを遵     奉する義務を有するものなり。すなわち人間の目的は単にかくのごとしというにあらずして、かくのご     とくあらねばならぬというにありて、我人はこれに対してかくのごとくなさねばならぬという義務を有     するものなり。しかるに幸福論は従来の経験に照らして人間の目的はかくのごとしというに過ぎざれば、     これ決して人を命令してその目的を遵奉せしむる力を有せざるものなり。   日 人間の目的はこれを外界に求め経験に尋ぬるを要せず。いやしくも人たるものはだれにてもその心中に 169

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    胚胎して存する一定の目的あるをもって、顧みて内界をみるときは、一種の心力のわれを命令するを覚     ゆ。しかして我人はその命令に応じて行為を施すに至れば、人間の目的を達することを得べし。故にそ     の目的我人の心内に一定して存在するものにして、幸福論のごとく人々おのおの別なるものにあらず。   四 人間の目的はかくのごとく心内に一定して存するをもって、たれびともこの一種の心力によりて即時直     接に人間の目的を判定することを得べく、幸福論のごとく経験の結果を思量計算するを要せざるなり。        第二二節 幸福論者の説明  以上は非幸福論の要点にして、そのいわゆる一種の心力はあるいはこれを天神の力に帰し、あるいはこれを理 想の作用に属し、あるいはこれを天賦の良心となす等種々の異説あれども、後章に至りて説明すべきをもって今 これを略す。この論点に対する幸福論者の説は、さきにすでに示すごとく、幸福の人の目的たることは従来の経 験上より疑うべからざる事実なれば、ただこれを経験の結果とするのみならず、これを将来の目的とすることを 得べく、またこの目的は人の必ず遵奉せざるべからざるものなりということを得べし。しかして我人の内界に存 する一種の心力のごときは、経験上の結果心内に積集して一種の性力を習成したるものに過ぎずして、最初より 内心に存するにあらず。その即時直接に目的行為を判定することを得るがごときも、数回経験の末、習慣連想の 規則によりてこの行為は目的に合し、かの行為は目的に反すと常に信じて疑わざるに至るのみ。この点も後に経 験論および進化論を説くに当たりて証明すべし。        第二三節 幸福非幸福両論の優劣  以上講述するところこれを約言するに、およそ道徳は人の行為挙動に関するものなれども、その善悪邪正を論 170

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ずるに至りては人間の目的を知らざるべからず。けだし道徳のことたる、この目的を達する方便に外ならず。し かしてその目的を定むるに至りては、古来学者の論多端にして是非を判知し難しといえども、要するに幸福論非 幸福論の二者に出でず。他語にてこれをいえば、主楽教直覚教の二者に出でず。そのうち最も今日に勢力を有す るものは幸福論すなわち主楽教なり、なかんずく功利教なり。この説は近年理学の進歩に伴い事実上の研究によ りて得たるところのものにして、さきにいわゆる客観的研究法の結果というも可ならん。もし主観的研究法によ るときは、非幸福論かえって勝ちを制するに至るべし。余をもってこれをみるに、古来の学者大抵みな幸福論非 幸福論の二者の一端に偏して、いまだその中を得ざるものなり。しかしてこの二者必ずしも調和すべからざるに あらず。もし二論おのおの他の長を取りてその短を補うに至らば、始めて完全の目的に論到することを得べし。 かつその研究法のごときも、客観一方に偏せず主観一方に偏せず、二者相待ちて局外より真正の目的を考定せざ るべからず。これ余がいわゆる理想的研究法によらざるべからず。この法によらば、幸福非幸福両論のごときも 必ず調和一致することを得べし。その理由は結論に譲り、ここにこれを略す。 倫理摘要

第三章 標準論

      第二四節 標準と目的との関係  前章すでに人間の目的を略述したれば、これよりまさしく倫理学中に入り、善悪の標準を論定せざるべからず。       71       1 これ倫理学上至要の問題なり。なんとなれば、行為の善悪を判ぜんと欲せば、まず善悪の標準を知らざるべから

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