仏教活論序論
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
3
ページ
327-393
発行年
1987-10-26
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002883/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.jaPL婆ー、Dμ ︽
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2.サイズ(タテ×ヨコ) 189×132mm 3.ページ 総数 緒.言 本文 :195 : 5 :190 同同同明 治 十 十 年年年年 四四五二 月月月月 一一・L.・・ _’!1一 日日日日 著釘印再版 正 檎 作出 免 着版刷版許 同 年二月 出版 斎潟懸苧民 井 上 側 了 東京膚⋮本肋思エ噺込西 ●町拾爵地 断湖騨苧民 猿行着 井 上 圓 成 伺本垣︹匿︰ハ丁目 五癬地 東京府卒民 印刷者 佐久間司踊介 ㎜規陥脳西靴鳳町゜ 登責所 哲 學 書 院 エ ホのぼポお ハ 印刷所秀丁ロ蝿舎 同★凧鱈︻巴西訓喧田町 廿六七爵勉仏教活論序論
緒
言
一、 ]つとに仏教の世間に振るわざるを慨し、自らその再興を任じて独力実究することすでに十数年、近頃始め てその教の泰西講ずるところの理哲諸学の原理に符合するを発見し、これを世上に開示せんと欲して、ここに 一大論を起草するに至る。名付けて﹁仏教活論﹂と称す。まず第一にその端緒を叙述して真理の性質、仏教の 組織を略明し、題して﹁仏教活論序論﹂という。本論に入るの階梯に備うるもののみ。本論は﹁破邪活論﹂﹁顕 正活論﹂﹁護法活論﹂の三大論に分かち、これより三カ月を経てその稿を終わり、稿終わるののちこれを世間に 公布して、世人のいかなる思想感覚をその上に与うるかを試みんと欲するなり。 一、 ]が仏教を論ずるは哲学上より公平無私の判断をその上に下すものなれば、世間普通の僧侶輩の解するとこ ろともとより同一にあらず。また、ヤソ教者の見るところと大いに異なるところあるべし。けだし余が仏教を 助けてヤソ教を排するは、釈迦その人を愛するにあらず、ヤソその人をにくむにあらず、ただ余が愛するとこ ろのものは真理にして、余がにくむところのものは非真理なり。今、ヤソ教は真理としてとるべからざる成分 あり。仏教は非真理として捨つべからざる元素あり。これ余があくまでその一を排しその二を助くるゆえんな り。 余がいわゆる仏教は今日今時わが国に伝わるものをいい、その教の初祖たるもの、これを釈迦と名付くるな り。故にヤソ教者中、インドに仏教の原書なし、大乗は仏説にあらず、釈迦は真に存するものにあらず等と喋々 するものあるも、余がすこしも関せざるところなり。その人の伝記つまびらかならず、その教の由来明らかな 327らざるも、余は決して伝記由来をもって、その教を信ずるがごとき無見無識のものにあらず。ただ余がこれを 信ずるは、その今日に存するもの哲学の道理に合するにより、これを排するは哲理に合せざるによるのみ。 一、 。、仏教は愚俗の間に行われ、頑僧の手に伝わるをもって、弊習すこぶる多く、外見上野蛮の教法たるを免 れず。故をもってその教は日に月に衰滅せんとするの状あり。これ余が大いに慨嘆するところにして、真理の ためにあくまでこの教を護持し、国家のためにあくまでその弊を改良せんと欲するなり。しかしてその護持改 良の方法は、当時の僧侶と共にはからんとするも、いかんせん、その僧侶の過半は無学無識、無気無力なるを。 たとえこれと共にはかるも、その志を遂ぐることあたわざるは必然なり。故に余は世間の学者才子中いやしく も真理を愛し、国家を護するの志を有するものあらば、これと共にその力を尽くさんことを期し、あわせて学 者才子に対して、僧侶の外にその教の真理を求められんことを望むなり。 一、 ]、生来頑僻の性ありて、その自らちかうところ、人のために序を作らず、人に請うて序を作らしめず、人 のために文を飾らず、人に請うて文を飾らしめず。故にその述ぶるところの文も、その著すところの書も、通 常民間に行わるるところのものと大いにその性質を異にし、これを読む者たやすく余の一癖人たるを知るべし。 今この編のごときはあたかもその一例を徴するに足る。それ余は赤貧多病、もとより権勢の道に奔走して栄利 を争うの念なく、穀誉の間に出没して功名をむさぼるの情なく、ただ終身随巷に潜んで真理を楽しみ、草茅に 座して国家を思うの赤心を有するのみ。その平常口に発し筆に示すもの、またみなこの心の余滴に過ぎず。故 をもってこの論のごときもみだりに人の序賛を請うて、世間の虚名を釣らず、文の修飾を借りて読者の愛顧を 引かず、無味無色もって自ら足れりとす。もし人この論を一読して、幸いに余が微志の存するところを知り、 328
共にその力を尽くして、仏日のまさに落ちんとするを支えんと欲するものあらば、請う、余にその意を告げら れんことを。余の喜び果たしていかんそや。伏してこいねがわくは、早くかくのごとき同感同志の士を得て、 一夕月明風清のときを待ち、共に大法護持の策を講ぜんこと、これ余が畢生の大願なり。これ余がこの論を起 草せし本志なり。 明治二十年二月 著 者 誌 仏教活論序論 329
本 論
330 人だれか生まれて国家を思わざるものあらんや。人だれか学んで真理を愛せざるものあらんや。余や鄙賎に生 まれ、草葬に長じ、加うるに非才浅学なるも、またあえて護国愛理の一端を有せざるものにあらず。朝雨暮風に 接することに、未だかつて護国の情を動かさざるはなく、春花秋月にあうごとに、未だかつて愛理の念を発せ ざるはなし。この情この念相結んで余が一片の丹心となる。余よくこの心を養い、この心またよく余を護す。家 貧しうして敵衣凍寒を防ぐに足らずといえども、幸いにこの心の存するありて、満身ために暖を加え、非食飢渇 を支うるに足らずといえども、また幸いにこの心のみつるありて、全身ために肥ゆるを覚う。ああ、われをして 生存せしむるものはこの心なり、われをして活動せしむるものはこの心なり、われをして笑い、われをして語り、 われをして泣かしむるものはこの心なり。この心ありてわが身体あり。この心ありてわが生命あり。われあにこ の心を守らざるを得んや。われあにこの心のために尽くさざるをえんや。 そもそも真理を愛するは学者の務むるところにして、国家を護するは国民の任ずるところなり。国民にして国 家を護せざるものは国家の罪人なり。学者にして真理を愛せざるものは真理の罪人なり。国家学なきときはその 進歩をみるあたわず。学者国なきときはその生存を保つあたわず。学者にして国家を護することを知らず、国民 にして真理を愛することを知らざるものも、これまた罪人なり。退きて真理の罪人となり、進みて国家の罪人と なる、これあに人の目的とするところならんや。故に人いやしくも罪人たらざらんと欲せば、一腎を奮うて国家仏教活論序論 のためにその力を尽くし、一志を立てて真理のためにその心をつくし、一毛の国家を利するあるも必ずこれを求 め、一髪の真理を防ぐるあるも必ずこれを除かざるべからず。かくのごとき人にして、始めて真正の護国者にし て純全の愛理者というべきなり。 今もし護国愛理の二大事についてその軽重を較するときは、その間必ずしも差等なきにあらず。護国の重くし て愛理の軽きことあり、愛理の重くして護国の軽きことあり。今それ真理は万世にわたりて変ずることなく、宇 宙を極めて尽くることなく、国家廃頽し人類滅亡するも、その理依然として存し、日月星辰の高き山岳河海の大 なる、鳥獣草木の多き、みなその中に同体の真理を胚胎するありて、一点の雲も一毛の塵も一として真理を具せ ざるはなし。これによりてこれを較するに、国家は真理界中の一小部分を占有するものに過ぎず。あたかも大海 の僻隅に↓粒の孤島を現ずるがごとし。果たしてしからば、愛理はその任重く、護国はその責軽しといわざるべ からず。しかれども国家もし成立せず、人類もし現存せざれば、真理ひとり存するも、だれかよくこれを知り、 またよくこれを講ぜんや。けだしこれを講ずるは、知者学者を待たざるべからず。知者学者を生ずるは国家の独 立生存を要するなり。故に学者いやしくも真理の講ずべきを知らば、必ずまず国家の独立に向かって祈らざるべ からず。これをもって、護国の任は愛理の責に一歩もその軽重を譲らざるを知り、あわせて学者の務むるところ、 護国愛理の二大事を兼行するにあるを知るべし。 これによりてこれをみれば、護国愛理は一にして二ならず。真理を愛するの情を離れて、別に護国の念あるに あらず。国家を護するの念を離れて、別に愛理の情あるにあらず。その向かうところ異なるに従って、その名称 同じからざるも、帰するところの本心に至りては一なり。この心もって国家に対すれば護国の丹誠となり、この 331
心もって真理に対すれば愛理の精神となる。故に余まさにいわんとす、国家を護するの心はすなわち真理を愛す 32 るの心なり、真理を愛するの心はすなわち国家を護するの心なりと。二者の兼全せざるべからざるゆえん推して 3 知るべし。しかりしこうして、護国愛理はその本心一なるも、その方向異なるをもって、一人にして同時に二者 を兼行すべからざるは、あたかも同時に東方と西方とに行くことあたわざるがごとし。これをもって、その時の 事情とその人の分限とに応じて、あるいは護国を先にして愛理を後にするものあり、あるいは表に愛理を唱えて 裏に護国を祈るものあり。かくのごとく護国愛理の間に先後表裏の次第あるは、勢いのやむをえざるに出でたる ゆえん別に論ずるを待たず。かつ世間に国家を護せんと欲して真理を愛し、真理を愛せんと欲して国家を護する ものあるゆえんまた知るべし。故に余おもえらく、人にしていやしくも学者の地位に当たるものは、護国のため に真理を愛せざるべからず、その真理を愛するはすなわち国家を護するものなり。余や浅学非才にして学者の地 位に当たるべきものにあらずといえども、その心ひそかに期するところありて、もっぱら真理を講究していささ か国家のために尽くすところあらんとす。故に余は、いわゆる愛理を先にして、護国を後にするものなり。しか れども、その真理を愛するの本心は護国の一念に外ならざるをもって、余が真理のために喋々するもの、みな護 国の精神のあふれて外に流るるもののみ。 余、幼より世人とその好悪を異にし、人の楽しむところにして余かえってこれを憂え、人の憂うるところにし て余かえってこれを楽しむ。故をもって、その旧里に在るや同郷の児童と共に遊ばず。およそ児童の楽は飲食遊 戯の外に出でずといえども、余の楽はひとりしからず。出でて江山の間に入れば、草木の森々としておのずから 欝茂し流水の悠々として去りて帰らざるを見、心ひそかに怪しむところありて家に帰りてその理を思う。これを
仏教活論序論 思うて達することあたわざれば、ひとり荘然として自失し、幸いにその理に達すれば微笑して自得の状を呈す。 これ余が衆と共に群せざるゆえんなり。長じて学を人に求むるに及び、一見一聞みな余が感を惹起し、日夜黙座 してただその理を思うのみ。そののち東京に入るに及び、ときまさに百花栄を競うの候にして、東台墨堤の春色、 人をして狂せしむ。余これを見て感また感を加うるのみ。これ他なし、人は花の美なるを喜び、余は花のなにに よりて美なるや、人のなにによりて狂するやを思うの別あるによる。品海に夏を消し、滝川に秋を賞するもまた 世人の快楽とするところにして、余が感慨するところなり。けだし世人は事物の外形を見て、その形裏に胚胎す る真理のいかんを問わず。余はただその理を思うて外形のいかんを顧みず。これ余が人とその感を異にするゆえ んなり、これ余が衆とその楽を同じうすることあたわざるゆえんなり。 およそ人たるもの、おのおのその癖するところあり。酒に癖するものあり、色に癖するものあり、武に癖する ものあり、文に癖するものあり、いま余は真理に癖するものなり。月に対するも真理を思い、花に対するも真理 を思い、山光水色に接するも朝煙暮霞に接するも、未だかつて一念一思の真理のいかんに及ばざるはなし。しか して自らおもえらく、わが生存するところの世界も、わが占領するところの身体もみな真理より成り、その日夜 耳目に現ずるところのもの、またみな真理の影像なり。ああ、余は真理を呼吸して生活するものなり。ああ、余 は真理を消化して生長するものなり。故に余は真理のためにあくまでこの心を尽くし、あくまでこの力を致さん と欲す。これ余が畢生の大願なり。けだし我人のこの世に来生するの目的、またこれに外ならざるなり。 それ真理の理たる古今万世を貫きて徹せざるところなく、天地六合を窮めて至らざるところなく、実に無始無 籾 終の真理なり、無涯無尽の真理なり。しかるにその考索を全く形而下の事物にとどめて、更にその形外にいかな
る真理ありて存するを問わざるは、けだし学者の妄見なり。別して真理を]、二人の説に帰して、他にその存否 を究めざるは、実に愚者の浅識のみ。真理あにかくのごとき分限あるものならんや。その他、生物中、人類の外 に真理を知るものなく、人類中、学者の外に真理に通ずるものなしというがごときは、もとより一種の僻見とい わざるをえず。もしそれわが言の外に真理なし、わが法の外に真理なしというに至りては、僻見中の僻見という べし。真理あにかくのごとき偏僻なるものならんや。余が期するところただ公平無私、普遍正大の真理を愛求す るにありて、偏僻不完の真理を愛求するにあらず。故に余はあくまで偏僻の真理を排去して、無私の真理を開発 せんことを務むるなり。 古来世間に真理を考究するをもって目的とするものはなはだ多く、諸学諸術一として真理に関せざるものなし。 別して宗教はその目的、古今上下億万の人をして、ことごとく一味同感の楽地に永住せしめんとするにあるをも って、確然不動、一定不変の真理を主唱するものなり。すなわち諸学諸術に立つるところの真理は、あるいは世 の進歩と共に変更することあるを許すも、宗教に立つるところの真理は東西古今、不変不易なりと確定するもの なり。故に余はしばらく諸学術の真理を究問せずして、もっぱら宗教の真理とするところ、果たして一定不変の 真理なるや、公平無私の真理なるやを論明せんと欲するなり。 世に宗教と称すべきものその類いくたあるを知らずといえども、その最も世間の勢力を有するもの、仏教、ヤ ソ教、マホメット教の三教とす。なかんずく、当時の世界に立ちて互いに相拮抗すべきものは仏耶両教なり。故 に余が期するところ、この両教の間に真理の向背を論じて、その二者の優劣を判ぜんとするにあり。 仏教を主唱するもの曰く、わが教の外に真理なしと。ヤソ教を主唱するもの曰く、わが教の外に真理なしと。 334
仏教活論序論 しかして自教の外に果たして純全の真理なきゆえんを証明せざるは、もとより偏僻の妄説にして、その見て真理 となすところ、公平無私の真理にあらざること問わずして知るべし。故に余がここに両教の優劣を較するは、公 平無私の真理を標準として、無偏無党の哲学上の裁判を二者の上に下すものなり。 人もし哲眼を開きて宗教世界を一敵すれば、たやすく公平無私の真理の仏教の大海中に存するを知ることを得 べし。しかしてヤソ教のごときは偏僻不完の小真理を胚胎するものに過ぎず、これを仏教の真理に比するに、実 に真理の毛端爪頭にして、あるいは真理の虚影空響なりというも不当にあらず。ああ、仏教の真理の明白にして、 ヤソ教の真理の曖昧なる、あたかも明月ひとたび出でて衆星その光を失うがごとし。ああ、仏教の真理の正大に してヤソ教の真理の偏小なる、あたかも百川海に入りてその別を見ざるがごとし。両教の懸隔あに日を同じうし て語るべけんや。 しかるに世間の論者、近日往々説を起こして、真理はヤソ教中にありて仏教中にあらずという。実に惑えりと いうべし。そのはなはだしきものに至りては、ヤソ教ひとり純全の真理にして、仏教は全く真理に反するものな りという。なんぞ惑うことのここに至るや。しかして未だ一人の公明の判断を仏教の上に与うるものなきは、余 がつとに慨するところにして、十有余年の久しき苦心焦思して哲理を研究したるもの、またこの目的を達するた めのみ。 そもそも余が純全の真理の仏教中に存するを発見したるは、近々昨今のことなりといえども、そのこれを発見 するに意を用いたるは今日今時に始まるにあらず。明治の初年にありて早くすでにその意を起こし、爾来このこ 35 3 とに刻苦することここに十有余年、その間一心ただこの点に会注し、未だかつて一日もこれを忘れたることなし。
しかれども、余あえて初めより仏教の純全の真理なることを信ぜしものにあらず。未だその純全の真理なること を発見せざるに当たりては、あるいはかえってこれを非真理なりと信じ、誹誘排斥することすこしも常人の見る ところに異ならず。余はもと仏家に生まれ、仏門に長ぜしをもって、維新以前は全く仏教の教育を受けたりとい えども、余が心ひそかに仏教の真理にあらざるを知り、顧を円にし珠を手にして世人と相対するは一身の恥辱と 思い、日夜早くその門を去りて世間に出でしことを渇望してやまざりしが、たまたま大政維新に際し一大変動を 宗教の上に与え、廃仏穀釈の論ようやく実際に行わるるを見るに及んで、たちまち僧衣を脱して学を世間に求む。 初めに儒学を修めてその真理を究むること五年、すなわち知る、儒学も未だ純全の真理とするに足らざるを。と きに洋学近郷に行われ、友人中すでにこれを修むるものありて、余に勧むるにその学をもってす。余おもえらく、 洋学は有形の実験学にして無形の真理を究むるに足らずと。故をもって一時その勧めに応ぜざりしも、退きて考 うるに、仏教すでに真理にあらず、儒教また真理にあらず、なんぞ知らん、真理はかえってヤソ教中にありて存 するを。しかしてヤソ教を知るは洋学によらざるべからず。これにおいて儒をすてて洋に帰す、ときに明治六年 なり。その後もっぱら英文を学び傍ら﹃バイブル﹄経をうかがわんと欲すれども、僻地の書騨未だその書を有せ ず。たまたまその書を有するも、家貧にしてこれを購読するの余財なし。すでにして友人中シナ訳の一本を有す るものあり。ついでまたその原書を得、原訳相対して日夜熟読するに、ややその意を了することを得たり。読み 終わりて巻を投じて嘆じて曰く、ヤソ教また真理とするに足らず。余これに至りてただますます惑うのみ。かつ 怪しみておもえらく、儒仏の非真理すでにかのごとく、ヤソ教の非真理またかくのごとし。しかるに世人の、あ るいは儒仏を信じ、あるいはヤソ教を信ずる者あるはなんぞや。けだし世人の知力よくその非真理を発見せざる 336
仏教活論序論 によるか、またその非真理を知りてこれを信ずるによるか。余は決して真理にあらざるものを真理として信ずる ことあたわず。これにおいて余断然公言して曰く、旧来の諸教諸説は一も真理として信ずべきものなし。もしそ の信ずべき教法を求めんと欲せば、自ら一真理を発見せざるべからず。余これよりますます洋学の緬奥を究め、 真理の性質を明らかにして、心ひそかに他日一種の新宗教を立てんことを誓うに至る。爾来、歳月勿々、早くす でに十余年の星霜を送る。その間余がもっぱら力を用いたるは哲学の研究にして、その界内に真理の明月を発見 せんことを求めたるや、ここにまた数年の久しきを経たり。一日大いに悟るところあり、余が十数年来刻苦して 渇望したる真理は、儒仏両教中に存せず、ヤソ教中に存せず、ひとり泰西講ずるところの哲学中にありて存する を知る。ときに余が喜びほとんど計るべからざるものあり。あたかもコロンブスが大西洋中に陸地の一端を発見 したるときのごとし。これにおいて十余年来の迷雲始めて開き、脳中裕然として洗うがごとき思いをなす。 すでに哲学界内に真理の明月を発見して更に顧みて他の旧来の諸教を見るに、ヤソ教の真理にあらざることい よいよ明らかにして、儒教の真理にあらざることまたたやすく証することを得たり。ひとり仏教に至りてはその 説大いに哲理に合するをみる。余これにおいて再び仏典を閲しますますその説の真なるを知り、手を拍して喝采 して曰く、なんぞ知らん、欧州数千年来実究して得たるところの真理、早くすでに東洋三千年前の太古にありて 備わるを。しかして余が幼時その門にありて真理のその教中に存するを知らざりしは、当時余が学識に乏しくし てこれを発見するの力なきによる。これにおいて余始めて新たに↓宗教を起こすの宿志を断ちて、仏教を改良し てこれを開明世界の宗教となさんことを決定するに至る。これ実に明治十八年のことなり。これを余が仏教改良 37 3 の紀年とす。
それ仏教は日本固有の宗教にあらずして他邦より漸入したるものなりといえども、すでに今日にありてはその 38 本国たるインドはほとんどその痕跡を絶し、わずかにその地に存するものは仏教中の小乗浅近の一法のみ。その 3 最も深遠高妙なる大乗の法は、その書その宗共に今日のインドに伝わらず。これをもってヤソ教者は大乗非仏説 を唱うといえども、大乗の深法は愚俗のよく解すべきところにあらざるをもって、インドにその法の今日伝わら ざるはその地の文化衰頽をきたせしによるのみ。しかしてシナに至りては大乗の宗書共に今日わずかに存すとい えども、その宗は大抵禅家にして経論を用いず。その僧は大抵暗愚にして仏教を知らず。その勢い実に衰頽を極 めたりという。しかしてその宗、その書、その人、共に存して大乗の深理を知り、一乗の妙味を知るべきものひ とりわが日本あるのみ。その宗衰えたりといえども、なおよく頽勢を挽回するに足り、その書欠けたりといえど も、なおよく深理を捜索するに足り、その人乏しといえども、なおよく妙味を感伝するに足る。もし今日これを 日本に維持せずして、その人去り、その書亡びその宗廃するに至らば、仏教またいずれの地にありて興らんや。 これ余がその教をわが国に維持するは今日の急務なりといわんとするゆえんなり。 およそ物その初め他邦に産するも、これを自国に将来して数年力をその培養の方法に尽くし、今日幸いにその 良種を得るに至り、しかしてその本国にありてはすでにその種を絶し、またこれを再培するの勢いなきときは、 これを自国特有の産物として他邦に輸出するもあえて不可なるの理なし。果たしてしからば、今日の仏教は日本 の仏教なり、日本の特産なり。今後ますますこれをわが国に培養して、遠く外国に流布せざるべけんや。そもそ も本邦産するところのものその類はなはだ多しといえども、自国の特産にして西洋にその類を見ざるものはなは だ少なし。百般の物品器用はもちろん、政治、法律、軍制、教育、百科の理学工芸に至るまで、ことごとくその
仏教活論序論 供給を西洋に仰ぐは、みな人の知るところなり。しかして西洋に全くその類なくして日本に存し、またこれを外 国に伝えて声価を得べきものひとり仏教あるのみ。仏教の理論は西洋近世の哲学のすでに論ずるところなれども、 その理を実際に応用して世間の宗教を立つるに至りては、泰西古来未だかつてみざるところなり。かつ今日その 地の学者のヤソ教を厭苦して哲学上の宗教を求め、日夜汲々するの状あるを見るに、他日仏教ひとたびかの地に 伝うるに至らば学者の喜び、けだしまた計るべからざるものあらん。 方今西洋の学者中往々仏教を講究するものありといえども、その訳して西洋に伝わるもの、みな今日インドに 遺存せる仏典にして、すなわち仏教中の小乗浅近の経文のみ。また西洋人の日本にきたりて仏書を訳し、これを かの地に伝うるものなきにあらずといえども、これもとより仏教の一部を捜索するのみにて、未だ全教の極意を 了知するに至らず。かつ筆してこれを西洋に伝うるものみなヤソ教者の手に成るをもって、その書を読むも仏教 の真意を知るべからざるはまた必せり。これをもって西洋の学者は、異口同音に仏教を評して虚無寂滅の法とな し、浅近とるに足らざる教となす。あに仏教のために慨せざるべけんや。あに真理のために嘆ぜざるべけんや。 現今仏書のわが国に存するもの、大乗小乗共に幾百千種あるを知らずといえども、その書みなシナの訳文にし て今日すでに世人の解するに苦しむところなり。しかして今日はなお仏学者の世に存するあるをもって、ややそ の意を了すべしといえども、その学者永く世に存すべき理なく、かつかくのごとき学者の将来続々世に起こるべ き理なきをもって、今日これを講究して世間に伝えざれば、その教の世界に地を払うに至るは、けだし遠きにあ らざるべし。かつ今後わが言語文章の世道人心と共に変更するに至らば、仏教の再興また決して望むべからず。 39 3 これ余がその再興をもって自ら任じ、また人をしてその任に当たらしめんことを勧むるゆえんなり。
その他、仏教をわが国に再興せざるをえざるゆえんは、その東洋文明の基本たるにあり。インドの文明はもち ろん、シナの文明も仏教大いにあずかりて力あり。その日本の文明におけるもまたしかり。シナ宋朝に至りて諸 学大いに進みたるは当時仏教の人の思想に入りしにより、日本中古戦国の際、文教地に落ちずして今日に伝わる もの、またみな仏教の力なり。しかしてその影響ただに学問上に存するのみならず、わが言語、風俗、人情に至 るまで多少その影響を有せざるはなし。かつそれ宗教は人の精神と直接の関係を有するをもって、その廃立必ず 思想の独立を動かすに至り、かつ愚夫愚婦の心中に感染するをもって、その変革必ず一国の精神を損ずるに至る。 今仏教は千有余年日本に伝来し、その人心に感染し文明を維持する一日にあらず。たとえ陽にその影響の一国の 精神思想の上に存するをみずといえども、陰にその影響あるは必然の勢いなり。故にもし東洋の文明を廃し日本 の独立を失うをもって、我人の国家に対する義務となさば、すなわちやまん。いやしくもその文明を維持し、そ の独立を振起せんと欲せば、あくまで仏教の再興をはからざるべからず。しかるに世上の論者は喋々外教の利害 を説きて、仏教の盛衰を顧みざるもの多きは余輩憂国の士と共に慨せざるべけんや。 かつそれ一国の独立するゆえんのものなんぞや。その国固有の政治、宗教、人種、交情、言語、文章、学問、 技芸、風俗、習慣の存するによるや明らかなり。もし政治を変じ、宗教を変じ、その他百般の事物を変ずるとき は、すなわちその国を変ずるものにして、これを変ずると同時にその国の独立を失うものなり。そのうち最も重 大の関係影響を有するものは宗教にして、宗教は間接または直接に政治風俗に関し、言語交際に関し、精神思想 に関するをもって、これを変ずれば他の百般の事物みなこれに従って変ぜざるをえず。今仏教はわが国千余年来 の宗教にして、重大の関係を百般の事物の上に有するものなり。これを変ずればその勢い他の百般の事物も早晩 340
仏教活論序論 変ぜざるをえず、百般の事物変ずればわが国これと同時にその独立を失うに至るべし。これ余が国家のために仏 教を護持せざるべからずというゆえんなり。 およそ生物の発育するや順応遺伝の二種の規則互いにその作用を営むによる。社会国家の発育もまたしかり。 その従来有するところのものを維持するは遺伝なり。その形を変じて外情に適合せしむるは順応なり。遺伝のみ ありて順応を欠くときはその進歩を見るあたわず。順応のみありて遺伝を欠くときはまた大いに害あり。例えば 衣食住のごときこれを西洋風に変ずるは順応なれども、その順応中日本人の形質を維持するには、従来の日本風 のまたおのずから欠くべからざるものありて存するを見る。これいわゆる遺伝なり。衣食すらなおかくのごとし、 いわんや一国全民の精神思想の関するものにおいてをや。現今わが国の宗教は多少その外情に応じて改良を加え ざるをえざるはもちろんなれども、全くこれを衰滅に帰して他邦の新思想をわが人民の精神中に注入するは、こ れいわゆる日本の遺伝性を失うものにして、ただにその発育に害あるのみならず、その独立を失うに至るは必然 なり。これをわが国の大勢について考うるに、維新の初年に当たりては一時百事みな旧をすてて新を争うに至り しも、その後数年を出でずして、また旧に復するの勢いあり。しかして今日の事情新旧両方を取捨折衷するを主 として、その目的順応遺伝の権衡を保持せんとするにあれども、なお往々その一端に偏筒するの傾向ありて、そ の勢いあたかも外よりにわかに懸垂に運動を与えたるがごとし。明治の維新はわが国の輿論に大運動を与えたる ものなり。そののち輿論常に順応遺伝の両端に来往して、その衡平を保持せんと欲して未だあたわざるなり。他 日その衡平を得るの点は、決して仏教をして廃滅に帰せしむるにあらざることは理すでに明らかなり。余案ずる 皿 に、古来東洋別して日本の文明を維持し日本の精神を培養して今日にきたるもの、仏と儒との勢力によらざるは
なし。しかして儒は外にわたり仏は内に関するをもって、人の精神思想の上に重大の影響を有するもの仏を第一 とす。故にわが国人たるもの、今後いやしくも日本人の精神思想を維持せんと欲せば、仏教を興隆せざるべから ざるはまた道理のしかるところなり。 かつ今日わが国人の西洋をとり英独を学ぶの本意、日本をして外国に追従随行せしむるにあらずして、今より して後、西洋に競争抗敵して、その上に超駕せしめんとするにあるは問わずして明らかなり。果たしてしからば、 日本旧来の事物、学問、精神、思想の善悪良否を問わず、一にこれをすててことごとく西洋を待つは、わが得策 にあらざることまた瞭然たり。けだし人の跡を追い先を譲るときは、到底その人に超過すべからざるは自然の理 なり。これを一国の上に考うるも、その理の適合すべきは別に証するを要せず。かつまた外国交通の本意、かれ が長を取りてわが短を補うにありて、わが長を捨ててかれが短を取るにあらざるはまた言を待たず。今、仏教は わがいわゆる長ずるところのものなり。これをわが国に培養して外国に流出せざるときは、なにをもって外国に 伝えんや。有形の物品はみなかれの長ずるところなり、無形の学問またかれの長ずるところなり。ひとり宗教に 至りてはわが長ずるところなり。この長ずるところの名産、インド、シナにすでにその良種を絶したるは、わが 国不期の幸というべし。今日これを日本に培養して、他日これを外国に伝播するに至らば、ただに国家の栄誉を 助くるのみならず、わが国の精神を外人の心中に注入するありて、その間接の影響決して少々にあらざるは余が 確信して疑わざるところなり。おもうに有形の物品はこれを西洋に待つも、その影響大ならずといえども、無形 の精神に至りてはその変革決して一、二の影響にとどまるにあらず。別してわが国の精神を他邦に入るると、他 邦の精神をわが国に入るるとは、その利害決して同日の論にあらざるなり。いやしくもわが国、外国交際の本意、 342
仏教活論序論 かれと競争抗敵するにある以上は、今日仏教をわが国に改良し、他日これをわが名産として西洋に輸出するを務 めざるべからず。しかして余がこれをもって学者の責任となすゆえんは、学者の外その任に当たるべき人なけれ ばなり。わが国の農業を盛んにして、その得るところをもって外国に輸出せんとするは農夫の義務なり。商業を 興して外人と競争せんとするは商家の義務なり。学事教法を興隆して遠く西洋に宣布するは、学者の国家に対す る義務なりと知るべし。 かくのごとく仏教を日本に興して遠く西洋に伝うるは、ただにわが国の神益のみならず西洋の神益なり。ただ に西洋今日の稗益のみならず世界万世の稗益なり。これを古来の史跡に考え、これを万国の事情に徴するに、い かなる学問宗教にても一主義の一国中に行わるるは、その進歩上不利なるはもちろんにして、その害国家の上に 及ぶの例はなはだ多し。シナ漢以後学問の衰えたるは、儒家の一主義世に行われたるにより、西洋中古文化の振 わざりしは、ヤソ教の一主義人の精神を圧したるによる。しかしてシナ春秋戦国の間に文化の盛んなりしは、諸 主義の並び行われて互いに相競争せしにより、西洋近世の隆運は諸学諸術互いに相競争するによる。これにより てこれをみれば、わが国今日の勢い、仏教日に衰滅しヤソ教日に興隆して、他日ヤソ教の一主義、世に行わるる に至らば、わが国の文化開明の進歩に妨害あるは必然の理なり。また西洋にても従来ヤソ教の外、↓の宗教なき をもって、その勢い往々理学哲学の進路を閉塞せんとするの弊ありしといえども、仏教ひとたびその地に入らば 大いにその弊を減じ、理学哲学の進歩を助くるやまた疑いをいれず。かつヤソ教も仏教と互いに競争するときは、 かえって一層の進歩をみるべし。この点よりこれを考うるも、仏教を日本に興隆するは今日の急務たるゆえんを 43 3 知るべし。
これによりてこれをみるに、将来わが国の学問をして東洋に独立せしめ、わが国の宗教をして西洋に超駕せし むるものは、それただ仏教にあらんか。わが国の教学をして世界を圧倒し地球を併呑せしむるものは、またただ 仏教にあらんか。わが日本の国威をして宇内に輝かしめ、わが日本の名声をして万世にとどろかしむるもの、ま たまた仏教にあらんか。ああ、我人は国家のためにこの教を護せざるべけんや。ああ、我人は真理のためにこの 法を愛せざるべけんや。 しかるに世上の論者中、人種を改良するもヤソ教にあり、人知を開達するもヤソ教にあり、国力を養うもヤソ 教にあり、国威を輝かすもヤソ教にあり、ヤソ教を奉ずるものにあらざれば真の護国者にあらず、真の愛理者に あらずと唱うるものあり。しかしてその仏教を評するや、かれは亡国の教なり、破産の法なりと。なんぞ思わざ るのはなはだしきや、なんぞ妄なるのはなはだしきや。余その妄を問わずしてやまんと欲するもいかんせん。一 犬虚を吠えて、万犬実を伝うるがごとく、朝野その説に雷同するもの日一日より多きをみる。これ余が感憤切歯 に堪えざるところにして、いずくんそよく傍観座視、黙してしかしてやむに忍びんや。今余が十有余年来実究す るところによるに、人種を改良するも、人知を開達するも、国力を養うも、国威を輝かすも、みな仏教の力ひと りよくなし得べきところにして、なんぞ必ずしもヤソ教の待つを要せんや。いわんやヤソ教は純全の真理にあら ずして仏教は純全の真理なるをや。これ余がこの教を助けかの教を排するは、わが国の学者の真理に尽くし国家 に尽くすの義務なりというゆえんなり。 しかるにわが国の学者中ヤソ教を主唱するものは、その教の西洋に実益ある例をあげて、これを日本に用うべ しというといえども、けだしその益あるはその害あるゆえんにして、一利一害は事物の免るべからざるところな 344
仏教活論序論 り。しかしてひとりその利をあげてその害を説かざるは、学者の僻見といわざるをえず。たとえまたヤソ教は真 に西洋に利ありと許すも、これを日本に用いて必ずしも益ありというの理なし。例えば政法治道のごとき、これ を西洋諸国に施してその利あるも、これをわが国に用いてかえって害あるものあり。これ他なし、西洋には西洋 人固有の性質、気風あり、日本には日本人固有の性質、気風あればなり。宗教またしかり、西洋の風俗人情に適 するもの必ずしも日本の風俗人情に適するにあらず。故にヤソ教を日本に入るるも、その教の西洋に生ずるとこ ろの結果と同一の利益を生ずべきは、余が信ずることあたわざるところなり。 人あるいはヤソ教は大いにその力を政治社会に与うるありて、建国利民に益あるも、仏教はしからずというも のあれども、これ仏教の性質もとよりしかるにあらずして、他に考うべき原因あるによる。今その原因の、王たる ものを挙ぐれば、第一に、仏教はその伝来の際、世人の俗事に偏するの弊あるを見て、これを矯正せんとするの 事情あるにより。第二に、そのシナに入るに当たりて、政治道徳の全権は儒教の占有するところとなり、他教の その間に入るべき余地なきをもって、仏教中その政治道徳に属する部分はこれを儒教に譲り、その世間に関せざ る部分のみひとり発達せしにより。第三に、東洋諸邦は国際の関係はなはだ少なきをもって、政略上宗教を保護 して一国の独立を維持するの必要なかりしによる。その他、種々の事情によりて、仏教は政治社会に関せざるに 至るなり。ヤソ教はこれに反し、その伝来の際、政治社会に関せざるをえざる事情ありしをもって、歴史上建国 利民を助けたるの例あるをみる。しかれども、その教のまた大いに国家の進歩を妨げたることあるは、欧州の諸 史に考えて明らかなり。別して人の精神を圧抑して学術の進路を遮塞したることは、またみな人の知るところな り。しかしてその教を奉ずるの国鰻々として文明に進みたるは、ヤソ教の直接に与うるところの影響にあらずし 345
て、全く他の種々の事情ありしによる。これまた欧史に明らかなるものの、みな許すところなり。これによりて これをみれば、ヤソ教の政治社会に実益を与えたるは、ヤソ教の性質必ずしもしかるにあらずして、当時の事情 しからざるをえざる勢いあるにより、仏教の政治社会に関せざるに至りしは、仏教の性質真にしかるにあらずし て、またその伝来の際の事情によるものなり。故にもし今日仏教を改良して世間に活用するに至らば、その社会 の競争に加わりて世間に実益を与うるは、一歩もヤソ教に譲らざるを知る。あるいはかえってその右に出つるも 計るべからず。 しかるにまた論者ありて、西洋人は仏教を奉ずる国を野蛮国とし、これを信ずる人民を下等人種とするをもっ て、万国交際上西洋人と同等の交誼を開かんと欲せば、ヤソ教を奉ぜざるべからずというといえども、これただ 外見上皮相の評を下すに過ぎざるなり。けだし西洋人のヤソ教を尊信して仏教を軽賎するは、第一に仏教の性質 を知らざるにより、第二に自国の奉ずるところの宗教と異なるにより、第三に自国の精神を他邦に入れんとする による。果たしてしからば、わが国民たるもの今後ますます仏教を拡張せざるべからず。かつわが国今日の勢い 百事みな西洋を学ばざるをえずというも、言語、風俗、人情、教育、宗教、衣食、器用、その他大小百般の事物 ことごとくかれを学び、かれにならい、かれがいうところに従い、かれが要するところに応ずるにおいては、さ きにすでに述ぶるごとく、これわが国をかれにするなり、わが人民をかれにするなり。果たしてここに至らば、 わが日本の名いずれのところにか立たん、わが日本人たるの精神はいずれの地にか存せん。別して仏教を廃しヤ ソ教を入るるをもって、交際の便路を開き、国憲の拡張を助け、条約改正の目的を達する方便となさんとするが ごときに至りては、余が最も解することあたわざるところなり。国憲拡張、条約改正は今日今時の急務にして、 346
仏教活論序論 わが国民たるもの百方力を尽くさざるをえずといえども、その目的を達するに必ずしもヤソ教を奉ずるを要すと いうの理なく、またこれを奉ずれば必ずしもその目的を達すべしというの理なし。そもそも西洋人をしてわが国 を文明国と信じ、わが人民を開明人と思い、同等の交際を開かしむるは、ただみだりに西洋人のなすところを学 び、西洋人の用うるものを用い、事々物々、風俗宗教に至るまでみなことごとくかれに模倣するにあるか。余を もってこれをみれば、かくのごとく事々物々みなかれに模倣するに至らば、かれかえってわれを軽賎しわれを属 国視すれども、同等視すること万あるべからず。また外人をしてこれを評せしむれば、その政略はただ西洋人に こびうるものというより外なし。果たしてしからば、西洋人はわが無気無力にして、独立の精神なきを笑わんの み。試みに見よ、わが国今日西洋人と同等の交誼を通ずることあたわざるは、宗教、言語の異同によるにあらず して、その国力全体のかれに及ばざるによることは、今更余が弁明するを待たざるところにして、内には財力充 満し外には兵力強大なるに至らば、その国内の人民はいかなる宗教を用うるも、西洋人と同等の交誼を通じ、条 約改正もたちどころに履行するに至るべきは必然の勢いなり。もしこれに反して、ただ一にかれのなすところを 学び、かれの用うるものを用い、わが国を変じてヤソ教国とするも、ひとりわが無気無力を西洋人に示すに過ぎ ずして、かれのわれを軽侮する、かえって昔日に数倍するに至らん。故に余はかくのごとき政略を評して、拙策 の極といわんのみ。 以上論ずるところによりてこれをみるに、仏教はその説くところ真理に合するのみならず、世の開明を進め国 家の独立を助くるの実益あり。語を換えてこれをいえば、仏教は論理上ヤソ教に超過するのみならず、実際上ま た決して一歩を譲らざるなり。しかしてその今日の勢い、わが教のかれに及ばざるところあるをみるは、仏教の 347
真にしかるにあらずして、世間の弊習ひとりしかるのみ。故に今仏教を日本に再興せんと欲せば、まずその弊習 を改良せざるべからず。これを改良するは、全国の人民の国家に尽くすべき義務にして、別して学者の自ら任ぜ ざるをえざるものなり。故に余は全国の人民に代わり、学者の先鞭をとりて、天に誓うてかの教を排し、地にち かうてこの教を助けんと欲するなり。 余かくのごとくヤソ教を排するも、ヤソその人をにくむにあらず。余かくのごとく仏教を助くるも、釈迦その 人を愛するにあらず。ただ余が愛するところのものは真理にして、余が排するところのものは非真理なり。今余 がヤソ教を排するは、その真理とするところ純全の真理にあらざればなり。しかれどもヤソ教も一種の宗教にし て、人に安心立命の道を説き、勧善懲悪の教を立つるをもって、みだりにこれを排しこれをにくむべき理なし。 けだしその目的に至りては、余が期するところと同一にして、共に道徳の大本を説き迷悟の大道を教えて人をし て至善至楽の地に住せしめんと欲す。これによりてこれをみれば、ヤソ教すなわち余が唱うるところの宗教にし て、その教を奉信するものすなわち余が同胞兄弟なり。故に余は今後真理の向背に関してなにほどヤソ教者と争 うことあるも、社会の交誼に至りては吉凶相弔賀し、死生相送迎し、懇切丁寧常に相接し、決して同朋兄弟の情 義を破らざらんことを期し、一朝大事あるに際しては共に協心裁力して、まさに大いに国家のために尽くすとこ ろあらんことを望むなり。故に余がヤソ教を排するは、ただにヤソその人を排せざるのみならず、ヤソ教の目的 とヤソ教者の精神とを排するにあらず。ただ余が排するところは、その教に立つるところの説にあるのみ。故に 余はヤソ教を固信する者に接すれば殊更に友情を尽くしてこれに交わり、ヤソ教の会堂に入れば殊更に謹慎して その説くところを聴き、未だかつてこれを魔法視せず、未だかつてこれを仇敵視せず。今後といえどもまたちか 348
仏教活論序論 うて交際上の友誼を全うし、あくまで同胞兄弟の名義に背かざらんことを祈る。余平常﹃バイブル﹄経を机右に 置き、ときどきこれを習読するに、またかつて拝一拝して巻辞せざるはなし。けだし人の愛重するところ、余あ にひとりこれを軽賎するの理あらんや。かつヤソ教はたとえその唱うところ真理にあらざるも、すこしもその経 文に罪あるの理なく、その教祖ヤソといえども当時世間の学術未だ開けざるをもって、その説真理に合せざると ころあるのみにて、別にその人に罪あるにあらず。請う、見よ、ヤソは生まれて三十年間は東西奔走して親しく 四方の人情風俗を観察し、出でてその実究するところを人に伝え、説法誘導すること未だ三年に満たずして、一 朝死刑に処せられ十字架上に一命を終うるに至れり。だれかこれを聞きて感涙を催さざるものあらんや。ああ、 数十年の苦行、一朝の絶命、自らこれをいとわずして、甘んじてその地につきたるは、実にヤソのヤソたるゆえ んにして、一死もって法のために尽くすものなり。故に余はヤソを評して一世の英雄豪傑なりと呼ばんとす。古 来世に豪傑をもって知らるるもの幾人あるを知らずといえども、宗教界にありては余はヤソ、釈迦、マホメット の三祖をもって三大傑と称するなり。しかして歳月最も短く説法日なお浅くして、その教の大いに宣布するに至 りしは、ヤソをもって第一とす。ああ、これを英雄と呼ばずしてまたなんとかいわんや。ヤソすでに古代の英雄 豪傑なれば、これに対して敬礼を尽くすは、もとより後進の先輩に対して尽くすべき義務なり。別してその衆人 を化益せんがため一死を顧みざるの赤心に至りては、余輩欽慕に堪えざるところなり。今余も微力といえども、 一死もって護国愛理に尽くさんと欲するものなり。ああ、ヤソは余が同志の兄弟なり。その年の相へだたる二千 年を隔つといえども、その精神の向かうところに至りては符節を合するがごとし。ああ、ヤソは余が赤心の朋友 なり。もしヤソをして余が精神のあるところを知らしめば、かれ必ず余を評して千歳の朋友なり兄弟なりという 349
べし。故に余はあくまでヤソその人を敬礼せんと欲す。ヤソもまた必ず余を親愛すべしと信ずるなり。 50 余かくのごとく論じきたるも、あえて自らヤソ教を信ずるにあらず。かつヤソ教は真正の真理なりと許すにあ 3 らず。別してヤソ教者のいうがごとく、ヤソは天神の子にしてヤソその人は神なりと断定し、ヤソ教は世界不二、 万世不変の宗教にして、その外に真理なしと公言するに至りては、余が百方信ぜんと欲するも信ずることあたわ ざるところなり。その他、創世、洪水、昇天等の説に至りては妄説中の妄説にして、これを聞くすらなお両耳に 恥ずるところなり。故に余は社会の一人となりて交誼を通ずるにおいては、務めてヤソを敬礼しその徒を親愛す るも、真理相争うの一点に至りては、あくまでその非真理を排斥し、その妄誕を論破して一毛の余塵なきに至り てやまんとす。しかれども、またあえてその説くところことごとくこれを排斥するにあらず。そのうち真理とし て許すべきものはこれを存し、非真理にしてとるべからざるものはこれをすてて、公明正大の裁判をヤソ教の上 に下さんと欲す。しかしてまた余が仏教を主唱するはその世間に伝わりて、今日に存するものことごとく純全の 真理なりというにあらず。その真理にあらざるものはこれを非真理とし、その真理なるものはこれを真理として、 また無偏無党の裁判を仏教の上に下さんと欲す。これ余が真理に尽くすの義務なりと深く信ずるなり。 余すでにヤソ教の非真理なるを知り、なおこれを真理として許すときは自ら欺きまた人を欺くのみならず、も しこの教をわが国に行われしむるに至らば、人知の発達を害し開明の進歩を防ぐるの恐れなきにあらず。すでに 今日にありても、ヤソ教の害毒を西洋社会に与うるところをみるに、実におそるべきものあり。今その一例を挙 ぐるに、世の婦女子は喜怒愛悪の情感に長ずるも、是非分別の知力に乏しきを常とす。故にこれを誘入して非真 理の宗教海中に沈溺せしむるは、はなはだやすしとするところなり。しかるにヤソ教者はまず婦女子を誘引して
仏教活論序論 その法に入らしむるをもって、西洋の婦女子は貴賎上下を論ぜず、大抵みなヤソ教に沈溺するものなり。これを もって世間の学者才子にして、たとえ自らヤソ教を信ぜざるもその配偶を求めんと欲せば、まず陽に宗教を信ぜ ざるべからず。もし宗教を信ぜざれば、男子たるもの婦女子に向かって交婚を求むることあたわざるの勢いあり。 かつ婦女子すでにヤソ教に固着すれば、その生育するところの小児は知力の未だ発達せざるにあたりて、早くす でにこれにヤソ教の思想を与え、幼時の教育をして終生の習慣を養成せしむ。その長じて世間に出つるに及び、 ヤソ教すでに上下↓般の風俗を形成せるをもって、これを奉ぜざれば共にその社会に立つことあたわざるの勢い あり。これをもって、人をしてヤソ教の外に純全の真理を求むるの見識を生ぜざらしむ。けだしヤソ教のかくの ごとく西洋社会に盛んなりしは、中古数百年間百般の学術地を払うに当たり、その教ひとり社会に勢力をほしい ままにするに至りたるによる。他語にてこれをいえば、理学の思想にさきだちて非真理のヤソ教人心に入りたる による。これをもってヤソ教は今日なお欧州社会に行わるるも、大いに人知の発達を害し開明の進歩を防ぐるや 疑いをいれず。けだし欧州今日の文明はヤソ教の直接に与うるところの影響にあらずして、その間接に与うると ころの影響なり。語を換えてこれをいえば、数百年来ヤソ教の人知を圧迫したる反動によりて生ずるものなり。 故にヤソ教はその性質決して社会の開明を助くるものにあらざること明らかなり。これ余があくまで国家のため にこの非真理の宗教を排駁せんことを祈るゆえんなり。 退きて考うるに、欧州今日の宗教はすでにその今日の事情に適せざるところ多しといえども、その教の依然と して社会に勢力を有するは、一はヤソ教者の百方力を尽くし、これをして当時の事情に適合せしめんとするによ 皿 り、一は千百年来習慣の余力の存するによるのみ。かつ今日にありても欧州過半の人民は無知不学にして、いか
なる真理新見のヤソ教の外に存するも更に知らざる者多し。これによりてこれをみるに、ヤソ教を一変して宗教 の改進を計るは到底西洋の地にありて望むべからず。これを改良するもこれを一変するも、地球上日本の外その 地なきを信ず。故にわが国の学者才子は東洋固有の宗教を拡張して、欧州の宗教を一変するをもって目的とせざ るべからず。もしこれに反して、わが国の学者才子はみなヤソ教を奉信して、仏教の拡張はひとり無学無識、無 資無力の僧侶にまかするに至らば、わが国西洋と同一にヤソ教国となるの日けだし遠きにあらざるべし。果たし てかくのごときに至らば地球広しといえども、いずれの地にありて宗教の真理を開発せんや。日本人多しといえ ども、誰人ありてか、わが国の独立を維持せんや。いやしくも真理を愛し国家を思うもの、あに慨嘆せざるべけ んや。 顧みてわが僧侶の内情を察するに、その過半は無学無識にして時勢を知らず。無資無産にして生計に苦しみ、 その力仏教を改良して開明の宗教となすあたわざるは必然の勢いなり。わが国大政維新以来、百般の学問工芸み な一時に進歩し、国家富強の基礎したがって定まり、政法治道また大いに興る。ことにさる十四年国会開設の詔 ひとたび発してより、上下競うて泰西の学を講じ政法の理を究めて、立憲の政度ようやく全うし、しかして僧侶 社会は明治の維新にあうも、依然旧を守り、国会開設の期にせまるも頑眠未ださめず。進みて功を国家に立つる ものなく、退きて力を護法に尽くすものなし。しかしてその教法は孤城落日の勢いをなし、存亡旦夕にせまるも 更に知らざる者のごとし。ああ、明治二十三年も近きにあり、今後世道人心の変革また昔日の比にあらざるべし。 仏者今よりこれを備えざるは、いずれの日にか仏教の再興を期せんや。請う、見よ、今日は仏界落日のときなら ずや。しかして一人の進みて回天の功を立つるものなし。今時は法林歳寒のときならずや。しかして一人の退き 352
仏教活論序論 て後凋の節を抱くものなし。実に今日の僧侶は無資力、無精神、無学識、無道徳の極に達したりと称して可なり。 およそ人たるもの一志もって護法に立つるなく、一事もって愛国に尽くすなくんば、なんの面目ありてよく社会 に対し、よく世間に接せんや。これ実に国家の罪人にしてまた教法の罪人なり。かくのごとき僧侶をもって仏教 の改良を実行せんとするは、山を挟んで海を超ゆるよりも難きを知る。もし果たして仏教の改良をかくのごとき 輩に委するに至らば、世間無比、万世不二の真理をして、空しく地を払わしむるに至らん。いやしくも真理を愛 するもの深く慨せざるべけんや。故に余は方今の学者才子と共にはかりて、あくまでこの教を日本に維持しこの 真理を将来に伝え、後の真理を求むるもののために、その針路を学海中に開かんことを祈念し、あわせて東洋固 有の文明、日本従来の思想を護持拡張して、将来永くわが国をして西洋に抗敵対立せしめんことを切望してやま ざるなり。 しかるにわが国の青年の才子にして、将来に望みをたくすべきもの、早くすでにヤソ教に入り、その教のため に一身を犠牲にせんとするものありという。余これを聞きて、嘆また嘆を加え覚えず流涕潜然たり。ああ、世間 識見未だ富まず、思想未だ定まらざる者ひとたびヤソ教に入り、再三これを重ぬれば、習慣の力ついにその門に 迷い、活眼を開きてその外に立つことあたわざるに至るは、自然の勢いにして真理を開発すべき力を有する才子 をして、空しく非真理の犠牲とならしむ。これ余が感慨に堪えざるところなり。かつこれらの人にしてヤソ教の 奴隷となりて、その使役を甘んずるがごときは、ただに一身の栄誉にあらざるのみならず、また一国の栄誉にあ らざるなり。その人もし果たして真に国家の有力者ならば、なんぞヤソ教の外に立つの卓識を有せざるや。その 人いやしくも国家を愛するの志あらば、なんぞ自国従来の宗教を拡張するの精神を発せざるや。もしその人いや 353
しくも僧侶の無学無識にして共に仏教の再興を図るに足らざるを知らば、なんぞ僧侶の外に仏教改良の策を講ぜ ざるや。これらの人にして仏教の弊習と僧侶の無学とを厭苦したるは、一段の活識を示すに足るといえども、西 洋の糟粕を甘んじ、ヤソ教の奴隷を快しとして一見一識のその上に出でて、仏教を改良して世界の宗教を一変す るの点に及ばざるはかえって識者の笑を免れず。たとえ世人はこの卑屈の精神をもって満足するも、余は死すと もこれをもって満足することあたわず。ただ余は確固不抜整而後己︹確固として抜発して後やまざらん︺の精神 をもって西洋人の上に出でて、宗教の真理を学海に開発し、東洋人のさきに立ちて国家の独立を世界に公布せん ことを熱望するものなり。 以上挙ぐるところの道理によりて、余は断然仏教を改良して開明の宗教となさんことを期するなり。これ一は 学者の真理を愛求するの目的に合し、一は社会の一個人となりて国家に尽くすの義務を全うするものと信ずるに よる。それ余が自ら務むるところ、政治を談じて国憲を拡張するにあらず、経済を講じて国本を養成するにあら ずといえども、またあえて素餐遊食、社会の盛衰を顧みざるものにあらざるなり。退きて考うるに、国を興し家 をさかんにするの法は、ひとり政治経済にとどまるにあらず。社会の改進をはかり国家の秩序を保つの道は、ひ とり有形の学術に限るにあらず。こと間接にわたり力外面にあらわれずして、かえって重大の影響を有するもの あり。故にただその外面の一斑をみて、内実のいかんを評すべからず。今宗教はその利害間接にわたり外面にあ らわれずといえども、人の精神に浸入し思想に感染するをもって、その弊習を改良するの国家に稗益を与うるは、 もとより有形上の学術に一歩だも譲らざるは明らかなり。しかして仏教現今の事情一日も改良を加えずして不問 に付すべからず。しかるにわが国の学者傍観座視して、更にその改良のいかんを問わざるは、果たしてなんの心 354
仏教活論序論 そや。余思うてここに至れば、未だかつて慨然として嘆じ、憤然として起こらざるはあらず。これ余がわが国の 仏教を改良して国恩の万一に報ぜんと欲するゆえんなり。 余この改良に関してひそかに自ら経画するところありて、一昨明治十八年は広く内外東西の諸書を捜索し、毎 夜深更に達するにあらざれば、寝褥に就かず。褥に就く後といえども、種々の想像心内に浮かび、終夕夢裏に彷 復して堅眠を結ぶあたわず。故をもって、日夜ほとんど全く精神を安んずることなし。かくのごときものおよそ 数カ月に及び、心身共に疲労を感ずるに至るも、あえてこれを意に介せず。刻苦勉励常のごとくなりしが、つい に昨春より難治症にかかり、病床にありて医療を加うることここにすでに一年をこゆるに至る。その間、居常快々 として飲食味をなさず、声色楽を生ぜざるも、余なお病をもって心を労せず、ただ仏教改良の策未だ立たざるを 憂うるのみ。しかしてまたおもえらく、余がこの病を得たるは仏教改良に苦心したるによる。もし人をして、こ の病は果たして仏教改良のために得るところの結果なることを知らしめば、たとえ余が身、今死するも、余が真 理に尽くすの精神は日月と共に万世に存すべし。思うてここに至れば、いささか余が心を慰するに足る。しかれ ども、その任ずるところ重く、その期するところ遠し、今中道にして廃絶するに至りては、遺憾自らやむあたわ ず。余もとより知る、輿論にさきだちて一大宗教を改良せんとするは、その顛難実にいうべからざるものあるを。 故に余は今後いかなる鄭難の道に当たることあるも、あえて避けざるところなりといえども、すでに一大事を経 画して未だその成否いかんをみるに及ばずして、この病患にかかる。余が心あに]日も安んずることあらんや。 これをもって治しやすき病症もたやすく治せず、功験多き薬石も功験をみず、空しく病床に臥して戸外をうかが 55 3 わざること半年の久しきに及べり。↓時大いに身体の憔埣をきたしたるをもって、自ら全治の期し難きを知るも、
護法愛国の一心に至りては、ただますますさかんなるを覚うるのみ。これ余が病苦を忘れて半年の日子を経過せ 56