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ジェームズ・ワトソン著<基調講演>仮想的な親族、実体的な所有地、ディアスポラの形成 : 文宗族の追跡調査(The Journal of Asian Studies 63(4): 893-910.) 利用統計を見る

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シェア "ジェームズ・ワトソン著<基調講演>仮想的な親族、実体的な所有地、ディアスポラの形成 : 文宗族の追跡調査(The Journal of Asian Studies 63(4): 893-910.) 利用統計を見る"

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ジェームズ・ワトソン著<基調講演>仮想的な親族、

実体的な所有地、ディアスポラの形成 : 文宗族の

追跡調査(The Journal of Asian Studies 63(4):

893-910.)

著者名(日)

ジェームス ワトソン, 秦 兆雄[訳]

雑誌名

白山人類学

10

ページ

129-152

発行年

2007-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002373/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止

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      基調講演

仮想的な親族,実体的な所有地,ディアスポラの形成

       一文宗族の追跡調査

ジェームズ・ワトソン*(秦兆雄訳)

翻訳にあたって一その要旨と意義を中心に

 第二次世界大戦以後,冷戦の状況下で中国本土が欧米人類学者に対して閉ざされていたと いう,一っの歴史的偶然により,多くの欧米人類学者達は香港新界の主要な宗族村落でフィー ルド調査を行なっていた。現在の米国における中国漢人社会研究の中で最も中心的かつ活動的 な文化人類学者であると思われるジェームズ・ワトソンもそのうちの一人であり,博士論文を 執筆するために,1969年から1970年まで香港新界新田村の文氏宗族に関するフィールド調査 を行ない,1975年にその成果を『移民と宗族一香港とロンドンの文氏一族』(邦訳1995)と して出版した。彼はそれ以来,35年にわたり,新田村内部の文氏宗族組織や,新田村から英 国やカナダなどへの出稼ぎ移民の生活状況について追跡調査を行なってきた。本稿はそのよ うな追跡調査に基づく最新の研究成果として,2004年11月に専門雑誌The Joumα1 ofAsian Stndtes 63巻49・ S93−910頁に掲載された英語論文Presidential Address:Virtual Kinship, Real Estate, and Diaspora Formation−The Man Lineage ReVisitedの全訳である。  訳者は著者から本稿を直接頂き,多くの点でその内容に魅了された。ここではその中でも以 下の二点を特に強調したい。まず,長い時間と広い空間の幅をとって,一つの宗族にっいて村 落社会内のみならず海外への移住過程や移住先での適応動態に眼を向けており,しかも母村と 移住先との多方面にわたる紐帯と相互関係,特に1997年7月1日香港返還を契機に,1949年 中華人民共和国成立により宗族関係が一度切断された中国本士側の文氏との儀礼的,社会的, 経済的,政治的な再構築などにおいて強く機能していることについて具体的な資料を提示した ことである。もう一つは,著者がこのような資料提示により,漢人宗族が国境を越えた移民社 会の人々にとって極めて重要な文化的資源かつ組織形成の基盤であることを立証し,親族研究 がグローバル化しつっある世界において依然として重要であると論理的に総括した点にある。  本文のキーワードの和訳に際しては,以下の点に注意を払った。Diasporaという言葉は離 散現象や移民及び移民の居住地など,色々な意味で使われているので,内容と状況に応じて 「ディアスポラ」や「移民」及び「移民社会」などに訳し分けた。また,clanとhneageはい

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ずれも中国語の「宗族」に相当するが,人類学上の使い分けではclanはある特定の祖先まで の系譜関係を明確に辿ることができない父系親族集団を意味するので,「クラン」または「宗 親」と訳した。他方,lineageはある特定の祖先までの系譜関係を明確に辿ることができる父 系親族集団を指す用語なので,「リニージ」或いは「宗族」と訳した。  なお,翻訳の過程において,多くの方々,特に編集者植野弘子先生から示唆に富むご教示を 頂いた。心から感謝する次第である。        秦兆雄 ******  歴史学者とは異なりJ人類学者は,自分の研究に関して,時間の流れに線を引いたり,その 最終日を明言するという贅沢はできない。民族誌には決して終わりはない。最初のフィールド ワーカーが生を終えたからといって研究が終わることはなく,(通常,過去の理論的枠組みを 覆そうとする熱心な若手研究者によって行なわれる)再検討が不可避である。本稿は現代民族 誌の産物であり,始まりはあっても明確な終わりを持たないプロジェクトについて記述してい る。1990年代のある時点においては,研究には寿命があったが,もし誰かがそれを管理して いるとしても,その管理者は決して人類学者ではない。従って,多くの点において,プロジェ        アウト・オブ・       コントロ−ルクトはデジタル革命と似ている。即ち,中心をもたず,予測不可能であり,“制御できない”1)。  本講演は国際的な移住の長期にわたる諸結果とディアスポラ形成の歴史的ダイナミックスに 着目している。この研究は,35年間のフィールド調査の間に,一つの固く結束した親族集団 を追跡するという意味で長期的なものである2)。この研究は,その始まりから,人類学者が複 数地域民族誌と称しているものである。この用語は,当時はなかったけれども(Marcus 1995)。 プロジェクトは1969年に,2,000人の広東人共同体に焦点を当てた,(その時代には)“典型 的な”村落研究として始まった。  新田として知られるその村は,1960年代には冷戦時代の前線であり,英国領香港と毛沢東 の文化大革命のただ中にあった中国との境界から南方400ヤードに位置している。新田は文 宗族の故郷である。彼らは1960年代まで,香港新界の政治を牛耳っていた5つの主要な同姓 集団の1つである[Baker 1966]。筆者はこの村で1年半調査した後,ロンドンへ行き,新田 *ジェームズL.ワトソン(James L. Watson)はハーバード大学フェアーバンクセンターと人類学部の  教授である。本稿は,2004年5月5日にサンディエゴで開催されたアジア研究学会年次会議で行われ  た基調講演に加筆したものである。 1)“葡㎞ぞ’ぎぷτ実”という表現はケヴィン・ケリー(Kevin Keny)の著書Out of Control(訳注1)から  借用した。 2)長期間の実地調査の計画に関してはケンパー(Kemper)とロイス(Royce)(2002)参照。

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から移住してきた料理店労働者の研究を継続した[J. Watson 1974;1975b:103−31]。最初の調 査以後,筆者は新田の人々の足跡を世界中で追跡してきた。1970年代にはオランダ,ベルギーJ ドイツ,そしてスカンジナビアへ,1980年代にはカナダへ,そして1990年代後半と2000年 代前半には,香港の中国返還後の政治活動に積極的参加を願う,愛国心のある企業家達の“凱 旋”帰国に加わって,香港に戻った3)。世界を往来しているこのタイプの民族誌によって提供 される問題は多様である。ディアスポラたちは,動く研究対象である。彼らが今日ある姿は, 明日には変わっている。どうすれば,常に,そして不可避的に変容の過程の中にある集団の適 切な民族誌を書けるのだろうか。 背景:文宗族  新田からの移民達は1950年代後期に僅かな荷物を持って移住し始めた。彼らはヨーロッパ で非常に厳しい境遇の下に,1970年代半ばまでに中華料理店チェーンを苦労しながら設立し た[J.Watson 1977]。今日,これら初代先駆者の孫の多くは裕福な職業人である。彼らの中に は少なくとも20人の億万長者(米ドルで)がいる。現世代の多くの人々は,簡単な広東語を 話し,標準中国語を少し読める程度である。そして,英語やオランダ語,ドイツ語を話すこと を,より快適であると感じている。彼らは祖父母が大いに関心を持った広東土着の田舎生活や 儀礼について殆ど何も知らない。  1969年から1970年に,筆者が初めて新田とロンドンにおける文氏共同体に関するフィ ールド調査はEmigrαtion and the Chinese Lineαge:Thθ Mαns in Hong Kong and London (1975b 訳注2)という著書を生み出した。今日,この著書は三代目,四代目の文氏移民に 「彼らの」過去の記録として読まれている。現在,彼らの多くは筆者とEメールで交信してい る。ポストモダニズムの名付け親として知られているフレドリック・ジェイムスン[Jameson 1991]は,民族誌がサイバースペース(コンピューターネットワークが形成する情報空間), 即ち時間と空間が崩壊した絶対的な領域に入ったと聞いて喜ぶかもしれない。  新田に由来する人々は,十四世紀に村の近くに定住した始祖である文世歌の子孫である4)。 3)新界に対する99年間に渡る英国植民地支配は1997年6月30日の真夜中に終了した。その時,(世界  中のテレビ視聴者に確認されたように)香港の政治的支配権は英国から中国へと移譲された。香港は  特別行政区域となり,(多く議論されるところではあるが)北京の中央政権からある程度の独立を保っ  た。ヨーロッパとカナダからの多数の文氏構成員達が新界で開かれた返還祝賀行事に参加するために  香港に戻った。海外文氏の寄付によって支えられた新田村民委員会は,「回帰(本七への返還)」祭典  に大いに出資した。 4)宗族の全構成員が生まれながら集団の一員であるわけではない。(族外から幼児時に養取された)男性  の養子達(訳注3)は1960年代に宗族成員の1%未満である。他の全ての構成員は生まれながら族譜  に記載され,始祖まで直接辿ることができる。この二つの族員資格のカテゴリーは族譜によって正確  に記録されている。養子は宗族共有地に対して完全な諸権利をもっている[J. Watson 1975a:302]。

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従って,彼らは皆,文姓(広東語ではMon,北京語ではWen)ある。今日,文世歌の子孫だ と主張する人はおよそ4,000人で,20力国以上に住んでいる。この同質集団の男性達は,土 地を共有し,厳密に定義された父系リニージを構成している。宗族成員として認められた正確 な数は,族長と,祖先の土地を管理している長老達だけが知っている5)。1960年代と1970年 代には,族員の資格は,新田の祠堂で行われる年次の提灯点灯儀礼「開灯」への参加と,二っ の文書(文宗族の族譜と「新丁書」とよばれる「新しい男性名簿」)への幼名の登録によって, 認められた。1990年代初期になると,人生の大半を移住先で過ごした両親の下で生まれた子 孫の数が増えたため,族員の資格を定めることが次第に難しくなった。この問題は筆者が調査 を続けてきた研究の中で急速に変化している部分である。  1960年代に新田居住者は自分達を地域のエリートと考え,(12世紀の学者朱烹によって枠 組みがほぼ定められた原則に基づいた)新儒教の「正しい」行動の模範として自覚するものに 従うことに大いに誇りを持っていた6)。人類学の専門用語において,文氏はエヴァンズ=プリ チャードーフリードマンの古典的なリニージ・モデル7)を構成している。これは明確で疑いの 余地がない族員資格に関する諸規定や,優れた祖先を称える儀礼,個々の(男性)祖先達の位 牌を供えるために精緻な祠堂建設を意味するものである。族員資格に関する厳密な諸規定は必 要である。なぜなら,文宗族は新界における他の宗族と同様に,土地の集団的な所有権によっ て与えられる経済的利益を享受しているからだ。新田の場合,それは莫大な発展の可能性を秘 めた古い水田である(そのため,認められた族員の正確な数は秘密なのである)。土地はしば しば人々の意思以上に,彼らを結束させる接着剤であり続けている,ということをここで確認 しておこう。 本稿の根底にある意味の1つは,人類学者達が無謀にも親族研究を放棄し,それを過去の時 5)これらの所有地は,土地を寄贈した人物(または直系子孫によって彼に贈られた土地をもつ人物)に  敬意を表して名前を付けられた。それぞれの土地は一人の管理人(または管理人チーム)によって管  理されている。彼らはそれぞれの土地を貸し出して,その収益を族譜で確認できる一族の子孫達の間  で分配する。新田には1905年には126箇所の祖先所有地があった。最大の土地を含めて,多くの土地  は今も活用されている。数人の文氏は,比較的に人員が少ないがより多くの財産分与を受けた宗族の  分派(つまり,いくつかの広い土地を所有していた分派)に属する成員資格をもつお陰で裕福であっ  た[J.Watson 1975b:31−36]。 6)一握りの最も教養のある長老達(筆者の家主であり後援者である文卓春を含む)だけが実際に朱烹に  関する話を聞いたことがあるに過ぎない,文氏は集団として結婚や,葬式,祖先祭祀の諸儀礼などの  新儒教的なやり方を忠実に実践していた[Ebrey 1991;J. Watson 1994]。 7)モーリス・フリードマン[Freedman 1958コは,しばしば「リニージ・パラダイム」,即ち漢人社会に  おいて動機を与える力として父系制に最も重きを置くモデルを確立するために,エヴァンズ=プリチ  ャード[E.E. Evans−Pritchard 1940]や他のアフリカ研究者の成果を大いに借用していた。このアプロ  ーチの要約に関してはジェームズ・ワトソン[J.Watson 1982]を参照。リニージ・パラダイムはマイ  ロン・コーエン[Cohen 1990],アレン・チェン[Chun 1996コ,スティーヴン・サングレン[Sangren  1984],ルビー・ワトソン[R.Watson 1982;1985]を含む多くの人類学者によって厳しく批判された。

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代についての不可解で時代遅れの探求(理論かぶれの学者達による共通の非難である)である として退けているということである。筆者が立証したいのは,漢人宗族のような前近代的と思 われるような親族形態さえもポストモダンの世界に大いに生きているということである。親族 集団は今日最も洗練された,国境を越えたディアスポラの人々にとって,組織の場を提供して いる[Alarcon 2000;Ho 2004;Levitt 2001]。 一時滞在期(The Sojouner Phase)  物語は冷戦のピークと文氏の海外移住の初期段階に始まる。宗族の構成員達は一方において 急進的毛沢東信奉者の社会主義によって,他方においては,英国の植民地十1義と非情な自由放 任資本主義の不安定な結合によって特徴づけられた危険な世界を航海しなければならなかった [England and Rear 1975;Wesley−Smith 1980]。  約600年近くの間,文宗族は深llll川という,1898年に英中の境界線となった,濁った小川 に沿った塩気のある水田で,赤米という特殊な作物を栽培することにより生き延びてきた。こ の国境は中国共産主義者の勝利に伴い,1949年に突然閉鎖された[vogel 1969:293−296]。理 由はまだ完全に明らかではないが,人民解放軍は香港に進駐せず,文氏は毛沢東信奉者社会主 義の精神的衝撃を免れた。  それにもかかわらず,1950年代初期に農業システムが崩れ去り,新田の農民は深刻な危機 に直面した。即ち,彼らの特殊な米の市場は対岸の共産主義側に位置していたからである。新 鮮な水のエコシステムに基づいていた新界の他の宗族とは異なり,文宗族は(塩分のある士地 では育たない)野菜や白米に転換することができなかった8)。彼らには二つの選択肢があった。 即ち香港の急成長しつつある工場で低賃金産業労働者として働くか,英国に移住して低賃金の コック,ウエイトレスまたは下働きとして中華料理店で働くかである。1962年7月1日に発 効した植民地及びポスト植民地の移民禁止令(最初のコモンウェルス移民法)と時期を一にし て,新田の健康で働ける男性のうち85%から90%は1955年から1962年の間に英国へ渡った。 彼らは英国の工場,鋳造場,鉄道,バス,ホテル,料理店で仕事を得た新しい労働者の大きな 波の一部となった(例えばBallard and Ballard[1977])。  新田は中国南部,メキシコ,パンジャブの農村地帯で今日見られるタイプの典型的な移民共 8)ヒュー・べ一カー[Baker 1968],ジャック・ポッター[Potter 1968],ルビー・ワトソン[R, Watson  1985]による宗族研究参照。これら3つの宗族(訳注4)は二毛作,新鮮な良質の水による水田システ  ムに基づき,優れた種類の白米を生産していた(それに加えて,冬にはさつまいもと野菜等)。文氏は  何よりもまず彼ら自身の米を食べることができなかったので,(米は酒造りや家禽の飼料に使われた),  比較的厳しい制約の下に置かれ,生き残るためには完全に市場頼みであった。

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同体へと急速に変わった。送金経済が活発になり,妻や子供,老人達は村に残されることにな った[Chen 1939]。これは文氏ディアスポラの一時滞在期9)であった。当時筆者は新田に滞在 していた。男性の移民達は,もし運が良ければ,三年から五年ごとに新界に帰ることができた が,それからまた他の長期の仕事のために,ヨーロッパへと戻った。典型的な料理店労働者の 経歴は22年間であった。帰郷者は,現在広東省や福建省の農村地帯で見られる,工夫を凝ら した近代的な隠居用の家を建てた[Johnson and Woon 1997:39−41;㎞app 1996]。1960年代と 1970年代には,300戸以上の近代的な3階建ての家が新田に建てられた。多くはその後,何 年間にも亘って空き家のまま放置され,香港の亜熱帯気候によって急激に劣化しつつあった。 そのうちの何軒かは誰かが住むためには改装するか,完全に再建しなければならなかった10)。  海外への移民達は,新田での豪華なオペラの上演のスポンサーとなり,また廟,祠堂,学校 を再建した。例えば,彼らは1970年に地元の天后廟の改装を祝う5日間の祝賀会にヨーロッ パから送金した。移民達はまた建築費用に5万米ドルという,その時代にしてはかなりの金 額を出している。文氏の年長者達は香港の最も人気のある(そして,最も高額な)広東オペラ 団を雇い,村人や,新界の他の地域から何百人という招待した友人や親戚をもてなした。移民 達は140卓(1卓に10人座る)分のご馳走に資金を提供し,天后という彼らの守護女神に礼 拝を捧げた。移民達は新しく築いた富を誇示するためにかつてないほど創造的な方法を見つけ た結果,新田の農村生活はこの期間,衰退するよりむしろ急速に栄えた[Mountz and Wright 1996:416−21]。文宗族は,新界のより「近代的」な,他の地域では急速に消えつっある儀礼 と村落活動を維持することで有名になった11)。  この一時滞在期において,文宗族の移民がまだ地元村落にしっかりと根ざしていたことは彼 9)「一時滞在者sojouner」のよい定義はR. H,リーが,アメリカへの中国人初期移民に関する彼女のすば   らしい研究の中で用いたものである。即ち「一時滞在者とは心理的方向が故国に向いている人である。   ・・彼らは人生の大半を経済的向上とより高い社会的地位を得るために費やすが,…彼の日的の十分な   享受と最終的な達成はその出身地にある」[Lee 1960: 69コ。 10)1980年代中期までに,多くの移民退職者が彼らの村にある自宅(たいてい集中管理されたエアコン   や他の近代的な便利な設備が付いていた)を,クリスマスや旧暦の正月の間だけ別荘として扱い始め   た。文世歌の子孫が移民先の居住地で引退することを決め,自分の7一供達の家族に加わるにつれて,   “我が家home”の意味が変化し始めた。 11)おそらく最も適切な例は年次「花炮会」(花火と爆竹の会)の儀礼に伴う参加自由の競技である。若   い男たちが小さな爆竹から打ち出される幸運の硬貨を取ろうとして互いに競い合う。地元の商人達が   その後,硬貨を買い取り,天后の女神に捧げるために店の祭壇に飾る。1960年代初期,英国香港警   察は新界の社会的秩序を乱すとしてその参加自由の競技を禁止した。長老達はこの禁止令を無視して   何年間もその儀式的な競技を行い続けた。1970年に筆者はこの花火と爆竹の賑わいの最後の場面を   目撃し,写真に収めた。即ち,行事に集まった40人の若い男性(そのうち,10人あまりはヨーロッ   パからの帰郷者)のうち,1人は足を骨折し,何人かは歯を失い,無傷で脱出できた者はいなかった   [J.Watson 1996;Liu 2003:381]。中国移民村落における儀礼の保持と再興の同様の例についてはクア   [Kuah:1999]を参照。

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らの行動から明らかである。彼らは“凱旋”を夢見て何十年間も物質的な満足を後回しにして, 外国で長い間辛い労働をしたが,その夢はいつも必ず失望で終わるのであった。この期間に 海外からの帰郷者の何人かは筆者の親友や友人となった。特に不安な気持ちを抱かせるものは 帰郷者達の故郷への思いであった。1969年9月,筆者が地元の茶館の前を通っていた時,誰 かが声をかけてきた。「おい,あんた!ここで何やってんだ?」。その声の主はニューヨークで 30年余りを過ごして帰国した元移民だと分かった。彼はそこで人が驚くほど本物のニューヨ ークアクセントを身にっけていた。彼は1930年代後半にオランダの貨物船に乗り込んで香港 を離れ,ニューヨークで船から脱走したのである。そして中華街やその周辺で様々な仕事をし た。彼は,数週間以上アメリカに何とか滞在できた地元出身の移民3人のうちの1人であっ た12)。  1960年から1970年にかけて週に1回,「ニューヨークっ子」と呼ばれているその人物と筆 者は地元の茶館で一緒にコーヒーを飲んだ(彼はいつもきまって,他の村人達に好まれている 濃い紅茶を見下していた)。彼は英語力を誇示することと,べ一コン・エッグの朝食やアメリ カの映画スター達,熱いシャワーなどの思い出話をすることを喜びとしていた。彼はまた新田 への凱旋の夢があったからこそ,アメリカにおける憂欝でストレスの多い年月を乗り越えて働 き続けられたと告白した。彼の香港での生活の実情は,長年の期待には沿わないものだった。 彼は結局,毎日地元の茶館において一人で食事をし,父親の遺したあばら家で一人暮らしをす ることになった。この「ニューヨークっ子」の痛ましい物語は,彼と同世代の最初期の移民達 の典型である13)。  しかし,この帰郷者には宗族内の対等者から区別される相違点があった。彼は流暢で極めて 白然な英語を話した。新田に帰ってきた時には,真のバイリンガルになっていた。初代の帰郷 者のうち何人かは,たどたどしい英語,オランダ語,ドイツ語を話したが,彼らの語彙は挨拶 12)この時代の新田移民の多くは最終的にロンドン,リバプール,アムステルダムに落ち着いた。米国に   おける移民制限令によって,香港の中国人が入国することは殆んど不可能となり,まして定住など思   いもよらぬ事となった。あの「ニューヨークっ子」は不法滞在者であったので,アメリカを出国すれ   ば,二度と戻れないと承知しており,全滞在期間中敢えてアメリカを離れようとしなかった。これと   は対照的に,第一,第二世代のヨーロッパへの文氏移民による断続的な新田への帰国訪問は,たいて   い結婚し,彼らの家族を拡大するためであった。あの「ニューヨークっ子は」一度も結婚せず(少な   くとも香港では),独身のまま一生を終えた。 13)これらの第一世代の帰郷者の多くは新田で困難で孤独な生活を送っていた。彼らの息子達はヨーロッ   パもしくはカナダに移住し,しばしば妻や子供を連れて行った(彼らの娘達は村の外へ嫁に行ってか   ら,もう長い時間が過ぎていた)。多くの帰郷者は独身であった。結婚していた帰郷者達は,留守中   に夫に頼らぬ独立した人生を築いてきた妻から疎外されてしまったことを知ったのである。1969年   から1970年にかけて,多くの帰郷者は新田の最も大きな祠堂で他の老人達を相手にお茶やブランデ   ーを一緒に飲んだり,友達付き合いをしたりして長い時間を過ごした。これと対照的に,第二世代の   移民はより高い経済的成功を享受し,普通は海外で拡大家族の中で老後を過ごした。

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や簡単な表現に限られていた。あの「ニューヨークっ子」は(1960年代後半に)村の中で広 東語以外の言葉を話せる唯一の人であった。それに続く何十年かの間に,より多くの移民達が, 躊躇することなく使える語学力を身に付けてヨーロッパとカナダから戻った。筆者は1978, 1988,1994,1997年に,新田で研究を続ける間,男女としばしば英語で話した。この拡大さ れた言語教養は,新田と新たな海外移住の地において生活を変容させる他の社会の変化を反映 している。 初期のディアスポラ  この物語の次の段階を,適切な呼称がないので,ディアスポラの初期と呼ぶことにしよう。 この時期,つまり1970年代から1980年代初期に,筆者は幸運にもロンドン大学東洋アフリ カ研究所(SOAS)で教鞭をとり,ヨーロッパにおける中国人共同体の発展状況を追跡調査す る機会を得た。この時期に,文宗族はヨーロッパ中に広がり,400店以上の料理店を開店また は経営することにより,英国,オランダ,ベルギー,ドイツ南部における中華料理店業を牛耳 っていた[Guti㎎er 1998;Pang 1998;Pieke and Benton 1998]。彼らはまた1980年代にカナダ へも移住した[Johnson・1994]。特に3っの拡大家族はトロントとバンクーバーの共同体を導く 光となった。  この時期に,より古い移民層の大多数は依然として“帰郷の神話”にしがみ付いていたが, 彼らの中にはヨーロッパやカナダに永住し始めた人が次第に増えていた。そこで彼らは事実上 成人した子供達の扶養家族となっていた。男性の移民達も妻や子供を外国へ連れて行き始め, 女性達は文宗族の企業において重要な役割を担うようになった。これは宗族の将来に重大な結 果をもたらしうる発展であった。移民の家族は新田の家を所有し続けていたが,本来の住居と いうよりはむしろ別荘のように取り扱っていた。熱心に働くことと,後々報われる事を期待し て物質的欲望を後回しにするという古典的な戦略は,第二世代のより多くの人々に良い報いを もたらした。高い水準の成功により,彼らはヨーロッパで働く新界出身の他の集団から区別さ れた14)。文宗族は2つの理由によりいっも傑出していた。第一に,彼らは成功しか認めない 集団的な精神を培っていた。第二に,彼らは働き手,協力者,信頼できる友として,専ら同じ 宗族出身者に依存していた。  1980年代頃に宗族はヨーロッパとカナダ全域を連絡している文氏情報ネットワークとなっ た。情報は既存の集団に制限されていた。それは姻戚(義理の息子など),母の兄弟,母方の 14)例えば,慶村の近くにある宗族村落の32%の世帯は,家族の中の誰かが1970年代にはヨーロッパで  働いていたが,新田における移民とは異なり,このような人々が故郷で社会的生活において主導権を  握ることはなかった[RWatson 1985:150−151]。

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親族(母の兄弟,母の姉妹の息子など)や,ある文氏の料理店経営者によれば,他の信頼に値 しない「浮浪者」などは含まれていない。「文宗族は文姓の血筋のみである」と彼は1982年 にロンドンで紅茶を飲みながら(英語で)言った。「そして隠れ場所はないのだ」と。この言 葉は,許された規範から逸脱する者は制裁され,そして究極の状況の下では正式に宗族から除 名され得ること「出族」を暗に示している。このようなことは1962年以後起きていないが, その脅威が反社会的行動への抑止力として働いていることは確かである15)。  このディアスポラ形成の初期には,士地ではなく,世界のシステムについての知識が親族関 係の接着剤であり,通貨としての役割を果たした。即ち,いつ,どこの国境を越えるのが簡単 か。どんなビザ規定がベルギーでは適用されるか。新しい料理店を出店するのに,どの町に良 い場所があるか。どこでメニューを安く印刷できるのか。市長とその家族以外に,誰を開店祝 いに呼ぶべきか。税務署の注目を浴びずに故郷に送金するにはどうしたらよいか。このような 疑問や他の何百の質問に対する答えは,グローバルな資本主義の波の上で急速に熟練したサー ファーになろうとしている人々にとって緊急に必要であった。  文氏のディアスポラは,アージェン・アパルデュライ[Appardurai 1996]がいうところの 士地から脱却した世界,即ち単一の地理的基盤がなくても親集団が機能できるような世界につ いての民族誌を急速に現実のものとしつつあった。文氏の移民が常によいタイミングを持って いたことも特筆に値する。即ち,ちょうど英国の中産階級が“外食”し始めた時に,彼らは料 理店のチェーン化を始めた。それは,1950年代後期から1960年代初期に至るまでは英国文化 の中はなかった新しい刺激的な娯楽であった。この時期より以前の選択肢といえば,フィッシ ュ・アンド・チップスの店かインディアンカレー“cafs”,そして持ち帰りの中華チップ・シ ョップス(フライドポテトにカレー,または味付けした豚肉の切り身を提供する店)であった16)。 米飯はこれより後になって現れた。  新田の企業家達も,中流階級という新しい範囲に活動を広げるという先駆者達に含まれ, 「白いテーブルクロス」の料理店はウエイターと精巧なメニューを完備した。世界経済の激動 の度に,文氏企業家達は事業拡大の準備をしており,自信を持ってそれを実行した。まずは料 理店を,それからケータリング,輸出入業,そして土地開発。ある兄弟は,旅行代理店をロン 15)宗族からの公的な追放は新田の長老会議の成員達による全員一致の決定を必要とする。彼らは大祠堂   で宗族の族長の召集に応じる61歳以上の全ての男性である。よく知られている最後の事件は1962年   に起こったが,それは村落内での性的関係に関連することであった[J.Watson 1975b:183−184]。男  性違反者は将来有望な移民の一人だが,辛うじて殺されずに済んだが,彼の名前は文氏族譜から削除   された。彼の追放以後,誰も彼の名前を口にしたり,消息を尋ねたりしなかった(訳注5)。今日,そ   のような行動を起こして追放された人物は祖先の所有地からの毎年の定期的な収入や,将来士地を売   った時の配分の受取人名簿から外されるという意味で,深刻な経済的打撃を招くことになる。 16)ヨーロッパとカナダにおける初期の中華料理店に関する最良の記述はロバーツ[Roberts 2002コ,特に   6章。英国にあった中華料理の持ち帰りの店についてはソン[Song 1999コ参照。

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ドンとアムステルダムを拠点に設立し,大いに成功した。彼らは1970年代と1980年代初期に, ヨーロッパ・香港間でチャーター機による航路を編成して(料理店勤務者スペシャルと呼ばれ た)富を築いた。1980年代後半には海外旅行の価格が暴落し,チャーター機は,もはや英国 航空や大韓航空より安くはなくなった。それに応じて,その兄弟は彼らの「叔伯兄弟」(広東 語で「共通の祖父を持つ子孫」を意味する)何人かと一緒に,カナダで上流階級向けの土地開 発を始めた。  このような話は,文宗族第二世代にとって珍しくはない。多くの人が,新田に生まれ十代に なる前に両親に連れられて海外へ移住した。従って当然,彼らの父親より社会に精通しており, 容易に企業家としての活動に身を投じる事が出来た。このような活動に要求される事は,文化 についての知識と同時にヨーロッパの数力国語を流暢に話せる能力であった。この世代の多く のリーダー達は広東語,英語,オランダ語(ドイツ語を学んだ人は少数だった)を話した。彼 らが子供達と異なる点は,中国語を読み書きする能力(移民社会で生まれた文宗族の中ではほ とんど消滅しっっある能力)であった。 ポストモダン時代の移民形態  1990年代にもう一つの世代的変遷が起こり,新しいポストモダン時代の移民形態が明ら かになりつっあった。「ポストモダン」という用語は本稿ではむしろ漠然と用いられている。 筆者が考えているのは,時間と空間の崩壊による社会的,文化的結果である[Harvey 1989: 201−59]。文宗族の移民と彼らの子孫は,非常に生き生きとした直接的及び個人的なあり方に おける内部破壊を経験してきた。1990年代における航空機による旅行や電子機器による交信 及び国境の「透過性」などは彼らの世界観を変えた[Ong 1999]。  1960年代後期にこの研究が始まった時,新界で使用可能な電話を見つけられた場合,香港 とロンドン間の電話は1分間約10米ドルを要した。移民の家族は主として(帰国した労働者 による)直接の会話あるいは移住先と出身村の双方で普通はプロの代筆者によって書かれた年 間2∼3通の手紙の交換によって連絡を取っていた17)。航空運賃は1960年代と1970年代以来, 何分の1にも安くなっている。今日,筆者の学生が購入している太平洋横断の航空券は,(イ ンフレーションの影響は認めるとして)筆者自身が1969年に香港に初めて旅行した時に支払 った価格の10分の1である。 17)プロの手紙代筆者は毎週2日元朗の市場の近くで臨時の机を置いていた。彼らは新田のような村から  の,主に女性達の常連客を持っていた。男性移民からの返信(ロンドンのジェラード通り沿い中華料  理店で働く準職業的代筆者の助けを借りて書かれた手紙)は,元朗(彼らが静かに受取人に読んでや   ることができた場所)にいる代筆人のところに持っていかれた。村人達は噂話を恐れて,この目的の  ためには読み書きのできる隣人には頼まなかった。

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 1990年代に文宗族の成員達はヨーロッパ或いはカナダと香港の間を,しばしばビジネスク ラスで定期的に空路を利用していた。宗族内の「イトコ達」18)は,最初は電話,次はファック ス,それからEメール,ごく最近では衛星携帯電話で相互に密接な連絡を上手に保とうと心が けていた。最近では,文世歌の子孫の多くが,瞬時にすぐ連絡が取れる「ネットワークで繋が れた」移民社会に参入している。換言すれば,1990年代には3,4力国で事業を所有したり, 経営したりすることが可能となりっっあったと言える。そして文宗族の人々の多くは,まさに それを行なって来た。 世代の交代とジェンダーの対立  一方,筆者が新田で最初に出あった最初の一時的移民から数えて第三,第四世代に当る新し い2つの世代が移民社会に現れてきた。文宗族における最近のリーダー達は,圧倒的に医者, 弁護士,会計士,教師,ブローカー,投資家,企業家,教授などの専門職に従事している。最 近,文世歌の子孫の大半(男女共に)は主に香港,トロント,アムステルダム,ロンドン,ブ リュッセル,ボン,デュソセルドルフ,ストックホルム,ライデン,リーズ,マンチェスター, バーミンガム,リバプールに居住している。筆者の調査地域は,もしその用語がまだ何か意味 を持つとすれば,グローバルになってきた。  女性達,つまり文宗族移民の娘達は現在,宗族の事業業務と様々な文氏組織の経営におい て重要な役割を果たしている。1980年代まで,社会的カテゴリーの文氏は男性のみであった。 女性達は宗族の成員として定義されていなかった。新界の広東人は,何世紀にもわたって宗族 外婚を行なってきた。その慣行は決定的に新田の娘達を曖昧な地位に置いた。即ち,単一宗族 村の居住者として,彼女達は村を出て他の宗族の嫁になる以外の選択肢がなかった。宗族外婚 の定義によれば,あらゆる文氏の嫁が他村で育ったよそ者だということになる。女性達の周縁 性はルビー一・・ワトソン[R.Watson 1985:118−136;1986;1991]によって詳細に研究された婚姻 支払い制度によっても強化されている。結婚の時,娘達は通例,両親からしばしば金の装身具 という形で相当額の持参金を受け取った(今日でもまだ受け取っている)。兄弟達はこの贈り 物を父親の死後,その土地の分け前を得られない姉妹達に対して補償する生前の相続分と考え た(McCreery[1976]も参照)。  文氏の娘達の増大する存在感と,政治的,経済的重要性は革命的発展である。娘達は今や父 18)英語のCousinという語は一般にヨーロッパやカナダで生まれた移民によって用いられた。文世歌の   子孫の間で細かな区別を強調した,より限定的な広東語の親族呼称は,時代遅れになりつつある。実  際,多くの若い世代の移民達は,彼らの祖父母にとってごく自然なものであった言語形態が理解でき  ず,使いこなせないことは言うまでもない。

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親の個人的(言い換えれば世帯全体の)所有地を兄弟と平等に分配するよう要求している。男 性年輩者の観点からすると,一層破壊的なことに,いくっかの新界宗族の娘達は,ずっと以前 に死去した父系祖先の所有地の分配(扮)を要求している。当然,このことは家族と宗族内部 の人間関係を緊張させる争論となっている。これを書いている時点においては,いわゆる「相 続戦争」が未だに煉っている19)。 文氏の“凱旋”  筆者の最新の実地調査は香港への裕福な投資者の“凱旋”に注目してきた。彼らは英国,オ ランダ,ドイツ,カナダの市民権を取得している。1997年に至る香港の中国本土への返還準 備期間に多くの香港住民が香港から海外へ逃げ出した[Skeldon 1994]が,文氏の移民達はそ の返還を良い機会と考えた。重要な企業家達(数人が億万長者であったが)は香港に戻り,交 付された香港IDカードの保有者の身分を確立した20)。  このような男性の多くは新田で生まれていたが,故郷に居を構えなかった。その代わりに, 九竜もしくは香港島の中流階級住宅地に豪華なアパートを購入した。しかしながら,彼らは英 語やドイツ語及びオランダ語を話す子供に,蚊が群れている祖母や曾祖母の家で週末を過ごす ようにしつけている。「彼らに我々のやり方を教えるためだ」とあるデュッセルドルフの億万 長者が1997年に述べた。  1997年に至る香港返還の準備期間中に,移民社会から戻ってきた文氏は香港宗親会(Hong Kong Clan Association)も引き継いだ。それはかつて毛沢東時代の中国からの亡命者により運 19)ルビー・ワトソンは1997年の調査期間にこの問題に取り組んでいた。宗族の(男性)長老達はまだ   一致した反応を示していない。祖先の所有地からの経済的利益は今でも男性に委ねられている。女性   達は法的に両親の個人的な所有地の配分を得る権利が与えられているが,全ての娘がこの特権を要求   しているわけではない(Chan[1998], Jones[1995]も参照)。多くの点で,文氏の移民は娘達を宗族   内事業にもっと進んで参加させようとしている。というのは恐らく,女性達は常に会計士やマネージ   ャー,翻訳家,広報専門家として移民事業において重要な役割を担っているからである。英国でのケ   ータリングにおける中国人女性に関してはバグスターとロー[Baxter and Raw 1998]参照。しかしな   がら,娘達が先祖代々の共有地の全分配権を要求するとなれば,それは別問題である。 20)これは新界の人々にとって困難かつ試練の時期であった。ルビー・ワトソンと筆者は香港中文大学   で教鞭を取りながら,新界で実地調査を行ない,英国支配の最後の6ヶ月間(1997年1月から6月   まで)を過ごした。多くの文氏移民が香港に戻ってきた。というのは,彼らは香港返還後に新政府が   個々人の居住状況(それゆえに,経済的将来性)を判断する際,何の基準を用いるかが,分からなか   ったからである。外国のパスポートを所有する帰国移民達として,彼らは新界で生まれたにも拘わら   ず心細く感じていた。彼らから見ると,1997年6月30日深夜に香港が中国政府の支配下に戻される   時に,身体的かつ精神的に香港にいること自体が重要であると考えていた(注3)も参照)。それに引   き続き,1999年に新界で行われた実地調査は,帰国移民を含む地元の人々がもはやこの問題にあま   り関心を持っていないことを明らかにした。

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営されていた,どちらかといえば時代遅れの組織であった。もともとこの団体を創設した実業 家達は全員文姓であったが,中国本土に地域的な親族集団と宗族関係或いは繋がりによって結 ばれてはいなかった21)。宗族構成員の大多数は上海と寧波出身であった。その時代(1950年 代から1980年代)の典型的な都会人として,彼らは新界住民を完全に軽蔑していた。1990年 代後期まで,新田出身の文氏は3人だけが(活動的でない)構成員であった。  文氏移民達はその組織の指導的地位を奪い取り,選挙により年輩の反共産主義者達を追放し た。新議長はもともと新田出身のドイツ語を話す企業家であるが,この宗親会を中国における 投資のための媒体に変えた。しかし,一体,中国のどこに投資するのか? 彼らは数百の候補 地から,彼らの先祖と推定される文天祥の故郷である吉安県を選んだ。吉安は江西省東部,香 港から北方800マイルの山間部に位置している。  文天祥は中国歴史上最も傑出した人物の一人である。彼は宋朝の愛国者として,モンゴル 軍に対する中国南部の抵抗運動を指揮し,1283年にフビライ・ハンの直接の命令によって処 刑された。彼は詩,政治家的資質,愛国精神の故に,中国の知識人に崇敬されている[Brown 1986]。新田の人々はこの英雄の子孫であると主張し,1990年代初期から,文氏の移民達は江 西省における文天祥の出身村や彼の墓及び祠堂を訪れ始めた。彼らは,文天祥に捧げられた記 念堂の設立に熱心に協力した地元の共産党指導者達と連携関係を築いた22)。そこに経済的利 害関係が含まれたとしても,驚くには当たらないが,党の指導者達は,文氏の訪問者が,目を 見張るほど美しい吉安の田舎でわざわざ自分達の「ルーツ」を再発見することに協力した。こ の香港宗親会の構成員達は江西省で安価な労働力を利用して,地域産業との合弁企業に投資す ることで返礼してきた。  その間,他の方面では,新田の移民達が,旧英中境界の社会主義者側で生活している自分達 の男系(即ち父系)親族と再結合をし始めた。(文姓の)5つの単姓宗族村は,中国で最も進 歩した技術,銀行業,産業の中心の一っである今日の深馴経済特区で,何世紀も繁栄してきた。 新田の文氏は,深±Jll川の対岸にある5つの文氏集落の住民と,ある先祖(文世歌の曾祖父)を 共有している。この6つの宗族間での合同儀礼や共同活動は1949年に消滅し,40年近くの間 殆ど忘れられていた。その繋がりが1990年代にこの経済特区でビジネスパートナーを探して いた新田の文氏によって回復された。この再結合において重要な役割を演じた人々は,香港側 の億万長者の移民達と深馴側の共産党幹部であった。いずれも文宗族の村で生まれた。共産主 21)中国社会におけるクランとリニージの区別はJ.Watson 1982:610−12を参照。 22)今後の出版物の中でこのような活動についてはさらに詳しく述べられるであろう。文氏移民達は,江   西省吉安県富田郷にある単姓宗族の文家村で,文天祥の墓や彼の祠堂の大修築を含む,文天祥記念館   と他の祭儀(cUlt)の展示を支援することに寄与している。筆者は1994年に香港の有名なジャーナリ   スト(文上位リニージの一員)である文卓飛氏と一緒にこの場所を訪ねた。新界の文氏が1990年代   以前に一度も江西省を巡礼した証拠はない。

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義革命に先立って,このような共同体は上位リニージ,即ち必要な時にはいつでも,自衛の目 的で動員できる緩やかな政治的連合を構成していた[Freedman 1966:20−21]。  今日,この地域の親族組織は国境を超えたビジネスの枠組みとして復活されてきた。文氏 の長老達は,「失われた」墓を再発見したり,破損された祠堂を再建,改修したり,族譜を再 編集したり,上位リニージの諸儀礼を再構築したりするのに多忙である23)。新田の多くの移 民退職者は,川の対岸にいる父系親族に対して儀礼指導員として活動している。川の対岸では 30年に及ぶ毛沢東主義者の迷信反対キャンペーンのため,祖先祭祀の知識は殆ど失われてし まった。どのように線香を捧げるのか。供犠用の豚をどのようを切り分けるのか。先祖に対し てどのように語りかけるのか。どのように叩頭をし,恥をかかないで済むのか。オルソプラク シー,即ち正しい儀礼の実践は,この再興された上位リニージの構成員達を一致団結させる鍵 である24)。 「ルーツ」の探求と親族の構想力  一方,約40年に及ぶ海外諸国への移動の後,文氏の移民達は懐かしい故郷に再び戻り,香 港新界と江西省で文化的「ルーツ」を探している[Louie 2000]。いくつかの分派の代表者達が, 先祖代々伝わる儀礼の手順に関してよりよく熟達し,宗族の歴史について一層精通しているこ とを主張し,競争が起こった。遺産という意味で,文化は,今日の新界において一種の激烈な 論争問題である。原住者は以前の植民地行政官によって認められた諸特権に対する主張を強化 するために,郷士の歴史を出版し,村の博物館を創立している25)。  このルーツ探求の活動の途中に,『移民と宗族』が多くの文氏移民に読まれてきた。率直に 言うと,筆者は何十年も前に書いた著作が,人類学者をインターネットに載せる多くの情報源 の一つとしてしか考えていない人々によって取り上げられ,分解されるのを見て戸惑いを感じ ている。このような遭遇は,民族誌的権威の本質に関する議論に全く新しい意味をもたらして 23)深力1地域にある文氏祠堂は,毛沢東時代に共産党本部もしくは工場に変えられた。現在その大半は革   命以前の所有者に返還されている。 24)このテーマもまた将来の出版物の中で究明されるであろう。1991年,1994年,1997年に筆者は深ljll   経済特区にある3つの文氏村で実地調査を行なった。 25)原住者は,英国統治の始まった1898年以前に新界に居住していた人々の子孫として定義されている。   このようなカテゴリーに用いられる中国語は「本地人」や「原居民」,大雑把に「地元民」や「上着   民」と訳せる。彼らは,1898年以後,新界に定住した「外来人(新来者)」と対照されている。1990   年代初期には近隣の省から香港に移住してきた人々は原住民よりも遥かに多くなってきた。植民地   支配下で,原住民達は諸特権,特に地元の家族の一員として生まれた男性は誰でも家を建てる権利   を手にした。この権利は,とりわけ今日の新界における大いなる緊張関係の根源である[Chan 1998;   Cheung 2003]。

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いる26)。  文姓を名乗るある人々にとっては,親族関係とは構想力(㎞agination)による構造物,即 ち仮想の世界なのである。もちろん,あらゆる親族の概念は(何らかの形で)構想力の働きで ある。しかし,新たに出現してきた移民社会の構成概念は,以前の宗族概念とは大きく異なる。 この構想された集合体は,イトコ達,オジ(そしてオバ)達,祖父母達,そしてある神話的な 村,そこは祖父母の新田村とはあまり類似点を持たない場所であるが,この村に対して共通の 起源を有することによって結ばれている遠い親族から構成されている。ヨーロッパ及びカナダ で生まれたごく少数の移民だけが実際に新田を訪れた。彼らは巡礼の旅をする時に,心の底で 矛盾を抱いているのである。一時滞在期の祖父達の世代のように,若い移民達の夢見る新田は 彼らが現実の光の中で出会う新田ではありえない。この新しい心の領域は,我々をノスタルジ ア(郷愁)とアイデンティティーを求める手段の領域,つまり失われ,もはや経験し得ない過 去への想像の産物へと導くのである[Herzfeld 1991:66−68;Lowenthal 1985:4−13]。 名前の中にあるものは?  これらの最近の展開をみるならば,今日,文氏であることは何を意味するのであろうか。 「文氏」について首尾一貫した,意味のある集合体として語ることは意味があるであろうか。 1960年代初期までは,文氏が帰属と記述の両方を含む社会的カテゴリーを構成していたこと には疑問の余地がない。文氏とは,日常会話の中で文世歌の子孫によって使われている,白 己認識のための標識であった。宗族内の連繋は,一っの集団として他の姓を名乗り,敵対的な 宗族(特に郵,劉,彰,何)の構成員である近隣の集団から,新田の人々を区別している。新 界において文氏であることは個人の社会的地位,身体的な保護,経済的な利益を与えてくれる [J.Watson 1982]。1960年代と1970年代には,「私は文氏です。」という言葉は常に荘重さと 誇りを持って語られた。文氏であるということは明らかに個人的なアイデンティティーの中核 であった。  これと対照的に,今日では第三,第四世代の文氏は自分たちを,何よりもまず宗族の構成 員であると考えるということはない。ディアスポラにおける若い人々の個人的なアイデンティ 26)多くの移民は筆者を一人の長老,即ち文化的情報と伝承の貯蔵庫として見ている。「私の祖父をご存   知ですか?」というのは最もよく聞かれた質問である。他の人々は,筆者を,恐らくは中国文化をよ   く分かっていない,歓迎できない侵入者として見ている。もちろん中国文化は,部外者がその真価を   正しく評価するにはあまりにも深いものである。ある人々は,筆者を彼らの功績に関する年代史家と   して扱い,筆者からの質問,Eメール,撮影を喜んで受け入れてくれる。文氏の移民は他の人々と同   様,人間である。彼らは年月の経過につれて変化する状況に応じて様々な形で反応する。

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ティーは極端に錯綜しており,ヨーロッパとカナダで絶えず変化している諸経験(よい経験と 悪い経験)を反映している[Parker 1995;1998]。筆者が出会った多くの若い移民達は,自分 達を中国系の英国人(或いはオランダ人またはカナダ人)と考えているが,彼らの祖父母が正 真正銘の「中国人」だと思っていたかもしれないが,自分達はそのように感じていないと明言 している。言語能力は彼らのアイデンティティーの概念に対して重要な部分を占めている。比 較的に流暢な広東語(または稀に大学で学んだ北京語)を話す若者達は,英語,オランダ語或 いはドイツ語しか話せないイトコ達よりも,むしろ自分の方が祖先とより密接な関係にあると 主張している(A㎎[1994],Song[1997]も参照)。親の出自はもう一つの複雑な要因である。 即ち,文世歌の子孫だと主張している多くの人々には,中国出身ではない母親や祖母がいる。 初代移民達のある者は,ヨーロッパ諸国の妻を嬰り[J.Watson 1975b:178−81],1980年代と 1990年代には国際結婚の割合が高くなった。このような国際結婚により生まれた男性の子孫 は,理論的には文氏祖先の土地を分与される権利があるが,これはまだ検証を要する事柄であ る。 しかし,それはディアスポラなのか?  結論を下す前に,もう一つの問題を明らかにする必要がある。即ち,どういう意味で,文世 歌の子孫達はディアスポラを構成しているのか。この執筆時点では,ディアスポラに関して一 般的に一致した定義はない。この主題は近年多大な学問的な関心を呼び起こしており,もう一 つの問題の多い概念,即ちグローバリゼーションの研究と絡んでいる。元来,Diasporaと最 初を大文字で表すこの言葉とは,先祖の故郷と考えられる土地から外へ出て暮らしているユダ ヤ人集団を指す言葉であった(例えばHo[2004:213−14], Tambiah[2000:169−70])。ロジャ ー・ Tンジェクが明確に批判しているように,人類学者は現在「故郷を離れて遠い地域へ移住 しながら,……起源となる士地と……接触を取り続ける人々」に対して無差別にこの用語を用 いている[Sanj ek 2003:323]。ディアスポラに関する研究の多くは,民族的あるいは国民的な 起源以外に共通性をもたないような諸集団,アイルランド人,ギリシャ人,キューバ人,カボ ベルデ人,ドミニカ人などのようなディアスポラに光を当てている(例えばCohen[1997])。  本稿はディアスポラに関する広義の「民族的な」定義には明らかに該当しない一つの集団を 調査している。中国人のディアスポラがここでは問題ではなく,広東人や新界のディアスポラ さえ問題ではない[McKeown 1999;Ong 1999;Pieke et al,2004;Skeldon 2003]。むしろ焦点は 文字通り広く認識された故郷(「老家」や「郷下」)に根を下ろして7世紀も経過しているある 特定の親族集団に当てられている。更に自分達をこの特殊化されたディアスポラに参与する者 として認識している人々は,共通の姓を持ち,唯一の始祖まで出自を辿る。このようなトラン

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スナショナル集合体に対して,新しい用語(ミクロ・ディアスポラmicro diaspora?)を造語 しようとする誘惑に駆られるが,新造語は分析の代替物ではない。  最近の歴史における重要な時期(1980年と1990年のある時期)に,文世歌の第三,第四世 代の子孫達は一つの組織化されたディアスポラの一員であるかのように振る舞い始めた。彼 らは12力国にも及ぶ国々に居住しているが,これらの人々(全てが男性とは限らない)は相 互に連絡を取り続けるだけではなく,ネットワークから脱落した「イトコ達」を追跡するこ ともする。彼らは海外文氏宗親会27)を組織しもしくは復活させ,族譜を再編し,ディアスポ ラにおける最近の発展も含む文宗族の歴史について資料を収集するために国際委員会を形成し た28)。文世歌の墓前での祖先祭祀儀礼は今日でも毎年行われており,ヨーロッパとカナダか らの子孫達はいつも参加者の中で目立っている(ビデオカメラを持つ彼らを容易に見つけるこ とができる)。このような儀礼と他の共同活動に関するニュースはEメールや携帯電話で配布 され,約4,000人に及ぶ地球的なネットワークを構成している。当然,ある人は他の人よりも っと関心を持ち,熱心に参加している。全ての共同事業に参加する人は稀だが,大半の移民家 族の中で少なくとも一人はこのネットに対して積極的に関わっている。  文世歌の子孫達が他の数多くの中国人移民集団とは異なっていることは明らかである。その 中のあるものは,親族関係のネットワークによって特徴づけられている29)。なぜ文氏のディ アスポラは,単なる記憶としてのみ残っている他の多くの同様な集合体のように崩壊しないの であろうか。この謎に答えるためには,宗族組織の第一原則,即ち土地,より正確に言えば所 有地に戻らなければならない。 再び,土地について  1950年代から1990年代初期まで,植民地当局者は新田地域における土地開発を認めようと しなかった。かって赤米を生産していた水田は休閑地の状態に置かれ,深封ll川の両岸に英国軍 と人民解放軍がそれぞれ陣地を構えたため,(名目上だが)無差別砲撃地帯となっていた。紅 衛兵が1967年の反植民地主義暴動の時期に侵入し,年輩の村人達をひどく脅かし,文化大革 27)文氏の「クラン」組織は香港,ロンドン,マンチェスター,アムステルダム,トロントに存在する。   あるものはよく組織化され,(ロンドンのように)彼ら自身の本部の建物を持っている。他のものは   非公式で,定期的な会合の場所を持たない。いずれの組織も新田に起源を辿りうる移民達によって主   導されている。 28)2004年の夏,この資料収集はまだ進行中である。 29)特に,クア・クン・エン[Kuah 1999,2000コとウン・ユエン・フォン[Woon 1984,1989]よる非常   に優れた民族誌を参照。両者とも宗族に基づいた移民共同体と彼らのディアスポラに基づく宗族を主   に研究している。

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命の暴力は境界を越えて溢れて来た。この混沌とした時期のある時点に,新田農村委員会事務 局(Rural Cominittee Office)は爆破された。  今日,文氏の水田(およそ,1000エーカー)は,香港で最後に残っている,開かれた空間 となっている。その水田は,文字通り深削1の高層オフィスビル群の影に位置している。当然そ こにはこの土地の開発に関する主要な諸計画があり,文氏の企業資本とディアスポラの投資家 達がこれに関わっている。香港の最も著名な億万長者の土地開発者達の中にも,この土地に鋭 い関心を示している人がいる。  本稿を執筆している時期に,開発諸計画は新しい香港政府と,文氏の投資家達自身の間の不 一致によって延期されている。投資家達の間には祖先の所有地に対する宗族の規則と権利に関 して異なる解釈がある。彼らがお互いに喧嘩して,各自の利益を代弁させるために高額で弁護 士を雇うことで,これらの争いは却って宗族内の諸分派を結束させるという逆説的な効果をも たらしつつある30)。  文世歌は六世紀前に死んではいるが,社会学的には,少なくとも最大で,最も効果的な場所 にある土地の所有者として十分に生きている。文氏が至る所で,自分達は正統で,儀礼的に認 められた,始祖の子孫であると熱心に宣伝したとしても驚くには当らない。何世紀もの間,文 氏は分派数割り(per stirpes 訳注6)の原則に基づいた土地からの年次配当を分配してきた。 その意味するところは金銭が個人にではなく,宗族の諸分派に渡されることである。その結果, 多産的な分派に属するイトコ達よりも,一人息子の一人息子の方がより多く(しばしば非常に 多く)相続することとなった。最も大きな(伝統的に最も裕福でない)分派出身の人々は,生 存者の間で土地収益を頭割り(per cαpita 訳注7)に配分するように主張して来たのも当然 である。文世歌の土地と他の祖先達の所有地が売られるか,または開発される時,どの相続シ ステムに従うかによって,財産がさらに増加したり減少したりすることになる。  土地が共有される限り,文宗族は一っの社会的組織として,何らかの形で確かに生き残るで あろう。故郷の魅力と傑出した祖先達の功績は,移民達の構想力にイデオロギー的な燃料を加 え続けるであろう。しかし,祖先の所有地が一度何らかの形で(疑いもなく不可避的に)分散 されるならば,親族集団は生き残れるであろうか。新田に関する記憶と文宗族の歴史の集大成 は士地と共に解体するであろうか。時間が経過すれば分かるという外はない。  人類学者達は時に自分たちが特権的な知識もしくは特別な洞察力を持っていると主張する。 しかし,少なくともこの場合には,人類学者の役割は絶えず変化することをやめない親族集団 の年代記者のような慎ましやかなものである。現代の大半の移民と同様に,文氏たちは,彼ら 30)ジャック・ポッターは屏山という新界の宗族村における似たような争いを報告した[Potter 1968:   168]。その論争は1960年代半ばに始まり,1997年には香港法廷においてまだ続いている。

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を一回の講義や一冊の書物或いは一人の人類学者の生涯の範囲に詰め込もうとする全ての企て を拒否するのである。終わりに,筆者は確信を持って唯一の結論を下すことにする。文世歌は 広範囲に広がった自分の子孫達を非常に誇りに思うであろう。 訳 注 1.ケヴィン・ケリー1999『「複雑系」を超えて  システムを永久進化させる9つの法則』  (福岡洋一・横山亮訳),東京:アスキーを参照。 2.ジェームズ・ワトソン1995『移民と宗族  香港とロンドンの文氏一族』(瀬川昌久訳),  京都:阿咋社を参照。 3.文宗族の養i子状況については,ジェームズ・ワトソン(秦兆雄訳)2004「父系親族成員と  部外者  ある漢人宗族の養子縁組」『白山人類学』7:48−69を参照。 4.三っの宗族とは,べ一カー(Baker[1968])が調査した上水の惨姓,ポッター(Potter  [1968])が調査した屏山の郵姓,ルビー・ワトソン(R.Watson[1985])が調査した慶村  の部姓である。 5.詳しくはジェームズ・ワトソン1995『移民と宗族  香港とロンドンの文氏一族』(瀬川  昌久訳),京都:阿咋社,191−192ページを参照。 6.分派数割りとは,毎世代ごとに祖先財産に対する均分相続を繰り返す分配原則である。 7.頭割りとは祖先財産を存命中の男子成員全員で均等に分ける分配原則である。 参 考 文 献 Alarcon, Rafael   2000 Skilled Immigrants and Cerebreros:Foreign−Born Engineers and Scientists in the      High−Technology Industry of Silicon Valley, In Immigrαtion Reseαrch.f‘)γα」Vθw      Cθ?zturg, edited by Foner, Nancy, Ruben G. Rumbaut and Steven J. Gold, pp.301−321,      New Ybrk:Russell Sage Foundation. Ang, Ien   1994 0n Not Speaking Chinese:Postmodern Ethnicity and the Politics of Diaspora,」Vew      Formtions 24:1−18. Appadurai, Arjun   1996 ルfo(lernityαt Lαγge:Culturα1 1)imensions of Globαlizαtion, Minrleapolis:      University of Mimesota Press, Baker, Hugh D. R   1966 The Five Great Clans of the New Territories, JozLmα1(∼パんe Hong Kong Brαnch(∼∫      tんθRoyαt Asiαt乞c Society 6:25−47.   1968 /10んinθse Liγ乙θαgθレ祝Zαgθ:Sheung 3んui, Stanford, California:Stanford University

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参照

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