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フランスにおける新自由主義と信用改革(1961-73年) : 「大貨幣市場」創出への道

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(1)フランスにおける新自由主義と信用改革(1961−73年) 一「大貨幣市場」創出への特. 権. 上. 康. 男. はじめに.    2.マルジョラン報告. 1.起点一ジャック・リュエフの信用改革提言.      制度とその問題点.   (1961−64年).      新しい貨幣市場モデルの提案. H:.1960年代における自由主義的信用改革  国.      改革実施の手順.   際的拘束. IV.ヴォルムセルの改革(1970−73年)  「信用.    1.第5次プランとドゥブレの改革(1966−.   政策」から「通貨政策」へ.     67年).    1.貨幣市場改革(1971−72年).    2.国際資本移動と貨幣市場の自立化.      改革の実施.      流動性の管理   「流動比率」の導.      貨幣市場の拡大  上場中期債券の.      入(1961年).      「適格証券」化.      貨幣市場とフランス銀行の介入政策.    2.フランス銀行新定款(1973年1月3日法).       (操作).      と業務改革一「現実主義的」改革.      貨幣市場の自立化と通貨政策のグロ.      総裁府議.      ーバル化(1964−67年).      一般評議会審議(1973年4−7月). 皿.マルジョラン委員会とマルジョラン報告(1968−.    3.自律的貨幣市場をめざして  1973年.   69年)  新しい貨幣市場の構想と勧告.     6月の貨幣市場改革.    1.1968年の「5月危機i」とマルジョラン委. 結びと展望.     員会\. はじめに. る.しかも,この通貨政策は物価の安定を目的 とするものとされた..  1992年にヨーロッパ12力国間でマーストリ ヒト条約が締結され,1998年には同条約にも.  このようなフランスの中央銀行改革  それ. とづいてヨーロッパ中央銀行が設立された.そ. クノクラティック」で「自由主義的」で「マネ. れにともなって,フランスの中央銀行は「ヨー. タリスト的」な改革1) に向けた流れは,し. に批判的な左翼議会人の言葉を借りれば,「テ. ロッパ中央銀行制度」(Systさme Europ6en de Banques Centrales)に統合され,その任務に大. きな変更が加えられた.1993年8月4日の法律 とその改正法である同年12月31日の法律,お. よび1998年5月12日の法律によって,フラン ス銀行はその歴史上初めて,政府から独立して. 通貨政策の決定と実施に責任をもつことにな.  1)社会党の元書記長シュベーヌマン(Jean− Pierre Chevさnement)が国民議会におけるフラン. ス銀行法案審議の場で用いた表現.Assemb16e nationale, Co〃zρ’θ7θ%4z6αフ¢α砂’ゴgz紹ρ〃多。∫θ1,1さ「e s6ance. du 9 juin 1993.. 『エコノミア』第54巻第2号(2003年11月),1−40頁[Ecoηo履αVol.54 No.2(November 2003), pp.1−40].

(2) 2. かし,決してマーストリヒト条約の締結によっ. 「信用政策」(politique de cr6dit)と呼んできた.. てにわかに浮上したわけではない.戦後フラン. したがって,同行が「通貨政策」に責任を負う. スの中央銀行史に関する2人の証言がそのこと. ようになったということは,個別的で,多かれ. を示唆している.. 少なかれ「選別的」ないしは「裁量的」な流動.  一人は財務省財務監察官出身で,財政金融専. 性の管理という伝統の世界から訣別し,インタ. 門家として知られる元大統領のジスカールデス. ーバンク市場を舞台とする「グローバル」で. タンである.1960年代から70年代初頭にかけ て7つの内閣で財務大臣を務めた経歴をもつジ スカールデスタンは,1993年6月9日,フラン. 「中立的」な流動性の管理に政策の軸足を移し.  いま一人の証言者は,フランス銀行管理総局. ス銀行法案を審議した国民議会で登壇し,「フ. 長のボナルダンσean Bonnardin)である.1998. ランス銀行に通貨政策を遂行する責任を負うよ. 年9月,定年退職を間近にひかえた彼は,筆者. うに仕向けた」のは自分が財務大臣の時代に実. とのインタビューのなかで,フランス銀行での. 施した同行の定款改正(1973年1月3日〉であ. 長い職業生活を振り返りつつ,「当行が現在の. り,それ以前のフランスには「通貨政策なるも. 姿に向かって進化する契機になったのはマルジ. のは存在しなかった」2)と明言している.ここ. ョラン報告〔1969年〕だったように思う」と. たことを意味している.. でジスカールデスタンが用い,また筆者もすで. 語った5).・. に用いている用語「通貨政策」の原語は.  このようにフランス銀行の戦後史を熟知する. “politique mon6taire”(日本における通常の訳. 2人は,ともに今日の同行の歴史的起源を1970. 語は「金融政策」3))で,一国の支払い手段の. 年前後に求めているのである.2人があげる事. 総体にかかわる政策を意味している.その核心. 例はたしかに異なっている.が,それらは根が. はインターバンク市場としての「貨幣市場」. 同じであり,2人は事実上同じことを語ってい. (march6 mon6taire.通常の訳語は「金融市場」). たにすぎない.本論で明らかになるように,定.   すなわち,金融諸機関が中央銀行の当座勘. 款改正はマルジョラン報告の主旨にそって実施. 定においている自身の流動性(いわゆる「中央. されたものであり,また定款改正をフランス銀. 銀行通貨」monnaie banque centrale)を相互に交              オ ペ. 行の側から推進したのは同行総裁のヴォルムセ. 解し合う場4)一への介入(操作)にある.と. ルで,彼はマルジョラン報告を作成した3人委. ころでフランス銀行は,1800年の創業以来,. 員会の一人であったからである.. 商業手形の(再)割引を通じた信用配分,すな わち個別の手形の審査にもとづいた信用配分を.  かくて,2人制証言が正鵠を得ているとすれ ば,フランスがマーストリヒト条約に調印した. 基本業務とみなしてきており,自らの政策を. 結果としてフランス銀行改革が行われたという. よりは,同条約の調印は1970年前後を起点と する同行の歴史的進化の帰結であったという方  2)乃鉱  3)日本では貨幣(通貨),信用,金融の3つの 用語が必ずしも厳密に使い分けられることなく, それらすべてを包含する一般的な用語として「金 融」が用いられることが多い.これには,フラン スの場合と同様,この国に特殊な歴史が反映して いるように思われる.本稿では3つの用語の概念上 の区別が重要な意味をもつことから,「金融」とい う一般的な用語の使用を避けている..  4)この定義はフランス銀行でも1960年代から 一般に用いられるようになる..  5)ちなみに,管理総局長とは支店割引業務の 考査を担当する管理総局の長で,フランス銀行の 管理職のなかでももっとも重要な役職の一つであ った.しかしこの役職は,ボナルダンの退職にと もなって廃止された.本稿で明らかになるように,. 1971年に同行は割引から基本的に手を引くことを 決めたが,管理総局長職の廃止はいわばこの政策 転換の最終的な帰結であった..

(3) 3. より現実に即しているということになる.では,. た.その起点に位置するのは,20世紀フラン スを代表する経済理論家,自由主義者として知. フランスで「通貨政策」が誕生する契機になり,. られるリュエフ(Jacques Rueff 1896−1978年). フランス銀行をして「テクノクラティック」で. である.すでに別稿8)で論じたように,リュエ. 「自由主義的」で「マネタリスト的」と評され. フは「新自由主義」誕生の場となったウォルタ. るような中央銀行に向けて舵を切らせたとみら. ー・. れるマルジョラン報告とはどのようなものであ. 理論面で支えた人物で,新自由主義の代表的な. ったか.また,この報告はどのような事情を背. 創始者の一人でもあった.. 景に登場し,それはどのような改革をもたらす.  早くから数学と哲学に非凡な才能を発揮して. が,フランス中央銀行史の側からみるかぎり,. ことになったか.本稿はこれらの点に歴史研究. 潟bプマン・シンポジウム(1938年)を.          エコ ル ポリテクニック. いたりュエフは,理工科大学でコルソン. の光を当てようとするものである.結論を先取. (C16ment Colson)の指導をうけて経済学に開眼. りしていえば,そのことは,ヨーロッパ中央銀. する.本人の記すところによれば9),とりわけ. 行制度成立の前提となる貨幣市場,すなわち単. ヴァルラスの均衡理論との出会いが「人生の大. 一で内部に障壁のない「大貨幣市場」(un large. きな転機」になったという.ただし,リュエフ. ou vaste march6 mon6taire)のフランスにおける. の最初の著作は経済学ではなく科学方法論にさ. 形成史を跡づけることを意味している.あるい. さげられた『物理学からモラル・サイエンスへ』. はまた,価格メカニズムを公準とし,国家の積          ネオリベラリズム. 極的な役割を説く「新自由主義」6)がこの国の. 10)である.この著作は1922年に出版され, 1929年には英訳版も出版されるが,彼がこれ. 信用領域で最初の勝利を収めるにいたる過程を. を執筆したのは理工科大学在学中のことであっ. 明らかにすることを意味している.. た.出版は哲学者ベルグゾンの奨めによるもの.  いうまでもなく,本稿で扱う主題は時代が新. である.リュエフは大学終了とともに財務省に. しいために歴史研究と呼べるような既存の研究. 入り,以後,財務監察官,ロンドン駐在財務官,. は存在しない.筆者がこの主題に挑むことがで. フランスで最高位の官僚ポストとして知られる. きたのは,ひとえにフランスにおける歴史文書. 財務省資金局長(国庫局長の前身)を歴任し,. の収集と整理が近年,公的文書と私的文書の区. 開戦前夜にはフランス銀行次席副総裁に就任し. 別を問わず飛躍的に進み,公開猶予年限も急速. ている.彼は行政実務に従事する一方で,経済. に短縮されつつあることに負っている7).. 理論なかでも貨幣理論の研究を進め,多数の理.      1,起点. 論的著作を残している11).師のコルソンと同様,. ジャック・リュエフの信用改革提言.  (1961−64年) マルジョラン報告それ自体にも前史があっ.  8)権上,前掲論文.  9)リュエフは優れた自伝Jacques Rueff, Dθ 地%∂θα%o吻%so”a・4%’o伽9劉砂”づθ, Paris,1977.を残. している.リュエフ個人についてはこの自伝に拠 っている..  6)新自由主義の歴史的起源とその厳密な定義 については,二上康男「新自由主義と戦後フラン ス資本主義(1938−73年)」『歴史と経済』第181 号,2003年10月,を参照..  7)ちなみに現在,フランスにおける歴史文書 の公開猶予年限は25年にまで短縮されている.し かも,文書の性格によっては1980年代のものすら 閲覧可能になっている..  10)Jacques Rueff,1)θs soゴ6%oθsρ勿ノs勾%θ∫α%κ soゴθ%oθs〃zo7α16∫, Paris,1921..  11)経済学に関するリュエフの代表的な著作は 全5巻の全集,Jacques Rue氏Lθ∫oθ%粥s oo吻1∂’θs, 5vols, Paris,1977−1980.のほかに, Jacques Rueff, Lθsカ%4θ〃zθ雇sρ配Josoρ配σ%θs 4θs sツs’∂〃zθs 660%o〃z勿%θ∫,Paris,1967;id., Co〃zわσ広sρoz〃1り747θ 万%α%o∫θ7,Paris,1972.がある..

(4) 4. 19世紀以来のフランスの伝統である「エンジ. そのことによって,彼はドゴール政権下の「権. ニア・エコノミスト」(ing6nieur 6conomiste)12). 威主義的自由主義」(lib6ralisme autoritaire)の. の道を歩んだのである.このような経歴と明晰. 理論的支柱ともいうべき役割を担うことにな. で強靭な経済理論体系のゆえに,リュエフはイ. る.. ギリスのケインズと比較されることが多い。.  リュエフは信用についても改革構想を温めて.  大戦前における輝かしい経歴とはうらはら に,大戦後のリュエフはヨーロッパ石炭鉄鋼共 同体司法裁判所(ルクセンブルグ)の判事,次. いたが,この領域で政府委員会を組織するには. いでその後身であるEEC司法裁判所(ブリュ. である.このため,リュエフが信用改革構想を. ッセル)の判事,さらにその所長と,比較的地. 公にしたのは彼自身が主宰する「社会経済学自. 味な,しかも国外における職業活動に甘んじて. 由学校」(Co11さge Libre des Sciences Sociales et. いた.彼の自由主義的言動が,「国有化」と 「計画化」という戦後フランス政府の政策路線. Economiques)での講演であり,1961年12月5. と合わず,権力の中枢から疎まれたのである.. 府委員会報告ですでに注目を浴びていた.さら. しかし1958年にドゴールが政権に復帰するに およんで,リュエフは再びフランス本国で脚光 を浴びることになる.彼はドゴールの信認を得. にこの年の6月には『ル・モンド』紙上15)に国. いたらなかった.財務省と中央銀行という2つ の強力な官僚機構の強い反発が予想されたから. 日のことであった14).リュエフは先の2つの政. 際通貨問題に関する独自の分析と提言一すな わち「金の復権」  を発表し,大きな反響を. て,1958年,1959−60年と2度にわたって政府 委員会を主宰し,戦後フランス史上有名な2つ. 呼んでいた.周知のように1960年代に彼の名. の報告書を作成した.それぞれ財政,経済を対. を軸にした国際通貨改革論である.このような,. 象とする通称「リュエフ報告」(ないしは「リ. まさに時の人による講演だっただけに,会場に. ュエフ・プラン」)と「リュエフーアルマン報. は元首相のレイノー(Paul Reunaud),現職の国. 告」である13).リュエフはそれらのなかで,フ. 庫局長ペルーズ(Maurice P6rouse)といった政. ランスを「インフレの悪循環」に陥れた元凶は. 官界の要人のほかに報道関係者も詰めかけてい. 歴代のフランス政府が実施した政策とそのもと. た.. で生まれた制度や慣行であるとして第一次世界.  講演のなかで明らかにされたリュエフの信用. 大戦以降の政策を厳しく批判し,価格メカニズ. 改革論は2つの新しい現実から出発している点. ムが機能する自由な市場関係を構築する方向へ. に特徴がある.一つは,1958年12月にフラン. の政策の全面転換を勧告した.つまり,彼自身. を切り下げて以後,世界的なドル過剰もあって. がその基礎を据えた新自由主義の理念にもとつ. 海外から大量の資金がフランスに流入している. く「構造改革」を勧告したのである.そして,. という現実である.いま一つは,上記の「リュ. を国際的に知らしめたのは,この「金の復権」. エフ・プラン」にもとつく財政改革が大きな成 果をあげたにもかかわらず,依然としてフラン. スがインフレを克服できないでいるという現実  12)フランスには19世紀以来,国家官僚  と りわけ公共事業省の官僚一が経済理論の開発に 寄与してきた伝統がある.こうした官僚=経済学 者は「エンジニア・エコノミスト」と呼ばれる. エンジニア・エコノミストについては,栗田啓子 『エンジニア・エコノミストーフランス公共経済 学の成立』東京大学出版会,1992年,を参照.  13)2つの報告書とその内容については,二上, 前掲論文,を参照..  14)講演原稿は“Discours sur le cr6dit”の表題で. 小冊子として公刊された.また,それはJacques Rueff, Co〃必αおρo%71わ名4郵θガ%α%厩6ろ。か。鉱にも収. 録されている.  15) ∠,θ1レ名。%46,27,28et 29 juin 1961..

(5) ∫. である.. こうした現実もフランス銀行の政策に原因があ.  リュエフによれば,フランスが抱える問題は,. る.なぜなら,同行は割引歩合を貨幣市場金利. 外資が大量に流入しているにもかかわらず,金. 以下の水準に設定することによって,国内信用. 利とくに長期金利が下がり投資が促進されると. の流動化を一手に引き受けてきているからであ. いう調整メカニズムが働いていないことにあ. る.また諸銀行の方も,このような「中央銀行. る.調整メカニズムが働かないために国内に大. 市場」(march6 en banque)を利用しつつ,国家. 量の余剰資金が生れているが,それらは国庫に. 保証の付された「中期流動化手形」’8)を割り引. よる国庫証券の無制限発行を通じて吸い上げら. くことで十分な利益をあげているために,現状. れ,住宅建設などの事業に投入されている.し. を変えようとしない.したがってリュエフによ. かも,国庫証券の発行は入札方式によらず,長. れば,「フランス銀行が中期手形の保有者に与. 期間固定された金利で行われている.物価が押. えている流動化の便宜は,フランスの通貨を蝕. し上げられているのはそのためである16).. んできた,また蝕みつづけている癌である」19)..  問題はなぜ調整メカニズムが働かないのかで. あるいは,「フランスでインフレがつづいてい. あるが,リュエフは2つの理由をあげる.第一 に,それぞれ信用政策の策定とその実施に責任. るのは,本質的に,わが国の信用政策の信じが たい誤りに原因がある」20)ということになる.. を負う国民信用評議会(Conseil National de.  以上の分析をもとにリュエフは2つの改革を. Cr6dit)とフランス銀行  すなわち通貨当局17). 提案する.一つは,最低金利制度を廃止するこ.   によって,諸銀行の貸出金利に最低水準が. とである.いま一つは,フランス銀行が割引率. 設定されている.つまり,「正真正銘の法制カ. を常に貨幣市場金利以上の水準に設定すること. ルテル」(un v6ritable cartel 16gal)がっくられて. によって,フランスに「大貨幣市場」(un large. いる.このために金利の低下が妨げられている.. march6 mon6taire)を創出することである.ち. 第二に,フランスでは金融諸機関の間に形成さ. なみに,前者はヴィシー政権期以来の「組織化. れる自由な市場としての「貨幣市場」が著しく. された信用システム」の重大な変更を意味し,. 寸隙で,事実上存在しないに等しい.ところで. 後者はフランス銀行の伝統的な信用政策とフラ ンスにおける同じく伝統的な市場構造の全面的 な改編を意味する21).とくに第二の改革は,フ. ランス銀行と財務省国庫局が貨幣市場の狭阻さ  16)国庫の役割に関する記述は,後述する経済 社会審議会財政・信用・租税部会に提出されたリ ュエフの意見書にもとづいて補足した.Archives. 事情もあり,容易なことではない.それだけに,. de la Banque de France(α加勿. ABF),1367200003/. リュエフは予想される抵抗にたいして激しい言. 68,projet Rueff:La situatioII actuelle du cr6dit a court terme et du cr6dit a moyen temle. Proposition de modification au projet d’avis,4d6cembre l963..  17)国民信用評議会の副議長はフランス銀行の 総裁(議長は財務大臣)であり,またその事務局 は同行の信用総局が引き受けていたから,国民信 用評議会とフランス銀行は組織上,部分的に重な っていた.一方,国民信用評議会に議長の財務大 臣が出席することは稀で,同評議会の経常的な運 営はフランス銀行総裁に委ねられていた.したが ってフランスにおける通貨当局とは,事実上フラ ンス銀行の総裁府(総裁と2人の副総裁)を意味し ている.爪上康男『フランス資本主義と中央銀行   フランス銀行近代化の歴史』東京大学出版会, 1999年,とくに第八章,を参照.. を理由に中央銀行市場を存続させてきたという. 葉をなげつけている  それは「親殺しをして おいて,自分は孤児であるからといって同情を.  18)この種の手形については,打上,上掲書, 417−32頁,を参照.  19)Jacques Rueff, Co〃z∂α云sρoz〃1り名吻θ.彦πα%oゴθろ oρ.6ゴム,p.469..  20) Z∂づ4.,p.454..  21)この点については,権上,前掲書,を参照.  22)Jacques Ruef島Co〃z西α広∫ρo%71り名4廻.がπα〃6ゴ6ろ 。ク。砿,p.470..

(6) 6. 求める行為」22)に等しいと..  要するにリュエフの提案は,信用領域に市場. 書をまとめようとした際,リュエフは1963年 12月4日付で,先の講演と同内容の主張を文書. メカニズムを貫徹させ,中央銀行に直接的な信. 25)にまとめて提出した.このために部会は,. 用配分から手を引かせることに狙いがあり,そ. 1964年1月15日,フランス銀行総:裁に出席を求. れをインターバンク市場としての「貨幣市場」. め,リュエフ提言にたいする考えを質した.こ. を創出することによって実現しようとするもの. のとき総裁ブリュネが行った長大な陳述はフラ. であった.彼の信用改革案は,まさに,財政と. ンスの通貨当局の姿勢を伝える貴重な証言とな. 経済を対象とする前述の2つの構造改革を補完 し,新自由主義の理念にもとつくフランス経済. っているので,当日の非公開の速記録26)にもと づいて紹介してみよう.. 全体の構造改革を完成させるはずのものであっ.  ブリュネの陳述は不快感をにじませた前置き. た.. から始まる27).彼はまず,「論戦気分にならな.  国庫局とフランス銀行を真っ向から批判した. いように,つとめて冷静に発言するつもりであ. リュエフの講演は「金融界に投じられた爆弾に. る」,「フランス銀行,国民信用評議会,あるい. も等しい効果」23)を生じた.なかでもフランス. は財務省のような諸機関に向けられていると思. 銀行のうけた衝撃は大きかった.それを裏書す. われる非難は受け入れられない」と断る.その. るように,同行総裁のブリュネ(Jacques Brunet). うえで,リュエフの主張の背後にはそれを支え. は講演から1ヵ月後の1962年1月10日に,リュ エフと非公式会談を行っている.この会談には.               マスリモネテ ル. 次席副総裁で前国庫局長のシュヴェッッェル. ー・. (Pierre−Paul Schweizer),国庫局長ペルーズ,そ. の「規制体制」を改め,この体制を自然のメカ. れに国民信用評議会事務局長レベック(Jean−. ニズムが機能する「自由体制」に代えるべきだ,. Maxime L6veque)という,フランスの通貨,信. とする考え方である.自由体制のもとでは,総. 用,財政の最高の実務責任者たちが同席してい. 通貨が増えなくても利用可能な資金は潤沢にな. た.席上,ブリュネはリュエフを説得して妥協. り,金利は下がるというのである.こうした考. るある一般的な考え方があるという.それは, 公権力が信用条件を管理し,「総通貨」(マネ. Tプライ)の増大を規制しようとする現行. を図ろうとしたものの成功しなかった.ブリュ. ネによれば,会談は「2人の併行したモノロー グ」24)に終始したという..  リュエフは1962年に経済社会審議会 (Conseil Economique et Social)の金融・信用・. 租税部会の評定員に選任される.そして,今度 はこの独立の国家機関で自らの主張を展開する. ことになる.1963年から64年にかけて同部会 が「短期信用と中期信用の現状」に関する意見.  26)Conseil Economique et Social, Section des Finances, du Cr6dit et de la Fiscalit6, P7062s−zンθ7わα1,. 15janvier 1964(ABF, dossier:Jacques Brunet).以. 下,ブリュネ証言に関する引用はすべてこの史料 から行う.. Paris,2000, p.410..  27)戦後のリュエフは,しばしば政策担当者の 頭越しに,ドゴール派の政府高官たちに各種の政 策提言を行なったために,財務省の元同僚たちの 強い反感をかっていた.戦後に財務省対外金融局 長,フランス銀行副総裁を歴任したラットルは回 想録にこう記している.「1926年から1939年までの 期間に財務省の局長を務めたほとんどすべての財 務監察官たちと同様,〔フランス銀行総裁〕ジャッ ク・ブリュネはジャック・リュエフを策謀家とみ なし,彼には通貨政策の領域でいかなる影響力も.  24) Procさs−verbaux du Conseil g6n6ral de la. 行使させないと固く決め込んでいたようにみえ.  23)Laure Quennouelle−Corre, Lα4〃θo海。π4% 7ン6∫oろ 1947・196Z Z,四如かわαノ¢く7z6ゴθ7θ’」αoプ。♂ssσ〃。θ,. Banque de France(α∂7吻. PVCG),11janvier 1962.. る.」(Andr6 de Lattre, S67”〃α%κE%α%oθs, Paris,.  25)projet Rueff, doc. cit6.. 1999,p.195.).

(7) 7. え方は,アングロサクソン諸国で  とはいえ. は下がり,市場は拡大するはずである.. イギリス,アメリカ合衆国,カナダの3国だけ で  ,しかも両大戦問期という一時期に実施.  かくて,規制体制を維持しながら財政事情が. された方式から着想を得たものであり,それは. まつ,というのがブリュネの基本的姿勢であっ. 次の4つの制度および政策に足場をおいてい. た.実際,彼は自らの考えを次のように要約し. る.(1)自由な銀行活動.(2)入札による国庫証券. ている.「結局,かいつまんでいえば,私は現. の発行.(3)非常に活発で,海外から大量の資金. 行の銀行規制に依然として賛成です.…規制は. が集まってくる貨幣市場.(4)割引政策ではなく,. 徐々に改善されて貨幣市場は拡大し,〔貨幣市. 公開市場政策の選好.しかしブリュネは,「そ. 場金利は〕割引率から乖離するようになるでし. うした方式はそれ自体では通貨安定の保障には. ょう」.そして,彼は陳述を次の言葉で締め括. ならない」という.アングロサクソン諸国が通. っている.「改革による可能性に幻想を抱くの. 貨不安に悩まされていただけでなく,非常に活. は危険だと思います.未だ過去の混乱から回復. 発な貨幣市場とはうらはらにこれらの国の金利. していないわが国において,世界最低の金利を. はフランスに比べてそう低くはない,というの. 実現し,大幅な国際収支の黒字を継続して確保. がその理由であった.. し,また総通貨の増加を阻止しそれを固定する,.  リュエフが厳しく批判する「規制体制」につ いては,ブリュネは二重の意味でそれを肯定的. といったことができるとは思われません.すべ ての管理をやめることも,市場〔経済〕のもと. に評価する.第一に,そもそも現行の制度のも. で経済成長と完全雇用を保障することも,現時. とでも「需要と供給の法則」は排除されている. 点で合理的に行えるとはとても思えません.…. わけではない.それゆえ,フランスで金利水準. にわかに,自由に巨額の信用供与が行える体制. が高いのは価格メカニズムが機能していないか. や競争や市場政策が復活すれば,深刻な混乱が. らだとはいえない.大幅な金利低下が生じない. 生じる恐れがあります.」. のは,資金供給はたしかに増えているものの.  以上のように中央銀行総裁がリュエフの主張. 「過剰」といえるほどにはなっていないからで. をはねつけ,現状維持を強く主張したしたから. ある.第二に,銀行規制は歴史のなかから,必. には,経済社会審議会に選択の余地はなかった.. 要に迫られて生まれたものである.現に同様の. 1964年6月にまとめられた同審議会の報告にリ. 規制はフランス以外の多くの国で行われている し,公権力による規制のない国では銀行カルテ ルが公権力の代りを果たしている..  ただしブリュネも,貨幣市場金利が割引率を 常に上回っているという状態が正常でないこと. 改善され貨幣市場が自然に拡大するのを慎重に. ュエフの主張が盛り込まれることはなかった 28).. ll.1960年代における自由主義的信用改革        国際的拘束. は認める.彼は次のようにつづける.貨幣市場.  リュエフの信用改革案には,政府も通貨当局. 金利が高いのは諸銀行のフランス銀行への依存. も,さしあたり何の反応も示さなかった.しか. 度が高いためであり,また諸銀行がフランス銀. し,ほどなくして政府は自由主義的な信用制度. 行に依存せざるを得ないのは国庫が短期市場か. 改革の道に入る.一方,通貨当局の政策と政策. ら大量の資金を吸い上げているからである.こ. 手段も変化をとげ,それにともなって貨幣市場. の問題には,総通貨に占める銀行券の割合が大 きいというフランスに特殊な事情も関係してい る.とはいえ,これらはいずれも通貨当局の責. 任範囲を超える問題である.こうした事情はい ずれ変るであろうし,そうなれば貨幣市場金利.  28)Avis et rapports du Conseil Economique et Social, s6ances des 7 et 8 avril 1964,ノ∂%7%α」(∼〃io∫8」,3. juin 1964,.

(8) 8. は自立性を強め,存在感を増すようになる.つ. た.そうした世界のなかで,経済の独立を保障. まり,リュエフ提言をめぐる客観的諸条件に大. し,均衡ある発展を保障し,また経済をして真. きな変化が生じたのである.. に持続的な社会進歩の支えたらしめるために,.  1.第5次プランとドゥブレの改革(1966−. 第5次プランはわが国経済の国際競争力を堅固 な基盤のうえに位置づけることを基本目標にし.   67年). ている」30)(傍点は原文)..  まず政府の政策からみることにしよう.1962.  ドゥブレ自身も,第5次プラン元年の1966年. 年1月にジスカールデスタンが財務・経済大臣 に就任するが,早くもこの年のうちに,国庫証. 10月12日,国民議会における1967年度予算審. 券の発行に入札制度が導入され,為替管理も緩. 和に向けた諸措置がとられる.1965年4月から. 議の場で経済・財政政策の目標について論じ,. とくに2つの点を力説している.一つは,成長 とそのための投資の拡大である.すなわち,彼 はいう  「成長なくして国民的独立はありま. は預金金利の自由化に向けた取り組みが始ま り,まず6年以上の長期性預金の金利が自由化. せん.成長なくして社会進歩はありません.予. される.しかし自由主義的改革が本格化するの. 算は成長を促進し,国民的独立と社会進歩の手. は1966−67年のことである.それを主導したの. 段になるはずです.…われわれは,再建された. はジスカールデスタンの後任の経済・財務大臣. ばかりの財政均衡の基礎上で,成長を広く行き. 29)で,ドゴール大統領の側近として知られるド. 渡らせ,そしてとりわけ投資の復活を刺激しな. ゥブレ(Michel Debr6)である.. ければなりません.そうした必要性は,第5次.  ドゥブレの改革には,1965年に策定された 第5次プラン(1966−70年)が深く影を落とし ていた.当時はEECが発足してなお日が浅く,. プランの実施に着手せねばならず,また共同市 場の〔完成〕期限との関係で,フランス産業が. また資本取引の自由化が段階的に進められつつ. いっそう強いものとなっています.」31). あったことから,国際競争がまさに時の言葉に.  ドゥブレが力説するいま一つの点は「根本的. なっていた.一方,フランス経済は,1960年 代初頭に景気後退に見舞われたものの,1964 年には再び成長軌道にもどっていた.こうした. 改革」(r6formes profondes)すなわち「構1造改. 時代状況を反映して,第5次プランの照準は国.    何度となく,とりわけ〔第5次〕プラン. 際競争への対応と成長の持続に合わされてい.   をめぐる議論の場で,根本的諸改革の必要. た.プランの冒頭にはこう記されている.「わ.   性に話が及びました.根本的改革とは何で. れわれは不退転の決意で競争の世界に参入し.   しょうか.構造や行動にかかわるいくつか. 設備面で特別の努力を求められているだけに,. 革」の必要性である.彼は次のように述べてい る..   の生産要素の硬直性を取り除き,完全雇用   の限界を押し広げ,そしてより高い水準で   の生産の均衡を確保することであります.  29)ドゥブレは着任早々,ドゴールの了解を得 て「財務・経済省」(ministさre des Finances et des.   このようにすれば,インフレの危険なしに,. Affaires 6conomiques)の名称を「経済・財務省」 (ministさre de 1’Economie et des Finances)に改め. た.「経済と財務であって,もはや財務と経済では ない」,つまり財政よりも経済が優先されるべき時. 代になった,というのがその理由であった..  30)距PZα%464勿610勿θ〃zθ〃髭oo〃。〃吻%θθ’so磁1 r−Z966−197ω,t.1, Paris 1965, p.5.. Michel Debr6,ルZ動。勿s, t 4:00%”67”〃α吻襯θ%’,.  31) 1£projet de budget pour 1967, pr6sentation. 1962・1970,Paris,1993, p.77.ただし,本節以外では,. g6n6rale par Michel Debr6 devant l’Assemb16e. とくに必要がないかぎり,便宜上,同省について. nationale,1さ「e s6ance du 120ctobre 1966. Texte repris. は「財務省」という通称を用いる.. dans No’θs∂1θz〃s, n。5,1966..

(9) 9.   いっそう急速な成長を達成できるようにな. 大臣時代の自らの政治姿勢を次のように定式化.   るのです.. している..    プランから求められていることや,ヨー.    外国の支配を受けることのないように,.   ロッパにおける競争,さらにヨーロッパを.   無制限の自由主義に身を委ねるべきではな.  超えて世界レヴェルでの競争をするうえに.   い.つまり公権力を排除すべきではない..   必要なことを考えますと,また,フランス.   フランス経済を自由化すること,しかし国.   人の社会的熱望を思いますと,成長は定常.   民の必要とするものは見失わないこと.   的でなければならず,また早いテンポのも.   これら2つの責務を同時に果たすのが共和.   のでなければなりません.わが国が成長を.             ソ シ ア リ ザ ン.   国のつとめである.『社会化論者』にたい.   通じて国民的野心,社会的熱望,対外競争.   しては,私は市場の法則を擁護する,すな.   の必要のすべてに応えられるような国であ.                    リベラ.   りつづけたいと望むかぎり,そうでなけれ.   わち私は自由主義者として振舞う.『自由   リ ザ ン.   化論者』にたいしては,私は国家の権利を.   ばならないのです.32).   擁護する,すなわち私は社会主義者として.  かくてドゥブレの演説からは,「高度成長」,.   振舞う.36). 「国際競争」,「国民的独立」,「社会進歩」の4.  それはともかくとして,ドゥブレは上記のよ. つが,第5次プランの実現に責任を負う経済・. うな第5次プランと時代の要請に応えるべく,. 財務大臣の主要な関心事であったことがうかが. 1966年から67年にかけて,「信用方式の近代化」. える.また,こうした多分にナショナリズムに るにあたって,ドゥブレが自由主義的構造改革. の名のもとに広範な改革に取り組んでいる. 1967年1月10日に,彼自身が国民信用評議会で 確認しているところによれば,この改革を支え. をとくに重要視していたこともうかがえる.ま. る基本理念は「競争と責任」(concurrence et. ず構造改革,しかも国家の手による構造改革に. responsabilit6)である.すなわち,「成長しつつ. よって自由主義的秩序を構築する,次いでこの. ある世界の活動的構成員」として「この成長の. 自由主義的秩序を足がかりに「インフレなき成. 恩恵に浴する」ための競争と,「〔競争という〕. 長」を達成し,国際競争を勝ち抜いて「大国」. 闘いに臨むにあたって必要とされる」責任であ. を実現する  これがドゥブレの描くシナリオ. る.また,改革の目標は,「フランスの信用諸. であった34).. 機関が,共同市場において,ヨーロッパ全土に.  ドゥブレが自由主義者であったか否かについ. おいて,さらに可能ならばそれら〔地域〕を超. ては議論があり得るが35),少くとも彼が新自由. えて発展し,対外競争に打ち勝つだけでなく国. 主義の一角に足場をおいていたことはたしかで. 際取引でも第一級の役割を果たせるようになる. ある.実際,彼は回想録のなかで,経済・財務. こと」37)であった..  32)乃鉱.  35)ちなみに,後出の国庫局長ピエール=プロ ソレットは,オラル・アーカイブズのなかで「彼 は自由主義者ではない,むしろ改革家である」と. 彩られた「ゴーリスト的」政策課題33)を実現す.  33)ドゥブレが公刊した回想録の経済・財務大 臣時代の部分には,次のような,より直接的な表 現が頻繁に登場する.「大国をめざすレースが始ま った」,「世界最強の工業国の一つ,できれば大陸 ヨーロッパで最強の国になる」,「『ドイツの奇跡』 と肩をならべ,さらにそれを凌駕する」,「保護主. 述べている.Comit6 pour llHistoire Economique et Financi6re de la France(α∂7吻. CHEFF),Archives orales:Michel Debr6, disquette n。9.  36)M.Debr6,0ρ. o菰, p.81−82..  37)Epargne et cr6dit, allocution de Michel Debr6. 義的でマルサス主義的な保守主義を打破する」,. devant le Conseil National du Cr6dit,10 janvier 1967.. 等々.M. Debr6,0ρ. oづちp.77−78 et 81.. Texte repris dansハ1∂’θ∫∂」θ%θs,4/67/4。.  34) 1わづ4.,p.103−110..

(10)  個別の信用改革はその目的ごとに次の3系列 に整理できる。第一は,信用コストの削減を目. カヴァーしており,そこから除かれていたのは 事実上,中央銀行固有の領域だけであった.. 的とする改革である.「商業債権流動化信用」 (Cr6dit de mobilisation des cr6dits commerciales..  2.国際資本移動と貨幣市場の自立化. αδ吻.CMCC)と命名された新しい信用方式の.  フランスの通貨当局にとって1960年代にお. 創設がその代表である.この信用方式は伝統的. ける最大の関心事の一つは,活発化する短期の. な手形割引と当座貸越の中間に位置し,一時的. 国際資本移動,なかでも資本流入が国内経済に. な設備金融にも利用できるとされていた38).第. 及ぼすインフレ圧力であった.. 二は,競争的市場の創出を目的とするものであ.  ドル過剰と為替および資本取引の段階的自由. る.それは,準公的金融機関に付与されていた. 化を背景に,1959年から1965年にいたるまで,. 特権の一・部廃止,事業銀行と預金銀行の双方に. フランスには海外から資本が流入をつづけた.. たいする業務規制の緩和  いわゆる「ユニバ. 表1にうかがえるように,資本の流入はとりわ. ーサル・バンキング制度」(banque a tout faire). け預金増となって現れ,銀行システムの流動性. の導入一,銀行による支店開設の自由化,最 低貸出金利の廃止と貸出金利の自由化,預金金 利のいっそうの自由化,不動産市場改革,債券 市場改革などからなっている.第三は,国内市 場の対外開放を目的とするもので,為替・資本. を潤沢にして国内通貨供給量の膨張をもたらし た.一方,各国の通貨当局と国際決済銀行によ. って1950年野末に公式に確認されたユーロ市 場は,1960年代を通じて目覚しい成長をとげ た.パリのユーロ市場はロンドンに大きく水を. 取引の段階的自由化,証券市場改革などである. あけられていたものの,表2に明らかなように,. 39).ちなみに,改革の対象になった制度の一・部. それ自体としては60年代に飛躍的な成長をと. はヴィシー政権もしくは戦後解放政権のもとで. げた.ユーロ市場を介した国際資本移動は,そ. 導入されたものであり,それ以外は19世紀以. れが通貨当局の統制外にあるために,やがて通. 来のフランスの伝統的な制度であった40)..  かくて,ドゥブレの改革は幅広い信用領域を. 貨当局の政策運営を大きく制約する要因にな る.すなわち,「望ましからざる」ないしは.         アンデズィラブル アンオポルチュン. 「不適切な」41)外資の流出入を阻止するという. 対外政策の目標と,国内経済の必要に応えるた  38)Commissariat g6n6ral du Plan,殉PZ侃,1966・ 19701∼砂ρ0κ94〃6η」461αCO物品SS∫0%4θ泥00〃0鰯θ g勿6鰯8’4%伽侃。θ〃z6%’, t1, p.78−82.手形割引制度. の改革については,ドゥブレが1966年6月16日付 で,国民商工信用銀行総裁のジレを委員長とする 「短期信用技術近代化検討委員会」(Commission. めの対内政策の目標が乖離し,いわゆる対内均 衡と対外均衡が両立しにくい場面が頻発するよ うになったのである.. 流動性の管理一「流動比率」の導入(1961年). d’6tudes pour la modernisation des techniques du.  海外からの資本の大量流入は中央銀行の国内. cr6dit a court terme.通称「ジレ委員会」. 市場統制力を弱め,さらには喪失させる方向に. Commission Gilet)を設置していた.商業債権流動. 化信用はこの委員会の答申にもとづいて創設され た.この新しい信用方式は,フランスでは手形割 引の慣行が深く根づいているために,コストの軽 微な当座貸越による資金調達への移行は容易でな い,という考えにもとづいている.その詳細につ. 作用する.フランスの通貨当局は他の先進諸国 の通貨当局と同様,銀行システムの流動性を管 理することによってこれに対処しようとした.. いては,No’θs 61θ%θ∫, n。290,3/68/1.を参照..  39)Conseil National du Cr6dit(α∂76”. CNC), R砂ρ碗απ%錫θ1,ann6es 1966 et 1977;M. Debr6,0ゑ 。∫ム,p.103−10..  40)権上,前掲書,参照..  41)これらの表現は1960年代から,フランス銀 行の一般評議会議事録や同行および国民信用評議 会の年次報告書に頻繁に登場するようになる..

(11) 表1フランスにおける通貨・準通貨ストックの構成(1958−67年)一年末の状態                                  単位:10億フラン 銀行預金. 国庫およびフランス. 合計. 年次. 現金. 1958. 35.1. 34.6. 9.4. 79.2. 1959. 35.7. 43.8. 10.6. 90.2. 1960. 40.4. 51.6. 12.6. 104.8. 1961. 45.6. 62.0. 14.6. 122.3. 1962. 51.5. 75.3. 17.5. 144.4. 1963. 57.5. 86.7. 20.2. 164.3. 1964. 61.5. 95.7. 21.8. 179.1. 1965. 66.2. 107.0. 23.8. 197.1. 1966. 69.9. 120.6. 25.4. 216.0. 1967. 72.8. 140.8. 27.8. 241.5. 竝sへの当座預金1). 注:1)1967年の数字には国庫への定期性預金が0.4含まれている. 出所:CRO, exerclces 1958−1967.. こうして1961年に「流動比率」(coefficient de. は,割引率よりも高く設定された金利  いわ. tr6sorerie)という名称の制度が導入された.. ゆる「懲罰金利」  の適用を条件に,フラン.  ただし,厳密にいえば,フランスの通貨当局. ス銀行が諸銀行による限度外の資金調達に応じ. が最初に流動性を組織的に管理しようとしたの. る制度である.これは「パンション」(pansion). はこれよりも早かった.1948年9月29日,国民 信用評議会とフランス銀行は,戦後復興にとも. と呼ばれる買戻し条件付での証券の割引によっ. て行われた.この制度は再割引限度枠の「安全. なって生じたインフレを管理すべく,「信用の. 弁」として設けられたもので,第一次的な安全. 量的制限」の名のもとに「再割引限度枠」 (plafond de r6escompte)を創設し,フランス銀. 弁である「パンションA」と第二次的な安全弁 である「パンションB」の2つからなっていた.. 行に持ち込める手形類の上限を個別の銀行ごと. いま一つは,国庫証券の銀行ごとの最低保有率. に設定した42).なお,補足しておけば,この制. を定めた「最低限度」(planchers)の制度であ. 度にはさらに2つの制度が付随していた.一つ. る.この制度は財政不均衡から貨幣市場への依 存を余儀なくされていた国庫のために設けられ たもので,再割引限度枠の導入によって銀行シ.  42)厳密にいえば,再割引限度枠も,フランス でインフレが常態化した1930年代後半から,すで にフランス銀行によって部分的に実施されていた. 1948年に導入された制度は,国民信用評議i会がこ の既存の制度に公的性格を付与し,それを一般化 したにすぎない.なお,19世紀以来のフランス銀 行の信用政策は長期安定的な金利で適格手形を割 り引くというものであったが,再割引限度枠の存 在は,こうした伝統が1936年に金本位制が停止さ れて以後は実質を失っていたことを物語っている. 権上,前掲書,408−11,413−14頁.. ステムによる国庫証券保有が後退するのを防ぐ ことに狙いがあった..  再割引限度枠はしかし,流動性管理の手段と しては必ずしも有効に機能しなかった.その最 大の理由は,再割引限度枠の対象から中期流動 化手形が除かれたことにある.戦後のフランス では設備と貿易は戦略的な部門とみなされ,そ れらの金融は中期手形によって基本的に保障さ れていた.このためフランス銀行は,この種の.

(12) 表2 ヨーロッパ諸国の銀行の外貨ポジション. 12月の状態 10億ドル. 貸 出 し 1964. 1.3. 0.5. 1.9. 5.0. 3.6. 12.3. 1965. 1.6. 0.4. 2.0. 5.9. 4.4. 14.3. 1966. 1.9. 0.3. 2.1. 8.4. 5.7. 18.4. 1967. 2.5. 0.3. 2.7. 10.5. 6.4. 22.4. 1968. 4.6. 0.5. 3.2. 17.1. 8.3. 33.7. 1969. ク.4. 2.0. 4.9. 28.8. 13.6. 56.7. 1970. 9.1. 2.9. 6.1. 36.4. 20.7. 75.2. 1971. 13.9. 3.1. 6.5. 45.7. 28.5. 97.7. 1972. 17.2. 3.1. 7.6. 59.4. 33.3. 120.6. 1964. 1.5. 0.5. 2.7. 4.5. 3.0. 12.2. 1965. 1.8. 0.6. 3.2. 5.5. 4.2. 15.3. 1966. 2.4. 0.5. 3.2. 8.4. 5.6. 20.1. 1967. 2.8. 1.1. 4.1. 10.5. 6.2. 24.7. 1968. 4.6. 1.6. 5.4. 17.0. 9.1. 37.7. 1969. 6.9. 1.7. 7.0. 28.8. 13.7. 58.1. 1970. 8.2. 2.3. 11.7. 35.2. 20.8. 78.2. 1971. 11.9. 2.7. 12.8. 43.3. 29.5. 100.1. 1972. 14.6. 2.4. 14.9. 56.5. 33.3. 121.7. 一. 0.8. 一〇.4. 0.5. 一〇.4. 一. 預 金. 、. ポジション 1964. 0.1. 1965. 0.2. 0.1. 1.1. 1966. 0.5. 0.1. 1.1. 1967. 0.2. 0.8. 1.3. 1.0. 2.1. 1968.. 一. 一. 1.0. 一. 『. 1.7. 一. 一. 2.3. 一. 0.8. 3.9. 一. 一. 1969. 一〇.5. 一〇.2. 2.1. 1970. 一〇.8. 一〇.5. 5.5. 一1.1. 2.0. 2.9. 1971. 一1.9. 一〇.3. 6.3. 一2.3. 6.0. 2.4. 1972. 一2.6. 一〇.7. 7.3. 一2.9. 一. 1.4. 1.1. 注1)1972年についてのみ,9月の状態.    2)ベルギー,ルクセンブルグ,オ.ランダ,イタリー,スウェーデン. 出所:ABF,1397199001/21, note:Le march6 des euro−devises, rapport pr6sent6 au Comit6 des Vingt par Ren6 Larre,     directeur g6n6ral de la Banque des Rさglements Internationaux, mars l973..

(13) の一般手形の持込みは減少したものの,代わっ.  ともあれ1961年からは,再割引限度枠のほ かに流動比率といういま一つの制度が加わった のである.これによって流動性の管理システム の整備はいちだんと進んだことになる.流動性. て中期手形の持込みが増え,その結果一般手形. の管理が進めば,諸銀行は信用供与をひかえる. の減少分が相殺されることになった43).. か,資金調達  すなわち,フランスの金融用.  1961年に導入された流動比率は,以上のよ. 語でいう「再金融」(refinancement)一を金. うな再割引限度枠制度の不備を補い,海外から. 融市場に求めるかのいずれかを迫られる.した. の資本流入という新しい現実に対処しようとす. がって一般的にいえば,1961年を期して,再. るものであった.その契機となったのはフラン. 金融の手段としての貨幣市場の重要度は増し,. の交換性回復である.. この市場へのフランス銀行の介入がもつ意味も.  フランス政府は1958年12月からフランの交 換性回復に着手していたが,1961年の年初に. 増したはずである.. なって,同年2月15日からIMFの「8条国」入.               オ ペ 貨幣市場とフランス銀行の介入政策(操作). りを果たすことを公式に宣言した.こうした措.  しかし流動比率が導入されても,さしあたり. 置をとれば,当然,国内通貨供給は国際資本移. フランスにおける貨幣市場の位置づけとその機. 動の影響を強く受けるようになる.このため国. 能に変化はなかった.これにはこの国の信用制. 民信用評議会とフランス銀行は,1960年10月. 度に特殊な事情が関係していた.. 6日に流動比率の導入を決め,それを翌1961 年1月31日から実施した.個々の銀行が維持す.  すでに述べたように,フランスの銀行システ. べき,短期債務にたいする流動資産の特定項目. 全国に配置されたフランス銀行の支店・出張所. の法定最低比率を定め,この比率を操作するこ. (その数は1960年時点で260を数えた)による. とによって銀行システムの流動性を管理しよう. 再割引  によって,再金融を保障されていた.. としたのである.なお,流動資産のなかで特定. このため,貨幣市場は著しく狭隙であった.ま. 項目に指定されたのは,(1)手元現金,国庫勘. たフランス銀行も,定款に規定のないことを理. 定・郵便為替局・フランス銀行にたいする預金. 由にこの市場への介入を忌避していた.同行が. 残高,(2)国庫証券,(3)再割引限度枠対象外の手. 公開市場で操作を行うようになるのは世界の中. 形とくに中期流動化手形,の3つである.制度 が複雑になっているのは,国庫証券と中期手形. 央銀行のなかでも遅く,1938年以降のことで ある.フランスは1935年から不況の深刻化と. を銀行システムに優先的に保有させようとする. ともに金の大量流出に見舞われるようになり,.   すなわち「信用の選別」を強化しようとす. 貨幣市場は収縮し国庫証券の市中消化が困難を. る  政策当局の意図が強く働いたことによる. きわめるようになった.この結果,フランス銀. ものである翰.. 行の市場介入(買い操作)が強く求められ, 1938年になって同行に,公開市場への介入を 認めるデクレーロワが制定されるにいたったの. 手形については再割引限度枠から外して無制限 に再割引に応じることにした.かくて再割引限. 度枠が設定されると,たしかにフランス銀行へ. ムは19世紀以来,基本的に再割引  しかも,. である45)..  43)Banque de France, Compte rendu des op6rations(αわ7吻. CRO),exercice 1960..  このような歴史的経緯もあって,フランス銀.  44)1961年度のフランス銀行の年次報告書にも こう記されている.「通貨当局の期待どおり,新た な規制は諸銀行をして,より多くの中期信用に資 金を充当し,それらを再割引に出すのを控えるよ. 行による市場介入はもっぱら国庫証券の売出し. うに仕向けた….」(CRO, exercice 1961, p.26ゆ. 資金の出し手として行動することになった.そ. の支援と金融諸機関のマージナルな資金調整を 目的とするものに限定され,しかも同行は常に.

(14) エ4. して操作はごく短期のパンション形式による割. 貨幣市場はマージナルな存在であり,しかも実. 引というかたちをとり,金利は割引率に近接し. 質的には「中央銀行市場」であった.それは変. た「事実上の割引率」46)が適用された.再割引. 動金利によって調整される自由な市場ではなか. 限度枠が導入された1948年からは,このパン. った.また,(買い)操作にあたっては,国庫. ションは再割引限度枠の緩衝装置として運用さ. 証券に優遇歩合を設定して私的証券との間に適. れた.次いで1951年10月,フランス銀行はそ. 用金利の大幅な格差を設けるなど,フランス銀. うした運用によって再割引限度枠制度が空洞化. 行は貨幣市場でも明らかに「選別」を行ってお. するのを恐れ,パンションについても個別の銀. り,その介入政策は「グローバルな」ものでは. 行ごとに「限度」(limites)と呼ばれる限度枠を. なかった.各種金利間の関係を示した図1に明. 設定した.そしてさらに,この限度枠に柔軟性 仕組みまで用意した.したがって,フランス銀. らかなように,こうした状況は1960年代の初 頭においても基本的に変わらなかった.流動性 比率が導入された1961年度についてさえ,フ. 行の各種の公式文書が一致して指摘していたよ. ランス銀行は年次報告書で次のように説明して. うに,「〔同行の〕市場介入は,割引という固. いる.「貨幣市場には一年を通じていかなる困. 定金利で行われる伝統的な金融支援の単純な延. 難も生じなかった.コールマネーは公定割引歩. 長でしがなかった」47).あるいはまた,EECの. 合の近くに張りついていた.というのは,銀行. 通貨委員会が評していたように,同行は貨幣市. システムの均衡は常に,しかも相当な額につい. 場を「割引政策によって間接的に制御していた」. て,フランス銀行による再割引に依存しつづけ. のであり,同行の市場介入は「商業手形の再割. たからである.」50)(傍点は引用者). をもたせるべく,限度外のパンションに応じる. 引という伝統的な方法によって行われる銀行 〔システム〕の流動性の調節を補完するだけの. 貨幣市場の自立化と通貨政策のグローバル化. ものでしかなかった」48).さらにいえば,フラ. (1964−67年). ンス銀行内で公開市場操作業務を担当する「貨.  貨幣市場の性格は1964年から大きく変化す. 幣市場局」(Service du March6 mon6taire)は. る.フランスでは折しも景気回復にともなって. 「第二の割引局」(un deuxiさme Servi6e de. インフレ傾向が強まり,貨幣市場金利は海外市. l’Escompte),つまり割引を担当する割引局の. 場の水準を上回るようになった.こうして生じ. 「付属物」でしかなかった49).. た内外金利差によって「好ましからざる」短資.  以上から明らかなように,フランスにおける. が流入しないよう,フランス銀行は海外市場の 動向に細心の注意を払いつつ,市場に常時介入.  45)以上,フランスにおける公開市場操作の導 入過程については,早上,前掲書,200−11頁,を 参照.ただし,1938年からフランス銀行が介入す るようになった市場は,厳密にいえば,一般にい われているような公開市場ではなく貨幣市場であ った.この点については,後段で紹介する一般評 議会における国庫局長ピエール=プロソレットの 発言を参照.  46)ABF, No.1397199404, note:Les instruments. せざるを得なくなった5’).図1に明らかなよう.  49)ABF, boite“Histoire. March6 mon6taire”, note:contribution a l’6tude du march6 mon6taire, par Capitaine G6rard Delbauf醇e, mars 1977, p.40..  50)CRO, exercice 1961, p.27. d’information n。45, juin 1984, P。4..  51)「海外の金利との関係でコールないしは1ヶ 月の市場金利を高水準のままにとどめることによ って,国内の信用経費の指標とみなされる割引率 をこの市場金利から切り離した.こうすることに よって,フランス銀行はフランスの利益にそって,.  48)Les instruments de la politique mon6taire,. 金利にたいする外国の影響を抑制できたのであ. doc. cit6, P.47.. る.」(1配紘,exercice 1964, p.48.). de la politique mon6taire dans les pays de la CEE, (1968−1971)..  47)Banque de Fra:nce, L8〃zακ〃6〃zo%窃α伽θ, note.

(15) 図1 割引率と貨幣市場金利の推移(1958−69年) (%). 10. 8. コール金利(私的証券) 6. 割引率.  ’. コール金利(公債). @’ @’ @ノ C’. C’. 1’・. h・、, P \”. 4. ∫.  ’ ’ 鼈齧`一. 、、一一一一. ”一層馬. \、1 、、、” ρ置 A  ’ 、   , 馬. @、  ’   、   、. @ 、’         、. @   、、’. 2 ’58   ’59   ’60   ’61   ’62   ’63   ’64   ’65   ’66   ’67   ’68   ’69. 出所二CRO, exercice l969.. に,それまで割引率とほぼ重なっていた市場介. れば自由であった.このため,諸銀行による資. 入金利は,1964年以降,割引率から大きく乖 離するようになる.貨幣市場はもはや割引政策. 産運用の自由度は以前に比べて大幅に広がっ た.フランス銀行当局によれば,新しい制度の. によって間接的に制御される市場ではなくなっ. もとでは諸銀行が将来の金利の変動を予測しつ. たのである.それは固定的金利(割引率)の影. つ資産運用を行うようになるために,「市場の. 響が及ばない市場で,海外諸市場およびユーロ. 自発的でより良好な均衡」52)が生れるはずであ. 市場と連動する市場になったのである.. った..  貨幣市場をめぐる状況は,1966年12月28日 に為替管理が完全撤廃されたのを機にさらに大.  一方,以上の制度改革にともなって,1967 年12月には先のパンションA,パンションB、. きく変る.1967年1月,国民信用評議会は流動. の制度が廃止された.同時に,国庫証券の「最. 比率に代えて「強制準備制度」(systさme des. 低限度」も廃止された.最低限度は1964年以. r6serves obligatoires)の導入を決めた.それは,. 降,財政事情が好転したことから数回引き下げ. 個々の銀行にたいして一覧払いもしくは短期の. られていたが,1967年9月に最終的に廃止され. 負債の一定割合に相当する流動性をフランス銀. たのである.以後,国庫は国庫証券の入札金利. 行に預託させるという制度である.この制度の. を貨幣市場金利に近い水準まで段階的に引き上. もとでは,法定準備額の維持は1ヶ月間の平均 額で実現されていればよく,この条件を満たし さえずれば,フランス銀行への預け金の出し入.  52) 乃ゴ4.,exercice 1965, p.28, et exercice 1966, P.33..

(16) ■6. げることになる.こうして「私的証券と公的証. いたが,以後,これらの証券の取引を割引に移. 券の間にあった仕切りが消え,短期証券につい. すことを決めたのである56).. ては金利の統一が実現した」53)のである..  同じく1967年に,フランス銀行は「一時的」.  かくて1967年の初頭から,フランス銀行に. であったとはいえ,その歴史上初めて,「金利. よる流動性の管理技術は「より簡素でよりグロ. にたいする統制力を維持する必要から,過大な. ーバルな」54)ものになり,その通貨政策もいっ. 流動性の供給を吸収すべく借りのポジションに. そう「中立的」な性格を備えることになる.. 身をおくことになった」57)(傍点は引用者).つ.  とはいえ,中期信用だけは1967年以後も特. まり,資金の取り手の側に回ったのである.. 別扱いされていた.流動比率の廃止にともなっ.  以上のように,貨幣市場をめぐる諸条件も貨. て諸銀行が中期手形の再割引をフランス銀行に. 幣市場の果たす役割も大きく変化し,貨幣市場. 過度に求めることのないよう,「保有率」. は自立化する傾向を示していた.こうした変化. (coef且cient de retenue)と呼ばれる新しい制度が. はフランス銀行の年次報告書にもはっきりとう. 導入されたからである.これによって,諸銀行. かがえる.貨幣市場に関する記述は年を追うご. の債務と保有中期手形の間に一定の比率が設定 され,この比率を最低率として維持することが. とに詳細になる.そして1966年度からは,そ れまで「通貨動向と信用政策」(L’6volution. 義務づけられた.このような制度が導入された. mon6taire et la politique du cr6dit)と表記されて. のは,中期信用が依然として信用全体のなかで. いた見出しが「通貨政策と信用動向」(La. 大きな割合を占めていたからであり,またフラ. politique mon6taire et l’6vol面on du cr6dit)に変更. ンス銀行による中期信用の流動化は同行の資産. される58).変更理由の説明はないが,その背景. を硬直化させる要因になるとみなされていたか. に,「信用」から「通貨」へという,同行の政. らである.なお,この保有率は当初20パーセ. 策運営における重心移動があったことは明らか. ントに設定されたが,漸次引き下げられ,1968. である.1968年1月,強制準備制度導入の直後. 年度下半期の末には14パーセントにまで低下. に作成されたフランス銀行の内部文書には,同. する55).. 行の貨幣市場にたいする姿勢の変化が次のよう.  同じ1967年には,フランス銀行は割引と貨 幣市場の分離を明確にすべく,さらに2つの措 置を講じている.先述したようにフランス銀行 は,「限度」制度のもとで,諸銀行から貨幣市 場で若干の証券を割引率で買い取っていた.し. に分析されている..    長い間,フランス銀行は貨幣市場におけ   る行動を狭くとらえてきた.すなわち,基   本的に,国庫証券の応募を助成することと,.   銀行の流動資金をより柔軟なものにするた. かし同行は,1月末にこの制度を廃止し,以後,.   めのものとみなしてきた.近年,そしてと. それらの証券は貨幣市場金利でしか受けつけな.   くにこの数ヶ月以来,フランス銀行はいっ. いことにした.次いで10月末には,対外国短 期信用の流動化を目的として振り出された手形.   そう厳格に,銀行の流動性を調整するため. についても取扱いを変更した.フランス銀行は.   為替の自由化によって,数ヶ月以来,貨幣. それまでこの種の手形を貨幣市場において3パ.   市場の役割と,フランス銀行の介入効果は. ーセントの固定金利で,かつ指値で買い取って.   目に見えて増大した.発券機関は,今後は,.   に介入している.…強制準備制度の導入と. 53)CNC, R砂ρoπα%%%61, ann6e 1967, p.29.. 56) 1ゐゴ4L, ann6e 1967, p.23.. 54)CRO, exercice 1966, p.38.. 57)CRO, exerciρe 1967, p.29. 55)CNC, R砂ρoπα%π%θ1, ann6e 1967, pp.21−22.. 58) 乃彦4.,exercice 1967, p.38..

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