対談 : キース・ヴィンセント×上野千鶴子
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(2) 立命館言語文化研究 28 巻 2 号. るデパートメントが英文学部であることに驚愕しました。彼らは社会学者でもなく,国際関係 研究者でもなく,文学研究者でした。徹底したテクスト・リーディングの中からこそ,あのよ うな概念とか理論ツールが生まれて,それが私たちに贈り物として与えられたのです。それが いったん通常科学(ノーマル・サイエンス)になってしまうと,どこを切っても金太郎. のよ. うな反復再生産が起きます。私はパラノイド・リーディングというものはノーマル・サイエン スの宿命だと思いますが,それが生まれたときにはそうではなかったと思います。そのような 新しいリーディングをもたらしたものは,一体誰でしょうか。 私は,今日キースが言及しなかったこと,20 世紀の文学理論の最も重要な達成の 1 つ,それ はオーディエンス・セオリーだと思いますが,その読者論を持ち出さなかったことを奇妙に思 います。読者が再読することによってテクストをその場で消費し再生産するという,読者のエ イジェンシーを強調する新しい読み方,読者論をもたらしたのは,フェミニズム批評もまたそ の大きな貢献の 1 つでした。フェミニズム批評の理論家にエレイン・ショーウォルターという 人がいます。彼女はフェミニズム批評を 2 種類に分けています。1 つは狭い意味のフェミニスト・ クリティシズム,もう一つはガイノクリティシズムです。フェミニスト・クリティシズムとは, それまでカノン canon だと思われていた男性文学に対するジェンダー批評,つまり男性バイア ス批判です。ガイノクリティシズムとは,不当に貶められてきた女性文学の再評価をさします。 この 2 つをもう少しわかりやすい言葉でいうと,フェミニスト・クリティシズムというのは 名作を駄作と言う権利の行使です。これをやってのけたのは,私自身も関係した『男流文学論』 (富 岡多惠子・上野千鶴子・小倉千加子著,筑摩書房,1991 年)でした。改めてジェンダー視点か ら読んでみると,ノーベル賞作家の川端康成作『眠れる美女』はセクハラ小説ですし,吉行淳 之介はミソジニー作家です。それから『テヘランでロリータを読む』という名作がありますが, ナボコフの『ロリータ』もチャイルド・セクシャル・アビューズ小説にほかなりません。他方, ガイノクリティシズムは,取るに足りないと思われていたものに魅了される権利と言いかえて もいいかと思います。これをやってのけたのは,例えば田辺聖子の吉屋信子論でした( 『ゆめは るか吉屋信子 秋灯机の上の幾山河』朝日新聞社,1999 年) 。吉屋信子という,少女作家として 文学史に埋もれていた作家の再読を通じて,再評価しました。同じようなことが,マンガ批評 の分野で起きています。取るに足りないと思われていた漫画ですが,マンガ批評の確立によって, 今,臆面もなく女性たちは,竹宮惠子や萩尾望都の作品が自分の人生を変えたと言うことがで きるようになりました。ですから,読者がテクストを再読することによってその場でテクスト を新たに再生産するという読者論の立場から,何故キースが今日この場で漱石を取り上げたの かということを考えてみたいと思います。 漱石の再読という点で, 『こころ』という小説がクィア・リーディングにふさわしいテクスト だというのは多くの人が認めるところです。ルネ・ジラールのいう「三角形の欲望」モデルに 最も適合しやすいテクストだからです。ただ,これまでは「先生」と「K」との関係がホモソー シャルで,かつホモエロティックな関係だと解釈されてきたわけですが,私が再読してみて奇 妙な小説だなと思ったのは,本当にキースの本日の指摘どおり, 「先生」と「K」との関係よりも, 「私」と「先生」との関係のほうがはるかに intimate(インティメート)に描かれていたことです。 「三角形の欲望」モデルでは, 「私」についての視線が不在であったということがよくわかった − 24 −.
(3) 対談:キース・ヴィンセント×上野千鶴子(ヴィンセント,上野). からです。そこにあらわれる「先生」の妻は―traf fic in women,女の交易と言いますが,日 本語では女の交換と訳されています―内面が全く描かれない客体として,描かれている典型 的な easy to reread のテクストだということもわかりました。 それならそのような解釈につごうのよいな便利な例を選んだという言い方もできるのに,な ぜ漱石に恋しているとキースは言うのか。なぜならば,漱石に恋していると言うのは,日本で はとても安全なことだからです。というのは,日本の近代文学研究における漱石の存在は,イ ギリス文学研究におけるシェイクスピアと同じような保守本流の位置にありますから。私は漱 石に恋しているというほうが,もっと小物,例えば吉行淳之介に恋しているとか,ましてや女 性作家,津島佑子に恋しているというよりもはるかに安全なことだからです。そこでは対象に 付与される価値が,研究の価値を押し上げる効果があります。逆に言えば,対象が低い価値し か持たないときには研究の価値も押し下げられるということが起きます。私は日本文学研究の 大学院生たちから,駆け込み訴えを受けるシェルターの役割を果たしてきました。例えば自分 は日本の女性作家を扱いたいんだが,自分の指導教員である男性はそれに反対する。反対する ときに,津島佑子を研究したいというと, 「ああ,あれ,彼女は感心しないね」と言う。そうい うとき,知らないなら「ボク,わかんないから,キミの好きにして」と一言言ってくれればい いのに,わからないとは言わず,ダメだというんです。文学として二流だという判定を下す, そういう男性の指導教員から逃れて,彼女たちは二流の文学研究者である社会学者のもとを緊 急避難先として求めてきたのでした。 古典というものの価値を,時代を超えて読み継がれる,あるいは再読,三読に耐えるテクス トだとすれば,キースは,プレゼンを省略した論文の最後のほうで,幾つかの作家の名前を並 べています。夏目漱石と並んでヘンリー・ジェイムズ,それからジェーン・オースティン,紫 式部です。それでは,何がこれらを古典にしているのでしょうか。本当にそれはテクストの力 なのでしょうか。私にはとてもそうは思えません。なぜかというと,いかなるテクストも何ら かの偶然のファクターの集積によって時代を超えて再生産されてきたからです。例えば『源氏 物語』は本当にそんな古典でしょうか。『源氏物語』を国民文学の canon にしたのは,ある歴史 的偶然でした。 『源氏物語』は,江戸時代まではポルノまがいの婦女子のざれごとごときのもの と思われてきました。それを国文学の canon に仕立て上げたのは,皆さんもご存じのとおり本 居宣長で,それは何よりも漢学を排したい,国学を確立したいというナショナリズムのためで した。それは真名文字の文学(漢文学)に対して仮名文字の文学を打ち立てるためでしたから, 『源 氏物語』を再読することでそれを古典に押し上げたのは,本居というプロデューサーがいれば こそ,でした。その後も,明治以降に現代語訳が次々に出るなど,さまざまな歴史的な偶然が 重なることで初めて,『源氏物語』が今日のような日本文学の canon になっただろうと考えられ ます。 読者論の立場からすれば,何が本当に再読に耐えるのかというのは,決してテクストの力に よるではなくて,読者の発見によるものだと私は思います。そういう意味で,クィア・リーディ ングもまた,そういう読者による再読を通じたテクストの再生産であるはずなのです。 クィア・リーディングのお手本のような読みをご紹介したいと思います。文芸批評家の斎藤 美奈子という非常にブリリアントな女性がいます。彼女が「文庫解説を読む」という岩波書店 − 25 −.
(4) 立命館言語文化研究 28 巻 2 号. の PR 誌『図書』での連載の中で,目の覚めるような再読をやっています。その中で彼女は,大 橋洋一という英文学者が監訳した『ゲイ短編小説集』の解説を取り上げています。大橋は,オ スカー・ワイルドの Happy Prince,『幸福な王子』はゲイ小説だと言っているんです。つまり爛 熟する男性身体という,一つずつ宝石をついばめられていくあの幸福な王子と,それとツバメ との間にホモエロティシズムがあると,それはテクストから明らかだと言っているんです。な ぜならば,爛熟する男性身体ほどゲイにとって萌えるものはないからという,とてもわかりや すい説明です。同じようにフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』もそう読めばゲイ 小説だし,レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』もそうであるという,目の覚 めるようなクィア・リーディングをやってのけています。残念ながら日本文学を対象にはして いませんが。こういうクィア・リーディングを,アカデミック・コミュニティーが育てた人材 ではない書き手がやっている,アカデミックからそれが生まれていないのはどうしてでしょう か。 それだけでなく,後半でキースとの対談でやりとりしたいと思うんですけれども,斎藤さん のクィア・リーディングが大橋さんという英文学者の紹介したテクストに向けられているよう に,クィア・リーディングは日本では英文学畑には持ち込まれたが,日本文学者たちは大きな 影響を受けていない,もしくはその影響を拒絶しているように見えるのはなぜでしょうか。 以上をキースの論文に対するコメントとした上で,最後に理論的な質問を 1 つしたいと思い ます。実はプレゼンで飛ばした最後のところで,キースは非常に重要な概念を出しています。 「homosocial continuum」という概念です。私の問いは以下のとおりです。私もセジウィックに 非常に大きな影響を受けましたが,クィア・リーディングというのは今のところ,斎藤美奈子 のような女性の評論家によってすら,ほぼゲイ・リーディングと同義です。では,クィア・リー ディングにジェンダー対称性はあるのか,が私の問いです。その際, 「ホモソーシャル連続体」 という概念は,一体何を意味するのでしょうか。既にレズビアン・スタディーズの中には,エ イドリアン・リッチの「レズビアン連続体」という概念があります。もし「レズビアン連続体」 に対応する男性版をつくるとするなら,それは「ホモエロティック連続体」でなければならな いはずなのに,なぜキースはこれを「ホモエロティック連続体」にせず, 「ホモソーシャル連続体」 にしたのか。このジェンダー非対称性は何を意味するのでしょうか。 『女ぎらい』を出して以来,私はいろんな人から「メイル・ホモソーシャリティ」があるなら, 「フィメイル・ホモソーシャリティ」もあるのかとよく聞かれます。これに「イエス」と答える 人もいます。セジウィック自身は「イエス」と答えていますが,その具体例を挙げていません。 私の答は「ノー」です。なぜかというと,もしホモソーシャリティというものがホモフォビア とミソジニーと,3 点セットであると考えれば,その女性版はフィメイル・ホモソーシャリティ とレズビアン・フォビア,そしてマン・ヘイティングの 3 点セットでなければならないからです。 にもかかわらず実際にはそうなっていません。レズビアン連続体は成り立つのに,なぜホモエ ロティック連続体は成り立たず,ホモソーシャルとホモエロティックの間にホモフォビアとい う切断が入らなければならないのかということは,この概念がジェンダー非対称であることの 論理的な根拠となります。 もう一つの答は,「フィメイル・ホモソーシャリティ」が成り立たない理由は,ホモソーシャ − 26 −.
(5) 対談:キース・ヴィンセント×上野千鶴子(ヴィンセント,上野). リティとはエンタイトルメント(資格付与)に関係するからです。その資格とは,男性集団の 集団利益という社会的資源の配分の権利のことです。女性にそのような集団利益があるかとい うと,そもそも女性とは社会的資源を不利に配分された集団のことですから,女性集団に資格 付与されることのメリットがありません。また「メイル・ホモソーシャリティ」は価値付与が 富や権力という一元的な尺度で成り立っていますのに対し,「フィメイル・ホモソーシャリティ」 の場合には,女性集団の中での価値付与と男性による価値付与とが二元的になっており,その 尺度がしばしば一致しないという問題があります。ですから,女子文化というのは決して「メ イル・ホモソーシャリティ」から自立できない,それに寄生して生きるという二面性があります。 こういうジェンダー非対称性がある限り,「フィメイル・ホモソーシャリティ」は成り立たない というのが私の説です。もう一つの理由は,「メイル・ホモソーシャリティ」が配分するような 資源を「フィメイル・ホモソーシャリティ」は持たないという,これもジェンダー非対称性に 求められます。男性のホモソーシャリティが配分する資源こそ traffic in women,つまり交換の 対象としての女です。そのようなものとしての資源が,女性の側にあるかというと,女は資源 としての客体にすぎません。威信,財,権力,地位などの全てが「メイル・ホモソーシャリティ」 の集団の中で配分される資源であり,女性の配分はそれに伴う成果にほかなりません。男性集 団の中で配分される資源に当たるような自立した資源を, 「フィメイル・ホモソーシャリティ」 が集団利益として持つことは考えられません。今のところ女性が理論的にも実践的にも社会的 資源にアクセスするパスは,男とのつながりを通してでしかなく,それに与えられるエンタイ トルメントが妻という地位であるということは今でも変わっていません。なので,今のところ 女性の間で男性集団から独立して配分されるような財を想像することができないという点では, 私は「フィメイル・ホモソーシャリティ」が「メイル・ホモソーシャリティ」のカウンターパー トになるような形で存在しうるとは思えなません。 このような強力なジェンダー非対称性がある中で,クィア・リーディングのレズビアン・バー ジョンはいかに成り立つのか。クィア・リーディングは今のところほとんどゲイ・リーディン グと同じで,今日のキースのパフォーマンスもそうでした。それなら,そのレズビアン・バージョ ンを一体誰がどのように見せてくれるのだろうかを期待して,私のコメントを終わります。 ありがとうございました。(拍手). 対談 キース・ヴィンセント,上野千鶴子 (司会)中川成美 ○中川 それでは,これから対談に入りたいと思います。 ただいま,キース・ヴィンセントさんの基調講演及び上野さんのディスカッサントによる問 題提起という形で進行しましたが,これからヴィンセントさんと上野さんの対談に入りたいと 思います。なお,この会議は日本語,英語双方でやりますが,その際に通訳は入れません。例 えばご質問を英語でして,日本語で答えるというようなケースも出てくるかと思います。 − 27 −.
(6) 立命館言語文化研究 28 巻 2 号. それから,もう一つ大きな点は紙媒体のハンドアウトはございません。明日,一部だけは用 意いたしますけれども,基本的には Dropbox の中に入っております。HTTP は受付に用意して おりますので,端末をお持ちの方はそこからアクセスしてください。なお,まだ全部未発表の ものでございますので,サイテーションに関しては十分お気をつけいただきたいと思います。 時間の関係で,大変キースに,気を使っていただいて,最後のところをはしょってしまった わけなんですけれども。まず,上野さんからの 4 つの質問が出ました。1 つは読者論として,読 者のエイジェンシーの問題をどうするか。それから,例えば日本における少女小説とか BL とか, それからアニメーションであるとか,映像も含めて,そうしたものとのアクセスはどうだろうか。 それから,アカデミックから,こうしたクィア・リーディングの可能性を示していくような研究, あるいは研究者が出ないのはなぜか。それから 4 番目として,これが一番大きい問題となりま すけれども,ホモソーシャル・コンティニアムという,概念としては成立するかもしれないけ れども,例えばそこでメール・コンティニアム,あるいはフィメール・コンティニアムとして 自立し得るような理論が出てくるか。それは今,上野さんがご説明になったように大変困難な 状況ではないかというご質問だったと思います。そこのところからちょっと少しずつレスポン スしていただく形でよろしくお願いします。 ○ヴィンセント 上野さん,とてもおもしろい指摘をしてくださってありがとうございました。 確かにおっしゃるとおり私の話はある意味でポイントを強調するためにポリティカルにしま した。まず読者論の問題から始めたいんですけれども,私はもちろん読者は大切だと思います。 例えば,話の中でも,「新・こころ」の中の藤原は 1 人の読者ですね。彼が自分の読みを,先生 がそれを拒否しているのに,自分がそれを主張するわけですね。小森も 1 人の読者であるし, それこそ全ての人たちは読者。私が思うのは,やっぱり読者の中の区別をしない,区別というか, 区別はもちろんあるんだけれども,余り上下関係ではなくて,先生であったりとか学生であっ たりファンであったりとか,その全ての読者の読みを大切にすることが,まさに私のポイント の 1 つだと思ったんですけれども。ただ,作品も重要だと思います。私が思うには,アカデミッ クのトレンドがあるんですけれども,読者を強調する,読者を尊重する余りに,私たちが作品 の中に内在する力を見落としているように私は思います。だから,バランスが必要だと思います。 しかも,二項対立ではないと思います。両方の,読者も,作品も,あと作家も,それぞれのそ ういう主体性があって,それを交渉し合う,話し合う場というのが文学だと私は思います。 あと一つは,オリエンタリズム,ホモ・ソーシャリティといった,贈り物の話。それは確か に文学のテキストから,サイードもそうだし,それはとてもおもしろいご指摘ですけれども, もちろんそれは文学のテキストから来ている,あるいは文学テキストを読むことで,サイード とかセジウィックとかがそれを取り出して私たちにくれている,それをもって私たちがノーマ ル・サイエンスができるというのは確かにそうなんですけれども,私が言おうとしているのは, もうそれは 10 年,20 年前のことで,じゃ今は次の何かが必要で,ホモ・ソーシャリティ,別に 何でもいいんですけれども,そういうのを言い続けて,同じような道具を使って同じようにテ キストを分析,何回も何回もするというパターンになってしまっているような気がしますね。 だから,私たちが,サイードとセジウィックがやったように,テキスト自身,作品自身に戻って, また新しい理論的な武装を見出す時期が来ているのではないか,パラダイムシフトのときが, − 28 −.
(7) 対談:キース・ヴィンセント×上野千鶴子(ヴィンセント,上野). それが必要なんじゃないかと私は思います。 最後に 1 つ,余り時間がないですけれども,漱石を愛するのは簡単だと。確かに一番簡単な んですね,本当に。シェイクスピアを愛するのと。それはでも,ホモソーシャル的に愛するの は簡単だと思うんですけれども,恋しちゃうのはちょっと違うと思います。性的に本当に興奮 する,それがちょっとやばくなるわけですよ。だから私はこの発表を書いたときにやっぱりす ごく恥ずかしかった,こんなことをみんなの前で言えるか,本当に。それでもっと長いの,そ れは長過ぎて,今でも長過ぎたんだけれども,それを言うのは恥ずかしかったんで,その恥ず かしさは何だと考えたかったんですね。だからちょっと皮肉というか,確信持ってやったとい うか。それで,例えば漱石が 1 つの,シェイクスピアのようにとか,いわゆるハイカルチャーの, 彼のところで安心して勉強できるというようなあれだったら,それはやっぱりホモソーシャル な愛しかたで,それこそ男たちの家父長的な世界なんですけれども,でも,漱石におけるクィ アな要素を見出して,漱石にそのために,恋しちゃうというのは,それは違うんじゃないかと, 一応そういうふうに,それを考えるためにこれを書いたんですけれども。答えは今でもわから ないんですけれど,その違いを考えたかったんですね。ホモソーシャル的に作家を愛すること, それはもちろん,canon にどっぷりつかることなんですけれども,私が言おうとしていることは ちがいます。 あとは読者論のところで,名作を駄作と言う,名作じゃないものに魅了される権利という, その 2 つの読者論というか,フェミニスト的な考え方でいうとそれがありますけれども,もう 一つは,やっぱり名作をクィアに愛する,その中に今まで誰も見なかったところを見出す可能 性もあって,それを,私が漱石をやっているのは,やっぱり彼は canon のど真ん中にいるから こそ,彼をクィア化する価値があると思うからです。もちろんもっと,余り読まれていない作 家におもしろいクィア的な要素が幾らでもあると思いますけれども,それを言っても誰も驚か ない。もちろんそれをする価値はある,別にそれを否定しているわけではないんですけれども, 戦略として私は canon のど真ん中の作家をあえて選んでクィア化しようとしている。それはセ ジウィックがやった,一応彼女からそれを学んだんですけれども,彼女はヘンリー・ジェイム ズとかマルセル・プルーストとか,そういう非常に canon 的な男性作家を,それこそメルヴィ ルとかをクィア化しようとしている。上野さんがおっしゃった斎藤美奈子も同じようなことを しているようですが。一応そういうつもりで私は漱石をクィア化しようと思っているわけです。 最後にホモ・ソーシャリティ,それは難しい大きい問題なんですけれども,もちろん対称性 がない,それはセジウィックも『Between Men』で最初から言っていることで,男性,ホモソー シャル・コンティニアムには断絶がある,ただ女性のほうにはない。ただ,おもしろいのは, 最近はもしかしたらそれが変わってきていると思います。男性,ホモソーシャル・コンティニ アムの断絶がなくなりつつある。ホモナショナリズムという時代になって,日本は別かもしれ ないけれども,アメリカではゲイ結婚ができて,ゲイが本当にノーマライズされる中では,ホ モソーシャル・コンティニアムが, 継続性がまた出てきている。だからそれをまた考え直さなきゃ いけないと思います。 ○上野 「ホモソーシャル・コンティニアム」という概念のかわりに, 「レズビアン・コンティ ニアム」の男性版の概念をつくるとしたら, 「ホモエロティック・コンティニアム」になるんじゃ − 29 −.
(8) 立命館言語文化研究 28 巻 2 号. ないですか。 ○ヴィンセント でも断絶があるときは,僕はただその場合はセジウィックの言葉を使ってい ると思いますけれども,ホモソーシャル・コンティニアムで。もちろん片一方はエロティックで, 片一方はソーシャルというか,なんだけれども。 ○中川 だから,そこに断絶を見出すということにもやっぱり少し疑問を付さなきゃいけない ということですか。 ○ヴィンセント うん,そうです。それがもう,その状況が変わってきている。 ○中川 状況が変わってきている。 ○ヴィンセント セジウィックが 80 年代に書いた,明らかに断絶があるという,その状態が最 近変わってきていると思います。 ○中川 なくはないけれども,確かに一番今大きい問題は,世界的にゲイの結婚の問題があって, でも結局,国家的なさまざまな役割の中に回収されるんじゃないかという危機感はあって,そ れはキースなんかは前から批判していることの 1 つですけれども, それをちょっと考えていくと, この問題については新たに考え直しができるかもしれないということです。しかし,ただ,確 かに上野さんがおっしゃるとおり,レズビアン・ホモソーシャリティというのを形式的に夢想 すると,余り具体的な形としては,それはさまざまな形の可能性はあると思うんですけれども, ゲイで今見えているものとは,やっぱりちょっと違うような気もなきにしもあらずですね,確 かに。 ○上野 成り立たない。 ○中川 成り立たない。全く成り立たない。 ○上野 はい。 ○ヴィンセント それは日本で……。 ○中川 日本ってこと? (上野氏の応答を受けて)世界的。 ○上野 今のリプライを聞いて,最初の 3 つはほぼ同じことのくり返しですね。読者も大事だ けれども,作家もテクストも大事って。はい,そのとおりです。 いったんパラダイムシフトが起きて,それがノーマル・サイエンス化すれば陳腐化はあっと いう間に起きます。全くそのとおりで,みんな飽きてきたというのはそのとおりですが,その 意味で再び漱石という日本国民文学の canon を対象にしてクィア・リーディングを試みたのは 戦略的に正しいでしょう。最近,キース・ヴィンセントさんは大変戦略的に振る舞っておられ るようで,そのストラテジーは正しいと思いますが,それは同時に canon の再生産に結果とし て貢献するということでもあります。私たちは全く同じ批判を『男流文学論』で受けました。 Canon への挑戦は一方で対抗でもあるが,他方で canon の再生産にも寄与してしまうという両 義的な効果があるということは言えると思います。 ○中川 ちょっと時間の関係で少し先へ進みたいんですけれども,この対談に関しまして,私 どもで一応メールを通じまして討議したんですけれども,そこで幾つか非常に大きな問題が提 示されてきました。ちょっとそこの問題からやっていきましょうか。 では,キースのほうからお願いします。 ○ヴィンセント これは幾つか提起していきたい点なんですけれども,1 つは,私の印象では, − 30 −.
(9) 対談:キース・ヴィンセント×上野千鶴子(ヴィンセント,上野). 会議の call for papers でも書いていましたけれども,やっぱり日本でクィア・スタディーズは社 会学のほうが強い。文学,特に日本文学の分野では余り発達していない。それはおもしろいこ とにアメリカの場合と逆で,アメリカの場合はクィア・セオリーは文学という畑から出てきて いるわけですね。セジウィックも,お話しした D・A・ミラーも,マイケル・ウォーナーもロー レン・バーラントもみんな文学の教授で,なぜかそれは日本と逆なんです。それはなぜかとい うことを最初に上野さんに聞きたかったんですけれども,なぜ日本で社会学のほうでクィア・ スタディーズがこんなに盛んになって,文学があまり……。 ○上野 もうキースさんご自身が答えをご存じだと思いますが,とてもシンプルに答えられま す。1 つは,日本文学研究者における理論フォビア,2 つ目は日本文学研究者が横文字を読まな いこと,その 2 つです。 クィア・セオリーは,日本の英文学研究の中には強力に入ってきていますが,日本文学には 頑強な言語障壁があって入れない。社会学というのはなりふり構わぬ成り上がりの学問ですの で,隣接分野のありとあらゆる理論を全て借用して流用するというところですから,文学から も借用するし,ほかのところからも借用します。そうやって理論をどんどん使って陳腐化して いくという役割を果たしているので,理論の普及と大衆化の役割を社会学者がやっているとい うことでしょう。キースの答えもたぶん同じですか。 ○ヴィンセント そうです,一緒。 ○上野 横文字を読む日本文学研究者,あるいは参考文献の中に外国語の文献を入れる日本文 学研究者は嫌われますよね。 ○ヴィンセント これはその続きになるかもしれませんけれども,例えばイヴ・セジウィック という 1 人のフィギアを例にとれば,彼女の初期の作品, 『Between Men』と『Epistemology of the closet /クローゼットの認識論』は日本語に訳されて,とても大きな影響を与えたと思いま すけれども,それ以降の彼女の作品は全然訳されていないんですね。私は,それはもうクィア・ セオリー自体が流行らなくなったからか,それか後のほうの作品はもっとこてこての文学に焦 点を合わせたものだからか,それかパラノイド・リーディングをやめたから……。 ○上野 セジウィックの翻訳書でも, 『クローゼットの認識論』は日本の読者にまだわかるんで すが, 『Between Men』は,具体的に 19 世紀のイギリス文学のテクストが出てくると,何を論 じているのかということそのものが,ほとんどわからないでしょう。テクストの共有がないので。 翻訳されていない文学テクストを読んで,セジウィックの研究をやっている人は英文学者には います。でも,それは英文学から越境しません。私は日本の文学研究者が文学という狭い領域 に立てこもっているなと思うのは,セジウィックもサイードももともと文学研究者なのに,徹 底したテクスト・リーディングの中からセオリーを生み出している。というふうなことを,日 本の文学研究者はあまりやらない。テクスト・リーディングの中から文明批評に至るようなス ケールの大きい仕事をする日本の文学研究者は,いないわけではないけれども,極めて例外的 なのはどうしてなんでしょうか。もう一つは文学研究の対象となるテクストが日本ではフィク ションとかノベルとかに非常に限定されていて,拡がりを持たないことです。1 つ私が挙げたい 例は,つい最近の出版事業の中で非常にすぐれた仕事の 1 つに,集英社が出した『戦争×文学』 という全 20 巻のコレクションがあるんですが,そこに,成田龍一という歴史学者が編者に入っ − 31 −.
(10) 立命館言語文化研究 28 巻 2 号. ています。ところが徹底して採用されているのはフィクションばかりなんです。サイードの『オ リエンタリズム』に使われているのはフローベールの紀行文ですが,紀行文とか日記とか,手 紙とか評論とかいうテクストが全部『戦争×文学』からは排除されている。私だったら「敗戦 と文学」の巻には,山田風太朗の敗戦日記とか,永井荷風の日記とかを入れたいし,戦後の丸 山眞男の『超国家主義の論理と心理』のような社会科学のテクストも入れたいですね。先行研 究は英語では existing literature といいます。つまり書かれたテクストの集合のことなんです。 なぜそういう発想,つまり徹底したテクスト・リーディングの対象となるべきテクストの集合 から,文学者はフィクション以外のものを排除するのかがとても残念です。日本の文学者はな ぜこんなに狭い意味の文学の中に立てこもっているのかについては,中川さんに答えていただ きましょうか。 ○中川 確かに今,上野さんおっしゃったとおりで,今度の『戦争×文学』 ,集英社,これ画期 的なんですね,この『戦争×文学』全集。今,本が売れない状態の中で集英社の英断だと思い ます。しかしながら,やはり私も同じ感想を持っておりまして,実は 1960 年代に同じ集英社か ら『昭和戦争文学全集』全 15 巻別巻 1 巻が出ていますね。これは,今,上野さんがご指摘になっ たとおりで,吉田満であるとか,それからもう本当に名もない兵士たちの記録であるとか,そ れがはいっています。この間,12 月 8 日のことで,私は京都新聞で対談したんですけれども, そのときに編集の方が持ってきたのが,この昭和戦争文学全集の「12 月 8 日」という巻だった わけです。そこにはもちろん太宰や安吾やいろんなもの入っているんですけれども,そのほか に数多ある,戦争詩であるとか,恐らく消えてしまうテキストを極力集めております。ただ少し, 『戦争×文学』の援護をしますと,テキストの大部分がやはり失われていっている,今の時代に 再読するに当たって,いろいろな条件の不備があるということは言えるかと思います。やはり, そういう点を含めて考えていきますと,私たちがテキストを決定するという行為は,とても重 要であると同時に難しいということになります。 先ほどの上野さんのなぜ漱石かという問題ともつながるし,そういうようなメイン・カノン であるからこそ,読みかえが必要だということもある。また同時に,失われてしまったテキス トをどういうふうに発掘していくかということも残ります。例えばキースさんのご著書の中に, 浜尾四郎という作家が入っているんですけれども,この人も今はほとんど誰も知らない─濱 尾実,元東宮侍従長の叔父にあたる人ですが─。この人が非常にホモエロティックな小説を 書いていますが,そうしたものは現在簡単には読めなくなっているというようなこともありま す。 ○ヴィンセント 少しコメントすると,私の講演の中で虚構と現実の境目を問題にすることは, 非常に私,それには関心を持っていますけれども,やっぱりフィクションはフィクションで現 実は現実だと,余りにそれを主張すると,それにいろんなほかの問題が付随すると思いますね。 だから基本的に,劇の中の先生のように,これはフィクションだよと,だからあなたに関係ない, あなたはそれに対してそれほど感情的な反応をする必要はない,フィクションだから,それは 漱石の筆の力だと言っているのは文学の先生なんです。それはどんなにひどい状態かと読んで 思ったんですけれども。だからやっぱり上野さんがおっしゃっているようにノンフィクション とフィクション─テキストというのは世の中に影響,というか行為をする,それはフィクショ − 32 −.
(11) 対談:キース・ヴィンセント×上野千鶴子(ヴィンセント,上野). ンであってもノンフィクションであっても私たちに働きかける,そのメカニズムを考えてそれ を分析することが私たちテキストを扱っている学者の仕事だと私は思います。フィクションじゃ なくても。 ではこのことに関わってもう一つ,5 番目に,クィア・リーディングはほかのディシプリンに どう当てはめるかということについて。クィア・リーディングは,私の講演の中で 1 つのやり 方のクィア・リーディングを提案しましたけれども,もちろんそれはそれだけなわけじゃなくて, あとは文学だけじゃないクィア・リーディングが応用できる分野というのはほかにもあるはず で,例えば歴史学とか社会学,上野さんに聞きたかったんですけれども,例えばクィア・リーディ ングがどのようなほかの分野で応用できるか。 ○上野 私は,クィア・リーディングにもっともふさわしい豊かなフィールドは,日本の BL ノ ベルと少女漫画の世界だと思っています。あのテクストの中から,そして,二次創作でカップ リングをするというテクスト消費の仕方から,腐女子カルチャーが生まれ,それが今,クィア・ リーディングの大きなリッチフィールドになっていますが,ここから目の覚めるような研究が 出てきてほしいとぞくぞくしながら待っているんです。私が知らないだけかもしれないので, もし皆さん方の中でご存じだったら教えてほしいぐらいですが。 私は,腐女子文化というか日本の BL 物というのは,日本の性別隔離文化の産物だと思ってい ます。ジェンダー文化には,一方に強制異性愛規範が支配している西欧のようなカップルカル チャーと,他方にムスリム圈のように性別隔離が支配的な文化があって,両者は文化的に違う と思うんですが,腐女子カルチャーは後者のその産物だと思っています。そういう意味では, 日本の腐女子カルチャーが,性別隔離の強い文化圏,まずアジア圏に対する文化輸出物として 非常に大きな影響力を持ったのは当然でしょうし,もっと潜在的なポテンシャルとして,アジ ア圏以上に強い性別隔離のもとにあるイスラム文化圏に対する輸出コンテンツとして強力な商 品価値を持っていると思っています。腐女子カルチャーをイスラム圏に輸出したら日本はきっ と金もうけができるだろうという私の仮説を,誰かに証明してほしいと思っているんですけれ どもね。こういう沃野が目の前に広がっているのに,どうして文学研究者はそこから研究成果 をくみ上げないのか。それにアニメーションもありますね。 ○中川 少し会場に戻してよろしいですか。会場の皆様,いかがでしょうか? ○ベルント すみません,京都精華大学のジャクリーヌ・ベルントと申します。よろしくお願 いします。 先ほどヴィンセント先生のお話を聞いて,漱石を恋するということは腐女子的な読みと一体 どこで違うのだろうかと思っていたんです。それが第 1 の質問になります。 つまり,それは上野先生の一番最後のポイントとつながればいいなと思っております。つまり, なぜクィア・リーディングとしての BL に対する本当におもしろい研究が生まれてこないのかと いう点なんですが,もしかしたらその理由の 1 つは余りにも情動的なアプローチにあるかもし れません。つまり,今日ヴィンセント先生が紹介してくれた感動的な読みとか恋するような読 みなどが,一体どれほど新しいタイプの批評,あるいは新しいタイプの学術研究とつながるかは, かなり私たちの職業的な畑にとっては大きな問題になるのではないかと思います。つまり,余 りにもアフェクティブな情動論的,情動的な,情動論でもないですね,情動的な読みを優先し − 33 −.
(12) 立命館言語文化研究 28 巻 2 号. てしまいますと,どうやって観念批評に陥らないような新しいタイプのテキスト分析が成り立 つのか,どうやって新しいタイプの美学が成り立つのかと不思議に思っております。 ○中川 ありがとうございます。では今,漫画研究とかの中で,ちょっと画期的な BL 論とかそ ういうのはまだ出ていないということですか,やっぱり。 ○ベルント 余りにも社会学系の─ごめんなさいね,上野さん─今日ヴィンセント先生が おっしゃったことは,まさにアニメ研究,漫画研究に当てはまります。つまり,私たちに今必 要なのは徹底的なテキスト分析です。しかし観念批評で─アレクサに反論されちゃうと思い ます─あるいは広い意味での感性論的な美学的なテキスト分析が確かに求められていますね。 つまり,社会科学者たちは何でもかんでも奪ってしまおう―ちがいますね。率直に言えば。 それは世界的なジャパニーズ・スタディーズにも当てはまるのではないかと思います。最初の ところでトポロジーとかソシオロジーを見れば,例えば漫画を取り上げると,物語論をやっても, ナラトロジーをやってもカジュアルトロジーに分類されてしまう。 ○中川 カリカチュアされてしまう。 ○ベルント 国際会議の場で。 でも,例えば BL とか腐女子的な読みに対するあの関心は,主に社会科学的な動機に裏づけら れているような気がします。それは一方ではファン自身,あるいはファンダムから生まれてく る若手研究者の動機なんですね。他方では,既存の学術分野がそれに対応できない。つまり, 例えばヴィンセント先生がおっしゃったような長時間的な筆の力,長時間的な魅力というのが, canon 的な,いわゆる高尚文学的な作品には当てはまるかもしれません,ある程度までは。そう いう美的な力が。しかし,例えば一時的なメディアとして働いているような漫画,アニメなど には,こういう古く見えるような自律,美学を適応できないのではないかと思われますね。一 方では…… ○中川 よろしい,ちょっとすみません。 ○ベルント ごめんなさい。 ○上野 ちょっと社会学を弁護しておくと,社会学の中でも文学的関心を持った人たちが,文 学研究ではできないことを社会学というブラックボックスの中でやっているとも言えます。社 会学はカテゴリーのごみ捨て箱ですので,カテゴリーを濫用,酷使するフィールドですから, 文学的関心を持ちながら文学研究でできないことをやるための隠れみのに使うという,一種の シェルター機能を果たしているところがあるかもしれませんね。 ○ヴィンセント それはとてもおもしろいですけれども,ちょっと次の質問に移りたいです。 パラノイド・リーディングというか,パラノイド・リーディングから離れていくと,私の講 演で私がそうやっていると思いますし,あとそれは 1 つの大きな動向であると思いますが,そ れを 1 つの脱政治化,というか政治を去る動きとして受け取られがちだか,もしかしたらもっ と効果的なやり方で政治的に読むことが,パラノイドじゃない方法でできるかということにつ いて,考えたいし,上野さんに聞きたいんですけれども,例えば研究者としてもっと例えば, 世界を救うんじゃなくて,もっと謙虚な態度でできることをする,小さな読みをして。何か例 えば実証的な研究を少しずつやって,テキストとつき合って小さな気づきを得るという謙虚な 態度というのは政治的にどう評価する。 − 34 −.
(13) 対談:キース・ヴィンセント×上野千鶴子(ヴィンセント,上野). ○上野 キースが問題提起した,ネオリベラリズムの中でいろんな研究が脱政治化しているん じゃないか,一方で,自由度が高まるように見えながら,それは私的な自由の高まりじゃない かという指摘は日本にもあてはまります。特に 3.11 以後の日本は,2012 年の総選挙と,2014 年 12 月の解散総選挙の結果に日本の知識人が失望感を深く味わった,例えば言葉とか運動とかが 社会を変えるという希望をほとんど失っている,そういう無力感に今さいなまれているんです ね。社会学でも,今グランドセオリーはほとんど失効していて,今何に向かっているかという とマイクロ・ソシオロジーです,それも当事者研究という名の。当事者研究ってとても訳しに くいんですが,study on oneself by oneself,あるいは self-directed studies と翻訳されていますが, 当事者研究は社会を救うよりも自分自身を救うというマイクロ・ソシオロジーのほうに行って います。もう一方で,グランドセオリーが失効したことに対するリアクションはとても強いです。 例えば 1 年前に「20 世紀最後のマルクス主義者」と言われるアントニオ・ネグリが日本に来た んですが,そのときのネグリの日本における歓迎はものすごかったです。今年になってから 21 世紀のマルクス主義者と言われるトマ・ピケティという人の翻訳が出まして,この人はテクス トが読まれる前から熱狂的に受け入れられています。一方でグランドセオリーに対する渇望と 熱狂が,もう一方で知識人の無力感とマイクロ・スタディーズ指向とが裏腹に結びついている という危惧をとても強く感じました。キースの質問を受けて,なるほどねと思ったのは,アメ リカはもっとオプティミスティックなんですってね。特にキースは今とっても楽天的なんだそ うですね。(注:トランプ大統領以後のアメリカについてはどうでしょうか,聴いてみたいです。) ○ヴィンセント この前,上野さんに言いましたけれども,テニュアを取りましたから,とて も楽天的になりました。 ○上野 ちゃんとカミングアウトゲイでもテニュアを取れるという,すばらしい自由な社会で すね,アメリカは。 ○ヴィンセント 漱石と 2 人で,これから安全な,幸せな人生を……。 ○上野 それがキースが最近ストラテジックになった理由ですか。 ○ヴィンセント ムードとか気分とかいえば,これは最後の質問なんですけれども,もっとあ るかもしれないけれども,雰囲気,ムード,気分で私たちが研究していることが変わっていく と思います。私の,自分のキャリアというか人生を振り返ってみると,90 年代は非常にいつも怒っ ていた時代で,あと怖かった時代,エイズのために非常に怖かったし,研究する仕事というの は非常にせっぱ詰まった,必死なペースでやらなきゃいけないという感じがあって,論文を書 くたびに政治的な重要性が非常に感じられて,ある意味ではそれはとてもスリリングだったん だけれども,長時間,何年もそれが続くと,やっぱりエネルギーがなくなるというか大変にな るんですね。これは私,個人的な人生だけの話かもしれませんけれども。最近は少し新しい方 法論を幾つか,きょうはクィア・セオリーの話なんですけれども,例えば認知科学を使った文 学論とか,それこそサーファスリーディングという新しくできた読みの戦略とか,精神分析と いう,そういう人間の深い深い井戸の中にこもっている暗いところを発見するようなことのそ のかわりに,もっと表面で現象を読むというような,これは曖昧なんですけれども,いろいろ そういうような方法論ができているような気がします。それで集団的な気分が変わってきてい るような感じがします。これは私だけかもしれませんけれども,そういう感じがしてならない − 35 −.
(14) 立命館言語文化研究 28 巻 2 号. です。私はそれを一種の開放的なこととして感じていて,もしかしたらこれで,これからの研 究にとって非常にいいことかもしれませんけれども,もちろんそれは脱政治化とかそういう心 配はありますけれども,でも逆にこれでもってもっと効果的に,政治的に動くことができるか もしれないという希望も一応持っております。 上野さんに聞きたかったんだけれども,日本の中で,もちろんムードが暗いとかさっきおっ しゃっていたような,選挙の後では大変だと思いますけれども,学問の世界の中で方法論と気 分というか。 ○上野 キースさんは大変楽観的なことをおっしゃいましたが,キースさん,私は退職教授な んですよ。私の老後の安泰は, 今,日本の政治状況によって打ち破られています。この年齢になっ て私は,かつてよりも怒りと絶望,失望感にさいなまれています。日本の状況は,ここまでの 右傾化が進むとは想定外でした。夢にも思わなかったような状況が起きています。それはやっ ぱり日本全体が人口減少している,そして国民経済の規模が縮小しているということと切って も切れない関係にあります。アカデミックマーケットは高等教育という産業と直接関係がある んですが,アメリカの高等教育はグローバルマーケットを相手にしています。だから,グロー バルマーケットが成長する間は,しかも英語化の動きが進んでいる間は,アメリカの高等教育 が産業としてこれからもまだ成長を続ける余地がたくさんありますが,日本の国内の高等教育 は国内市場が縮小していますので,しかもアジア圏では英語化が進んでいますから,この先余 り希望が持てないということになっていくでしょう,それは日本研究全体の地位も下げていく ことになるだろうし,日本の研究者は大きな希望を持てない状況になっています。社会学の分 野でも,グランドセオリーは失効していて,小さいパラダイムが群雄割拠しながら,いずれも 支配的な影響力を持てず,しかもますます研究が微視的になっていくという状況なので,私は今, 明るい希望を語ることができません。中川さん,日本近代文学に未来はありますか。 ○中川 それについては,またこれからのご発表を聞きながら希望をつないでいきたいと思う わけですけれども。 そんなことをいって,皆さんからもご意見を聴取しながら双方向的にやっていきたいと思い ながら,時間の処理がうまくいきませんで,時間が来てしまいました。これで,この対談,終 わりたいと思います。 それでは,お二人に拍手をお願いいたします。どうもありがとうございました。(拍手). − 36 −.
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