国際関係論集12 号, October 2011
Post-Ṣ addām Ḥusayn Iraq and its forced migrants
--Why improvement of the security situation does not facilitate their return--This paper draws attention to the situation around the forced Iraqi migration after the US-led attack in 2003. Our main focus is on the issue of return-migration from the view point of the “security” environment.
As well known, it's been 9 years since US-led Iraq attack in 2003 and the collapse of the Ḥusayn regime. Since then, almost 1.5 million Iraqis crossed the border mainly due to the terrible security situation. The bombing of al-‘Askarīya Mosque, one of the holiest shrines in Shi’i Islam, in 2006 led to what is often described as "a sectarian civil war." It lasted for almost 2 years, but near the end of 2008, the situation was said to have improved, according to the Iraqi government as well as other major international aid agencies.
It has been widely accepted by the aid agencies that when the security situation improves, people want to come back home. However, as of 2012, this has not happened in Iraq.
With the above background, in this paper we try to understand the reasons why the Iraqi migrants don't return home while their security concern――which they admit as the biggest obstacle for return――has been almost diminished. To serve that purpose, the paper sets a working hypothesis as follows: Aspects of the security environment are different from those giving aid and those receiving aid.
In this paper, first, we have a close look at the migration background. Second, we examine the overall returning flow of Iraqis. Third, we confirm the perceived importance of security for returners and humanitarian organizations. Fourth, we analyze the security situation in Iraq from both sides’ perspectives. Finally, with the above analysis, we bring new understanding to the issue of forced migrants in Iraq and two different “security situations.”
(ENJO Yumiko, Doctoral Program in International Relations, Graduate School of International Relations, Ritsumeikan University)
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金 鍾 泌 の政 治 権 力 闘 争 過 程 分 析
―
1990 年~1992 年における民主自由党党内闘争を中心に―
生 駒 智 一
目 次 序 章 第 一 章 時 代 背 景 俯 瞰 第 一 節 一 盧 三 金 各 人 の立 場 ・状 況 盧 泰 愚 金 鍾 泌 金 大 中 金 泳 三 第 二 節 第 13 代 総 選 挙 第 二 章 議 院 内 閣 制 改 憲 反 故 化 への道 第 一 節 三 党 合 同 第 二 節 「総 体 的 難 局 」の出 現 第 三 節 内 閣 制 覚 書 リーク事 件 小 括 第 三 章 ポスト盧 泰 愚 時 代 への 展 望 第 一 節 第 14 代 総 選 挙 の惨 敗 第 二 節 与 党 の大 統 領 候 補 選 と金 鍾 泌 の選 択 小 括 終 章 参 考 文 献 リスト序 章
本 稿 の目 的 は、1990 年 から 1992 年 にかけての民 主 自 由 党 内 における政 治 闘 争 に お いて、 金 鍾 泌 ( キ ム ・ ジョ ン ピル ) が 敗 北 し た 要 因 を分 析 す ること に あ る。1988 年 の第 六 共 和 国 出 発 時 の 大 統 領 は 盧 泰 愚 ( ノ ・ テ ウ ) で あ っ た が 、 大 統 領 選 挙 の 直 後 に 行 わ れた国 会1の総 選 挙 において、与 党 は過 半 数 を獲 得 することに失 敗 し、政 局 は安 定 しな かった。この対 策 のため、盧 泰 愚 は第 2 野 党 及 び第 3 野 党 との合 併 を目 論 んだのであ るが、その両 党 の総 裁2が金 泳 三 (キム・ヨンサム)と金 鍾 泌 であった。この3 党 の合 併3に よ っ て 作 ら れ た 新 政 党 、 民 主 自 由 党 内 で の 政 治 闘 争 を 金 鍾 泌 の 視 点 か ら 行 っ た の が 本 稿 である。 研 究 の対 象 としている期 間 は、一 般 的 に「 一 盧 三 金 」と呼 ばれている時 代4である。これ は、この時 代 の韓 国 政 治 が盧 泰 愚 、金 大 中 (キム・デジュン)、金 泳 三 、金 鍾 泌 の4 人 の ボス 政 治 家 によって動 かされていたことに因 むものである。それは彼 らがこの時 代 の主 要 政 党 総 裁 あるいは党 内 有 力 者 であり続 けていたこと、4 人 のうちの金 鍾 泌 を除 く盧 泰 愚 、 金 大 中 、金 泳 三 の3 人 は大 統 領 となり、またそれは当 時 代 に大 統 領 となった全 員 であっ たことからも明 らかである。 このうち、盧 泰 愚 、金 大 中 、金 泳 三 からの視 点 による、政 治 過 程 分 析 は豊 富 に存 在 す る[ 例 え ば、 木 村 幹(2008)、池 東 旭 (2002)、金 浩 鎮 、小 針 進 、羅 京 洙 (2007)など]。ま た、金 泳 三 の視 点 からの盧 泰 愚 政 権 分 析 は存 在 するが[チョン・テファン(2005)]、金 鍾 泌 の視 点 からのものは存 在 しない。民 主 化 以 降 の韓 国 政 治 の特 徴 である、地 域 主 義 に 関 す る 研 究 に お い て は 、 そ の 担 い 手 の 一 人 で あ る た め 金 鍾 泌 に も 必 ず 触 れ ら れ て い る [例 えば、森 康 郎(2011)]。しかし、それは登 場 人 物 の一 人 であるに過 ぎず、彼 の視 点 か らの分 析 というものにはほど遠 いと言 わざるを得 ない。 金 鍾 泌 に 関 す る 分 析 と し て 、 い く つ か の 学 位 論 文 が 挙 げ ら れ る 。 ま ず 、 キ ム ・ ヨ ン フ ン (2003)とパク・ヨンスン(1998)が挙 げられる。しかし、両 者 は所 属 大 学 院 が教 育 大 学 院 と 言 論 大 学 院 であ る 事 か らも 分 か る よ う に、 政 治 学 的 観 点 か ら の 分 析 で あ る とは 言 え ない。 次 に、イ・ ヨンホ(2005)が挙 げられる。これは政 治 学 的 観 点 からの研 究 ではあるが、国 務 総 理5と し て の 研 究 で あ り 、 本 稿 と は 時 期 も 立 場 も 異 な る6。ま た 、 金 鍾 泌 の 人 物 史 の 文 献 と し て 、 金 石 野 、 小 谷 豪 治 郎(1997)とイ・ダルスン(2012)が挙 げられる。前 者 は金 鍾 泌 への肩 入 れが激 しく、客 観 性 が疑 わしい。また、学 術 書 と言 うよりも歴 史 小 説 書 である。 後 者 は そ の タ イ ト ル と は 裏 腹 に 、 金 鍾 泌 の 視 点 か ら 丹 念 に 読 み 解 い て い く と い う 内 容 に はなっていない。 このよう に、「 一 盧 三 金 」 と言 いな がら 、金 鍾 泌 に関 す る分 析 の みが 乏 し い第 一 の 原 因 は、金 鍾 泌 だけが大 統 領 に なっていないからであると考 えられる。韓 国 は大 統 領 制 国 家 であるため、大 統 領 に偏 重 し た研 究 となりやすい素 地 はあるが、それに加 えて、「 一 盧 三 金 」 時 代 までの韓 国 は独 裁 国 家 であったことも関 係 していると考 えられる。独 裁 国 家 であ れば、大 統 領 はボス であり、他 の人 間 の意 向 を無 視 して、自 分 の成 したい事 柄 を自 由 に 推 し進 め るこ とが 出 来 た わけ であり 、大 統 領 以 外 の 人 間 、 つまり 子 分 に目 を 向 けた 研 究 を す る 価 値 は 低 い か ら で あ る7。 し か し 、 民 主 主 義 体 制 下 に お い て も 同 じ で あ る と は 言 え な い で あ ろ う 。 大 統 領 は 三 権 を 超 越 し た 存 在 で は な く 、 立 法 府 の 牽 制 を 強 く 受 け る 。 韓 国 は大 統 領 選 挙 と国 会 の総 選 挙 の時 期 は常 に一 致 せず、分 割 政 府8となりやすい9。分 割 政 府 と な れ ば 、 野 党 の 意 向 は 無 視 し 得 な い 。 ま た 、 与 党 内 で あ っ て も 全 員 が 大 統 領 の 子 分 と い う わ け で は な い。少 な か ら ざ る 非 大 統 領 派 も 存 在 し 、 大 統 領 は 彼 ら の 意 向 も 無 視 できない[ 大 西 裕(2008:139)]。したがって、野 党 や与 党 内 の有 力 者 の視 点 からの 分 析 も 必 要 で あ る 。 こ の 観 点 か ら は 、 大 統 領 に 就 任 し て お ら ず 、 か つ 政 党 ボ ス で あ っ た 金 鍾 泌 は第 一 に分 析 すべき対 象 となるのである。 金 鍾 泌 の研 究 が少 ない第 二 の原 因 として、彼 が軍 人 出 身 であることが考 えられる。「 一 盧 三 金 」 時 代 とは民 主 化 直 後 の時 代 である。民 主 化 勢 力 が時 代 の風 雲 児 であり、旧 派 勢 力 と見 なされる金 鍾 泌 は着 目 されにくかったのである。しかし、実 際 に政 界 において影 響 力 を保 持 していたのであるから、出 自 には関 係 なく、研 究 の対 象 とすべきであろう。 同 じく第 三 の原 因 として、彼 が議 院 内 閣 制 を執 拗 に追 求 していたことが考 えられる。第 二 共 和 国 の失 敗1 0、そしてそれ以 後 体 制 の変 化 はありながらも大 統 領 制 であり続 けてい たため、現 在 の韓 国 では議 院 内 閣 制 というものは非 現 実 的 であると考 えられている。した が っ て 、 非 現 実 な も の を 追 い求 め る よ う な 人 間 を 分 析 の 中 心 に 据 え る こ と も 非 現 実 的 で あると言 うことである。しかし、確 かにより理 想 的 な国 家 体 制 を考 えてのことというよりも、各 自 の 勢 力 争 い の 結 果 で は あ っ た が 、 こ の 時 期 議 院 内 閣 制 へ の 移 行 は 決 し て 可 能 性 が なかったわけではなく、むしろそうなる可 能 性 の方 が高 かった。議 院 内 閣 制 に移 行 しなか っ た の は あ く まで も 結 果 論 であ る 。 ま た 、 そ うで な くと も 理 想 主 義 者 だ か ら と い う こ とは、 そ の人 物 に着 目 しない理 由 とはなり得 ない。 第 四 の 原 因 と し て 、 議 会 で一 定 の 勢 力 を 有 し て い る と 言 え ど も 、 「 一 盧 三 金 」 の 他 の メ ンバ ーに 比 べれ ば 相 対 的 に は弱 く、 俄 然 影 響 力 も弱 い と 考 え られて い るこ と が挙 げ ら れ る。確 かに、民 主 自 由 党 結 党 直 前 の勢 力 分 布 としても、金 鍾 泌 の党 は第 4 勢 力 に過 ぎ ず、新 党 内 の勢 力 としても弱 かった1 1。しかし、いくつかの理 由 により、彼 はその影 響 力 を国際関係論集第12 号,October 2012
序 章
本 稿 の目 的 は、1990 年 から 1992 年 にかけての民 主 自 由 党 内 における政 治 闘 争 に お いて、 金 鍾 泌 ( キ ム ・ ジョ ン ピル ) が 敗 北 し た 要 因 を分 析 す ること に あ る。1988 年 の第 六 共 和 国 出 発 時 の 大 統 領 は 盧 泰 愚 ( ノ ・ テ ウ ) で あ っ た が 、 大 統 領 選 挙 の 直 後 に 行 わ れた国 会1の総 選 挙 において、与 党 は過 半 数 を獲 得 することに失 敗 し、政 局 は安 定 しな かった。この対 策 のため、盧 泰 愚 は第 2 野 党 及 び第 3 野 党 との合 併 を目 論 んだのであ るが、その両 党 の総 裁2が金 泳 三 (キム・ヨンサム)と金 鍾 泌 であった。この3 党 の合 併3に よ っ て 作 ら れ た 新 政 党 、 民 主 自 由 党 内 で の 政 治 闘 争 を 金 鍾 泌 の 視 点 か ら 行 っ た の が 本 稿 である。 研 究 の対 象 としている期 間 は、一 般 的 に「 一 盧 三 金 」と呼 ばれている時 代4である。これ は、この時 代 の韓 国 政 治 が盧 泰 愚 、金 大 中 (キム・デジュン)、金 泳 三 、金 鍾 泌 の4 人 の ボス 政 治 家 によって動 かされていたことに因 むものである。それは彼 らがこの時 代 の主 要 政 党 総 裁 あるいは党 内 有 力 者 であり続 けていたこと、4 人 のうちの金 鍾 泌 を除 く盧 泰 愚 、 金 大 中 、金 泳 三 の3 人 は大 統 領 となり、またそれは当 時 代 に大 統 領 となった全 員 であっ たことからも明 らかである。 このうち、盧 泰 愚 、金 大 中 、金 泳 三 からの視 点 による、政 治 過 程 分 析 は豊 富 に存 在 す る[ 例 え ば、 木 村 幹(2008)、池 東 旭 (2002)、金 浩 鎮 、小 針 進 、羅 京 洙 (2007)など]。ま た、金 泳 三 の視 点 からの盧 泰 愚 政 権 分 析 は存 在 するが[チョン・テファン(2005)]、金 鍾 泌 の視 点 からのものは存 在 しない。民 主 化 以 降 の韓 国 政 治 の特 徴 である、地 域 主 義 に 関 す る 研 究 に お い て は 、 そ の 担 い 手 の 一 人 で あ る た め 金 鍾 泌 に も 必 ず 触 れ ら れ て い る [例 えば、森 康 郎(2011)]。しかし、それは登 場 人 物 の一 人 であるに過 ぎず、彼 の視 点 か らの分 析 というものにはほど遠 いと言 わざるを得 ない。 金 鍾 泌 に 関 す る 分 析 と し て 、 い く つ か の 学 位 論 文 が 挙 げ ら れ る 。 ま ず 、 キ ム ・ ヨ ン フ ン (2003)とパク・ヨンスン(1998)が挙 げられる。しかし、両 者 は所 属 大 学 院 が教 育 大 学 院 と 言 論 大 学 院 であ る 事 か らも 分 か る よ う に、 政 治 学 的 観 点 か ら の 分 析 で あ る とは 言 え ない。 次 に、イ・ ヨンホ(2005)が挙 げられる。これは政 治 学 的 観 点 からの研 究 ではあるが、国 務 総 理5と し て の 研 究 で あ り 、 本 稿 と は 時 期 も 立 場 も 異 な る6。ま た 、 金 鍾 泌 の 人 物 史 の 文 献 と し て 、 金 石 野 、 小 谷 豪 治 郎(1997)とイ・ダルスン(2012)が挙 げられる。前 者 は金 鍾 泌 への肩 入 れが激 しく、客 観 性 が疑 わしい。また、学 術 書 と言 うよりも歴 史 小 説 書 である。 後 者 は そ の タ イ ト ル と は 裏 腹 に 、 金 鍾 泌 の 視 点 か ら 丹 念 に 読 み 解 い て い く と い う 内 容 に はなっていない。 金鍾泌の政治権力闘争過程分析(生駒) このよう に、「 一 盧 三 金 」 と言 いな がら 、金 鍾 泌 に関 す る分 析 の みが 乏 し い第 一 の 原 因 は、金 鍾 泌 だけが大 統 領 に なっていないからであると考 えられる。韓 国 は大 統 領 制 国 家 であるため、大 統 領 に偏 重 し た研 究 となりやすい素 地 はあるが、それに加 えて、「 一 盧 三 金 」 時 代 までの韓 国 は独 裁 国 家 であったことも関 係 していると考 えられる。独 裁 国 家 であ れば、大 統 領 はボス であり、他 の人 間 の意 向 を無 視 して、自 分 の成 したい事 柄 を自 由 に 推 し進 め るこ とが 出 来 た わけ であり 、大 統 領 以 外 の 人 間 、 つまり 子 分 に目 を 向 けた 研 究 を す る 価 値 は 低 い か ら で あ る7。 し か し 、 民 主 主 義 体 制 下 に お い て も 同 じ で あ る と は 言 え な い で あ ろ う 。 大 統 領 は 三 権 を 超 越 し た 存 在 で は な く 、 立 法 府 の 牽 制 を 強 く 受 け る 。 韓 国 は大 統 領 選 挙 と国 会 の総 選 挙 の時 期 は常 に一 致 せず、分 割 政 府8となりやすい9。分 割 政 府 と な れ ば 、 野 党 の 意 向 は 無 視 し 得 な い 。 ま た 、 与 党 内 で あ っ て も 全 員 が 大 統 領 の 子 分 と い う わ け で は な い。少 な か ら ざ る 非 大 統 領 派 も 存 在 し 、 大 統 領 は 彼 ら の 意 向 も 無 視 できない[ 大 西 裕(2008:139)]。したがって、野 党 や与 党 内 の有 力 者 の視 点 からの 分 析 も 必 要 で あ る 。 こ の 観 点 か ら は 、 大 統 領 に 就 任 し て お ら ず 、 か つ 政 党 ボ ス で あ っ た 金 鍾 泌 は第 一 に分 析 すべき対 象 となるのである。 金 鍾 泌 の研 究 が少 ない第 二 の原 因 として、彼 が軍 人 出 身 であることが考 えられる。「 一 盧 三 金 」 時 代 とは民 主 化 直 後 の時 代 である。民 主 化 勢 力 が時 代 の風 雲 児 であり、旧 派 勢 力 と見 なされる金 鍾 泌 は着 目 されにくかったのである。しかし、実 際 に政 界 において影 響 力 を保 持 していたのであるから、出 自 には関 係 なく、研 究 の対 象 とすべきであろう。 同 じく第 三 の原 因 として、彼 が議 院 内 閣 制 を執 拗 に追 求 していたことが考 えられる。第 二 共 和 国 の失 敗1 0、そしてそれ以 後 体 制 の変 化 はありながらも大 統 領 制 であり続 けてい たため、現 在 の韓 国 では議 院 内 閣 制 というものは非 現 実 的 であると考 えられている。した が っ て 、 非 現 実 な も の を 追 い求 め る よ う な 人 間 を 分 析 の 中 心 に 据 え る こ と も 非 現 実 的 で あると言 うことである。しかし、確 かにより理 想 的 な国 家 体 制 を考 えてのことというよりも、各 自 の 勢 力 争 い の 結 果 で は あ っ た が 、 こ の 時 期 議 院 内 閣 制 へ の 移 行 は 決 し て 可 能 性 が なかったわけではなく、むしろそうなる可 能 性 の方 が高 かった。議 院 内 閣 制 に移 行 しなか っ た の は あ く まで も 結 果 論 であ る 。 ま た 、 そ うで な くと も 理 想 主 義 者 だ か ら と い う こ とは、 そ の人 物 に着 目 しない理 由 とはなり得 ない。 第 四 の 原 因 と し て 、 議 会 で一 定 の 勢 力 を 有 し て い る と 言 え ど も 、 「 一 盧 三 金 」 の 他 の メ ンバ ーに 比 べれ ば 相 対 的 に は弱 く、 俄 然 影 響 力 も弱 い と 考 え られて い るこ と が挙 げ ら れ る。確 かに、民 主 自 由 党 結 党 直 前 の勢 力 分 布 としても、金 鍾 泌 の党 は第 4 勢 力 に過 ぎ ず、新 党 内 の勢 力 としても弱 かった1 1。しかし、いくつかの理 由 により、彼 はその影 響 力 を一 気 に押 し 上 げ う る可 能 性 を持 ってい た。まず、 韓 国 の 大 統 領 制 は 単 任 制 で ある 。 した がって、盧 泰 愚 は 必 ず後 継 者 を必 要 として いた が、彼 の 旧 党 内 にはそ の有 力 な候 補 者 は存 在 し なか っ た。 旧 党 外 と な ると 、合 併 し た 他 党 の 総 裁 であ る 、 金 鍾 泌 と 金 泳 三 が 最 有 力 候 補 となる のが 自 然 で あろう。ここで、金 鍾 泌 は盧 泰 愚 と同 様 軍 人 出 身 であっ たが、 金 泳 三 は 民 主 化 勢 力 出 身 で あ っ た1 2。 金 泳 三 よ り も 金 鍾 泌 に 後 事 を 託 す 方 が 退 任 後 の身 の 安 全 は 保 ちやす いと 、盧 泰 愚 が考 え るのは自 然 であろう。また、退 任 後 も 影 響 力 を 保 持 し た か っ た 盧 泰 愚 は 議 院 内 閣 制 へ の 改 憲 を 推 し て い た 。 金 鍾 泌 は 盧 泰 愚 以 上 にそれ を 積 極 的 に推 進 して いた が、 金 泳 三 は 反 対 して いた。こ のよ うなことか ら 、金 鍾 泌 は盧 泰 愚 か ら 自 身 の 後 継 者 に 指 名 して も らうこと を 十 分 に 期 待 で き た。 ま た、 盧 泰 愚 同 様 、 彼 の 旧 党 出 身 議 員 に は 軍 人 出 身 者 が 多 く 、 彼 ら も 盧 泰 愚 と 同 様 の 理 由 で 金 泳 三 及 びそ の 派 閥 議 員 に警 戒 心 が あっ た。 一 方 で、 金 鍾 泌 やそ の 派 閥 議 員 には 旧 知 の仲 の者 が大 勢 おり、金 鍾 泌 は盧 泰 愚 派 議 員 か らの協 力 が 得 られる 可 能 性 も 高 かったの で ある[ イ・ダルスン(2012:410-412)、金 容 浩 (2001:229-232,249-250)]。 し か し 、 盧 泰 愚 の 後 継 者 に は ラ イ バ ル で あ る 金 泳 三 が 就 き 、 金 鍾 泌 の 悲 願 と も 言 え た 議 院 内 閣 制 への改 憲 も金 泳 三 によって阻 まれてしまう。金 鍾 泌 はどうして党 内 での権 力 闘 争 に 敗 北 し、 全 て を金 泳 三 に 掻 っ攫 われて しま った の であろ うか。 その 政 治 過 程 を 分 析 す る に あ た っ て 、 ま ず 第 一 章 で 、 本 論 に 入 る 前 に 時 代 状 況 を 整 理 す る た め に 、 一 盧 三 金 各 人 のこの時 期 の置 かれた立 場 ・ 状 況 と、直 前 に行 われた第 13 代 総 選 挙 の模 様 を確 認 する。次 に第 二 章 で 、彼 の悲 願 であった議 院 内 閣 制 への改 憲 が金 泳 三 によって 阻 ま れ た 要 因 を 分 析 す る 。 最 後 に 第 三 章 で 、 盧 泰 愚 の 後 継 者 争 い に 敗 北 し た 要 因 を 分 析 する。
第 一 章 時 代 背 景 俯 瞰
第 一 節 一 盧 三 金 各 人 の立 場 ・状 況 盧 泰 愚 盧 泰 愚 は 1932 年 、慶 尚 北 道 (キョンサンブット)の大 邱 (テグ)に生 まれる。朝 鮮 戦 争 が始 ま ると軍 隊 に 入 り、 下 士 官 の 時 に陸 軍 士 官 学 校 を 受 験 、11 期 生 として入 学 する。 そこで 一 生 の 友 と な る全 斗 煥 ( チョン・ ド フ ァン) と 知 り合 う。 全 斗 煥 とは 同 期 で あっ た が、 全 斗 煥 の方 が1 歳 上 であったため、彼 を兄 事 した。また、朴 正 煕 (パク・チョンヒ)からも目 を か け ら れ て お り 、 陸 軍 参 謀 総 長 副 官 、 大 統 領 警 護 室 作 戦 次 長 補 、 保 安 司 令 官 な ど のポストに就 任 した。そして、それらはいずれも全 斗 煥 の後 任 であった。 全 斗 煥 がクーデターを起 こした後 は軍 部 のナンバー2 となり、彼 が大 統 領 に就 任 すると、 そ の 後 の 保 安 部 司 令 官 と な っ た 。 こ の よ う な 、 全 斗 煥 の 片 腕 と い う 立 ち 位 置 か ら 、 大 統 領 としても全 斗 煥 の後 継 者 となって行 くのである。 このように、盧 泰 愚 は常 にナンバー2 であり続 けた。ナンバー2 は決 断 するポストではな い。ナンバー2 は参 謀 であり、トップのご機 嫌 を伺 っていればよく、自 身 の信 念 や責 任 感 は必 要 ない。 そのよ うな立 場 に慣 れた盧 泰 愚 が大 統 領 と いう トップに 立 ったと しても一 度 形 成 さ れ て し ま っ た 性 格 は変 わ り よ う が な か っ た 。 ま た 、全 斗 煥 に 連 れ だ っ て 政 界 入 り し た盧 泰 愚 の政 治 家 としてのキャリアは極 めて短 かった。独 裁 政 権 下 で民 主 化 勢 力 として、 政 権 側 と戦 ってきた闘 士 である金 泳 三 と、対 等 にやりあ っていけるはずもなかったの であ る。 金 鍾 泌 金 鍾 泌 は 1926 年 、忠 清 南 道 (チュンチョンナムド)の扶 余 (プヨ)に生 まれる。陸 軍 士 官 学 校 に8 期 生 として入 学 する。以 降 、軍 人 としてのキャリアを進 み、1961 年 の朴 正 煕 による軍 事 クーデターを主 導 した。このあたりの経 歴 は盧 泰 愚 と類 似 しているが、盧 泰 愚 や 全 斗 煥 の 属 す る 新 軍 部 と 違 い、 金 鍾 泌 は 旧 軍 部 に 属 して い た。 この た め 、朴 正 煕 大 統 領 暗 殺 事 件 後 の、全 斗 煥 ら新 軍 部 によ る軍 事 クーデタ ー時 には勢 力 争 いのた めに 、 逮 捕 されてしまう。その後 、1987 年 6 月 の民 主 化 宣 言 を受 け、政 界 復 帰 を宣 言 。大 統 領 選 挙 に出 馬 した。 地 域 主 義 という状 況 の中 、忠 清 道 の盟 主 となったが、それは彼 が主 導 したものではなく、 空 白 地 域 の引 き 受 け手 となったに過 ぎなかった。また、 民 主 化 時 代 に おいて、そ の 軍 人 出 身 と い う 出 自 は 不 利 に 働 か ざ る を 得 な か っ た。 こ う して、 「 三 金 」 と い う 言 葉 に 表 されて い る よ う に 、 金 大 中 、 金 泳 三 と い う 民 主 化 勢 力 の 二 大 旗 手 と も 並 び 称 さ れ て は い る も の の 、 正 統 性 の 面 で 弱 く 、 常 に 弱 小 勢 力 に 留 ま る こ と と な る 要 因 に な り 、 活 動 に は 制 約 が 課 せられてしまうこととなった。 金 大 中 金 大 中 は 1925 年 、全 羅 南 道 (チョルラナムド)木 浦 (モッポ)の沖 合 にある島 で生 まれ る。1954 年 の総 選 挙 で国 会 議 員 に初 挑 戦 するも落 選 。1955 年 、民 主 党 に入 党 する。 民 主 党 には新 派 と旧 派 があったが、彼 はこのうち新 派 に所 属 した。ここで、その新 派 を率 いる張 勉 ( チャン・ミョン)に目 を掛 けられ、民 主 党 のスポークスマンを務 める。国際関係論集第12 号,October 2012 一 気 に押 し 上 げ う る可 能 性 を持 ってい た。まず、 韓 国 の 大 統 領 制 は 単 任 制 で ある 。 した がって、盧 泰 愚 は 必 ず後 継 者 を必 要 として いた が、彼 の 旧 党 内 にはそ の有 力 な候 補 者 は存 在 し なか っ た。 旧 党 外 と な ると 、合 併 し た 他 党 の 総 裁 であ る 、 金 鍾 泌 と 金 泳 三 が 最 有 力 候 補 となる のが 自 然 で あろう。ここで、金 鍾 泌 は盧 泰 愚 と同 様 軍 人 出 身 であっ たが、 金 泳 三 は 民 主 化 勢 力 出 身 で あ っ た1 2。 金 泳 三 よ り も 金 鍾 泌 に 後 事 を 託 す 方 が 退 任 後 の身 の 安 全 は 保 ちやす いと 、盧 泰 愚 が考 え るのは自 然 であろう。また、退 任 後 も 影 響 力 を 保 持 し た か っ た 盧 泰 愚 は 議 院 内 閣 制 へ の 改 憲 を 推 し て い た 。 金 鍾 泌 は 盧 泰 愚 以 上 にそれ を 積 極 的 に推 進 して いた が、 金 泳 三 は 反 対 して いた。こ のよ うなことか ら 、金 鍾 泌 は盧 泰 愚 か ら 自 身 の 後 継 者 に 指 名 して も らうこと を 十 分 に 期 待 で き た。 ま た、 盧 泰 愚 同 様 、 彼 の 旧 党 出 身 議 員 に は 軍 人 出 身 者 が 多 く 、 彼 ら も 盧 泰 愚 と 同 様 の 理 由 で 金 泳 三 及 びそ の 派 閥 議 員 に警 戒 心 が あっ た。 一 方 で、 金 鍾 泌 やそ の 派 閥 議 員 には 旧 知 の仲 の者 が大 勢 おり、金 鍾 泌 は盧 泰 愚 派 議 員 か らの協 力 が 得 られる 可 能 性 も 高 かったの で ある[ イ・ダルスン(2012:410-412)、金 容 浩 (2001:229-232,249-250)]。 し か し 、 盧 泰 愚 の 後 継 者 に は ラ イ バ ル で あ る 金 泳 三 が 就 き 、 金 鍾 泌 の 悲 願 と も 言 え た 議 院 内 閣 制 への改 憲 も金 泳 三 によって阻 まれてしまう。金 鍾 泌 はどうして党 内 での権 力 闘 争 に 敗 北 し、 全 て を金 泳 三 に 掻 っ攫 われて しま った の であろ うか。 その 政 治 過 程 を 分 析 す る に あ た っ て 、 ま ず 第 一 章 で 、 本 論 に 入 る 前 に 時 代 状 況 を 整 理 す る た め に 、 一 盧 三 金 各 人 のこの時 期 の置 かれた立 場 ・ 状 況 と、直 前 に行 われた第 13 代 総 選 挙 の模 様 を確 認 する。次 に第 二 章 で 、彼 の悲 願 であった議 院 内 閣 制 への改 憲 が金 泳 三 によって 阻 ま れ た 要 因 を 分 析 す る 。 最 後 に 第 三 章 で 、 盧 泰 愚 の 後 継 者 争 い に 敗 北 し た 要 因 を 分 析 する。
第 一 章 時 代 背 景 俯 瞰
第 一 節 一 盧 三 金 各 人 の立 場 ・状 況 盧 泰 愚 盧 泰 愚 は 1932 年 、慶 尚 北 道 (キョンサンブット)の大 邱 (テグ)に生 まれる。朝 鮮 戦 争 が始 ま ると軍 隊 に 入 り、 下 士 官 の 時 に陸 軍 士 官 学 校 を 受 験 、11 期 生 として入 学 する。 そこで 一 生 の 友 と な る全 斗 煥 ( チョン・ ド フ ァン) と 知 り合 う。 全 斗 煥 とは 同 期 で あっ た が、 全 斗 煥 の方 が1 歳 上 であったため、彼 を兄 事 した。また、朴 正 煕 (パク・チョンヒ)からも目 を か け ら れ て お り 、 陸 軍 参 謀 総 長 副 官 、 大 統 領 警 護 室 作 戦 次 長 補 、 保 安 司 令 官 な ど のポストに就 任 した。そして、それらはいずれも全 斗 煥 の後 任 であった。 金鍾泌の政治権力闘争過程分析(生駒) 全 斗 煥 がクーデターを起 こした後 は軍 部 のナンバー2 となり、彼 が大 統 領 に就 任 すると、 そ の 後 の 保 安 部 司 令 官 と な っ た 。 こ の よ う な 、 全 斗 煥 の 片 腕 と い う 立 ち 位 置 か ら 、 大 統 領 としても全 斗 煥 の後 継 者 となって行 くのである。 このように、盧 泰 愚 は常 にナンバー2 であり続 けた。ナンバー2 は決 断 するポストではな い。ナンバー2 は参 謀 であり、トップのご機 嫌 を伺 っていればよく、自 身 の信 念 や責 任 感 は必 要 ない。 そのよ うな立 場 に慣 れた盧 泰 愚 が大 統 領 と いう トップに 立 ったと しても一 度 形 成 さ れ て し ま っ た 性 格 は変 わ り よ う が な か っ た 。 ま た 、全 斗 煥 に 連 れ だ っ て 政 界 入 り し た盧 泰 愚 の政 治 家 としてのキャリアは極 めて短 かった。独 裁 政 権 下 で民 主 化 勢 力 として、 政 権 側 と戦 ってきた闘 士 である金 泳 三 と、対 等 にやりあ っていけるはずもなかったの であ る。 金 鍾 泌 金 鍾 泌 は 1926 年 、忠 清 南 道 (チュンチョンナムド)の扶 余 (プヨ)に生 まれる。陸 軍 士 官 学 校 に8 期 生 として入 学 する。以 降 、軍 人 としてのキャリアを進 み、1961 年 の朴 正 煕 による軍 事 クーデターを主 導 した。このあたりの経 歴 は盧 泰 愚 と類 似 しているが、盧 泰 愚 や 全 斗 煥 の 属 す る 新 軍 部 と 違 い、 金 鍾 泌 は 旧 軍 部 に 属 して い た。 この た め 、朴 正 煕 大 統 領 暗 殺 事 件 後 の、全 斗 煥 ら新 軍 部 によ る軍 事 クーデタ ー時 には勢 力 争 いのた めに 、 逮 捕 されてしまう。その後 、1987 年 6 月 の民 主 化 宣 言 を受 け、政 界 復 帰 を宣 言 。大 統 領 選 挙 に出 馬 した。 地 域 主 義 という状 況 の中 、忠 清 道 の盟 主 となったが、それは彼 が主 導 したものではなく、 空 白 地 域 の引 き 受 け手 となったに過 ぎなかった。また、 民 主 化 時 代 に おいて、そ の 軍 人 出 身 と い う 出 自 は 不 利 に 働 か ざ る を 得 な か っ た。 こ う して、 「 三 金 」 と い う 言 葉 に 表 されて い る よ う に 、 金 大 中 、 金 泳 三 と い う 民 主 化 勢 力 の 二 大 旗 手 と も 並 び 称 さ れ て は い る も の の 、 正 統 性 の 面 で 弱 く 、 常 に 弱 小 勢 力 に 留 ま る こ と と な る 要 因 に な り 、 活 動 に は 制 約 が 課 せられてしまうこととなった。 金 大 中 金 大 中 は 1925 年 、全 羅 南 道 (チョルラナムド)木 浦 (モッポ)の沖 合 にある島 で生 まれ る。1954 年 の総 選 挙 で国 会 議 員 に初 挑 戦 するも落 選 。1955 年 、民 主 党 に入 党 する。 民 主 党 には新 派 と旧 派 があったが、彼 はこのうち新 派 に所 属 した。ここで、その新 派 を率 いる張 勉 ( チャン・ミョン)に目 を掛 けられ、民 主 党 のスポークスマンを務 める。1970 年 9 月 に新 民 党 の大 統 領 候 補 に指 名 され、翌 1971 年 の大 統 領 選 では現 職 の 朴 正 煕 に97 万 票 差 にまで迫 った。しかし、そのため、独 裁 政 権 側 から危 険 な存 在 という 扱 いを受 け、交 通 事 故 に見 せかけた暗 殺 や拉 致 事 件 に遭 うはめとなる。その後 も軟 禁 さ れたり、 死 刑 判 決 を受 け るな どす る。 しかし 、それ だけに 独 裁 政 権 に 対 す る 英 雄 と い う 扱 いは大 きくなっていった。 こういった、民 主 化 勢 力 の一 番 手 という扱 いは、独 裁 政 権 側 からだけでなく、ライバル と なる他 の民 主 化 勢 力 からも危 険 視 され、除 外 されることとなる。このことと、地 域 的 に差 別 されてきた全 羅 道 出 身 という出 自 から、彼 は孤 立 主 義 へと向 かう。このような背 景 もあり、 三 党 合 同 で も のけ 者 にさ れ 、 唯 一 の 野 党 とな っ て しま っ た 平 和 民 主 党 ( 以 後 、 平 民 党 ) を率 いることとなるのである。 金 泳 三 金 泳 三 は 1927 年 、慶 尚 南 道 (キョンサンナンド)にある巨 済 島 (コジェド)で生 まれる。 1952 年 に張 沢 相 (チャン・テクサン)国 務 総 理 の秘 書 官 を務 め、1954 年 には与 党 ・自 由 党 所 属 議 員 として国 会 デビューを果 たす。しかし、その後 、四 捨 五 入 憲 法 に反 対 し て 与 党 を飛 び出 し、野 党 ・民 主 党 に移 った。金 大 中 の項 で述 べたように、民 主 党 には新 派 と旧 派 があったが、金 泳 三 は旧 派 に属 した。この、新 派 と旧 派 、全 羅 道 出 身 と慶 尚 道 出 身 という 2 点 の対 立 軸 にある差 異 によって、金 大 中 と永 遠 のライバル関 係 となっていくこ ととなる。 自 宅 軟 禁 や死 刑 判 決 を受 けるなど、金 泳 三 も金 大 中 と同 様 に独 裁 政 権 から弾 圧 を受 けた。しかし、その程 度 は金 大 中 よりは軽 微 なものであり、政 治 活 動 も比 較 的 許 されてい た。政 治 活 動 を禁 止 されていた金 大 中 は金 泳 三 の支 援 にまわり、両 者 の関 係 は良 好 で あった。しかし、2 人 の対 立 を目 論 んだ独 裁 政 権 によって、金 大 中 は 1987 年 12 月 の第 13 代 大 統 領 選 挙 を前 に政 治 活 動 を解 禁 される。すると、独 裁 政 権 の狙 い通 り、両 者 は すぐに仲 違 いを始 めた。2 人 の候 補 者 一 本 化 協 議 は物 別 れに終 わり、2 人 共 が大 統 領 選 挙 に臨 むこととなった。結 果 、共 倒 れをし、盧 泰 愚 に大 統 領 職 を横 取 りされてしった。 さ ら には、 大 統 領 選 挙 直 後 に 行 われ た第 13 代 総 選 挙 では、金 泳 三 の統 一 民 主 党 (以 後 、民 主 党 )は 59 議 席 しか獲 得 できず、与 党 である盧 泰 愚 の民 主 正 義 党 (以 後 、 民 正 党 )はおろか、ライバル である金 大 中 が率 いる平 民 党 の70 議 席 にすら及 ばず、第 3 勢 力 となってしまった。この、ライバル である金 大 中 の後 塵 を拝 してしまうという屈 辱 から、 本 来 は敵 対 勢 力 であったはずの軍 部 勢 力 である、盧 泰 愚 の民 正 党 との合 同 に向 かうの である。 第 二 節 第 13 代 総 選 挙 市 民 の間 で高 まる民 主 化 要 求 に対 し、与 党 ・民 正 党 の盧 泰 愚 は1987 年 6 月 29 日 、 民 主 化 宣 言 を行 った。この 宣 言 の中 には、大 統 領 直 接 選 挙 制 採 択 という 条 項 もあり 、こ れに基 づいて1988 年 12 月 16 日 、第 13 代 大 統 領 選 挙1 3が行 われることとなった。 与 党 の大 統 領 候 補 が盧 泰 愚 で一 本 化 されていたのに対 し、野 党 ・民 主 党 は候 補 の一 本 化 に失 敗 。 金 大 中 は民 主 党 を離 党 し、新 たに平 民 党 を結 成 、同 党 の総 裁 兼 大 統 領 候 補 となった。残 った民 主 党 は金 泳 三 を総 裁 兼 大 統 領 候 補 とした。また、政 界 を引 退 し てい た金 鍾 泌 も 大 統 領 選 へ の出 馬 を 表 明 し、 新 民 主 共 和 党 ( 以 後 、 共 和 党 ) を 結 成 し た。 この 4 名 によって行 われた第 13 代 大 統 領 選 挙 は金 大 中 、金 泳 三 の野 党 圏 分 裂 によ っ て 漁 夫 の 利 を 得 た 盧 泰 愚 が 36.6% の 得 票 率 に よ っ て 当 選 し た 。 な お 、 金 泳 三 は 28.0%、金 大 中 は 27.0%、金 鍾 泌 は 8.1%の得 票 率 であった。 続 いて、1988 年 4 月 26 日 に第 13 代 総 選 挙 が行 われた1 4。大 統 領 選 挙 では、36.6% と国 民 の3 人 に 1 人 強 の支 持 しか集 められなかったものの、それでも最 多 得 票 ということ で、民 正 党 の盧 泰 愚 が大 統 領 に当 選 した。しかし、第 一 党 に有 利 な仕 組 みがあるとはい え1 5、民 正 党 の得 票 率 は 33.9%に過 ぎず、全 国 区 も含 めた獲 得 議 席 数 は全 議 席 (299 議 席 )の 4 割 強 に過 ぎない、125 議 席 でしかなかった。続 いて、19.3%の得 票 を得 た金 大 中 の平 民 党 が 70 議 席 (23.4%)、23.8%の得 票 を得 た金 泳 三 の民 主 党 が 59 議 席 (19.7%)、15.6%の得 票 を得 た金 鍾 泌 が 35 議 席 (11.7%)となった1 6。 民 主 党 より も 獲 得 票 が 少 な い にも 関 わ ら ず 、平 民 党 の 獲 得 議 席 が 多 い の は、ソ ウ ル1 7 の17 議 席 と京 畿 道 の 1 議 席 を除 く全 議 席 を湖 南 地 域1 8から獲 得 するという、地 域 依 存 性 の高 さによるものである。なお、その平 民 党 が獲 得 した湖 南 地 域 の 36 議 席 というのは、 同 地 域 の 37 議 席 の大 半 を占 めるものであり、唯 一 平 民 党 以 外 からの出 馬 で当 選 した 議 員 も後 に平 民 党 入 りしていることを考 えると、同 地 域 の独 占 率 は 100%であると言 える。 他 政 党 も平 民 党 ほどではないにしろ、民 正 党 は大 邱 市 及 び慶 尚 北 道 の 29 議 席 中 25 議 席 、民 主 党 は釜 山 市 の15 議 席 中 14 議 席 、共 和 党 は忠 清 南 道 の 18 議 席 中 13 議 席 を獲 得 す るなど地 域 ごと の 各 政 党 の独 占 性 は非 常 に 高 かった。これを韓 国 の地 域 主 義 と言 う1 9。
国際関係論集第12 号,October 2012 1970 年 9 月 に新 民 党 の大 統 領 候 補 に指 名 され、翌 1971 年 の大 統 領 選 では現 職 の 朴 正 煕 に97 万 票 差 にまで迫 った。しかし、そのため、独 裁 政 権 側 から危 険 な存 在 という 扱 いを受 け、交 通 事 故 に見 せかけた暗 殺 や拉 致 事 件 に遭 うはめとなる。その後 も軟 禁 さ れたり、 死 刑 判 決 を受 け るな どす る。 しかし 、それ だけに 独 裁 政 権 に 対 す る 英 雄 と い う 扱 いは大 きくなっていった。 こういった、民 主 化 勢 力 の一 番 手 という扱 いは、独 裁 政 権 側 からだけでなく、ライバル と なる他 の民 主 化 勢 力 からも危 険 視 され、除 外 されることとなる。このことと、地 域 的 に差 別 されてきた全 羅 道 出 身 という出 自 から、彼 は孤 立 主 義 へと向 かう。このような背 景 もあり、 三 党 合 同 で も のけ 者 にさ れ 、 唯 一 の 野 党 とな っ て しま っ た 平 和 民 主 党 ( 以 後 、 平 民 党 ) を率 いることとなるのである。 金 泳 三 金 泳 三 は 1927 年 、慶 尚 南 道 (キョンサンナンド)にある巨 済 島 (コジェド)で生 まれる。 1952 年 に張 沢 相 (チャン・テクサン)国 務 総 理 の秘 書 官 を務 め、1954 年 には与 党 ・自 由 党 所 属 議 員 として国 会 デビューを果 たす。しかし、その後 、四 捨 五 入 憲 法 に反 対 し て 与 党 を飛 び出 し、野 党 ・民 主 党 に移 った。金 大 中 の項 で述 べたように、民 主 党 には新 派 と旧 派 があったが、金 泳 三 は旧 派 に属 した。この、新 派 と旧 派 、全 羅 道 出 身 と慶 尚 道 出 身 という 2 点 の対 立 軸 にある差 異 によって、金 大 中 と永 遠 のライバル関 係 となっていくこ ととなる。 自 宅 軟 禁 や死 刑 判 決 を受 けるなど、金 泳 三 も金 大 中 と同 様 に独 裁 政 権 から弾 圧 を受 けた。しかし、その程 度 は金 大 中 よりは軽 微 なものであり、政 治 活 動 も比 較 的 許 されてい た。政 治 活 動 を禁 止 されていた金 大 中 は金 泳 三 の支 援 にまわり、両 者 の関 係 は良 好 で あった。しかし、2 人 の対 立 を目 論 んだ独 裁 政 権 によって、金 大 中 は 1987 年 12 月 の第 13 代 大 統 領 選 挙 を前 に政 治 活 動 を解 禁 される。すると、独 裁 政 権 の狙 い通 り、両 者 は すぐに仲 違 いを始 めた。2 人 の候 補 者 一 本 化 協 議 は物 別 れに終 わり、2 人 共 が大 統 領 選 挙 に臨 むこととなった。結 果 、共 倒 れをし、盧 泰 愚 に大 統 領 職 を横 取 りされてしった。 さ ら には、 大 統 領 選 挙 直 後 に 行 われ た第 13 代 総 選 挙 では、金 泳 三 の統 一 民 主 党 (以 後 、民 主 党 )は 59 議 席 しか獲 得 できず、与 党 である盧 泰 愚 の民 主 正 義 党 (以 後 、 民 正 党 )はおろか、ライバル である金 大 中 が率 いる平 民 党 の70 議 席 にすら及 ばず、第 3 勢 力 となってしまった。この、ライバル である金 大 中 の後 塵 を拝 してしまうという屈 辱 から、 本 来 は敵 対 勢 力 であったはずの軍 部 勢 力 である、盧 泰 愚 の民 正 党 との合 同 に向 かうの 金鍾泌の政治権力闘争過程分析(生駒) である。 第 二 節 第 13 代 総 選 挙 市 民 の間 で高 まる民 主 化 要 求 に対 し、与 党 ・民 正 党 の盧 泰 愚 は1987 年 6 月 29 日 、 民 主 化 宣 言 を行 った。この 宣 言 の中 には、大 統 領 直 接 選 挙 制 採 択 という 条 項 もあり 、こ れに基 づいて1988 年 12 月 16 日 、第 13 代 大 統 領 選 挙1 3が行 われることとなった。 与 党 の大 統 領 候 補 が盧 泰 愚 で一 本 化 されていたのに対 し、野 党 ・民 主 党 は候 補 の一 本 化 に失 敗 。 金 大 中 は民 主 党 を離 党 し、新 たに平 民 党 を結 成 、同 党 の総 裁 兼 大 統 領 候 補 となった。残 った民 主 党 は金 泳 三 を総 裁 兼 大 統 領 候 補 とした。また、政 界 を引 退 し てい た金 鍾 泌 も 大 統 領 選 へ の出 馬 を 表 明 し、 新 民 主 共 和 党 ( 以 後 、 共 和 党 ) を 結 成 し た。 この 4 名 によって行 われた第 13 代 大 統 領 選 挙 は金 大 中 、金 泳 三 の野 党 圏 分 裂 によ っ て 漁 夫 の 利 を 得 た 盧 泰 愚 が 36.6% の 得 票 率 に よ っ て 当 選 し た 。 な お 、 金 泳 三 は 28.0%、金 大 中 は 27.0%、金 鍾 泌 は 8.1%の得 票 率 であった。 続 いて、1988 年 4 月 26 日 に第 13 代 総 選 挙 が行 われた1 4。大 統 領 選 挙 では、36.6% と国 民 の3 人 に 1 人 強 の支 持 しか集 められなかったものの、それでも最 多 得 票 ということ で、民 正 党 の盧 泰 愚 が大 統 領 に当 選 した。しかし、第 一 党 に有 利 な仕 組 みがあるとはい え1 5、民 正 党 の得 票 率 は 33.9%に過 ぎず、全 国 区 も含 めた獲 得 議 席 数 は全 議 席 (299 議 席 )の 4 割 強 に過 ぎない、125 議 席 でしかなかった。続 いて、19.3%の得 票 を得 た金 大 中 の平 民 党 が 70 議 席 (23.4%)、23.8%の得 票 を得 た金 泳 三 の民 主 党 が 59 議 席 (19.7%)、15.6%の得 票 を得 た金 鍾 泌 が 35 議 席 (11.7%)となった1 6。 民 主 党 より も 獲 得 票 が 少 な い にも 関 わ ら ず 、平 民 党 の 獲 得 議 席 が 多 い の は、ソ ウ ル1 7 の17 議 席 と京 畿 道 の 1 議 席 を除 く全 議 席 を湖 南 地 域1 8から獲 得 するという、地 域 依 存 性 の高 さによるものである。なお、その平 民 党 が獲 得 した湖 南 地 域 の 36 議 席 というのは、 同 地 域 の 37 議 席 の大 半 を占 めるものであり、唯 一 平 民 党 以 外 からの出 馬 で当 選 した 議 員 も後 に平 民 党 入 りしていることを考 えると、同 地 域 の独 占 率 は 100%であると言 える。 他 政 党 も平 民 党 ほどではないにしろ、民 正 党 は大 邱 市 及 び慶 尚 北 道 の 29 議 席 中 25 議 席 、民 主 党 は釜 山 市 の15 議 席 中 14 議 席 、共 和 党 は忠 清 南 道 の 18 議 席 中 13 議 席 を獲 得 す るなど地 域 ごと の 各 政 党 の独 占 性 は非 常 に 高 かった。これを韓 国 の地 域 主 義 と言 う1 9。
第13 代 大 統 領 選 挙 (上 段 )及 び第 13 代 総 選 挙 (下 段 )の地 域 別 得 票 率 出 所 ) 森 康 郎 『 韓 国 政 治 ・ 社 会 におけ る地 域 主 義 』 社 会 評 論 社 、2011 年 、74 頁 及 び 112 頁 の 表 を用 いて著 者 作 成 。
第 二 章 議 院 内 閣 制 改 憲 反 故 化 への道
本 章 で は、 第 一 章 で 述 べ た 時 代 背 景 の理 解 の 上 で、 盧 泰 愚 の 民 主 党 、 金 泳 三 の 民 主 党 、金 鍾 泌 の共 和 党 の三 党 が合 同 し、合 同 時 の約 束 事 であり、金 鍾 泌 の悲 願 であっ た議 院 内 閣 制 改 憲 が棚 上 げにされていく過 程 を分 析 する。第 一 節 三 党 合 同
第 一 章 第 二 節 で述 べた第 13 代 総 選 挙 により、盧 泰 愚 の与 党 、民 正 党 は過 半 数 を大 幅 に 割 り 込 ん だ 議 席 数 し か 獲 得 で き な か っ た 。 新 し い 選 挙 結 果 が 適 用 さ れ た 、 第 141 回 国 会 において、大 法 院 長 の任 命 同 意 案 が否 決 されたことを手 始 めに、野 党 勢 力 の攻 勢 は激 しく、盧 泰 愚 大 統 領 は執 政 開 始 直 後 から政 局 の打 開 策 を模 索 することを余 儀 な くされ た。しか し、「 第 五 共 和 国 の精 算 」 という 点 で一 致 団 結 し てい た 野 党 勢 力 との連 携 は困 難 であった。1989 年 12 月 、第 五 共 和 国 を代 表 する、全 斗 煥 前 大 統 領 が国 会 の 証 言 台 に立 ち、野 党 勢 力 か ら厳 しく糾 弾 された。これによって、 第 五 共 和 国 の精 算 はケ リ が 付 い た と さ れ 、 与 野 党 間 の 連 合 へ の 道 が 開 け る こ と と な っ た [ 池 東 旭 (2002:180-181)]。 1989 年 1 月 9 日 、金 潤 煥 (キム・ユファン)民 正 党 総 務 は各 野 党 との連 合 案 を提 示 し 首 都 圏 忠 清 道 (金 鍾 泌 ) 湖 南 ( 金 大 中 ) 嶺 南 ( 盧 泰 愚 ・ 金 泳 三 ) 江 原 済 州 ソ ウ ル 仁 川 京 畿 忠 北 忠 南 光 州 全 北 全 南 大 邱 慶 北 釜 山 慶 南 盧 泰 愚 ( 民 正 党 ) 30.0 39.4 41.4 46.9 26.2 4.8 14.1 8.2 70.7 66.4 32.1 41.2 59.3 49.8 26.2 37.5 36.1 43.7 30.2 9.7 28.8 22.9 48.2 51.0 32.1 40.2 43.6 36.0 金 泳 三 ( 民 主 党 ) 29.1 30.0 27.5 28.2 16.1 0.5 1.5 1.2 24.3 28.2 56.0 51.3 26.1 26.8 23.4 28.3 22.9 16.0 15.0 0.4 1.3 0.8 28.4 24.5 54.3 36.9 21.6 27.1 金 大 中 ( 平 民 党 ) 32.6 21.3 22.3 11.0 12.4 94.4 83.5 90.3 2.6 2.4 9.1 4.5 8.8 18.6 27.0 14.1 15.9 1.4 3.8 88.6 61.5 67.9 0.7 0.9 1.9 1.0 4.0 6.0 金 鍾 泌 ( 共 和 党 ) 8.2 9.2 8.5 13.5 45.0 0.2 0.8 0.3 2.1 2.6 2.6 2.7 5.4 4.5 16.1 15.5 18.2 33.3 46.5 0.6 2.5 1.3 13.2 16.0 6.8 10.3 20.2 3.4 つつ、民 主 化 勢 力 で ある 、 平 民 党 と民 主 党 を対 立 させ たままにす るた めに も、民 主 党 の 金 泳 三 と の連 合 を 模 索 す る ことを 良 しと し た。ま た、 そ う す る過 程 で、 共 和 党 も 協 議 に加 わってくる可 能 性 が高 く、そうなれば絶 対 安 定 勢 力 を確 保 し、改 憲 への道 が開 けるとした [金 石 野 、小 谷 豪 治 郎(1997:325-326)]。また、朝 鮮 日 報 では年 始 の記 者 座 談 会 で政 治 構 造 の 上 か ら、 金 泳 三 が 民 正 党 と 連 合 す る た め には 、金 鍾 泌 の 存 在 が 必 要 で あ ると し[ 朝 鮮 日 報(1990.01.01)]、政 界 再 編 に関 して、キャスティングボードを握 るのは金 鍾 泌 で あ る と し た [ 朝 鮮 日 報(1990.01.04)]。一 方 、東 亜 日 報 ではあくまでも大 統 領 制 を 維 持 しようとしている金 泳 三 に金 鍾 泌 は利 用 されているということを示 唆 している[ 東 亜 日 報(1990.01.05,1990.01.08)]。 ともかくも、1 月 6 日 には、この両 者 は会 談 し、両 党 の連 合 について話 し合 ったとされ [朝 鮮 日 報 (1990.01.07)]、両 者 の連 合 交 渉 は進 んだ。盧 泰 愚 大 統 領 は 1 月 11 日 から 13 日 の各 総 裁 との個 別 懇 談 会 によって、金 泳 三 ・金 鍾 泌 連 合 と提 携 するか、それよりも 垣 根 の 高 い 金 大 中 と 提 携 す る か を 迫 られ る ことと な った[ 朝 鮮 日 報(1990.01.14)]。こう した過 程 を経 て、1 月 22 日 、三 党 の共 同 宣 言 が発 表 された。この時 の 3 党 の議 席 数 を 単 純 に合 計 すると、総 議 席 数 は 221 人 (民 正 127、民 主 59、共 和 35)であり、改 選 に 必 要 な全 議 席 の2/3 を大 幅 に上 回 る、3/4 に迫 ろうかという議 席 水 準 であった。 この三 党 合 同 につ いて、イ ・ ダル ス ンは、主 に金 容 浩 の 分 析 を 利 用 しな がら、 以 下 の よ うに分 析 している[イ・ ダルスン(2012:410-412)、金 容 浩 (2001:229-232,249-250)]。 まず、3 党 はすべて保 守 政 党 であり、政 策 理 念 と路 線 での対 立 がない。また、3 党 は大 衆 政 党 ではな く、 ボス 政 党 で あ る が、 その 場 合 ボス が 党 よ りも 優 位 に 立 って い る た め、 元 来 離 合 集 散 が激 しい。これが三 党 合 同 の基 礎 要 素 となった。 盧 泰 愚 は現 状 として過 半 数 割 れしている政 局 の 安 定 化 のためには、必 ず誰 かと提 携 せざるを得 なかった。特 に議 院 内 閣 制 への改 憲 案 を国 会 で通 過 させるためには、3 分 の 2 の議 席 の確 保 が必 要 であるが、そのためには金 泳 三 の民 主 党 、金 鍾 泌 の共 和 党 との 提 携 が必 要 であった。 金 鍾 泌 は国 会 の第 4 勢 力 に過 ぎず、自 身 の発 言 力 拡 大 の糸 口 を探 していた。盧 泰 愚 の 民 正 党 と の 提 携 は、 彼 ら の 協 力 を 得 るこ と に よっ て 、そ の 機 会 に な ると 考 え ら れ た。 それ だけ に 留 ま らず 、 有 力 な 後 継 者 を 持 っ て いな い 盧 泰 愚 に 対 し、 自 身 は 豊 富 な 国 政 運 営 経 験 を 持 っ て お り 、 ま た 朴 正 煕 大 統 領 時 代 に 民 正 党 議 員 と 知 友 関 係 を 深 め て い たため、盧 泰 愚 の 後 継 者 と なれるかもしれなかった。この 他 、議 院 内 閣 制 へ の制 度 改 正 もより現 実 的 となりえた。金鍾泌の政治権力闘争過程分析(生駒) つつ、民 主 化 勢 力 で ある 、 平 民 党 と民 主 党 を対 立 させ たままにす るた めに も、民 主 党 の 金 泳 三 と の連 合 を 模 索 す る ことを 良 しと し た。ま た、 そ う す る過 程 で、 共 和 党 も 協 議 に加 わってくる可 能 性 が高 く、そうなれば絶 対 安 定 勢 力 を確 保 し、改 憲 への道 が開 けるとした [金 石 野 、小 谷 豪 治 郎(1997:325-326)]。また、朝 鮮 日 報 では年 始 の記 者 座 談 会 で政 治 構 造 の 上 か ら、 金 泳 三 が 民 正 党 と 連 合 す る た め には 、金 鍾 泌 の 存 在 が 必 要 で あ ると し[ 朝 鮮 日 報(1990.01.01)]、政 界 再 編 に関 して、キャスティングボードを握 るのは金 鍾 泌 で あ る と し た [ 朝 鮮 日 報(1990.01.04)]。一 方 、東 亜 日 報 ではあくまでも大 統 領 制 を 維 持 しようとしている金 泳 三 に金 鍾 泌 は利 用 されているということを示 唆 している[ 東 亜 日 報(1990.01.05,1990.01.08)]。 ともかくも、1 月 6 日 には、この両 者 は会 談 し、両 党 の連 合 について話 し合 ったとされ [朝 鮮 日 報 (1990.01.07)]、両 者 の連 合 交 渉 は進 んだ。盧 泰 愚 大 統 領 は 1 月 11 日 から 13 日 の各 総 裁 との個 別 懇 談 会 によって、金 泳 三 ・金 鍾 泌 連 合 と提 携 するか、それよりも 垣 根 の 高 い 金 大 中 と 提 携 す る か を 迫 られ る ことと な った[ 朝 鮮 日 報(1990.01.14)]。こう した過 程 を経 て、1 月 22 日 、三 党 の共 同 宣 言 が発 表 された。この時 の 3 党 の議 席 数 を 単 純 に合 計 すると、総 議 席 数 は 221 人 (民 正 127、民 主 59、共 和 35)であり、改 選 に 必 要 な全 議 席 の2/3 を大 幅 に上 回 る、3/4 に迫 ろうかという議 席 水 準 であった。 この三 党 合 同 につ いて、イ ・ ダル ス ンは、主 に金 容 浩 の 分 析 を 利 用 しな がら、 以 下 の よ うに分 析 している[イ・ ダルスン(2012:410-412)、金 容 浩 (2001:229-232,249-250)]。 まず、3 党 はすべて保 守 政 党 であり、政 策 理 念 と路 線 での対 立 がない。また、3 党 は大 衆 政 党 ではな く、 ボス 政 党 で あ る が、 その 場 合 ボス が 党 よ りも 優 位 に 立 って い る た め、 元 来 離 合 集 散 が激 しい。これが三 党 合 同 の基 礎 要 素 となった。 盧 泰 愚 は現 状 として過 半 数 割 れしている政 局 の 安 定 化 のためには、必 ず誰 かと提 携 せざるを得 なかった。特 に議 院 内 閣 制 への改 憲 案 を国 会 で通 過 させるためには、3 分 の 2 の議 席 の確 保 が必 要 であるが、そのためには金 泳 三 の民 主 党 、金 鍾 泌 の共 和 党 との 提 携 が必 要 であった。 金 鍾 泌 は国 会 の第 4 勢 力 に過 ぎず、自 身 の発 言 力 拡 大 の糸 口 を探 していた。盧 泰 愚 の 民 正 党 と の 提 携 は、 彼 ら の 協 力 を 得 るこ と に よっ て 、そ の 機 会 に な ると 考 え ら れ た。 それ だけ に 留 ま らず 、 有 力 な 後 継 者 を 持 っ て いな い 盧 泰 愚 に 対 し、 自 身 は 豊 富 な 国 政 運 営 経 験 を 持 っ て お り 、 ま た 朴 正 煕 大 統 領 時 代 に 民 正 党 議 員 と 知 友 関 係 を 深 め て い たため、盧 泰 愚 の 後 継 者 と なれるかもしれなかった。この 他 、議 院 内 閣 制 へ の制 度 改 正 もより現 実 的 となりえた。
金 泳 三 は第 2 野 党 に甘 んじており、国 会 運 営 の面 で第 1 野 党 の金 大 中 に主 導 権 を 握 ら れ て い て 、 憤 慨 し て い た 。 ま た 、 こ の 対 金 大 中 で 出 遅 れ て い た こ と に は 次 期 大 統 領 選 の 上 で も 由 々 し き 問 題 で あ っ た 。 そ し て 、 も し 自 分 が 与 党 勢 力 に 加 わ ら ず 、 共 和 党 の み が 民 正 党 と 合 併 し た 場 合 、 自 政 党 は 最 小 勢 力 の 地 位 に 転 落 し て し ま う と い う 危 機 感 があった。また、金 鍾 泌 と同 様 、有 力 な後 継 者 を持 たな い盧 泰 愚 の後 釜 を狙 う意 図 もあ った。 こういった3 人 の利 害 が一 致 した結 果 、三 党 合 同 は果 たされたのであった。 第 二 節 「総 体 的 難 局 」の出 現 こ う し て 結 成 さ れ た 新 党 ・ 民 主 自 由 党 ( 以 後 、 民 自 党 ) で あ っ た が 、 そ の 最 初 か ら 激 し い 勢 力 争 い が あ っ た 。 こ れ は 、 朴 哲 彦 ( パ ク ・ チ ョ ロ ン ) 政 務 長 官 と 金 泳 三 と の 対 立 が 原 因 であった。朴 哲 彦 は盧 泰 愚 と姻 戚 関 係 にあり、また「 皇 太 子 」 などと呼 ばれるほど に民 正 系 の若 手 のホープであった。 この対 立 は最 終 的 に 朴 哲 彦 の辞 任 で決 着 が付 くこととなった。韓 国 においては、「 縁 」 とい うも のを 非 常 に 重 視 す る2 0。朴 哲 彦 は 盧 泰 愚 と姻 戚 関 係 に あり 、また 同 じ 慶 尚 北 道 出 身 である。しかし、盧 泰 愚 はその朴 哲 彦 よりも金 泳 三 を 選 んだのである。ここで金 泳 三 は「血 」や「地 」といった「縁 」 に自 分 は勝 るのであるという認 識 を持 ったのである。 こ の 朴 哲 彦 事 件 に お い て 、 金 鍾 泌 は 「 消 防 士 」 [ 朝 鮮 日 報(1990.04.13)]と呼 ばれる ほどに、仲 裁 役 として大 活 躍 した。そのため、4 月 15 日 の朝 鮮 日 報 は『金 鍾 泌 地 位 向 上 。大 統 領 選 挙 構 造 にも影 響 』というタイトルで「今 回 の事 態 に対 して、過 大 で慎 重 な姿 勢 を 堅 持 し 、 仲 裁 の 力 量 を 見 せ た 金 鍾 泌 委 員 に 対 す る 民 正 系2 1の 態 度 は よ り 好 意 的 に変 わり、金 鍾 泌 の役 割 と地 位 も相 対 的 に高 まるという推 論 が出 てきている」としている。 この 問 題 が 沈 静 化 して 次 に浮 上 した のは、 党 首 脳 の 選 出 方 法 問 題 で あ った。 合 同 時 には、とりあえず 3 首 脳 は横 並 びとして、全 党 大 会 時 に決 めるとされていた。これについ て、盧 泰 愚 が 党 の トッ プであ る 総 裁 と なりな が らも、 第 二 人 者 で 実 質 的 には 代 表 最 高 委 員 とな る 金 泳 三 が 党 務 を運 用 す るこ ととな った 。これ につ いて 、金 鍾 泌 は 結 党 前 の 時 点 か ら 、 そ れ が 良 い と し て い た の で 、 そ れ 自 体 に は 異 論 は な か っ た [ 朝 鮮 日 報 (1990.01.24)]。しかし、その選 出 方 法 で党 内 は大 揉 めすることとなった。代 表 最 高 委 員 を総 裁 が指 名 しなければならないという民 正 系 に対 し、金 泳 三 のお膝 元 である民 主 系 からは全 党 大 会 での選 出 が主 張 された。全 党 大 会 で 選 出 される方 が、権 威 が高 くなるこ とは言 うまでもない。この、民 正 系 と民 主 系 の対 立 にお い て 、共 和 系 は金 泳 三 か党 内 第 二 人 者 と し ての 立 場 を 明 確 化 して し ま うと 、そ れ だけ 第 三 者 と し ての 金 鍾 泌 の 立 場 が縮 小 されてしまうという危 機 感 から、民 正 系 を支 持 した[ 朝 鮮 日 報(1990.04.29)]。こうなる と 、 金 泳 三 と 金 鍾 泌 の 関 係 に も 影 響 が 出 る の は 必 至 で あ り 、 「 三 党 統 合 過 程 で 蜜 月 を 誇 示 した、民 自 党 金 泳 三 ―金 鍾 泌 の 2 人 の最 高 委 員 の関 係 にひびが入 っている」とい う報 道 も飛 び出 した[朝 鮮 日 報 (1990.04.30)]。 こうした内 紛 は、国 民 の不 信 を強 めることとなり、5 月 1 日 の高 位 党 政 調 会 議2 2におい て、「 総 体 的 難 局 」 という言 葉 まで飛 び出 した。この「 総 体 」 とは政 治 も社 会 も経 済 も 全 て の面 で難 局 に直 面 しているとの状 況 認 識 を示 したものであるが、その主 要 要 素 のうちの1 つが、この与 党 ・民 自 党 の内 紛 であった。アジア経 済 研 究 所 『アジア動 向 年 報 』1991 年 版 では、この言 葉 が韓 国 の項 のサブタイトル、つまり1990 年 の韓 国 を表 す言 葉 として用 いられており、この内 紛 がいかに大 きな社 会 問 題 となっていたかを窺 い知 ることができる。 この、総 裁 の任 期 と代 表 最 高 委 員 の選 出 方 式 に関 する党 憲 改 正 問 題 は、9 日 の全 党 大 会 を控 えた 6 日 の折 衝 によって辛 うじて合 意 に達 した。総 裁 の任 期 は 2 年 とし、但 し 書 き条 項 も付 けない。同 時 に代 表 最 高 委 員 は総 裁 が指 名 してこれを全 党 大 会(または、 常 務 委 員 会)に発 表 することとなった。総 裁 の任 期 が切 れる、2 年 後 (1992 年 7、8 月 頃 )というのは、国 会 の総 選 挙 (第 14 代 総 選 挙 。同 年 3 月 )は終 了 しているが、大 統 領 選 挙 (第14 代 大 統 領 選 挙 。同 年 12 月 )はまだという時 期 である。党 ナンバー1 である、 総 裁 の後 任 人 事 としては、ナンバー2 が繰 り上 がるのが順 当 人 事 であるといえるであろう。 つまり、その時 期 に現 在 の盧 泰 愚 総 裁 が退 任 し、金 泳 三 がその後 継 となるということは、 金 泳 三 の次 期 大 統 領 への筋 道 が開 けるということなのである。 こ の よ う な 民 主 系 の 主 張 を 大 幅 に 受 け 入 れ る こ と と な っ た の は 、 民 正 系 と 共 和 系 が 金 泳 三 に次 期 大 統 領 への門 戸 を開 きはしても、規 定 事 実 化 されるわけではないということ、 このよう な政 争 は早 く 終 結 さ せる 必 要 が あっ たこと、そ し てなにより も重 要 なポ イン トと して、 両 派 閥 の 立 場 変 化 に は 派 閥 間 対 立 に 比 較 的 中 立 姿 勢 を 見 せ て き た 、 大 統 領 側 の 意 思 表 明 が重 要 な影 響 を及 ぼ したとしている[朝 鮮 日 報(1990.05.07)]。こうして 5 月 9 日 の全 党 大 会 にて、盧 泰 愚 は総 裁 に、金 泳 三 は代 表 特 別 委 員 に就 任 したのである。 前 述 のように、 金 鍾 泌 も 民 主 系 の主 張 には反 対 してい た。政 治 的 権 力 者 として、盧 泰 愚 を 除 け ば、 金 鍾 泌 は 金 泳 三 に 唯 一 対 抗 で き る 存 在 で あ っ た。 し か し その 金 鍾 泌 の 意 向 をもはねのけて、自 分 の意 向 を押 し通 すことが出 来 るという認 識 をこの一 件 を通 じて金 泳 三 は得 たのである。
国際関係論集第12 号,October 2012 金 泳 三 は第 2 野 党 に甘 んじており、国 会 運 営 の面 で第 1 野 党 の金 大 中 に主 導 権 を 握 ら れ て い て 、 憤 慨 し て い た 。 ま た 、 こ の 対 金 大 中 で 出 遅 れ て い た こ と に は 次 期 大 統 領 選 の 上 で も 由 々 し き 問 題 で あ っ た 。 そ し て 、 も し 自 分 が 与 党 勢 力 に 加 わ ら ず 、 共 和 党 の み が 民 正 党 と 合 併 し た 場 合 、 自 政 党 は 最 小 勢 力 の 地 位 に 転 落 し て し ま う と い う 危 機 感 があった。また、金 鍾 泌 と同 様 、有 力 な後 継 者 を持 たな い盧 泰 愚 の後 釜 を狙 う意 図 もあ った。 こういった3 人 の利 害 が一 致 した結 果 、三 党 合 同 は果 たされたのであった。 第 二 節 「総 体 的 難 局 」の出 現 こ う し て 結 成 さ れ た 新 党 ・ 民 主 自 由 党 ( 以 後 、 民 自 党 ) で あ っ た が 、 そ の 最 初 か ら 激 し い 勢 力 争 い が あ っ た 。 こ れ は 、 朴 哲 彦 ( パ ク ・ チ ョ ロ ン ) 政 務 長 官 と 金 泳 三 と の 対 立 が 原 因 であった。朴 哲 彦 は盧 泰 愚 と姻 戚 関 係 にあり、また「 皇 太 子 」 などと呼 ばれるほど に民 正 系 の若 手 のホープであった。 この対 立 は最 終 的 に 朴 哲 彦 の辞 任 で決 着 が付 くこととなった。韓 国 においては、「 縁 」 とい うも のを 非 常 に 重 視 す る2 0。朴 哲 彦 は 盧 泰 愚 と姻 戚 関 係 に あり 、また 同 じ 慶 尚 北 道 出 身 である。しかし、盧 泰 愚 はその朴 哲 彦 よりも金 泳 三 を 選 んだのである。ここで金 泳 三 は「血 」や「地 」といった「縁 」 に自 分 は勝 るのであるという認 識 を持 ったのである。 こ の 朴 哲 彦 事 件 に お い て 、 金 鍾 泌 は 「 消 防 士 」 [ 朝 鮮 日 報(1990.04.13)]と呼 ばれる ほどに、仲 裁 役 として大 活 躍 した。そのため、4 月 15 日 の朝 鮮 日 報 は『金 鍾 泌 地 位 向 上 。大 統 領 選 挙 構 造 にも影 響 』というタイトルで「今 回 の事 態 に対 して、過 大 で慎 重 な姿 勢 を 堅 持 し 、 仲 裁 の 力 量 を 見 せ た 金 鍾 泌 委 員 に 対 す る 民 正 系2 1の 態 度 は よ り 好 意 的 に変 わり、金 鍾 泌 の役 割 と地 位 も相 対 的 に高 まるという推 論 が出 てきている」としている。 この 問 題 が 沈 静 化 して 次 に浮 上 した のは、 党 首 脳 の 選 出 方 法 問 題 で あ った。 合 同 時 には、とりあえず 3 首 脳 は横 並 びとして、全 党 大 会 時 に決 めるとされていた。これについ て、盧 泰 愚 が 党 の トッ プであ る 総 裁 と なりな が らも、 第 二 人 者 で 実 質 的 には 代 表 最 高 委 員 とな る 金 泳 三 が 党 務 を運 用 す るこ ととな った 。これ につ いて 、金 鍾 泌 は 結 党 前 の 時 点 か ら 、 そ れ が 良 い と し て い た の で 、 そ れ 自 体 に は 異 論 は な か っ た [ 朝 鮮 日 報 (1990.01.24)]。しかし、その選 出 方 法 で党 内 は大 揉 めすることとなった。代 表 最 高 委 員 を総 裁 が指 名 しなければならないという民 正 系 に対 し、金 泳 三 のお膝 元 である民 主 系 からは全 党 大 会 での選 出 が主 張 された。全 党 大 会 で 選 出 される方 が、権 威 が高 くなるこ とは言 うまでもない。この、民 正 系 と民 主 系 の対 立 にお い て 、共 和 系 は金 泳 三 か党 内 第 金鍾泌の政治権力闘争過程分析(生駒) 二 人 者 と し ての 立 場 を 明 確 化 して し ま うと 、そ れ だけ 第 三 者 と し ての 金 鍾 泌 の 立 場 が縮 小 されてしまうという危 機 感 から、民 正 系 を支 持 した[ 朝 鮮 日 報(1990.04.29)]。こうなる と 、 金 泳 三 と 金 鍾 泌 の 関 係 に も 影 響 が 出 る の は 必 至 で あ り 、 「 三 党 統 合 過 程 で 蜜 月 を 誇 示 した、民 自 党 金 泳 三 ―金 鍾 泌 の 2 人 の最 高 委 員 の関 係 にひびが入 っている」とい う報 道 も飛 び出 した[朝 鮮 日 報 (1990.04.30)]。 こうした内 紛 は、国 民 の不 信 を強 めることとなり、5 月 1 日 の高 位 党 政 調 会 議2 2におい て、「 総 体 的 難 局 」 という言 葉 まで飛 び出 した。この「 総 体 」 とは政 治 も社 会 も経 済 も 全 て の面 で難 局 に直 面 しているとの状 況 認 識 を示 したものであるが、その主 要 要 素 のうちの1 つが、この与 党 ・民 自 党 の内 紛 であった。アジア経 済 研 究 所 『アジア動 向 年 報 』1991 年 版 では、この言 葉 が韓 国 の項 のサブタイトル、つまり 1990 年 の韓 国 を表 す言 葉 として用 いられており、この内 紛 がいかに大 きな社 会 問 題 となっていたかを窺 い知 ることができる。 この、総 裁 の任 期 と代 表 最 高 委 員 の選 出 方 式 に関 する党 憲 改 正 問 題 は、9 日 の全 党 大 会 を控 えた 6 日 の折 衝 によって辛 うじて合 意 に達 した。総 裁 の任 期 は 2 年 とし、但 し 書 き条 項 も付 けない。同 時 に代 表 最 高 委 員 は総 裁 が指 名 してこれを全 党 大 会(または、 常 務 委 員 会)に発 表 することとなった。総 裁 の任 期 が切 れる、2 年 後 (1992 年 7、8 月 頃 )というのは、国 会 の総 選 挙 (第 14 代 総 選 挙 。同 年 3 月 )は終 了 しているが、大 統 領 選 挙 (第 14 代 大 統 領 選 挙 。同 年 12 月 )はまだという時 期 である。党 ナンバー1 である、 総 裁 の後 任 人 事 としては、ナンバー2 が繰 り上 がるのが順 当 人 事 であるといえるであろう。 つまり、その時 期 に現 在 の盧 泰 愚 総 裁 が退 任 し、金 泳 三 がその後 継 となるということは、 金 泳 三 の次 期 大 統 領 への筋 道 が開 けるということなのである。 こ の よ う な 民 主 系 の 主 張 を 大 幅 に 受 け 入 れ る こ と と な っ た の は 、 民 正 系 と 共 和 系 が 金 泳 三 に次 期 大 統 領 への門 戸 を開 きはしても、規 定 事 実 化 されるわけではないということ、 このよう な政 争 は早 く 終 結 さ せる 必 要 が あっ たこと、そ し てなにより も重 要 なポ イン トと して、 両 派 閥 の 立 場 変 化 に は 派 閥 間 対 立 に 比 較 的 中 立 姿 勢 を 見 せ て き た 、 大 統 領 側 の 意 思 表 明 が重 要 な影 響 を及 ぼ したとしている[朝 鮮 日 報(1990.05.07)]。こうして 5 月 9 日 の全 党 大 会 にて、盧 泰 愚 は総 裁 に、金 泳 三 は代 表 特 別 委 員 に就 任 したのである。 前 述 のように、 金 鍾 泌 も 民 主 系 の主 張 には反 対 してい た。政 治 的 権 力 者 として、盧 泰 愚 を 除 け ば、 金 鍾 泌 は 金 泳 三 に 唯 一 対 抗 で き る 存 在 で あ っ た。 し か し その 金 鍾 泌 の 意 向 をもはねのけて、自 分 の意 向 を押 し通 すことが出 来 るという認 識 をこの一 件 を通 じて金 泳 三 は得 たのである。