人類がみずからの生存を自覚し始めて以来、改めて問 題になったのは、単に生きていることに満足できず、生 きていることの意味を問わねばならぬということであり、 そこで明らかになったのは、人間の存在が持っているさ まざまな課題であった。人間が単にある存在にすぎない ならば、あることの上に生ずる種友雑多な問題を、その 都度受け止めていけばそれでよい。しかしみずからの存 在を意識せざるを得ない者にとっては、生きることの上 に何らかの問題が生ずるか否かに先立って、あること自 身が問題であったといわねばならない。そこでは生きて あることが生きる上での種次なる問題を生起するのであ り、問題があるときには、それに先立って生きているこ
華厳における佛の光明について︵上︶
一 とがあるのである。したがって人間が生きているとは如 何なる意味か;また何ゆえに生きること自身が必然的に 問題を持つのであるかは、人生を考える者にとって避け 得べくもない重要な課題となるのである。洋の東西を問 わず;人類が歴史の上にその記録をとどめ始めるや否や、 人間が生きているということについて、何らかの思索を 加えなければならなかったことの上には、以上のごとき 人間が人間であるために果たさねばならない必然的課題 があったのであるといえよう。 佛教が佛陀釈尊の出現という歴史的事実をふまえつつ、 人類の精神史に長い足跡をとどめたことにも、単に佛陀 が佛陀として問題になったのではなく、人間が真に人間 の持てる課題を究極的に尋ねたとき;そこに佛陀があっ たという零へきである。そこでは佛陀が問われているので鍵主良敬
凸 はなく、佛陀を問題にせざるを得ない人間が問題になっ ているのである。人間を人間という枠の中から見るので はなく、人間を越えた佛の立場から見直すことによって、 改めて真に人間の問題が根底的に解決する道が示された のが、佛教の成り立つ所以であったということができよ う。佛陀が明らかになったとは人間が明らかになったこ とであり、佛陀に照らされてはじめて人間は赤裸女にそ の真実の相を現わしたのである。したがって﹁佛とは何 か﹂との問いが、佛教の教学上如何に重要な意味を持つ ものであるか、おのずから推察されるところである。大 乗佛教といわれる豊かな精神的土壌を背景にしつつ、歴 史的に実在した佛陀とは如何なる意味を持てるものであ るかを→その存在の根源に帰って解明した種女なる経典 群も、その点で常に佛とは何かを問い続けた人間精神の たゆまざる遍歴の足跡であったということができよう。 それらの大乗経典の中で特に華厳経は、その正式の経 名である﹁大方広佛華厳経﹂が示すとおり、﹁佛とは何 か﹂との問いに答えたものであるといわれる。旧訳六十 巻、新訳八十巻の中に展開される壮大な精神の音楽的・ 絵画的様相は、単にそれが佛のみを説いたものであると はいいきれない面を持ち、あらゆる人間精神の形態を、 常識といわれる特定の先入観を打破することによって、 ほしいままに天がけさせたものであるともいえる。しか しその種女相をただ一点において押えるとすれば、それ はやはり﹁佛﹂の一語に尽くされるという寺へきである。 経がみずから 如来所説の一語中に ① 無辺の契経海を演出したまう という場合、無限に展開して止まない佛説もただ一語を 説くのみであると解さなければならない。すなわちあら ゆる教説の姿をとりつつ、根本的に現わさるべきものは ただ一事であるということであり、如何に多様に展開し ても根源なる一事を離れることはないということである。 つまり佛はその長い説法教化の間、ただ一語しか説かれ なかったことになるのである。経の﹁一語中、演出無辺 契経海﹂の語は、海のごとく広大で辺際のない佛説は、 本来これが佛説であるという特定のドグマ的規定を受け るものではないことを示すとともに、如何に佛説が際限 なく発展しても、それは根源の一事を内含した上でのこ とであることを現わしているのであろう。したがって ﹁無辺契経海﹂として何が佛説であるか不明なほどに変 転する佛説も、それが佛説であるためには何でもよいの
ではなく、根源の一事が明らかでなければならない。そ してその一事こそ華厳経があの彪大な分量を費して顕示 しようとした﹁佛とは何か﹂との問いに対する解答であ り、佛という形ではじめて根源的に明らかになる人間の 人間たる所以であるということができるのである。 かくて如来は﹁佛﹂なる一語しか説かれなかった。し かしその一語が果てしなく展開したのである。佛は佛な る一語によって充分に尽くされるものである。しかし一 語にして完結せる佛なる語が、無辺の契経海たるべき内 容を持つのである。一語で充分なるものこそ無限の意味 を内含するというべきである。単に部分的なるものが集 まって全体となるのではない。全体を包含し得るような 部分こそ真の部分である。われわれの目から見て個女差 別の現象界にすぎない部分の内に、全体を包んで止まな い生命の躍動を見いだしてこそ、無限に展開する佛の生 命を感得することができるのである。 華厳経はその全体が﹁佛﹂を明らかにしたものではあ るが、その中で特に佛を剛明するのが盧舎那佛品巻第二 である。全体としての佛が盧舎那佛として限定されるよ うに見えるこの品も、単に部分的に極限されたのではな く、一見捕えどころのない全体を、盧舎那佛として限定 することにより、かえって限定することのできない全体 を現わしていると見なければならない。したがって盧舎 那佛品は、﹁大方広佛﹂である佛が、華厳によって荘厳 されたものであり、佛という特定の枠にはめることので きない佛に、あえて盧舎那佛という規定を与えることに よって、その規定を越えるものであることを示すのであ る。それ故そこでは華厳経に説かれる佛の内容が、ある 意味で圧縮されて叙述されていると見ることもできるで ある済フ。 しかもここに説かれる佛は光輝く佛である。光の荘厳 な様は経中の到る処に関説されているが、特にこの品で 明らかにされるのは、光を放つとともに光に包まれた光 そのものの佛である。光に彩られることによって華厳経 は成立し、華厳経全体が光を説く経典であるといっても ② よいが、その光明がひときわ生彩を放つのが盧舎那佛品 であるということもできる。その佛の光明とは如何なる ものであるか。また、如何なる背景において成り立って いるのであるか。それらの問題をこの小論では$特にそ ③ の品名の性格上光の佛すなわち佛の光明が説かれる盧舎 那佛品に留意して述蘂へてみたいのである。そして佛の光 明に対する諸種の経論の説中、最も体系的な論述を試み 36
ているのが、賢首大師法蔵の探玄記であるから、彼の論 説を手がかりとし、またその背景となったと思われる大 智度論等を参照して、かかる体系化を可能とした佛の光 明の根源的意味を探ってみようとするのである。 賢首大師法蔵は探玄記巻第三の初めにおいて盧舎那佛 品の品名を釈するにあたり、盧舎那佛は詳しくは毘盧舎 那佛といわれ、光明遍照の意味であるとし、その光明を 詳説して 光明に二種有り。一には智光、二には身光なり。 智光に亦、二義あり。一には法を照すもの、詔く真 俗を鍵べ蕊むるなり。二には機を照すもの、謂く普 く群品に応ずるなり。 身光にも亦、二種あり。一には是れ常光、謂く円明 無礒なるものなり。二には放光、謂く光を以て警悟 ④ するものなり。 という。 この場合、光明を智光・身光の二種に分けるのは、大 智度諭巻第四十七の ⑤ 光明に二種あり。一には色光、二には智慧光なり。 一 および心 明に二種あり。一には衆生を度するが故に身に光明 を放つ。二には諸法の総相別相を分別するが故に智 ⑥ 慧の光明なり。 の説によるものと思われる。 ここで問題になっているのは佛の光明である。われわ れが通常光という場合には、知覚に感ぜられる日月等の 光、もしくは光を発する特殊能力を持てる者の光をいう のであるが、そのような光に対して佛の光明が明確に区 別されているのである。大智度論巻第七には 光明神力に下中上あり。呪術幻術の能く光明変化を 作すは下なり。諸天龍神の光明神力を報得するは中 なり。諸の三味に入り、今世の功徳心力を以て大光 ⑦ 明を放ち、大神力を現ずるは上なり。 といわれ、また 諸の天人は能く光を放つと誰も有限有量なり。日月 の照す所は唯四天下のみ。佛の放てる光明は三千大 千世界に満ち、三千大千世界の中より出でて遍く下 方に至る。 余人の光明は唯能く人をして歓喜せしむるのみ・佛 ⑧ の放てる光明は能く一切をして聞法得度せしむ。
といわれるごとくである。余の光は有限であり、特殊的 であるのに反して佛の光は無限であり普遍的である。こ れらの関係を整理して、職伽師地諭巻第十一では左のよ 芦っにい︾フ。 光明に三種あり。一に暗を治する光明、二に法光明、 三に依身の光明なり。暗を治する光明に復た三種あ り、一は夜分に在り、謂はく星月等なり。二は昼分 に在り、謂はく日光明なり。三に倶分に在り、謂は く火珠等なり。法光明とは謂はく、もし一あり、其 の所受所思所触に随って諸法を観察し、或は復た随 念佛等を修習す。依身の光明とは、謂はく諸の有情 ⑨ の自然の身光なり。 この諭伽師地論の説は→われわれが日常生活上におい て感受できる光を治暗の光明として三種に分類したとこ ろに進歩の跡が見られる。しかし依身の光明を諸の有情 の自然の身光であるとするところでは、その中に大智度 論のいう幻術等の光や天人の光も含まれると考えられる から、いまだ未整理の部分が残されているといわねばな らない。佛の光明は依身の光明を仮りに有限と無限とに 差別したうちの無限なる依身の光明に属するわけである。 いずれにしても佛の光明は、ある場合もあり、ない場合 もあって特定の限定を離れることのできない他の光に対 して常住不変にして無際限とされているのである。 ところでわれわれには日月の光の中にありつつなお暗 闇であるといわざるを得ないものがある。現象としては 明るいにもかかわらず、事実としては暗い闇の中に沈淌 している場合である。そこでは一切が灰色と化し、あら ゆるものが生気を失って、みずからの存在自身までもそ の存立を危うくする。その闇はただの闇ではなくす︾へて ⑩ を規定する闇である。光明はその心の闇を晴らすもので あるが、この場合の心の闇とは単なる心理的な暗さをい うのではなく、身心のす尋へてを規制するような深い意味 での心の闇である。その暗黒を照らし出し、暗黒によっ ⑪ て起こる一切の繋縛・無明を解決するものが佛の光明で ある。光に照らされることにより、現象的には暗いにも ⑫ かかわらず事実としては光に包まれた生き方がはじめて 可能になるのである。 佛の光明は肉眼で見ることはできない。したがってそ の有無は一見不明のようであり、その存在について明確 な根拠があるようにも思われない。しかしそれは単にそ のようなものがあるという推測、もしくは抽象的な論議 の上でいわれるのではなく、最も具体的に実在の真相を 38
現わし出すはたらきについていうのである。つまり通常 ものを対象的にしか見ることのできないわれわれに、見 る主体の無限に深い虚妄性までも照らし出し明らかなら しめるはたらきのことである。それは肉眼では見えない という点で光とはいえないが、それによってものの真相 が克明に現出されるという点では光である。すなわち光 なき光であり、真の光である。その意味で佛光は見ると いうより感ずるものというべきである。 しかるにその佛の光明は単一ではなく、身光と智光と ⑬ に分けられた。先掲した智度論の説によって明らかなよ うに衆生を済度するためのものが身光であり、諸法を分 明ならしむるものが智光であるが、法蔵は探玄記巻第四 光明覚品の釈において両者の差異を左のごとく記述する。 一には身光が事境を照して衆生をして覚見せしむる に、事に限曝無きなり。⋮⋮ 二には智光が理境を照して衆生をして覚見せしむる ⑭ に、理に差別無きなり。・・⋮. すなわち智度論が衆生に対応するものを身光とし法に 対応するものを智光とするに対して、法蔵は身光も智光 もともに衆生を覚見せしめる点で違いはなく、事境を照 らすか、理境を照らすかによって差が生ずるとする。こ れは慈恩大師窺基が阿弥陀経通賛疏巻中に 光に二種あり。一には内光は即ち智、内に理を照す。 二には外光は即ち身光、外を照すなり。此れ即ち身 ⑮ 光なり。 というのと帰を一にしている。以上の対比から明らかな ように智光は、佛智として仏自身の上に諸法の全体を余 すところなく如実知見せしめ、一切を貫通する理として の法性を法性のままに知らしめて、内的に普遍的な道理 を明らかならしめる自受用的智慧のはたらきのことであ る。その智慧は如何にしても外化することのできない内 面的はたらきであり、知るということさえもできないが、 知ると表現されるに先立って本来的に知られているもの である。それは知るという表現を拒否するごとき知り方 において知られる根源的智慧である。その智慧が仏の説 法に触発されて一瞬に聞く者の内面にはたらき、諸法の 実相に肯かせる。そこではまさしくそうであると認めざ るを得ないものがはたらき、自身の内に普遍的な道理と して首肯せざるを得ないものが見い出される。それは佛 の内面に自証として明らかになった真理が、全く同じく 聞く者の内面にも明らかになり、法として共通したので ある。智光は形で捉えられない普遍的な理の世界を、衆
生に動きそのものとして覚見せしめたものであるという ことができるであろう。 それに対して身光は、形なきものが大悲の故に外的に 形を取ったものであり、端的には言葉となって現われた 佛智の具体相である。身光のす、へてが佛の言説であると いうことはできないが、少なくともその有力な部分が言 説をとおして感得されるものであることは疑いない。そ れはどこまでも衆生済度を目的として他受用的にはたら く具体的な智慧の相でもある。佛の存在自身が言葉以前 にものの相を照出し、会衆に説法に先立って説法の意味 を肯かせる場合もある。しかし佛の教説がまさしく法の 真相を指摘した場合、それが法の如実相を外から照らし 出すはたらきとなり、見聞する者に佛が光を放ったよう に感じさせ、それを佛の身光と見せしめるのである。わ れわれは身光によってものの紙背に徹する真相を知るの である。智慧として知る場合でも、ものを外的に知るの はすゃへて身光によるというぺきである。それは自覚とし て如実知見が成り立つことであり、知るという言葉をと おして知られたものである。佛は言説をとおして衆生に 真実を覚見せしめながら、その言説には限凝がない。形 という限定を持つように見えながら、常にその限定を言 一様に佛光とされる佛の衆生へのはたらきかけにも以 上のごとき智光・身光の差異のあることが明らかになっ 出される。そこに光の無限のはたらきがあるのである。 ことのできない真実相が、あらゆる障害を越えて照らし らない内面的事実がことごとく解明され、肉眼では見る では単に日月の光に照らされたのみでは何ら明らかにな りのままに顕示するのは佛の身光によるのである。そこ 現する必要がある。すなわちものがもの自身の真相をあ り立つためには、事象がその全体をあげてそれ自身を顕 よって初めて内に知ることができる。その知ることが成 を事実のままに見せしめるものである。外に見ることに に具体的にものの本性を現わし出し、外的に個女の事実 のである。つまり身光は実相が実相として知られるよう 意味で佛の教説を身光の端的な表現と見ることもできる 説自身が否定していることにおいて無限定である。その 以上のごとき身光の個別性に対し一般的普遍性を与え るものが智光である。両者は同じく佛の光明であって別 のものではないが、その間にはおのずから厳密な区別が 立てられているのである。 三
たが、その背景をふまえつつ改めて法蔵の見解を見ると 智光。身光のそれぞれを再び二義に分けて解釈するとこ ろに、諸種の説を組織統合した法蔵の独自性があるとい ⑯ える。前掲、探玄記巻第三では、智光は法を照らす面と 機を照らす面の二義に分けられていた。そして第一の法 を照らす面は、真俗の二諦を同時に明らかにするところ に特徴があるとされる。盧舎那佛品巻第二に 盧舎那佛の大智海は 光明普ねく照らして量り有ること無く 如実に真諦の法を観察し ⑰ 普ねく一切諸の法門を照らす といわれるように、盧舎那佛の大智は普ねく光明となっ て無量の事女物左を照らし、実のごとく真諦の法を観察 して、一切の法門を照らし出すのである。この場合盧舎 那佛の大智とは盧舎那佛が持てる種友なる徳性、すなわ ち大悲・大慈等の中の一つとも解されるから、大智はそ の全体的功徳の一部分を形成するものにすぎないと見る ことも可能である。しかし華厳経が常に強調し、盧舎那 佛品においても
二の微塵の中に佛国海安住し佛雲遍ねく護念
半qノ○弥論して一切を覆い一微塵の中に於いて佛は
⑱ 自在力を現ず。 と述べるごとき一即一切・一切即一の立場からすれば、 盧舎那佛の大智は単に部分的なものではなく、全徳性を 内包せる形における大智であるといわねばならない。し たがってここでは盧舎那佛には大智もあり、大悲もあり、 その他諸点の徳性があるというのではなく、大智が盧舎 那佛のすべてであり、大智によって盧舎那佛の全体を表 現していると見るゞへきである。いわゆる盧舎那佛即大智 であって盧舎那佛之大智ではない。盧舎那佛は大智のほ かにないというところでこそ、大智が真に盧舎那佛の大 智となるのである。しかし盧舎那佛は大智のほかにない といっても、その関係が一即一切・一切叩一である限り、 単に両者は全く同一であるということではない。大智は 盧舎那佛の大智として明らかにその部分的意味を持ち差 別相にありつつ、同時にその全体を包むと見られるので ある。 その大智が具体的なはたらきとなったのが光明であり、 光となって如実に真諦の法を観察し、一切諸法門を照ら すといわれるのである。この場合の光明は、事実上盧舎 那佛のはたらきのことであるから、覚者として永遠の真理に目ざめたところに見いだされたものである。覚者と は人間の分別によっては到底思いも及ばない不変の真実 に気づいた者のことであり、その真実に触れることによ って一切がそれを離れてはあり得ない事実を認知したと ころでいわれるものである。そこではものがもの自身の 持てる実相を現わすのであり、一切の分別的見方を否定 してものがものの真相を語るのである。 如実に真諦の法を観察するといわれる意味は、何らの 先入観もなく、したがって何らかの特定の立場を取るこ となく、あるものをあるもののごとくに見ることであり、 そのように観察されてこそへ法は法の真諦を顕示すると いう、へきである。実の如くに法を見ることができるか否 か。すなわち一切の立場を否定したところで法を観察す るのでなければ真諦を見ることにはならない。法の真諦 が見られなければ、法を観察したことにはならない。法 の観察なしにあるあり方を流転とも輪廻とも無明ともい うのであるから、そこでは見たつもりで実は何ものも見 ないあり方、すなわち生きたつもりで何ら生きたことに ならない生き方を現出するにすぎないのである。人生を 真に生きたと思っていたものが、実は全く無意味な生で しかなかったということほど驚く、へきことはない。持て る力のす識へてをかけてなした事業が何の意味もないもの であったと知らされるほどの悲劇はあるまい。真諦の法 の観察が成り立たないとは、以上のごとく存在の存在性 を失わしめることであり、人生を空過せしめることであ る。悲劇的であることが、悲劇的であるとも気づかれな い形であることであり驚くべき陥穿が陥奔とも見えな い相でわれわれを落としめるのであるから、その意味は 重大である。真諦の法が最も根源的な意味を持つといわ れる所以である。 その真諦を真諦の法として観察せしめるのが光明であ る。人間がみずからの分別に立つ限り$如実ということ はあり得ない。その流転せるものの無限に深い分別の迷 いを根底より打破して、人法の二執を徹底的に照らし出 すところに、底知れぬ闇よりもなお深い光の真実相があ るのである。しかも光がはたらくとは光が直接われわれ の目に触れるというのではない・光が光であるのは量り なく照らすところにあり、一切諸の法門を照出するとこ ろにその生命がある。一切諸の法門とは色心のすべて、 迷悟のすゞへてを含むはずであるから、いかに微妙にして 些少な動きであろうと、およそあるとされるもの、それ は無とされるごときあるものでさえも掛け値なしに照ら
し出すことでなければならない。したがって光があると は、ものがその全体をあげてものの本性を顕現すること であり、一切の法が、凡夫の目からは見るに耐えない相 までも含めて、その実相をありのままに語るといっても よいであろう。 かくて光はその本性によってはじめてものの実相を知 らしめ、知る主体であるわれわれ自身の底知れぬ闇さえ も知らしめることができるのである。光に照らされるこ とが、そのまま知ることである。実相を実相のままに知 ⑲ らしめるという光であるが故に、光は同時に智であると されるのである。単に明るいというばかりでなく、日の 光の中にあってなおかつ暗黒であるような無明の闇を残 るくまなく照らし出し、その真相を知らしめるのである から大智海といわれるのである。 しかも経が真諦の法を説いたことの裏面には、俗諦の 法も含まれているということが重要である。それは光明 が一切の法門を照らすということで推察されることでは あるが、そこでは法を照らすことによって示される佛智 の重点が、表面に現われている真諦にのみ置かれている のではなく→同時に俗諦の法をも明らかにしていること に留意されねばならない。真諦といっても俗諦を離れて なく、俗諦といっても真諦を離れてはあり得ないのであ るから、真諦を明らかにすることによってかえって俗諦 が關明され→俗諦を明らかにすることによって逆に真諦 が照明されるのである。真俗の二諦はそれぞれにそのは たらく場所は異なりつつ→内面的に共通するところを持 つ故に智光によって同時に平等に照らされ、そのはたら きを全うするといえるのである。法蔵が﹁真俗隻鑿﹂と いう所以である。︵未完︶ 註①華厳経巻第二慮舎那佛品︵大正9.四○五・c︶ なお、巻第二浄眼品︵大正9.四○四・b︶には、﹁佛 以二言一説二切地一一切法相皆悉窮尽﹂とあって、 同一内容を少しく観点を変えて述べている。 ②たとえば華厳経巻第二盧舎那佛品︵大正9.四○五・b lC︶には ﹁爾時世尊、知二諸菩薩心之所念一即於二面門及二歯間︽ 各放二佛世界塵数光明︽所謂宝橦照光明、法界妙音荘厳光 明、生楽垂雲光明、仰十種力厳浄道場光明、一切宝焔雲光明、 清浄無磯充満法界光明、能成一切世界光明、浄宝金剛日瞳 光明、往詣菩薩大衆光明、演出諸佛語輪光明、如レ是等一 一光明、各有一一佛世界塵数光明弍以為一一巻属︽二光明、照一 十佛土微塵等刹︽彼菩薩見一一此光一已、得し親一一蓮華蔵荘厳世 界海﹃佛神力故、於二光明中一而説﹀偶言 無量劫海修二功徳一供二養十方一切佛一 教一一化無辺衆生海一盧舎那佛成二正覚一
放二大光明一照二十方一・⋮:﹂
といわれる。光の中より光が顕現し、その光に包まれてす ゞへてが成りたつ様が巧みに述べられている。 ③佛の光明は華厳経ばかりでなく諸種の経典に累説されて いる。無量寿経巻上の光明無量の願、触光柔軟の願︵大正 廻・二六八・aoc︶阿弥陀佛の十二光の後の﹁其有衆生遇一一 斯光一者、三垢消滅身意柔軟、歓喜踊躍善心生焉、若在二三 塗勤苦之処︽見一一此光明一皆得一一休息一無一一復苦悩ご︵大正岨. 二七○・b︶等や観無量寿経の第九真身観︵大正旭・三四 三・blc︶の説等は著名なものである。その他光明につ いては望月辞典︵P、一○八七︶佛教大辞莱︵P、一二二 九︶に詳しいが、とりわけ大宝積経巻第三十出現光明会︵大 正n.一六三・a︶は、光明を主題とした経典として興味 深いものがある。たとえば﹁如し是出現光者、有一一八十種善 根資糧ご云何八十、⋮⋮此八十法入二於五法↓云何為し五、 所謂知生死、知浬樂、知煩悩尽、知琳上、知福果、⋮⋮﹂ ︵大正、・一七一・a︶等。今はそれらを参考にしながら も華厳経に焦点をあてて考察を進めようとするのである。 ④探玄記巻第三︵大正調・一四六・c︶ ⑤大智度論巻第四十七︵大正妬.三九九・b︶ ⑥同︵大正妬.三九九・C︶ ⑦大智度論巻第七︵大正弱・二二・a︶ ③同︵大正妬・一二二・a︶ ⑨琉伽師地諭巻第十一︵大正訓・一三二○・a︶ ⑩華厳経巻第二十五十地品︵大正9.五五一八・c︶の有名 な﹁三界虚妄、但是心作、十二縁分、是皆依心﹂の心は単 なる心理的な描写によって捕えられたものでないことは明 らかである。 探玄記巻第八︵大正調.二六九・a︶には﹁佛言照し心﹂ の語があるが、第六現前地に説かれる心を対象的に見たも のであると思われる。 ⑪探玄記巻第七︵大正弱・一画二・a︶﹁本智証ン理破一一無 明等一名為一一明智︽如二大乗光明三昧弍地諭釈、光明者対一一治 無明一故﹂ ⑫探玄記巻第四十七︵大正弱・四○○・c︶には ﹁普明三昧者、得一一是三昧一於二切法一見二光明相一無一黒闇 相一如一一昼所見一夜亦如し是、如レ見レ前見レ後亦鯛、如レ見レ上 見し下亦爾、心中無し砿、修二是三昧一故得二天眼通↓普見一一光 明一了了無礒、善修二是神通一故得し成二慧眼︽普照一一諸法一所 し見無擬・﹂とあるが、光明を見る者には黒闇がないために 夜も昼のごとくであり、前を見るごとく後を見ることがで きる等、慧眼を成ずることによって開かれた心の無腰なる 相が克明に述べられている。 ⑬註⑥参照、 なお大智度論巻第七、︵大正配・二三・a︶には ﹁問日、佛何以故先放一一身光圭答日、⋮⋮有し人見三佛無量 身放一一大光明︽心信清浄恭敬故、知一一非常人弍復次佛欲し現二 智慧↓光明神相故、先出二身光﹃衆生知三佛身光既現、智慧 光明亦応一一当出︽復次一切衆生常著一一欲楽弐五欲中第一者色、 見一一此妙光↓心必愛著、捨二本所楽一令二其心漸離で欲、然後 為説二智慧ごとあって、身光と智光が区別して放たれる理 由が述↓へられている。 ⑭探玄記巻第四︵大正弱.一七二・a︶ この点に関して澄観は大方広佛華厳経疏巻第十三︵大正弱.五九五・a︶に﹁如来放一身光一照二事法界︽令三菩薩覚 知見一一事無擬﹃文殊演二智光一隻照一一事理︽令三衆覚一悟法之性 相一﹂というが、智光は事理を盤ぺ照らすとする点で法蔵と 見解を異にしている。なお大疏紗では巻第二十九︵大正粥 ・二二二・a︶がこの箇処に相当する。 ⑮阿弥陀経通賛疏巻中︵大正師・三四二・a︶ ⑯註④参照、 華厳経巻第四盧舎那佛品︵大正9.四一七・a︶では有 名な普荘厳童子の物語が説かれるが、童子がそこで得る十 種三味の最後は﹁智光三味﹂といわれ、その偶頌では 観一一察佛光明一如レ雲難二思議一一切処悉見 如レ対一一現目前一毛孔放一一光明一如レ雲不レ可レ尽 随一一諸衆生音一讃二佛無量徳一衆生遇二佛光一