ツォンカパ伝における年次と四季の確定
福
田
洋
一
拉
毛
卓
瑪
一、研究の目標と方法
ツォンカパ・ロサンタクパ ( tsong kha pa blo bzang grags pa, 一三五七〜一四一九) はチベット仏教の興隆に大きな貢 献をした高僧であり、ゲルク派の開祖でもある。本稿は、そのツォンカパの毎年次、さらには季節ごとの事績を辿り、 ツォンカパの活動の年時を確定ないしは推定することを目的とする。 ツォンカパにはケードゥプジェ・ゲレーペルサン ( mkhas grub rje dge legs dpal bzang, 一三五八〜一四三八) とトクデ ンパ・ジャンペルギャツォ ( rtogs ldan pa ʼjam dpal rgya mtsho, 一三五六〜一四二 八) という二人の直弟子の著した同時 代 の 伝 記 が 二 つ ず つ、 都 合 四 つ の 資 料 が 残 さ れ て お り、 シ ョ ル 版 ツ ォ ン カ パ 全 集 の 第 一 巻 目 ( ka 帙) に 収 録 さ れ て い る。それぞれは以下の通りである。 一.ケードゥプジェ『偉大なる聖師ツォンカパの素晴らしく希有なる御事績:信仰入 門 ( rje btsun bla ma tsong kha pachen poʼi ngo mtshar rmad du byung baʼi rnam par thar pa dad paʼi ʼjug ngogs
) 』, 71 fols, Toh. 5259. ( ) 1 ( ) 2 ( ) 3
二.トクデンパ『聖ツォンカパ大 伝の補遺:御事績の善説拾遺 ( rje btsun tsong kha paʼi rnam thar chen moʼi zur ʼdebs
rnam thar legs bshad kun ʼdus
) 』, 11 fols, Toh. 5260. 三. ケ ー ド ゥ プ ジ ェ『宝 の ご と く 尊 き 師 の 大 海 の ご と く 広 大 な 秘 密 の 御 事 績 (秘 密 の 伝 記) か ら 少 し ば か り の こ と を 述べた物語:宝の穂 ( rje rin po cheʼi gsang baʼi rnam thar rgya mtsho lta bu las cha shas nyung ngu zhig yongs su brjod paʼi
gtam rin po cheʼi snye ma
) 』, 16 fols, Toh. 5261. 四.トクデンパ『師の秘中の秘なる御事績:素晴らしく希有なる物語 ( rjeʼi rnam thar shin tu gsang ba ngo mtshar rmad
du byung baʼi gtam
) 』, 3 fols, Toh. 52 63. トクデンパの二と四は、それぞれケードゥプジェの一と三の補遺という位置づけであるが、非常に簡略なものであ るため、ツォンカパの活動の年時を考証するための情報はほとんど得られな い。 一 か ら 三 ま で の 伝 記 の 成 立 順 序 は、 『聖 ツ ォ ン カ パ 伝』 の 解 説 で 指 摘 さ れ て い る よ う に (二 八 〇 〜 二 八 一) 、 ツ ォ ン カパの生前に、一のツォンカパ逝去以前の部分、三、二の順に成立し、ツォンカパが亡くなってから一の最後の部分 が書き足されたと推定される。四は同書では言及されていないが、この伝記のコロフォンに「卯年の八月八日に書い た」 と あ り、 も し こ れ が ツ ォ ン カ パ 生 前 で あ れ ば 一 四 一 一 年 と な っ て 少 し 早 す ぎ る。 一 方、 二 四 年 後 の 卯 年 (一 四 三 五 年) で は ト ク デ ン パ は 亡 く っ て い る の で、 そ の 間 の 一 四 二 三 年 に 書 か れ た も の と 推 定 さ れ、 上 に 挙 げ た 四 つ の 伝 記 の中では一番遅くに成立している。これはツォンカパ没後四年目に当たる。 ツォンカパの生涯の時間軸を決定するとき、以上の四書のうちケードゥプジェの『信仰入門』がもっとも基本的な 伝記資料となる。まず、その大部分がツォンカパ生前に、筆頭弟子の一人であるケードゥプジェがツォンカパから直 接 話 を 聞 い て 書 い て い る の で 同 時 代 資 料 で あ り、 そ の 内 容 の 信 頼 性 が 高 い。 さ ら に、 『信 仰 入 門』 は、 若 い 頃 の 修 学 ( ) 4 ( ) 5 ( ) 6
期を除いて、中央チベットに出てからの記録が編年体のように時間軸に沿って記述されている。ただし、編年体と言 っても年時の記述があることは稀であり、ほとんどは「次の春に」や「夏と冬を過ごした」など、季節の移り変わり を記しているのみである。これら季節の記述は大抵、どこに行ったか、あるいはどこに滞在したかという場所の記録 とセットになっており、さらには誰と会ったか、誰と一緒に行動したかも記されていることが多い。これらの情報も、 ツォンカパの生涯の事績を辿る重要なメルクマールになる。 ツォンカパの著作には執筆年が記されていることは少ないが、著作場所は記されていることが多く、著作の内容と 前後関係を考慮するなら、多くの著作について執筆年を確定するか、あるいは絞り込むことができる。中でも重要な 著 作 に 関 し て は、 『信 仰 入 門』 の 中 に 執 筆 時 期 が 記 録 さ れ て い る の で、 本 研 究 に よ っ て こ れ ら の 著 作 の 執 筆 年 を 確 定 あるいは推定することも出来る。 同 様 な 試 み は こ れ ま で に も チ ベ ッ ト 高 僧 に よ っ て 行 わ れ て き た。 特 に チ ャ ハ ル ゲ シ ェ・ ロ サ ン・ ツ ル テ ィ ム ( cha har dge bshes blo bzang tshul khrims, 一七四〇〜一八一 〇) が一七九〇年に執筆した『偉大なる一切智者ジェ・ツォンカ パの御事績を分かりやすく述べたもの:一切の吉祥の源 ( rje thams cad mkhyen pa tsong kha pa chen poʼi rnam thar go sla bar brjod pa bde legs kun gyi ʼbyung gnas ) 』は、ツォンカパの年齢と年次を対応させて、一年ごとにツォンカパの事績を 詳細に記述し、さらに年齢と年時とを対応させた年表 ( rje thams cad mkhyen pa tsong kha pa chen poʼi rnam thar gyi bs -dus don ) を付している。ロサン・ツルティムはコロフォンにおいて伝記を執筆するときの典拠として、ケードゥプジ ェ の『信 仰 入 門』 と『秘 密 の 伝 記』 、 ト ク デ ン パ の『善 説 拾 遺』 の 他 に、 ツ ォ ン カ パ 全 集 の ka 帙 に 収 録 さ れ て い る 『ロ ダ ク ド ゥ プ チ ェ ン と お 会 い に な っ た 様 子 と ケ ー ド ゥ プ ジ ェ に 歯 (聖 遺 骨) を お 与 え に な っ た こ と に つ い て ( lho brag grub chen dang mjal tshul / mkhas grub rje la tshems gnang skor ) 』という二つの事績についての短い神秘的な記述 を挙げている。このうち、時間軸が明瞭に示されているのは『信仰入門』のみであり、ロサン・ツルティムの編年体 ( ) 7 ( ) 8 ( ) 9
の記述も、 『信仰入門』のみに基づいて推定されたものと見られる。内容の記述においても、 『信仰入門』を「大伝」 と呼んで頻繁に引用し、それを骨子として『秘密の伝記』など他の資料や、書簡、ツォンカパの自伝、讃歎偈や著作 の帰敬偈、廻向偈などを引用して肉付けを行ったものである。 Kaschewsky (一 九 七 一) は、 同 書 の モ ン ゴ ル 語 原 典 を 参 照 し な が ら の ド イ ツ 語 訳 で あ る。 そ の 序 論 に は、 チ ベ ッ ト の歴史的背景、ツォンカパの伝記が列挙され、ロサン・ツルティムの略伝、モンゴル語原典およびチベット語訳の文 献学的情報などが述べられている。訳注では、モンゴル語原文とチベット語訳の対応、地名や人名についての情報、 主要なツォンカパの著作の対応箇所などが指摘されている。 従 来、 ツ ォ ン カ パ 伝 に つ い て の 研 究 で は Kaschewsky (一 九 七 一) が 参 照 さ れ て き た が、 後 に 述 べ る よ う に ロ サ ン・ ツ ル テ ィ ム の 伝 記 に は、 年 時 に 関 し て『信 仰 入 門』 と 部 分 的 に 齟 齬 が あ り、 そ れ に 基 づ い た Kaschewsky の 研 究を見直す時期に来ている。 も う 一 つ、 現 在 よ く 読 ま れ て い る ツ ォ ン カ パ 伝 は、 ギ ェ ル ワ ン チ ュ ー ジ ェ・ ロ サ ン・ テ ィ ン レ ー・ ナ ム ギ ェ ル の 『偉大なるツォンカパの御事績:牟尼の教えを美しく飾る希有なる宝環 ( tsong kha pa chen poʼi rnam thar thub bstan mdzes paʼi rgyan gcig ngo mtshar nor buʼi phreng ba ) 』であ る。執筆年は一八四三年から一八四五年まで、著者の生没年 は不明であ る。資料については、ケードゥプジェの『信仰入門』と『秘密の伝記』を基礎にしながら、他の多くの伝 記 の 名 を 挙 げ て、 そ れ ら を 全 て 一 つ に 統 合 し て 伝 記 を 書 い た と 述 べ て い る。 し か し、 本 書 も 年 時 の 記 述 に 関 し て は 『信仰入門』の情報を越えるものではない。後に指摘するように、このロサン・ティンレー・ナムギェルの伝記にも、 年時の確定に本稿との推定とのずれがある。 以上のように、ツォンカパの伝記における年時を確定するためには、まず『信仰入門』の記述からどれだけのこと が確定・推定できるかを示す必要がある。結果としては多くの年時においてロサン・ツルティムの推定と一致するが、 ( ) 10 ( ) 11 ( ) 12 ( ) 13
本稿の作業の価値は、根本資料に立ち返って典拠を明確にしていることにある。以下本稿では、次のような手順で年 時を推定していく。 一. 『信仰入門』の中で年次が明示的に言及されている箇所を確認する。 二.年齢のみが言及されている箇所を確認する。生年と没年および一での絶対的年次が分かっているので、年齢の記 述から推定できる年次も一と同様に確実な年次だと言える。 三.一と二で判明している年次を元に『信仰入門』における四季の推移の記述から年時および年齢を計算していく。 特定の年に確定できず、複数年の期間を示さなければならない場合には、そのことを明示する。 四. 年 時 だ け で は な く、 『信 仰 入 門』 に 記 録 さ れ て い る ツ ォ ン カ パ の 移 動 先 お よ び 関 連 す る 人 物 名 も 併 記 す る。 ツ ォ ンカパの著作についても、 『信仰入門』に言及されるものは全て挙げる (言及されていないものについては挙げない) 。 以上の年時確定の作業の過程で、上記ロサン・ツルティムとロサン・ティンレー・ナムギェルの伝記との齟齬があ る場合には、推定の根拠を示して考察を加えた。
二、
『信仰入門』に明示されている年次と年齢
『信 仰 入 門』 に お い て、 十 二 支 に よ る 年 号 が 言 及 さ れ て い る の は 以 下 の 一 二 箇 所 で あ る。 こ れ ら の う ち、 年 次 と 年 齢 の 両 方 が 言 及 さ れ て い る の は、 【三】 申 年 (一 三 九 二) の 三 六 歳 と【七】 卯 年 (一 四 一 一) の 五 五 歳 の 二 箇 所 で あ る。 『信 仰 入 門』 に は、 ツ ォ ン カ パ の 亡 く な っ た 年 齢 は 記 述 さ れ て い な い が、 【三】 と【七】 の 年 次 と 年 齢 か ら 計 算 す る と、ツォンカパが亡くなった【一二】の一四一九年には、ツォンカパは六三歳であったことが分かる。同様の計算に ( ) 14よって、ツォンカパの生まれた年は酉年一三五七年であることが確定できる。その他の年次に対応する年齢も計算で きるので、以下の表の→の後に記す。=は年齢が『信仰入門』に明示されていることを示す。 【一】丑年 (一三七三) →一七歳 ( 9b6, 和訳・四 二) 【二】午年 (一三九〇) →三四歳 ( 22b6, 和訳・六六) 【三】申年 (一三九二) =三六歳 ( 27b6, 和訳・八三) 【四】子年 (一四〇八) →五二歳 ( 44b2, 和訳・一〇六) 【五】丑年 (一四〇九) →五三歳 ( 44b4, 和訳・一〇六) 【六】寅年 (一四一〇) →五四歳 ( 50a3, 和訳・一一五) 【七】卯年 (一四一一) =五五歳 ( 50a6, 和訳・一一六) 【八】辰年 (一四一二) →五六歳 ( 50b3, 和訳・一一六) 【九】未年 (一四一五) →五九歳 ( 52a3, 和訳・一一九) 【一〇】酉年 (一四一七) →六一歳 ( 52a5, 和訳・一一九) 【一一】戌年 (一四一八) →六二歳 ( 54a1, 和訳・一二一) 【一二】亥年 (一四一九) →六三歳 ( 54a4, 和訳・一三六) また『信仰入門』で年齢のみが言及されている箇所は次の四箇所である。これらについても、年次を計算し確定す ることができる。 ( ) 15
(一)三歳→一三五九年 ( 5a2–3, 和訳・二九) (二)七歳→一三六三年 ( 7b6, 和訳・二九) (三)一六歳→一三七二年 ( 8b5, 和訳・三八) (四)一九歳→一三七五年 ( 10b4, 和訳・四三) これらを時間軸上の定点として、次に『信仰入門』の記述から計算できる年時を確定・推定していこう。
三、
『信仰入門』の四季節の記述から推定される年次
前 節 に 挙 げ た 年 次 (あ る い 年 齢) 以 外 に、 『信 仰 入 門』 に お い て 明 確 な 年 次 の 記 述 は な い が、 ケ ー ド ゥ プ ジ ェ は、 ツ ォ ン カ パ が 場 所 を 移 動 す る た び に、 細 か く そ の 季 節 (季 節 の 学 期 あ る い は 夏 安 居 な ど も 含 む) に つ い て 言 及 し て い る。 第 二節で確定できた年次の間の年については、その季節の記述を頼りに年次を推定していくことが可能である。ただし、 中には正確に計算できず、確定された年次の間で辻褄が合うように推測しなければならない場合もある。また二年間 あるいは三年間同じところに滞在している場合には、その期間以上の正確な年次を指摘することはできない。 『信 仰 入 門』 の 中 で、 季 節 の 移 り 変 わ り が 連 続 し て 書 か れ る よ う に な る の は、 二 〇 歳 以 降 で あ る。 そ れ ま で の 活 動 の 年 時 は、 大 ま か な こ と し か 分 か ら な い。 ツ ォ ン カ パ は 七 歳 (一 三 六 三 年) ま で は 自 分 の 家 で 過 ご し、 七 歳 か ら 一 六 歳 (一三七二年) まではチュージェ・トンドゥプ・リンチェン (chos rje don grub rin ch
en ) のもとで勉学した。 そ し て、 一 六 歳 (一 三 七 二 年) の と き、 中 央 チ ベ ッ ト の ツ ァ ン ( gtsang ) に 勉 学 に 行 く 事 に な り、 翌 年 (丑 年、 一 三 七 三年) ツォンカパ一七歳の秋にディグン寺 ( ʼbri gung ) に到着した。そこで、ディグン・カギュ派第一五代座主のチェ ンガ・リンポチェ・チューキ・ギェルポ ( spyan snga rin po che chos kyi rgyal po, 一三三五〜一四〇七) に大乗の発心の ( ) 16
儀軌や五支マハームドラーなどの法を聴聞した。 次にデワチェン ( bde ba can ) に行って、そこで一七歳から一九歳までの二年間般若思 想を学び、その内容に通達 した ( 8b5–10b4, 和訳・四二〜四三) 。 一九歳 (一三七五年) のとき、サンプ ( gsang phu ) 、デワチェンを廻り、さらにシャル寺 ( zhwa lu ) において僧院長 ダツェパ・リンチェン・ナムギェル ( sgra tshad pa rin chen rnam rgyal, 一三一八〜一三八八) にマイトリーパ流のチャク ラサンヴァラ一三尊の灌頂を聴聞した。次に、ナルタン寺 ( snar thang ) 、サキャ寺 ( sa skya ) 、ササン寺 ( sa bzang ) 、 ダ ル サ ン デ ン 寺 ( ʼda r b za ng ld an) 、 ガ ム リ ン 寺 ( ng am rin g )、 ガ ロ ン 寺 ( ʼga ʼ r on g c ho s s de) 、 ジ ョ モ ナ ン 寺 ( jo m o s na ng) 、 ポトン寺 ( bo dong ) 、チボレー ( spyi bo lhas ) 、大僧院エ ( e )、ナルタン寺、ネーニン寺 ( gnas rnying ) などを廻って有 名な高僧に各種の論書を聴聞し、また問答を行った ( grwa skor ) 。 ( 10b4–11b2, 和訳・四三〜四五) 『信 仰 入 門』 に 季 節 の 移 り 変 わ り が 連 続 し て 書 か れ る よ う に な る の は、 ネ ー ニ ン 寺 に 短 期 滞 在 し た の ち 夏 学 期 ( dbyar chos ) にツェチェン寺 ( rtse chen ) を訪れたときからである。年次ないし年齢の記載はないが、一三七五年一 九歳の後にサンプ寺から始まって一五の僧院を訪問して、夏学期にツェチェンで過ごすと記述しているので、翌一三 七六年二〇歳のこととするのが妥当であろう。次に年次が示されるのは一三九〇年三四歳のときなので、それまでの 間は四季の言及を基に年次を推測していく必要がある。 〈一〉二〇歳 (一三七六 年) 夏学期はツェチェン寺に行き、そこで智者ニャオン・クンガペル ( nya dbon kun dgaʼ dpal, 一二八五〜一三七九) から 般若思想を聴聞した。またニャオンの弟子の聖レンダワ ( red mdaʼ ba gzhon nu blo gros, 一三四九〜一四一 二) を紹介さ れた。その夏にサキャからツェチェンに来ていたレンダワに『阿毘逹磨倶舎論』とその自注の懇切丁寧な指導を受け ( ) 17 ( ) 18 ( ) 19
た。 ( 11b2–12a3, 和訳・四五〜四六) 夏学期と秋学期の合間に、レンダワとツォンカパ師弟はニャントゥ ( nyang stod ) のサムリン寺 ( bsam gling ) に旅 し、レンダワから『入中論』を聴聞した。 ( 13b5–6, 和訳・四八) 秋の終わりにニャントゥを発ち、キシュ ( skyid shod ) のポタラ ( po ta la ) に行き、アビダルマ思想の権威である大 総院長チャンチュプツェモ (
byang chub rtse mo
) と法縁を結んだ。 ( 13b6–14a4, 和訳・四八〜四九) 冬は、デワチェンで過ごした。 ( 14a4, 和訳・四九) 〈二〉二一歳 (一三七七 年) その 後、キョルモルン寺 ( skyor mo lung ) に行き、律蔵に精通した大持戒者である僧院長カシパ・ロセル ( bkaʼ bzhi pa blo gsal ) に『根本律経 ( ʼdul ba mdo rtsa ba ) 』の注釈全部を聴聞した。それを完全に理解して暗記した。 ( 14a4–15a2, 和訳・四九〜五〇) 冬はネーニン寺に滞在した。求道者や随行者の懇請により、それまで熟読したことのなかった『阿毘達磨集論』を、 読んだ端から理解して素晴らしい講義を行った。 ( 15a2–a6, 和訳・五〇〜五一) 〈三〉二二歳 (一三七八年) 春、 ナ ル タ ン 寺 を 経 由 し て サ キ ャ 寺 に 行 き、 そ こ で 道 果 説 を 聴 聞 し て い た レ ン ダ ワ に 再 会 し、 サ キ ャ に 一 一 ヶ 月 (二二歳の冬まで) 滞在した。レンダワに『阿毘逹磨集論』の懇切丁寧な指導を受けた。さらに、レンダワに主として 『プ ラ マ ー ナ・ ヴ ァ ー ル テ ィ カ』 を 聴 聞 し、 『入 中 論』 な ど の 解 説 と、 『根 本 律 経』 の 音 読 儀 礼 ( lung ) な ど、 多 く の 経・論の解説と音読を授かった。ドルジェリンチェン ( rdo rje rin chen pa ) にサキャ派流の『二分別』 ( brtag gnyis, ( ) 20 ( ) 21
『ヘーヴァジュラ・タントラ』の注釈) を聴聞した。 ( 15a6-b4, 和訳・五一) 〈四〉二三歳 (一三七九年) レンダワとツォンカパ師弟は、春学期の前に、サキャからラトゥ ( la stod ) のダムリン ( dam ring ) に行き、そこに 春学期と夏学期の間、滞在した。レンダワは『阿毘達磨集論』の大注釈 ( mngon pa kun las btus kyi Tika chen mo ) を書 き、ツォンカパは書き終わったところから理解していった。また『プラマーナ・ヴァールティカ』について詳しく聴 聞した。 ( 15b4–6, 和訳・五一〜五二) 秋学期、メルド・ラルン ( mal gro lha lung ) に滞在し、そこのラマ・ソナムタクパ ( bsod nams grags pa ) から聖典 の 音 読 儀 礼 ( ch os lu ng) を 授 か り 、 瞑 想 修 行 を し た 。 ま た 、『 プ ラ マ ー ナ ・ ヴ ァ ー ル テ ィ カ 』 の 注 釈 書 『 論 理 の 蔵 ( rig s mdz od ) 』 を 読 み、 特 に そ の 第 二 章「量 成 就 章」 の 道 の 設 定 を 説 く 箇 所 を 熟 読 し て、 ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 学 説 と 論 理 学に対して無量の信心が生じた。 ( 15b6–17b3, 和訳・五二〜五四) 冬学期は、デワチェン寺に滞在した。 ( 17b3, 和訳・五四) 〈五〉二四歳 (一三八〇年) 春学期の前半は、問答のための文献の下調べをしてから、ツァンのナルタン寺に行き、翻訳師トンドゥプ・サンポ ( don ʼgrub bzang po ) が論理学の複注 ( tshad maʼi Tikkʼa ) を著しているので何としても一度聴聞しなさいとのお言葉 を〔レンダワから?〕賜り、 〔それを〕聴聞した。 ( 17b3–4, 和訳・五四) 夏 学 期 は、 ナ ル タ ン 寺 で、 『プ ラ マ ー ナ・ ヴ ァ ー ル テ ィ カ』 、 大 乗・ 小 乗 の 阿 毘 達 磨 (『阿 毘 達 磨 倶 舎 論』 と『大 乗 阿 毘 達磨集論』 ) 、『根本〔律〕経』についての問答を行った。 ( 17b5, 和訳・五五) ( ) 22
秋 学 期 か ら 翌 年 (一 三 八 一 年、 二 五 歳) の 春 学 期 は、 ま ず エ ( e ) 僧 院 に 行 き、 翻 訳 師 ナ ム カ・ サ ン ポ ( nam mkhaʼ bzang pa ) に『詩鏡注 ( snyan ngag me long gi bshad pa ) 』などを聴聞した。根本ラマのレンダワからは、中観、論理学、 阿毘逹磨などを聴聞し、般若と律は、それぞれ適切な師に聴聞するなら縁起がいいと、それぞれの師にお願いして聴 聞 し た。 中 観 六 論 書 に つ い て は、 『入 中 論』 の 解 説 以 外 は 誰 に も 聴 聞 で き な か っ た。 中 観 六 論 書 の 音 読 儀 礼 は、 ナ ル タン寺の僧院長クンガ・ギェルツェン ( kun dgaʼ rgyal mtshan ) から授かった。デワチェン寺のジャムぺル・リンチェ ン ( ʼjam dpal rin chen ) からも音読儀礼を授かった。当時、レンダワとツォンカパ師弟に対して中観六論書の解説をし てくれる師はなく、その音読儀礼を授けてくれる師も見出し難い状況だったのである。それから、師弟はサキャ寺に 行き、ツォンカパは難解典籍 ( dkaʼ ch en ) についての問答を行った。 ( 17b5–18a6, 和訳・五五〜五六) 〈六〉二五歳 (一三八一年) 夏学期は、ウに行って、グンタン寺の十日祭、サンプ寺、ツェタン寺 ( rtses thang dgon ) などの大僧院を訪れ、す でに終えていた般若思想以外の四大難解典籍 (
dkaʼ chen lhag ma bzhi
) の問答を行った ( 18a6–b4, 和訳・五六) 。 ツェタンでの議論を終えた 後、ヤルルン・ナムギェル ( yar lung rnam rgyal ) 寺でカシミール・パンディタ大沙門シ ャーキャシュリーバドラ ( Śākyaśrībhadra, 一一二七〜一二二 五) の律の伝統を引く僧院長カシパ・ツルリンパ ( dkaʼ bzhi pa tshul rin pa ) が親教師を務め、チェジンパの僧院長 ( tshogs pa bye rdzing paʼi mkhan po ) の持戒僧シェルゴンパ長老 ( sher mgon pa ) が掲磨師をし、チェジンパの読誦師の律僧ソナム・ドルジェ ( bsod nams rdo rje ) が秘密師をし、ツ ォンカパに具足戒を授けた。 ( 19b1–4, 和訳・五九〜六〇) ( ) 23 ( ) 24 ( ) 25 ( ) 26
〈七〉二五歳 (一三八一年) 〜三〇歳 (一三八六年) そ れ か ら、 デ ィ グ ン・ カ ギ ュ 派 の 本 山 で あ る テ ル ( th al ) に 行 き、 チ ェ ン ガ・ リ ン ポ チ ェ・ タ ク パ チ ャ ン チ ュ プ ( spyan lnga rin po che grags pa byang ch ub ) に、道果説の完全な口訣、ナーローの六法、 〔カギュ派の〕パクモドゥパ とジクテングンポの全集などを聴聞した。 ( 19b4–20a2, 和訳・六〇) 学期の合間にオンのケル仏殿 ( ʼon gyi lha khang ke ru ) に行き、ツァコポンポ・ガワン・タクパ ( tsha kho dbon po
ngag dbang grags
pa ) などの多くの三蔵僧に対して、般若思想、論理学、中観などを講義した。 ( 20a2, 和訳・六〇) そ れ か ら 、 キ シ ュ ( sk yid s ho d ) の ツ ェ ル に 滞 在 し 、 チ ベ ッ ト 語 に 訳 さ れ た 全 て の 経 典 と 論 書 を 熟 読 し た 。 全 て の 経 典 の 内 容 を 分 析 す る た め の 様 々 な 方 法 に つ い て 初 め て 思 い を 巡 ら せ た。 『現 観 荘 厳 論』 と そ の 注 釈 書 に 対 す る 大 部 の 解説書 (『善説金 蔓』 ) の執筆に着手した。 ( 20a2–3, 和訳・六一) 冬学期はデワチェンに滞在し、多くの三蔵 (経・律・論) を講義した。 ( 20b6, 和訳・六二) 〈八〉三一歳 (一三八七年) 春学期に、ウトゥ ( dbu stod ) のチャユル ( bya yul ) に行き、善知識七〇人ほどに般若思想、論理学、 『入中論』 、 『阿 毘 達 磨 集 論』 な ど を 講 義 し た。 再 び ツ ェ ル に 行 き、 般 若 思 想 の 解 説 書 (『善 説 金 蔓』 ) の 残 り を 著 し、 結 び は 同 年 五月にデワチェンにおいて完成させ た。キョルモルン寺において、ツェル派の師トクデン・イシェー・ギェルツェン ( rtogs ldan ye shes rgyal mtshan ) にお願いして『時輪タントラ』の大注釈書『無垢光』 ( dri med paʼi ʼod ) の詳細な解 説を聴聞した。また同寺において、多数の三蔵僧に対して大小多くの論書の講義を行った。 ( 20b6–21a3, 和訳・六二) 次 の 夏 学 期、 ふ た た び デ ワ チ ェ ン 寺 に 集 ま っ た 頭 脳 明 晰 な 多 数 の 人 た ち に、 多 数 の 三 蔵 の 法 を 講 義 し た。 ( 21a3–4, 和訳・六二) ( ) 27 ( ) 28 ( ) 29 ( ) 30 ( ) 31 ( ) 32 ( ) 33
冬は、トゥルン ( stod lung ) のツォメー ( mtsho smad ) とガンカル ( ngang dkar ) で『時輪タントラ』に基づく心の 訓練 ( thugs sbyongs ) をした。また頭脳明晰な多数の善知識に多くの講義を行った。 ( 21a4–5, 和訳・六三) 〈九〉三二歳 (一三八八年) 春、ゴンカル ( gong dkar ) 寺のゴムパ・チューギェル ( sgom pa chos rgyal ) の招待を受け、 〔ゴンカルの〕五明仏殿 ( rigs lnga lha khang ) に滞在した。そこで、七〇人以上の三蔵僧に対して、般若思想、論理学、大乗・小乗の阿毘達 磨、 『根本律経』 、『入中論』などを講義した。 ( 21a6–b1, 和訳・六三) 冬、ムンカル ( smon mkhar ) のタシドン ( bkra shis gdong ) に滞在した。多くのテキストを同時に説くために、その 月 (一〇月) 一〇日から三〇日まで準備をし、翌月 (一一月) の三日までにマルパ ( mar pa lo tsaʼ chos kyi blo gros, 一〇 〇一〜一〇九七) 、ミラレーパ ( mi la ras pa bzhad paʼi rdo rje, 一〇四〇〜一一二三) などの小品をいくつか説いた。 (一〇 月) 五 日 か ら は、 イ ン ド の 典 籍 を 冒 頭 か ら 読 み 始 め、 毎 日 一 五 コ マ の 講 義 を 行 っ た。 そ し て、 『プ ラ マ ー ナ・ ヴ ァ ー ルティカ』 、『現観荘厳論』 ( phar phyin ) 、上下の阿毘達磨、 『根本律経』 、「弥勒の後ろ四法 ( byams chos phyi ma bz hi ) 」、 「中観五論 書」 、『入中論』 、『四百論』 、『入菩薩行論』の一七の論書を講義した。講義の間に、ツォンカパはヴァジュ ラヴァイラヴァの自加持や、 〔生起・究竟の〕二次第の瞑想修行を行った。 ( 21b4–22b2, 和訳・六四〜六五) 〈一〇〉三三歳 (一三八九年) 夏 は、 ヤ ル ル ン の オ カ ル タ ク ( o kar brag ) に 滞 在 し、 チ ャ ク ラ サ ン ヴ ァ ラ 尊 の 真 言 念 誦 と 瞑 想 修 行 ( bsnyen sgrub ) と四座瑜伽 ( thun bzhiʼi rnal ʼbyor ) と自加持の行を何度も行い、さらにニグマの六法 ( ne gu chos drug ) の一連 の観想でお心にヴィジョンが現れ、トゥン モの調息 ( rlung sbyor ) も毎日八〇〇回ほど行った。 ( 22b2–4, 和訳・六五) ( ) 34 ( ) 35 ( ) 36
秋はキシュに行き、ウから到着したレンダワとともにポタラに滞在し、勝法についての多くの議論を行った。その 後、レンダワはツァンに向かった。 ( 22b4, 和訳・六六) そ の 冬、 キ ョ ル モ ル ン の 岩 山 で 多 く の 学 僧 に『時 輪 タ ン ト ラ』 、 般 若 思 想、 論 理 学、 阿 毘 達 磨 な ど の 講 義 を 行 っ た。 ( 22b6, 和訳・六六) 〈一一〉三四歳 (一三九〇年) 午 年 (一 三 九 〇 年) の 春、 主 要 な 密 教 経 典 の 解 釈 と 灌 頂、 作 法、 口 伝 な ど の 全 て を 徹 底 的 に 究 明 す る た め、 ま た、 師レンダワと議論する必要があったため、ツァンに行き、ロンのヌプチュールン ( rong gi snubs chos lung ) に滞在し た。そこの集会堂長の尊者タクパ・シェーニェン ( grags pa bshes bsnyen ) から様々な経典の教え ( bkaʼ lung ) を聴聞 した。このとき、ラマ・ウマパ ( bla ma dbu ma pa ) と初めて会っ た。 ( 22b6-23a4, 和訳・六六〜六七) それから〔夏 に〕タクツァン城 ( stag tshang rdzong kha ) に行った。そこで翻訳師の法王キャプチョク・ぺルサン ( ch os rje sk ya bs m ch og d pa l b za ng p o ) が 主 催 者 と な り 、 翻 訳 師 タ ク パ ・ ギ ェ ル ツ ェ ン ( gr ag s p a r gy al m tsh an) 、 レ ン ダ ワ、翻訳師トンドゥプ・サンポ、ツォンカパと、多数の善知識、三蔵僧、当地の僧衆が会して大法話会が行われた。 タクパ・ギェルツェンは般若思想、法王キャプチョク・ぺルサンは『二分別』を講義した。レンダワは自作の『プラ マーナ・ヴァールティカ』の注釈書をツォンカパに講義し、師弟二人は難解な箇所の意味を確定すべく詳しい議論を 行った。 ( 23b4–24a4, 和訳・六七〜六八) 〔夏学期と秋〕学期の合間に、レンダワとツォンカパ師弟二人はバウバニェル ( ʼbaʼ ʼu ʼbaʼ gnyer ) に行き、そこでツ ォンカパはレンダワから『秘密集会タントラ』の根本タントラの講義を一通り聴聞した。この時期から密教の学習が 本格化した。その後、レンダワはサキャに帰った。ツォンカパはロンのチュールンに行って、ラマ・ウマパと多くの ( ) 37 ( ) 38
法 談 を し、 〔ラ マ・ ウ マ パ を 介 し て〕 聖 文 殊 の 一 連 の 法 を た く さ ん 聴 聞 し た。 そ こ で 実 践 修 行 に 入 る 決 意 を し た。 ( 24a4–25a4, 和訳・六八〜七〇) 秋は、ロンのリンルン窟 ( ring lung phug ) に滞在した。秋の終わりに、ニャントゥ ( nyang stod ) のゴンスムデチェ ン ( gong gsum sde chen ) 寺でチューキぺルワ ( chos kyi dpal ba ) にお願いして『時輪タントラ』の大注釈書の解説を 聴聞した。 ( 25a4–25b4, 和訳・七〇〜七一) 〈一二〉三五歳 (一三九一年) 〔三四歳の〕秋の終わりから〔翌年三五歳の〕春学期の初めにかけて、ゾクリン ( rdzogs ring ) で、チューキペルワ に、タントラの注釈の講義や実践の手引き、六支ヨーガの観想の手引きなどを全て聴聞した。それから、ニャン渓谷 の上流と下流の境 ( nyang stod smad kyi mtshams ) にあるティツァカン ( ʼkhris rtswa khang ) に、プトンの孫弟子に当 たるヨーガ師グンサン ( mgon bzang ) を招いて、金剛界、吉祥最勝、金剛頂経などヨーガタントラの大マンダラの作 法 全 て を 学 ん だ 。 そ の 学 習 を し て い る あ る 晩 、〔 翌 年 会 う こ と に な る 〕 キ ュ ン ポ レ ー パ の 夢 を 見 た 。 ( 25 b4 –2 6a 5, 和 訳 ・ 七一〜七二) 春学期の終わりから秋学期の初めまで、ゴンスムデチェン寺でチューキペルワに、様々な灌頂、音読儀礼、テキス トの解説や口伝、実践の指導など、密教の法をたくさん聴聞した。 ( 26a5, 和訳・七二〜七三) 〈一三〉申年三六歳 (一三九二年) ある夜、ふたたびキュンポレーパの夢を見たのち、 〔三五歳の〕秋学期の終わりから、 〔翌年三六歳の〕夏学期まで シャル寺 ( zhwa lu ) に滞在し、聖キュンポレーパ ( rje btsun dam pa khyung po lhas pa ) からヨーガタントラの大マン ( ) 39
ダ ラ な ど 下 位 の 三 タ ン ト ラ (所 作 タ ン ト ラ、 行 タ ン ト ラ、 ヨ ー ガ タ ン ト ラ) で、 当 時 チ ベ ッ ト に 清 浄 な 灌 頂 の 伝 統 の 続 い ている全ての教説を聴聞した。また、チャクラサンヴァラ尊を始めとした無上ヨーガタントラの教説なども無量に聴 聞した。こうしてプトンからキュンポレーパに伝わった法が全てツォンカパに伝わったのである。 ( 26b4–27b1, 和訳・ 七三〜七四) パ ナ ム ( pa rn am ) の パ ク パ 山 ( ph ag p a r i ) に 来 て い た チ ュ ー キ ペ ル ワ に 、『 時 輪 タ ン ト ラ 』 と 『 秘 密 集 会 タ ン ト ラ 』 とに関連する多数の注釈書・論書を聴聞した。チューキペルワがゴンスムデチェン寺に戻ったあと、シャル寺のヨー ガ師ギェルツェン・タクパ ( rgyal mtshan grags pa ) を招いて、様々なヨーガタントラの経典・注釈書・解説を無量に 聴聞した。 ( 27b3–6, 和訳・七五) 申年 (一三九二年) の秋にラマ・ウマパとともにウのガワドン ( dgaʼ ba gdong ) に滞在し、ラマ・ウマパを介して聖 文殊に中観思想や顕教、密教の区別などの様々な質疑を行った。その間にツォンカパは、ラマ・ウマパを介すること なく直接聖文殊と対話できるようになった。 ( 27b6–31b3, 和訳・七五〜八一) その秋のうちにドカム ( mdo khams ) に行くラマ・ウマパをラサまで見送りに出て、トゥルナン寺の門堂の上の仏 殿でツォンカパはラマ・ウマパに阿閦仏を本尊とする『秘密集会タントラ』の四灌頂を全て授けた (これがラマ・ウマ パと会った最後である) 。その後、秋学期の終わりに、ツォンカパはキョルモルンに行き、多くの法を講義した。 ( 32a1– 2, 和訳・八三) 三六歳申年 (一三九二年) の冬の一〇月に、キョルモルンから八人の弟子と共にウルカ ( ʼol kha ) に船で行って遁世 修行に入った。 ( 32a2–5, 和訳・八三〜八四)
〈一四〉三七歳 (一三九三年) 〔 三 六 歳 の 〕 冬 か ら 〔 三 七 歳 の 〕 春 に か け て 、 ウ ル カ の チ ュ ー ル ン ( ch os lu ng) で 弟 子 た ち と 遁 世 修 行 を 続 け た 。 特 に福徳の資糧を積み罪業を浄化する修行に励んだ。 ( 32a5-33a3, 和訳:八四) 夏は、ジンチ ( rdzing phyi ) の弥勒像を参拝し、供養した。 ( 33a3, 和訳・八五) 冬、タクポメンルン ( dwags po sman lung ) のギャソクプ ( rgya sog phu ) に行った。その時からヴァジュラヴァイラ ヴァ十三尊の自加持 ( bdag ʼjug ) の行を途切れることなく行うようになった。 ( 33a3–4, 和訳・八五) 〈一五〉三八歳 (一三九四 年) 春、ウルカに行って、祝福が未曾有に大きいことで有名なジンチの弥勒像が、墓場で倒れたまま放置されていたの を復興し、仏殿を修復して、落慶法要を行った。 ( 33a4–b1, 和訳・八五 〜 八七) 〔 夏、 〕ロダクのナムカ・ギェルツェンに招かれてタオ寺 ( bra bo dgon pa ) に行き七ヶ月滞在した。ツォンカパはロ ダクの諸僧に『大乗集菩薩学論』などの講義を行った。尊者ナムカ・ギェルツェンに五大陀羅尼の灌頂など、灌頂や 随許を授けた。ナムカ・ギェルツェンからは菩提道次第の手引きを聴聞した。 ( 34b1–4, 和訳・八七) ジンチの弥勒像に多くの供物を捧げ、顔に金を塗り重ね、 『讃歌、梵天の冠 ( bstod pa tshangs paʼi cod pan, Toh. 5275-29 ) 』 を 捧 げ て、 イ ン ド の シ ン ギ リ に 行 こ う と し た が、 本 尊 で あ る 聖 文 殊 が ヴ ィ ジ ョ ン に 現 れ、 イ ン ド 行 き を 制 止したので、断念してニェル地方に行った。 ( 34b4–35a1, 和訳・八七〜八八) 〈一六〉三九歳 (一三九五年) 〔ジンチでインド行きを断念したの ち、 〕ニェルのロロ ( gnyel lo ro ) に着き、トゥタク ( stod stag ) に五ヶ月程滞在 ( ) 40 ( ) 41 ( ) 42
した。そこにディンレーパ ( brin las pa ) が著した『教説次第大論 ( bstan rim chen mo ) 』が将来されていたのをお迎え し、供養を捧げて詳しく読むことによって〔自らの道次第思想に〕大きな確信を得た。そして教説次第について初め て講義をした。再び遁世修行に入り、仏の説いた教説一切およびその実践の仕方について誤りのない確信を得た。さ らに、全ての所化それぞれの能力に応じて導くことができる道次第について確信が生じた。 ( 35a1–36a2, 和訳・八八〜 九〇) それから、下ニェルのセルジェガン ( gsal rje gangs ) のヤルデン寺 ( yar ʼdren dgon pa ) で一夏を過ごし た。 ( 36a2–3, 和訳・九〇) それから、師弟三十人でツァリのマチェン ( tsa ri ma chen ) に行き数日滞在した。チャクラサンヴァラ尊の自加持 な ど の 行 を 行 い、 未 曾 有 の 験 が た く さ ん 生 じ た。 そ れ か ら、 再 び ニ ェ ル 地 方 に 行 き、 下 ニ ェ ル 地 方 の セ ン ゲ ゾ ン ( seng ge rdzong ) に滞在し た。セルチェブムパ ( gser phye ʼbum pa ) 寺で、律の講義をたくさんした。 ( 36a2–b4, 和訳・ 九〇〜九一) 〈一七〉四〇歳 (一三九六年) 〜四一歳 (一三九七年) 春に、ニェルのガンチュン ( sgang chung ) に滞在し、様々な法を講義した。 ( 36b4–b6, 和訳・九二) 夏は、上ニェルのラプドン寺 ( rab grong ) に滞在した。ダルマリンチェン ( dar ma rin chen ) と初めて会った。ラプ ドンの僧院長が施主となり、何日間もの法話会が開かれた。 ( 36b6–37a6, 和訳・九二〜九三) 〔四〇歳の秋に〕ニェルを出発して再びウルカに行った。オデグンギェル聖山の麓下 ( ʼo de gung rgyal lha zhol ) に あ る ラ デ ィ ン ( lha sd ing s ) に 〔 四 〇 歳 の 秋 、 冬 、 四 一 歳 の 春 、 夏 の 〕 一 年 間 滞 在 し 、 講 義 を 行 っ た 。 こ の 聖 地 で ラ マ ・ ウ マ パ と 聖 文 殊 を 一 体 の も の と み な し て 強 く 祈 願 を し て 論 理 に よ る 考 察 を 行 っ た と こ ろ、 素 晴 ら し い 加 持 の 験 ( byin ( ) 43 ( ) 44 ( ) 45
gyis brlabs paʼi mtshan ma khyad par can ) が顕れた。その中で、ブッダパーリタ本人からサンスクリット語の『中論』 の 原 典 を 授 か る と い う ヴ ィ ジ ョ ン が 顕 れ、 中 観 思 想 の 最 終 的 な 確 信 を 得 た。 そ の 後『縁 起 讃』 を 著 し た。 ( 37b1–38b2, 和訳・九二〜九三) 〔四一歳の〕秋にウルカに行った。 ( 38b2, 和訳・九五) 〈一八〉四二歳 (一三九八年) 〔四一歳の〕冬から〔四二歳の〕春にかけてウルカのガルパク ( mgar phag ) に滞在し、ウルカの僧たちに講義をし た。 ( 38b2, 和訳・九五) 夏は、エ地方のテウラン (
eʼi steʼu rang
) に滞在した。 ( 38b3, 和訳・九五) 冬 は 、 ウ ル カ の タ ク ド ン ( br ag g do ng) に 滞 在 し た 。 ジ ン チ の 弥 勒 像 を 拝 観 し 、 神 変 会 を 祝 っ て 、 十 五 日 間 、 盛 大 に 供養を捧げ一切衆生の平安を祈願した。 ( 38b3–5, 和訳・九五) 〈一九〉四三歳 (一三九九年) 春、カプチュパ ( dkaʼ bcu pa ) 御前〔ダルマリンチェン〕を始めとする二百人以上の三蔵僧に多くの法を講義した。 ( 38b5, 和訳・九五) 夏は、ニャンポのダンド寺 ( nyang po mdangs mdoʼi dgon pa ) に滞在し、その地方の僧たちに多くの法を講義した。 ( 38b5–6, 和訳・九五) 秋は、長官ナムカ・サンポの招請を受け、キシュに行き、ポタラに滞在した。サンプ寺、デワチェン寺、グンル寺 の三寺 ( gsang bde gung gsum ) 、ガワトン寺、キョルモルン寺、スルプ寺の三寺 ( dgaʼ skyor zul gsum ) の人々を始めと ( ) 46 ( ) 47 ( ) 48
する百人以上の三蔵僧に『中観光明』 、律、道次第など多くの法を講義した。 ( 38b6–39a3, 和訳・九五〜九六) 〈二〇〉四四歳 (一四〇〇年) 春、 ガ ワ ド ン に 行 っ た。 大 乗 者 が 密 教 修 行 に 進 む た め の 心 構 え に つ い て 考 え た こ と を 基 に、 『瑜 伽 師 地 論』 の「菩 薩地」における「菩薩戒」の章 ( P. No. 5538-1-10 ) や『師に関する五十頌 ( bla ma lnga bcu pa, P. No. 1403 ) 』、 『〔三昧耶 戒における〕十四堕罪 ( rtsa ltung bcu bzhi pa, P. No. 3311, 3313 ) 』などを講義した。その講義の終わり頃にレンダワがガ リから到着した ( 39a3–b3, 和訳・九六〜九七) 夏安居はタクツァンで行ってから、ウのガワドンに行った。そこで師レンダワを迎え、師弟二人で多くの法を講義 し た 。 そ の 夏 、 師 弟 二 人 は カ ダ ム 派 の 源 泉 と な っ た ラ デ ン 寺 ( rw a sg re ng) に 、 多 く の 三 蔵 僧 を 伴 っ て 行 っ た 。 ( 39 b3 – 5, 和訳・九七) 冬 は、 ラ デ ン 寺 に 滞 在 し た。 レ ン ダ ワ は『六 十 頌 如 理 論』 と『秘 密 集 会』 の 五 次 第 な ど を 講 義 し、 ツ ォ ン カ パ は 『大 乗 荘 厳 経 論』 、『中 辺 分 別 論』 、『大 乗 集 菩 薩 学 論』 、『瑜 伽 師 地 論』 の「声 聞 地」 な ど の 所 説 を 総 合 し、 奢 摩 他 ( zh i gn as) の 解 説 一 切 を 講 義 し 、 実 践 さ せ た 。 師 弟 二 人 は 、 顕 教 と 密 教 の 修 道 の 重 要 な 点 に つ い て 多 く の 議 論 を し た 。 ( 39b6–40a3, 和訳・九七〜九八) 〈二一〉四五歳 (一四〇一年) 翻訳師の法王キャプチョク・ペルサンとディグン法王チェンガ・リンポチェの招請により、春の初めにディグンに 行って、多くの法を講義した。ディグン法王からは、ナーローの六法とマハームドラーの倶生の瑜伽 ( lhan cig skyes sbyor ) などを聴聞した。 ( 40a3–4, 和訳・九八) ( ) 49
法王キャプチョク・ぺルサンとレンダワとツォンカパの三人がナムツェデン ( gnam rtsed ldeng ) 寺に集まり、六百 人を超える僧とともに夏安居をした。 『根本律経』 『律分別』などに説かれる個々の規定を忠実に守って、清浄な作法 を行う伝統を復興させた。夏安居の終わりにレンダワはツァンに戻っ た。 ( 40a4–41a, 和訳・九八〜九九) 〔そ の 後〕 二 人 の 法 王 (キ ャ プ チ ョ ク・ ペ ル サ ン と ツ ォ ン カ パ) は、 付 き 従 う 僧 た ち と と も に ラ デ ン 寺 に 行 き、 タ ク セ ンゲ ( brag seng +ge ) の麓に隠棲所を建てた。法王キャプチョク・ぺルサンを始めとして多くの人の強い勧めがあり、 ツォンカパはそこで『菩提道次第大 論』を著し た。また、 『瑜伽師地論』の「菩薩地」の「菩薩戒」の章〔の注釈 書〕 、 『根本堕罪 ( rtsa ltu ng ) 』〔の注釈書〕 、『師に関する五十頌 ( bla ma lnga bcu pa ) 』の注釈書を著した。法王キャプチョ ク ・ ペ ル サ ン は 『 菩 提 道 次 第 大 論 』 の 経 冊 を 受 け 取 り 、 そ れ を 持 っ て ツ ァ ン に 出 立 し た 。 ( 41 a1 –b 1, 和 訳 ・ 九 九 〜 一 〇 〇 ) 〈二二〉四六歳 (一四〇二年) 〔四 五 歳、 四 六 歳 の〕 夏・ 冬 二〔回 の〕 間、 そ の 同 じ〔ラ デ ン 寺〕 に 滞 在 し、 道 次 第 な ど 多 く の 法 を 講 義 し た。 ( 41b1–2, 和訳・一〇一) 〈二三〉四七歳 (一四〇三年) 〜四九歳 (一四〇五年) 〔 四 七 歳 の 正 月 に 〕 大 神 変 月 の 大 祭 に お い て 、 盛 大 に 供 養 と 祈 願 を し た 。 ラ デ ン を 発 っ て 、 レ ー プ 新 寺 ( lha s p hu d go n gsar ) に向かった。 ( 41b2–3, 和訳・一〇一) 夏、タクパ・ギェルツェン王 ( miʼi dbang po grags pa rgyal mtshan pa, 一三七四〜一四三二、パクモドゥパ政権の第五代摂 政) に招かれ、オン渓谷のデチェンテン寺 ( ʼon sde chen steng ) に行き、数百人の三蔵僧とともに夏安居に入った。そ こで、菩提道次第の手引き、中観思想と論理学の難解な箇所を解決する〔講義など〕多くの法を説いた。 ( 42a2–3, 和 ( ) 50 ( ) 51 ( ) 52 ( ) 53 ( ) 54 ( ) 55
訳・一〇二) 〔秋に、 〕オデグンギェルの山麓にあるオルカルのチャンパリン ( byamgs pa gling ) に行き、 〔四九歳一四〇五年の秋 ま で〕 二 年 間 そ こ に 滞 在 し た。 そ こ で 道 次 第 と 生 起 次 第・ 究 竟 次 第 の 法 を 説 い た。 阿 闍 梨 ナ ー ガ ボ ー デ ィ ( Nāgabodhi, klu byang ) 著の『五次第の注釈』の複 注、 『真言道次第大 論』 、『ヴァジュラヴァイラ成就 法』 、大部の護 摩儀 軌などを著した。 ( 42a3–42b6, 和訳・一〇二〜一〇三) 〔四九歳一四〇五年の〕冬は、チャンチュプルン寺 ( byang chub lung ) に滞在し、顕密の三蔵僧数百人に、秘密真言 の道次第を講義した。 ( 42b6, 和訳・一〇三) 〈二四〉五〇歳 (一四〇六年) 〜五二歳 (一四〇八年) 〔五〇歳一四〇六年の〕夏安居は、セラチューディン ( se rwa chos sdings ) で行われた (セラチューディンには二年滞 在 す る) 。『秘 密 集 会 タ ン ト ラ』 の 五 次 第 と 母 タ ン ト ラ の 究 竟 次 第 の 講 義 を 少 し 行 っ た。 多 く の 人 に お 願 い さ れ て『中 論』 の 詳 説 を 著 そ う と 考 え、 『中 論』 の 論 理 を 詳 し く 検 討 し た が、 難 解 な 箇 所 が あ っ た の で、 ラ マ〔・ ウ マ パ〕 と 聖 文 殊 を 一 体 の も の と 観 想 し て 祈 願 を 繰 り 返 し た と こ ろ、 般 若 経 の 二 十 空 の ヴ ィ ジ ョ ン が 何 度 も 現 れ、 『中 論』 の 論 理 の難解な箇所全てについて疑問が氷解した。それからすぐに『了義未了義の区 別』と『中論』の注釈書である『正理 大 海』を著し た。 ( 43a1–5, 和訳・一〇三) 〔五二歳一四〇八年の六月 ( 夏) 、〕明の永楽帝からの招聘を辞退し、皇帝に返信を書いた。 ( 43a5–b2, 和訳・一〇四) そ れ か ら、 セ ラ チ ュ ー デ ィ ン に お い て『中 論』 、 了 義 未 了 義 の 区 別、 『四 百 論』 、 密 教 の 道 次 第、 『〔三 昧 耶 戒 に お け る〕根本堕罪』 、『師に関する五十頌』などを講義し、菩提道次第の指導を行なった。サンプ寺とデワチェン寺の比丘、 ガーワドン、キョルモルン、スルプ三寺の座主、タンサク寺 ( thang sag pa ) の元座主など約六百人の僧が集まっ た。 ( ) 56 ( ) 57 ( ) 58 ( ) 59 ( ) 60 ( ) 61 ( ) 62 ( ) 63 ( ) 64 ( ) 65
( 43b2–4, 和訳・一〇四) こうして〔五〇歳一四〇六年夏から五二歳一四〇八年夏までの〕二年間セラチューディンに滞在した。夏安居の終 わりに、王タクパ・ギェルツェンに招かれて、キメー ( skyid smad ) のドゥムブルン ( grum bu lung ) に行った。 ( 43b4–6, 和訳・一〇五) 〔五 二 歳 一 四 〇 八 年 の〕 冬 は、 キ メ ー の ド ゥ ム ブ ル ン で 過 ご し、 道 次 第、 ル ー イ ー パ 流 の『チ ャ ク ラ サ ン ヴ ァ ラ・ タントラ』の成就法と母タントラの究竟次第などの詳しい講義を行った。 ( 43b6–44a1, 和訳・一〇五) 子 年 (一 四 〇 八 年) の 一 二 月 下 旬 に ラ サ へ 出 発 し、 大 晦 日 の 日 に 大 祈 願 会 へ の 参 加 を 呼 び か け る 告 知 儀 礼 を 行 っ た。 八千人を超える僧が集まり、法会の始まりを告げる宴を行った。 ( 44b2–4, 和訳・一〇六) 〈二五〉五三歳 丑年 (一四〇九年) 丑年一月一日から一五日まで、ラサで大祈願会を開催した。 ( 44b4–48a4, 和訳・一〇六〜一一三) 春 の 前 半 は セ ラ チ ュ ー デ ィ ン に 滞 在 し、 六 百 人 以 上 の 三 蔵 僧 た ち に 対 し て、 『中 論』 、〔 『瑜 伽 師 地 論』 「菩 薩 地」 の〕菩薩戒章の大注、 『遍く良き成就法 ( sgrub thabs kun bzang, Toh. 2718 ) 』、道次第など顕教と密教の多くの法を講義 した。 ( 49a6, 和訳・一一四) 晩春、チェンガ・リンポチェ・ソナムサンポ ( spyan snga rin po che bsod nams bzang po ) に招かれ、サンリのプチン (
zangs riʼi phu mchin
) に行って、テルの比丘達に道次第などの多数の法を講義した。 ( 49b1–2, 和訳・一一四) 一方、ダルマリンチェンと阿闍梨ドゥルジンパ ( slob dpon ʼdul ʼdzin pa ) を初めとする大半の僧はドク山 ( ʼbrog ri bo che ) に行き、ゲデン・ナンパルギェルウェーリン寺 ( dge ldan rnam par rgyal baʼi gling 、ガンデン寺) を建てた。 ( 49b2– 6, 和訳・一一四)
夏安居は、ウルカのサムテンリン ( bsam gtan gling ) で行い、ウルカとタクポ ( dwags po ) などの僧に対して多くの 法を講義した。 ( 49b6–50a1, 和訳・一一五) 秋も、この地 (ウルカ) で自利利他の活動を盛大に行った。 ( 50a2–3, 和訳・一一五) 〈二六〉五四歳 寅年 (一四一〇年) 寅 年 (一 四 一 〇 年) 二 月 五 日 に ゲ デ ン・ ナ ン パ ル ギ ェ ル ウ ェ ー リ ン 寺 (ガ ン デ ン 寺) に 行 っ た。 そ こ で、 道 次 第、 『秘 密 集 会 タ ン ト ラ』 の 注 釈『灯 作 明』 と 五 次 第 を 講 義 し、 『阿 毘 達 磨 集 論』 、『瑜 伽 師 地 論』 な ど の 解 説 と、 量 の 難 解 で 重要な箇所についてもたくさんの講義を行った。また、 『秘密集会タントラ』の釈タントラである『四天女請問』 〔の 大注 釈〕と『智慧金剛集』の大部の注 釈も著した。 ( 50a3–5, 和訳・一一五) 〈二七〉五五歳 卯年 (一四一一年) 翌〔一四一一〕年卯年、 『五次第を明らかにする灯 明』 、『五次第一座円満赤 注』などを著した。 ( 50a3–4, 和訳・一一 五) そ れ か ら、 五 七 歳 ま で に 寿 命 に 係 わ る 障 害 が あ る と い う 徴 が あ っ た の で、 そ の 厄 払 い の た め に、 五 五 歳 卯 年 (一 四 一 一 年) の 初 冬 か ら、 師 弟 三 〇 人 で ヴ ァ ジ ュ ラ バ イ ラ ヴ ァ 尊 の『寿 命 を 伸 ば す 修 法』 の 幻 輪 を 作 り、 厳 し い お 籠 り 修 行に入った。 ( 50a5–b3, 和訳・一一六) 〈二八〉五六歳 辰年 (一四一二年) 辰 年 ( 一 四 一 二 年 ) 秋 八 月 七 日 か ら 、 師 弟 三 〇 人 で 、 昨 年 同 様 の 厳 し い お 籠 り 修 行 に 入 っ た 。 ( 50b 3– 6, 和 訳 ・ 一 一 六 ) ( ) 66 ( ) 67 ( ) 68 ( ) 69
一一月、少し体調を崩したが、瞑想修行を続けた。ダルマリンチェンを始めとする僧たちが、年の明けるまで延命 儀式を続け た。 ( 50b6–51a3, 和訳・一一七) 〈二九〉五七歳 (一四一三年) 五 七 歳 ( 一 四 一 三 年 ) の と き 、 病 に 伏 し た が 、 瞑 想 修 行 と 延 命 儀 式 の 力 に よ っ て 快 癒 し た 。 ( 51 a1 –5 1b 1; SN R N , 1 2a 3; 和 訳・一一六〜一一七 ; 一九九〜二〇二) 〈三〇〉五八歳 翌年 (一四一四年) そ の 翌 年 ( 一 四 一 四 年 ) 、 タ ク パ ギ ェ ル ツ ェ ン 王 に 招 か れ 、 オ ン ( ʼon) の タ シ ド カ ( bk ra sh is do k ha) で夏安居を行っ た。そこで、数百人の三蔵僧に中観、論理学、道次第など多くの法を講義した。 そ れ か ら、 再 び ガ ン デ ン 寺 に 戻 り、 『チ ャ ク ラ サ ン ヴ ァ ラ・ タ ン ト ラ』 の ル ー イ ー パ 流 の 大 注 釈 書、 究 竟 次 第 の 四 座 の 瑜 伽 の 大 小 の 手 引 き と 成 就 法、 『秘 密 集 会 タ ン ト ラ』 の 根 本 タ ン ト ラ と そ の 注 釈 書 で あ る『灯 作 明』 の 校 正 を 行 い、 語 義 を 詳 説 す る 割 注 と、 各 章 ご と の 難 解 な 箇 所 と 全 体 を 通 じ て の 難 解 な 箇 所 の 解 釈 を 決 定 す る 確 定 的 分 析 ( mthaʼ dpy od ) 、項目ごとにまとめた綱要 書などを著した。 ( 51b2 〜 52a1, 和訳・一一八) 〈三一〉五九歳 未年 (一四一五年) 未年 (一四一五年〕の夏、密教の修行堂( sngags kyi sgrub mchod khang 、ガンデン・ヤンパチェン) の基礎を置いて、建 設の準備を初め た。 ( 52a2–4, 和訳・一一九) ( ) 70 ( ) 71 ( ) 72 ( ) 73 ( ) 74 ( ) 75 ( ) 76 ( ) 77
〈三二〉六一歳 酉年 (一四一七年) 酉 年 (一 四 一 七 年) 三 月 か ら 建 築 学 に 通 暁 し た も の を 招 集 し て、 密 教 の 修 行 堂 の 仏 像・ 仏 殿 な ど の 建 立 に 着 手 し た。 ( 52a4–53b4, 和訳・一一九〜一二一) 修行堂 (ヤンパチェン) はその年のうちに完成し、落慶法要が行われた。 ( 53b4–6, 和訳・一二一) 〈三三〉六二歳 戌年 (一四一八年) 戌 年 (一 四 一 八 年) 、 ガ ン デ ン 寺 に お い て、 『秘 密 集 会 タ ン ト ラ の 注 釈 灯 作 明』 と そ の 割 注、 同 タ ン ト ラ の 釈 タ ン ト ラ、 同 タ ン ト ラ の 五 次 第 の 大 部 の 手 引 き、 六 支 ヨ ー ガ の 大 部 の 手 引 き、 『時 輪 タ ン ト ラ』 の 大 注 釈 書『無 垢 の 光』 の 詳説、中観、論理学、 『チャクラサンヴァラ・タントラ』 、道次第などの法を、深く盛大に講義した。 ( 54a1–3, 和訳・ 一二一) 夏と秋に、仏殿の回廊の壁画が完成した。 『入中論釈:密意解 明』の執筆も終えた。 ( 54a3–4, 和訳・一二一〜一二二) 年の終わりに『秘密集会タントラ』の根本タントラとその注釈書『灯作明』の開板の準備に着手し、翌年完成した。 ( 54a4, 和訳・一二二) 〈三四〉六三歳 亥年 (一四一九 年) 亥 年 (一 四 一 九 年) の 春 と 夏 の 間 に、 三 蔵 僧 に『チ ャ ク ラ サ ン ヴ ァ ラ・ タ ン ト ラ』 の 根 本 タ ン ト ラ な ど の 無 量 の 法 を講義し、 『チャクラサンヴァラ・タントラ』の根本タントラの複 注も完成した。 ( 54a5–6, 和訳・一二二) 亥年の秋、最後の教化の旅に出た。ガンデン寺を発ち、ラサのジョー釈迦牟尼像を礼拝し、トゥールンで所化を教 化 し た。 次 に デ プ ン 寺 に 行 き、 多 く の 僧 に、 道 次 第 の 手 引 き、 ナ ー ロ ー の 六 法、 『入 中 論』 、『秘 密 集 会 タ ン ト ラ』 な ( ) 78 ( ) 79 ( ) 80
どの法を説いた。デプン寺を発ってラサに戻り、ジョー釈迦牟尼像を礼拝し、セラチューディンに行った。そこに密 教経典を教授する学堂を建てさせた。次にパラムのデチェンツェ ( bde chen rtse ) に行って、そこにガクカル ( sngags mkhar ) という密教の学堂を建てさせ、落慶法要をした。それからタクカル、ドゥシ ( gru bzhi ) に行き、ふたたびガ ン デ ン 寺 に 戻 っ て ヤ ン パ チ ェ ン 修 行 堂 に 入 っ た。 全 僧 出 席 の 茶 会 に お い て、 『極 楽 に 生 ま れ る た め の 祈 願 文』 を 作 っ た。 そ し て 自 ら の 居 殿 に 戻 り 座 に 着 い て か ら、 体 が 弱 っ て い き、 瞑 想 の 中、 死 の プ ロ セ ス を 辿 っ て い っ た ( 62a2– 65b2, 和訳・一三六〜一四二)
四、残された課題
本稿では、ツォンカパの在世時に書かれた同時代資料である伝記、ケードゥプジェ著『信仰入門』の記述を基に、 ほぼ編年体でツォンカパの生涯の事績の年時を確定ないしは推定してきた。ツォンカパは、二年ほど同じ箇所に滞在 す る こ と は あ る が、 そ れ 以 外 の 箇 所 で は、 毎 年、 さ ら に は 年 に 二、 三 回、 季 節 の 変 わ り 目 に 場 所 を 移 動 し て い る。 『信仰入門』では、それが忠実に記録されている。ただし、年次ないしは年齢が明示される箇所は一五ヶ所ほどであ り、それ以外は、四季節が示されるのみである。そのため、年の経過は、前後の季節の言及から推定することになる。 この『信仰入門』以外にも短い伝記や一つのエピソードを述べた短い著作はあるが、それらは個々の事績の内容に付 加するものはあっても、時間軸の決定にはほとんど寄与しない。本稿では、年時と場所および関連する人物を中心に 記載した。本稿で整理した時間軸は、それ以外の情報を付加してツォンカパの事績をより深く理解するための土台に なるであろう。 例えば、ツォンカパはコロフォンで執筆年時に言及することはないが、本稿で指摘した時間軸と執筆場所や関連す る人物などの情報を勘案すれば、より多くの著作の著作年を推定することができるであろう。さらに書簡や特定の人に当てた讃嘆偈などから歴史的な情報を抽出できる可能性もある。これらは次の研究テーマとなる。 ツォンカパの伝記の研究として、本稿とは別の視点でツォンカパの思想的展開過程を辿ることもできる。たとえば、 福 田 (二 〇 一 八) で 示 さ れ た 聖 文 殊 の 啓 示 に よ る 中 観 思 想 の 形 成 過 程 の 考 察 や、 ラ ム リ ム 思 想 の 形 成 過 程 に お け る 聖 文殊と『教説次第大論』とアティシャからのラムリムの伝承の役割、レンダワの著作との関係、夢やヴィジョンの分 析によるツォンカパの密教思想の形成過程の考察など、本稿で全く触れられていないが、他の伝記的資料を比較考察 することによって、ツォンカパの思想的な展開過程を明らかにすることもできるであろう。 ツォンカパのように、中世の人物の年次ごとの細かい事績や思想展開の様子が詳細に明らかにできる例は稀なこと であり、しかもそれがツォンカパのような傑出した人物について可能であるということは、極めて幸運なことである。 文献表 DJG 『信仰入門』 thams cad mkhyen pa blo bzang grags paʼi dpal gyi zhal snga nas kyi rnam par thar pa yongs su brjod paʼi gtam du bya ba dad paʼi ʼjug ngogs / mkhas grub rje dge legs dpal bzang po . In rje tsong kha paʼi gsung ʼbum, zhol par ma, ka. Toh. 5279. KBTB 『小品集』
bkaʼ ʼbum thor bu / tsong kha pa blo bzang grags paʼi dpal. gsum ʼbum, zhol par ma, kha. Toh. 5275.
KDCM 『カダム仏教史:明灯』 bkaʼ gdams chos ʼbyung gsal baʼi sgron me / kun dgaʼ rgyal mtshan. BDRC, W23748, 340b-356b; 西蔵人民出版社、二〇〇三年。 LDJ 『ロタクドゥプチェンとお会いになった様子』 lho brag grub chen dang mjal tshul / lho brag nam mkhaʼ rgyal mtshan.
gsung ʼbum, zhol par ma, ka. Toh. 5264.
NTDG 『宗喀巴大師伝』 rje tsong kha pa chen poʼi rnam thar chen mo / cha har dge bshes blo bzang tshul khrims. 中国蔵学出 版社、二〇〇六年。 NTLK 『ツォンカパ伝補遺』 tsong kha paʼi rnam thar chen moʼi zur ʼdebs rnam thar legs bshad kun ʼdus / rtogs ldan ʼjams
dpal rgya mtsho. gsung ʼbum, zhol par ma, ka. Toh. 5260. NTZJ 『宗喀巴大師伝』 tsong kha pa chen poʼi rnam thar / rgyal dbang chos rje blo bzang ʼphrin las rnam rgyal. 西藏人民出版 社、二〇〇九年。 SHDZ 『藏文典籍目録』 bod gangs can gyi grub mthaʼ ris med kyi mkhas dbang brgya dang brgyad cu lhag gi gsung ʼbum so
soʼi dkar chag phyogs gcig tu bsgrigs pa shes byaʼi gter mdzod.
人民出版社、一九八九年。 SNRN 『秘密の伝記』 rje rin po cheʼi gsang baʼi rnam thar rgya mtsho lta bu las cha shas nyung ngu zhig yongs su brjod paʼi gtam rin po cheʼi snye ma / mkhas grub rje dge legs dpal bzang po. tsong kha pa blo bzang grags paʼi dpal gsung ʼbum,
zhol par ma, ka. Toh. 5261.
T oh『 西 蔵 大 蔵 経 目 録 東 北 帝 国 大 学 蔵 版 』 A C om ple te C ata log ue o f th e T ibe tan B ud dh ist C an on s B ka h ・ -h gy ur a nd B sta n-h ・ gy ur ,
Ed . H. Ui, M. Suzuki, Y. kanakura, T. Tada,
東北帝国大学法文学部、一九三四 〜 五。 K as ch ew sk y, R ud olf . ( 19 71) D as L eb en d es lam ais tis ch en H eil ige n T so ng kh ap a b lo-bz an ・ -gr ag s-p a ( 13 57 -1 41 9) : d ar ge ste llt un d erläutert anhand seiner Vita “Quellort allen Glückes, ” ( Asiatische Forschungen : Monographienreihe zur Geschichte, Kultur
und Sprache der Völker Ost- und Zentralasiens 32, 1–2
) 2 vols, Wiesbaden: Otto Harrassowitz.
王森(一九九七) 『西藏佛教発展史略』中国社会科学出版社。 石濱裕美子、福田洋一(二〇〇八) 『聖ツォンカパ伝』大東出版社。 福田洋一(二〇一八) 『ツォンカパ中観思想の研究』大東出版社。 註 本稿におけるチベット文字転写の方法は、ほぼ Buddhist Digital Resource Center ( https://tbrc.org )の表記法に準じた 拡 張 ワ イ リ ー 方 式 を 踏 襲 し て い る。 た だ し、 長 母 音 に 関 し て は A な ど の 大 文 字 を 使 用 せ ず、 チ ベ ッ ト 文 字 の 表 記 通 り ʼa な どのアチュンを使って転写している。 ツォンカパが一三九二年三六歳のとき、遁世修行のためにウルカに行ったときに同行した八人の弟子のうちの一人である。 ( ) 1 ( ) 2
『信仰入門』は、 『聖ツォンカパ伝』で用いられている訳。 ʼjug ngogs は、 「渡し場」や「入り口の門」の意味であるので、 dad paʼi ʼjug ngogs で「信仰への入り口」 「信仰へと導くもの」という意味であるが、意訳である『信仰入門』が日本語の 通りもよく、分かりやすいので本稿でもこの訳を踏襲する。 ケードゥプジェの『信仰入門』をトクデンパは『大伝( rnam thar chen mo )』と呼んでいる。現在「大伝」と言うと、 ロサン・ツルティムの著した伝記かロサン・ティンレー・ナムギェルの著した伝記を指すことが多いので、注意が必要であ る。 『聖ツォンカパ伝』には、このトクデンパの秘密の伝記の補遺は収録されていない。この『秘中の秘なる御事績』には二 の『善 説 拾 遺』 よ り も、 さ ら に 多 く の 神 秘 的 な エ ピ ソ ー ド が 記 さ れ て い る。 一 方、 『聖 ツ ォ ン カ パ 伝』 に は、 ツ ォ ン カ パ 全 集 の 『 小 品 集 』 に 収 録 さ れ て い る 自 伝 『 私 の 業 績 の 要 説 ( ra ng gi rt og s p a b rjo d p a m do ts am d u b sh ad pa , T oh . 5 27 5-58 )』 が訳出されている。これはツォンカパが晩年に自らの生涯を修学期、教学の確立期、仏教の布教期の三つに分けて略述した ものであり、 rtogs brjod mdun legs ma という略称のもと、現在でもゲルク派の僧院で広く読誦されている。しかし、これ はツォンカパが仏教を学んでいく過程を述べたものであり、活動の記録ではないので、年次の情報量は少ない。 『 善 説 拾 遺 』 の 中 で 唯 一 年 次 が 書 か れ て い る の は 、 ツ ォ ン カ パ の 誕 生 が 一 三 五 七 年 で あ っ た こ と で あ る ( N T LK , 2 a5 –6 )。 後 に述べるように、ケードゥプジェの『信仰入門』には生年の記述はないが、亡くなった年と年齢が記載されているので、そ こから逆算して生年が一三五七年であったことが確定でき、 『善説拾遺』の記述と一致する。 『藏 文 典 籍 目 録』 (中 巻) に よ る と、 チ ャ ハ ル ゲ シ ェ・ ロ サ ン・ ツ ル テ ィ ム は モ ン ゴ ル 人 で あ り、 小 さ い 頃 に 出 家 し て、 モンゴル語とチベット語を学んだ。二三歳のとき、北京の雍和宮へ行ってアキャ・ロサン・テンペ・ギェルツェンなどの下 で仏典を学び、七一歳のときに亡くなった( SHDZ, 19–21 )。 ロダク・ドゥプチェン・ナムカ・ギェルツェン( lho brag grub chen nam mkhaʼ rgyal mtshan, 一三二六〜一四〇一)あ るいはロダク・ケンチェン・チャクドルワ( lho brag mkhan chen phyag rdor ba )は、ロダク地方のダオ( bra bo )寺の 僧院長である。この著作はナムカ・ギェルツェンがツォンカパと邂逅したときに起こった様々な神秘的出来事を記したもの で あ る。 そ の 中 で、 彼 は 七 〇 歳(一 三 九 五 年) の 六 月 四 日 に、 ツ ォ ン カ パ を ロ ダ ク の ダ オ 寺 に 招 い た と 記 し て い る( LDJ, a4 〜 b1 )。しかし、 『信仰入門』によると、ツォンカパがロダクに行ったのは、一三九四年の夏である。 ( ) 3 ( ) 4 ( ) 5 ( ) 6 ( ) 7 ( ) 8
内容は予言や諸仏、諸菩薩などがヴィジョンの中に顕れる様子を記述したものであるが、著者は不明である。ケードゥプ ジェは三人称で記されている。 ただし全訳ではなく、章によっては要約のみになっている。 木版本もあるが、稀覯本であり、通常はインドのサールナートで一九六七年にタイプ版で出版されたもの、あるいは中国 の青海民族出版社で一九八一年に出版された活字本が広く一般に読まれている。 彼は、他にダライ・ラマ一〇世( tshul khrims rgyal mtsho, 一八一六〜一八三六)と一一世( mkhas grub rgya mtsho, 一八三八〜一八五五)の伝記も著している。 ただし、そこには上述のロサン・ツルティムの伝記は言及されていない。 チベットの歴史書での年齢記述は数え年である。たとえば、ツォンカパは申年(一三九二年)に三六歳であったと記され ているが、生年の一三五七年から計算すると、一三九二年は数え年三六歳であることが確認できる。以下、本稿での年齢も、 数え年で記載する。 フ ォ ー リ オ 数、 行 数 は シ ョ ル 版『信 仰 入 門』 ( DJG ) の も の、 和 訳 は『聖 ツ ォ ン カ パ 伝』 の ペ ー ジ 数 で あ る が、 本 稿 で は この対で典拠を示すことが多いので、以下書名の略号は省略する。 ト ン ド ゥ プ・ リ ン チ ェ ン は ツ ォ ン カ パ 幼 少 期 の 恩 師 で あ り、 出 家 戒 も 彼 が 授 け た。 『信 仰 入 門』 に は「ト ン ド ゥ プ・ リ ン チェンの伝記」が記載されている( 6b1–7b5, 和訳・三二〜三五) 。 原語は “phar phyin ” なので、正確には「波羅蜜〔思想〕 」と訳すべきだが、これは『般若経』の注釈である『現観荘厳 論』に説かれる思想であり、通例に従って「般若思想」と訳す。 ロサン・ツルティムは、ツォンカパが一九歳のときに、ニャオン・クンガぺルの紹介を受け、前にも面識のあったレンダ ワのところで『阿毘達磨倶舎論』とその自注を聴聞したと述べているが( NTDG, 56-59 )、本文で述べたように、ツェチェ ン寺に行ったのは二〇歳の夏と考えられる。これは、ロサン・ティンレー・ナムギェルの『ツォンカパ大伝』に「二〇歳の 辰年の夏学期にツェチェンにいらっしゃり[…]聖レンダワはその夏はサキャからツェチェンにいらっしゃっているので、 〔ツォンカパはレンダワから〕 『阿毘達磨倶舎論』の自注を聴聞する。 ( dgung lo nyi shu pa me ʼbrug loʼi dbyar chos la rtse chen du phebs nas [ … ] rje btsun red mdaʼ ba dbyar de sa skya nas rtse chen na phebas ʼdug pa la mngon pa mdzod ( ) 9 ( ) 10 ( ) 11 ( ) 12 ( ) 13 ( ) 14 ( ) 15 ( ) 16 ( ) 17 ( ) 18