Title
巡礼と観光に関する一考察
Author(s)
松鷹, 彰弘
Citation
沖縄短大論叢 = OKINAWA TANDAI RONSO, 12(1): 1-29
Issue Date
1998-03-01
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10675
巡礼と観光に関する一考察
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< 目 次 >1
はじめに2
日本と西欧の巡礼2
-1
観光の源泉としての巡礼2-2
中世の巡礼2-3
近世の巡礼2-4
西欧の巡礼 3 巡礼を支えた諸事象3
-1
中世の巡礼を支えた諸事象 3 - 2 近世の巡礼を支えた諸事象 4 まとめ松 鷹 彰 弘
1 はじめに 小稿は、歴史的に観光の源泉的な存在である「巡礼」が、日本においてどの ように発達し、また、いかなる支援システムが形成されたかについて概略を述 べたものである。また、西欧における巡礼やその後の観光の発達と比較するこ とにより、現代日本における観光行動や観光現象の特徴を把握しようと試みた。 もとより広範な事象を含む課題であり、小稿で考察し得たのはごく小さな部分 に過ぎない。現段階での結論を添えて、読者の批評を何ぎ、今後とも継続して 取り組んで、いきたいと願っている。
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日本と西欧における巡礼 「観光J
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の定義に関しては様々な議論がなされているが、いまだ 定説をみるに至っていない。ここでは、「楽しみを目的とする旅行J
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という人間の社会的行動を示すものと、「楽しみを目的とする旅 行に関わる事象J
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という様々な事業活動(交通、宿泊、旅行 などの諸事業)を含む概念であるとしておきたい(前田勇編著『現代観光総論I)J
, 香川県編『現代観光研究吋)。 「楽しみのための旅行J
の成立をもって観光のはじまりとするならば、観光 の起源もかなり古いといえるであろう。しかし、観光を現在われわれが用いて いるような、一般大衆が参加するものかとして考えるならば「近代観光史J
と 称することができるのは、一般大衆が自由に旅行しうる条件が整いだした19世 紀中頃以降のことであるということができる (W現代観光総論.1)。2-1
観光の源泉としての巡礼 観光的な旅の源泉は、洋の東西を問わず多くが宗教的なものである。古代ギ リシャの歴史家で「歴史の父jと称されたへロドトス(
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は、紀元前5
世紀噴、黒海北岸、エジプト、パピロンなどを旅行して記録に残したが、観 光的な旅のもっとも古いものは「信何J
のためのものであり、古代エジプトで は神殿への巡礼が存在していたと言う(J.ラカリエール解説『エジプト へ ロドトスの旅した国3)1).。- 2
-古代ギリシャには、デルフォイのアポロン神殿、アテナイのゼウス神殿など のギリシャ神話の神々の神殿を巡礼する者がいた。アテナイから直線距離で
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キロ離れたオリンピアで開催された古代オリンピックも、ギリシャ最古の神殿 であるへラの神殿に祭られた守護神ゼウスへの奉納試合であった。 ローマ帝政時代は古代史のなかで最も旅行が盛んであり、大神ジュピタ一、 美の女神ビーナス、農業の神サターン、酒の神バッカスなど、ローマ神話の神々 の神殿への巡礼を中心に、療養・美食・芸術・登山の目的の観光が行なわれたc
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現代観光研究.1)。これを可能にしたのはローマを中心とする軍用道路網と馬 車の発達など交通システムの整備、貨幣経済の普及、巡礼に対する歓待精神な どであった。 巡礼(順礼とも書く、英語ではpilgrim)とは、神聖な場所・寺院などを巡っ て拝礼すること、あるいは拝礼する人をいうc
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プリタニカ国際大百科事典.1)。 宗教行為としての巡礼の意味は、たとえば、宇宙の創造の起こった場所、宇宙 の中心の象徴としての「聖地」への回帰である。聖地において人は、俗から聖 へ、死から生へと再生できる、というような宗教的感情を背景としている。キ リスト教にエルサレム、イスラム教にメッカへの巡礼があるように、ヒンズー 教にもベナレスなどへの聖地への巡礼があり、仏教でも、ゴータマ・プッタの 生涯に関係の深い土地の巡拝、また、中国では五台山への巡礼がある。日本で 巡礼というと、宗教目的の旅のうち、西国三十三ヵ所巡礼や四国八十八ヵ所遍 路のように次々に霊場を巡回する旅を指すのであるが、中世キリスト教徒の巡 礼は、特定の聖地をひたすら目指し、礼拝がすめば引き返す直線的な往復運動 の旅である。本稿では、宗教目的の旅を総称して「巡礼」と呼んでおきたい。2-2
中世の巡礼 日本での巡礼のはじまりは、在所の神社仏閣や民間の小洞を拝礼するために、 日常生活圏より少し足をのばす、というようなものだったろう。それが遠隔地 にある著名な社寺への参拝へと拡大するのは、人々がより強い霊験を求めたた めである。人は常に幸運を願う。日常の仕事に苦痛があっても我慢できるのは、 それが幸福につながると考えるからである。熱烈な福運希求の念は、神仏に対する御利益祈願あるいは撞災祈祷となって現われる。 奈良時代に観音信仰がおこり、平安時代になると貴族による観音霊場の巡拝 が盛んに行なわれる。日本の巡礼では南都七大寺巡礼が最も古く、京都の百塔 巡礼、比叡山延暦寺三塔巡礼、京都の清水寺、六波羅密寺や六角堂など七観音 寺の参詣がこれに次いで古いという。(前田卓『巡礼の社会学吋) 平安後期には都から近い石山寺、長谷寺、四天王寺、住吉大社への参詣が盛 んになり、平安末期の
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年に藤原頼通が都をはるか離れた高野山に参拝、1
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年には白河上皇の熊野御幸が行なわれる。その後、高野山や熊野などの遠隔地 への巡礼が上流階級の聞に流行し、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽の法・上皇時 代には、毎年のように上流階級の遠隔巡礼が行なわれている。それは大がかり な編成であり、並行して街道や宿坊・宿院などの宿も整備されていった。 遠隔地巡礼の背景には寺社側の財政事'情があった。平安初期までは国家の保 護下にあり安定していた寺社財政だが、 11世紀になると全国の荘園が次々と摂 関家に寄進されるようになり、寺社の財政基盤が危うくなる。そこで、とくに 都から遠い寺社が新たな権力者たちとの関係強化をはかったのである。 高野山では、弘法大師の入定信仰、すなわち弘法大使・空海は禅定に入った まま高野山に留まり弥勅菩薩の出世を待っている、とのキャッチフレーズで有 力貴族の参拝を促した。熊野も次のような誘致活動を積極的に行なった。 熊野信何は、伝統的な修験道の信仰と仏教の浄土信仰が融和した神仏習合で ある。熊野三山は、紀伊山塊の南端に近くにあり、途中の悪路難関はひどいも のだった。このため熊野は、皇室や貴族を勧誘するにあたって、地理に詳しい 案内人を京都に派遣した。その案内人が「先達(せんだっ)
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である。貴人を聖 地に誘うのだから、単なるガイドでは不十分、聖職者としての資質が求められ た。修験道の行者は山伏とよばれるが、貴族を先導して山道を案内するのに山 伏はうってつけの存在だった。また、熊野の宿坊でのもてなしには「御師(お し)
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と呼ばれる準聖職者が当てられた。こうして先達が案内し、御師が接待す るわが国独特の旅行システムが熊野において創設されたのである。(新城常三『社 寺と交通』、加藤秀俊『新・旅行用心集5)J
)
同じ頃貴族たちはまた、西国三十三ヵ所観音巡りをするようになる。畿内と4
-周辺三十三ヵ所の霊場を廻るこの巡礼は、行者たちが数が多いことが修業の深 まりだと考えて、苦行としてはじめたものである(信多純一「近世芸能に見る 順礼的
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)
。巡礼は、特別の祈願達成を目的に、定まった順路で所定の名社霊剰を 参拝する。もともとは仏教の修業形態の一種で、難行苦行ののちに即身成仏を 果たすという、真言密教の教理から編み出されたものである。平安末期には四 国八十八ヶ所巡礼も行なわれるようになる。これは四国にある弘法大師ゆかり の88ヶ所の寺を巡礼するものであり遍路ともいわれる。 鎌倉時代になると武士が巡礼の主役になる。そして、室町末期 (15世紀)に は、第一次巡礼ブームが起こった(前田卓「西国巡礼と四国遍路の今昔7)J
)
。室 町時代には郷村制導入により村が発展した。第一次巡礼ブームの主体は、村の 上層民の中から生まれた年寄・沙汰人・オトナなどの村役人であった。 巡礼は村や組ごとに「講」を組んで団体で行なわれた。「講J
とは、宗教その 他の目的を達成するために、志を同じくする人々の間で紙織される社会集団の 一種である。「講」という語は、仏典を講説することに淵源し、仏典を講義研究 する僧衆の集会を呼ぶようになり、やがて同じ信仰で結ぼれる人々の集まりを さす語に拡大され、さらには宗教を離れた同志的結合の団体名称にも用いられ るようになった。中世以降、講組織はさらにその範囲を広め、庶民の金融のた めの頼母子、無尽の組織、職人が形成する同業者仲間の組織などをも講と名付 けるようになり、近世にはこれが最高潮に達した。 講集団は、その機能の上から宗教的な講と経済的な講とに大別することがで きる。前者はさらに①原始的民族信仰に立脚するもの、②氏神、鎮守神など地 域神社の氏子集団が結成するもの、③仏教など外来信仰に根ざすものの3つに分 類することができる。③の場合、部落内に崇拝の対象をもっ講と崇拝の対象が 部落外にある講がある。部落外の場合、参詣のために出かけることから、一般 に参詣講、参拝講と呼ばれた。崇拝対象である寺社が近距離にあれば講員全体 が参拝する総参講が組織できるが、遠距離の場合は講員のなかから代参入をた てる。これを「代参講J
という。参拝講では代参講が普通であった。 代参講の一般的形式は、講員が経費を均等に負担するために一定の金品を拠 出し、くじ引きで決まった代表者を寺社、霊場へ派遣するものである。代参者はこの講金を旅費にあてるかわりに、勧請した神札や護符を帰参後各講員に配 る。この神札などは家の神棚、玄関口、田畑などに納められ、身の安全と豊穣、 福運を祈念する対象となる。 霊験あらたかで利益の功を宣伝される寺社の場合は、その崇拝者が広く全国 に分布するので、講もまた全国的分布を示す。善光寺講、本願寺講、天神講、 富士講、熊野講、大社講などがこれであり、江戸期に入ると伊勢講が最大の崇 拝講になる。日本では古くから、公的な行政的事業は租庸調などの買租でまか なわれたが、私的な共同体の行事はその構成員が自発的に出資して行なってき た。無礼講などのことばもあるように、祭礼とか部落寄り合いの公的集会に対 し、私的な性格をもつものが講である。 上層農民による講設立の背景には、地域共同体の氏神信何に飽き足りず、他 地域に宗教的霊験を求める志向の高まりが認められる。一方、中央の名高い霊 社名刺も、宗教的霊威を普及伝導するために、神札配布の檀家廻りを任務とす る多くの伝道師、布教師を地方へ派遺した。彼らにより社寺参詣の講集団が多 数組織されていった。また、時宗の開祖・一遍
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は「即身成仏」 の念仏信仰を多くの庶民に広め、遊行に誘った。 西国巡礼をする経済的余裕のない庶民や足弱な人々のためには霊場の地方移 植が行なわれた。鎌倉中期に生まれた坂東霊場はその初期のものである。秩父 霊場、遠江・陸奥南部糠部郡・岩城・最上の霊場も同じ目的でつくられた。一 堂に各寺本尊三十三体を安置するような簡便法も行なわれた。江戸時代になる と三十三体を版画で刷った摺仏や霊剰の本尊の出開帳も盛んになっていった。2-3
近世の巡礼 江戸時代中期には第二次巡礼プームが起こる。この時代には人気巡礼地が熊 野から伊勢へと移っていた。伊勢神宮は三重県伊勢市に鎮座し、アマテラスオ オミカミ(天照大神)を祭神とする内宮とトユケオオカミ(豊受大神)を祭る 外宮の両社を総称する。神道では天照大神は、天上・天下の主として生まれ、 至高・至貴にして八百万の諸神に超絶するとされる。したがって、この神を祭 る伊勢神宮も至高・至貴の大神宮神社であり、そのご利益も八百万の神を超越6
-すると解釈された。伊勢神宮は上代に皇室の氏神として天皇のみが奉幣できた が、平安末期になると乙の禁はゆるみ、鎌倉時代に入ると源頼朝もしばしば奉 幣し、鎌倉時代中期から室町時代にかけて武士層から農民層に拡大していった。 信者拡大の貢献者は御師である。伊勢神宮の御師は中世においては神職(権禰 宜層)であり、皇室以外、貴族や武士の奉幣の仲介をしていた。近世に入ると、 神宮を離れて、農民層・町人層にまで仲介の対象を広げていった。江戸時代の 庶民にとって天照大神は、皇祖神というよりは繁栄をもたらす神あるいは農耕 神として崇められるようになった。 江戸時代、多くの藩では藩民が無断で領外に出ることを禁じていた。しかし 届け出さえすれば、奉公や出稼ぎ、寺社参詣や湯治に出かけることに問題はな かった。 この時代の庶民の旅を代表するのが伊勢参りであるが、単独行は少なく、「伊 勢講
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と呼ばれるグループで行なわれるのが普通だった。中世にはじまる伊勢 講は、江戸期になると全国的な分布に発達する。本来は個人の信仰心に基づく 自由参加であったが、伊勢信何の深さから村全体の組織になる場合が多かった。 参加者は講員と呼ばれ一家の戸主がほとんどである。参詣のための費用を積み 立て、共同出資で代表者を順次派遣する代参講のことが多かった。 代参者の出発には講員による「出立ち」が行なわれた。出発時に村境まで送っ ていき、そこで盛大に酒を酌み交わす。帰着に際しでも、たとえば江戸ならば 講員一同揃って品川まで「出迎え」に行き、酒宴を催すのが通例であった。代 参は半ば公的な旅であった。 家康の江戸入りから約1
世紀を経た元禄時代(
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の東海道にはすで に旅人相手の茶屋・旅寵屋が繁盛していた。しかし旅に出ることが夢にとどま る庶民の方がまだ多かった。女性が旅をすることも困難であった。元禄を過ぎ た噴から、全国各地の幅広い階層が旅に出て、主要街道の多くが賑わうように なる。そのきっかけは御陰参りである。 「一生に1
度は伊勢参りJ
は江戸初期からの庶民の願望だった。「伊勢講J
の 講員資格のない丁稚や奉公人、女・子供とても同じ思いである。様々な機会を とらえて伊勢参りを目指すが、主人や親の許可なしの「抜け参りJ
をする者も少なくなかった。宝永2(1705)年京都の少年たちの抜け参りがきっかげになっ て、大坂の奉公人たちに波及し、東は江戸・西は因幡・安芸の若年層にまで広 がる大規模な抜け参りが起こった。抜け参りは、お金を持たずに、旅人や沿道 の人々の合力を受けながら行なう旅であり、世間のお陰で参ることができると の意味から「御陰参り」とも呼ばれた。 当時すでに、若者が一人前になるための通過儀礼として、旅はよいことだと の社会的容認があった(深井甚三『江戸の旅人たち的j)。馬・駕寵・船には無料 で乗せ、笠・草履・銭などを与えた。御陰参りは、明和8(1771)年、文政13(1830) 年、慶応3 (1867)年にも起こり、多くの農民・町人を伊勢参りへ誘い、参宮 熱を定着させる効果があった。 亨保 (1716-1736)噴までの旅では慰み遊山は稀である。旅はつらいもので あり、家職以外で行なわれるのは巡礼修業だけだった。伊勢参りでも神宮だけ を参拝して帰村した。ところが、亨保以後になると、たとえば東国からの場合、 伊勢より遠方の金毘羅や西国三十三ヵ所を回り、帰路の途中に善光寺を参拝し、 名所・旧跡や芝居小屋までもくまなく見物するなど、物見遊山を兼ねるように なった。町や村の繁栄を祈願する代表としての旅なので往路は精進に努めた。 しかし参拝後は精進落としと称して湯治・町見物・宴会・遊廓などに行き、馳 走を楽しみ酒を飲み騒いだりもした。
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江戸の旅人たちJ
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旅の心得の一つに「名所・旧跡を見逃さないJ
ことがあった。旅は見聞を広 げる重要な機会であり、さまざまな商品・書籍・情報を入手できる機会となっ た。商人や職人の場合は、土産物の購入により各地のすぐれた商品に接触し情 報が入手できた。農民の場合は、新品種の稲などの農作物の知識を得たり、新 たな栽培・耕作法が得られることになる。稲などの米穀類の良質な種は、道筋 に実っている田畑から容易に失敬でき、持ち帰るのも簡単であった。(同書) 当時の平均旅行日数は、江戸からだと往復で50日前後。伊勢参宮者数につい ては様々な推定値がでているが、神崎宣武(
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大山詣りと講社の旅9lJ)は亨保3
年の山田奉行の報告をもとに、正規の参宮者数年間60----70万人、抜け参りを加 えると100万人との推計を行なっている。当時の人口約2,
000万人に対比すれば5%
に相当する(伊勢参りのみで)。- 8
-文化・文政 (1801-1830)期には、一段と多くの庶民が旅に出るようになる。 その様相は、十返舎一九『東海道中膝栗毛』、安藤広重の『東海道五十三次』な どにみることができる。 この時期には、伊勢以外にも多くの寺社への巡礼が盛んになる。参詣で金琵 羅神社・高野山・善光寺、霊山では立山・出羽三山・富士山、巡礼所で西国・ 西国・秩父など。その他、湯治旅、出稼ぎ、行商、修業、修学など様々な目的、 様々な行き先への旅が行なわれていた。 『伊勢参宮日記考』は、文化年聞から明治25年までの、常陸・下総方面から 伊勢への道中記7編を収録したものである。それぞれの居村から一度江戸に出 てから東海道に入る。途中での寄り道はあるが、もっとも早い旅程は明治25年 の15日、遅いもので21日目に伊勢に入っている。その後のコースは様々だが、 京、奈良を経て大坂へ、海路で四国に渡り、帰路は岡山や姫路から山陽道を経 て、草津から中山道に入り善光寺を参詣する。関東に戻ると、秩父や三峰山、 榛名山、日光などを巡って帰宅している。文政7年の旅では出立から帰宅まで 90日、明治25年の旅では52日である(小野寺節子「伊勢参りと伊勢音頭
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。そ のスケールは今日の観光を凌駕するものだといえる。2-4
西欧の巡礼 5世紀の西ローマ帝国崩壊以後15世紀までのヨーロツパ中世では、東西ヨー ロツパの対立やイスラム教とキリスト教の抗争が続いた。民族大移動の混乱後 の西欧には、荘園制を基礎とした封建社会が成立した。しかし交通や商業はお とろえ、現物経済が支配的な農業社会に逆行する。農民の多くは農奴であり領 主と教会の二重支配の下におかれた。治安の悪化もひどかったので、この時代 の西欧で「楽しみを目的とする旅行」はきわめて困難であった。 だが、そのような悪環境の中でも聖地巡礼だりは活発に行なわれた。 11世紀 末から約2世紀にわたる十字軍の遠征により、イスラム教徒がキリスト教徒の エルサレム巡礼を認めたのが契機である。エルサレムは中世最高の巡礼目的地 となった。これに教皇の座のあるローマ、十二使徒のひとりヤコプの遺骨が発 見されたとされるスペインのサンティアーゴ・デ・コンポステーラを加えて「中世3大巡礼地」と呼ぶ。 12世紀には、サンティアーゴ巡礼のガイドプックが出 版され専門のガイドがいたという。ローマについても12世紀に『大都ローマの 驚異』、
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世紀には『全都詳説.1r
黄金の都ローマの地理』という案内書が書か れている。<
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現代観光研究J
)
以下、渡遁昌美「ヨーロツパの巡礼ll)J、藤井治彦「イギリス文学と巡礼12)J から要点を抜き出して、西欧における巡礼がどのようなものであったかを概観 してみたい。 中世キリスト教徒の巡礼は、西国三十三ヵ所巡礼や四国八十八ヵ所遍路のよ うに次々に霊場を巡回するのでなく、特定の聖地をひたすら目指す、行き着け ば引き返す、直線的な往復運動である。また、エルサレムやローマのようにヨー ロツパ中から巡礼が参集した聖地もあったが、村外れの洞(礼拝堂)へ定期的 に村人が行列を組んで参るのも「巡宇U
に含まれる。伝説や説話に出てくる巡 礼は、決まって一人きりの貧しい、徒歩の巡礼だが、実際の巡礼は多くの場合、 団体で行い、また一人で出発しても途中で同じ方向を目指す者たちで自然に仲 間ができた。路銀も用意しているのが普通だし、案内人がついていたり、馬や 瞳馬を利用した旅をしている。<
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ヨーロッパの巡礼J) 初期のキリスト教徒は巡礼は行なわなかった。キリスト教徒は地上のエルサ レムでなく「天なるエルサレムJ
に重点を置いたのである。中世になって巡礼 が盛んになった背景には聖者信仰がある。その画期は、4
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年にパレスティナで 十二使徒の1
人・聖ステファンの遺骨が発見されて、肢体の小さな骨の節々や 使徒の肉の漫みこんだ土が地中海の教会に広く配布されたことにある。骨の前 で祈ると重病が完全に治癒したというような奇跡が伝えられ、これが聖者信何 につながっていく。(同) 殉教者に対する追慕、崇敬、功徳の確信が聖者信何の出発点である。聖者信 何は聖者の遺骸を頂点とする聖遺物信何の形をとる。聖遺物信何によって信者 は、奇跡的病気治癒のような現世利益を期待したのだった。聖者信何、聖遺物、 奇跡の三者は切っても切れない関係にあり、それゆえに聖遺物のある場所への 巡礼が盛んに行なわれた。(同) 聖人信仰に基づく巡礼は民衆レベルではしばしば暴走する。その度に教会会-10
ー議と神学者たちは統制を試みた。
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年のラテラノ公会議では、「聖遺物を容器 の外に取り出す乙と、あるいは販売に供することを禁ずる。新たに発見された 聖遺物は、認証されぬ限り崇敬の対象としてはならない」などの聖遺物崇拝規 制を決議している。しかし、最前線の教会では、巡礼が集まるかどうかは教会 の威信や財政に直結しているので教会側も一枚岩ではなかった。(同) 中世の西欧はカトリックの世界であり、教会は統一された基本教義と祭儀で 社会のあらゆる部分に浸透しようとした。しかし長い間、キリスト教は外来の イデオロギーとして受けとめられ、民衆の中に真に浸透し、彼らの宗教感情が 成熟するのは1
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世紀以後のことである。だが、いくら成熟した段階になっても、 教会のキリスト教と民衆の心情の聞にはずれがあり、聖遺物崇拝やそれにとも なう心情は執揃に生き残るのである。(同) 中世の巡礼の実態は1
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世紀のイギリスの詩人チョーサーの『カンタペリー物 語』のなかにみることができる。この作品はキヤンタペリーにお参りするピル グリム、すなわち巡礼の物語である。キヤンタペリーはロンドンの東、7
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キロ ばかりにあるケント州の小さな町である。そこに6世紀以来大聖堂があって、1
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世紀にはトマス・ベケットが大司教であったが、国王権力の優位を主張する 時のイングランド王・へンリー2
世と対立し、結局1
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年、王の意を受けた刺客 によって大聖堂のなかで殺される。ベケットへの国民の崇教の念は篤く、キヤ ンタペリーは1
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世紀の宗教改革まで、イングランドの代表的な巡礼地となった。 チョーサーの作品のなかで、キャンタペリーにでかける予定で、ロンドンの宿 屋に集まった総勢30人あまりの職業は次のようである。騎士、近習、従士、尼 僧院長とお付きの尼僧、修道僧、托鉢僧、貿易商、学生、高等法院弁護士、地 主、小間物屋、大工、織物師、綴織職、料理人、船長、医者、パースのおかみ さん、教区司祭、農夫、粉屋、賄方、農地管理人、宗教裁判所召喚吏、免罪符 売り、語り手の詩人自身、宿屋の亭主。宮廷人が見当らないことを除けば、ほ ぽ当時の社会の縮図である。つまりチョーサーの時代には、誰がキヤンタペリー に巡礼にでかけても不思議ではなかった。(,イギリス文学と巡礼J
)
巡礼の習慣が盛んになると、組織化がすすみ、途中の飲み食いなど旅そのも のを浮かれて楽しむようになった。今日の団体旅行のようになってきたわけである。キヤンタペリーの大聖堂には、殺されたベケットの血を水に溶いて病人 に飲ませたところたちどころに病気が直ったという奇跡があり、病気平癒の祈 願とかそのお礼参りの巡礼が多数やって来た。しかし、ここにも、遊びたいか ら巡礼に出るという気分の人もたくさんいたのである。(同) カトリック教会では、特別の盛式をもって告知される大赦およびそのほかの 霊的恩典が与えられる年を定め、これを聖年(ジュピレ)とした。これは旧約 聖書で、神がイスラエル人に
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年目ごとにl
年を奉献することを命じている意義 を継承したものである。聖年にはローマは巡礼で混雑した。この年に巡礼すれ ば罪の総赦免が得られると信じられたからである。のちにはローマ以外の霊場 でも聖年を公布する特権が与えられるようになる。(
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ヨーロッパの巡礼J
)
時代を通じて巡礼の絶えなかった霊場のほかにもヨーロッパ各地には小さな 霊場が多数存在した。1
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世紀にお堂に隣接する井戸の中からマリア・マグダレー ナならびに聖ヴァンサンの骨が発見され、巡礼が殺到したフランス西部シャラ ントのノートルダム・ド・サン・ピアン教会、ユダヤ人たちに惨殺されたヴェ ルナー少年の遺骨を奉じた、ライン河に臨む丘陵の町バッハラッハの礼拝堂、 フランス革命のさなかヴァンデ地方のシューアン派の反革命テロのなかで惨殺 された革命の殉教少女「聖パトード」の墓など巡礼の対象になる霊場が次々と あらわれる。そのなかには教会が公式に認めていない聖人の霊場も多数存在し た。(同) 霊場には霊力を発揮して奇跡を起こすものがあって、それが巡礼を引き寄せ る。そのものとは特別の地点・場所、聖像、聖遺物であるが、霊力の源泉の筆 頭は聖遺物で、その王座は聖者の遺骨・遺骸である。人々はこのような聖遺物 のあるところに行きたがったし、教会の方では争って聖遺物を手に入れたがっ た。このようにして聖遺物が民衆と寺院の結び目になった。聖遺物のすべてが 一様に霊力を発揮したのではもちろんない。寺の宣伝が大きなファクターであ るが、宣伝すれば必ず霊力が惹起したとは限らないし、自然発生的な信何の盛 り上がりもある。いわば、計算外の要因が働くわけで、そこが面白いところで もある。(同) ピエール・アンドレ・シガール(フランス中世史家)は、1
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世紀の奇跡 n L 唱 目 品録の統計的分類を行なっている。彼は奇跡、を治療、子授け、災難除け、援助、 囚人開放、聖徳の顕揚、懲罰、夢告、超自然的認識の 9項目に分類したが、治 療が6
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4%を占めて断然突出している。これは当時の人が何に一番苦しみ悩ん だかを示すものである。巡礼には奇跡による治癒を願う病人が多数含まれてい たのである。(同) 当時の旅には苦労と危険が伴っていたが、要所要所に救護所が設けられてい た。救護所には礼拝堂と行き倒れる巡礼を埋葬する墓地、それに男女別の寝室 となる広聞が 2つあるのが普通で、おおむね12床程度の広さになっている。 1 床に4
人は雑魚寝させるので、数十人の収容が可能であった。また、小さなパ ンなどが支給されることもあった。救護所は修道院や修道団体が維持したので あるが、中には巡礼愛護に尽くした個人、巡礼路の整備に当たった「舗石(カ ルサダ)の聖ドミンゴ」などの事跡も伝えられている。(同) 教会では、杖と頭陀袋の祝福を受けてから長途の旅に出ることを奨励した。 しかし、中・近距離の霊場を参るのには道守されていなかった。その他突発的、 衝動的な巡礼もあった。1
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年の記録では、自ら羊飼いと名乗る幼い子供たち が、遠隔の諸国から無数の群れをなしてモン・サン・ミシェルに殺到した。多 くの子供は、天の声に従って、いても立ってもいられず、誰にも告げずに来た という。このような現象は、その後も間欠的に何度か発生して親たちを恐怖に 陥れた。(同) これの大がかりなものは、聖地回復十字軍運動の宗教的情熱の雰囲気のなか で生まれた、フランス・ドイツの少年少女の合計5
万人の集団による子供十字 軍である。 近代に入ると、宗教改革、宗教戦争、そして大革命を経て巡礼は次第に退潮 する。プロテスタントが聖遺物崇拝を攻撃したのはいうまでもないが、トリエ ント公会議以後のカトリック教会自身が「迷信」的要素の排除に努めた。 17世 紀、パリの副司教アムリーヌやソルボンヌの神学博士ジャン・ド・ローノワは ときに「聖者狩り」の異名がつくほど苛烈な点検を行なった。トリエント会議 の精神で教育された聖職者は、学識レベルは格段に高いのだが、同時に合理主 義的傾向が強く、往時の司教のように聖遺物や巡礼の奨励に熱心ではなかった。宗教改革以降に生まれた新教の信徒たちは、原則として、感覚に訴える地上の ものを信何の媒体とすることを、カトリック教徒ほどには尊重しなかったから、 聖地や聖者の跡を訪ねる巡礼という行為は重視されなくなったのである。(同) しかし、人生を比喰的に天を目指す巡礼の旅と見る考え方は、プロテスタン トにとっても重要な意味を持っていた。とくに、ピューリタンは、地上の聖地 へ巡礼する習慣は捨てたが、他方で自分たちの生活そのものを巡礼と考え地上 に新しい理想の国を作ろうとした。それがアメリカの建国である。(同)
1
8
世紀には巡礼の退潮が一層著しく、2
0
世紀になると宗教的無関心が根を下 ろす。しかし現在でも年間数十万人以上の巡礼を数える霊場はヨーロツノ勺こ1
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ヵ 所以上あり、今世紀になって成立した霊場も存在する。いかに便利な豊かな社 会になっても人生から苦患が消えることはないし、時代環境によって動機は変 わっても巡礼には人間の心情に深く根ざしたものがあるからであろう。(同) 中世ヨーロツパは、「巡礼観光の時代jといわれるほど巡礼が盛んであり、日 本の「巡礼J
と共通する点も多々みられる。しかし、1
6
世紀の宗教改革を契機 に巡礼は次第に減少し、代わってルネッサンスの影響による知識欲を動機とす る旅行が盛んになる。ヨーロツパ各地からの知識人がイタリアやギリシャを訪 れ、イギリス貴族の跡取り息子たちは数年がかりのヨーロッパ大陸大修学旅行 (グランド・ツアー)を行なう1的。陸上交通機関は馬車だが、産業革命前の西ヨー ロッパの道路はおおむね狭くて、ひどく凸凹ですべりやすく、ゴミや大小便を 捨てるので不潔であり悪臭もひどかった。都会の高級旅館を除けば宿匿もひど いもので、相部屋・相寝台はあたりまえ、布団にはノミ、シラミ、ダニがわい ていた。食事も宿屋の定食のほかには、仕出しか居酒屋の程度。パリに最初の レストラン「プーランジェ」ができるのは1
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6
5
年のことである(本城靖久『グ ランド・ツアー川.1)。このような悪条件のなかで旅行ができるのは、案内人や召 使を従えた自家用馬車を連ね、貴族ネットワークによる城や別荘の利用が可能 な上流階級の人々に限られたのである。 西欧における観光(
t
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)
は、産業革命を契機に新たに登場したイギリス の資本家など中流階級が、1
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世紀中頃から登場した鉄道、旅行業、ホテルなど の観光産業を利用して、貴族のステータスシンボル的ライフスタイルであった a a ・ ' i周遊旅行やリゾートを行ない、これが社会現象となったことにはじまる。 19世 紀後半になるとイギリスの労働者階級にも経済的余裕ができて、週末には苛酷 な労働と劣悪な生活環境から仕事仲間が一団となって海浜リゾートに鉄道を利 用して脱出するようになる。
2
0
世紀になると年次有給休暇制度が拡充して、労 働者階級の圏内海浜リゾートへの休暇旅行が定着する。観光の大衆化(マス・ ツーリズム)である。さらに 1960年代にジェット機が登場すると、休暇旅行先 は圏内リゾートから地中海リゾートに移行する。 北ヨーロッパの都市に住む人々の観光欲求には日光不足解消が基本にある。 太陽を浴びるなどの保養効果が出てくるためには数週間を要する。このため長 期の休暇制度と長期に滞在できる安価な海浜リゾート施設が、政府や自治体主 導でつくられてきた。これが現代の西欧のホリデーやヴァカンスの基本である。 3 巡礼を支える諸事象 官頭で、観光を、一般大衆が参加するもの。として考えるならば、一般大衆 が自由に旅行しうる条件が整いだした 19世紀中頃以降のことであると述べた。 ここでいう自由に参加できる条件(観光需要を規定する条件)とは、前田勇(H
観 光とサービスの心理学15)1.)によれば時間・所得などの「行動主体側の条件J
、観 光者と行き先を結ぶ交通機関などの「媒介的条件J
、国・地域および観光事業側 が潜在的な観光者の集合体である市場に対して展開する情報提供や観光客誘致 に関する具体的な活動を総称した「マーケティング活動条件J
である。室町期 にはじまり江戸中期以降に盛んになる日本の庶民の巡礼は、どのような事象に 支えられて発達したのかを考えてみたい。3
- 1
中世の巡礼を支えた諸事象(
1
)
行動主体側の条件 戦乱の室町期にあって、村の自治は発達し、農民は惣村を単位に団結し、下 魁上の風潮に乗って土ー撲や国一撲を起こして生活を守り向上させる。産業で はまず、農業技術が進歩した。耕作に馬・牛が使用され、肥料には油かす・魚 肥・刈り草が用いられるようになり、潅概に水車が利用された。工業製品に対する需要も圏内に加えて輸出も増加したので手工業が盛んになった。鍛冶・鋳 物・製陶・織物・製紙・酒造などが各地に発達した。商品生産の活発化は商業 の発達につながり市場が増え、市のたつ回数も増加し、貨幣流通が盛んになっ た。その他、宇治や駿河の茶、紀州蜜柑、甲州、│葡萄など特産物の栽培も行なわ れ、養蚕への取り組みが各地で行なわれる。産業の発達により市場町、門前町、 宿場町、港町などの都市がおこり、戦国大名の領国支配がすすむと新たな城下 町が起っている。こうした中で力をつけた上層農民に巡礼を行なう時間的経済 的余裕ができたのだった。
(
2
)
媒介的条件 わが国の陸上交通がシステム的に構築されるのは、天皇を中心とする中央集 権国家を目指す「大化の改新」以後のことである。「公地公民J
[""班回収授の法」 「租・庸・調の税J
が定められたが、五畿七道の各地区からの実物納税を遅滞 なく受領するためには交通の大改善が必要だった。各国府は山陽道などの幹線 道路でつながれ、3
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里(現在の5
里)ごとに駅が設けられた。駅には駅長と駅 子が駅務につき、駅馬と伝馬が常備された。これにより官吏の公用旅行の支障 は少なくなったが、庶民の旅の困難は変わらない。里人に旅人を嫌う風習が強 く道中での食糧補給の途はない。病にかかってもけがれだとして看護もなされ なかった。(大島延次郎「日本交通発達史16)J
)
奈良時代には朝廷の支配地域が九州南部から東北地方にまで拡大、交通制度 もより発展する。路傍で米が売られるようになり食糧補給が可能になった。駅 路の両側に果樹の並木が植えられ、木の実を食べて飢えをしのぐことができる ようになった。しかし農民の生活は貧しく、口分田を捨てて浮浪人となる者が 増加した。平安時代になると貴族や社寺の私有地である荘園が増加、公領は相 対的に低下し、1
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世紀になると班伝収授の法は行なわれなくなった。財政窮乏 は駅の荒廃など交通システムの衰退をまねいている。 鎌倉時代、源頼朝は鎌倉から地方に通じる路(鎌倉街道)を開設して鎌倉集 権に努めた。このため鎌倉・京都聞の往来が頻繁になり東海道が発展した。室 町時代後半は戦国時代であり海陸の諸道に群盗が出没し、交通には危険がとも なった。これに対して地方の豪族はそれぞれ自家の交通策を講じる。この時代、16
-産業の発展と巡礼の増加で交通量が急増した。幕府・社寺・公家は、これに目 をつけ、交通の要所に関所を乱設して関銭を徴収した。
(
i
日本交通発達史J
)
約1
世紀にわたる戦国の世を経て、織田信長が天下統ーをはかるが、彼は、 圏内統ーには、道路統ーが先決だと悟り実現に努力した。戦国の争乱で道路は くずれ、道は狭まり、板橋は朽ち、人馬の往来には大きな支障があった。農閑 期を利用した道路建設作業が着々と進み、並木を植える、渡津の回復、 l里 =3
6
町の制、一里塚の設置などが行なわれた。しかし安土時代に号令の及ぶ範囲 には限度があり、その外郭には群雄が割拠していたので、全国的交通網にはほ ど遠いものだった。信長の統一事業を引継いだ豊臣秀吉は、中部・北国・奥羽 地方の広範囲に伝馬を出し、征韓のために京阪・肥前聞の道も改善、1
日の行 程を6里とし、 1里ごとに飛脚を 2人ずつ置いた。しかし、安土・桃山時代の 交通は、戦国時代におげる群雄の孤立の区々たる小規模の交通から、江戸時代 の打って一丸となる統一的交通に移り行く過渡期の交通であるといえよう。(同) (3) マーケティング活動条件 中世における有名寺社の布教活動は巡礼獲得のためのマーケティング活動で もある。巡礼の旅は、平安時代には皇族や貴族のみのものであったが、鎌倉時 代に武士、室町時代には上層農民、江戸中期までは一家の戸主など、以後は少 年や女性を含む庶民のあらゆる層が行なうようになった。巡礼が社会階級の上 層から下層へと浸透してゆくのは、社寺の布教活動と軌をーにしている。 仏教ではその開祖の遺風に従う出家・托鉢・遍歴布教がその本来の布教形式 となっている。仏教は東洋各地に布教する過程で各国の主権者の手厚い保護・ 支援を受けている。仏教は思想的・文化的に高度なものを備えていたし、その 神異的・奇跡的力へのあこがれもあったからであろう。日本で仏教は、奈良か ら平安には宮廷貴族の仏教として栄え、教典の伝授、寺塔の造営も朝廷貴族の 権力に依存し、貴族社会におもな信奉者を獲得した。その問、行基や空也など の大衆への遍歴布教者があったとしても、仏教が一般に広く浸透してくるのは 鎌倉期以後のことであり、全体として布教は上層から下層への形をとった。キ リスト教が初期以来下層に浸透してしだいに上層社会を獲得したのと対照的で ある。布教には、布教地の在来の宗教や諸文化、生活習慣との適応の問題があるが、仏教の布教的適応性は高く、日本においては神道と混じって本地垂迩が 生まれている。 著名な本山の布教活動を行なったのは先達や御師である。先達は、修験道に において一般の信者(道者)をひきいて、山麓などでの道案内や、山中の案内 をし、道中・峰中の行事作法を指導する山伏のことをいう。学業に通達した人 という普通の意味のほかに、上記のような宗教的指導者を先達と呼ぶようになっ たのは、平安後期、熊野詣での流行のさい、引率する僧をさしていったのがは じまりである。熊野までの長い道中と紀伊のけわしい山岳とが、指導者を必要 としたのである。先達が制度化されると、彼らによって複雑な儀礼がつくられ、 大きな宗教的権威をもつようになった。また山麓で宿所や行場を管理する御師 や在庁先達とが結びつき、修験者の教団組織は発展してくるが、その中で先達 はいわば伝道師として、諸国の信者を山に呼び寄せる役割を担っている。熊野 だけでなく、修験者の行場であった各地方の名山にも類似の組織がつくられ、 修験教団の下部組織である講社の指導者としての役割に先達があたるようになっ た。 御師は、参拝者のために祈祷の世話をした者。祈鵡の代理者という意味で、 もと信頼する僧侶などをさすのに用いた語であるが、平安末期以来、有力な神 社における神職団の一部も御師とよばれるようになった。中でも早くあらわれ たのは、熊野三山、伊勢神宮、石清水八幡宮、日吉神社、松尾神社、北野神社 などで、熊野三山の場合は全国にわたって檀那場(信徒関係)をもっ広範な組 織で、宿坊の経営にあたり、配下に先達を置いて信徒の誘引につとめた。特定 の信者とは師檀関係を結び、檀家のためにかわって祈祷を行なうことを約し、 神数、撫物、守札など祈鵡のしるしとなる品物を配り、米銭の寄進を受け、信 者が参拝にきた場合は宿を提供し、参拝のために種々の便宜をはかった。中世 を通じて、この方法により少しずつ信何層を広げたので、神職の外郭的活動が 活発となり、神社信何を普及させるのに力があった。ことに伊勢神宮の場合は、 朝廷の保護が不十分となるに伴い、その対応策として、御師の活動に期待する こととなり、神宮を国民各層の聞に親しませるのに役立つた。ただし、熊野三 山と異なり、先遣を配下にもっていなかった。 18
-3-2 近世の巡礼を支えた諸事象 江戸時代になると旅人が急速に増加し、江戸中期には第二次巡礼ブームが起 こる。これを支えた事象について、前項に同じく、行動主体側の条件、媒介的 条件、マーケティング活動条件の3つの側面から概観する。 (1) 行動主体側の条件 産業の中心であった農業で最も重要な米の生産高は、江戸幕府開幕直前の太 閤検地(1598)の1,850万石が元禄末期(1700)に3,063万石に増加、幕末(1850) には4,116万石と2.2倍に増加している(速水・宮本『経済・社会の成立
J
)
。人 口も江戸時代初期の約1,200万人から中期の2,769万人、幕末期には3,228万人へ と増加した(同書)。食糧増と人口増とが相互に刺激し合って経済の拡大をもた らしたのである。 亜熱帯から亜寒帯まで南北に長く伸び、光と水に富んで活発な光合成に恵ま れ、地形・地勢波澗万丈の日本列島は、由来物産の宝庫である。江戸期には長 い平和により戦時的消耗がなくなり、人口が増加、食糧や生活財へのニーズ・ 技術ニーズが高まった。これに対して農業者と食糧生産の増加、新田開発、生 産性の向上、農業余剰、副産物、生産財というようにいろいろな関連が動き、 市場や地域間交流の拡大が行なわれた。軍事損耗の減少で、行政財力が増加し、 システムが整備され、治山治水がかなり徹底して行なわれる。国土の保全、都 市の建設、そして殖産振興ということで、社会資本が充実し産業基盤が整備さ れる。これが市場の拡大に対応するという形で、平和の経済効果が循環していっ た(小島慶三『江戸の産業ルネッサンス17).
D
。 江戸は天正18 (1590)年、徳川家康が江戸城に入ってから開発された新興都 市である。かやの生い茂る原っぱ、利用できる土地は10町 (10ヘクタール)し かなかった江戸に大都市建設が行なわれ、亨保年間 (1716-36)には人口130万 人、当時のロンドン70万人・パリ50万人を凌ぐ世界ーの大都会に成長した。し かし江戸は巨大な消費都市であり、全国経済の中心は大坂・京都を擁する畿内 にあった。畿内は農業、手工業の最先端地帯であり、全国の手工業生産の2/3が この地域で行なわれていた。そして全国的にこの三都と地方都市のネットワー クが充実し、安定成長のメカニズムが増幅されていた(同書)。伊勢参宮など江戸期の庶民旅の興隆には、三都を中心とする全国的経済の発展とそれに伴う庶 民層の経済的余裕がその背景にある。 次に時間の余裕であるが、余暇活動が労働時間と分化された余暇時聞を前提 として行なわれるようになるのは産業革命以後のことである。わが国の場合は 大正期になり大工場の労働者や近代的企業の職員(いわゆるサラリーマン)が 増加して新しい階層として自己主張をはじめた(薗田硯哉「余暇生活の歴史18)J) その頃からのことである。 江戸期の人口の約8割は農民であり職人や商人でも「自営
J
がほとんどであっ た。人々の労働は日の出と日の入札四季の変化、天候など大自然のリズムに 即し、また人聞の生理に基づいていた。天保年聞の現在の茨城県に含まれるあ る村では年間の総休日数は100日以上あったと推定されている(香川員「余暇と 観 光19)J)。しかし、余暇は近代社会のように個人のものでなく共同体全体のもの であった。 江戸期の元禄年間 (1688...1704)から文化・文政 (1804...30)期にかけては、 天下泰平の世の中と町人の経済力の向上などを背景として町人文化が勃興し、 澗熟期を迎えた。武家や裕福な町屋の人々が中心だった娯楽が、下層庶民にい たるまで幅広く楽しめるようになった。江戸の庶民は四季折々に名所に繰りだ し、物見遊山を存分に楽しむことができた。それだけの経済的および精神的余 裕が生まれたのである。大勢の人々がーヶ所に集うようになってくると、水茶 屋や料理屋、楊枝屋や土産物屋、楊弓場や富鏡、芝居小屋や寄席、その他さま ざまな娯楽施設が進出し、ますます賑わいをみせるようになる。当時の物見遊 山の代表的場所は神社仏閣であり、祭礼や縁日になると人々はこぞって出かげ たのだった。さらに他国の有名な神仏の出開帳などのイベントが企画されたり、 寺社ゆかりと称した名物料理や土産物などが開発されたりした。浅草寺や神田 明神をはじめとする有名寺社は信何の対象である以上に一大レジャーセンター であった。江戸市中における遊山の習俗は、現在よりも数段発達していたので ある(坂口福美「江戸の物見遊山20リ)。江戸期の庶民は、労働と余暇の未分化、 すなわちどこからどこまで労働か余暇かが判然としない日常生活のなかで、他 国に類例をみないほど豊かな物見遊山をはぐくんでいたといえる。-20-江戸周辺からでも 2ヵ月近くかけて行なわれた伊勢参りは、講員を代表して の代参であり、仕事の一部だと考えられたであろう。盛大に行なわれた「出立 ち
J
I
出迎えjは、旅が地域を代表する半公的な性格をもつものであることを示 している。しかし、抜け参り・御陰参りとなると、庶民のエネルーが物見遊山 から近郊の名所へそして伊勢へと拡大していったとでも考えればよいだろうか。 (2) 媒介的条件 媒介的条件のうち交通については、江戸時代に乗り物といえるのは、馬や牛 をのぞけば駕寵だけで、西欧のような馬車は存在しなかった。日本で馬車が発 達しなかったのは、山坂の多い地形が平坦な大路の開設を妨げた、幕府や藩が 軍事優先の道路政策から架橋を行なわず放置した箇所がある、馬の体形が小さ く物を引く力が弱かったなどのためである(田村善次郎「車・輿・駕寵21)J
)
。 だが、「徒歩」を前提とした交通システムは、主要街道においてはきわめて良 好に発達していた。広くしかも排水用の溝を備えた道路、両側には松や杉の並 木が植えられ、夏は緑蔭の下に休み、冬は積雪を防ぐことができ、街道に風情 を添えていた。道のりを示す一里塚が設けられ距離を的確に知ることができた。 街道の整備はもともとは将軍の上洛や大名の参勤交代のために行なわれたもの だが、関所を通るためのごく簡単な手続きや、武士の万の衝突を避けるための 左側通行、家格・地位の低いものが道を譲るなどの常識的ルールを守れば庶民 の利用にも支障はない。参勤交代があれば遭に砂がまかれ、すべての汚物や馬 糞を等で掃いて取り払い、挨に悩まされる暑い時期には水を撒くなどのメイン テナンスも1Tなわれていた。 徒歩で行なう旅を前提とした距離間隔に宿駅が設けられ、本宿にある問屋場 は、運輸サービスの拠点であり交通情報センターでもあった。 旅人の宿舎は駅制の整備とともに発展してきたものである。その昔、公用の 使者は特設の屋舎、公卿貴人は土地土地の長者の屋敷に宿泊したが、庶民は農 家などで夜露を凌ぐ程度であった。江戸初期にはまだ全てが「木賃j制度であっ た。1
日あたり2
合5
勺の精(ほしいい)を携行し、宿で温湯をもらって食べ る。夜具はあらかじめ頼んでいないととれなかった。宿代は自炊の薪代と寝床 の畳代少々である。昔から旅行者が路上で飯を炊くと傍らの家では縁起が悪いと思み嫌う風習があり、うっかり路上で木を燃やすと私刑・罰金・労役の恐れ もあった。(中野栄三「東海道五十三次22)
J
)
「駅j は元来は官設の地点で、ここに輸送用の馬その他が用意されていた。 ところが交通が頻繁になると駅だけでは不十分になり、自然にそして私的に街 道の要所に繁栄の土地が発生した。これを「宿」と呼び、宿にある旅屈を「宿 屋」と呼んだ。(同) 東海道では五十三次の各宿駅を「本宿J
とし、馬と人員を扱う「問屋」があ り、その前には街道交通の取締規則を書いた高札がかかげられていた。大名の 宿泊する「本陣」と予備の「脇本陣J
、一般旅行者の「宿屋」があった。宿の出 入口に当たる場所は棒鼻と呼ばれ「立場茶屋J
という旅人の休息所があった。 本宿と本宿の聞の「間宿」は休,息だけで宿屋は不許可だった。(同) 宿屋(旅籍屋)は百姓の内職と遊女を抱えた宿の2
種類で始まった。サービ スの悪い百姓経営よりも遊女付きの方が繁盛し、万治 (1658-61)頃には、留 女が旅人を引き込み、夕食を出し、亭主自らが接待に当たって世間話をしたり、 酒を出したり、歌をうたわせたりして客の旅情をなぐさめた。風呂は元禄 (1688-1704)噴から設備されたが、文化・文政 (1804-30)には客が到着するとすぐ に入浴させ、茶菓を出し、旨い食膳をすすめ、夜具を敷くなどサービスが行き 届いた。宿泊所には本陣、脇本陣、平はたご、宿場女郎屋、飯盛旅龍、旅人宿、 泊茶屋、木賃などがあった。宿場女には飯盛・留女・出女・遊女・おじゃれな どがあったが、数が多く風紀を乱したのは飯盛である。飯盛は宿の炊事婦であっ たが、遊女の領域にまで侵入し、服装をきらびやかにし、客にとり入り色をひ さいだ。その粛正に当たったのが「浪花講」などの旅龍組合で、各協定旅寵(,講 宿J
)
では庄頭に浪花講の看板を掲げたので、旅人はこれを目当てに宿を選択す ることができた。(,日本交通発達史J
)
文化10 (1813)年の旅寵屋の食事の記録では、夕食は汁に菜の物2'""'3品を 付ける。菜は煮物の平付と魚の焼き物と別に猪口ないし椀物が付くこともある。 朝食はー汁二菜が普通で、菜は平付、焼き物。旅簡賃は東海道でも中山道でも 大体150文であった。東海道の旅寵屋は、料理の品数が多く、焼き物の魚も塩物・ 干物でなく鮮魚を使用した。他街道よりも競争が激しいのでサービスが良かっ 円 L q Lたのである。料理の材料についての細かなコスト計算もすでに行なわれていた。 安く泊まるには木賃宿があり、旅行の内容と予算に応じて多様な選択肢があっ た。(神崎宣武・薗部澄「絵解き・伊勢参宮名所図会問
J
)
土地の名物も発展した。元禄期の東海道にはすでにうどんやそば切りなどの 名物が登場し、亨保年聞を過ぎると名物の種類も多くなり、旅の楽しみのーっ となった。(
W
江戸の旅人たちD
旅先では色々なところで細々した金を使う。このため金・銀貨を携行して銭 に両替、支払いに当てた。宿賃、駕寵賃、物の購入の他に、寺社関係では初穂・ 饗銭、銭を撒く儀礼もあった。召使や人足には心付けや酒手も必要だった。(同 書) 「参勤交代J
や「伊勢参り」の経済的・文化的効果は莫大であり、街道の交 通や宿駅は発達し、旅にかかわる産業は大いに発展た。宿屋や茶屋の雇用の他 に、人足稼ぎ、駕簡かき、飯盛り女、女子供の土産品売り、按摩、髪結い、案 内人など零細な職業につく多くの人々に雇用機会を与えた。胡麻の蝿やスリ、 博打うちゃ無宿者なども街道や宿場町に寄生した。(
r
江戸の旅人たち.1) 旅の情報を提供する出版物は1
7
世紀中噴から出版されるが、元禄期には多数 の出版物が出て庶民の旅を促進した。宿聞の距離や駄賃なども記載した絵図の 『東海道分間絵図.1 (元禄3
年)、宝暦年間(
1
7
5
1
-
6
4
)
にはこれの携帯版が出 され、1
9
世車B
丘くになると『東海道名所図絵.1r
木曽路名所図会』など名所図会 の出版が多くなる。江戸期には紀行文学で『海道記jW東関紀行.1W十六夜日記』、 旅日記では『竹斉物語.1r
好色旅日記.1r
出来斉京土産.1r
新竹斎.1Wおかし男』 『仁勢物語』、名所記では『東海道名所記』から『東海道中膝栗毛』まであり、 時代とともに描写が細かくなっている。 交通や旅行に関連する公的インフラ投資は、当時の幕府や藩の財政能力から すれば十分だとはいえないだろう。だがそれを補う形で民間の旅行産業が発達 したのである。徒歩が中心の旅ではあったが、土地土地に名所や名物があり、 道中そのものを楽しむことができた。周遊旅行本来の楽しみ方が可能なシステ ムである。このように巡礼のための媒介的条件は十分整っていたのである。(
3
)
マーケティング条件近世におげる巡礼誘致のマーケティング活動の主役は「御師
J
である。 御師は、中世においては神宮、神社に属し、依頼により代祈請をする祈祷師 であった。熊野、伊勢など一社の信徒を相手に祈祷や宿泊の世話をした。初め は参詣に不便な山岳神などの代理祈祷をしていたが、のちに大社を対象とする ようになった。伊勢神宮の御師は、中世では神職(権禰宜層)であり、信何の 布教者であった。しかし近世になって庶民の社寺巡礼が増えてくると、神宮を 離れ、各地で伊勢神宮への信何を説き「講J
を組織した。御師は身分的には一 応伊勢神宮の外宮に所属する口入れ神主であったが、経済的にはまったく独立 し、商人化している。(
1
大山詣りと講社の旅J
)
伊勢神宮の御師の数は、神崎宣武によれば、文禄3(
1
5
9
4
)
年には山田(外宮) で1
4
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家であったが、貞亨元(
1
6
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4
)
年に4
4
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家、宝暦5(
1
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5
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)
年には5
7
3
家、 これに若干名の宇治(内宮)の御師を加えると江戸中期には6
0
0
.
.
.
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.
.
.
.
7
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家である。 各御師はカスミ(檀那場・テリトリー)を定めていた。カスミの内にある家を 檀家とか檀那という。安永6(
1
7
7
7
)
年の檀家数は全国に4
1
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万戸であり、多少 の誇張はあるだろうが、日本全体の7
.
.
.
.
.
.
.
.
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割にも相当する。伊勢講のほとんど. は御師の管理下にあった。(同) 御師の第1
の活動は、毎年1
度、檀家に「大神宮」と銘された神札(神宮大 麻)を配布することである。それによって新たな檀家を開拓することもできた。 大麻は、檀家が伊勢に参って天下太平、五穀豊穣を祈願すべきところを、御師 がすでに代行して祈願したとする証印であり、民衆と伊勢を結ぶ巧妙な証印で もあった。檀家まわりはおもに御師の手代があたったが、彼らは行く先々で優 遇された。大麻に次ぐ御師の第2
の商品は、音物(いんぷつ)であった。音物 とはいわゆる伊勢みやげの類である。杉原紙・鳥子紙・油煙・帯・海苔・櫛・ 伊勢暦など、軽量で運びやすい品々が中心になっている。当初から商品として 売買されたのではなく、多額の初穂(祈祷料)をだしてくれた人への添え物(答 宇υ
だったが、のちに商品化した。もう一つ御師の大きな収入源は、伊勢に参 宮する檀家に宿を提供することである。御師の家に泊まる檀家は、お供料(神 額料)・神楽料・神馬料を払うのが習わしであった。いずれも御師の収入となる わ砂で、伊勢神宮とは関係がなかった。もろもろの祈鵡はすべて伊勢の御師の-24-家で行なわれた。神馬料など、本来は伊勢神宮に納められるべきものであって も、名目化・形式化して御師の収入になったのだった。(同) 伊勢参りの人々が山田に入ると、世話になる御師の家の手代が宮川の渡しま で出迎え、家まで案内する。最盛期には御師の家は約800軒あり、全国の信徒を 差配し、信徒の家筋や地域を代々受げ継いできた。御師の家で御供祈祷が行な われ、神楽役人によって湯立神楽が奉納される。神楽は規模によって大々神楽・ 大神楽・小神楽・添神楽に分けられる。御供料・神楽料・神馬料などが御師に 奉納され、神酒と内宮外宮の供物を受け取り神楽の聞を出る。御師への支払い は、大々御神楽・御初穂30両、 8ヵ所へ心付砂として4両3分、投銭として3 分、講中各人が竹葉料としてl分ずつなどの記録があるが、大きな金額である。 神楽が終わると御師からの接待がある。その後一行は手代の案内で外宮を参詣 した後、手代を帰し、天の岩戸、内宮参詣をする。夜は、精進落としに、古市 の遊廓で酒を飲み、遊女たちを交えて歌舞に興じた。その最も華やかな歌舞音 曲が「伊勢音頭」である。
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伊勢詣りと伊勢音頭J) 御師は実にしたたかであった。檀家の人たちに対しては、下へも置かない接 待に撤した。食事は大盤振舞、羽二重の寝具、細々としたみやげも用意される。 伊勢へ来た客が村に帰ってその費を宣伝してくれれば、次回の集客もうまく運 ぶ。御師のたくましい商魂が感じられるのである。 遷宮の年を中心に定期的に起きる「御陰参りJ
は、大神宮の御札が降ったと か病気が治ったとかの奇跡のうわさが引き金となり大ブームに発展した。作為 がはっきりみられる(
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現代観光研究j)場合もあり、これに御師が関係してい たとの風説もある。そうだとすれば、彼らはかなりきわどいレベルの「巡礼キャ ンペーンJ
にも手を染めていたことになる。 伊勢神宮の御師は、マーケティング活動を一手に引き受けるばかりでなく、 現在の旅行業の業務のほとんど全部と宿やみやげ物の提供までも行なっていた。 御師の活動は、総合旅行業だったのである。4
まとめ 日本において、江戸期までの「楽しみを目的とする旅行J
は宗教活動と一体となって行なわれてきた。仏教は、奈良から平安には宮廷貴族の仏教として栄 え、教典の伝授、寺塔の造営も朝廷貴族の権力に依存し、貴族社会におもな信 奉者を獲得した。仏教が一般に広く浸透してくるのは鎌倉期以後のことであり、 全体として布教は上層から下層へと進んでいった。仏教は布教における適応性 が高いため、日本においては神道と混じって本地垂迩の形態を生じている。 布教の浸透に並行して巡礼も上層から下層へと普及する。まず、平安貴族が 観音霊場巡拝を行ない、平安末期には高野山や熊野三山へも足をのばす。鎌倉 期には巡礼の主体は武士階級へ移り、室町期に上層農民、江戸期に入ると本百 姓や職人・商人が参加、中期以後は子供を含むあらゆる階級が抜け参りや御陰 参りを行なう。これを可能にしたのは、江戸期に振興した農業を中心とする経 済の発展であるが、先達や御師の布教活動・総合旅行業活動に負うところも大 である。彼らの活動期は11世紀(平安末期)から19世紀(明治)までの長期に わたり、強力な全国的巡礼旅行組織を形成する。また、江戸期の主要街道には 様々な旅行関連産業が発達して、徒歩による周遊旅行システムが完成する。 明治になると関所の廃止、本陣や助郷の廃止、飛脚から郵便制への転換、鉄 道の導入などにより徒歩による周遊旅行の基盤が崩れる。地縁社会の再編が進 み伊勢講などの檀家関係は薄らぎ、登拝も個人的なものになる。このため御師 の多くは、旅館業やみやげ庖に転業している。 だが、巡礼を原型としどこか宗教的香りを含む日本の周遊観光のシステムは、 汽寧や航空機などの大量輸送機関の発達と結びついてその後も生き続ける。明 治20年代 (1887一)から始まる修学旅行は巡礼システムをモデルとし、実際に 御師が添乗員の役割を果たしたという(白幡洋三郎『旅行ノススメ2吋)。外国人 観光客誘致を目的とする喜賓会やジャパン・ツーリスト・ビューロー(J