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ヘーゲル哲学の教育学的研究(その4) : 道徳と教育 : Bildungの概念について

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Academic year: 2021

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(1)Title. ヘーゲル哲学の教育学的研究(その4) : 道徳と教育 : Bildungの概念 について. Author(s). 広川, 正治. Citation. 北海道学芸大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 11(2): 1-11. Issue Date. 1960-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3861. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 1巻 第2号 C 第1. 北海道学芸大学紀要,(第ー部). 5年1 2月 昭和3. ヘーゲル哲学の教育学的研 究 (その 4) ldung の 概 念 に つ い て F q - -道 徳 と 教 育 : Bi. 川. 広. 正. 治. 北海道学芸大学函館分校教育学研究室. Sh離. , i l 日丁ROKA・ i tud S Ph YA : Pedagogic S es 。f Hege1 osophy .4 , No ,. ‘Bi ion o dung“- f‘ l ion : on the Concept land Educat - N1 ora. 次. 目. 2 . 道徳の意義 3 . 道徳教育. ▽, 道徳と教育 1 . 教育の意義. V. 道. 徳. と. 教. 育. dung の概念を明らかにすることによって, 彼が, 国 l われわれは本稿ではまず, へ←ゲルの Bi 家社会における教育または教化をどのようむ こ考えていたのか, さらに, それは精神の中核的問題 であり, また教育の中心的問題である道徳と, どのように関連づけられるのであるか, その関連. のなかから, われわれは道徳教育を, ヘーゲル的には, どのように規定することができるか, を 検討してみたいと思う. 「現象学」 においては, すでにみて来たように, 精神は大きく, A. 意識, B ,理 . 自己意識, C 性, と 発 展 し て 来 た, そ し て 理 性 の 発 展 で は さ ら に a , 絶 対 知, と . 精 神, c . 宗 教, d , . 理 性, b i i l i 発 展 し て い く の で あ る. そ の 過 程 に お い て, さ ら に, b t t es ch- , 精 神 は, A, 真 実 な る 精 神 (d. i ke i at t i dung l ) ) と いう d i t ) e Bi e Moral , 自己疎外的精神 (d , 自己自身を確信せる精神 ( , B , C 段階をたどって発展す ると考えられている. と こ ろ が 「法 の 哲 学」 に お い て は, 精 神 は, 1. 抽 象 法 (das abstrakte Recht ), 2, 道 徳 (di e Mora at l i t ), 3.. 人倫. l i i t t t (di e si ), と,発 展 す る, ヘ ー ゲ ル が こ こ で と り あ つ か っ て い る 精 神 chke. は, エ ソチクロ ペジーの 「精神の哲学」 の,1 , 絶対的精神とい . 客観的精神,3 . 主観的精神,2 う発展段階の 「客観的精神」 に相当するものであることは, その内容からして明らかである. し かもそのなかの発展過程は, A , 法, B , 道徳, C , 人倫であって, 「法の哲学」 と同様であり, 「現 b C 象学」 における . 理性の , 精 神 は ま た エ ソ チ ク ロ ペ ジ ー の 客 観 的 精 神 で あ る こ と が明らかであ l i l i i る. したがってここで問題は, 「法の哲学」 の 1. Recht tat t t t に対して chke .2 .3. Si , Mora B i l d Mo l i づ S i l i h k i 「現象学」 の 1. t t c et ung ra tat と い う 位 置 け で あ る. 両者では . 2. . 3. dung Mora l i i l i i l at と S t t t t との位置が逆になっていることである. それらの発展過程を Bi chke と の 関 連 に お い て どう と ら え た ら よ い の か, と い う こ と を 問 題 に しな が ら, わ れ わ れ の 課 題 を 検 討 して み よ う.. 1 , 教 育 の 意 義.

(3) . 広. 川. 正. 治. dung をどのような意味で使っているか その概念を検討すること l まず始めに, ヘーゲルが Bi . によって, 彼の教育についての考えを明らかにしたいと思う. dung を自己疎外的精神としてと す で に の べ た よ う に, ヘ ー ゲ ル は 「現 象 学」 に お い て は, Bi l. りあつかい, 主と して精神のこの段階でそれを論じている. 彼によれば自己は, 1 . 法的状態の ldung の世界の自己 3 自 己, 2, Bi ) , , 道徳的世界の自己という三段階を進むのである1 . したが dung は自己が法的世界から道徳的世界に進 む媒介の働きをするものと考えられる l っ て Bi. . 法的. i 状態というとき, 自己は人倫共同体のなかにあって, それとおのずから ( ch) 一 体と な っ て an s い る の で あ り, 自 己 を 共 同 体 に 統 一 し て い る 旋 (Gese t z) を 価 値 と 自 覚 して い な い 自 己 意 識 で あ. る. それに対して道徳白々世界の自己は, 自己の属する人倫態の淀を自己の意志によって価値(善) ldung の媒介性は人倫態の普遍性を自己の真 と して 自 覚 して い る 自 己 意 識 と い い う る な ら ば, Bi 理・価値と して自覚せしめること, 人倫共同体の現実化・自覚化であるといえよう. その意味か l dung は一般に考えられるように 個的人格が既存の国家社会の一般的形式に従って ら して, Bi , おのれを形成するというよ り, むしろ自己自身の理想的現実体として国家社会自身を集団的に形 一般との底に実体の 成することと考えるべきであろう. 個的人格が普遍的に妥当するのは, 個と‐ d B i l 即目的統一のあることによるのではあるが, その実体が ung の主体でなければならないので ) あ る2 . dung とは 「精神が自然的存在からおのれを疎外すること」 「自然的存在 を 犠 棄 す る こ と Bi l l i (Ent ussemng)」 であり, 個人が普遍性によって妥当性と現実性をえるところの, その手段, ‐ 3 あ るいは ま た そ れは 一 定の個 性を 本質に移 行 l t t e 媒介過程 (da s Mi , der Ubergang) で あ る ) . , i させる働きであり その個性が an s ch にはすでにそうであったところのものにまで おのれを. ,. ,. ) こ の 働 き が 真 実 の 「根 源 的 な 自 然」 (ursprdng i l 形 成 す る 働 き で あ る3 che Natur) で あ り, 実 体 .. である. われわれはこの 「真実の根源的自然;実体」 にこそ注意しなければならない. i ヘーゲルは生得の個性, 自然的特殊性 (d t ) を無力なもの, 非現実 e Besonderheit einer Na ur iges und Unwi i 的 な も の (etwas Unmacht ) と み て, 個 性 の 特 殊 性 を 否 定 す る. そ して た rkl ches. だ一般者のみが現実性を獲得するのであり, それによってのみ個的存在も持続的でありうるので あるが, その意味 で個人は自己自身を外化しなければならぬことを主張する. この点, もし今ま での個人主義的自由教育がややもすると, 個性という特殊性をすでに何か固定的に方向づ けられ たもの, その意味ではすでに存在するあるもの, と考えたとすれば,ヘーゲルのこの主張は一面に おいて正しさをもっている. すなわち, たとえば一舟貸世俗に考えられていたように「三つ子の魂」 というものが幼児期の家庭環境によって形成されたものであることを忘れて, それを生得的な素 質とするならば, ,そうした誤り解された意味での生得的特殊性は, 要するにその子どもの家庭環 境を中心とする生育過程の特殊 注 で あ り, そ れ は ヘ ー ゲ ル の い う 「自 己 疎 外」 に よ っ て こ そ 妥 当 I ine) を どう と ら え る か, da 性, 現実性を獲得しうるであろう. その場合の 「一般者」 ( ie s AI gen ということこそわれわれの課題でなければならない. (それは特殊性に対するもの, すなわち生 ingl i ) immt d i t ) に対す ch be s e Natur 得の個性としての 「根源的に限定せられた自然4 e urspr【 」 (. ) る 「真実の根源的自然=実体」 であることを理解しておいてよいであろう. この点に関 しては, ヘーゲルがつぎに 「個人がおのれを形成 し, おのれに教養をあたえるとい う運動が, すなわち, 彼が普遍的な対象的な実在となること, 換言すれば現実的世界が生成する ことなのである, この世界は個人によって生成したのではあるけれども, 自己意識にとっては, i inverruc- 全く疎外されたものであり, それに対しては動かしがたい現実という形式 (d e Form t.

(4) . ヘー ゲル哲学の教育学的研究 (その 1) ) 」 と い って い る こ と は 吟 味 す る 価 値 を も っ て い る kter Wi i i t ) を と っ て い る4 rkl chke . .. この現 実. i dung に よ っ て を自分の実体と確信し, 自己意識がその実体に対する支配権を得るのは, 実にB l d B i l であった. ung とは自己意識が自分の実体としてのかかる現実に適合するようにおのれを形 成 す る こ と に ほ か な ら な い,. 「法の哲学」 においては, 子 どもは即目的に人間であり, 即目的にのみ理性をもち, 理性およ び自由の可能性であるにすぎない, そうした即目的に理性的である人間としての子どもが, 自己 自 身 の 生 産 を 通 じて, 自 己 か ら 出 て い く こ と に よ っ て, ま た 彼 が 対 目 的 に な る と い う 自己内形成 dung は 解 放 (Be f i i に よ って, 自己を完成していく過程が教育にほかならないり. また Bi e r ung) i be であり, さらに高き解放 に至る労作 (Ar ) である, この解放とは, 主観的な態度, 直接的な t ) i t i 欲望, 感情の主観的自負およびわがままな蜂意に対する 苦闘 (d ) を 意 味 す る7 e harte Arbe . だか らこそ単に感覚的・自然的なものを根絶するために, 子どものわがままを打破するところの ) 訓練が, 教育の眼目であるといわれる8 , その場合子どもが両親に従順でなければならないのは, 両親が一般的・ に質 的 な こ と を み ず か ら 実 践 して い る か ぎ り に お い て で あ る. ヘーゲルにとっては, 教育学は人間を倫理的ならしめる術であり, 自然的なものとしての人間 を 更 正 せ しめ て, 彼 の 第 一 本 性 (ers t t ) を第二の精神的本性に ( e Na ur zu einer zweiter geisten. Na t ) 転化して, もって人間におけるこの精神的なものを習慣とする途を指示するものであっ ur ) 6 た , したがって幼稚なものをすでにそれ自体で価値あるものとみなして, そのまま子 どもにあた えるような教育学, 子どもたちみずから未完成なことを感じて いるにもかかわらず, この未完成 な子どもらを完成せるものとみなし, また完全をもって満足せしめようと努めるような教育学は 1 1」 「特殊性を o ) 遊び半分の教育学であるというl . 要するに教育は 「一般者の貫徹を期するもの ) 1 2 ) 練磨して事態の本性に従って行動せしめること である, 教育の最良の方法は結局するところピ 3 ) タ ゴ ラ ス の 徒 の い う よ う に 「息 子 を 良 法 を 有 す る 国 家 の 公 民 た ら し め る こ と1 」 な の で あ る.. すでに検討して来た ように, 教育の行われる場であるとともに教育がめざしているところのも dung の主体もまた人倫共同体そのも l の で も あ る も の が, 人 倫 共 同 体 で あ る こ と, し た が っ て Bi. のであるといえ るであろう. 主観的な自然性に対する客観的な現実性, それが精神の真実態とし ての人倫共同体にほかならない. i 自己意識が他人のうちにおのれを直接的に意識するとき, すなわち自然的な人倫共同体 ( e n F i l i d i 【 l i h i l i G i i h ) る i t c es emenwe s nat r c esst en) を成立させるとき家族 ( e am e と な ,と い わ れ る. l t ose 家 族 は 無 意 識 的 ・ 潜 在 的 (bewuss , innere) なものとしては, 自覚せる現実と しての社会. f l l t ) に対立し, 民族全体としての国家 が現実性をえるための要素として家族は, 国家 e (Ge cha s s そのものに対立し直接的な人倫的存在として家族は, 公共の目的のための労働を通じておのれを 4 ) i i den), 維 持 す る 人 倫 (Si l t t t ) に, 公 共 的 精 神 に 対 立 す る1 l chke 育成し (bi , i l i t t che) と して, an s ch には一般者であるから, 家族員の人間 家族は人倫的なも の (das Si h a V i l l i d tni s s des einzelnen Fami eng edes zur s er l 関係は, 個々の家族員の家族全体への関係 ( a ・極的な目的は個別者そのもの l i ) であるはずなのである. ところが家族に固有な積 ami e ganzen F l ss chen) な の で あ る, こ の 矛 盾 を 克 服 す る た め に, 家 族 の も つ 自 然 性 と 個 別 (der Einzelne al o. 性を否定して, 個別者を家族からその外につれ出して, 彼を一般者のうちに, 一般者のために 5 ) が教 育 に I ine) 生 活 す る と こ ろ の 徳 (Tugend) に ま で 育 成 す る こ と1 i ( n und 負ir das AI geme 1 6 ) といわれるゆえんである. 個 ほかならない. 教育が自然的存在からの精神の自己疎外である l i ch 人は家族を出て市民とならねばならない. 個人は市民としてのみ現 実 的・実 体 的 (wi rk ,.

(5) . 広. 川. 正. 治. i l l tant ) な の で あ る. 市 民 で な く て 家 族 の 血 縁 と して 妥 当 す る か ぎ り, 家 族 に 属 す る か ぎ り, e subs 7 )の で あ る i t en) に す ぎな い1 che nlarklose schat r unwirkl 非現実的正 体のない影 (de . 教 育はよ 蓑rung) と し て, 伝 統 や 迷 信 を 批 判 し, 政 治 的 領 域 に お い i ufkl e A‐ り高き段階においては啓蒙 (d. ては, 個人の自主と平等とを宣言する. この点については略する. 「法の哲学」 においては, 直接的・自然的・人倫的精神としての家族の本質をなす も の は 愛 i ) であるが, 夫婦の婚姻 (Ehe ) というだけではいまだ愛は客観的ではありえない, 他面 (L ebe において, 家族は所有のなかに自己の実体的人格の実在をもつのであるが, それが財産 (da s 8 ) こ こ に 家 族 の 個 別 性 の 契 機 が あ る. verm6gen) で あ る1 .. と こ ろ が 第一 の 契 機 であ る 婚 姻 の統. 一として子供が生じ, それによって愛は客観性を得る ことができる. 財産における家族の外部的 統一に対して, 両親と子 どもの愛による結合は, 家族が子 どもを自由な人格にまで教育するとい うもっとも人倫的な課題を果すことにおいて実現される, 子 どもの教育は, 積極的には, 子ども の倫理的情操を高めて直接的な, いまだ対立を含まない 感情をは ぐくみ, かく してこの心情を倫 理的生活の根拠として, 愛, 信頼および従順をもって最初の倫理的生活を子どもにいとなますこ とであ り, 消極的には, 子 どもの生まれつき有する自然的直接性を陶 台して, 独立心と自由な人 9 」 格とを鍛え上げ, もって家族の自然的統一から踏み出す能力を 獲得せしめることである1 . この 教育作用 によって子 どもは家族の 紙帯から離れて, より高い人倫的なもの, すなわち 市 民 社 会 i f l l t i ) へ と 進 み 出 る の で あ る. che Ge se scha (d e bnrgerl. i こ の こ と は an s ch. な人倫共同体 (家. 0 ) i t i ch な人倫共同体 (市民社会) が形成されることを意味する2 rs 族) の統一が失われて, f ,ま たヘー ゲルによれば, 教養ある人間というのは, 他人の行う何事をもな しうるものであり, 自己 の特異性をふりまわさないものであ る, 反対に教養のない人間というのは, 対象の一般的性質に 反する態度をとることによって, 自己の特異性を示すものであり, 勝手な態度をとって, 他人の 感情を全然かえりみないものである. このことから, 特殊性を練磨して事態の本性に従って行動 1 」 できるようにすることが教育である2 , といわれる. 家庭教育は, 両親の球意性のゆえに, あえ て教育することは許されない. それは市民社会の権利である. 家庭教育は国家社会の教育に従属 しなけれ ばならない. あえてする教育が国家社会によって管理されなければならない理由は, 以 2 ) 上 の 点 に み ら れ る で あ ろ う2 .. ところが 「市民社会にあっては, 各人がみずからの日的であって, 他のあらゆるものは彼にと 3 ) 」 といわれるように 市民社会にあっては 各人はただ自己の自然的欲求 っ て 無 で あ る2 , , , 自 , 分の利益の みを目的に 、行動 して, 他人との関係を考慮しない. これが市民社会の 「特殊性の原理」 4 )で あ る と は い っ て も し か し 他 者 と 関 係 す る こ と な し に は i t )2 (das Prinzip der Besonderhe , , ,. 各人はその目的を達成することができない. すなわち特殊性は必然的に一般性を条件とするもの であり, 個人の生計, 福祉ならびに特殊権利は万人のそれに編み込まれ,これらに基礎づけられか 5 ) i i nz っこの連関においてのみ現実的となるのである2 p . これが市民社会の一般性の原理 (das Pr der AI I inhe i 七 ) で あ る. こ の 両 原 理 は 分 裂 の 立 場 に あ る け れ ど も, 特 殊 性 の 原 理 は, 一 般 性 ・e gen. においてのみ, みずからの真理と積極的現実性の権利を 有するがゆえに, その形成のうちに自己 の存立を求め, かつ有するがゆえに, 特殊性は一般性 に推移し, 一般性の形式に自己を高めざる 4 ) を 得 な い の で あ る2 .. 家族の無意識的自然性を否定した市民社会も, その特殊性の分裂のゆえに安定しえず, より高 き立場の人倫共同体へと発展せ ざるをえない, それが国家である, 国家共同体は家族の個別的自 6 ) 己意識を普遍的自己意識のうちに解消することによって, おのれの存立をえるのであり2 , 個人 - 4 -.

(6) . ヘーゲル哲学の教育学的研究 (その 4) 〔 i 主義的精神を弾圧することによってのみ (nur durch Unterdr ckung) お の れ を 維 持 す る こ と が. できるのである, しかも個人主義的精神は国家にとって不可欠の契機なのであるから, いやいや 7 ) つまり 国家共同体は市民社会の特殊 性を止揚し f i l i ) 認めなくてはならない2 ながら ( e e nds g . , i た一般性である, 市民社会の分裂を統一する現実の活力は統治 (Reg e rung) であ り, それによ って国家は一つの個体たるをえるのである, この共同体は一面においては, 個人の独立と私有権を認め, 個人的な諸日的のための労働 獲 , 8 )を 保証 し i 得, およびその享受を許し, その私的目的追求のための職業組 合 (d i on)2 e K0rporat もする. 他面においては, 国家共同体は一般的団体の単純な精神であり, 諸体系の孤立化を否定 する実在である, この孤立化が根をはやし, 固定的となり, その結果全体が崩壊しないために, 統治は時折戦争によって, 私的な, 個別的な秩序と独立性の権利を侵害 し, 全体から分離して, 一身の安全を追求している個々人に戦争という労働を課することによって, 彼らに死を感じさ せ るのである, これによって, 国家は共同体が人倫的生活から自然的存在に沈諭することを防 ぐの 9 ) である, ここに国家共同体に固有な権力, 自己を保存させる威力がある2 , ヘーゲルは青年を未 熟で, いまだ個人的な範囲を出ないものとしかみていないのであるが, そうした青年の力も, 共 同体全体の力と なるかぎりにおいて意義をもつのであって, 普遍的目的から孤立した場合に は 悪 なのである. 国家共同体が統一的個体性の威力を発揮するのは, 内に向っては, 個々人の孤立化 を弾圧 し, 外に向っては, 自発的に活動するときである. ここに戦争の意義がある. 彼にとって 戦争は, 人倫的実体の本質的契機, 人倫的な自己存在のあらゆる定在からの絶対的自由を現実に 7 ) 存在させ, 確証するところの精神であり, 形式であった2 . 以上で明らかなように, ヘーゲルの国家共同体なるものは, 家族から教育によって市民社会の 自覚的市民へと発展成長した自主的・個別的自由を, 弁証法的に正しく止揚した綜 合体ではなく て, 民主的に集中された綜合ではなくて, 全体主義的に抑圧された 統一にすぎないことがわかろ i b l i i t う, 彼は国家共同体を論ずるにあたって, 女性 (We ) は 「共同体の永遠なるイロニーで chke ある」 といい, 「好策によって国家統治の普遍的目的を私的目的に変じ, その普遍的活 動を, こ 2 6 ) と評 の特定の個人の仕事に転じ, 国家公共の財産を家族の私有物と装飾品にすりかえるもの」 0 ) 価するのである. かく女性を男性から区別して, 特に 「個別者の無意識的精神3 」 と規定すると ころにも, 彼の考えている共同体の本性が, 民主主義的性格とは無縁であることが理解される. ヘーゲルのいう共同体の一般性は弁証法的なものであるよりは, 形而上的なものにすぎない. も しか りに, それが個別性, 特殊性を止揚した一般性であるにしても, 彼の観念的思考作用 のなか でのものであるにすぎない, 現実には, 経済的に支配している階級の政治的組織である歴史的国 家を, あたかも社会を超えた, 超階級的な普遍的存在であるかのように思い誤らせるものにほか な ら な い.. i l inde) の 存 在 を 認 め て い る が そ れ は 欲 望 そ の 手 ヘ ー ゲ ル の 場 合‐は, 階 層 (d e st , ,. 段, 労働, 満足の仕方, 理論的ならびに実践的教養の種類などの諸体系3り, いわば社会的身分で あって, 一つの社会経済体制を特徴づけている一定の生産関係のなかで同じ地位を占めている人 le び と の 集 団 と して の 階 級(K1 asse)で は な い. だ か ら こ そ, た と え ば 実 体 的 階 層 (der substantiei. 3 2 1エン S t and) は農業的階層であって,それには農民のほかに, 地主や貴族までも含められている. 3 ) 国家は階級対立を抑制 しておく 必要から ゲルスがすでに明らかにしているように3 , , 階級対立 ・ のただなかに生じたものであり, 最も勢力のある, 経済的に支配する階級が, 被抑圧階級を抑圧 し, 搾取するための政治的な手段である. だからこそ, ブル ジョ ア国家は, 内的には搾取される 多数者を従順にしておくこと, 外的には他の国家の領土を拡大 し, または他の国家のがわか らの - 5 -.

(7) . 広. 川. 正. 治. 4 ) 攻撃 に対 して自国の領土を守ることを,その基本的機能とする3 . このための道具が警察であり, 軍隊であり, 裁判所にほかならない. ヘーゲルにとって, 法は特殊性に対する一般性の実現であ d i echt sp日ege) eR り, 適用であるが, 裁判において特にそれが現実的に現われるのであり, 司法( ‐ h n R t ) また個々 ) 産の権利 を保護する ものであった ( e (e c は市民社会の成員の生命や財 p eg n . 人は市民社会の権利に義務 づ けられていると同様に, 市民社会はその成員の人格と所有の絶対的 5 ) 安全を保証 しな すればならず, その権利を擁護 しなければならない3 . その役割を果すものが警 i i d i ) で あ る と 考 え ら れ て い る. か か る ヘ ー ゲ ル の 考 え 方 は, 資 本 主 義 社 会 に お け る 察( ze e Pol 階級対立を無視し, 否定するものといわねばならない. さらに資本主義社会では, 軍隊は国内で は勤労者を抑圧するために, 同様にま た侵略戦争や防衛戦争のために搾取者に 奉仕 しているもの 6 )が, すでにみたようなヘーゲルの戦争肯定論は, 明らかにかかる意味で支配階級に奉仕 である3 し, 国内的階級対立を対外的戦争によって克服するという一石二鳥の政策と して, 戦争を謎歌す る 考 え で あ る.. 以上の考察からして, ヘーゲルの国家共同体なるものが, 決 して民主的集団としての共同体で はなくて, 実は国家主義的な国家であることが明らかになった, とするならば, われわれがは じ dung の主体としての 実体を, ヘーゲルの人倫共同体に期待したのであったが, しかし今 i l めに B となっては, 彼にそれを期待することは結局, われわれもまた国家主義的・軍国主義的教育に荷 担する誤りをおかすことになるであろう. それでは一 体そのくいちがいはどこに求められるであ ろうか. すでに若干ふれたように, 家族-市民社会-国家という人倫共同体の発展過程が, ヘー ゲルの観念的思考のなかで進められたものであって, 現実社会の客観的実践をふまえた共同体の 発展過程ではなかったと ころにあるであろう, ヘー ゲルが教育を精神の自己疎外作用, 単なる意 識や理性をもってしては到底把握しえなかった深き根抵, 真の自己を自覚にもたらす 働き, より 高いもののために現実を否定する 精神の媒介作用としてとらえたことは, まことにすばらしい. そしてまたその作用の主体を個人においてでなく, その根底, 基盤としての人倫共同体としてと ら え た こ と も, ま こ と に 正 しい, だ が し か し, そ の 説 明 は い か に 弁 証 法 的 に う る わ しく み え て も,. それが抽象的な観念のエーテルのなかで行われるものであるかぎり, それをもって, 生きて動い ている現実社会の教育に適用することはできない. もしあえて適用すれば反動教育のそしりを ま ぬかれないであろう, 自己疎外的媒プト作用としての教育の主体を, われわれはヘー ゲルの人倫共 同体にではなくて, マカ レソコ的集団にこそ期待しなければならないであろう. i l i nomeno og e 註 1) Phー ,S ,445, 446. 2) 金子武蔵訳 「精神現象学」 下巻 p,337, 338 の訳者註参照. i logf 1 i 3) PI I nomeno .S.351 , i d 4) “ ) .S .285, 351. b i d.S 5) i .352. ini los。phi 6) Grundl en der Phi e deS Recht s z .膏 1〇, Zusat ・. 7) ibid.葺 187・ bi d 8) i z .葺 173 zusat , b i d 9) i z . .持 151 Zusat b i d 1O) i ・共 175. i d il) ib z .持 20 Zusat . 12) 13) 14) 15) 16). i b i d.賛 187 zusat z ・ i b id ・義 153・ … i Ph nomenol ogi es .320 . i bi d .S .320, 321, i bi d .S .351.. - 6 -.

(8) . ヘー ゲル哲学の教育学的研究 (その 4) b i d 17) i .S .321, 331 . l 18) Phi os。phi e des Recht s ,暮 169 , b id 19) i .S 175. b i d 2O) i .義 181 . id 21) ib z .暮 187 Zusat . l bi d 22) vg ,i .共 239 . 23) 24) 25) 26). i b i d z .S 182 Zusat . i bi d .共 186 . i b id .義 183. Ph i i l nomenolog e .S .340.. b id 27) i .S .341.. 28) 「法の哲学」 によれば, 市民社会の本性である特殊性そのものの理念に従いながら, その内在的利益の なかにある一般者を自己の意志と活動の目的および対象とするときに人倫的なものが内在的なものとし 49 て, 市民社会のうちにかえって来る ( ) のである, それが職業組合といわれるものの本性である, 暮2 i 29) Ph範nomenolog e .S .324. b 30) i id.S .330 . los。phi 3 1 ) Phi e des Recht s .義 2〇1. id b 32) i .套 2〇3, l l i i i 33) F, Bnge lag s: Der Ursprung der Fami e vat e s und des St aat s et z Ver gennml . Di .1953, ,des Pr S 7 1 1 . . l i 34) l i i i j Mat 1 i nayk sSSR tor jr j ch. s cheski er a zm,pod 。bshche edakt ni s ena一 {orrespondent a akade i inoba i F. v. KOns tant tr oroe zdan e bt .192 . ,1954, s ,i. l 35) Phi t e des Recht s osophi z .S 230, 238 Zusa . i i l i 36) l j Mater t t cheski s or a zm,i zd r . 江・1954, s .185.. 2.. l i r ta t) の 意 義 道 徳 (die Mora. 教育は自己疎外的精神として人倫的世界から道徳的世界へと媒介する働きであった, すでに前 節で検討したように, 人倫共 同体の発展方向を確かめることなしに, ただ形式的に教育作用 をと らえることは, 結局また観念論的誤りにおちいることになるであろう. 人倫的世界を方向づ けて い る 道 徳 性 と は い か な る も の で あ ろ う か. l i ta t ヘ ー ゲ ル に よ っ て, 道 徳 性 (Mor ) と い わ れ て い る も の は, 自 己 自 身 を 確 信 せ る 精 神 (der iner se lbst gewi i se sse Ge t ) s. である. それはた だ義務のための義務を履行するという 心 情 で あ i り, ここで個人が把握 しているものは, 抽象的・普遍的なる義務, すなわち 「純粋義務」 ( r e ne. ) 道 徳 性 の 内 容 が 義務 で あ る こ と は ヘ ← ゲ ル の 「哲 学 入 門」 (Phi i P日 i l ) だ け で あ る1 osoph sche cht , Prop蓑deut ik) の 第 一 課 程 の 第 二 節 が 「義 務 論 ま た は 道 徳 論」 (PRi l ) とな chtenl ehr e oder Mora. っていることからも知られるであろう. したがって, 道徳的自己意識は純粋義務をもって絶対実 在として, ただこれによってのみ拘束せられるが, この絶対実在は自己にとって外在的なもので t ) が外的強制であるのに対して, 道徳性 なく, むしろおのれ自身のものなのである. 法 (Re ch は自己が自己自身に対する内的自由であり, 前者が意志発展の外的・否定的・消極的規定である )といわれ, また のに対して, 後者は意志発展の内的・肯定的 (否定の否定) 積極的規定である2 1 「主観的意志の法3 」 といわれる, したがって道徳性の立場は, 意志が単に即目的でなくて, 対 目的無限であるかぎりでの意志の立場であり, 意志の無限な自己内反省の立場であるの, つまり それは抽象性・主観性・そ して個人性にあると考えられる. 道徳性がかかるものである ならば, それは何よりも義務として当為をその根抵とするものであ り, したがってまた存在としての現実との対立をさけることはできない. この二元性の故に, そ la こ に 道 徳 的 な 要 請 (Pos tu t ) が 必 要 に な る. ヘ ー ゲ ル は こ こ で, イ, 道 徳 性 と 自 然 と の,. 具体. 的には道徳性と幸福との調和の要請, ロ, 感性と理性との調和の要請, ハ, 特殊と一般との統一.

(9) . 広. 川. 正. 治. の要請についての べているが, 要請されている調和はい つまでもす べきものにとどまって, 実現 }のである. また道徳的自己は ‐限 せられることのない課題として, 無限の未来においやられる5 定せられている特殊 と して, 一般に対するとき, 完全性としての神聖なる立法者を要請せざるを えなくなるであろう. そうすればいよいよ自己 を不完全性として無限に自己内に反省 してやまな ) い であろう6 . カ ントの当為の道徳それ自身が矛 盾として批判されるゆえんである. 当為と現実 との調和なく しては道徳は保持されない, しかしその調和においてかえって道徳は廃棄されるの である, なぜななら当為は調和がかけているときにのみ存立するからである. 道徳性がかくも不 l l i ung) が 行 e Verste 安定で矛盾しているものであればこそ, 各要請において ごまかしの移行 (d 7 ノ われざるをえないゆえ んである , われわれが今 ここで道徳を問題にするの は, いうまでもなく教育のめざす道徳である. いわば 道徳教育のめざす道 徳にほかならない. カント的な道徳は以上の検討によって明らかなように, 無内容な形式であ る. ヘーゲルにおいてはかかる一面性は真理に反する. 「人間は何らかの倫理 i l t t che) を な す と き, そ れ で も っ て た だ ち に 有 徳 で あ る わ け で は な い. か か る 態 度 的行為 (da sSi で行動することが彼の一定の性格となるにお よんで, 人間はまことに有徳となるのである. 徳と )」 こ こ に は 道 徳 教 育 の 基 本 が 明 ら か に at i i l i t tuos ) で あ る8 i t t r che Vi es はむしろ倫理の熟達 (d . 示されているが, 逆にいうならば, 諸個人のかかる倫理的行為が習慣化されて, 一般的な行為様 i i t t e) が, い ま わ れ わ れ が 問 題 に して い る i se) に な っ た も の (S 式 (d e allgemeine Handlungswe ) 9 道徳教育のめざす 内容と しての 「道徳」 であるであろう .. 始めにもふれたよ うに, 「現象学」 では, 精神は人倫的世界から自己疎外的精神の世界を経て 道徳的世界へと発展する. しかるに 「法の哲学」 では, 精神は法から道徳性を経て, 人倫性へと 発展するの である. 「現象学」 での道徳性は, さきに 吟味した性格のものであるならば, 道徳教 育のめざす 「道徳」 は 「法の哲学」 の人倫性でなければならないであろう. 「人倫性は客観的精 o ) 神の完成であり, 主観的精神と 客観的精神そのものとの真実態であるl ,」 といわれるように, 人倫性のなかには主客両精神を含んでいるものでなければならない. ヘーゲルの精神 は, 発展過 t i l i t t 程の各契機を内に止揚的に包含しているのであった. 道徳教育の道徳を, ヘ←ゲル の Si chke l i i tat (Recht ) と Mora tat とを両契機として内包する と して設定するなら, そのなかには Legal と 考 え て よ い で あ ろ う. i ミ l i ]eno e E I) P1 ・ non og 言 .S .426 . l s e des Recht 2) Phi os。phi .登 94, 1〇4 ・ l i 3) Encyc opad e .義 487. l 4) Phi e des Recht sSI04. osophi i i S 4 2 nenol 5) Ph… no 1 og e . . 8. 6) ibid.S.430, 431. b id. S 7) vgl .i .434~444. l 8) Phi os。phi e des Recht s z ・善 15〇 Zusat ・ l b id 9) vg ・ .i .葺 151 1O) Bncyc e lopadi .共 513 .. 3 道徳と教育の関連 . 道徳教育 前節においてわれわれは, 道徳教育と して, 教育がめざすべき内容としての 「道徳」 は, ヘー i i ゲ ル 的 に は む し ろ 人 倫 性 (S i l i i l i t t t ) の t t t ) で あ っ て, 道 徳 性 は わ れ わ れ の 「道 徳」 (S chke chke. 一契機と して, その内に含まれるべきものであると考えた. ヘーゲルにとって, 道徳教育はどのようなものとして考えられるであろうか. それは一節で批 8 -.

(10) . ヘー ゲル哲学の教育学的研究 (その 4). 判したように, 現実に存在する国家の法を, 理想的な絶対者として若き世代に強制する ことにあ る であ ろ う,. ) 「訓 育」 (Zucht ) と して 批 判 して お い そ う した 教 育 の あ り方 を わ れ わ れ は す で に1. た. これからわれわれが考察する道徳教育は, ヘー ゲルにその基本的な考え方を学 びながらも, どこまでもわれわれのものでなければならない. l i at (以 下 わ れ わ t i i i l t t t ) は そ の 契 機 と し て Mora chke あ ら た め て 論 ず る ま で も な く, 「道 徳」 (S. れはこれを 「道徳」 に対して 「倫理性」 とよぶ) をもっとともに, 諸個人によって, 歴史的に, 社会集団的に倫理的行為がつみ重ねられた結果として一般化され, 固定化されたものと しての法 i i t t t t e といわれる慣習とか法は, いわば人がたがいに通 じあう e) を含ん で い る で あ ろ う, S (S. 「みち」 という性格をもっている. 「みち」 は人と人との交りの地上に刻まれた痕跡である. す でに道になったかぎ り, もはや私個人のものではなく, 公共性をもつ, と同時に一定の地盤への 一 ) 定着性をもつ. それを踏みはずしては 「道に迷って」 目的地に達する ことができない2 , この i t t e の 性 格 と み る こ と が で き よ う. 社 会 が, つ の 性 格 は 矛 盾 す る 両 側 面 で は あ る が, そ の ま ま S. 精神の発展過程として, おのずからなる働きにもせよ, あえてする働きにもせよ, その成員個々 t t e である. 道 人を教育して来た一般的結果と して固定されたものが, 道徳の 「道」 としての Si i 徳 の 「徳」 は, か か る 道 と して の S t t e(法) が人間の徳 (性格) にまで形成されたもの, 道が人 a i l ) である, われわれは教育のめ ざす精神の最高形態 t t 格化されたもの, すなわち倫理性 (Mo r a を, 宗教的な聖なるものを問題外におくかぎり, かかる道徳と考え ざるをえない. そしてそれは ヘーゲルが 「現象学」 で教えているように, 意識の発展過程を (唯物論的換位が必要 であるが) 先行形態と して内含するものであるであろう. かかる道徳が教育のめざす内容である とすれば, l i t a t ) と呼ばれる べきで それを子どもたちのうちに再構成 しようとする場合, 法は適法性 (Lega i i S l i あろう, かくして道徳教育の道徳 ( t [ t ) は内に, イ, 倫理性と, ロ, 適法性とを契機と chke してもつことになろう, これを単的に説明するならば, 倫理性は形式的な当為と して, つねに無 in から So i l 限に Se り, 適法性はそ en へ, よりよくなろうとする働きとして希求性・向上性であ・ i S t である 道徳は適法性が倫理性にな t ) の共同体の法 ( e, すなわち風俗・習慣・秩序への適応性 . るところに成立する, 換言すれば, 社会の成員である個々人が, その社会の生活の仕 方と しての 法に適応することが同時に自己を人格的により高めていく ことになるような, そういう生活態度 そのもの, 生活がよりよくなるための自覚的意識形態, それが道徳である. したがって道徳は普遍妥当なものでありえない. ヘーゲルの弁証法がまことに正しくもわれわ れに教えているように, す べて存在するものは発展するのである. あらためて注意するま でもな いとは思うが, ヘーゲルにあっては, 現実的なものは理念の, 客観的精神の外的発 現であるにす ぎない, 発展の弁証法といっても, それは概念の自己発展でありた. しかし正しくはマルクスが ) すでに批判 しているように3 , 観念的なものは, 人間の頭のなかにおきかえられ, つくりかえ ら れた物質的なものにほかならないのである. 発展する起源は精神にあるのではなくて, 客観的現 実性, 物質, 自然, 社会の実在的生産にあるのである, 道徳は社会における道徳として生成して 来 た も の で あ り,. し た が っ て ま た 生成 して い く も の で あ る。 さ ら に 発 展 す る も の で あ る か ぎ り,. かならずうちにその源泉としての矛盾をもっているということである, 社会は変遷 し, 発展して いく, それはうちに矛盾をもっているからである. 社会が階級に分裂し, 国家が発生する と, 法 が慣習にかわってうまれた. その法も, 国家がそうであったように, 歴史的発展の所産 である. 社会が階級に分裂し, 対立的な利害が発生するやいなや, 慣習はもはや, すべての人びとの行為 を規制することができなくなった. 善と悪, 利と害, 正と不正の概念は階級によってちがうもの - 9 -.

(11) . 広. 川. 正. 治. ) と な る の で あ る4 .. ) ヘーゲルが教育の内容としている自己疎外的精神の世界の対立をみるに5 ,. 善と悪との対立, 国権と財富との対立関係において, 前者は主観的対立であ り, 後者は客観的対立である. これら の諸対立によって表現されているものの根抵が, 実は階級対立であることを把握しておるならば, 高貴も下践,善も悪という相互疎外の関係を, 教育の世界の空無性として信仰の世界に逃避するの ではなくて, 道徳の発展の方向を客観的科学的に見通すことが出来るであろう. 社会が質的に転 化する発展段階においては, 道徳面ではその価値の規準が変っていくのである. ヘーゲルにおい f l i i t ) 自己と同一なるもの, 自己の本質を見い出 ては, 公共の権力のうちに ( ent ch Ma n der 6f ch し, それに対して服従の奉仕と尊敬の感情をいだくもの, 財富のうちにも同様, 自己の本質をみ i lmt i t い出し, それに対 して感謝の義務を負うものが高貴 ( ede g) なのであり, それと反対に不同 i t を み い 出 す も の が 下 賎 (ni eder racht g) な の で あ っ た. し た が っ て 自 己 意 識 が 国 権 と 財 富 と を 内. 面的に結びつける媒介が必要になるが, それが教育なのである. (なおその媒介は, 奉公という 「行 為」 と 頚 辞 と い う 「コ ト バ」 に よ る こ と は 注 意 に 価 す る が, こ こ で は ふ れ な い.) こ れ は 明 ら. かに 「公共」 「普遍」 の名において, 支配権力や資本家に一致するものを 「善・高貴」 とし, 一 致 しないものを 「悪・下賎」 とする ブル ジョ ア道徳, 国家主義道徳の考え方といわざるをえない. 高貴なる意識は, 一方において普遍的威力に自己を奉仕しながら, 他方追従において自己の意志 を放棄しているのである. そ してヘー ゲルはこの意識の真相を, その同一においてよりも, むし ) ろその不同においてみている6 . ここにこの意識が高貴さを失って下賎なる意識となる契機をも つ. この点, 主の真理が奴に移行するのと同様, 階級社会が否定されなければならない道徳的理 由, または社会的正義が示されているともいえるであろう. また高貴なる意識が感謝の念をいだ くにしても, 深刻無比の非道, 屈辱を感じ, 反感を感ずる状態においては, 連続性と一般性とを そなえるいかなるものも, 法則とか, 善とか, 正義とか呼ばれるいかなるものも, あらゆる同 )といわれる, この状態はすなわち階級社 会の分裂矛盾 一, 調和も, 寸断され, 解体されている7 の反映にほかならない. ところがヘーゲルはこの矛盾を, 信仰を通じて, 結局宗教の精神的自覚 の世界, 絶対的精神へ発展するものと考える. 真実の精神とは絶対に分立せる契機の統一である. ヘーゲルは階級的対立の反映 である意識の分裂を, その両極を統一するところに精神をみて, 絶 対的精神への発展を問題にする. 教育の方向もそ こにみるのであるが, これこそ教育的実践を否 定して, 観念論的に宗教的世界への逃避を肯定するものであ る. ヘーゲルが正しくもいうように, その両極の対立は, 行動とコ トバによって, 実践的に統 一さ れるのでなければならない. それが 実践的に統一されなければならないのは, 彼が考えるように, その両極が意識として対立 してい るのでなく, 客観的実在として階級的に対立しているからである. 絶対的に分立せる契機を統一 する方向に発展をみる ことは正しい. しかし, それを真実の精神と考えざるをえないところに, 彼の考え方の 逆立ちしているゆえんがあったのである. 「人間なしの観念, 人間以前の観念, 抽 ) 」 象における観念, 絶対的イ デーと は, 観念論者ヘーゲルの神学的な作りものである8 . 以上の検討に従って, われわれは 一応道徳教育の あり方をまとめておく. 「法」 は倫理性との統一において道徳として把握される場合には, 特に将来への見通しをもっ た発展的性格のものでなけれ ばならない, それは現実社会をふまえつつ, 発展を約束しうる法で なければ 「教育」 の責任を果 しえない. とはいっても, 倫理性において, よりよいという価値を 社会的にどうとらえるか, 社会の 「発展」 を歴史的にどう見通すのか, は改めて問われなければ ならない問題である. その点を保留しつつ, 一応道徳教育が正しいものであるためには, 倫理性 - lo -.

(12) . ヘーゲル哲学の教育学的研究 (その 4) と適法性との間に矛盾のないような集団の組織化 (新たなる 「法」 の育成) がなされなければな ら な い.. かかる道徳教育の考えを現実日本の学校教育に適用するためには , 日本の現実社会を分析する 必要があり, その上で学校における生活面, 学習面の指導, その条件がおさえられ, 道徳教育の 方法が具体的にとらえられるのでなければならない. その点の検討は他の機会にゆずられるであ ろ う. 註 1) 本紀要第lo巻第1号, p 4 5 .21 . ,21 2) 高坂正顕著 「歴史的世界」 附録論文参照.. 3) Marx: Das KaPi l t a . 1. S .18 . i t 4) l i Mat i l i s or cheski ヒ er a zm,i r zd . 1 1954, s .191. 毛 log i 5) Ph三 nomeno e .S .353~376 . 6) ibid. S.366, 367.. 7 ) ibid. S.368. in 8) V.1 t r , Len .214. , Soch. ,s , T,14. 60・8・31 ) (完) (19.

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