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超越論的自我の唯一性と複数性

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Academic year: 2021

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(1)Title. 超越論的自我の唯一性と複数性. Author(s). 千葉, 胤久. Citation. 倫理学年報, 49: 163-177. Issue Date. 2000-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1778. Rights. 日本倫理学会. Hokkaido University of Education.

(2) 163 超越論的自我の唯−性と複数性. 超越論的自我の唯一性と複数性. 晩年のフッサールは、自他を﹁超越論的に共に機能する者﹂とし. 千. 葉. 胤. 確にすることによって、この間いに答えていくことにしよう。. を行なう。第三節では、第一節末において提示される三つの問題へ. 第二節では、﹁唯ごと﹁複数﹂の対立に関する従来の解釈の検討. 久. の解答を試みる。第四節では、第二節で検討したあるひとつの解釈. 笥二節では、超越論的自我の複数性と唯一性の内容を検討する。. ﹁自我﹂はけっして唯ひとりではなく、複数である。しかし、﹁超越. れるべき他者はあくまでも﹁他の超越論的自我﹂である。この場合、. を批判的に検討することを通して、﹁複数の超越論的自我﹂ の意味. て問題にしていくという傾向を見せている。そこにおいて問題にさ. 論的自我﹂はフッサールにとって究極的には﹁絶対的に唯一の自. を確定する。そして、最後の第五節において先に掲げた問いに対す. のではる な、本稿なりの解答を提示することにしたい。. ︵Mit⊥che︶ を自分の外にもつことができるような﹃一個の﹄自我 ︵HuaくⅠ︸S.澄︶. l. ﹃ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学﹄. ︹以下﹃危機﹄と略. 我﹂ではなかっただろうか。﹁他の、あるいは多くの共・自我たち. ︵ミein.二ch︶ などではけっしてない﹂. かったか。﹁超越論的自我は唯一である﹂と規定することと﹁超越. において、﹁双方を保証しながら、しかもいかにしたら、これらを. 論的自我は複数である﹂と見なすことは相容れるのだろうか。ここ. 記︺. においてフッサールは、﹁主観性は相互主観性においてのみそ. 一つの統一的事態として語り出せるか﹂ということが問題となる。. れが現にあるところのもの、すなわち構成的に作動している自我で. ︵1︶. 超越論的自我の唯一性の意味と、超越論的自我の複数性の意味を明.

(3) 164. ある﹂︵HuaくⅠ︸S・Sひ︶と述べている。ここでは、世界を構成す. っても﹂の事物や世界として経験されていることを意味している。. のである。こうし. こうした自然的で人間的な経験のうちには、﹁現象学的に見れば、. ︵Hua舛く︸S.∽讐︶. る超越論的主観性が超越論的相互主観性であり、世界を構成する主. 的含蓄が告知されている﹂. それぞれの超越論的主観における、すべての超越論的主観の超越論. では、超越論的主観性が超越論的相互主観性であるとはどのよう. 観が複数であることが認められているといってよいだろう。. という言葉も同様のこと. ︵MOnat. た議論においてフッサールは超越論的な次元を、複数の超越論的主. 観が共に機能する場として捉えている。﹁モナド共同態﹂. ︵H亡al﹀S﹂ひ00︶. 表現しようとしたものであるということができ、こうして﹁超越論. の関係にあるとd いe うn こg と2mein00Ch已t︶. の関係にあることであり、﹁志. なことなのか。それは、ひと言でいえば、ある主観と他の主観が志 向的に﹁相互内在﹂︵−n2inand2r︶ 向的含蓄﹂ ︵int2ntiOnale︼mp−ik巴iOn︶ である。. 的自我﹂は互いに相手を反映しあう﹁モナド﹂、﹁諸モナド﹂として. においては、心を身 体解 にさ 局れ 在 ていくことになる。このように志向的含蓄とは、あるモナ 理. ﹁エポケⅠに先立つ、世界生の自然的・世界内部的な態度 ︵nat箸−ich・mundan2Einst2ロung︶. ら主観のだれひとりとして、⋮⋮志向的含蓄から逃れることばでき. また、この志向的含蓄ということは、先に引用した文章の﹁これ. がすでに地平的に含まれていることを意味しているのである。. させることによって相互外在︵Au由2r2inand2r︶として捉えド ら的 れ自我の構成する働きのうちに他のモナド的自我の構成する働き ているものも、エポケーによって純粋で志向的な相互内在に転ずる のである。それとともに、世界、つまり端的に存在している世界と、 その世界に含まれる存在する自然とが、全共同的現象︵a−−gemeiヲ. 実的および可能的主観にとっての世界﹄に転ずる。これらの主観の. 越論的自我C、⋮⋮それぞれが相互に含蓄しあう関係なのであり、. とである。志向的含蓄とは、超越論的自我A、超越論的自我B、超. ∽Ch已t−ich2SPh賢Omen︶としての﹃世界﹄、つまり﹃すべての現 ない﹂という個所からもわかるように、どの主観にも当てはまるこ. だれひとりとして、彼をあらかじめそれぞれの主観の地平のうちに. が使用されているにしても、それは任意の. ﹁私﹂と任意の﹁他者﹂. って、この議論の水準では﹁私の自我﹂や﹁他の自我﹂という言葉. でもよいもの﹂、﹁誰もがそれでありうるもの﹂なのである。したが. この議論の水準で問題とされている超越論的自我は、いわば、﹁誰. ︵Huaくー.S.N笠︶。. 引き入れてしまっている志向的含蓄から逃れることはできないので ある﹂. 自然的な経験において、事物や世界は客観的なものとして経験さ れているが、この客観性は、事物や世界が﹁各人にとって・誰にと.

(4) 165 超越論的自我の唯一性と複数性. を意味するということになる。 では次に、﹁唯一の超越論的自我﹂とは何を意味しているのか、. 昧で﹁絶対的に唯一のエゴ﹂. ︵HuaくⅠ︸S一望岩︶. として捉えられな. 絶対的エゴは﹁我と汝の区別﹂を﹁構成するもの﹂であって、構. ければならないのである。. 成された﹁我と汝の区別﹂を越えたものである。このことから、複. を見ていくことにしよう。ここでも、まず﹃危機﹄からその内容を 確認していくことにする。デカルト批判を展開しながらフッサール. ないということになる。絶対的エゴの. いてのみであって、超越論的な次元では複数ということは認められ. 数の自我が認められるのは、被構成態としての人間主観の次元にお. ことがない﹂という意味での. ﹁ましてデカルトに、次のようなことがまったく思い浮かばなか. は次のように述べている。. ったとしても当然であった。すなわち、エポケーにおいて、それ自. の﹄自我などではけっしてない﹂という言葉の意味でもある。絶対. ﹁唯一性﹂とは﹁複数となる. 体で存在するものとして発見されるにいたったエゴは、いまだ、他. 的エゴは﹁唯一性と人称的な語形不変性とをけっして失わず﹂. であり、これが ﹁﹃一個. の、あるいは多くの共1自我たちを自分の外にもつことができるよ. ︵Huaくl﹀S.00サ︶。. る。. −害︶. であり、﹁原・自我. ︵Ur⊥ch︶﹂. 成の究極的に唯一の機能中心としての絶対的エゴ﹂. ︵HuadJ−S﹂0000︶ なので. ︵Huaくl︸S.. ︵−chundUu︶、内と外というような、すべての区別は、絶 ︵耳uaくⅠ︼S.−00望、それゆえ複数となることのない ﹁すべての構. ﹁唯一性﹂. うな﹃一個の﹄自我などではけっしてない、ということである。我 と汝. には蔽い隠されていたのである﹂. 対的エゴのうちではじめて﹃構成﹄されるものだ、ということが彼. この記述からも明らかなように、﹁絶対的エゴ﹂は超越論的に構. 述べたように、それは超越論的相互主観性論における複数の超越論. こうした見解、つまり超越論的な次元においては複数の自我の存. とは区別されねばな. 成する主観を意味する言葉として、さしあたっては理解することが. ﹁人間﹂ ︵超越論的自我の自己客観態︶. 在を認めることはできないということに対しては、本稿のはじめで. しての. できる。構成する主観としてこの絶対的エゴは、構成されたものと. 的自我の存在を否定するものではないのか、という疑問が生じてく. る。また、﹁我と汝の区別﹂を越えているということからは、超越. であるとい. 論的なものに関しては﹁自我﹂という名称は拒否すべきではないか、. らないものである。したがって、絶対的エゴは﹁唯一﹂. によって指摘できる﹁他の人間たち﹂との相違に基づくものではな. う場合、この﹁唯一性﹂は世界内の個々の. という疑問も生じてくる。. ﹁人間﹂としての諸特徴. い。それは、﹁人間﹂という世界内の存在者の唯一性とは異なる意.

(5) 166. さらにまた、ここに、いまひとつの問題点を指摘することができ. これらの問題に答えていくことが本稿の当面の課題であるという. ところのもの﹂とフッサールは見なしているのではないか。. 内容をもっているかを見ていくことする。そして、第三節において、. 解消を目指す従来の解釈をいくつか取り上げて、それらがいかなる. ことになるが、まず次の節においては、唯一性と複数性との矛盾の. る。そのために注目したいのは、こうした﹁絶対的エゴ﹂、﹁絶対的 に唯この自我に関するフッサールの次の言葉である。 ﹁おそらくエポケーを遂行する人間なら誰しも、そのすべての人. における解答が挙げられる。彼は、超越論的自我が﹁唯一﹂である. まず、代表的な解釈として、Ⅹ・ヘルトの﹃生き生きした現在﹄. 2. に対する応答を試みることにしよう。. らc 先h 行︶する 釈の内容も踏まえたうえで、上記の三つの問題 T亡nfungierendeこ 0れ 0I を諸 認解 識し. 間的行為のうちで作動しっつある自らの究極的自我︵sein−2t2t2S︸ トna−−seinem mensch−ic訂n うることであろう﹂ ︵耳uaくⅠ︼S﹂筈︶。. ここでは、﹁絶対的に唯ごとされる﹁究極的自我﹂もまた、誰. ずのものとして把握されている。だとすれば、これもやはり、複数. こととそれが数的に複数であることは矛盾なく相容れると考えてい. もが反省によって自らがそのような自我であることを自覚しうるは. の超越論的自我が﹁誰であってもよいもの﹂であったのと同様に、. る。. ﹁﹃唯一﹄とは、﹃数的に一であること﹄を意味しているのではな. ろのもの﹂ であるということになるのではないだろうか。 の. ある意味で﹁誰であってもよいもの﹂﹁誰もがそれでありうるとこ. これまでのところをまとめるならば、﹁唯一性﹂と﹁複数性﹂. い。換言すれば、それは独裁論的に理解されてはならない。それは、. しかしながら、これらの超越論的自我たちは、それらの﹃私は作動. その唯一性においてけっして第二、第三の自我を排除しはしない。. ﹁絶対的に唯一の自我﹂と﹁超越論的自我の複数性﹂とは. である。それにもかかわらず、それらを数えあげることができるの. する﹄という根源的在り方においては数えあげることができないの. 問題に関しては、さしあたって三つの問題点が見出されてきたとい. ﹁唯lの絶対的エゴ﹂に﹁自我﹂﹁私﹂といった名称を使用. は、それらの相互主観的に経験可能な自己時間化[が行なわれるこ. 数えられえないものと. するのは適当か。. −. と]. によってはじめてそうなのである。. ﹁唯一﹂といいながらも、それを﹁誰もがそれでありうる. 両立しうるのか。. うことができる。 ①. ②. ③.

(6) 167 超越論的自我の唯一性と複数性. 私自身によってそもそもはじめて、︵時間化されて一在ること︶と、. しての私が、つまり唯一の︵究極的に作動する自我︶としての私が、. ︵くOrSein︶﹂. ︵Strαmen︶﹂. 密には﹁流れ﹂. ︵urtロm−ichestehendeGegenwart︶﹂︵Hua舛く﹀S.宗. wart︶﹂. ︵Urge. である。それは時間様態や時間的存在. ︵Hua舛く.S.票﹂︶、﹁原現在. ︵耳ua舛くーS.栗∞︶. ︵くOr・Gegenwart︶﹂. ︵Hua舛く︸S.諾ぃ︶、﹁立ち止まる原初的な先・現在. であり、﹁流れることの絶対的な原初的先存在. ︵StrOm︶を意味しておらず、むしろ﹁流れること. ︵数えあげることのできる在り方︶とを可能にするのであり、まっ. ∴=. たく同じようにして、同じく唯一のすべての他の自我は、この種の ︵可能化の根拠︶なのである﹂ ﹁唯ごのものとしての超越論的自我は﹁時間化すること﹂その. 間様態ではない﹂. 者がそこから構成されてくるものであり、それゆえそれ自体は﹁時. 対的エゴは﹁非時間的﹂なのである︵Hua掃く㌫・誌ご。﹁非時間. ︵ebenda︶。この意味で、絶対的自我ないしは絶. ものであり、自己を時間化し. がって、﹁時間化すること﹂は﹁数えあげることのできる在り方﹂. 的﹂とは、被構成態としての時間的なものからは理解されることの. ︵zeitigen︶、対象化することで、は. じめて自己を﹁数えあげることのできる在り方﹂にもたらす。した. を可能にするものではあっても、それ自体は﹁数えられえないも. ﹁形而上学的な原事実﹂︵Hua国と∴∽.∽票︶とも呼ばれるが、これ. ない﹁絶対的事実﹂、﹁原事実﹂であるということである。これは でもなく、い. の﹂、つまり﹁ひとつである﹂とも﹁ふたつである﹂とも⋮⋮とも いえないものなのである。﹁単数的﹂でも﹁複数的﹂. らの表現は、それ自体はその原本性においては現象学的反省の対象. ︵3︶. わば﹁原単数的﹂であるといってもよい。﹁唯一の自我﹂と﹁複数. ︵an・. ﹁時間化そのもの﹂としての絶対的自我は、絶対的に無名的. となりえないものであるということを意味しており、その意味で. である。. に先立つ. ﹁流れること﹂. ︵=時間化そのもの︶. た現在﹄のヘルトは、﹁唯一性﹂︵空n已gk2it︶. として特. に数的な意味での. って﹁時間化されたもの﹂との差異に訴えることで、﹃生き生きし. 徴づけられることになる。こうした﹁時間化そのもの﹂とそれによ. れたもの︶. 最晩年のフッサールにおいて絶対的自我は、﹁流れ﹂︵=時間化さ. 〇nym︶. の自我﹂とのあいだに、﹁時間化すること﹂それ自体と﹁時間化さ. におけるヘル. 除することによって、唯一性と複数性の矛盾が見かけのものである. れたもの﹂との次元の差を指摘し、﹁唯一性﹂から数的な意味を排. ことを論証しようとするのが、﹃生き生きした現在﹄ トの方針である。. ではない。つまり、. である。﹁原初的な立ち止まる現在. ︵Hua舛く.S.SO︶、﹁時間化されたもの﹂. ﹁唯一﹂の絶対的なものは﹁時間化﹂︵Zeitigung︶そのものであ って. それ自体は ﹁非時間的﹂.

(7) ¢U. 6 1. ﹁一﹂. ︵単数性︶ とは異なる﹁比類のなさ﹂. う意味を見出す。. ︵EトnNigartigkeit︶. ﹁私の立ち止まる現在は、モナドの全体性の内部での任意の機能. とい. 釆﹁自我・私・エゴ﹂という名称はふさわしくない、というべきで. は. ﹁没自我的な流れること. ︵icEOSeS. あろう。この点を踏まえた解釈もすでに存在している。そうした解. 釈は、﹁流れること﹂. Str¢men︶﹂. なのであるから、﹁唯ご の ﹁流. 中心ではなく、代替することも取り換えることもできないものであ. であると主張し、その主張を堅持することによって、﹁唯一﹂と. ︵Hua舛く.S.笛∞︶. る。つまりそれは、私の経験する生全般の比類のない、唯一可能な ﹃根源的地盤 ︵UrbOden︶﹄なのである﹂。. れること﹂に対しては﹁自我・私・エゴ﹂という名称を拒否すべき. ︵4︶. ︵する. こと︶﹂を﹁人称化﹂の根拠と見なす立場に立つ解釈であるという. ﹁複数﹂との対立を解消しようとする。これはまた、﹁時間化. とを意味するのではない。それは、そもそも同類といえるようなも. こともできる。﹁自己時間化﹂されることによって、自我として対. ﹁比類のなさ﹂は多くの同類のなかから際立たされているこ. のが何も居合わせていないということを意味している。このような. 象化されることを﹁モナド化﹂と呼ぶならば、坂本満とともに、次. この. ヘルトの解釈は、﹁唯このもつ意味の多義性に訴えることで、﹁唯. のように言うことができるだろう。﹁原自我のモナド化による複数. イッヒ. 一の超越論的自我﹂と﹁複数の超越論的自我﹂との双方が矛盾なく. エゴ. 両立しうるということを示そうとしたものであるということができ. 初めて、絶対的自我は︽私︾の自我という意味を受けとるのであ. 化とは、人称性を発生させる原現象であり、このモナド化によって. ︵すること︶﹂そのものである原自我・絶対. 的自我は、﹁モナド化する・人称化する﹂機能そのものであって、. る﹂。つまり、﹁時間化. ︵5︶. る。 いま確認してきた﹃生き生きした現在﹄でのヘルトは﹁私の立ち. 止まる現在﹂という言い方にも表われているように、﹁比類のな. モナド化された自我・人称化された自我ではない。したがって、原. のものに、﹁私﹂ないしは﹁自. い﹂ものという意味での. 自我に﹁私の﹂という所有代名詞を付与することは不可能なのであ. ﹁唯ご. 我﹂という名称を与えていた。しかし、﹁時間化そのもの﹂と﹁時. り、それを﹁私﹂と呼ぶことはできないのである。. ではなかったとする議論を展開している者のひとりであるといえる。. 我﹂とフッサールが呼んだものは﹁自我﹂や﹁私﹂と呼ばれるべき. ﹃生き生きした現在﹄以降のヘルト自身も、﹁唯一の超越論的自. 間化されたもの﹂との差異に訴えるのであれば、そして、その差異. ︵くg−.︸Huaくー︸S∵忘芯∵巳ua舛くーS.誌の︶、﹁絶対的に唯. に忠実であろうとするのであれば、フッサール自身が気づいていた ように. 一の自我﹂という言葉でフッサールが指し示そうとした事態には本.

(8) 169 超越論的自我の唯、・性と複数性. であり、これが﹁唯一、絶対的﹂であるとされたわけであるが、ヘ. フッサールにおいては、現象学的還元の﹁還元先﹂は超越論的自我. るのである。超越論的領野とはこの意味で認識の絶対的源泉であり、. まれていた。世界のすべては⋮︰阜こにおいて現象へともたらされ. ざまな事物とともに私や他者たち. ︵可能的他者たちをも含む︶ も含. ルトによれば、この﹁還元先﹂を﹁私・自我﹂と見なすのはフッサ. ︵da︶︶. すなわちすべてなのであった。世界の絶対的︵いま︰﹂こ. ﹁デカルト的自己誤解﹂なのであって、それは﹁自我﹂では. ールの. の経験と言ってもよい。このすべてはそれが唯一のものであること. ︵6︶. ︵9︶. なく﹁現象野︵ph笹ロOmeロ巴es句e−d︶、つまり現出者が現出する. 還元によって獲得される﹁超越論的領野﹂は、すべてが現象する. ことの領分︵BereichdesErscheinensムes由rsc訂ineを nも d示 en し︶ て﹂ いでる﹂。. ある。彼によれば、﹁対象と自我という同一性極の二元性﹂は本来. 場として﹁すべて﹂であり、またそのような場であるがゆえに﹁そ. ︵7︶. 現象野・超越論的領野︶﹂に対して﹁私﹂という人称性を拒否する. を可能にすると 基解 礎釈 的は機 こい うう した 、いずれも、﹁唯一のもの ︵原自我・絶対的自我、. ︵10︶. ph匹コOmen巴つ eま n り﹁すべてであり唯一である超越論的領野﹂なのである。. の﹁還元﹂の方法としての﹁現象学的反省が突き当たる基礎的出来. des. れ以外﹂﹁それの外部﹂が意味をもたない場として﹁唯一のもの﹂、. ︵句rei−eg仁ng. 事ではけっしてない﹂。本来の反省は﹁何よりもまず初めに、所与 の仕方という現象野の露呈. F巴desderGegebenheitsweisen︶. 能をもっている﹂ものなのである。ここでは、﹁唯一の超越論的自. こと、つまり﹁私﹂という名称を与えることを拒否することによっ. ︵8︶. 我﹂と呼ばれてきたものが、﹁現象野﹂という非自我的なものとし. て﹁唯一にして複数﹂という矛盾をさけようとする議論であるとい える。. フッサールが﹁唯一の絶対的自我﹂と呼んだものは、時間化され. 3. て理解し直されるべきであることが見てとられている。. また、こうしたヘルトの解釈と方向を同じくしつつも、ある意味 でより徹底したかたちで議論を展開しているのが斎藤慶典である。. の名を拒否し、それを. 彼は、﹁還元﹂によって獲得されるものをフッサールが﹁超越論的 自我﹂と呼んだことを批判して、﹁自我﹂. 間化されたものの次元にのみあてはまる﹁単数と複数の区別﹂を越. たものを構成する﹁時間化すること﹂そのものであり、それゆえ時. ﹁還元によって獲得された超越論的領野⋮⋮は、そこにおいて世. えた﹁原単数的なもの﹂として理解されるべきものであった。だと. ﹁超越論的領野﹂と呼ぶ。. 界のすべてが現象する絶対の認識源泉であった。⋮⋮そこにはさま.

(9) 170. とセットになって成立する﹁私﹂という概念や、複数であることを. すれば、こうした﹁唯一のもの﹂に対しては、﹁他者﹂という概念. るということを意味する。したがって、究極的自我・絶対的自我は. 究極的自我であるということば、そうした究極的自我が複数存在す. まう。各人が究極的自我をもっているということ、あるいは各人が. 各自の究極的自我、絶対的自我をもっているということになってし. ﹁唯ごではないということになり、﹁究極的自我﹂と呼ばれたもの. 予想せざるをえない﹁私﹂や﹁自我﹂という名称はふさわしくない. して考察を展開していくことにしたい。. というべきであろう。したがって、本稿のわれわれもこの理解に即. への応答を試みるならば、そこではどのような解答が得られるであ. という名称が拒否されるべきであるとすれば、事情は異なってくる。. しかし、﹁究極的自我﹂と呼ばれていたものに対しては、﹁自我﹂. を﹁唯ごのものと規定することば不可能であるということになる。. ろうか。まず、最も明確な答えを提示することができるのは、②の. それは﹁私﹂でも﹁他者﹂でもない、絶対的に無名的な﹁流れるこ. では、この理解にしたがって、先の第一節末に掲げた三つの問題. 問題、つまり﹁唯一の絶対的エゴ﹂に﹁自我﹂や﹁私﹂といった名. できないものなのである。したがって、﹁作動しっつある究極的自. 我﹂と呼ばれたもの、それは﹁唯こではあるにしても、﹁唯一の. と﹂であった。つまり、それは﹁誰かがそれである﹂ということの. いに関してはどうだろうか。﹁唯一の絶対的自我﹂を非自我的なも. 私﹂を意味するのではない。もし、それが各自がそれぞれにもつ何. 称を使用するのは適当か、という問題である。この間いに対しては、. のと見なす立場に立ちつつ、まず、③の問題、つまり、﹁唯一﹂と. それを﹁唯一﹂と形容することば明らかな矛盾である。しかし、. かであるならば、そのときにはそれは複数存在するものであって、. 端的に﹁適当ではない﹂と答えることができる。それでは、他の問. フッサールは見なしているのではないか、という問題について考察. ﹁誰であってもよいもの﹂なのではなく、むしろそれは絶対的に無. つものでもない。それは﹁誰もがそれでありうるところのもの﹂. のもの﹂は、﹁私﹂でも﹁他者﹂でもないし、各自がそれぞれにも. ﹁唯ごと形容されるべき﹁流れること﹂としての﹁究極的作動そ. はいいながらも、それを﹁誰もがそれでありうるところのもの﹂と. を加えていくことにしよう。 この問題に関しては、次のようなことをいうことができるだろう。. べての人間的行為のうちで作動しっつある自らの究極的自我を認識. たしかに、﹁おそらくエポケーを遂行する人間なら誰しも、そのす. の﹂なのであり、﹁誰かではありえないもの﹂なのである。. 名的なものとして﹁誰かがそれであるとは言うことのできないも であることになり、各人が. しうる﹂という表現に文字どおりに従うならば、﹁唯一の自我﹂は ﹁誰もがそれでありうるところのもの﹂.

(10) 171 超越論的自我の唯一性と複数性. あるいは、﹁究極的作動そのもの﹂とは﹁流れること﹂なのであ. 的な次元を非自我的なものと見なし、さらに﹁自我﹂を超越論的次. を提出しているのは、斎藤の解釈である。彼は、﹁唯一の﹂超越論. 元から峻別される﹁経験的主観としての自我・世界内の存在者とし. るから、それに対しては﹁⋮⋮もの﹂よりは﹁⋮⋮こと﹂という表. と﹂ということができる。ただし、この﹁関与﹂ということには、. を徹底すれば、超越論的次元における自他の問題は疑似問題である. うこと自体がそもそも問題とはなりえないのである。こうした立場. ﹁超越論的自. ての自我﹂に限定することによって、フッサールの. ︵が認識しう. る︶﹂ということに対応した表現が必要であるかもしれない。こう. ものが否定されており、したがって﹁超越論的自我の複数性﹂とい. 我﹂を解体していく。彼の解釈においては、﹁超越論的自我﹂その. 現のほうが適切であるかもしれない。また、﹁誰しも. した点を考慮して表現するならば、それは﹁誰もがそれに関与して. 自我が何らかのかたちで﹁影響力を行使しうる﹂という意味はまっ. 一の﹂︶領野が認められるのみであって、自他の区別を前提とした. ということになる。つまり、超越論的な場面では自他未分の. あずか. いるところのこと﹂ないしは﹁誰もがそれに与っているところのこ. たく含まれていない。この﹁関与﹂は、自我がその影響力を行使し. ルトの言葉を借りれば、﹁滑り去るにまかせる﹂. ﹁共に構成する者としての他者﹂という議論はそもそも不要なもの. ︵﹁唯. えないなかでの関わり方として理解される必要がある。それは、ヘ. だが、斎藤の解釈においては、﹁私﹂あるいは﹁他者﹂と呼びう. であるということになる。彼は、①の問題を問題として消去すると. ほかほな. ︵entg−2旨n−as・ ・トリ. ︵hinnehm2n︶. sen︶ と呼ぶことができるような﹁関わり方﹂なのである。﹁流れ. つつ、それを受け入れ、﹁甘受する﹂. いう仕方で、①の問題に答えを出しているということができる。. せ﹂. ること﹂に対して自我はまったく無力であり、﹁滑り去るにまか. という言葉を使えば、. るものは、﹁世界内の存在者﹂、﹁経験的自我・他者﹂だけであると. ︵12︶. ︵HinaFme︶. る自我﹂がそのような理解からは排除されてしまうのではないだろ. いからである。この ﹁甘受﹂. うか。構成に関与しているものとしての自我と、構成するのではな. されているが、この捉え方には若干の疑問が残る。たとえば、先に. では、①の問題、つまり、﹁超越論的自我の唯一性﹂と、相互主. い被構成態としての自我︵経験的主観としての自我︶とのあいだに. われわれが提示した③の問題への応答に垣間見える﹁構成に関与す. 観性論において予想される﹁超越論的自我の複数性﹂とは両立しう. 差異は認められないのだろうか。. ﹁流れること﹂は﹁誰もがそれを甘受しているところのこと﹂と表. るのか、という問塩に関してはどのように答えることができるだろ. 現できるような﹁こと﹂なのである。. うか。第二節において確認した従来の解釈のなかで最も明解な解答.

(11) 172. 4. まず、斎藤の議論においては、なぜ﹁私﹂﹁他者﹂という名は世. スペクティヴの多様性という事態である。そして、ここに見出され. る﹁私にとって﹂﹁他者たちにとって﹂における﹁私﹂﹁他者﹂とは. 何か、ということに注目したい。このとき、われわれは次のように. 界内部的存在者・経験的主観性に適用しうるのみであるとされるの. ﹁他者﹂は﹁超越論的領野における構成に関与する者﹂と位置づけ. 言うことができるように思われる。すなわち、この意味での ﹁私﹂. の超越論的領野において存在するものだからである﹂。. 以下で見ていくことにしたい。. ことを許す根拠になっている。このように言うことのできる理由を. が﹁超越論的な次元﹂に対して﹁私﹂﹁他者﹂という名を使用する. ることができるものであり、パースペクティヴの多様性ということ. か、その理由を確認しておこう。 ﹁=⋮・超越論的領野自体は私でも他者でもないし、さらには世界. 、H■. そのものでもない⋮⋮。私や他者たちや、総じて世界のすべてはこ. ﹁私﹂﹁他者﹂は現象する存在者であるのに対して、そうした何も. たしかに、超越論的領野そのものに関しては、それは絶対的に無. であるから、それを﹁私﹂﹁他者﹂の名で呼ぶことは不適切である。. 名的なものであり、﹁私﹂とも﹁他者﹂とも呼ぶことばできないの. のかが現象する場ではあってもそれ自体は現象するものではない. ﹁超越論的領野﹂には﹁私﹂﹁他者﹂の名は不適切であるというわけ. ﹁超越論的領野﹂はそれら存在者とは次元を異にする。その意味で. 関する主張、つまり世界や世界内の存在者を構成する究極的な場と. である。たしかにこれは、フッサール自身の. 的領野に関わってしまっている者・関わらざるをえない者﹂に関し. 者﹂の名を拒否する理由であるにしても、それだけでは、﹁超越論. しかし、このことは、超越論的領野そのものに関して﹁私﹂﹁他 に. しての超越論的主観性それ自体は世界内の存在者ではありえないと. ても﹁私﹂﹁他者﹂の名を拒否するべきだとする理由にはならない. ﹁超越論的主観性﹂. いう主張を、より徹底したものであるということができる。. とはできないのであろうか、ということである。ここで思い起こさ. したいのは、いかなる意味においても﹁超越論的自我﹂を認めるこ. ことそれ自体を﹁推進する﹂権能を﹁私﹂﹁他者﹂はもたず、その. ﹁他者﹂とはまったく無関係に生起していることであり、現出する. また、現出すること・現象することそれ自体はたしかに ﹁私﹂. であろう。. れるべきは、私にとって世界はある仕方で現出・現象し、他者たち. 点に関しては無力であるということは認めるべきであろう。だが、. しかし、このような点を認めながらも、なおもわれわれが問題と. にとっては別様の仕方で現出・現象するという、各人におけるパー.

(12) 173 超越論的自我の唯一性と複数樵. とになってしまう。パースペクティヴ的に現出するという点に関し. ことだけでは、世界はいわば﹁のっペらぼうに﹂現出するというこ. るだけになってしまう。そして、﹁すべてが現象している﹂という. のときには、﹁超越論的領野﹂に﹁すべてが現象している﹂といえ. ﹁構成﹂に関与する﹁私﹂﹁他者﹂が認められないとするならば、そ. 性から独立に存在する﹁実体﹂であるということになるからである。. はなく、端的にかつ実在的に存在するもの、つまり、自我との関連. る主観性に対して現出するということがなければ、それは現出者で. 言うように、もし現出者. 能性の条件を成しているということである。というのは、小川侃も. ︵すること︶﹂にとってある意味で本質的な契機なのであり、その可. が﹁私﹂ないしはあ. ては、﹁私﹂﹁他者﹂が何らかの仕方で関与しているということが同. ︵Erscheinendes︶. 時に認められねばならないのである。. ﹁ものが現出し、現出性を保持するのは、その現われを見張る私の じ仙内 閲与性がそこに機能しているからである﹂。また、﹁﹃私﹄という中. この点に関しては斎藤も、多様なパースペクティヴのひとつが. ム的な﹃現出者﹄. 心によって、パースペクティヴ的な多様な﹃現出﹄が、キュービズ. へと収赦させられる﹂のであり、このようにして. ︵18︶. ﹁私﹂であり、さらに﹁パースペクティヴなしの、いわばのっペら ︵14︶. ぼうの世界現出などありえないことも言うまでもない﹂と認めてい. 出﹂であり、﹁超越論的領野における世界現出は初めから世界内の. 観としての︶ にとっての特定の. ﹁構成﹂に本質的に関与するものであるということを考慮に入れる. て認められるべきであろう。そしてこのとき、その﹁私・自我﹂が. ぶならば、その﹁構成﹂にとって﹁私・自我﹂は本質的な成分とし. 多様な現出を通してひとつの現出者を志向することを﹁構成﹂と呼. 私と他者たちにとっての相互主観的なものとして構成されている﹂. ならば、この意味での﹁私・自我﹂を﹁超越論的自我﹂と呼ぶこと. る。しかし、彼にとって﹁世界現出﹂は、﹁私︵世界内の経験的主. ものなのである。このように、それにとって世界がパースぺクティ. は、それはど不当なこととはいえないだろう。いずれにしても、こ. ︵パースペクティヴ的な︶世界現. ヴ的に現出する﹁私と他者たち﹂、つまり﹁パースペクティヴの原. の意味での﹁私﹂を、ただ単に﹁世界内に存在者として構成された. ︵15︶. 点﹂と形容できるような﹁私と他者たち﹂もまた、斎藤においては. もの﹂という意味での﹁経験的なもの﹂として理解するだけでは不. ︵16︶. ﹁世界内の経験的主観﹂と位置づけられるべきものなのであるが、. 充分であるということはできるだろう。. てのパースペクティヴの問題、視点の問題であった。世界がパース. ﹁構成に関与する私・他者﹂の問題は、現出の可能性の条件とし. このような理解はどこまで維持することができるのであろうか。 ここでまず注意すべきことば、この意味での﹁私と他者たち﹂は、. ただ単に﹁現出︵すること︶﹂に関与しているのではなく、﹁現出.

(13) 零点に位置するのは身体である。したがって、﹁構成に関与する. ペクティヴの原点ないしは視点は﹁方位づけの零点﹂であり、その. ペクティヴ的に現出する仕方に関与する﹁私・他者﹂、視点として 4 17 の﹁私・他者﹂が﹁構成に関与する私・他者﹂なのである。パース. るということになる。. 論的自我の複数性とはパースペクティプの原点の複数性のことであ. 自我がパースペクティヴの原点としての﹁私﹂であるならば、超越. が使用される場合である、ということができる。そして、超越論的. ものとしての身体的・キネステーゼ的な﹁私﹂という意味でその語. ﹁パースペクティヴをもった仕方で現出すること﹂に関わっている. 私・他者﹂は身体的な﹁私・他者﹂であるということになる。ここ. か。﹁超越論的自我﹂それ自体を否定することによって、超越論的. 数性﹂の対立の問題はどのように解消されることになるのであろう. では、そのように﹁複数性﹂を捉えることによって﹁唯一性と複. にも、﹁パースぺクティヴの原点﹂をただ﹁世界内に存在する私と. とができる。. 他者たち﹂としてのみ理解するわけにはいかない理由を見てとるこ. というのは、﹁自己自身の身体の運動はすべてのあらゆるものの. 舛rm.N謡︶と言われるように、身体のキネステーゼ的能力性が世. たい。そこでは、﹁超越論的自我﹂を﹁構成する主観﹂としてでは. れわれは、第三節において提示した③の問題への解答を思い起こし. ようとする解決策は、われわれの採りうるものではない。ここでわ. 現出の仕方に革命的な変革をもたらす︵r2言−utiOnieren︶﹂︵Huaな次元の唯一性と超越論的自我の複数性との対立の問題性を解消し. 界のパースペクティヴ的な現出の仕方を動機づけているということ. なく、﹁構成に与るもの﹂として捉え直すべきであることが示唆さ. れていた。このように﹁超越論的自我﹂を捉え返すことによって、. あすか. ができるからである。もちろん、身体は一方では世界の内に見出さ. ースペクティヴ的な世界現出の条件でもある。この点に、身体は. か、この点を最後に見ていくことにしよう。. 唯一性と複数性との対立がいかなる仕方で解消されることになるの. れるものである。しかし、同時にそれは﹁絶対的なここ﹂としてパ. ﹁超越論的なもの﹂として理解されるべきなのであって、単に﹁世. んできたものに、三つの相を見出してきたということができる。世. 本稿においてわれわれは、﹁自我﹂という言葉でフッサールが呼. 5. 界内の存在者﹂として理解されるだけでは不充分である、といえる 理由がある。世界に内属しない﹁零点﹂ということが﹁身体として の自我﹂に見出されるがゆえに、﹁自我﹂を﹁世界内に存在する 私﹂に限定するわけにはいかないのである。 ﹁超越論的自我﹂という概念が意味をもつとするならば、それは.

(14) 175 超越論的自我の唯一件と複数性. 界内の存在者としての自我︵経験的自我︶、パースペクティヴの原. 理由があった。言い換えれば、経験的自我がもっぱら﹁視像﹂側に. のなかには現われない ﹁零点﹂. 位置する者であるのに対して、パースペクティヴの原点としての自. ﹁自. であり、﹁視像﹂. 点としての自我、そして時間化そのもの・流れることとしての. ﹁視点﹂. 我は. であるという点に差異が認められるの. 我﹂、この三相である。これら三者の関係は、﹁現出者・現出・現出. S.謡声︶. すること﹂ ︵Erscheiコendes・Er芳Feinung・Erschei ︵n くe gn −︶ ・↓と Hい uう aH−V. である。このようにそれぞれのあいだには明確な差異があり、これ. 現. 三項の関係に即して、つまり﹁現出者が現出を通して. らを混同することば許されない。. ︵durch︶. 出する﹂というひとつの事態に即して整理していくことができる。. としての自我であり、これは﹁現出を体験する自我﹂と呼ぶことも. スペクティヴの原点としての自我、﹁絶対的ここ﹂に位置する身休. として現出する自我である。次に、現出の次元に位置するのはパー. て﹁私﹂に﹁現出する﹂者にはかならず、﹁現出﹂は﹁現出者の現. ことほ忘れられてはならない。﹁現出者﹂はつねに﹁現出﹂を介し. の事態に見出される三つの契機として不可分のものでもあるという. これら三者は共に﹁現出者が現出を通して現出する﹂というひとつ. だが、このようにそれぞれのあいだに差異が認められるにしても、. できるものである。そして最後に、﹁現出すること﹂そのものの次. 出﹂にほかならないからである。そして、﹁現出すること﹂もつね. 現出者の次元に位置するのは、﹁世界内の存在者・経験的主観﹂. 元、﹁流れること﹂の次元を言い表わそうとしていたのが﹁唯一の. に﹁現出者﹂が﹁現出﹂を介して﹁私﹂に﹁現出すること﹂以外の. 何ものでもないからである。. 絶対的自我﹂という語であった。 現出者が現出すること、この﹁現出すること﹂そのものは﹁私﹂. は無名的である。しかし、﹁現出者﹂は単に﹁現出する﹂のではな. と﹂であるといってもよい。その意味で﹁現出すること﹂それ自体. 主体なのでもない。﹁現出すること﹂とは﹁おのずから現出するこ. を﹁複数的なモナド的自我﹂が体験することを介して、﹁自我﹂に. であるが、この﹁︵現出者が︶. ﹁流れること﹂﹁時間化すること﹂は﹁︵現出者が︶. 解答を見出すことができる。﹁唯一の超越論的自我﹂と呼ばれた. ここに、われわれは本稿の冒頭に掲げた問いへのわれわれなりの. く、﹁現出﹂を通して﹁私﹂に﹁現出する﹂。ここに、パースぺクテ. 対してパースペクティヴ的に﹁現出する﹂という仕方で遂行されて. や﹁他者﹂が可能にしているのでもなければ、﹁われわれ﹂がその. ィヴの原点としての﹁私・他者﹂を超越論的次元から排除すること. いるのである。このように見てくるならば、﹁唯一の超越論的自. 現出すること﹂は、つねに﹁現出﹂. 現出すること﹂. ばできず、それゆえそれを経験的自我と同一視することができない.

(15) 我﹂と呼ばれたことと﹁複数の超越論的自我﹂との両者は、ともに 6 17 ﹁現出者が現出を通して現出する﹂というひとつの統一的事態のう. 注. *﹃フッサール著作集﹂︵和己驚r課員︶からの引用は、本文中丸括弧内に、. .虚uaヨという略記号に巻数を表わすローマ数字と頁数を表わすアラビア. 数字を付して表記した。なお、邦訳のあるものに関しては、邦訳を参照さ せていただいたが、訳語統一等の都合により、訳文は必ずしも邦訳どおり. ちに含まれる不可欠の契機であるということができる。このとき、 この両者は相互に排除しあうという意味での対立関係にはないばか. すること・現出することに与る複数の自我﹂という意味で理解され. 戸出乳㌣ト各e已札内n童3∈Pユ︹以下LGと略記︺、UenHaag“. ]内は邦訳者による補足。. ︶は邦訳者が読みやすさのために付したもの。なお、訳文は若干. ﹁原単数﹂ということに関しては、谷徹﹁臆故郷と異他世界﹂︵新田. ︵4︶. He−d,﹁G▼S﹂巴・邦訳∵二↓丘。. 声He声三Ph瞥OmenO−OgiederZeit呂ChHusser−. 坂本前掲論文、一.門四頁。ルビも坂本によるもの。. H已d﹀PN▼S﹂00り.邦訳二百。. He−d.PZ−S﹂箋・邦訳六頁。. 重して引用してある。以下同様。. ︵フッサ⋮ルに拠. る︶時間の現象学L﹃理想帖第五七.号、∴点。なお、訳文は若†変. S﹂∞翠小川侃・梅原賢一郎訳﹁フッサール以降の. と略記︺、in‖慧ぷ冨荘忌ヲ計こざぎ眉昔ぎG2rStenberg﹂器−︸. ︵6︶. ︵5︶. こでは﹁原故郷﹂の原単数性﹂が指摘されている。. 義弘編﹃他者の現象学Ⅱ﹄北斗出版、所収︶、三二七頁以下参府。そ. ︵3︶. 変更して引川してある。以下同様。. ︵. きした現在﹄、北斗出版、一二い二頁。[. MaユーnusNijhOffL浣の↓S﹂空こ新m・小川・谷・斎藤訳﹃生き生. ︵2︶. 編﹃他者の現象学﹄北斗出版、所収︶、∴門五頁。. 坂本満﹁超越論的相互主観性と他者の問題﹂︵新田義弘∴千野員人. とはなっていない。訳者諸氏のご寛恕を乞いたい。. ︵19︶. ︵l︶. りではなく、むしろ双方ともに互いに対して欠くことのできない相 互補完的な関係にあるものとして理解されるべきであろう。この両. に統一的に理解することが可能なものなのであり、それゆえ、両者. 者は、両者のあいだの差異を差異として保持したままで、このよう. のあいだに矛盾対立の関係が存在するように見えたのは単なる仮象. もちろんこのとき、﹁唯一の超越論的自我﹂という表記は不適切. にすぎなかったのである。. であって、それは﹁唯一の流れること﹂としての﹁唯一の現出する こと﹂として理解されねばならない。また、﹁複数の超越論的自. あずか. 我﹂も﹁超越︵現出考を構成する複数の自我﹂ではなく、﹁構成. ねばならない。唯一性と複数性との﹁対立﹂を解消し、両者を統一 的に理解するためには、フッサール現象学における﹁超越論的自 我﹂概念に対して、このような﹁解体﹂と﹁再編﹂が必要だったの である。. ︵8︶. ︵7︶.

(16) 177 超越論的R我の唯・性と複数性. へP︸. 点藤慶典﹁他者の現象学の展開﹂. ︵岩波講座現代思想6﹃現象学運. 動﹄山石政吉店、所収︶、一五五頁。丸括弧も傍点も斎藤による。 ∴川︼ 斎藤前掲論文、同貢。. ﹁甘受に関しては、くg−.︼He︼d︸LG−S.−宗.邦訳一∵﹂七貞以下. 用いた表現である。くg−二He−d﹀LG一S.誌.邦訳川門古参照。. へ〓﹂ 滑り去るにまかせる﹂は、ヘルトが﹁原受動的﹂な次元に対して. 閑暇M. 斎藤前掲論文、一正一員以下。. 参照。 ︵13︶. 内も斎藤による記述。. 斎藤前掲論文、一五七月。︵. 斎藤前掲論文、註 ︵33︶、一七八頁。. ︵新田義弘・常俊宗一一▲郎・水野和久偏﹃現象. ︶. ︵15︶. 小川侃経験の基礎﹂. 斎藤前掲論文、同点。. ︵14︶. ︵16︶. ここでは、﹁構成すること﹂は、フッサールがしばしばそう表現し. 谷徹﹃意識の自然﹄勃草書房、三九〇貢。. 学の現在﹄世界思想社、所収︶、七八頁。. lH、. ︵18︶. ︵19︶. ︵=構成するt観︶. 自身である。それゆえ、われわれの認める1超越. のユ語. たように、=sicざkOn竺ituieren−﹀として、それも文字通りに理解され. は、超越 ︵現出者︶. るべきであろう。この場合、構成するL. ︵ちば. たねひさ・東北大学︶. ︵f賢︶構成するところの自我﹂であるということになる。. 論的自我﹂ほ﹁超越論的主観﹂ではなく、﹁超越が自らをそれに対し て.

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