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身体論のためのメモランダ

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Academic year: 2021

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(1)身体論のためのメモランダ 下城 一 ――. Memoranda zur Körperlehre ――. 現代哲学、倫理学において、いまなぜ身体が改めて問題とされねばならないのだろうか。 ひとつの理由として、西欧近代哲学が、能動的意志を中核とする、意識哲学をメインに展開されてきた ことが考えられる。 意識の規定に際し、初めからその能動的側面にのみ定位し、身体とは本質的に独立の精神的主体として それを設定してきたために(視覚モデル、主客二元分離図式)、そもそも能動-受動関係の成立自体も含め、 意識の経験それ自体が生起する場である「身体」という起源の現象系を、正規に捉えられてこなかったと いう事情がそこにはある1。 一方、「触れる=触れられる」「見る=見られる」等、能動と受動とが渾然一体で不可分である身体現象の 実相は、近代であっても て. ――. ――. 哲学プロパーでは現象学的に、自分で自分の掌を握り合う例などを通じ. 繰り返し指摘されてきただけでなく、現代の生命倫理学をはじめとする種々の臨床現場でも日. 常不断に再確認されてきている。 とりもなおさずそれは、現代哲学に、なお、身体把握における認識論的な図式の再検討の必要. ――. 即. ち、独立自在の意識が対象的実体的身体を意志的に統御するとする「意志的主体-客体的身体」図式の再 検討の必要. ――. を迫る意味を持つだけでなく、翻ってまた、近代身体論が依拠してきた、原子論的・. 力学的世界観図式の見直しの必要までを要求するものであり、のみならず、近代社会全体が倫理的な根本 図式としてきた帰責図式. ――. 行為の責任を個人の意志に因果論的に帰着可能とする. ――. の再検討. をも求めるものである。 本稿は、意識上の主体的意志によって身体的行為が発動されるという近代行為論図式の批判的検討を基 に、現代倫理学において身体の問題を取り上げる際に踏まえるべき認識論的前提の再検討 け身体論と密接なかかわりのある意識論の再検討. ――. ――. とりわ. を行い、それを踏まえて今一度、認識論的図式. の制約のために見落とされてきた身体的諸感覚の事実の確認に立ち返って、現代哲学・倫理学における身 体論の今日的位置を見定める一助となることを目指す。. 第一節 意識現象の実際と身体 意識における主体的意志が身体を駆動して行為を発動するという、現代、身体行為に関して常識的とな っている一般的理解は、しかし、哲学的に見れば、多くの解明の余地を残す図式的前提の上に立脚してお り、近代社会における責任の帰属を基礎付ける帰責図式の前提としても、余りに独断的と言う以外ない。 そもそも行為論を十全に展開するために不可欠な前提である身体論の展開が. ――. 身体が、近代の主. 観-客観図式上で、精神的意識主体と物質的対象世界の境界に位置する境界的存在とされてきたことと相 俟って. ――. 十分といえない状況にあるのが実情である。. 加えて、「身体」について哲学的に論じる際に不可欠である「意識」を巡る議論の状況もまた、まだ余り に図式的、部分的、断片的、というしかない2。 例えば、意識とは何か、という基本的理解からして、近代自然科学的に未だ未確定であり、実際問題と しても、医療現場における意識という語の使用は、応答による意識の有無の確認という常識的レベルにと どまっているとされる3。経験的には日常化している麻酔による意識の消失と回復も、まだ脳生理学的には その身体機構上のメカニズムさえ未解明であり、進展著しい脳科学の分野にあっても、意識の問題は、「ク.

(2) 2. 下城. 一. オリア」の問題等として、なお、手付かずの状態にあるといってよい4。 最新の脳科学的諸問題も含め、意識と身体の関係を巡る臨床現場における種々の問題を抜本的に解決す るには、しかし、改めて近代の認識論的対象把握図式に遡り、それに依拠している近代的な意識観・主体 観・身体観総体の哲学的・根本的転換が必要であるように見受けられる。 そのことを明らかにするために、臨床現場で観察される身体的経験、並びに意識現象が、本質的=認識 図式的に近代の身体理解、意識観と齟齬する点を、以下、追って摘録していくこととしたい。 常識的理解としては通例、覚醒状態にある意識を、視覚モデルでイメージすることが一般的だが、それ はまた、とりもなおさず近代の意識に対する哲学的理解でもある。 だが、周知の通り、例えば、医療実践の現場で用いられている「意識がある」という語の意味するとこ ろを考えても、それは呼びかけに対して応答がある、との意味であり、呼びかけを感受する意識としては、 眼を開いたか否か(視覚的パースペクティヴの起動)に関わらず、聴覚、触覚等、視覚以外の感受能力で あれ、反射以上の応答に結び付けば、意識とみなされ得るのが実情である。 であれば、意識モデルとして視覚的パースペクティヴを立てるだけでは意識の実際を説明するのに不足 であり、視覚野を中心としてそこに聴覚、嗅覚、味覚、触覚、身体感覚、情動等、諸感覚を組み込み、さ らにそこに言語活動や想起、意識の粗密にともなうリアリティー感覚の問題といった意識構造、意識活動 のレベル、更には意識下の構造、時間意識等、を十全に組み込んでおくことが必要であることは言をまた ない。 また、「聞こえてはいたが、応える術を持っていなかった」と一般に言われるような周知の事実からは、 通常の意識体制に、実際には応答する身体を相即に含めて考えるべきことの示唆を読み取ることができる。 つまり、意識はあるが応答する術がないという事態(内的意識)を広く認めていくことは5. ――. むしろ、. 視覚的意識の成立を以って、意識の純粋態、非身体的・精神的本質であると想定してきた従来の身体的契 機抜きの視覚的パースペクティヴ・モデルの意識観に対し、それでは意識の欠如態に過ぎず、意識観それ 自体の根本的な修正が必要であることを迫るものとして. ――. 本質的な問題を、臨床現場から哲学的意. 6. 識論の側に投げかけているものと言えよう 。 視覚野を意識のモデルとする意識観を更に純化して、近代の意識観・認識主体観が構成されたとき、視 覚像としては現れないながら、本来、意識野に組み入れられていなければならなかった身体的契機のこと ごとくが欠落したということができる。 現代の臨床的知見、並びにそれに基づく生命倫理学・臨床哲学が指摘する身体を巡る種々の知見が示唆 するものは、意識を視覚モデルで代表してきた従来の意識観において欠落してきたこの諸々の身体的契機 を巡る感覚の存在であり、本来そこに相即に組み込まれてあるべきであったその欠落である。 そうであるとき、しかし、そのように意識の実相を、相即の身体的契機も含めて改めて十全に勘案しよ うとする際には. ――. 視覚的パースペクティヴからの静態的身体把握とは異なり. ――. 意識=身体相. 即の運動相における意識総体の把握からの再出発を要することとなり、更にそこに時間意識を組み込んで の構造的把握が必要になる点において、事態は一層錯綜することとなる。 そうした認識論的再検討の必要を示唆する具体的事例の一つとして、進展著しい脳科学の知見にあって、 意識と脳神経系との関係. ――. すなわち、近代の哲学的カテゴリーに基づく分類に従えば、精神的なも. のと物質的身体との関係、換言すれば、自由意志と身体的行為の関係問題. ――. を考えさせるものとし. て次のような事例が知られている。 通常、意識が、自らの意志で身体的行為を開始するとき、主観的には、先ずその行為を行おうとする判 断=決意があり、それを実行に移そうとする意志によって、身体が起動され、行為が開始されるものと理 解されている。.

(3) 3. 身体論のためのメモランダ. 繰り返すまでもなく、近代の自由意志に基づく行為主体の想定、並びにその実行行為に基づく帰責図式 の基礎を成しているのが、如上の常識的感覚である。だが、脳の活動部位を種々の方法で観察可能にした 現代脳科学の知見によれば、意識上である行為を行おうとする意志を生じる約1秒前に、既にしてこれから 意志的に起動されるはずの身体部位に電位を生じる「準備電位」と呼ばれる現象が知られている7。 つまり、意識の上では、先ず自分が主体的に行為を決意し、意志することによって行為を起動するもの と感覚されている自由意志的身体行為は、実際には、身体メカニズム的に脳における活動部位の励起が先 行し、それを意識が時間的に遅れて追随する形でモニターしているというのが実情であり、しかし、にも かかわらず意識上は、あたかもそれが、自らが最初に発想し、意志して身体行為を起動したかのように錯 覚している、というわけである。言い換えれば、自ら自由意志に基づいて行為を行っているという意識の 主観的思い込みをよそに、客観的には,脳という身体部位における物質的変化の先行に意識が追随すると いう決定論的事態が身体現象を巡る実相ということになる。 身体と意識の関係を巡って観察されるこうした しかない. ――. ――. 従来の認識論的枠組みで言えば決定論的と言う. 事態については、脳科学の側でも、さしあたり、それに抗して、常識的に成立している. 自由意志の感覚的事実を何とか説明しようとする試みが行われている。 そのひとつは、脳の感覚野がそれぞれ異なるブロックに分かれて局在している事実から、それら相互の 情報伝達に要する物理的時間を、心理的には意識に上らないメタレベルの時間とみなして、脳の情報処理 に有する物理的時間と意識され得る心理的時間を区別する試みである。 例えば、「赤い丸が右に動く」のを知覚している場合、感覚を生起させている脳の機能的メカニズムとし ては、赤を認識している脳の感覚部位と、丸を認識している感覚部位は分かれて局在し、更に、それが右 に動いているのを認識している感覚部位もまた別に局在する。にもかかわらず、意識上ではそれらの感覚 的諸要素は同時に成立している以外のなにものでもない事実から、脳内で生じると観察された情報伝達に 要する物理的時間は、メタレベルとみなしてよいと考えるわけである8。 しかしながら、こうした局在論に基づく「相互作用同時性」による説明によっても、脳の励起と意識レ ベルでの感覚の生起との、同時・平行性までは説明できても、意識が身体に優位して、自由意志的にそれ を起動、操作するかのごとき感覚が何故生じうるのかは、依然説明できないといわねばならない。 物理時間的同時性に対する心理的同時性に注目した点は考慮に値するとしても、なお、自由意志を巡る 意識と身体の関係を巡る説明には、従来の意識モデルをはじめとして身体観全般、のみならず時間論に至 る抜本的な認識論的・図式的転回が必要であると目される所以である。. 第二節 近代身体論の問題構制 前節で指摘したように、身体現象. ――. 並びにそれと相即の関係にある意識現象. ――. を巡っては、. 近代世界観的理解・哲学的理解、並びにそれに基づく常識的理解に対し、それと齟齬する臨床的知見が数々 提起されている。 それらの根本的解決には、近代の身体観、意識観、ひいては物質観とその本質を構成してきた力の概念、 力学的時間観等を含めた世界観総体を抜本的に転換することが不可欠である。 ここでは、その転換を準備する端緒として、前節で指摘した、常識的自由意志感覚の更に根底に於ける 基礎的前提となっている「能動‐受動」図式について、その図式が醸成される身体感覚の原基的場面に立 ち返って検討を加えることから始めたい。 物質的因果性を逃れられない経験的主体に上位して、絶対的自由. ――. すなわち絶対的能動性. ――. 9. を本質とする理性主体を超越論哲学的に主張したカントを引き合いに出すまでもなく 、通常、常識的な意 識感覚においては、身体起動=行為時における能動的感覚、並びに行為や出来事に遭遇した際の受動的感 覚ととらえられている感覚の事実を根拠に、 「能動性‐受動性」図式が極く日常的・常識的に用いられてい.

(4) 4. 下城. 一. る。 だが、少し反省的に考えてみると、例えば掌の上に乗せたペーパー・ウエイトの「重さ」としてあたか も受動的感覚であるように感じられている感覚の実情は、その「重さ」に抗して掌=腕を押し上げている 筋肉の能動的励起感覚であり、更にその事態を反省的に分析すれば、それは、実際には能動的であるはず の自身の筋肉の励起状態、すなわち自身の身体が身体内において「力」を出している状態を、感覚として はことごとく180度反転し、能動感を受動感として感覚し、加えて、身体内の感覚を身体外の物質の視覚映 像に、反転投射して、あたかも掌の上の物体が、身体外から、「重さ」として「力」を及ぼしてきているよ うに再構成的に感覚している状態として理解される。以上の分析的事態が然し、意識上の直接的・感覚的 事実としては、あくまで身体外の「物体」がもつ「重さ」の実在する実体的な「力」の感覚として自身の 身体的には受動的に感覚されるのである10。 極めて身近な身体感覚一つとっても、事態は、以上のようにおよそ近代の常識的世界観を構成してきた 物質観・「力」観とは、およそ異貌である11。 実のところ、物質観における能動‐受動的な「力」の授受によって世界を説明してきた力学それ自体に あっても、 「力」の概念は、実際には「作用=反作用」として相互反転的に定義されるのであり、純粋に能 動性のみの「力」や純粋受動性を想定し、実在視・実体視することは固よりできないのに他ならない。 累ねてこの事実は、現象学の指摘に俟つまでもなく、胸の前で自身の掌を合わせ、両方から押し合うと きに感じる「力」のぶつかり合いが、相互に能動とも受動とも言いうるような緊張状態として感覚され、 更にまた意識の向け方次第で容易にそれが反転して感じられる感覚において確かめられるように、身近な 身体的感覚における事実である12。 以上のことから分かることは、常識においては能動的なある方向性を持つ「力」として想定されている 能動性感覚が、それ自体としては方向性を持たない筋肉の特異状態の感覚であり、それに能動的な方向感 覚や、反転としての受動的と感じられる感覚の方向性を与えているのは、その状態を認識する際の認識図 式を起源としている、と言うことである。実際、身体部位の特異状態の意味を文脈に応じて図式的に認識 することは、身体現象を巡る認識の実情として一般的であり、実験心理学でポピュラーな「吊り橋実験」 が示す情動の自己把握の場合等を筆頭に、様々な実例が報告されている13。 「力」を巡る身体感覚の実際が以上のようなものであるにもかかわらず、ニュートン力学主導で出発し た近代自然科学をはじめとして常識上は、それを一面的にのみ捉えた能動図式=「力」の概念が一般的と なり、その反転としての受動概念はもとより、更に図式的に措定されたその力の方向を重ねて遡源するこ とにより設定される起源としての原因を想定する「原因‐結果」図式、並びに起源に実在的基体を想定す る「力」の実在視=実体視等の目的論的認識図式の一群が、物体観、意識観ともども一挙に自明のものと して想定されてきてしまっている。近代自然科学的世界観の成立における「力」の概念の設定は、この身体 感覚の常識的感覚としての一面的把握をベースに構想されたものであり、逆ではない。 西洋近代の自然科学的世界観を力学一色に染め上げ、今もなおその影響を免れない一般常識を足場に、 根本的な認識論的制約をなし続けていると言うほかない身体現象からのこの「力」の虚構は、哲学的には 行為論に歪みを与え続け、また、それを通じて無論、医療場面、倫理学的議論等の様々な場面に於いても、 とりわけ身体-意識関係を巡る議論に於いて、著しい制約をなし続けている。その典型と目し得るのが「準 備電位」を巡る議論である。 しかしながら、「準備電位」の問題に立ち戻る前に、その前提である行為論を先ず検討しておかねばなら ない。行為論こそ、その常識的理解一般も含めて「力」概念の虚構を原因とする制約が最も顕著だからで ある。 さしあたり、その認識論的制約と身体現象の実際を一挙に解明する便として、新生児の意識における「行 為」習得の場面を例に、身体現象の実際、並びに行為主体としての「私」が形成される実際. ――. すな.

(5) 5. 身体論のためのメモランダ. わち「私」の起源を巡る問題. ――. について考察を加えておくこととしたい。. 誕生直後の新生児に観察される、周囲の者との視線の共有や身振りの共有、感情の共有等、種々の反射 反応を巡って、その動作の能動性を根拠に、所謂「自己指示性」を想定する議論がある。が、これは、最 早絮言するまでもなく、 「能動‐受動」図式の外挿であり、反射的動作をもって自我の起源と見なす理論上 の虚構でしかない14。一連の反射的動作は,自我成立の契機として、準備的要素にはなりえても、それら の統合の中心として動作主体としての能動的な「私」を基体的原因者として想定するのは早計である。如 実には、新生児の意識には、視覚的パースペクティブを中心とするにしても、そこに視覚的刺激以上の感 覚刺激が身体的特異状態として浮かんでは消えるというのが実情であり、それ以上ではない。近時の脳科 学の知見では、他の個体の目的遂行的動作を視覚的刺激として、それに自他の身体の個体的区別なく、自 己の身体動作同様に反応する「ミラーニューロン」の存在が確かめられてもいるが15、そうした物質的神 経系の知見に俟つまでもなく、痛みや快不快の感情等、長じて自他の区別の最も根底的な事象とされる情 動感覚さえ、養育者との区別的帰属がまだ未熟であることが一般に観察される新生児では、その情動を周 囲と共有し、自身周囲に同化しているというのが実情である16。 新生児期の意識の実相=身体感覚の実相がそのようなものであるとすれば、しかし、これまで問題とし てきた近代認識構図の基幹としての常識的意識観・身体観、並びにその範型としての自我概念=能動的主 体概念. ――. 意識における身体を駆動する意志という感覚. ――. はどのように構築されてきているの. であろうか。 新生児の意識状態は、繰り返してきたように、視覚的パースペクティブもまたメインのひとつとなりつ つも. ――. 指摘するまでもなく、胎内の段階では、聴覚の優位が実情である17. ――. それ以上の聴覚、. 触覚、嗅覚、味覚、痛覚、体勢感覚、運動感覚、情動等、諸感覚のアマルガムとして不断の変転の相にあ る。自身の反射的反応を含め、それぞれの感覚が身体部位の特異状態として意識され、その都度、図化さ れ、意識中の粗密の区別を形成するとともに意識の構造化が順次推進されていくが、当面、ランダムな「図 柄」としてある意識を、どのように「図-地」化するかは状況に応じて任意ということになる。 例えば、ベビーベッドに横たえられた、まだ首も据わらない、自由に動き回ることのできない新生児に とって、眼に見えるテーブルは、網膜上にテーブルの図柄として映じていたとしても、そこに自らがつい て食事をする「食卓」という社会的な図としては図化されておらず、任意の何か他の意味を持つ図、ない しは図の一部として認識されている、或は認識されていない、と言った具合である18。 無論このときまだ、意識の内に、 「私」という社会的人称的な「自-他」の区別もまた形成されておらず、 意識全体をとっても、. ――. 痛み等の帰属を指示する曖昧模糊とした、自分以外でもありうる反射的図. 式以外には感情や身体動作の感覚が帰属されるべき明確な志向性、認識論的志向性図式はまだ成立してい ないと考えられねばならない19。 それに対し、そうした新生児期の、或いは胎内期を端緒とする、意識の、刺激に反応しつつランダムな 動作を積み上げていく段階に於いて、最初に「行為」が形成されるのは、外部からの認定に応じてである。 例えば、新生児が自身の口唇を用いて、〔ma〕や〔pa〕の発音動作を行ったとき、養育者が「ママと言 った」 「パパと言った」等と認定して、その動作を繰り返すよう求めることは普通によくみられる場景であ る。それを刺激として〔mama〕や〔papa〕の発音が、新生児の意識に於いて、他の発音群から切り出され、 特別の「図」を形成するが、そのとき意識における口唇の運動状態をはじめとして自身の身体状態や周囲 の反応状況. ――. ん、私がママよ」等. 「~ちゃんがママと言ってくれた」「~ちゃん、もう一度言ってみて」「ほら、~ちゃ ――. 総てが刺激としてその「図」に統合され、図式化にもたらされる。. 〔mama〕という身体動作が養育者の登場や興奮を促すことを経験する新生児の意識は、そこに出現する 一連の意識の諸相. ――. 当初は相互にまだ何の意味的連関も有さない意識状態. ――. を統合して、外.

(6) 6. 下城. 一. 部観察的にはその因果論的・目的論的図式化といえる図式的統合に達し、それを応用的にも用いるように なる20。これらのことを積み重ねていくうちに、新生児の意識上では、可能なあまたの動作のうちから社 会的に認定され得る種々の「行為」が図的に弁別され、また相即に、その行為を、自分が自分の身体を用 いて行ったもの、という身体行為、動作主体図式 行ったという行為主体認識. ――. ――. 社会的人称性として承認された「私」が行為を. が図式的に醸成される。その図式は当該の、本来方向性を持たない身. 体の特異状態の感覚に対して適用され、方向性を持った能動性感覚として認知されることを準備する。 能動感の形成の側面から言い直せば、意識が起動する身体を知覚し、そこに意識を集中する形でそれを 図式化して行為化する。その図化を通じて自らを行為者とする能動感が形成され、それを以って自身がそ の身体部位を起動したものとする意識が後発的に構成されるのである。 新生児期の身体感覚の渾然一体的な実態を基に、以上の発達段階における主体概念の段階的形成の実相 を勘案するとき、自我概念の起源とされる意志の能動的感覚、並びにそれに基づく意志主体概念の形成は、 断じて生得的=身体内発的なものではなく、発達段階における個体外部からの社会的構築の産物であるの に他ならない。 以上の、身体感覚、並びに意識感覚の実相に照らせば、先に触れた、常識的意識における自由意志感覚 の形成の事実もまた、違った側面から説明され得ることとなる。 身体感覚の実相としては、能動感覚は決して内発的身体メカニズム的なものではなく、能動-受動以前 的な感覚の特異状態に対し、社会的に構築された図式が外挿されることにより初めて形成される感覚であ る。故に、能動的起動の意志成立以前に生じるとされる「準備電位」の問題は、実は意識と身体とのメカ ニズム上の矛盾ではなく、本来、身体メカニズムの諸状態に対し、それをどのように図式化し意味づけ、 認知するかという、別次元の区別されるべき意識次元の問題を、連続的にひとつのメカニズム上の命令- 起動関係として考えようとするところから生じる混同であるということができる。 すなわち、常識的意識における能動感の実際は、意識に浮かぶ能動-受動未規定の一連の感覚を目的論 的図式に即して配列し、そこに、原因者として要請された「私」の「意志」を起点とする因果関係を設定す ることで形成される、図式上の感覚である。身体感覚の実相としては、内発的な身体メカニズム的能動感 覚が存在する事実はなく、常識的に意識上で感じ取られているその感覚の実際は、因果目的論的な意味の 世界で構成された特殊力学的な図式によって感受させられている虚像であるにとどまる。 意識上自覚されることのない「準備電位」が問題とされるのは、それゆえ、そもそも実際には経験され たことのない意志を起点とした身体的起動を実在のものと誤認し、それを基に身体的メカニズムと意識の 間に実際には存在しない因果目的論的関係を設定してしまうことによっている。 「準備電位」と意識の間に は心理的同時性が設定されるとしても、メカニズム上は身心の同時性・平行性までしか観察できないにも かかわらず、なお、意識が身体を能動的に制御していると実際に感じることができるのは、事実上初めか ら身体的メカニズムの裏付けの事実を欠いた、意識上の図式的想定において、能動的な主体感覚が構成さ れているのだからである。問題になるのは、むしろ、事故等で喪われた身体部位になお痛みを感じるとい った幻影肢問題に顕著なように、図式的規定が適用されるべき質料的契機となる身体感覚の欠如、過剰等 の混乱が介在する場合である21。 身体メカカニズムの側から見れば、意識は、その成立以来一貫して身体追随的であり、心理的に同時に 成立する感覚諸要素の知覚時点を起点として、意識外部から、客観物理的に計測する限り、身体物理的メ カニズムにおけるその諸契機の起動は. ――. 還元主義ゆえの理論上も、実際計測上も. ――. 常に既に. 意識に先行する22。 更に準備電位の問題を巡っては、意識と身体の関係を巡る時間意識の感覚に関しても、なお勘案される べき問題がある。 日常、言葉が話されたり聞かれたりする際、その発語・聴取に要する物理的身体メカニズム的時間系列.

(7) 7. 身体論のためのメモランダ. と、意識上その理解に要する時間は明らかに異なっている。 例えば、「わたし」という語が発語されるときには、「わ」「た」「し」と発音する身体メカニズム的に必 要な物理的時間の生起に先立って、既にその当初に、発話者の意識上は「わたし」という意味の全体が見 通され、超時間的に先取りされているということができる。 一方その聴取に際しては、身体物理的に要する時間の側面から見れば、「わ」「た」という音素が連続的 に聴取された後、最後に「し」の音素が聴取されて漸く. ――. 「わたす」でもなく「わたる」でもない. ―― 「わたし」の意味が確定されるに至る。だが、そのとき既に物理的には「わ」 「た」の音素は消失し 存在しないにもかかわらず、意識上は「し」の音素の聴取に俟って、遡って「わ」「た」「し」の意味的統 合が生じ、理解が成立する。 夙に現象学の祖フッサールにより指摘されてきた言葉の意味理解における認識のゲシュタルト性を巡っ ては23、それを記憶・想起の問題として考えるより、身体現象における時間意識の特異性として、物理的 時間性を離れて、物理的には継起、消失ないしは先行する時間を謂わば飛び越えて図化が生じる意味統合 の仕組みとして捉える方がより適切と考えられる。 そうした新たな身体時間論的知見をも勘案して考えるなら、身体物理的メカニズムにおいては常に追随 的である意識現象・身体感覚の上でも、常識的に意識されている自由主体としての意識の形成の可能性を 説明することは、. ――. 物理的時間性や能動受動図式の制約から本質的に離れて. ――. 容易と考えら. れよう。物理的時間を超えて成立する図的統合の事実は、その成立と相即の意識主体の時間超越性もまた 保障するからである。. 第三節 身体論と倫理学の交点 意識における身体現象の把握に関わる問題を巡って、臨床現場からの問題提起を承けつつ、その核心に 意識現象と身体現象の把握に関わる認識論的な図式適用の問題があることを縷々指摘してきたが、そこで 解明してきた身体現象を巡る実情はなお、「私」成立の起源を巡る倫理学の議論に対し、一定の示唆を含ん でいる。 「私」成立の起源を巡っては、それを意識の誕生を以って格段の事実とする議論があるが24――. そも. そも、何を以って意識の端緒と見なすか、ということ自体微妙であり、胎内における聴覚の形成、或いは 細胞レベルの自律的活動の端緒を以ってそれとするかも規定次第と言わねばならない. ――. 既に見てき. たように、誕生後の意識野においても、そこで継起する諸感覚の帰属は未だ曖昧であり、自他を区別する ことなく目的論的行動に反応するミラーニューロンの例に見られるとおり、意識は世界と未分化のまま、 謂わば地続きに存在する。 すなわち、そこでの意識、並びに意識上で継起する諸感覚の一連は,まだ世界の生起と無区別に存在し、 明確な自己指示性も未だ形成されないまま、自他の区別を欠いて他者、世界と融合したまま、連続の相に おいてある。その諸感覚群が一定の有意味なまとまりをもつとしても、まだそれは自己としての統合とい うことはできず、世界のまとまりと連続的、等価でしかない。 その感覚の契機に自己としてのまとまりを付与するには、先に触れたとおり、繰り広げられる動作群に 対する、外部からの・他者による一定の「行為」の認定が必要であり、その行為の原因者としての能動的 一人称主体の認定と、その社会的人称世界における認定的区別に基づく、その図式を自ら用いての認識論 的自覚が俟たれねばならない。 故に、意識の端緒として特筆されるべきは諸感覚の意識野における成立ではなく、その自覚的帰属意識 の成立、社会的文脈を承けての意識統合の成立時点である。 社会的一人称的自我の形成に先立って、諸感覚の帰属がフレキシブルである原基的状態を経るというこ とは、諸感覚の帰属が近代社会的に整備された図式を踏まえて自我へと確定された後にも、なお影響を持.

(8) 8. 下城. 一. ち続ける可能性が勘案されねばならない。 ケアの現場に携わる者達を精神的・本質的に疲弊させている理由の一つに、他者の痛みを感じてしまう という現実がある。自然科学的には当事者個人の感覚として一次的に当該主体に帰属させられてしまう諸 感覚の帰属の実際において、現代の、ケア論を主軸とする生命倫理学を俟つまでもなく、ケアの現場では、 「他者の痛みを感じる」事実と直面してきた。 臨床哲学による現場からの報告は、 「痛み」を、生理的原因によって「自-他」に振り分ける、近代の個 人主義的「自-他」帰属図式. ――. 遡っては、主-客二元論図式、心-身二元論図式. ――. の根本的. 問題性を浮き彫りにしている。意識野に浮かぶ「痛み」が、自分も含めた誰かに帰属させられる、という 問題は、翻って、意識とは誰のものか、という根本的問題の所在を示唆している25。 にもかかわらず、医療現場の常識を構成する近代の主観-客観図式に従えば、 「自-他」の区別は自明で あり、他者の「身体」は客観的な「物質」としてそこにあり、その「痛み」や「哀しみ」は、 「自分」には 帰属しないと規定されている。 ケアに携わる者達は、この作られた図式に則って現場に対処するから、身体現象の実際においては境界 が曖昧で、感じられてしまうことが往々にしてある他者の痛みや感情の問題を、そう感じる自分自身の看 護技術者としての未熟の問題等と否定的に受け止め、封印しようと苦しむことになる。だが、こうした屈 折を生じてしまう原因は、先ずは自-他を巡る身体意識の現実を正しく見定めていない、無理な認識図式 の側にある以上、断じてその齟齬ならびにそこから生じる精神的ストレスの負担の問題は、個人的に引き 受けねばならないものではなく、社会的責任に帰されるべきものである。 近代認識論的な主観-客観図式、並びにその影響下にある近代社会常識的な意識-身体観が、身体現象 の現実と齟齬し軋轢、屈折を生むことは、これまで見てきたような、身体現象の直接的認知レベルの問題 にとどまらず、主観-客観図式と相即の所有主体-所有対象図式を巡る問題として、現代倫理学に様々な 問題を投げかけている26。 例えば、自身の身体所有をモデルとしたとされる私的所有の概念は27、近代社会の編成原理とされてき たなかで、一方では、性差を含めた身体の自己所有に基づく身体使用の自由をも保障する認識論的な根拠 として、フェミニズム等に結実する個人の解放に向けての多大な社会的貢献をもたらしてきた。が、その 一方、急激な進歩を続ける医療技術に引き摺られるかたちで自身の臓器の可処分権という発想が突出し、 改めて、臓器は誰の物かという問題をうみだしてしまっていることも現実である。身内や関係者の亡骸を 「遺体」と呼び、決して物質視しない伝統を持つ日本社会で、臓器、並びに身体を、所有される部品のよ うに物体視することに対しては、なお社会的違和感が優位しているように見受けられる。が、医療技術の 側は、臓器の可所分権に基づく自己決定を認めさせ身体を社会的資源と見なす認識図式をなお社会の側に 「教育」と称して求め続けている28。 更にまた、所有図式の問題は、身体認知レベルの問題以上の様々な社会的部面で、それを極端に推し進 めた結果としての、種々の図式上の倫理的限界問題を蔟出させている。医療現場にあっても、自己決定権 の行き過ぎた要求の問題として所有図式による認識論的問題を指摘することができ、早急な社会的是正が 求められるところである。 自己決定権に関して言えば、権利としてそれが保障されることと、実際に自己決定しうる能力を所有す ることとは本来別の問題であるはずだが、実際にはそれが混同され、権利と引き換えに過度の責任能力の 所有が無制限に求められてきている。 近代法治主義が、社会成員の一人一人全員に、総ての法の周知を求める擬制の上に成り立っているのと 同様に、医療現場における自己決定権は、患者自身が全状況の知を持ち得ることを前提に、自らの決定に 対する自己責任を規定している。だが、言うまでもなく、患者個人が、最先端医療の知識を含めて自己の.

(9) 9. 身体論のためのメモランダ. 置かれた状況の全知識を持てるはずがなく、医療側ないしは的確な第三者を介しての助言は不可欠といえ る。 だが、ここにもなお身体現象の実際に即して考慮するとき、より一層の慎重さが求められねばならない 局面があり、それは患者が助言者の言に容易に左右されてしまうという点である。 このことは、日本社会のように、特に共同体的人間関係の色彩を色濃く残す社会で、夙に指摘されてき たことではあるが、然しそれは、喧伝されてきたように、近代個人主義的自我の未成熟として否定的に捉 えられるべきものであるというよりも、繰り返してきた身体現象の原基的未区分という現実に則れば ―. 物質的身体メカニズムレベルのミラーニューロンの知見にまで遡らずとも. ――. ―. 当然の意識の本質. が反映されてきた社会的特性というべきものである。 そう考えるなら、コスト的に最小と考えられている自己責任図式を抜本的に見直し、然るべき外部評価・ 助言システムの社会的整備を惜しまないことが今後の社会のあり方でなければならず、それはまた対極の 共同体主義を選択することではなく. ――. コスト的にそれが次善であったとしても. ――. 状況に即し. て可能な限り個人の自立を尊重しながら必要なアドバイスのシステムを構築していくことこそが肝要と考 えられる。 無論、以上の自己決定権に関する議論については、患者サイドだけではなく、医療者・看護者サイド、 ひいては社会的に選択を求められる全成員に該当することである。 自己決定権を巡る問題を、看護者サイドから確認しておくと、日本看護師協会の「看護者の倫理綱領」 (2003)では、その第4条として、「看護者は人々の知る権利及び自己決定の権利を尊重し、その権利を擁 護する」とあり、これには如上の患者サイドから見た場合の原理的問題が幾重にも指摘し得るわけだが、 他方、看護師サイドの問題としては、第7条に「自己の責任と能力をもとに的確に認識し、実施した看護に ついて個人として責任を持つ」 「自己の能力を超えた業務については行わない」とされている。 看護師の自己決定権に関わる問題としては、 「自己の責任と能力を基に的確に認識し」という前提を基に、 「実施した看護について個人として責任を持つ」としている部分が問題となる。 こうした、所謂「マニュアル」は、個人的なキャパシティーを超えてケアの現場にのめりこんでしまう 看護師達に、求められている範囲を確認することで自らにブレーキを踏み、言うところの「燃え尽き症候 群」から、その精神を護る意味では有効なのだが、それでも、「自己の責任と能力を基に的確に認識し」と いう部分に確たる実質的規定が用意されない限り、個人的自己責任の部分だけが一人歩きしてしまうこと は目に見えている。 繰り返し指摘してきたように、身体現象の実際においては、他者の痛みや感情が直接感じられてしまう 場合があるにもかかわらず、前提の「自己の責任と能力」の条が近代認識論的な主観-客観図式. ――. す. なわち自己と他者の明確な区分に基づく他者の身体の物質視とその精神のブラックボックス化. ――. し. か想定していないとすれば、看護師は臨床の現場でその認識論的枠組みを容易に超えてしまう経験を持ち ながら、その扱いに自ら悩み、一方、綱領第3条で謳われている患者との「信頼関係を築く」こととの板挟 みになることは必定といえる。 とりわけ重要な問題点は、こうしたマニュアルの認識論的図式上の不備と現実の身体現象との間に起こ る齟齬の問題が. ――. 本来、図式の是正から求められるべき社会的な問題として、声を大にして公訴さ. れてしかるべきであるにもかかわらず. ――. マニュアルの存在圧力に言外に圧殺される形で、自己責任. の名の下に、個人的に処理されるべき問題として、各人の胸の裡に秘匿されてしまうことである。個人の 自己主張をベースに編成されているといわれてきた近代社会の詐術の一端がここに露見している。認識図 式の作為性が、政治的にも効奏する実例である29。 以上一瞥してきたとおり、近代個人主義社会とは、対象の操作コストを最小にすることを目的に構成さ れた、フィクショナルな認識論的図式の上に編成された虚像である。その矛盾は、近代的個人という、観.

(10) 10. 下城. 一. 念的擬制でしかない基本単位の上に、はじめからはっきりと刻印されている。 意識と身体という主体形成の起源に遡る問題圏を軸に、身体の問題が自他の問題と最も烈しくぶつかり 合う医療現場の問題を前哨として、本稿は、身体と意識、自己と他者をめぐるその近代認識論図式の本質 的問題に測鉛を下ろす準備のための、まだそのメモランダであるにとどまる。. 註 1. 私的所有図式のモデルとなったロックの身体観に俟つまでもなく、視覚野をそのまま意識野と同一視する常識 的な視覚モデル的意識観において、身体が視覚野内における典型的な自身の操作対象と見なされることから、意 識に意志という特定の能力が想定され、意識の本質を意志であるとする「意識=意志」図式にまで展開されるこ ととなる。が、後述するように、意志の実相を巡っては、意識上の自発的意志の虚構性を実証する脳科学的知見 ――. 意識上の自発的意志(自由意志)の覚醒に先行して、常に既に当該の脳機能を含む身体的励起が生起して. いる観察的事実. ――. に俟つまでもなく、夙に、大森荘蔵が指摘していたように、意志が身体行為を統括する. との想定は、意志が、何もしていないときにも常に身体に命令し続けていなければならない論理矛盾をまぬかれ ないこととなり、常識的感覚とも一致しないという実情がある(山本、大森編『心身問題』東大出版会)。 近代西洋哲学のみならず近代人間観・社会観を縦貫してきたこの「意識-意志」図式の誤認を排すなら、正規 には、意識と身体行為とを一元論的に説明する、新たな意識=行為図式の立論が不可欠となる。西洋哲学至上の 意識・意志哲学への偏向を批判し、行為一元論的視点からの世界観の再構築を企図する論考として、松永澄夫「意 識と我」『哲学史を読むⅠ』(東信堂. 2008)65 頁以下参照。. 重ねてまた、後述する様に、近代哲学の意識哲学への偏向を批判しての行為論的哲学の再構築と相即して、意 識の視覚モデルに立脚した、極めて機械論的な意識(意志)=能作主体・身体=操作客体図式が、近代これほど までに諸学を席巻し、併せてまた常識と合致してきた理由も、近代史の中で充分に説明されなければならないは ずである。 その点について、近代史の根幹である科学的世界観の本質を因果律に見て、へーゲル体系哲学の本質がカント 哲学を頂点とするその批判にあることを解明した拙稿、因果律の呪縛」『倫理学紀要 倫理学研究室 2. 第八輯』(東京大学文学部. 2000)80 頁以下参照。. 哲学的意識論の近時のものとしては、大森荘蔵の晩年の取り組み、「「意識」からの解放」(『現代思想』1995・7 青土社)、参照。 また、哲学的身体論としては、廣松. 渉『身心問題』(第 3 版 2008. 青土社)参照。. 3. 例えば、立花隆『脳死再論』(1991 中公文庫)144 頁以下参照。. 4. 「クオリア」問題については、さしあたり、以下の文献参照。. 5. ALS(筋萎縮性側策硬化症)を例に、鮮明な内的意識の可能性を指摘したものとして、前傾、立花 隆『脳死再論』. 武田一博:「ニューロフィロソフィーとしての心の唯物論」;『哲学』59 号(2008 日本哲学会)77 頁以下。 177 頁以下参照。 6. 近代認識論にあって、視覚モデルをベースに意識観が構築され、極めて静態的な意識把握が主流とされてきた ことの理由の一つとして、視覚野の特質を巡る以下の事情が考えられる。 周知のように、視覚野においては、意識が集中して対象化された部分が「図」として浮き立ち、周囲の、意識 が疎らにしか注がれない背景・ 「地」と区別される構造が優位である。この「図-地」構造を、翻って視覚野全体 に及ぼし、自らの視覚野全体を「図」化するとき、それを眺める意識主体は「図」としての視覚野全体に対し「地」 として、視覚野の更に背後に退き、すなわち視覚野の外に立つかのように意識されることになる。 意識を視覚野全体に対する超越的主体の立場に置く、こうした視覚野に特徴的な認識構図に対し、然しこのと き認識論的・図式的に見落とされてしまっている事実が、視覚的には現われなくとも、意識を構成する諸感覚と して、視覚以外に、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、情動等が意識野に現に組み込まれているという身体的諸契機の介 在の事実である。 後に見るように、寧ろ視覚野は、そこにおいて何を図化して対象と捉えるかの選択に際し、本質的に身体的行 動. ――. 行動を促す環境からのアフォーダンス. ――. の影響下にあると考えるのが妥当である。. なお、視覚野における「図-地」構造については、さしあたり、以下の論考を参照。.

(11) 11. 身体論のためのメモランダ. コフカ:『ゲシュタルト心理学の原理』(1988. 福村出版). また、アフォーダンスを巡っては、以下を参照。 ギブソン:『生態学的視覚論』(1979. サイエンス社). 村田純一:「わたしを探検する」(2007. 岩波書店)27頁以下。. 7. 茂木健一郎:『脳内現象』(2004. 8. 同. 9. カント超越論哲学における理性の自由の問題点については、以下の拙稿参照。. :『心を生み出す脳のシステム』(2001. 「力と悟性」(2000 10. NHK ブックス)112 頁参照。 日本放送出版協会)215 頁以下参照。. 『倫理学年報』第 49 集)87 頁以下. 身体現象の特異性については、以下の拙稿を参照。 「身体という謎」;金井淑子編『身体とアイデンティティ・トラブル』(2008. 11. 明石書店). 181 頁以下。. 力学的な一方向的「力」の概念を主軸に、ニュートン力学を承けた、自身の自然哲学を構想したカントを批判し て、その「力」の実体視・実在視の批判的解明から体系的転換を図ったのがヘーゲルの認識論である。上掲、註 7、 拙稿参照。. 12. メルロ=ポンティ:『知覚の現象学』(1980-81. 13. 下條信輔:『サブリミナルマインド』(1996. 14. 新生児の発達過程における「私」の形成ついては、以下の論考を参照。. みすず書房)参照。 中公新書)51 頁以下参照。. 岡本夏木・浜田寿美男:『発達心理学入門』 (1995 15. 岩波書店)175 頁以下。. ミラーニューロンについては、以下を参照。 前掲、茂木健一郎『心を生み出す脳のシステム』28 頁以下。. 16. 新生児期から乳児期、幼児期の、認識や行為の発達過程を哲学的に分析した論考として以下の論考を参照。 岡本夏木:『幼児期』(2005. 17. 岩波新書)35 頁以下。. 人間の情報認識に於ける視覚の優位性が半ば常識化しているが、それに対し、聴覚の視覚に対する優位性を示し た実験として、Shams.L,,Kamitani.Y.and Shimojo.S.(2000)What you see is what you hear. Nature 408:788. また、一般に脳死とされる状態に於いても、なお聴覚が残存する可能性について触れたものとして、前掲、立花 隆『脳死再論』54 頁以下、155 頁以下参照。. 18. 以下の論考参照。 「認識というのは、基本的に、反応するための暗示的な準備のようなものである。認識の機能は、生体が適切な 行為をするための準備をさせることだ。認識のプロセスにおいて何が起きるかを研究する際には、認識が行為の 準備としての機能を持つという側面を充分に考慮する必要がある」(Sperry.R.W.(1952) Neurology and the mind-brain problem. American Scientist 40:291-312). 19. 試みに、新生児期の意識における世界の分節様態を考察しておけば、先ず視覚野をベースに考えると、意識が 集まることによって図化され得る. ――. 特異状態的感覚=身体機能の励起状態を感受しうる. ――. 身体が自. 身の身体であり、視覚映像的には同型の身体部位でも、それが生起しないのが他者の身体である。あわせてそれ は「抵抗感」を伴う「物」でもある(ただしそれは、身体各部位との、近接作用的な、作用・反作用の相互関係に おいて異なって分節される)。 当然ながらそこに、痛みや情動、運動感覚等を組み込んで、それを自-他に帰属させなければならないが、先 に述べたように、痛みや情動が周囲と共有される例が観察されており、また、行動においてもミラーニューロン の知見に見られるように、自他の区別が判然としない、人称区分以前的な、周囲との渾然一体の段階が原初的で あると考えられなければならない。 20. 前掲、岡本夏木『幼児期』35 頁以下参照。. 21. 統合失調症を例に、質量的身体感覚の欠落や乱れによる、自我の図式的統合の不全を解明した論考として、前傾 拙稿、「身体という謎」197 頁以下参照。. 22. 準備電位の問題を巡っては、抜本的には、以上の考察、並びに以下の時間意識の考察のほかに、なお、意識観 を巡る本質的錯認があるように見受けられる。 意識上同時に成立する表象の諸特徴でありながら、それが脳の各部位により時間差を持って処理されているこ とを理由とする物理時間的なズレの問題は、しかし、脳が意識対象から近接作用的=視覚モデル的に情報を受け.

(12) 12. 下城. 一. 取り、あたかもそれを脳が再現的に見ているように、その情報の流れを考える視覚モデル=光情報伝達モデルに よる誤謬、すなわち対象的世界を意識が映像的に捉えるかのように考えてしまうゆえの誤謬である。 まずもって脳は、見ない。故にそれぞれの部位の情報到達時間がズレていても問題ないと考えられる。問題があ るように考えられてしまうのは、脳が処理した情報を再構成的に意識に見せている、と考える図式のせいである。 また、同様、意識も対象からの光情報としての映像を「見る」のではない。換言すれば、意識を捉える際、視覚 モデルから脱却して考える必要がある。対象からの光情報の到達時を以って感知と考える原子論的・力学的な時 間概念、並びに光を情報媒体とする意識主体-対象世界の二元論的世界観構図も根本的に転換される必要がある。 原子論的に伝達される情報の方向性ベクトル・物理的必要時間に対し、意識がそれを捉えるのは遠隔作用的・無 時間的である。本文で述べるように、意識における時間感覚については、物理的時間図式とは別次元で考えねば ならない。 23. Vgl.Husserle;Husserliana Ⅹ s.324 「今しがた過ぎ去った音は、それが現在時の中に(とくにえらばれた今の時点に於いて顕在的に直観できるメロ ディの断片の中に)入ってくる限りで、なお意識されているが、そうはいっても、あたかもそれが現実にレアー ルに「感覚され」、今鳴る音という様式でそこにあるかのような意味においてではない。物的に今としてそこに存 立する今鳴る音は、必然的に、今鳴る音の内容によって代表象され、この内容もまた今として性格付けられる。 今なお生き生きとしており、時間直観の視線の内に「なお」存立している音は、もはや存在しないものであり、 その現出に属しているものは、「音の感覚」(顕在的な今)ではなく、感覚の「余韻」であり、変容なのであって、 これは最早顕在的意味での第一次内容(内在的な音の今)ではなく、何か変容されたものである。然し、そこに 見出され得るのは、現実の音ではなく、音であったものなのである」(『内的時間意識の現象学』補遺 49.強調原 文). 24. 永井. 25. へーゲルは、悲惨な状況に直面した意識が、自身の身体を自分から切り離して考える例を指摘している。. 均:『なぜ意識は実在しないのか』(2007. 『法の哲学』§48 26. 岩波書店)参照。. 参照。. 近代の所有図式が、現代倫理学における種々の問題の源泉である、との指摘は、 鷲田清一:『時代のきしみ』(2002. TBS ブリタニカ)17 頁以下参照。. 27. Vgl.Lock:An Essay concerning Human Understanding, P.H. Nidditch(ed.),1975.Ⅱ.XXⅦ. 28. 生命倫理学教育の問題性については、以下の指摘を参照。 大谷いずみ:「生と死の教育」(2004・4『現代思想』142 頁以下)参照。. 29. 社会的詐術としての「水俣病」問題については、以下の拙稿参照。 「生命概念の間主観的存立構造-環境倫理学と生命倫理学の接点」(2000. 科研費報告書東大文学部 研究代表. 佐藤康邦) 本稿は、意識の成立を個人単位のものとし、その本質を意志と見なす近代個人主義的能作主体観の虚構を、力学的 =自然科学的世界観図式の本質を構成してきた因果律、及びその起源としての能動-受動図式に遡って解明してきた が、自発的自由意志の問題を更に解明するためには、相即に、近代社会編成に於いて基幹に据えられてきた、能動 -受動図式起源の自由意志概念・自由の実際の解明から始めて、判断概念の図式的解明、行為論の再構築、他者(外 部)概念の再考、責任概念の再検討等、一連の行為論的世界把握に立脚しなおした目的論的世界観の見直しが不可欠 となる。 本稿に関連する限りでその見通しについて述べておけば、力学=物理学的直線的時間概念に囚われることなく、身 体現象・身体行為に超時間的に関与する意識現象を巡っては、それが身体的行為に追随する形での後付的理由付けで しかない事実を踏まえつつ、しかし、その虚構性の上に重ねて仮構された近代社会的「自由-決断-責任」図式の内 実と、それを踏まえた実践が織り成す現実について考察する必要がある。 「責任-刑罰」図式が、その虚構性に重ねて仮構された社会の統合上の必要から虚構された象徴的図式であって、 実際上、原理的に行為動機とは因果連関で結ばれないフィクショナルな図式であるとしても、近代社会の成員各個が それを引き受けて生活している以上、自由意志概念の虚構性・責任図式の象徴性・非因果論的本質をを批判するだけ では不足である。.

(13) 13. 身体論のためのメモランダ. 本稿との関連で言えば、近代認識論的「自-他」区別図式、身体区分図式を引き受けながら、なお「他者の痛みを 感じる」実際を生きている看護師達にとって、その図式的歪みから生じるストレスを自身で引き受けて沈黙するので はなく、そのストレスの真の原因である近代社会的人間観・身体観の政治的作為性・隠蔽性を言葉にもたらして可視 化し、公に訴える実践こそが必要である。自由意志概念の虚構性・責任図式の社会的象徴性を批判するだけではなく、 それを虚構とし象徴として生きてしまっている主体の現実に立ち返っての実践論が必要なのである。 責任概念の虚構性、刑罰概念の社会的象徴性を批判的に解明した論考としては、 小坂井敏晶『責任という虚構』(東大出版会. 2008)参照。. 言い換えれば、その本質がたとえ虚構であり象徴であるとしても、常識的に信じられている自由意志の概念をはじ めとして、社会編成上不可欠とされてきた責任概念や、社会統合上外部化されてきた法概念等の目的論的世界把握に 基づく社会的図式一般が、どのようにして構築され、普遍化されて近代に於ける理性の事実とされてきたかについて ――. 本稿がその一端を示したように. ――. 行為が生起する発端に遡って解明することが不可欠である。. 凱截には、本稿で述べた、能動-受動図式形成以前の能動=受動未分化の意識様態に遡る行為の成立の解明を基に、 その成立に際しての他者的・外部的契機の解明を介しながら、行為の図化が生じ、それが目的論図式に編成されてい く経緯の意識形成も含めた行為一元論的解明がなされねばならない。 本稿での解明に関連して肝要な点を付記しておくと、意識における能動的契機としての意志の虚構性が明らかであ る以上、意識の原基的様態に於いて、行為が図化され編成されていく経緯にあって、動物的本能性や情動を含めた身 体性もまた意識の外部的契機と見なされねばならない点が指摘される。 本稿の例で言えば、新生児の[papa][mama]という発音に対し、注意を向ける養育者の存在は行為の図化を促す外的 要因だが、一方、新生児自身にその発音を促した、それが可能なまでに成長した発声器官を含む身体の存在もまた、 このとき意識に対して行為の図化を可能にする外部的要因と考えられねばならない. ――. その点、アフォーダンス. 理論で言う、翼を持つ身体に対する空間(環境)からの飛翔の促し(即ち環境決定論)は、意識にとって、環境とと もに外部である身体性を、主体に内在する能力と見誤ることから生じる図式的錯誤である. ――. 。同様、意識に対. しての外部的要因と見なされるべきものとして、所謂本能、欲動と呼ばれてきた身体的契機があり、それに促されて 行為の規則化的形成が生じる例がある。 この外部的契機を介した行為の図化を通じて、世界の、秩序化された把握が可能となり、繰り返される規則的行為 の原基的目的論的様相の投影としての、世界の実在する秩序を持った対象としての目的論的把握が可能化するのに他 ならない。 世界の行為論的把握を、先ずは因果論的側面から解明する論考として、 前掲、松永澄雄「意識と我」『哲学史を読むⅠ』所収、及び同書所収の他の論考、並びに『哲学史を読むⅡ』(東信 堂. 2008)参照。.

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