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19世紀のパリ近代化と芸術家たちの対応

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(1)55. 19世 紀 のパ リ近代化 と芸術 家 たちの対 応 清. 水. 正. 和. パ リは,周 知 の よ うにセ ー ヌの シテ 島 を揺 笙 と して 2,000年 の 歴 史 と文化 を刻 印 しつつ ゆっ くりと成熟 して きたが ,19世 紀 の後半 に入 るや ,わ ず か 20 年 た らず で一 挙 に近 代 都 市 に変 貌 す る。 い わ ゆ る 第 二 帝 政期 (1852∼ '70) にお け るオスマ ンの大改造 に よる変貌 で あ る。 以 下 で ,そ の急激 なパ リ近代 化 の具体 を概観 し,同 時代 の芸術家 たちが い か に都市 の近代 化 に対応 したか を,彼 らの作 品 をつ う じて考察 してみ よ う。. 1.ナ ポ レ オ ン三 世 の 野 望 パ リ大改造の強力な実務的推進者がオスマ ンであ ったに して も,原 動力 と しての発 案者 は,か の大ナポ レオ ン (1769-1821)の 甥 ル イ・ナポ レオ ン. ,. つ ま り皇帝 ナポ レオ ン三世 (1808-'73)で あ つたことをまず強調 してお こ う。 もっ とも,帝 政 に反対 したヴ イク トル ・ユ ゴー は,彼 を「小 ナポ レオ ン」 と軽蔑 したのであったが。 ユ ゴーの侮蔑的呼称 は ともか く,「 小 ナポ レオン」 の野望 は大 きか った。 伯父が 1815年 にワーテル ローで敗 れセ ン トヘ レナに流 されてか ら'48年 の 二 月革命 までの 33年 間――王政復古期 と七 月王政期―― ,ロ ン ドン滞在 を 中心 とする亡命生活 を余儀 な くされたが,そ の間,伯 父 の果 たせなかった夢 の実現 を自らの使命 とみな し,野 望 を燃や しつづ けていた。つ まり,帝 政 を 復活 し,産 業 を振興 して貧困を絶減 し,フ ラ ンス を経済的にも軍事的にも大 国 とす ること,そ して首都パ リを ヨーロ ッパ最大 の美 しい都市 に改造 して自 らの威信 を示す とい う野望だ った。 この野望が 20年 た らず の彼 の治世 をつ.

(2) 56. 19世. 紀のパ リ近代化と芸術家たちの対応. う じて強引 に実現 された こ とはわれわれの よ く知 る ところであ る。 ところで 1848年 ,亡 命先 の ロ ン ドン よ り帰 国 した彼 の 目に映 じたパ リの 実情 は とい えば ,そ れはひ どい ものだった。多 くの歴 史家 の記述 に共通す る もの を一 言 で 要約す れば ,ま さに 「巨大 な ス ラムの都」 であ った。大革命後 す で に古代 ローマの都 を範 と して大 ナポ レオ ンが始 めて い たパ リ改造が ,彼 の失脚後 も世紀前半 をつ う じて進 め られ て は い たが ,遅 々 た る もので あ っ た。大半 のパ リ市域 は,昼 間 で も薄暗 い細 い道路 が 曲が りくね り,古 びた家 が 密集 し,そ こに産業革命 の進行 と共 に急増 した 100万 を超す住民が ひ しめ い て い たのであ る。 しか も下水道 は歩道 にむ き出 しで ,排 水溝 に散乱す るご みや 汚物 で悪臭 が たちこめ ,非 衛 生 きわ ま りな い状態 だ った。た とえば,'49 年 の コ レラ大流行 で は死 者 が 2万 名近 く出た とい う。 ガス灯 の 設置 も繁華街 や高級住宅区域 に限 られ ,そ れ以外 は夜 ともなれ ば陰謀 と犯罪 のはび こる暗 黒 のパ リと化 して い た。 ちなみ にユ ゴー の 『 レ・ ミゼ ラブ ル』 に描 かれ た闇 と犯罪 のパ リは,ま さ しくこの 19世 紀前半 のパ リであ る。 ともか くフラ ンス に先立 って 産業革命が進 み ,近 代都市化 が 始 まっていた ロ ン ドンか ら戻 つたル イ ・ナポ レオ ンの 目に は,パ リが もはや 人間 の住 め な いス ラムの都 と映 じた こ とは確実 で ,こ のいわば窒虐、 状態 のパ リに一刻 も早 く光 と風 を通す ため ,大 外 科手術 を施 さねば との 焦燥 にか られた よ うだ。事 実 ,1848年 12月. ,第 二 共和 政 の大統領 に選 ばれ た時点 で ,彼 はただ ちに具. 体 的 なパ リ改造 プラ ンづ くりに着手 して い る。 いつ も執務室 で パ リの地 図 を 広 げ ,青 ,赤 ,黄 ,緑 の 4色 で 開通 させ るべ き道路 を書 き入 れ て い た とい う。 か くして ル イ ・ ナ ポ レオ ンは,'51年 12月 2日 に ク ー デ タを起 こ し,共 和 政 を廃 し,翌 '52年 にナポ レオ ン三世 と して帝位 につ くや ,強 力 な協 力者 と して 当時 ジ ロ ン ド県 知 事 で あ った 熱 烈 な ボ ナ パ ル テ イス トの オ ス マ ン. (1809-'91)を セ ー ヌ県知事 に任命 して呼 び寄 せ ,た だ ちにパ リ大 改 造 に着 手 した ので あ る。思 うに当事業 は まさに問答無用 の大外科手術 で あ った。絶 対権 の行使 が可能 な帝政 であ つたか らこそ実現 した大改造 で あ った とい え よ.

(3) 清. 水. 正. 57. 和. う。歴史 の皮肉である。 ともか く,19世 紀 の フランス史 をプラスに もマ イ ナス にも激動せ しめた最大の原動力 は,ナ ポ レオン崇拝 のボナパ ルテイスム であったことは確 かだろ う。. 2.急 激 な パ. リの 近 代 化. わ ず か 18年 間 の 第 二 帝政期 に,ナ ポ レオ ン三 世 とオス マ ンの 2人 3脚 で 驚異 的 に進 め られ たパ リ大改造 の 具体 的 内容 を ご く概 略 的 に展 望 してみ よ う。主要事業別 に分 類す れば次 の 5項 目 となる。. (1)大 通 りの新 設 を軸 とす る道路網 の整備 とそれ に伴 う市域 の拡大。 (2)公 園 ・広場 の造成 と整備 。 (3)建 造物 の修復 な らびに建設。 (4)上 ・下水 道 の整備 ・拡張。 (5)街 灯 の増設。 これ らの事業 はほ とん ど同時 に進 行 したが ,項 目別 に概 観 してお こ う。. (1)3つ の道 路網 幅 の広 い大通 りを建設 し,道 路 網 を整備 す る こ とは. ,. ス ラム化 して非衛 生 なパ リに光 と風 を通す ため に最 も緊急 を要す る事業 で あ った。 なお ,こ の衛 生 化 に加 えて ,人 や物 資 の流通 を円滑 に し経済活動 を活 性化す る こ とも大 きな 目的であ った。 さらに,道 幅 を広 くして軍隊 の移動 を 容易 にす る内乱 防止 の軍事 目的 もあ った こ とは事 実 で あ る。 つ ま り,道 路網 整備 はパ リの美化 ・衛 生 化 と経 済 的 ・軍事 的 目的 を同時 に実現す る改造 の根 幹 となる事 業 で あ った。 か くして 1853年 よ りただ ち に着 工 され ,い わゆ る 間答無用 の大外科手術 がお こなわれ たのであ った。 新 しく開通 した道路網 は,財 源 の ちが い によ り 3つ に分 類 されて い る。 第 一 の道路網 は,パ リ中心 部 の 「 大 十 字 路」 で あ る。 これ は 16世 紀 以 来 の懸案 で もあ った。大 ナポ レオ ンがすで に着 工 して い たチ ュ イル リー宮 と ル ー ヴル宮北側 の リヴ ォリ通 りを東 に延 長 し,バ ス テ ーユ 広場 にい たる東西.

(4) 58. 19世. 紀のパ リ近代化 と芸術家たちの対応. 軸 と,東 駅 か ら南下す る既存 のス トラス ブ ール大通 りを延長. (セ. バ ス トポ ー. ル大通 り)し て シヤ トレ広場 で リヴ ォリ通 りと交差 させ ,さ らにシテ 島 を横 断 して南下 (サ ン・ ミシ ェル大通 り)す る南北軸 に よる大十字路 で あ る。 こ の 300年 来 の懸案事 業 が ,大 改造 の トップ事 業 として始 め られ ,わ ずか 5年 で 1858年 に完 成 した。工 費 はす べ て政 府財源 に よる。 なお ,シ テ 島 の横 断 工 事 は ,狭 い 島内 に密集 して い た ス ラム街 (住 民 1万 5千 もい た とい う)を 完全 に一掃 した。 そ もそ も「大十字路」建設 は,パ リ中心部 の 人 口密集地域 にメ ス を入れ るのが 最大 目的 で あ ったのだ。 第 2の 道路網 は ,広 場 や鉄道駅 な ど要所 の連結 を目指す大通 り網 で あ る。 費用 は 国 と市 が分 担 した。現 在 ,Boulevardや Avenucの つ く大通 りの 大半 は この 第 2の 道路網 として設置 された もので あ る。主要 な もの としては,ま ず ,凱 旋 門 の あ る エ トワ ー ル広 場 か ら放 射 状 にの び る 12本 の 並木道 の う ち,8本 が この 時 に新設 されたが ,そ の一本 で西 の ブ ー ローニ ュの森 に通 じ るラ ンペ ラ トリス (皇 后 )大 通 り (現 フ ォッシ ュ大通 り)は ,道 幅 が 120メ ー トル もあ り,シ ヤ ンゼ リゼ通 りに匹敵す る壮 麗 な並木道 で あ る。 この他. ,. マ ルゼ ル ブ通 り (マ ドレー ヌ広場 か ら西北 に貫通 ),プ ラ ンス 0ウ ー ジ ェー ヌ通 り (現 在 の レピュブ リック広場 とナ シ ョン広場 を直線 に結 ぶ ヴ ォルテ ー ル大通 り),マ ジ ヤ ンタ大通 り. (レ. ピュ ブ リック広 場 か ら北西 のモ ンマ ル ト. ル に延 びる)な どが 著名 であ る。 第 3の 道路網 は ,市 内 と周辺地域 を結 ぶ もので市域 の拡大 を伴 った。費用 はす べ て市 が分担 した。帝 政発 足 当時 の パ リ市 域 は ,18世 紀 後半 に築 かれ た「徴税請負 人 の壁」 (55地 点 の入 市 関税徴収 門 を もつ 壁 ,図 1参 照 )内 で あ り,そ の 外 側 は,い ま一 つ の 壁 ,す なわ ち 19世 紀 前 半 ('41∼ '45)に 軍 事用 に構築 され た「チ エ ールの城壁」 で 囲 まれて い た。 この二 つ の壁 の 間 の 区域 が 1860年 にパ リ市 に合併 され ,行 政 区が それ までの 12区 か ら 20区 に 再編 されて現 在 に至 ってい る。 (図 2参 照 )現 在 われ われ に親 しい北 のモ ン マ ル トルや 東 の ベ ル ヴ ィル,西 の オー トゥイユ 地 区 な どは この 時 に編入 され た地域 であ る。.

(5) 清. 水. 正. 59. 和. 図1 パ リの市域拡大―市壁の建造 と市壁内面積の推移. ー スト の プ。 オ ギュ 継 ①フイリッ. 0り. ② シャルル5世 の市壁 (1370-1383年 ③ ルイ 13世 の市壁 (1633-1636年 ④徴税請負人の市壁 (1784-1787年 ) ⑤チエールの市壁 (1841-1844年 ) ). ). 同飢3銅. 篤驚1軸 800 ha. 17 S.. 3,351 ha 18 S. 7,802 ha 19 S.∼ パ リT打 20EE (│お θ― ).

(6) 19世 紀 の パ リ近代化 と芸術 家 た ちの対応. 60. 以上 ,3つ の道路網がパ リ大改造の根幹事業 として建設整備 され,現 在 わ れわれが地図で 日にす るパ リ市街 に変貌 したのであった。. (2)公 園・ 広場 道路網建設 と相侯 って公園 と広場 の増設 ・整備が大 々的 に進 め られた。 これはロン ドン滞在中 に緑豊 かなハ イ ドパー クに親 しんだナ ポ レオ ン三世の一つの大 きな夢 の実現 であ った。 新設あ るいは整備 された公園 は,西 郊 の「ブーローニュの森」 と東 の 「ヴ ァンセ ンヌの森」,市 内では西北部 の「モ ンソー公園」,東 北 の「ビュッ ト= シ ョーモ ン公園」,南 の「モ ンス リ公園」 の計 5つ であ る。 いずれ も幾何学 的 フランス様式 でな くイギ リス式 の 自然庭園様式 で,明 らかに皇帝 のイギ リ ス体験 の反映である。 最 も力 を注 いだのは「ブーローニ ュの森」 であった。湖や小川,車 道や小 道 の設置 をは じめ,ロ ンシ ャ ン競馬場 を設 けるな ど,見 事 な森林公園に し た。 1859年 に完成す るや,馬 車 で訪 れる社交界男女 の遊歩 と社交 の場 とな った。 これ に対 し,東 郊 のか つ て旧王 領 の狩場 で あ った「ヴ ァ ンセ ンヌの森」 は,庶 民 のための公園に造 り直 された。 とい うのは,パ リ大改造 をつ うじて 住民 の階層 に応 じて市域が区分けされたのである。つ まり,西 部 は富裕階層 の住居区域 に,東 部 は一般市民 と労働者区域 とされ固定化 していった。 この 区分けは現在 も変わ っていない。従 って市内の公園 も同 じで,西 北 の 「モ ン ソー公園」は上層階級向 きに改装 され,東 北 のベ ル ヴイル地区の「ビュッ ト. =シ ョーモ ン公園」 は庶民 ・労働者向 きに造 られた。 ところで,新 設 された公 園 に parcを 使 っているこ とに注 目す べ きであ る。既存 の「リュクサ ンブール」 や 「チュ イル リー」 は,市 民 の出入 りが許 されて い た とはい え,王 室 の 私有す る「庭 園」jardinで あ り,市 民 の「公 園」 ではなかった。 だか ら第二帝政期 には じめて市民公 園 としての parcが 造成 された とい うわけである。以上の公 園 の他 に市 内各所 に辻公園 square が 20余 り造 られたが,こ れ も皇帝 の ロン ドン土産 とい えよう。.

(7) 清. 水. 正. 和. 61. 公園 と共 に整備 された「広場」placeに して も,従 来 は王権誇示 の場 であ り,彼 らの遊歩場 で あ ったが,改 造後 は,「 市民 の憩 いの場」 の性格 を強め てい く。そ して何 よ りも「道路網 の結節点」 としての機能 を呆た してい く。 現在 ,エ トワール・ ドゴール広場や コンコル ド広場 ,バ ステイーユ広場 のは た してい る機能 を見れば一 目瞭然 であろう。 ともか く,画 期的 な公園 ・広場 の増設 と整備 によ り,パ リの表情が美 しく かつ機能的 に一変 し,「 花 のパ リ」 の誕生 に大 きく寄与 した とい える。なに しろパ リの緑地面積 が従来 の 90倍 に達 したのであ った。第二帝政 の最良の 遺産 といってよいだろ う。. (3)建 造物 道路網が新 しいパ リの基本的骨格 とすれば,そ れの肉づ けが 建造物 となろ う。道路 の拡張や新設 に伴 い,古 びた低層住居. (せ. いぜ い 4,5. 階建)が 情容赦 な く撤去 され,6∼ 7階 建 て を基準 とす る集合住宅. (市 街 区. では 1階 が商店 で 2階 以上が住居)に 建 て替 えられ,現 在 われわれのみる街 並みの景観がで きあが ったのであ る。撤去 された家屋は約 2万 戸 ,新 建設 は. 4万 戸 とい う。思 うに,17年 間の改造進行中のパ リ全域は,大 震災あ との復 興工事現場 さなが らの様相 を呈 してい たことだろ う。当時普及 しは じめてい た写真 の記録や版画 によつて もその情況が うかがえる。 一般住居 のほかに建設 された り修復 された公共建造物 も数多 い。 た とえ ば,サ ン・ラザ ール駅 の拡大 ,ノ ー トルダムの修復フ トリニテ教会の建立. ,. その他 ,一 般住居撤去あ とのシテ島 に建 てた市立病院,警 視庁 ,兵 営な どと 枚挙 にい とまが ないが,最 も著名 なのは,「 新 ルー ヴル宮」,「 オペ ラ座」 ,. 「中央市場」 の三つであ る。 荒 れはてたルー ヴル宮 を修復 し,カ ルーゼル広場 をへ だてて建つチ ュイル リー宮 と翼棟 で結 んで一体化 し,世 界最大 の壮麗 な宮殿 にすることが大ナポ レオンの構想 であ り,着 工 した ものの果 たせずに中断 していたが,そ れだけ にナポ レオ ン三世の思 い入れは強 く,ク ーデタの三か月後 ,早 くも工事再開 を命 じ,'57年 に完成 ,伯 父 の夢 を実現 したのであ った。.

(8) 19世 紀 のパ リ近代化 と芸術家 たちの対応. 62. もっ とも,完 成 した壮 大 な宮殿 もわず か lo余 年 の 短命 だ った。 1871年. 5. 月 のパ リ・ コ ミュー ヌ内戦 でチ ユ イル リー宮 が焼失す るのだ った。現在 そ の 跡 は コンコル ド広場 まで続 く広大 なチ ュ イル リー公 園 とな り,ま た,か つ て. 19世 紀前半 に一 般住居 が 密集 して い たル ー ヴ ルの 中庭 にい まは ガ ラ スの ピ ラ ミッ ドが 建 ってい る。 ルー ヴ ルの 歴史は ,シ テ 島 の歴史 につ ぐパ リの歴 史 の縮 図 で あ る。 新 ルー ヴ ル宮 の 完 成後 ,'61年 に起工 し,帝 政崩壊 後 の '75年 に完 成 をみ た 「新 オペ ラ座 」 は,ま さ しく第二 帝政期 の華麗 な雰 囲気 を伝 える象徴 的建 造物 で あ る。応募 が 17L点 あ つた'60年 の コ ンペ で 選 ばれ た ガル ニエ の 設計 で 建 て られ た。金 ピカの装飾過剰 なネオ ・バ ロ ック様式 で ,過 ぎた装飾 を好 まない オ スマ ンは不満 だ ったが ,皇 帝 に気 に入 られた とか 。 また,端 正 な古 典様式 を望 んだ皇后 が 不満 を述 べ た とき,ガ ル ニエ は,「 これ こそ ナポ レオ ン三 世様式 で す」 と答 えた とい うエ ピソー ドもあ る。 オペ ラ座 は今 もパ リの 中心部 にその威 容 を示 して い るが ,1989年 (大 革命 200周 年 )に バ スチ ー ユ 広場 に 「新 オペ ラ座 」 が 完成 し,以 来 ,ガ ル ニエ の オペ ラ座 はバ レエ専用 の「旧 オペ ラ座 」 となって い る。 装 飾 過 剰 の オ ペ ラ座 と全 く対 照 的 な の は ,バ ル タ ー ル の 設 計 に よ る 「中央市場」 の 再建 であ る。皇帝 とオス マ ンの 強 い 要請 で ,鉄 材 とガ ラ ス 天 井構 造 の 明 る い 建物 とな り,'54年 か ら'66年 にか け 10棟 完 成 した。「鉄 と ガラスの光 り輝 くカテ ドラル」 と,ど の新 聞 もそ の近代美 を絶賛 して い る。 付記 してお くが ,こ の 第二 帝政期近代建築 の シ ンボル となった 中央市場 は現 存 して い ない 。 一 世紀 間パ リの 胃袋 としての役 目をはた したが ,老 朽化 と手 狭 にな ったため ,1969年. ,パ リの郊外 ラ ン ジ ス に移 転 し,そ の 跡 地 は現 在. パ リの新名所 「 フ ォー ラム ・デ ・ ア ール」 となって い る。 か つ ての イノサ ン 墓地 か ら中央市場 ,そ して今 フ ォー ラム とい う変遷 に思 い をはせ る と歴 史的 興趣 が つ きない。 中央市場 の ほかで 第二 帝政期 に建 った著名 な鉄 とガラス天丼 を もつ 建造物 とい えば,サ ン・ ラザ ール駅 や ,百 貨店 (現 存す るボ ン・マ ル シェや プラ ン.

(9) 清 水. 正 和. タ ン),シ ャ ンゼ リゼの 産業館 ('55年 と'67年 の パ リ万 国博 会場。 の ち に撤 去 され ,跡 地 にグラ ン・パ レが 建 つ 。)な どその 数 は多 い。 まさ し く第 二 帝 政期 は「鉄 とガラスの 時代」 の 開幕期 で あ る。豪壮 な正面玄 関 と優美 な鉄製 バ ル コニー を もつ ,い わゆるオス マ ン様式 の新 アパ ル トマ ンの街並 み ととも に,鉄 とガ ラスの 明 るい建造物 は,パ リの近代化 に大 きな彩 りを添 えた ので あ った。. (4)上 ・ 下水道 先述 の よ うに,汚 物 の悪臭 にみ ちたス ラムの都 パ リの衛 生化 は大改造 の 第 一 目的 で あ ったため ,上 ・下水道 の整備 は道路網 の造成 と 連動 して大 々的 に進 め られた。 そ もそ も市民 に きれ い な飲 料水 を供 給す る上 水道 の設置 は,ロ ーマ を範 と す るパ リ建設 をめ ざ した大 ナポ レオ ンの夢 で ,す で に着 工 されて い たが ,オ スマ ンはその完全 な実現 に極 めて意欲 的 で あ つた。彼 は有能 な水道技 師 ベ ル グラ ンの協 力 を得 て ,ロ ーマ水道 の例 にな らい取水 源 を南 郊外 の ヴ ア ンヌ渓 谷 に求 め ,貯 水池 を造 り,水 道管 を引 く大 工 事 を進 めた。完成 は帝政崩壊後 の '75年 で あ るが ,こ の完成 でパ リ市民 の飲料水 事情 が 質量 ともに飛躍 的改 善 をみ たのであ る。 下水道 の整備 も緊急 を要す事業 だった。大改造 以 前 は,汚 水 や汚物 は道路 の 中央 に造 った溝 に流 す とい う非衛 生 きわ まる シス テ ム が大半 で あ ったの だ。『 レ・ ミゼ ラブル』 に描 かれ て い る よ う に地 下 の 下水 道 はす で にあ つた とはい え,普 及率 はわず かで , しか も汚水 を市 中 のセ ー ヌ川 に流 して い たの で あ る。 そ こで オ スマ ンは,す べ ての道路 の 下 に下水道 を通 し,汚 水 と雨水 を分 離 させ ,汚 水 をセ ー ヌの は るか川下 に導 く方式 を考 えた。 こ う して'52 年 に僅 か 107.5キ ロ だ つた下水 道 が 帝 政末 の '69年 には 560キ ロの 5倍 に達 した。 しか もセ ー ヌ川が増水 して も汚水 が逆流 しない よ うに低地帯 に大下水 渠 を埋 設 した。 この汚水 防止 に極力配慮 した下水道 の実現 はパ リの衛 生化 を 画期 的 に高 めた こ とは確 実 で ,技 術 的傑作 と して世界 の注 目をあ び,範 とさ れたのであ った。.

(10) 64. 19世. 紀のパ リ近代化 と芸術家たちの対応. (5)街 灯 犯罪 の多発 す る暗 い夜 の 町 を明 る くす るガス灯 の増設 も道路 の 整備 と併行 して積極 的 に進 め られ た。50年 代 ,街 路 照 明 の 管轄 は警 察 で あ つたが ,'60年 にパ リ市域 が拡 大 してか ら市 の 管轄 とな り,以 後 10年 間 に 一 万五千個 も増設 され ,パ リの夜が暗闇か ら解放 され たのであ った。 なお 第 二 帝政期後 も飛躍 的 に街灯増設 は進 み ,パ. ,. リが い わゆ る 「光 の都」「歓楽. の都」 となるの は,周 知 の よ うに電気 の 時代 には い る 80年 代 か ら世 紀末 に かけてであ る。 以上 の よ うに,わ ず か 20年 た らずで ス ラ ム化 して い た古都 パ リが近代都 市 へ と一 変 した ので あ った。. 3。. ヽ に一― 亡 画 家 た ち の 対 応 ―― 印象派 を中″. 第 二 帝政期 にお ける近代都市 パ リの出現 に よる都市環境 の激変 は,当 然 住民 の生 活 に大 き く影響 し,飛 躍 的な文明化 と市民社会 の成熟 を促 したが. ,. ,. それ と相侯 って ,芸 術 界 も 19世 紀 後半 には い るや ,大 き く様 変 わ りした の であ った。す なわち,世 紀前半 の主 潮 で あ った ロマ ン主義 か ら一転 して ,現 実 主義 的傾 向一― 美術 ・文 学 にお け る レア リス ムーー が主流 とな るの で あ る。 た とえば ,ゴ ン クール 兄弟 は述 べ て い る。「現今 の小 説 は生 まの現 実 の 記録 か ら成 ってい る。歴史家 は過去 の語 り手 で あ り,小 説家 は現在 の語 り手 だ。 」 (1864.10。 24の 「 日記」)と 。 つ ま り,現 実社会 の急変 が芸術家 たちの 現実 へ の 関心 をい やが うえ に も刺激 し,作 品制作 では もはや従来 の よ うに伝 説 とか神話 や過去 の 歴史的事件 を主題 とす るのではな く,自 らの生 きて い る 現実社会 と人 間 を こそ主題 にす べ きだ とい う気運が美術 に も文学 に も昂 じて きた ので あ る。 た とえば ,ク ールベの現実 的画布 『オ ル ナ ンの埋葬 』 (1850) や ,フ ロベ ー ルが実 在 の事件 に取材 した 『ボ ヴ ァリー夫 人』 ('57)を 書 い た こ とな どはその好例 で あ る。 それ では まず ,同 時代 の 画家 たちが パ リの近代 化 に作 品 をつ う じて い か に対応 したか を概 観 してみ よ う。 現在 で こそわれわれ の 目に は,オ ルセー美術館 の壁 面 を飾 るクールベの レ.

(11) 清. 水. 正. 65. 和. アリスム絵画や,マ ネを先駆 とするモ ネ, ピサ ロ,ル ノワール, ドガらの印 象派絵画が,第 二帝政期 か ら次 の第三共和政初期 にかけての美術界 の主流 と して映 じるが,当 時の彼 らは,画 家 の登竜門である官展. (サ. ロン)を 牛耳 る. 因襲的なアカデ ミーや一般大衆か ら罵倒 と嘲笑 を受け,苦 難 の闘い を強い ら れていたことは忘れてはならない。そ もそ も第二帝政期美術 の支配的 な傾 向 はといえば,ォ ペ ラ座の例 にみるように,過 去 のバ ロ ックや ロココ様式 をご ちゃまぜ に したいわゆる古典的折哀主義 であ り,そ れが皇帝 をは じめ新興 ブ ルジ ョア階級 の愛好す るところであ った。あの ロマ ン派 の巨匠 ドラクロワで す ら,「 羊 の群れにとび こんで きたオオカ ミ」 と,ま だ異端視 されてい たの である。だか ら日常 の現実に取材 したクールベの 『オルナ ンの埋葬』や 『画 家 の ア トリエ』 (1855),さ らにマ ネの 『草 上 の昼 食』 ('63)や 『オラ ンピ ア』 ('65)は ,頑 迷な保守的アカデ ミズムに対す る芸術 の革新 をめ ざした彼 らの果敢 な挑戦であったのだ。 1850年 のサ ロンに出品 ヒ ノた 『オルナ ンの埋葬』 は,ま さ しく,ク ールベ の敵 の牙城へ の な ぐりこみだった。 日常 の埋葬風景な ど絵画ではない と酷評 されたのに対 し,彼 は,「 おれは天使 など見 たことがないか ら描 けない」 と うそぶいた。 また,55年 の第一 回パ リ万国博記念 のサ ロンか ら『画家 のア トリエ』 を拒 否 された ときには,会 場 のそばで個展 を開 き,「 レア リス ト・ ギュス ター ヴ・クールベ」 と自称 しては,「 現実 の生 きた芸術 の創造が おれ の 目的だ」 とレアリスム宣言 をしたのであった。 この宣言が発端 となって レ アリスムが帝政期 の文学 にも波及 したのであ った。ちなみに,シ ヤンフル リ とデュ ラ ンティは 57年 に機関誌 「 レア リスム」Lι. Rど α JJs“ ιを発行. を展開 してい る。その一人 ミュルジェールの『ボエーム. して運動. (放 浪芸術家)の. 生. 活情景』 (1848)は ,オ ペ ラ『ラ・ボエーム』 の原作 としてわれわれの よ く 知る ところである。 クールベ と同 じく絵画の革新 をめざしたマ ネの受けた罵倒 もひどく,大 き なスキ ャンダル となったことは有名 だ。'63年 の「サ ロン落選展」 に出品 し た 『草上の昼食』 も,'65年 のサ ロン入選作 『オラ ンピア』 も,伝 統 の遠近.

(12) 19世 紀 の パ リ近 代化 と芸術 家 た ちの対応. 法 や陰影 の 肉づ け を無 視 して い て絵 になって い ない との描法 上 の非難 に加 え て ,現 実 の女性 が裸 になって い るのが け しか らん との道徳 的非難 を浴 びたの だ った。裸体 は古典画 の ヴ イー ナ スの よ うに神話 の女性 な らいいが , 日常現 実 の絵 で は言語道 断 とい う時代 であ った。 ちなみ に,「 落選展」 の 年 のサ ロ ンで は,体 制派 の カバ ネルの 『 ヴ イー ナ ス誕生 』 が絶大 な賞讃 を呼 び,ナ ポ レオ ン三世が 買 い上 げた りして い る。当時 ,ジ ヤー ナ リス トと して出発 して い た青年 ゾラが ,サ ロ ン評 で カバ ネルの ヴ イー ナ ス を「甘美 な娼婦 の よ うで 淫 らであ る」 と酷評 し,反 対 に,マ ネの絵 こそ 「革新 的 な現代絵画 だ」 と賞 讃 し,そ の謝ネしを こめて マ ネが 『若 きゾラの 肖像』 ('68)を 描 い た。 当時 の 美術 界 の新 旧両派激突 の雰囲気 を伝 えるエ ピソー ドであ る。 この ス キ ャ ン ダル事件 を契機 に,マ ネを中心 として モ ネや ル ノワール,セ ザ ンヌ等 の 若 い 革新 的画家 た ちが 60年 代後半 に集 った「 カフェ ・ゲ ルボ ワ の集 り」 は有名 であ る。 当 カフェがモ ンマ ル トルの西方 バ チ ニ ョール地 区 に あ った ところか ら「バ チ ニ ョー ル派」 と呼 ばれ るグル ー プで あ る。 この若 い 面 々が ,普 仏 戦争 とパ リ・コ ミュ ー ヌ後 の 70年 代 に 「印象派」 グル ー プ を 形成す るこ とになるのだ。 ともか く,絵 の主題 か らい って ,風 景 で も人物 で も,身 近 な 日常現実 にモ チー フ を求めて描 くこ とが ,ク ールベ を発 端 に,マ ネ,印 象派 へ と受 けつ が れて い ったので あ った。 この こ とは,パ リの近代化お よび市民 生活 の 変化 と 密接 な相関 々係 にあ るこ とは言 うまで もない。 ここで興味深 いのは,彼 ら芸 術 の革新 をめ ざす画家 たちが ,権 威 に挑戦 しなが らも,帝 政が強行 した大改 革 で急変 した現実風景 を嫌悪す る どころか ,積 極 的 に近 代美 を見出 し,そ の 表現 に没 頭 した とい うことで あ る。 われわれは印象派 の絵 とい えば ,光 と色 彩豊 か な 自然 の風景画 をまず想 い浮かべ るが ,近 代化 したパ リの都市風景 も 彼 らの重要 なモチー フ となったのであ った。彼 らの都市風景画制作 は,パ リ が敗戦 とコ ミューヌ内戦 の荒廃 か ら立 ち直 り,ふ たたび活気 と華や か さを取 り戻す 70年 代後半 か ら 80年 代 にかけて集 中 して い る。それ らの著 名 な例 を い くつ か眺 めてみ よ う。.

(13) 清 水. 正 和. 67. まず,印 象派 の 中心的存在であるモ ネであるが,彼 の描 い た'77年 の連作 『サ ン・ラザ ール駅』 (オ ルセー美術館お よびマルモ ッタン美術館 )は , まさ しく「鉄 とガラス」 の建造物 と科学文明の象徴 たる蒸気機関車 のか もし出す 美 に惹 きつ けられ て描 い た傑作 である。そのほか,'78年 のパ リ万国博記念 祝祭 の華麗 な賑 わい を描 い た 『モ ン トルグイユ街』 (オ ルセ ー)な ども注 目 に値す る。 つ ぎに,生 命 の讃歌 にみちた女性像 を生涯描 きつづ けたルノワールの 『ム ー ラ ン・ ド・ラ・ギャレッ ト』 ('76,オ ルセー)は ,当 時流行 した野外 ダ ン ス場 の楽 しい情景 をい きい きと描 き出 してい る。 また,『 ボー トマ ンたちの 昼食』 ('81,ワ シン トンのフ ィリップ・コ レクシ ョン)の 愉快 な画布 は,当 時の若 い男女 の太陽族 さなが らの風俗 をみ ごとに表現 してお り,セ ーヌ川で ボー トを楽 しんだモーパ ッサ ンの 自己体験 に基 づ くあの短篇 『 蝿』 を連想 させるような情景 である。 印象派 の中で,自 然 の情景 をほとんど描かず,近 代都市パ リのさまざまな 人物像 を巧みに描 い たのは ドガである。'75年 のオペ ラ座完成後 の作品 『ス ター・舞台 の踊 り子』 ('77,オ ルセー)は ,彼 の代表傑作 とい えよう。その ほか,『 ロンシャン競馬場 の風景』 の数 々,『 株式市場 にて』,『 アイロンをか ける洗濯女』,『 アプサ ン ト,カ フェにて』『浴槽 の女』 シリーズ な ど,い ず れ もゾラやモーパ ッサ ンの小説 の挿絵 になるような当時の市民 の情感あふれ る「生 きた情景集」 となっている。 以上の三人のほかにも,た とえばピサ ロの 『オペ ラ座通 り』連作 や,カ イ ユ ボ ッ トの代表作 『雨』 ('77,シ カ ゴのアー ト・イ ンステ イテ ュー ト)な ど は,大 改造 で出現 した近代都市パ リの街並みの情景 を詩情豊かに伝 えるもの であ る。 もちろん, ドー ミエ の ように,帝 政 の反動的体質 を風刺 した絵や,'71年 のパ リ・コ ミューヌの悲劇的なパ リの情景 を記録的に描 い た絵 (大 半がカル ナヴァ レ博物館蔵)も あ り,当 時 の画家 の対応 の一 面 として無視 で きない が,そ れ らの風刺画や記録画 とは対照的 に,印 象派 の画家 たちの描 いた作品.

(14) 68. 19世. 紀のパ リ近代化と芸術家たちの対応. の大半 は,新 たに出現 した近代都市 パ リの色 彩豊 かな華 や ぐ情景 で あ った こ とは事実 で あ る。政治や社会 の批判 は抜 きに して , もっぱ ら明 るい光 の効果 を画面 に描 出す るの を第 一 目的 とした 「外 光派」 こ と印象派 と しては当然 の こ とで あ った とい える。 ともか く,近 代 パ リの 出現が ,マ ネや印象派 の面 々 に近 代美 の発見 を促 し,彼 らの絵 画革命 を大 き く進展 せ しめたのであ った。 なお ,彼 らの旗 上 げ した第 一 回印象派展 (1874)の 会場 が ,グ ラ ン・ ブ ール ヴ ァールのキ ャ ピュシーヌ大通 りに面 した 「鉄 とガラス」 の 明 るい ナ ダール (著 名 な写真 家 で ,カ フエ・ ゲ ルボ ワ以 来 の 仲 間)の 写真館 で あ ったが ,こ. の こ とは近 代 パ リの 出現 と相侯 って絵画革命がお こなわれ た こ との一 つ の 象 徴 的出来事 で あ った とい えるだろ う。 さい ご に付 記 してお くが ,「 花 の パ リ」 の 華 やかで歓楽 的 な世相 と共 に. ,. 近代化 の裏面 とい える社 会 の 暗部 に リア ル な視線 を注 ぎ,哀 感 にみ ちた庶 民 や芸 人たちの姿態 を描 い た ロー トレックや ス タ ンラ ンの ,ポ ス ター を主 とす る絵 の現 れ るの は世 紀末 の 90年 代 で あ るが ,そ の 詳述 は本稿 で は割愛 して お く。. 4。. 自然 主 義 作 家 の 対 応. ―. ゾラを中心 に ―. 第 二 帝政期前半 の 50年 代 は,い わゆ る権威帝政期 で ,政 府 の言論統制 が 厳 しく,表 現 の 自由が極度 に制 限 され る反動期 で あ った。 そ のため ,美 術 界 と同 じく文 学界 で も,真 摯 に現実社会 と人 間 を観察 し,真 実 の表現 をめ ざす レア リス トたちに とつては,受 難 の あ いつ ぐ時期 だった。 フ ロベ ール の 『ボ ヴ ァリー夫 人』 とボ ー ドレールの 『悪 の華』が , ともに風 俗素乱 の罪 で 1857 年 に起訴 され た事件 は,言 論弾 圧期 の 象徴 的出来事 であ る。 この 同 じ年 に. ,. バ ル ビゾ ン派 の 画家 ミレーの あ の有名 な 『落穂 ひろい』 です ら,労 働 の辛 さ を訴 える共和思想宣伝 の絵 だ と非難 を受 ける しまつ であ ったのだ。 ところで ,フ ロベ ール とボ ー ドレールが 帝政期文学界 の 中心 的存在 で あ っ た とは い え,両 者 は ロマ ン主義 時代 の 古 きパ リで成 人 した世代 (共 に 1821.

(15) 清 水. 正 和. 年生 まれ )で あ る。彼 らは大 改 造 で 急 変 す るパ リ とブル ジ ョワ社 会 にた い し,嫌 悪 し呪誼 は して も,讃 美 とはお よそ程 遠 か った。 た とえば フ ロベ ー ル は,『 ボ ヴ アリー夫 人』 につづ き第 二 の現 実 的長 編 『感 情教 育』 ('69)を 書 くが ,こ れ とて も'48年 の二 月革命前 後 の 自 らの青春体験 に基 づ く自伝 的 回 想小 説 で あ り,大 改造下 のパ リ大 変動 とは全 く縁遠 い。 また,ボ ー ドレー ル が古 いパ リの消失 を歎 い た 『悪 の華』 の一 詩篇「 白`鳥 」 ('59)は あ ま りに も 有名 だ。 古 きパ リは もはや消 え去 った 都市 の 移 り変 わ りのはや きこ と 人 の心 の変化 に もまさる…… なお ,新 しい オスマ ンのパ リで彼 の好 んだのは公 園だけ で あ った よ うだ。母 宛 の手紙 の 中 で ,「 パ リで美 しい と思 えるの は,燦 々 と陽光 の そそ ぐみ ご と な公 園 だ け です」 ('650203)と 書 い て い る。 また,ナ ポ レオ ン三 世 の ク ー デ タ後 ,帝 政崩壊 までの 18年 間 ,ベ ル ギ ー の ブ リュ ッセル と英領 ガー ンジ ー 島 に亡 命 したユ ゴー に して も,『 レ・ ミゼ ラブル』 を 62年 に発 刊 し,世 界 中 の大評判 となるが ,こ れ も 30年 の七 月革命前後 の古 いパ リを舞 台 と した 作 品 で あ り,オ スマ ンのパ リとは無縁 で あ る。 これ ら世 紀前半 の作家 ・詩人 とは対照的 に,出 現 した近代都市 パ リを真 向 か ら作 品 に取 りこんでい くの は,/い うまで もな くよ り若 い世代 の ゾラ,モ ー パ ッサ ン, ドー デ等 ,自 然主義 の作 家 た ちであ った。 中 で も,「 第 二 帝 政 時 代 の一 家族 の 自然 的 0社 会的物語」 の 副題 を付 した 『ル ゴ ン=マ ッカー ル叢 書』 20巻 (1871∼ '93)を 書 い たゾラ (1840-1902)が そ の筆頭 で あ る。 周知 の よ うにゾラは,幼 少年期 を南仏 の エ クス ・ ア ン・ プ ロ ヴ ァ ンス でセ ザ ンヌ と親交 を結 んで過 ご したが ,パ リに出て来 たのは,ま さに大改造 さな かの 1858年 ,18歳 の ときで あ った。母 と二 人 での貧 窮 生 活 で ,カ ル チ エ ・ ラタ ンの屋根裏部屋 を転 々 としては,文 学 へ の野望 を燃 やす放浪芸 術家 と し て青年期 を過 ご して い る。 い わ ば 帝 政期 パ リで の どん底 生 活体験 者 で あ っ た。 で は彼 の 文 学 的野望 とは。 そ れ は,バ ル ザ ックが 『 人 間喜劇』 で 世紀.

(16) 70. 19世. 紀のパ リ近代化 と芸術家たちの対応. 前半 の社会 を綜合的 に描 い た ように,自 らの生 きる第 二 帝政社会 を描 くこ と だ った。そ して独 自性 として ,最 新 の遺伝学 や医学 ・生理学 の知識 を取 り入 説 を書 くこ とを考 え,構 れ ,科 学 的実証方法 で (い わゆ る 自然主義手法)月 ヽ 想 をね った。す なわ ち,南 仏 の ル ゴン とマ ッカールの二 家系 の結合 か ら生 ま れ た子孫 を第 二 帝政社会 の あ らゆ る階層―― 政界 ・実業界 か ら労働者 ・娼婦 にい たる一一 に進 出 させ ,そ れぞれ の運命 をた どるこ とで帝政社会 の全貌 を 描 くとい う構想 であ った。執筆 に先立 ち,ゾ ラが 作 品舞台 となる場所 を詳 し く調査 してプラ ンをね った こ とは有名 であ る。彼 自 らの生活体験 と綿密 な調 査資料 に基 づ い て書 かれ た当叢書 は,ま さ しく第 二 帝政社 会 の全貌 を叙 事詩. 的 に活写 した 「生 きた証言」 といってよい。ちなみに歴 史家がオスマ ンのパ リを論 じるときには,必 ず ゾラの作品を引用 してい る。 ところで,当 叢書 20巻 中,第 二 帝政期 のパ リを主舞台 として い る作 品 は,半 分以上の 12巻 を数える。制作年代順 にそれぞれの主題 と特色 を以下 概観 してお こ う。 オスマ ンの改造事業 を中心主題 に取 り組 んでい るのは,第 2巻 目の 『獲物 の争奪』肋. C夕 だι (1872)で. ある。 この象徴的 なタイ トルが示す ように,パ. リ大改造に伴 う不動産投機 で大儲 けする男. (ル. ゴン家系 の一 人で通称サ ッカ. ール)の 話 を軸 に,彼 が資金調達 のために再婚 した第 2の 妻. (富 豪 の娘 )と. 子 との不倫 の愛 をか らませた作品である。「い くつ もの地区 は溶け 前妻 の虐、 て しまうのだ。そ して,こ の大桶. (キ. ユーブ)を 熱 してか きまぜ る人間の手. に黄金が ころが りこむのだ」 と,改 造計画 をあ らか じめ知 ってい るサ ッカー ルはほ くそ笑む。つ まり,金 銭欲 ,愛 欲 の渦巻 く第二帝政社会の額廃的な実 体 をえ ぐった作 品 である。「道路網」建設 の実情 が 詳細 に織 りこ まれてお り,土 地投機や地上げなど,わ が国のバ ブル過熱期 をほうふつ とさせ るもの がある。なお,当 作品 は 1965年 ,時 代背景 を現在 に して映画化 された。監 督 はロジェ・ヴァデ イム。邦訳 タイ トルは「獲物 の分け前」。 大改造で新 しく建設 された鉄 とガラスの中央市場 を背景 とする作品は,第. 3巻 目の 『パ リの胃袋』L`贄 κrrθ グιPα rJs('73)で あ る。 ギアナの流刑地か.

(17) 清. 水. 正. 和. ら脱 走 して きた共和 派 の青年が ,利 己的な市民 の密告 で再逮捕 され る話 を主 軸 とす る作 品 で あ るが ,青 年 の働 い て い る 中央市場 の生 動 的 な描写が印象深 い。「エ ジプ トの墓 を想 わせ る よ うな重苦 しい 国務 院 よ りも,軽 や か な鉄 の レースでで きた中央 市場 (レ ・ ア ー ル)の 方 が 私 は好 きだ」 (「 ラ ・ ク ロー シ ュ」紙 ,'72,6,14付 )と. ,ゾ ラは この 新 建 造 物 を賞讃 して い るが ,当 作 品. の描写 にそれが 強 く反映 して い る。 政 界 と社交界 の裏面小 説 とい えるのが ,第 6巻 目の 『 ウジェーヌ・ ル ゴン ι JJθ ん θ gθ 4('76)で あ る。皇帝 に忠 勤 を示 して大 ιE“ g2ん ιRθ 夕 閣下』Sθ ん助 ε 臣 にの し上が るル ゴ ン家 の男 と,皇 帝 まで も籠絡 して政 界 の 人事 をかげで操 る社交界婦 人が 中心 人物 で ,第 二 帝政 にお け る上 層 階級 の政治的腐敗 を風刺 し告発 した ,い わば ドー ミエ風 の作 品 で あ る。 名実 と もにブ ラの代 表作 とな って い る第 7巻 目の 『居 酒屋』L■ ssθ zθ jr “ ('77)は ,モ ンマル トルの場末労働 者街 を舞 台 と し,貧 困 と道徳 的腐敗 ,ア ル コー ル 中毒 な ど,下 層社会 の悲濠1的 実情 を迫 真 的 に描 い た作 品 で ある。大 改造 にお ける市 中 と場末 を結 ぶ 「第 三 道路網」建設 の状況が作 品中 に織 りこ まれて い る。7回 映画化 されて い るが ,1956年 のル ネ ・ ク レマ ン監督 の もの が最 も秀 れて い るだろ う。 セーヌ とシャン・ ド 0マ ルス (現 在 エ ッフェル塔 の立 つ広場 。塔 の建立 は. 1889年 で 第二 帝政 時 には まだ存 在 しな い)を 見渡 せ るパ ッシ ー の 高級 アパ ル トマ ンを舞台 とす るのが ,第 8巻 目の 『愛 の一 ペ ー ジ』 υttθ. グ'α θ r ““ ('78)で あ る。年金生活者 の母 と病 身 の娘 の愛憎葛藤 の悲劇 で あ るが ,窓 外 Pα gι. にひろが る四季折 々の景観描写が きわめて印 象 的 で詩情 をたたえ,悲 劇 に陰 影 を添 えて い る。 ちなみ に,ゾ ラの作 品 の愛読者 で あ った ゴ ッホは,こ の作 品 のパ リ描 写 に感動 したのであ った。「ぼ くは灰 色 づ くめの パ リを巧 み な腕 で描写 して い る作家 にた いへ ん感銘 を受 け た。 ゾラの 『愛 の一 ペ ー ジ』 で. ,. この都 会 のいろん な光景が ,た いへ ん壮麗 に描 かれ ,ス ケ ッチ されて い る。 ……・」 (弟 テオ宛 の手紙 ,1882.7.6付 ) 『居 酒屋』と並 ぶ ゾ ラの代 表作 で あ る 第 9巻 目の『ナ ナ』Ⅳしんα ('80)は. ,.

(18) 72. 19世. 紀 のパ リ近代化 と芸術家 たちの対応. グラ ン ・ブ ール ヴ アールや モ ンソー地 区 の新興高級住宅 区域 を主要 舞台 と し て い る。『居 酒屋』 の 労働 者街 か ら「金蝿 」 の よ うに飛 び立 ち,美 しい 肉体 を武器 に,「 金髪 の ヴ イー ナ ス」 ともてはやす上流 社交 界 の 男 たち を手玉 に とっては破 減 させ る女 優兼高等娼婦 の栄光 と悲惨 の物語 であ る。 ナナが 帝政 発 足 の '52年 生 まれ で ,普 仏 戦 争 勃 発 の 年 '70年 に天 然 痘 で 腐 乱 死 す る 姿 は ,栄 華 と腐敗 ,そ して崩壊 へ とた どった帝 政 の 運命 の 象徴 そ の もので あ る。 フ ロベ ー ルは「バ ビ ロニ ア風 の 巨大 な神 話」 だ と激 賞 して い る. (1880。. 2.15.ゾ ラ宛 の 手 紙 )。 この 作 品 の 映 画化 も多 い が ,筆 者 には 1926年 の ジ ャ ン・ ル ノワール監督 の もの (無 声 )が 印象深 い。 ―Bθ 夕 θ ('81)は ,オ ペ ラ座 に近 い シ ョワズ 次 の 第 10巻 『 ごった煮 』 Pθ ′ jJ′. ール街 の高級 アパ ル トマ ンを舞台 として い る。南仏 か ら一 旗 あげ よ う と上 京 した美貌 の青年 ムー レを中心 に,中 ・小 ブルジ ョワ階級 の 私 生 活 の乱倫 を描 い て い る。 ムー レは就職先 の 高級服飾店 の女主人 と巧妙 な手 口で結婚 にこ ぎ つ ける。 い わばモ ーパ ッサ ンの 『ベ ラ ミ』 の ブラ版 とい った ところであ る。. 1957年 に名監督 ジ ュ リア ン 0デ ュ ヴ イヴ ィエ が映 画化 した。名優 ジ ェ ラ ー ル ・ フ ィリップ とダニエ ル ・ ダ リュー主演。 邦訳 は「奥様 ご用心」 と商魂 ま るだ しにふ ざけ て い る。 『ごった煮』 の続篇 ともい うべ き次 の 第. H巻 『オ 0ボ ヌール・ デ 。ダー ム. s('83)は ,帝 政期 に生 ま θ “ ・ ・マ ル シ ェ」 や 「 オ プ ラ ン タ ン」 (と もに現 存 ) れ繁 栄 す る百 貨 店 「ボ ン あθ ′rグ θ s Dα (ご 婦 人方 の幸福 )百 貨店』Att Bθ 刀. をモ デ ル と した商業界小 説 であ る。前作 の 主人公 ムー レが ,妻 の死後引 きつ い だ店 を改築拡大 して服飾百貨店 とし,た くみ な商法 と華や か な飾 りつ け で パ リの全女性 を魅 了す る。「 白生地大売 出 し」 の 華麗 で 詩 的 な描写 な どは圧 巻 であ る。大企業 の 隆盛 と小企業 の衰退 な ど,世 紀後半期 のパ リ商業 界 の実 情 を活 写す る と共 に,ゾ ラの共鳴す るフー リエ の ファラ ンステール (労 働 と 資本 の理想 共 同体 )の 構想 まで織 りこんだ多分 に理想主 義 的 な作 品 となって い る。 ヒ ッ トラ ー も黙認 した のか ,大 戦末期 の 1943年 ,ナ チ ス ・ ドイツの 占領下 にア ン ドレ・ カイヤ ッ ト監督が当作 品 を映画化 して い ることは興味 ぶ.

(19) 清 か. い. 水. 正. 和. 。. 19世 紀後半期 の芸術界 を主題 として い るの は,第 14巻 目の『制作』L'α ―. “ ソ rι ('86)で あ る。 マ ネの落選展 での ス キ ャ ン ダルや ,印 象派画家 たちの苦 闘 をモ デ ル に して い る。絵 画革新 の情熱 に燃 え,保 守 的 なサ ロ ンに挑戦す る 画家 の ク ロー ドは,い わばマ ネ とセザ ンヌの アマ ルガムで あ る。彼 が初 めて 出品す る作 品 『外 光』 は ,ス キ ヤ ン ダル を起 こ したマ ネの 『草 上 の昼食』 そ の もので あ る。 なお ク ロー ドの友 人 と して登場す る小 説家サ ン ドーズ はゾラ 自身 で あ り,作 品創造 の苦 しみ と芸術 の呪縛性 を告 白 した 自伝 的小 説 となっ て い る。 ゾラ 自身 ,青 年期 に友 のセザ ンヌ とい つ しよにマ ネを中心 とす るカ フェ ・ゲ ルボ ワの グルー プに加 わ り,彼 らの革新運動 を強 力 に支持す る論 を 新 聞 ・雑誌 に書 い て い るが ,そ れ らの体験 が存分 に織 りこ まれてお り, きわ めて迫真 的 で あ る。 た とえば,サ ロ ンの会場 となったガラス天丼 の 明 るい シ. ャ ンゼ リゼの産業館 の描写 ,お よび群 衆 の押 し寄せ る展覧会 の情景描写 な ど は,生 まな ま しい 印象 を与 える もので あ る。 第 二 帝政期 に飛躍 的 に進展 す る機械文 明 の一 つ の象徴 とい える鉄道―一 作 品 で はパ リ・ル ア ー ヴル間一― を舞 台 と した作 品 は,第 17巻 の 『獣 人』助 BOた ん αjκ ι ('9o)で あ る。生 き物 の よ う に機 関車 を描 写 して い るのが 特. “ “ 色。運転士 のい ない列車が戦場 に向 か う兵 士 を満載 して闇の荒野 を暴走 す る 結末 は,崩 壊 に突 き進 む帝政 の運命 の象徴 にほか な らない 。当作 品 は,1938 年 ,ジ ヤ ン ・ル ノワー ル監督 ,ジ ヤ ン 0ギ ャバ ン主演 で 映画化 されて い る。 名作 の一 つ だろ う。 第 二 帝政期 をつ う じて活況 を呈 した株式取引所 を舞台 とす る金 融界小 説 が ″ ('91)で あ る。先 の 『獲 物 の 争奪』 の主 人公 サ 第 18巻 目の 『金 』L■ 昭ι ッカールが再登 場 し,投 機 師 の才覚 を発揮 して鉄道や鉱 山開発 へ の投資 を看 板 にす る銀行 を創設 し,株 価操作 で大儲 け をす るが ,さ い ご には株 の暴 落 で 銀行 は倒 産す る。結局 , もっ とも被害 を蒙 るのはへ そ くりを投資 した小 日 の. 株 主 とい う現在 で もよ くみ る社 会悲劇 で あ る。 第 二 帝政期物語 たる 『ル ゴ ン=マ ッカール叢書』 の実質的 な完結編 とい え.

(20) 74. 19世. 紀 の パ リ近代 化 と芸術 家 た ちの対応. るのが,第 19巻 目の 『壊減』助. Dご b′ ε ル. ('92)で あ る。'70年 勃発 の 普仏. 戦争 ,第 二帝政の崩壊 ,プ ロシア軍のパ リ攻囲 と敗戦,つ づ くパ リ 0コ ミュ ーヌの成立 とヴェルサイユ政府軍 との内戦 による壊滅 を主題 としてい る。 ゾ ラが報道記者 として実際 に目に した コ ミューヌ内戦でパ リが炎上する「血の 週 間」 ('7105021-28)の 巻末 での描写 は こ とに迫真 的 であ る。「血 と炎」 の終末的な イマー ジュに溢れ,現 代 の黙示録 といった印象 を与 える。英雄 も な く,な んの戦争美化 もない,現 在 にもつ うじる戦争 の実態 をえぐった作品 となってい る。 以上のように,帝 政期パ リを舞台 とする作品群か ら推測 で きることである が,ゾ ラは印象派画家 たちと同 じように,整 然 とした街並 みや, と りわけ. ,. 中央市場 とか駅 ,百 貨店 などの鉄 とガラスの新建造物 に近代美 を見出 し,賞 讃 したとはい え,叢 書全体 をつ うじて近代社会の裏面 に容赦 ないメス をふる い,帝 政の犯罪性 を激 しく告発 したのであった。表面 の華やか さだけではな く,現 実 の暗部 にメス を入れたか らこそ,『 ル ゴン=マ ッカール』が近代 パ リの出現期たる第二帝政史の生 きた証言 となっているのである。 ゾラよ りも lo歳 年少 のモ ーパ ッサ ン (1850-'93)に つい て少 し触 れてお こ う。周知 のように,彼 はフロベールやゾラと対照的に短篇 を本領 とし,300 を超す作品 を残 して い るが,そ れ らの 中で「市民物」 と分類 される もので は,彼 自らが海軍省 と文部省 の一小役人 として生活 し観察 した 70∼ 80年 代 のパ リ,つ まリオスマ ン改造後 の華麗 さを増 したパ リを舞台 に くりひろげら れる哀歓にみちた小市民たちの姿 が巧 みに描 き出 されてお り,現 在 にもつ う じる普遍性 を獲得 してい る。数少ない長編 では,最 も有名な『女 の一生』│ル ι Ⅵι ('83)は ノルマ ンデ ィー を舞台 と して い るが,一 方,「 あ る男 の一生」 ―ス所 ('85)は とい える『ベ ラ ミ』Bι ′. ,パ リの華や か なグラ ン・ブ ー ル ヴ. ァールや,作 者 自ら出入 した社交界 を舞台 に,狡 智 にたけた美男が出世する 物語 となってい る。 いわゆる資本主義全盛期 の世相 の表裏 を皮肉たっぷ りに 描 いてい る佳品であろ う。 これ ら市民物 のほかに,こ れ も作者 自ら従軍体験 を した普仏戦争 を題材 とす るデ ビュー作 の 中篇 『脂肪 の塊』Bθ. Jι. “. ル. S“. √.

(21) 清. 水. 正. 和. ('80)や ,パ リ攻 囲下 に市外 に釣 りに出かけた 2人 の小 市民 が プ ロ シア軍 に 捕 ま り銃殺 され る短篇 『二 人の友』Dθ tt A“ Js('83)な どは,ペ シ ミズ ムの 色 が 濃 い とはい え,現 在 もわれわれ の心 に強 い衝撃 を与 える 「戦争物」 の傑 作 で あ る。要す るに,モ ーパ ッサ ン もゾラ同様 ,あ るい は戦後世代 らしく ,. はるか に醒 めた 日で ,近 代化 して華 やか さを増す パ リの表裏 を, と くにそ こ に生 きる市民 の哀歓 こ もご もな生活情景 を観察 し,皮 肉 を こめて活写 した の で あ った。. 以上 の よ うに,ゾ ラやモ ーパ ッサ ン等 自然主義作 家 たちの作 品 を通 して. ,. われわれ は ,近 代都 市 パ リの 出現 した 19世 紀後半 の生 きた歴 史 の 表裏 をま ざまざ と追 体験 で きる とい うもので あ る。そ して ,そ の追体験 に基 づ き,パ リ近代化 をさまざまな見地か ら検討す るこ とは,わ れわれの生 きる現代社 会 の抱 える無 数 の都市 問題 を考 える上 で きわめて有効 で あ る と確信 す る。 た と えば ,先 述 のブラの 『獲物 の争奪』 や 『金 』 の主 題 で あ つた都市改造 に伴 う 土地投機 とか地 価 の暴騰 ,ま た悪 質 な株価操作 や銀行 の倒 産 な どは,現 在 で も身近 な社 会 問題 で あ る こ とは い うまで もな い。 つ ま り,以 上 の 考 察 を通 し,第 二 帝政期 に始 まった急激 なパ リ近代化 か ら派生 した もろ もろの都市 問 題 ・社会 問題 は ,高 度 に文 明化 の 進 んだ 20世 紀末 のい ま も同質 で あ る と痛 感す る。 (1998。 9). 参考文献 れ, Jean dcs Cars et PieⅡ c Pinon: Pα rjs O Ha“ ss′ %α れ. “ Lι ρ αrjグ. κ", Edition Ha"ss,7α κ. du Pavillon de l'Arsenal,Picard 6diteur, 1991.. Emile Zola:6E“ ソr`s. Emile Zola:Carκ. `な. cθ. ρJ2た 'S f5ソ θJso Cercle du Livrc Pr6cicux, 1966-69.. “ 9夕 ご′ ど'`れ ιs,Plon,1986.. Edmond et Jules de Goncourt:Jθ ““. Stefan Max:L`s″ 彪女孵πθ4ρ んθSι sグ 1966.. αみイツθお,FasqueHc et FlalTrnarion,1956.. `ι. αgrα れグ. `ソ. jι. J`daれ sι. gθ れ一Maε g“ αr′. `s Rο “. 。卜Hzet,.

(22) 19世 紀 の パ リ近 代 化 と芸 術 家 た ちの対 応. 76. Nathan Kranowski:Parisグ θκ∫ルs. 河野健 二編. :「. rθ. ″2α κ∫グ'E“ jル. Zθ ′ θ,P.U.F。. 1986。. フランス・ブルジ ョア社会 の成立―一 第 二帝政期 の研 究―一」岩. 波書店,1977. 柴田三千雄他編 :「 フランス史 3」 山川出版社 ,1995。 ル イ・シュヴァリエ著 ,喜 安朗他訳 :「 労働階級 と危険な階級 ,一 -19世 紀前半 のパ リーー」 みすず書房,1993. ル イ・シュヴァリエ著 ,河 盛好蔵訳. :「. 歓楽 と犯罪 のモ ンマル トル」文芸春秋. ,. 1986。. 鹿島 茂著. :「. 絶景 ,パ リ万国博覧会―一 サ ン=シ モ ンの鉄 の夢―一」河出書房. 新社,1992. ピエール・ギラール著 ,尾 崎和郎訳. :「. フランス 人の昼 と夜 ,1852∼. 1879」. 誠文. 堂新光社 ,1984. ロザ リン ド OH・ ウ ィリアム ズ著 ,吉 田典子 。田村 真理訳 パ リ万博 と大衆消費の興隆」工作舎,1996. クロー ド・ ピショワ著 ,渡 辺邦彦訳. NHK編. :「. :「. 夢 の消費革命―一. ボー ドレールのパ リ」勁草書房,1992.. :「 オルセ ー美術館」全 6巻 ,1990。. その他 ,印 象派 を中心 とする各種画集や展覧会 カタログ類。.

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参照

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