新出土
北朝刻字資料
見
田熊信之
○ はじめに 曹魏、十六国の時代以来、河南、河北の境域に位置する は、軍事、政 治上の拠点となり、またしばしば造都の地となった。殊に東魏孝靜帝元善 見の洛陽からの遷移以降、北斉 宣帝高洋以下後主高緯、幼主高恒に及ぶ 間、すなわち北周宇 の征平に至る時代には、 は王侯、貴顕、仏家、 衆庶の賑わう荘麗な大都となっている。そしてそこに生きた人々は終焉を 迎えると、 郊西南の地、 河の南岸の阜丘、野馬崗一帯の霊域や、南臺 のあった 西南の殷代以来の故地、安陽の周辺、またその南接の湯陰の地 区に 葬されていった。 こうした北朝ゆかりの地域は、近年来社会変化の りを受けて、開墾や 造成が進められて変貌し、そこから次々と墓葬にかかわる当代の貴重な遺 物を出土させることになった。出土遺物は、破壊され烏有に帰すこともし ばしばであるが、幸いに損壊を免れたものであっても、その多くは調査等 を経ることなく、民間の好事家の手中に入り、その消息を蒙昧とさせるに 至っている。 本稿では、近時著者がたまたま目睹した 都周辺出土の東魏 北斉期の 遺物のうち、歴史現実を確認し得る刻字資料に限り、石製墓誌及び磚造墓 銘の四、五を選び、所刻の文字を採録してその小攷を試みることとした。 Ⅰ 墓誌 ① 辛匡墓誌 この墓誌は二〇〇七年末に出土したものでいわゆる青石 (きわめて硬質 の青黒色岩石) 製のものである。 現在蓋石の有無は確認できないが、 題記 を欠く様 (後記) から蓋石は元来存在したようにも推測される。 誌石は厚 さ約 7 ㎝、一辺 33㎝のほぼ正方形で、誌身の上面を磨き出し、細 線 を刻み 施 して 9 × 9 の 行 、字 格 を 作 り、その中に 堂 々とした 楷書 の大字の七十五 文字の誌銘を 刻している。刻字は当代 通行 の 異体 字を 混 えている。 左掲 の 図 下に誌銘の 釈 文を記して お くこととする。 ( ・印=異体 字 表 記の文字 以下 同じ ) 学苑 日 本文 学紀要 第八 一 九号 八 五 ~九 四(二〇〇 九 一)東魏
北斉期の墓誌、墓磚
魏故龍驤將軍 直 ・ 散 侍郎辛 ・ 匡 ・ 字季政 ・ 隴 西狄 人青州使君之 第 ・ 五子以天平四年 ・ 在丁巳 ・ 正 ・ 月丁酉朔 ・ 廿 二日戊午終於 ・ 城北 時年丗五 蔡不従未 ・ 即 ・ 廿五日辛酉擁 ・ 於 ・ 斯 ここで記される魏は孝靜帝朝する東魏であり、龍驤将軍の号は従三品、 通直散 侍郎の官は従五品の品階である。墓主の辛匡は字を季政と言った 隴西狄道 (現甘肅省臨 ) を本貫とする人物で、北魏孝明帝の神 元年 (五 一八) に年五十五で卒しその後十一年を経て孝莊帝の永安二年 (五二九) に冠軍将軍号と南青州刺史の官を贈られた祥の第五子である。この辛氏一 系の記事は『魏書』巻四十五の辛紹先の傳下に数人が摘録されており、匡 については次のように記述されている。 烈弟匡、字季政、頗有 學。永安初釋 封丘令、加威烈將軍。時經河陰之役、 士多出外、 故匡爲之。 後 除 將軍、 符 璽 中。 卒於龍讓將軍、 直散騎 侍 。時年三十五。 散騎常侍、 將軍、雍州刺 (注1) 。 史書の記事には卒年月日及び葬 の月日の文が欠けているので、新出の 本墓誌は、匡の生卒を確認し得る貴重な資料ということになるが、墓誌中 の「青州使君」の文字が史書の文に見える贈官にかかわる文字とすれば、 誌石は贈官の行なわれた後に製作されて墓中に 納された可能性があるこ ととなる。葬 及び墓誌の壙内への納置は、刻銘に従えば、 蔡不従、未 。 とあるように、日を措かずに行なうことなく、占卜によって、卒日の三日 後の天平四年 (五三七) 正月廿五日を選び行なっていることになるが、 こ の 葬の月日については更に考究すべき余地があるようである。 匡は、誌石の卒年、年齢の記述からすると、北魏宣武帝元恪の朝の延昌 二年 (五一三) の生まれで、 帝拓跋濬の和平五年 (四六四) 生まれの父 祥の五十歳時の男子であることがわかる。誌石の刻字は、史上の人物であ る辛匡の実相を新たに蘇らせるのである。 ここで『魏書』辛紹先傳の記事 (注2) に従いその一系の譜を復元すると、次の 如きことになる。 なお、 『北 』 に はこの系 流 の記事がなく、 同 族 の 暢 ↓ 辛 雄 ↓及び 顯宗 ↓慶 之 ↓系 等 の二十一人の記事が見える (注 3 ) 。 図版 1 東魏 辛匡墓誌銘 ○ 隴西狄 辛氏世系表 ※拠 『魏書』 鳳 祥 長 子 子 馥 弟 子 子 元 植 弟 士 怡 ○ ○ 淵 紹先 紹先五 世 父 謚惠 字 萬福 長 子 字 懷王 字元 穎 穆 謚貞 字 叔宗 弟 少 雍 弟 懷仁 弟 弟 烈 弟 匡 字 叔 文 字 叔 武 字季政 字季 仲 字 仲 夷
※ 辛氏各人官銜等一覧 ・怡 晉幽州刺 。 ・淵 私 涼王 李 驍騎將軍。 ・紹先 徙家於晉陽、 下 太守、 寧朔將軍、 太和十三年卒、 冠軍將軍、 州刺 、晉陽公、謚惠。 ・鳳 京兆王子推國常侍。 ・穆 東雍州別駕、 孝昌二年徴爲征虜將軍、 太中大夫、 未發卒於郡。 年七十 七。 後將軍、幽州刺 、謚貞。 ・祥 舉司州秀才、~ 州安定王 征虜府長 、別將、 元年卒、年五十 五。永安二年 冠軍將軍、南靑州刺 。 ・少雍 奉 、太學博士 ~ 給事中、侍中游 後亦薦之、會卒、年四十二。 ・子馥 書右丞、淸河太守、武定八年卒於郡。 ・子 天平中右光祿大夫。 ・ 相州倉曹參軍、~ 陳軍太守、輕車將軍、濟州征虜府長 、卒、年四十 六。 ・懷仁 武定末長樂太守。 ・ 北府中府中兵參軍、~ 武定中□□太守、卒於 、時年五十八。 ・烈 太傅東閤祭酒、卒於鎭南府長 。 ・匡 封丘令 ~ 卒 於龍讓將軍、 直散騎侍 、 時 年三十五。 散騎常侍、 將軍、雍州刺 。 ・元植 武定中儀同府司馬。 ・士 太師開府功曹參軍。 ②潘 墓誌 この墓誌は幾分紫褐色を帯びる堅石製で一辺約 35㎝の方形をなしている。 厚さはほぼ 8 ~ 9 ㎝と見られる。誌蓋の有無は不明である。誌身上面は磨 平されており、そこには行界を設ける九行にわたる縦の細線が刻まれてい て、冒頭の誌面右端にも縦の刻線が一部残存している。末尾の左端には元 来右端と同様に縦の刻線が引かれていたようでもあるが不分明である。 刻入された文字はやや大ぶりな楷書で、刻線はかなり深峻である。ここ で全九行八十二字の誌文を、左掲図下に採録しておこう。刻字中の「 」 は「顯」の異字体である。 魏故營 ・ 構 ・ 幢主 南 ・ 使郎 潘 ・ 君墓誌 ・ 君諱 字 慶長樂廣 ・ 宗 人也 安 人 之 玄孫 疾 以 武定 ・ 七 四 ・ 月廿日 於 ・・ 臨 安 衆 行 里宅其月 廿 三 日 於 ・・ 豹 ・ 寺西 南 乃作 曰月 ・ 徃 ・ 日 来天長 地 久陵欲 有 變金 石不 朽 この誌文によれ ば 、東魏末に 生き た潘君、諱 、字顯慶は、長樂の廣宗 ( 河北 省 鉅鹿県 東南 ) を 本貫 と す る 人 物 で、 その 経歴 は、 營構幢主か つ 南使 郎であ っ たという。營構幢主とい っ た 官職名 は 史 書に直 接的 に 記 されては いないが、 『 北 齊 書 』高 之 傳 に 「 營構大 將 ( 注 4 ) 」、 『 魏書 』 張 傳 等 に「 營 構 図版 2 東魏 潘墓誌銘
左 將 (注5) 」の名が見えるので、營構は 城宮殿、城郭の建造にかかわる職官 と見られる。幢主は従九品の幢の主将で営造負担の主任といった官であろ うから、潘 は官人の序列、職階からすればかなり卑い身分であったよう である。 また南使郎の官も史書には徴し得ぬものであるが、 『魏書』 巻四十八高 推傳に、 太 中、以 後南 不稱、妙 行人 (注6) 。 同巻六十二李彪傳の李沖の上表文中に、 彪始南 之時 (注7) などの語が用いられているためこの称も当代の述語であると観察される。 潘 は南朝への派遣官人の一員或はその随員となったことがあるのであろ う。 当時北朝から南朝への遣使は趙郡の李氏など、家学をもつもの、才学の 世系を誇る名家の子孫の派遣が確認されるので、この潘 も潘岳の玄孫と の名のもとにこうしたものの成員等になっていたものと思われる。因みに 天平四年 (五三七) 秋七月に再開された南朝への遣使 (注8) は、 散騎常侍李諧、 部 中盧元明、 直散騎常侍李 らの選任からはじまり、その後北斉代 武平年間まで十三次にわたるものが実施されるが (注9) 、そのうちの半ばは名望 のある趙郡他の李姓のものが加わっている。こうした中に南朝由来の才人 の血脈をひくものとして潘 が任用されていたようにも考えられる。 潘 は誌文中に記されるように 「安人玄孫」 と特記されており、 『北齊 書』巻二十九李 傳の文に見られる「潘楊有世親 (注 ) 」の潘氏、すなわち『 』に誄、哀の作を (注 ) 残す西晋武帝時の文学者潘岳こと潘安仁の子孫を名乗 っている。この潘安仁は、 『晉書』巻五十五の列傳中に、 潘岳字安仁、 陽中牟人也。 瑾、 安 太守、 、琅 耶 。 岳少以才穎 見稱、 鄕邑號爲奇童。 謂終 之儔也。 早辟司空太尉府、 舉秀才、 ……中略…… 初 爲琅耶 、 孫秀爲小 給岳、 而狡點自喜。 岳惡其爲人、 數 撻辱 之。 秀 常 銜忿 。 趙 王倫輔政 、 秀 爲中書 令 。 ……中略…… 俄 而秀 誣 岳 石崇 、 …… 中略…… 無長幼 一時 被 。岳 美姿 儀 、 人 之 、 皆 手 繞投 之以 果 、 滿 車 而 歸 (注 !) 。 と 評伝 される 通 り、 河 南 陽中牟の人で、 河 陽 令 、 懷縣 令 、給 事黄 門 侍郎 などを 歴 任したが孫秀に 夙怨 を 懐 かれ一 族 の 長幼 と 共 に 殺害 された 美 男 の 才人であることが 知 られる。史書は 殊 に哀誄の文に 長 じた才 士 と 伝 え、そ の字を安仁 ・ とするが、誌文は安人 ・ と 刻ん でいる。潘 が 果 たして安仁の 真 実の子孫であるか 否 かは明らかにし 難 いが、誌文は 古往 の才人の子孫を 標 榜 して自家誇 張 、自 己 表明をはかり 刻 記したものであることは確かであろ う。 ともあれ、 潘 は、 東 魏 孝靜 帝の 臨 朝終 末 の武 定 七年 (五四九) 四月 廿 日 に 疾 により 臨 "県 の安 衆 行 里 の 宅 で 亡 くなり、三 日 を 経 て 豹寺 西南の 地 に 葬 #されている。 豹寺 は 恐 らく西 門 豹 を 祠 ったところであろう。その西 南の 地 はいわ ゆ る 野馬崗 の 東 端 にあたる 所 で、この 周辺 には北朝人 士 の 数 多 くの 塚 墓 が営なまれている。 誌 末 の 銘 文は四字 句 四 句 構成のものであるが、 「はてしない時のう ごき のもと天 長 地 久 ながら、 堅固 な 陵 も 変 わりうつろう。しかし 金 石 は不 変 不 朽 であ (り、 こ れに 託 して 故 人の 生 き た 証 しを 永 く 伝 え) る。 」と 言 った き わ
めて一般的な辞句が並置されている。 なお誌文中に死去を示す「 」字が用いられているがこの文字は後代の 字書に「義未詳」とのみ記されることがある。この文字は常用されないき わめて稀な文字であるが、 (老) 、甦 (蘇) などと (注 ) 同様に北朝人の造制に なるものとも見える。 潘氏の系流に関しては『魏書』巻七十二の列傳、及び『北 』巻四十五 の列傳中に、本貫地を同じくし、東徐州刺史となり没後尚書右僕射、司徒 公、冀州刺史を贈られた潘永基字紹業及び中書侍郎となったその父靈 、 また子息の子義、子智の傳が見える (注 ) 。おそらく潘 はこれらの人々にきわ めて近い血族、族員と見られる。 Ⅱ 墓磚 ① 瑤光寺尼法師惠義墓磚 縦 31㎝、横 16㎝、厚さ 5 ㎝のこの墓磚は本年八月末に出土したものであ る。磚は黄褐色を呈しており所々に墓壙内からのものと思われる黄土が付 着しているが、上面には三行にわたって懐の広く幾分円勢をもった行味を 帯びる楷体の文字が二十六字刻まれている。ここで各々の文字を掲図下に 採録しておくことにする。 大魏武 ・ 定 ・ 八年太 在 ・ 庚 ・ 午二月廿六日瑤光 寺尼法師惠義 ・ 銘記 ・ この磚自体はこの銘記を刻むために特別に作られたもののようで、三行 にわたる二十六字は、磚の製作に際し成形した粘土の未乾燥の折に先の尖 った箆状の工具をもって上面に刻み込まれたように観察される。各々の文 字の筆画はのびやかであり、しかも起筆、送筆部を含め転折、掠、磔等の 部位には工具の抑揚、圧力の軽重のさまが十全に留め残されていて、刻書 全体に秀麗典雅な趣きを醸し出している。この磚の刻字そのものは、書法 上も東魏末期の一級のものと認めてもよいものと思われる。こうした刻書 そのものの語辞について記すと、末尾の「銘記」の語は、当代の墓磚の刻 銘の終末に頻見されるもので、当該の刻字墓磚及びその刻字そのものをさ し示す名辞として用いられているものと判断される。ここでは尼法師惠義 の墓磚、銘文といった内 容 を 表 示したものと 言 えよう。尼法師惠義が銘記 した、という 意 味を 表 わすものではないであ ろ う。 冒頭 の「大魏武定八年 太 在庚午二月廿六日」の文字は、東魏 孝靜帝元善 見朝 臨 の 最 末年の 時 、 すなわ ち 武定八年 (五五 〇 ) 、太 歳 のめ ぐ り 指 し示す庚午の年の 陰暦 二月 二十六日、ということである。この年月日が惠義の 遷化 の年月日を示すも のであるか 否 かは 不明 であるが、この年月日の 直 後に瑤光寺の尼法師であ る惠義の銘記が 営 造された墓内に 納 められたことは 確 かと思われる。惠義 の 化 、造墓銘、 安葬 の 実情 がこの磚銘には 包 み込まれていると 言 える。 とこ ろ で、この銘記で注 目 されるとこ ろ は、惠義という尼 僧 の在所、所 属 が「瑤光寺」と 明 記されているとこ ろ である。この「瑤光寺」の名で 直 ぐ さま 想 起されるのは、 古 く 帝都洛 陽 に 創立 された寺 院 のことである。 闔城門 の 御道 の北、 千秋門 を東に二 里隔 てた地に 世宗宣 武 帝 が 創建 したこ の 荘 麗な寺 院 のことは、 『 洛 陽 伽藍 記』 巻 第 一「 」の 記 事 下にその 著 者楊衒之 が注文で 次 のように記 述 している。 図版 3 東魏 瑤光寺 尼法師惠義墓磚銘
有五 一 、 去地五十 。僊 掌 凌 、 鐸 垂雲表。 作工之妙、 埓美永寧。 殿尼 、 五 百餘間、 綺疏 亘。 相 、 珍木香草、 不可 言。 牛筋狗骨 之木、 頭鴨脚之草、亦悉備焉。椒 嬪御、學 之 、掖庭美人、 在其中。 亦有名族處女、 性愛 場、 落髮辭親、 來儀此寺。 珍麗之 、 修 之衣、 投心入正、歸誡一乘 (注 ) 。 孝莊帝元子攸永安三年 (五三〇) 、 爾 朱兆が入洛した折、 軍 兵が掠奪の 限りを尽くすにまかせたが、 瑤光寺には秀容 (爾朱氏の根拠地、 山西省朔県 西北) の胡騎数十騎が乱入し美尼を婬穢したとされ、 これより後、 京師で は「洛陽男兒作髻、瑤光寺尼奪作壻」などと りの言葉がささやかれたと いうことも、この文の後には記述されている。 当時瑤光寺は、後宮の嬪御等の修学の場で、名族の女子の出家の場とも なっていて、世人からは高貴な女人、比丘尼の居住する屈指の寺と見られ ていたようである。 この瑤光寺には 昭皇太后 (高 の女) の兄の女 (高 の次男偃の女) で宣武帝の皇后 (高皇后) となり帝の崩御後に出家して尼 となった高英すなわち慈義が居住し遷化してもいる (注 ) 。 この高皇后のことは『魏書』巻十三「皇后列傳」第一に「宣武皇后高氏、 昭皇后弟 。 偃之女也 (注 ) 。」 (『魏書』巻八十三下「外戚傳下」中の高 傳の記事等に より弟 。 は兄の誤りであることがわか る (注 ) ) ではじまる傳があり、 そこには 「性 妬忌」 「 肅宗 位、 上 號曰皇太后。 爲尼居瑤光寺、 非大 慶、 不入 宮中。 」「世宗暮年、 高后悍忌、 夫人嬪御有至 !不蒙侍接 "。」 といった感 情の起伏の烈しく意志強固な一面をもった女性の姿が 伝え られている。 入 内 し 曲 折を 経 て皇后とまでなりさらに出家して比丘尼慈義となった高 英に つ いては、 芒 山から出 土 した 墓誌 「魏瑤光寺尼慈義 墓誌銘 (注 #) 」によって さらに出 自閲歴 、 卒 年等の 詳細 が 知 られる。次にその 拓影 を 掲示 して お く ことにする。 慈義は 神 $元年 (五一八) 九月廿四日 に瑤光寺で 薨 じ 越 え て十 月 十五 日 に 芒 山に遷 葬 されていること、 法王 等の一百人に上る弟子がいたことがこ の 誌 文から 知 られるのである。 遺骸 が 火 化されたか 否 かは 墓 葬 自 体 が 調査 されたわ け ではないので不 明 である。 さて、こうした瑤光寺 及び 慈義等に 関 して、当 該 の 磚 銘 の瑤光寺尼 法 師 図版 4 魏 瑤光寺尼慈義墓誌銘
惠義はどのようなかかわりをもつのであろうか。或いはかかわりをもたぬ のであろうか。他に関連する資料を見出し得ない現在このことを闡明する ことは不可能であるが、 「瑤光寺」 の寺名と共に尼法師の慈義と惠義とい う近似する法名や書法の秀逸なさまに留意すれば、この二者には濃密な脈 絡があるようにも想像されるのである。 高歡、高澄父子の専擅のもと孝靜帝が洛陽を捨て へと遷都したさまが、 武以孝武 西、 恐 、 陝 、 洛陽復在河外、 接 梁境、 如向晉陽、 形勢不 能相接、 乃議 、護 軍 瑩贊焉。 詔下三日、 車 駕 發、 四十萬、 狼狽就 。 (『北齊書』卷二 武 下天 元年九月条末 (注 ) ) 詔曰、 安安能 、 自古之明典、 居靡定、 往昔之 規。 ……中略…… 正光之 季、 國歩孔 、 喪亂不已、 寇賊 、 俾我生民、 無所措手。 今 古式、 深 驗時事、考 襲吉、 宅 。 ……中略…… 丙子、車駕北 于 。 (『魏書』卷十 二孝 靜 第十二 天 元年冬十月条 (注 ) ) 曁永熙多 、皇輿 。 寺 尼、亦與時徙。 (『洛陽伽藍記』序 (注 ) ) と綴られ、きわめて慌しい中に仏寺の僧尼を含めた洛陽の一切のものが へ 移させられている上、時代は異なるが古くから白馬寺のように洛陽の 古刹と同じ名を付した大寺院が 都にも建立され (注 ) ている歴史もあるので、 磚銘の「瑤光寺」については、 都を含めた地区に建立または移建された 洛陽由来のものである可能性も否定できない。ただし、現在、 都故地及 びその周辺の地にこの名の寺院が存在したという記事や伝承、口碑を 確認 することができないのである。 臆測 に 過ぎ ないが、磚銘の「瑤光寺」は洛 陽の寺院で、尼法師惠義はそこで 落髪修行 をしての ち の地へ移り来て遷 化 した仏 家 であ っ たようにも 思 われる。 因み に、 墓 磚に 刻 まれる武定 八 年 二月には 東 魏孝靜帝が高 洋 に 譲位 する ( 五 月に高 洋 が 即位 し !宣 帝となり元 号 を天 保 と 改 める) 直前 で、 慈義が 薨 じた年からは三十二年の時が 経 過 し ている。惠義の遷 化 時の年 齢 はどのくらいであ っ たのであろうか。 ところで瑤光寺尼に関しては、 正光三年 ( 五 二二) 八 月一日に 卒 した 比 丘 尼慈 雲 の 墓 誌 (注 ") も伝 え られている。 しかしこのものは河 南省偃 師 県 (現、 市 ) 諸 #鎮劉開村 の 石匠薛肯堂 の $刻 したものであることが 『洛陽 晩報 』 の記者 陳旭照氏 の 採訪 記事 (注 %) などによ っ て明かされている。 薛氏 の $刻 には 原 拠 があ っ たのか否か不 詳 であるがこのものは他の出 土 刻 字 資料と共には 考 読 できない。 ② 高買女墓磚 この 墓 磚は 縦 30㎝ 、 横 16㎝ 、 厚 さ 6 ㎝ の 黄褐色 を 呈 したもので近時 都 近 郊 から出 土 したものという。 興味 深いことにこのものは 小 口を上下にし 長 手を 縦 にして 縦長 な形で磚 面 を 用 い 文 字 を $刻 する 通常 のものとは 違 っ て、 小 口を 縦 に 長 手を 横 にして 横長 な形で磚を 用 い、しかも天地 幅 の 少 な い磚 面 に 右 から 左 へと 縦 書きで 文 字 を 刻 ん でいる。 刻 字 に 利 用 する磚の 用 い 方 には 様々 な形があるが、 刻 記者の 嗜好 に 従 っ て記し 刻 まれた 刻 字 墓 磚 が 都近 郊 からは多 数 出 土 している。 さて、 この磚は 素材 の 粘 土 ( 黄土 ) の 成 形 後 、 幾分乾 きが 進 ん だところ で、 先端 のやや 幅 のある 箆具 で 文 字 を 刻み つ け た 様 が 観察 される。 文 字 は ほぼ 方 正であり 筆画 も 方 直 であるが、九、 朔 、丙、高、 買 などの 文 字 の 転 折部 は 幾分 円 勢を見せている。こうした 筆画 の 線 の 動 きに 素材 の 土 の 乾 燥 の 度合 いが 推 察 できるようである。 ここで 刻 字 を 採 録 して お くことにする。
天保八年 次丁丑 ・ ・ 九月丁酉 朔 ・ 丙午十 日髙 ・ 買 女記 磚銘の文字、天保八年 次丁丑九月丁酉朔丙午十日は、高買女の卒年月日 というより安葬の年次、月日を示すものかと思われる。磚銘の主高買女の 名は史書、資料等に徴し得ないためどのような階層の人物か判明しないが、 官銜を刻まぬものの文字を記し刻み墓葬されているところからすれば、身 分的には下層隷属の民というわけではなく、 地付近に生きた高姓の処士、 庶人等と見ることも可能かもしれない。 なお、 「買女」 の名は男女何れなのか。 これも不明であり史書等にはそ の例が求められない。 ただしこの名に幾分類親する 「買奴」 の名が 『魏書』 『北齊書』 『北 』などの中に、王買奴、奚買奴、張買奴、劉買奴、袁買奴 (注 ) と記されている。これらはすべて男性の名である。 ③ 孫世雄妻馬墓磚 このものは縦 35㎝、横 18㎝、厚さ 7 ㎝の楷書刻記の墓磚で、近年 都近 地から出土したものである。磚或は刻字そのものを一 すると、成形後の 乾燥を経て焼成された磚製品を利用して本磚銘が作られているように感取 される。還元炎焼成によって全体が青灰色になった磚の表面を、硬度のあ る (恐らく金属の) 刻具で文字を刻記したものと見える。 文字の刻線は方 直でやや浅く、 字 形も方角で刻入部 (起筆) と転折、 磔部 (終筆) などに 線の鋭さ、細さが目立ち、磚の硬さが窺われる。刻字の各々は図側に記し た通りであり、雄、妻の二字がやや大きく刻まれている。 武 ・ 平四年十二月廿九 日孫世雄 妻 ・ 馬銘 文字は当時通行の異体字を含み全体に方直で峻整な趣が現われている。 磚は孫世雄なる人物の妻である馬氏が没して墓葬されたことを銘記したも ので塚墓内に置かれたものと思われる。この孫世雄もその妻も上述の高買 女と同様な階層の相州臨 県内に生きた人物と見られる。 ○ むすびに 近郊を含めた臨 、安陽、湯陰の地からは、ここ数年に限っても数百 に上る墓誌、葬磚が出土している。こうしたもののうち一部は識者の注意 により考査の対象となって例えば北京大学の羅新教 授 の 論 攷 (注 ) のように 攷 述 されることがあったが、大 多 数は 掘 り起こされた直後に 破壊 、 流散 の 憂 き 目に 遭 い、その 価値 すら 知 られることなく 消失 さ せ られている。民 間 の 好 事家 の 手 に 渡 り 死蔵 されて ゆ くものも 少 なくない。本 稿 の 小 文で 扱 ったも 図版 6 北斉 孫世雄妻 馬墓磚銘 図版 5 北斉 高買女墓磚銘
のはこうしたものの中のものである。本稿ではごく些かではあるが、史書 に記される人物の生卒や高名寺院にかかわる仏家の動向、また当代の士庶 の墓葬の一面を明らかにし得たように思われる。地下から出現する刻字資 料は失なわれた時を明かすきわめて貴重な遺品なのである。著者の最近に 知るものの中には、北朝末の欠落した史実、 素まじえる社会の動きを証 す刻字資料、 「齊故 西將軍太子庶子元孝輔墓誌」 「大齊 賢墓誌」 「大齊 明 君墓之佛塔 (墓誌) 」「故驃騎大將軍吐賴 墓誌」 「齊故 將軍張安 墓誌」などがあるが、ひき続きこうしたものに細心の注意を払いながら新 出刻字資料の採録と考証を進めて行きたく考えている。 注記 注 1 北齊魏收 『魏書』 卷四十五 「列傳」 第三十三 「辛紹先傳」 烈 弟匡条 (中 華書局 一九七四 六) 一〇二七頁 注 2 注 1 書 一〇二五~一〇二九頁参照 注 3 李 壽 『北 』 卷五十 「列傳」 第三十八 「辛雄傳」 (中華書局 一 九七 四 一〇) 一八一七~一八二五頁、 同書卷七十 「列傳」 第五十八 「辛慶之 傳」 (中華書局 一九七四 一〇) 二四二五~二四二七頁 注 4 李百藥 『北齊書』 第十八 「列傳」 第十 「高 之傳」 (中華書局 一 九七 二 一一) 二三六頁 注 5 北齊魏收 『魏書』 卷七十九 「列傳」 第六十七 「張 傳」 (中華書局 一 九 七四 六) 一七六六頁 注 6 北齊魏收 『魏書』 卷四十八 「列傳」 第三十六 「高允傳」 允 弟推条 (中華 書局 一九七四 六) 一〇九一頁 注 7 北齊魏收 『魏書』 卷六十二 「列傳」 第五十 「李彪傳」 (中華書局 一 九七 四 六) 一三九一頁 注 8 北齊魏收 『魏書』 卷十二 「帝 」 第 十二 「孝靜帝 」(中華書局 一 九七 四 六) 三〇一頁 注 9 李百藥 『北齊書』 卷八 「帝 」 第 八 「後主 」(中華書局 一九七二 一一) 一〇六頁 注 10 李百藥 『北齊書』卷二十九「列傳」第二十一「李 傳」范陽盧思 の詩句 (中華書局 一九七二 一一) 三九七頁 注 11 梁昭明太子蕭統 『 』 卷五六 「誄上」 「楊仲武誄」 、 同 書卷五七 「誄下」 「夏侯常侍誄」 、 同 書卷五七 「哀上」 「哀永 」等 (藝文印書館 中 華民國 六〇 三『 影 印 李 注 胡克家景宋刊本』 七九七~七九八頁、七九七~八〇一頁、 八一〇~八一一頁) 注 12 玄齡等 『晉書』 卷五十五 「列傳」 第二十五 「潘岳傳」 (中華書局 一 九 七四 一一) 一五〇〇~一五〇七頁 注 13 北齊 之推 『 氏家訓』 卷第七 「雜藝」 第十九 (中華書局 一九九三 一 二) (新編 子集成) 五七五頁 次文が見える。 北 喪亂之餘、書迹 陋、加以專輒 字、猥拙於江南。乃以百念爲憂、言 爲變、不用爲罷、 來爲歸、 正爲蘇、先人爲老。如 此非 一、 滿經 傳。 注 14 北齊魏收 『魏書』 卷七十二 「列傳」 第六十 「 潘永 基 傳」 (中華書局 一 九 七四 六) 一六二三~一六二四頁 李 壽 『北 』卷四十五「列傳」 第三十三「潘永 基 傳」 (中華書局 一九七四 一〇) 一六七八頁 注 15 東 魏楊 衒 之 『 洛 陽 伽藍 記』 卷第一 「 !」 瑤光 寺条 (中華書局 一九八九 三) 「四 部備 "第四七 册 」八頁 注 16 北齊魏收 『魏書』卷十三「 皇后 列傳」第一「 宣 武 皇后 高氏傳」 (中華書局 一九七四 六) 三三六頁 「魏 瑤光 寺 尼慈義 墓誌 銘 」( 図版 4 ) 参照 注 17 注 6 『魏書』卷十三参照 注 18 注 16「魏 瑤光 寺 尼慈義 墓誌」 ( 図版 4 )参 照 北 齊 魏 收 『魏書』 卷八 十三下 「 外戚 傳下」 第 七十一下 「高 #傳」 (中華書局 一九七四 六) 一八
二九~一八三二頁 注 19 洛陽文物局編 朱克主編 『洛陽出土魏墓誌 編』 (科学出版社 二〇〇一 六) (洛陽文物 考古) 墓志録文 四三~四四頁、 版六一尼慈義墓誌 二 七五頁 上 記 書の「稽核」によれば、墓誌は高八三厘米、寛八四 八厘米、十五行、行 十五字、正書であり、一九二九年に洛陽城東北三十里鋪村より出土したと いう。 注 20 李百藥 『北齊書』 卷 二 「 帝 」第 二「 武 上」 (中華書局 一九七四 六) 一八頁 注 21 北齊魏收 『魏書』 卷十二 「帝 」 第 十二 「孝靜帝 」(中華書局 一 九七 四 六) 二九七~二九八頁 注 22 注 15書一頁上段 参照 注 23 李百藥 『北齊書』 卷 十二 「列傳」 第四武 十二王 「琅耶王儼傳」 (中 華書局 一九七四 六) 一六三頁に次文が見える。 北 有白馬佛塔、是石季龍爲澄公 作。儼將修之。 宣 『續高 傳』 卷第八 「 義解 」四 「 蒲州仁壽寺釋 妙傳」 八 (『 大正 新脩 大藏經』第五十册) 四六頁 上段~中段 に次文が見える。 昔齊武 末、 古 中白馬寺、此是石趙時 澄 。 注 24 注 19書参照。 墓志録文 (偽刻二五 慈雲墓志) に録文があり (一八九頁) 、 偽刻墓誌 版 ( 版 (偽) 二一慈雲墓誌) に拓影が載出されている (四四三頁) 注 25 專假孚 「 装蝕墳震 憾竧栽怙認定赤 ( 3 ) 」( 代剩仟療利 二〇〇六 一二 二 八) 注 26 北齊魏收 『魏書』 卷九 「肅宗 」 第 九、 孝昌二年九月条他 (王買奴) (中 華書局 一九七四 六) 二四五頁、 同書卷二十九 「列傳」 第 十七 「奚斤傳」 子買奴 (奚買奴) (中華書局 一 九七四 六) 七〇二頁、同書卷五十二「列傳」 第四十 「劉昞傳」 孫買奴 (劉買奴) 一一六一頁、 李百藥 『北齊書』 卷 四十四 「列傳」 第三十六 「儒林傳」 張買奴 (張買奴) (中華書局 一 九七四 六) 五八八頁、 同 書卷四十四 「 列傳」 第 三十六 「 儒林傳」 長景仁傳条 (袁 買奴) 五九一頁 注 27 袋仟 「 囲 臼馴辛幀視丐圍長崗 」(『 臼寄雰僥 』 及伊辞 北京大学出版社 二 〇〇一 十二) 一三五~一五一頁 この 囲 は、 袋仟 匐貎 著『 仟竃虜恕掴 臼劾長崗墓屬 』 (中華書局 二 〇〇五 三 二 二六~二三〇頁) に收載されて いる。なお、 袋仟 氏には次のものもある。「 仟需臼馴 戟代長崗 》 深瞥 」 ( 嶄忽穎匍胎猟利 煽雰猟晒胎猟 貧墮 二〇〇六 四 三) 参考図版 魏 昭玄沙門大統慧光墓誌銘 原石 (2002年頃 城西南 出土) (たくま のぶゆき 日本語日本文学科)