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江戸時代鹽竈神社神官文書

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全文

(1)

江戸時代鹽竈神社神官文書

著者

荒武 賢一朗, 高橋 陽一

雑誌名

東北アジア研究センター叢書

66

発行年

2019-02-27

URL

http://hdl.handle.net/10097/00125899

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志賀家歴代当主件上げ(明治3年(1870)、志

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神道裁許状 (寛文2年(1662)、志賀家文書)

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御幣太夫家伝記官(年代朱詳、志自家文{In

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法蓮寺奉行所御用留 (江戸時代、小野家文書)

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解 題 品問尚氾 d= " J A - -H H 凡 例 志賀家文書 内 -' " ヨ 君主 江戸時代搬竃神社神官文書

志賀家文苦について: : : : : : : : : : : ; : ・ 高橋 陽 一 ・ :I 利 J7l IIIJ Y '

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~'( 文 荒 武

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9 脱龍社家の社務と官位叙任: : ・ : : : j i -: 清水朔太郎:巧 つ 一 主祭井先師祭祝詞﹂からみる盟也神社の 学 問の 系 像 城 所 喬男: ・ 勾 35 志賀家関係記録 戸結 1 志賀家腔 代 当主者上げ ( 明治 三 年 ) : : : : : : : : : M 2 戸籍告上げ ( 明 治 三 年 ) : : : : : ; : : : j i -: : : -m 3 一宮臨む社元神官編符伺 ( 明治五年 ) : : ・ : : : : μ 裁許状 4 神道裁許状 ( 立文 二 年 ) : : : : : : : : : j i -: -: : ・ 0 5 神道裁許状 ( 文久 一 二 年 ) : : : : : : : : : : : : : : : : # 山 来・由緒 6 V H れ 寸 へ1 L L v 目 、 、

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-k d n H -J Y L, 神社関係 H M 山 川 州 神社に附するぷ鉱 13 脱釜社縁起 (刈休六年 ) ・ : : : :ji--JJ ・ -: : -P 14 盟述社神家伝来古記(年代未詐 ) 15 ラ 一 -I J y f E E a l H H r P I l lh 川 ア 羽 ・ 占記調占上 多賀神社 大臣肖 IYJ

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占 139 17 一 日 文 咋 品 川 知 日 以 ( 年代未亦 ) 18 述川(社釦山刊行につき、ポ和三年): ・ : ・ : : : : : 明 知行訓関係通述 川 ( 天 和 J ・ 年 ) ・ -j i -: : : : : : : 明 19 20 知 行 川 口 付 州 ( ( 氏 、 水 ・ バ 年 ) ・ : : j i -: : : : : : : : : : P 21 一 人 前向名付川上 ( ぷ 利 ・ 二 年 ) : : : : : : : : : : : : 出 神事に閲する記録 22 御 下 選 { 円 御

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文久 二 年 ) : : : : j i -: -j i -m 23 158 神 道 諸 行 下 計 山 ( 代 ト ボ 持 ) 24 修行絡下 ( 先政広年 ) : : : : ::ji -: : : : : : ; -m 25 付 ﹃ Z H H ﹂ムド . . l こ ﹁ J Z -r b V A -出叩正444 1 BLVJ i J E ド ド ド 、 ぃ ド r r J , 1 , 4 ノ ・ 日 、 26 一

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した 。

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本古は、江戸時代に脚筒神社 ( 現宮城県組也市 ) の判官をつとめた志賀家 ・ 小 野家の十日文古畑説文、および岡山 本 に関 する論説 を 収枇する 。

志賀家文書に

志 賀 家 文 書 の 概 要 志到家文品川は近刊から近 代 にかけての計 一 三 九点の古文書 群であり、現在は腕也神社陣物館に所蔵されている 。 志川以家文占との出会いは 二

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二 二 年であ っ た 。 き っ かけは 、 録者が所属する東北大学東 北 アジア研究センターの事務室に 勤務されていた、志賀家のご税族から寄せられた 相 談である 。 その方の家や志賀家が能者の

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宅の 近 所 ( 仙台市太向区 ) で あ っ たことも奇縁であった 。 同家を訪問して十 日 文古を拝見し た 後 、 NPO 法人山城暦史資料保 全 ネ ッ トワ ー クに協力を依 頼し、調査を実施した 。 古文書の封筒詰め、写真撮影、

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作 成 の 結 果 、 同文書が江 戸 川代の脚也神社およびその神官の 動静を詳らかにしうる立京な史料であることが明らかにな っ てきた 。 一 一

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一 川 年八 日 三 日 、 服組神社の拝殿に て 志賀家文古の神 納式が挙行された 。 酷暑の 小 、志賀家のご 一 族 、 NPO 法 人 宮城歴史資料保 全 ネットワーク事務町長の佐藤大介氏、本者 ら約 二

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名が参列した 。 神納式は、古文告が附見出神社間 物 館 に寄贈されることに伴う儀式で、 約 二 一

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分間にわたり祝詞の 奏上や神楽の 奉 納などが厳粛に執り行われた 。 志賀 市 ゑの雌史については後に詳述するが、 同家は仲京 一大 山 正 の時 代 に近江国志賀から陸奥田に移住したという 山 緒 を 持

(16)

ち、江戸時代には臨也 神社 の神職として祝詞の奏上役を担 つ ていた 。 もとの肘宅は卯在の多賀城山市 川 字作民にあり、明 治時代には府治氏が小川城郡多賀城村の村長を 二 則つとめた が、多賀城の史跡指定に伴い同地を離れ、仙台市に移住した 。 神社社家の歴史を解説した高橋正己﹁盟寵神社旧社人論﹂お よび志賀家からの聞き取りによると、阪代の志賀家当主は次 の 通り である ( 初代兵術以前は不明 ) 。 初代 ・ 兵 衛 │ 二 代・伊勢肢宗 │三 代 ・ 治兵衛康行 │ 問 代 ・ 伊 予抜吉次│五代・筑後守家次│六代・信泌守喜高│七 代・伊予抹喜次 1 八代・伊勢守成隆 1 九代・蹟立 口1 1 十 代 ・ ね 川 政守肢は │ 卜 一 代 ・ 山 弘前守肢定 │ 十 二 代・五位脱治 │ 十 = .代・山治│十問代・町ー ト 一 九 代 ・ 一 日 一 l 十六代・伝 • 斗 寸 , 志賀家文書の内容は、腕寵神社の社人だけあって、神社関 係の十日文書が中心をなし、とりわけ祝詞が川五点みられるこ とが特徴である 。 ま た 、 神道 裁許状や 川務 の 引 問 、 仙台滞へ の 願 持 、 神社の縁起、 十 日 文科 ・ 川 知 の 此 品 川 H 日 銀 も あ り 、 や11 の活動はもとより、江戸時代の鞭龍神社全 体の歴史 にもアプ ロ l チすることができる 。 また、明治維新則の願書からは、 御 一 新 に よ る 仙 刊 行 の立場の変避をみてとれる 。 山 水 に 削 附 す る い 内 文書としては伝記や 明治 時代の 一 戸籍のほか、和歌・俳句の短 2 川が六 一 点 今 日 ま れ て お り 、 文化人としての日動も坦 川 け ん る こ とができる 。 なお、安永四年 ( 一 七七沢)に当主ぶ賀伊勢守 蹴隆が古き上げた家諸(詳しくは後述)によると、先祖から 保持してきた古文書や系図は五代筑後守家次の時に一度焼失 したという 。 本引けでは、志到家文内の小から 一 一 . 一 点の附説文を掲載した 。 特に﹁御幣太夫家伝記 ﹂( 否 ・ 弐 ) は、志賀家と脚也神社を めぐる諸勢力 ( 仙台滞・ 法蓮寺・神官 ) の関係を詳細に明ら かにする重要な史料であり、従来の文献でも部分的に紹介さ れてきたが、今同は全文を制杭している 。 その他の史料も合 め、臨也神社史のみならず、 江戸時代の神社制度や社家の研 究に寄与するところがあれば幸いである 。 こうした貴重な古文書が公表されるに至ったのは、まず も っ て志位 ・ 米の万々のご即併とご協力によるところが大き ぃ 。 ここに記して御札 山 中 し 上 げたい 。 ま た 、 仰 川 読 文 の 拘 械 に ご了解を賜 っ た脚也 神社時物 館にも感謝 巾 し上げる 。 志 賀 家 の 歴 史 ① │ 神 主 留 守 家 の 代 理 人 │ 胞趨神社の制強附則は ト ボ だ定かではないが、 吋 山 一 一 ト ' 一 ︾ ぃ ・ U { -F d

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の ﹁ 弘仁式﹂において祭脱俗神科 一 万 点が記載さ れているのがその初日んとされている 。 当社は前くから 同家の 山川倣を受け、特別な待遇をうえられてきたのであり、小世に は有力武家からも部崇を集めてきた 。 とくに、陸奥同の留守 職をつとめた伊沢家扶を制とし、奥州に勢力を拡大した留守 家が神主をつとめていたことが知られている 。 志賀家の史料上の初見 は 、 向 同 守 家 の 家厄 同や所 領をまとめ た ﹁ 向 川 守 分 限 帳 ﹂ ( . 大 丈 年 山 ︿ 一 五 三 二

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一 五 五 五 ﹀ 頃 ) の ﹁ 山 一 の 人 数 ﹂ 山 中 の ﹁ しかはやと、六千 三

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7T が ド 長 編 ~1~ ~ Lt し 当 主 志賀伊勢守院院が書き上げた家諮﹁安、水四年風土記御川 ニ付家諾被相改 41n 山 仕候記録﹂(安永四年 ︿ 一 七七五 ﹀ ) が掲 載されている 。 こ れ は 、 明 治 三 十 二 年 ( 一 八九九 ) に、当時 の述藤光伝

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司が志賀家に前うて乍写したものである 。 こ れ によると、同家の先机は﹁十日米荘斤人﹂であ っ たという 。 ﹁ 花 げ人 ﹂ とは、.平安時代以降、祁同の政庁である凶術で尖務を 担 っ た 化庁行人と呼ばれる役人のことで、 地域に七おしてい た飢れでもあ っ た 。 また、同史料には、志賀川水は ﹁ 御幣太夫 ﹂ を 名 釆 り 、 ﹁ 一 山 之政事為 ・裁断 一 宮胸也社江被 : 相附 一候者 ﹂ で 、 ﹁ 盟 逝 土刈下七 j '

立 l t I ノ i ' r I 御初参御神事 左宮御 大祭礼並ニ毎月朔日 幣御頂戴御社例之御行事、留主君御家司之刷ヨリ、御故障之 節ハ拙者先組御幣太夫相勤、天正年中伊深郡水津江御所以日 之 己後引続、拙者先祖御幣 太夫司 リ御社例十日法之通無 二 怠健 一 相勤﹂めて きたと記されている 。 ﹁幣﹂とは、もともと神に ささげる物の総称だが、 ﹁ 御幣﹂は神辺の祭犯で川いられる 的 対 日 パ で あ る 。 同 家 は 、 じ川卜けの例大祭や似川朔日の御制参 御判事とい っ た 行事を神主制守氏の代剖として取り仕切り、 同 氏が水沢に所以 u された後も引き続き 同 様の役削を判 っ てき た 。 なお、志賀家文引 . u の ﹁ 御幣太夫家伝記 壱 ﹂ に は 、 仲 哀 天皇(日本武尊の子) の時代に近江闘志賀から陸奥国に移住 した志賀兵衛助を先祖とし、開龍神社の ﹁ 社人頭 ﹂ ﹁ 神 主 ﹂ であったとする山絡が綴られている 。 こうした記述を総合すると、志賀家は古代には奥州に移住 して代げ

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人の任にあたる 一 方、在地で勢力を帯え、後に向問 守 山 本 の 家 回 と な っ て脚也神社の社人情回として 主 必行事の 一 切を取り仕切 る立場に世かれたといえるだろう 。 ﹁ 間守分限 ぷ自家文占:について

(18)

帳﹂のん門人の欄に記載がないのは、 あるいは 同 家が他の社人 と見なる作作であ っ たことによるのかもしれない 。 志 賀 家 の 歴 史 ② │ 窮 乏 の 一 七 世 紀 │ ﹃ 問也神社史 ﹂ には、先述した家譜のほか、 ﹁ 志 賀 ・ 米 関 係 記 録 ﹂ ﹁御幣太夫家御制参神中ぷ﹂ ﹁ ぷ釘家社例川 ヒ世 間占 ﹂ と い っ た 史 料 が 仰 向 載 さ れ て い る が 、 これらはいずれもぶ釘家文内の ﹁御幣太夫家伝記 ﹂ ( U M ] ・ 弐 ) を抜粋したものである 。 おそら くは家諸と同様、明治 一 ニ

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年頃に遠藤充信らによって志賀家 文書の調査が行われ、解説されるに主ったのであろう 。 こ の 伝 記 か ら は 、 一 八附紀のよ釘家と他の社家、 加 問 此 む 山 叩 小 1

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じ 別 ψJ 法起寺、さ ら には仙什維との凶係がみえてくる 。 以 下 に 、 ﹁ 御幣太夫家伝記 壱﹂から紹介したい 。 関山寸家家臣時代の志賀家は社人乍顕としての立場を築いて いたが、伊達政宗の家日出代肋桝山民舶がポ行をつとめた川 与 し 喝 、L I -' l 川 d l 占 I , . ー し , 、 h ド , 、. 、 、 〆 引 F H イ

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山 H ・ 1 4 L r 切 り 仏 一 引 カ ﹄ に知行を行し 上 げられた 。

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の 車市 民 生活に図的をきたすようにな っ た 同 家 は 、 ド 仁 , . . J •• ド e﹂ ' A l v , t ( 一 六四六 ) に窮乏を滞に訴えた 。 原 問 中 斐 宗 輔 と ん い 凶 塚 内 政 重 信 の ・ 係 議 を 経 て 、 七月九・卜

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の神中における務銭が同家 にドされることとなった 。 し か し 、 天 候などに点れされる従 銭は安定した収入ではなか っ た 。 加えて注文八年 ご 六六八 ) 4 以降、他の社人が従銭の配分を . 民求するようになり、法山辿 h J を介した交渉の粘米、 同十年には従銭から尺此文を何年惣社 人中へ分与することにな っ た 。 志賀家としては不服であった が、祭礼の折に毎度 U 論となるのもいかがなものかと思版し、 ル 小 川 向 に 至 っ ている 。 ぷ幻家は神 ・ げ で あ る と 共 に 、 じ い 川 h ハ 此 文 ( ム ハ

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余を所持し、 年百負担も諜せられていた 。 従銭収入が部ち込み、不作もい机 いていた 一 大 和 冗 年 ( 一 六 八 一 ) 、金 一 一

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両拝借の願古を携え た志釘伊予は、 ( 現仙台市宮城野 川代滞主伊達綱村が一柿山町 1)( 1 -111 111 11Ij" に山応した折、山訴におよんだ 。 そ の 結 決 、 理 イ15 より年討令のうち全じ切 ( じ本 ) が何年下賜されることにな っ た 。 また、翌ぷ和. 一 . 年 ( て ハ 八 . て ) 、滞が社領 一

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文を寄 附した際、それまで知行を与えられなかった社人 一 一 家に. 一 日

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えが訓り当てられることになり、 同家には八

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文の知行 がうえられている 。 一 万 、 従銭の分配をめぐ っ てはその後も社人との争いが杭 い た 。 元禄四年 ( 一 六 九 一 ) 舟 ﹂ + 品 、 L L -4 1 J I u--lhvu 什門ノ t t 令 瓦 ﹂ L l ノ Ij. ﹂ llE 告 制 r d 可

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白文余を社人連中らが御セ此へ納め、長し位いた 。 惣社 人 中 へ従銭の下分を配分するよう求められたよ到・米はこれを

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4"1( 汗 し 下論となった 。 町本行 ・ 一 必定所での寄議により、結 川、同家のに阪が認められ従銭の配分は従米通りとすること で決析した 。 このように、志賀家にとって一七世紀の江戸時代前期は、 知行行し

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げによる窮乏と捉銭をめぐる争論の時代であっ た 。 知行が与えられなかった社人は同家のみではなく、他の 社人も窮乏にあえいでいたことが探銭配分争いの背訟にあ っ たといえるだろう 。 ﹁御幣太夫家伝記 ﹂ では、川家が ﹁ 布 斤 ﹂ の 山 内 を 持 ち 、 であ っ た山紺がたびた 胸 川 溜 神 社 の ﹁ 社人説 ﹂ び品られるが、 一

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で他の社人辿山中は同家が ﹁ 配 庁 ﹂ 人であ るが故に必米の ﹁ 社 人 筋 日 ﹂ ではないと主必し、 川 川 将 は た び たび対立している 。 山代・小位以来の山紺を誇示し、円らの 特権的立場をよ挺すればするほど、他の社人との対

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が先鋭 化する 。 そうしたジレンマに志賀家は汗雌していたのではな いだろうか 。

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ぶ 釘 家 の 腔 史 ③ 祝 詞 役 の 持 命 │ ん 氏 、 水 足 年 ( 一 じ

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川 ) 七 川 二 十九日、仙台滞のぷ行 ( 家右 ) で、臨砲神社辺仰の総本行でもあ っ た出川民却が山から法辿 hJ を続山して次のような仰せ波しがあ っ た ( ﹁ 御幣太夫家伝 , け い 必 ﹂ より ) じ ﹀ H ・ 4 L r H凡合同比九

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i l l A J ' b A γ み , G ゃ れ , 、 l j J 、 , E h v F

l l 刈 υ , J ι hr イ J ノ 御幣社職 一 円ニ被相除候、 ム 時 々 之 一 辿 r 川 被 相 勤 候 、 御幣役儀ハ 一 υ叫 ん 札 へ 州 波 シ 、 此 以 後本社人被仰付、

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i l i t s -この時をも っ て、志賀家は御幣太夫の任を解かれ、盤龍神 社社人に位置づけられ、 ﹁荘庁 ﹂ を主張することをやめるよ う命じられたのである 。 後続の文而には、﹁御幣役儀被相除 制 一 一 川 役 日 ニ 被 仰 付 候 、 依米川卜日御遊山ニハ L A 守除御社 参 波 監 -民 削 ji{l 御前ニ耐批判よみあけ吋山中倣山被仰波紋 ﹂ と あ り 、 御幣役に代わ っ て 祝訓役を仰せ付けられ、 巡 目 の 際 、 滞主の 御前で似河を読み 上 げるよう仰せ波されたことがわかる 。 さ ら に 、 こ の ん 下 水 元 年 ( 一 じ

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川 ) には社人出列の改 . 止と知行 ハ ノ 川 凶 H N n J 一 丁 つ 1 、 / U i 1 ん 1 r L ' ー 吋 ' h A イ l , ヲ 勾 ・ 守 a q 社人の雫顕にあ っ た同家の時列は 一 ノ祢宜 三 人の次となり、新たに知行川口文が加増された同家の知行 高は川員八

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文となった 。 神社の茶銭を社人中で配分する ことも仰せ渡されている 。 この時に決定した全社人の時列と ぜ 。 知行いけ川は、明治維新まで変わることなく続いた 。 こ 1 こ

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J , j b 下 ノ d ご し ハ 九 . 一. ) 端、巨伊述制村は俗学 者 遊 ル れ 木 ・ 一成 川 町 小 い と 仕 ハ に パ 十 一 似 を 起 こ し て ﹁ 附他州社縁起 ﹂ を作 ぃ 山 山 l u 神社の祭神を花山政 W 叫 ん 他 州 、 れ ん 川 経 市 - K 神と定めた 。 ぶtll家官;e!?について 5

(20)

同八年からは社敗追常の

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が 開 始 さ れ 、 伊達古村が五代緋 主になった直後の宝永元年 ( 一 七

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四 ) に終

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し、今 日 に残 る神社の形が完成した 。 先述の﹁選宮 ﹂ の儀式はこれに伴う ものであった 。 伊達網村は新たな人材登用などによって既存の政治の刷新 をはかり、血世には商船の着岸や住民の諸役の免除を慌り込 んだいわゆる﹁以辛の特例 ﹂( 点字 二 年 ︿ 一 六八六 ﹀ ) を発し め て と い す る る 》 ぶ ま

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「 を 御 は 幣 じ 太 ト 犬 家 伝 記 ( 一 六九八 ) に、制村が 伝 ﹂ に は 、

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砧卜 一 年 盟也神社の全ての社人の先制・座列 ・ 役儀などを什引き上げる ょう命じたこと、 それに 対し て 志 賀 ・ 家 が ﹁ 在 庁 ﹂ 山白 を市き 上げたことが記されている 。 従来型の諸政策を払拭しようとした伊達網村は、塩竃への 手厚い保護政策を打ち 出すと共に、盤溜神社におけ る旧米の 神社秩序の刷新を目指し、縁起の作成、社般の造常、そして 社人組織の円編を行った 。 知行の加増は社人間で争論が絶え なか っ た従銭配分川叫に終止符を打つことも机いの 一 つ だ っ た の だ ろ 、 っ 。 いずれに せ よ 、 志 釘 家の処遇はこうした部政の 流れの中で理解すべきであろう 。 以 ト し の よ う に 、 官 、 水 冗 年 ( 一 じ

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凹 ) 以降、志賀家は新た 6 に脚龍神社の祝詞役を作命し、一回列は 一 祢穴 三 人の後(附帯

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とな っ た 。 もとより、同家は実質的に当社の社人であ っ たが、﹁在庁﹂出向という古代以米の肩書を剥奪されることで、 他 山 本 と 等質の社人として改めて位世づけられたことになる 。 ﹁御幣太夫家伝記 弐﹂によると、正徳 川年 ( 一 七 一 凶 ) に 、 滞主伊述古村の命により、 一 一

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の 例 大 祭 や 選 出 伸 一 の際に従

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され た 。 また、時代が卜って薪、水ヒ年(一八五川 ) 、前年の典賊船 ( ペ リ l 艦隊 )波来を受け、当主志賀信波は滞 、 正の武辺長久 ・ 凶 家安泰 ・ 異賊降伏を祈念して献絡や祈祷をさせてほしいと願 い山ている 。 明治時代に入り、ぷ究家をはじめとする社人は・腕砥神社の 川刊行の任を解かれた 。 ご 八じ 一 二 、 広 神 山 口 の 身 分 明治

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年 上 の町山がどのようになるのか何の通述もなく、 いく 一 制絡を 明 らかにしてほしいと、 バ 神 行 を 代 ん 引 火 し て 巾 1 ・ 正 ぷ 幻 王 附 が ん 中 川 城県に前願している 。 明治維新 後の不 明瞭な神社政策に ψ I 惑

(21)

する旧社人らの様子がみてとれよう 。 志 川 H 円 { 掛 か は 、 時に時代の流れに乗り、 時に翻弄されながら、 明治時代に 至 るまで 一 世して臨也神社と関係を持ち、 特に神 一 事 の 際に重要な役割を担 っ て 神社を支え続けた 。 志賀家文書 は、神社内部の諸関係や藩政との閑りを実態的に浮かび上が らせながら、同家のあゆみを伝えている 。 脱也神社史におい ても、近世の宗教史においても有意義な古文書であるといえ レ ι λ ノ 。 ( 1 ) ﹃ 忠 也 市 山 ん 刊 日 ︼ -L i、 一 、 4 ド Jo -J ノ j l ノ ム 川 己 別制 H ﹂ ( 組 也 市 役 所 、 ( 2 ) ﹃ 附 砲 神 社 山 人 ﹂ !主│ 幣 社 Jtt i皮 ~: tlll tJ I~嗣 1証 制11 1 'J

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務 所 代 表 古 )11 左京 ) 編纂 ・ 発行 一 九 二 一 O 年 ) ( 3 ) 上 中 心 い け 史 料 芥 号

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・ 日 。 ( 4 ) 小世の陥川越神社については、 市 橋 正 I ﹂ ﹁ 附即位神村川社人命﹂ 1 ~I 1 大 塚 徳 郎 ﹁ 側 也 神 社史 ﹄ 地 域社会似究会、 のほか 4 'l y l' l ︼ -a A J -J j J'z ノ A 叶 ﹂ などを参照 。 ( 5 ) ぃ 日 川 橋 正 己 ﹁ 附 川 也 抑 制 川 村 人 論 ﹂ ( 山 1 1 6 : ・ 3 九 日 2 4 ( 7 ) 州国総・稲本政立制 ﹃ 神 道 山 人 大 時 政 ハ ﹄ ( 古 川 弘 文 館 、 二 O O 凶年 ) 8 志賀川本以外の社人の家戦 ・ 知行日等は、本山所以の山川水湖太郎﹁臨 世 社 ・ 一 本 の 村 務 と ん 日 位 叙 任 ﹂ 小の去を参照 。 9 伊述 '綱村の諸政策については、 ﹃ 仙台市史 台 市 、 二 O O 二 一 台 l ) を参照のこと 。 10 本 市 一 u 史料怒り加 。 11 本 苫 史 料 品 甘 口 勺 3 通史編間近 m A 一 ﹄ ( 仙 川 心fI家立;,liについて 7

(22)
(23)

利府町小

家文

は じ め に l 小 野 家 文 苫 の 調 査 │ 本品川に収載する利府 町 小 野 ・ 一 家 文 汗 は 、 志 釘 家 と 同 じ く 闘 能

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〉 伊11 日 ( 小肝約者 ) を務めた家柄である 。 江戸時代には │ 陥

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( 現多灯城市 ) H M 川 に 111 、 1k ub l 'S E -ι 小 ι , / の 川 か村に知行地を与えられていた 。 神社飢より山城郡 加 瀬村、作谷村 ( 現 利 山 川 町 ) 、 ド以北大学点北アジア川明党センター仁州出版史資料学研究部川 が小野山家文川の訓伐をおこなう契機は、古城県が以附する ﹁ み ゃぎ県民大学(-平成 二 川年度)﹂を利府 町 教育委員会主催で 実施されるにともない、その前師を筆者が川引き受けたことに 始まる 。 ﹁ 県民大学﹂では江戸時代の利府町に関する挺史 ・ 文 化 をテ ! マにしたいということで 、 担当者である高柿義行 氏(利府町教育委

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会生保学科諜主幹 ) の助 言 から、利府町 郷上資料航が所誠する小町家文代 けを訓告することにな っ た 。 千成 て 江年 ( a 一

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ご : )二 川から文 K M 川 録の作成を開始し

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、 、 千 人 AM 郷 上 資 料 館 で は -巾 ド 成 ニ 二 年度に似整

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がおこなわれて

日 月 前 EV おり、文古表題や文書番号の明記、そして封筒への収納を完 了していたため、作業を円滑に進めることができた 。 日録作 成は 川 年七川までおよそ半年間、郎内の乍明 日 ス ペ ー スにおい て日 川 尚夫氏 ( 山城歴史教育研究会)、山水朔太郎氏 (以北 大学大学院文学研究科 H 当時 ) 、 ( 川 ) 怖 い 芥 の 川 バ 刊 Hv h l e 、 . 入 H H リ 仁 L h M r L 刊 υl λ 山 い れ F L れで尖施した さらにデジタルカメラによる

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点制彩は訓作 メ ン バ ー と利府町教育委

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会で継続して進めている 。 文書の米歴 小野家は加瀬村を中心とした﹁領主﹂でもあったわけだが、 後述するように現存する古文占の多くは神 官 に 附 するものが 多い 。 文内

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録の作成を完了した

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成 二 五年九 川 問 川 、調査 の 進 捗 制 止 H を 兼 ね て し 川 橋、白川、治水 、 引 い 者で以所此者であ る 小 川 判 ・ 泌 を 訪 問 し た 。 小肝・試でいろいろとお訴しを聞き、 ﹂れまで不明であ っ た 文 h n l の米阪を詳しく

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併することができた 。 %のところ、利 ヰIjJ如何小野 家 丸l? q

(24)

府町郷上資料館に待附された経緋もれ体的に把提 -できておら ず、また現在に主るまでの同家に関する世主な情報を直接耳 にした成果も大きかった 。 小野家から利府町に今回調査した文書が移管されたのは平 成八年 ( 一 九 九 六 ) ご ろ で 、 ほほ同時期に盟龍神社にも寄贈 されている 。 これには当時、利府間の丹治英 一 教育長 ( 故人 ) が文化財保存に力を注いでおられ、その熱立を受けての決断 だ っ たと忠われる 。 このときに脚也神社と利府町に十 日 文刊を 分けたことになるが、 その基準として神社関係は腕継神社の 歴史継承につながる ( ←脚祖神社 ) 、 それ以外の文内は小野 家および利府 町 の記録になる ( ←利府町郷土資料館 ) と い っ た巾し合わせがあ っ た 。 盟也神社博物館の茂木裕樹学芸

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に お尋ねしたところ、同館に 小 野家文書が大切に保管されてい ることがわかった 。 今後の目標としては、双方の小野家文書 を分析し、神社および 小 野家、そして利府町周辺の歴史研究 を進めたいと考えている 。 文 品 川 の 概 要 利府町郷上資料館所臓の小野家文刀は、 総点数 一

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問 点であり、 、 ︾

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4 H H P ド , m 川古川引 一 . H f h 刊 F L E h r i w ふ 4 -h、 H H -ニ ノ r J l f v F1 ノ ぷ 中 一 一 A 汁 ( 一 六八 二 ) ( 一 九間 三 ) の 文 壮 一 日 が 収 め ら れ て い る 。 内特は大きく分けて、 10 ① 脚也神社および神官関係 、 ② 知行地の絵阿などを含む小野 家の経営文計、 ③ 江戸時代からの書籍、 ④ 近代の 三 陸 会 社 ・ 小野彦回油脂 ・ 東京湾汽船会社塩釜 荷 容扱所関係、といった ところである 。 本書では、右のうち ① と ③ が探く 関 係するところである が、利府町郷上資料館のミニ企阿民﹁ 利 府の肯文古が伝え る江戸時代│小野家文川の紹介 │ ﹂ ( 平成 二 五年度および 二 六年度 ) と、利府町公民館で間俄された利附町雌史教 室 ( 千 成 二 六年度および 二 七年度 ) でその 一 部を公表し、梅めて屯 裂な占文品川円であることを発信してきた 。 そ の 成 州 市 に つ い て ふ れておきたい 。 ﹁法蓮寺・奉行所御用 部 ﹂ ( 本舎に全文翻刻収録、小野家 文書 一 八 │ 八 五 l 三 八 │三 、以下番号の記載は小野 家 文書 ) 戦問時代末期から、法起 寺 は阻也 神 社の別当として台到す ることになり、明治 三 年 ( 一 八じ

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の雌守までその地位を 維持した 。 近世初則のトザ社凶係にそれほど大きな述いはみら れなか っ たが、党文 三 年 ( 一 六六 三 ) の 社 殿 逃 杯 、 ま 永 一 川 年 ( 一 七

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問) の選座を経て、 伊 述家から信頼を利た法辿寺が

(25)

支配的催位に立ち、 そのことによ っ てたびたび的制と神山の 川で対 立 が激化していく 。 少なくとも近川前則に仙台端、法 辿 守 、 闘世神社の力関係では 神 官たちが劣勢に位かれ、 厳 し い状況にな っ て い たと考えられる 。 一 連の歴史的経過は志 賀 家文書で明らかにな っ て い る が 、 小野家文升の史料にも詐しく説明できる素材が豊富にある 。 この御 川 明は、寛政五年( 一 七九 三 ) から同九年 ( 一 七九七) の 仙 台維、法蓮寺、問地 神 社でおこなわれていたやりとりを 代 打 き留めており、 神行たちの山中し人れや行動が制限されてい る峨

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を 示 している 。 たとえば 一 山の神体を守ろうとする神 日 側 と 、 それを ・ 正 問 する御内々山般に仏合利や光文を持ち込 む例制 ( 万 丈 ) の攻防は際 立 っ ている 。 また、ここで登場す る脚笹神社のリ ー ダ ー ( 一 之祢立 ) だ っ た阿部 山城 守、春

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摂津守、鈴木薩摩守は直接仙台滞の役人に上申することがで き ず 、 いずれも法蓮寺の 取次を必要と しており、実態におけ る圧力とともに制度 内の弱者 という部分が明らかであろう 。 ま た 、 後段には 州庫 の胤入が対 立 の 争 点 に な り 、 仙台藩の役 人を合めた文内によるつばぜり合いが如尖に 表 れている 。 こ の ような仲代と例 制 の 附 係 は 、 長 則的 にみていく必要が あ る が 、 それには志幻家文川と小野家文件にそれぞれ合まれ ている的却を屯ね合わせ 、 情 d 実附係を 把射 する作業をおこな うべきであろう 。 その端緒として本 ル い . H A i 体を佐川付けること にしたい 。 2 ﹁ 一 宵年中行事﹂ ( 一 八

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八五 二 王 ) 臨 川 龍 神 社 で 行 わ れた年中行 事について小 野 敬市一 久

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〉 で あ る 神中が行われる場所、開帳の -ll 、

t ll l i -御 供供進を担当する人物、 神引の進行など、 いずれの 行引もすべての祢立と社人が浄衣に扇子という装点で参加し ていたことがわかる 。 それぞれの行引の 山 米が占かれ ま た 、 て お り 、 多くが現花の社殿が竣功した官、水元年 ( 一 じ

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問 ) もしくは翌年から尖施していることが雌認できた 。 3 ︿宇うひや︿ニう ﹁ 九 数 百 好 ( 写本 ) ﹂ ( 一 八 │ 七 O │ ↑ 九 ) 九つの項目に合わせて百の問題がある、というのが書名の 由来 である 。 れ る 一戸板保祐 ( 宝永五年( 一 七 O 八

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天明川年 ご ヒ 八四 ) ) か わ O が し だ & お I5 のちに 川 点 川 抗 . 止 ( 究政 } 一 . 年 ( 一 じ九 二

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天保 こ の持物は 仙台 の数学者 ・ 天文学者として知ら が 若 し 、 一 二 年 ( 一 八問 一 ) ) が 加 筆 ・ 修正して 刊行 された 。 その 山 版された九数行併を帳而に写したものが本史料である 。 門

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(26)

半や 而和 の求め ・万など基礎的な算術のほか、生前のなかでも 市川できる計鮮の例胞とその符えが記されている 。 4 ﹁ 塩竃神祇譜鑑 ﹂ ( 一 八 八 五 │ 一 二 六 ) この史料は、盟溢神社の出縮や社家 二 九 家の家職 ・ 知行向 についてまとめた記録である 。 文久 二 年 ( 一 八六 二 ) に仙台 滞主伊述度邦が神馬を献納した記述があるので、 必ぶか ら 川 治 初 回にまとめられたものと推測する 。 ﹁祢宜叙位﹂という項目からは、正徳五年 ( 一 七 一 五 ) に 王代滞 主 伊 達吉 村 が全同の神社を統率する京都の市出家に願 い 山 て、塩迦社家のうち仁位七家が仰廷からん U 位 叙任された a M H 仰 J ことがわかる 。 小野 家もその巾に合まれ、当 時 の 小野敬伝 は 従六位上和泉守に任じられた 。 5 ﹁ 拠出雑記 ﹂ ( 一 八│七 二 a l 八 ) u H 引品陀 1 じ ふ 4 、 t d ツ U U 丸 小 2 n ' ' ル林ぶ維新則の風説川であり、 文 久 二 年 ( 一 八六 二 ) から明治七年( 一 八七問 ) にかけての政治動向や、 社会で飛び交う情報などが古き智められている 。 たとえば文 久 二 年 の麻疹 ( はしか) の大流行について塩也や近隣地域の 状削を細かく ・記 し 、 山 川将の者州で阿る家肱たち、さらに医師 たちが疲労している林子を占いており、 神社関係 のみならず 12 地 域の社会的状況を 知 る史料でもある 。 6 ﹁ 一 宮 神務行日 ﹂( 一 八 │ 八 五 │ 二 六 ) 明治維新に際して、それまで塩竃神社でおこなわれていた 儀式をどのようにすべきかを助政庁 ( 出掛川県まで 仙台 城 の 九に附 かれていた行政機 凶 ) に 何 い 山 た際の記録である 。 こ れ は 、 小野敬久が版 文 壮 一 け を 写 し た も の と 考 え ら れ る 。

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付 と儀式を古き記した脇には伺い出た内符があり、さらに ﹁ 付 札 ﹂は神 社からの ﹁ 伺 ﹂に 対する勤政庁の返符が仰向枕される という川式で 記岐 される 。 明治維新 という大きな時代の変 化 のなかで、恥喧 州社 の儀式が 如何 に変 化し たのかを知ること の で き る 抗 章 一 な 史料と いえよう 。 今 後の課題 先述したように小野家文川をひもとき、新たな牒山人像を榔 築する作業はこれからであり、 脳 m 也神社 博物飢 の 小 野 山 氷 丈 引 け ゃ 、 本 来 H 収載の志賀家文占などとの突き合わせと、時系列お よび分野別の把握が課題といえる 。 小野 家 文 品 川 の 場 合 、 特 怖 い す べ き は 必 本 則 の 巾 l 主であ っ た 小 ー

(27)

野敬久が実に筆まめな人物で、多くの書籍や、 所蔵する十日文升をたくさん筆写したことだろう 。 ほかの社家が 野山氷独円の伝えてきた史料に加え、神官たちの共有してきた つまり、小 歴史も併せ持っていた意義は大きい 。 利 府 町 郷 土 資 料 館 所 崎 小 野 家 文 書 の け 録 お よ び 史 料 閲 覧 ー司 慈 悲 i 正

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l は、利府間教育委員会生涯学習課に問い合わせをくだされば 可能である 。 地域で大切に守られてきた民主な内文書の前刑 は、現代における文化の発展に寄与するものと確伝している 。 ( l ) 川か村のう弘 二川 仰を知行地とした 。 { 引 け 川 中 川 れ 八 ﹁ 恥 鉱 山 神 社 社 家 小 肌 判 中 永 の 机 村 山 に ついて﹂( 山城一般史研究会 ﹃ 山 城 山 入 学 ﹄ a て じ り 、 一 O 一 八 年 )に 汗しい 。 近世の脱也糾社における小川判家の職務 や位山については、本山山水論文を参照 。 2 利府町郷土資料館平成 ニ ハ年度ミニ企阿泌 ﹁ 利府の十日文占が伝 え る 江 戸 時 代 小 野 山 手 火 山 の 利 介 ﹂ ( 一 O 一 三 年 二 一 川 -一 -川 1 二 六

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、米館広数 一 二 川 名 ) 、平成 一 一六年度ミニ企州以 ﹁ 利府の 十 日 ' X N が伝える江川 γ 時 代 │ 小 野 山 家 L X A の 利 介 H │ ﹂ ( 二 O 一 川 年 一 . 一 月 一 じ れ 1 二 O 一 五 年 二 川 一 一川、米航お数七八六名 ) 、 利 的 川 公 民 館 M m 史教官では 小野家文刀以外のテ l マ も 取 り し 上 げている 。 3 東北雌史跡物館制 ﹁ 開竃・松

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ー その以仰といい仰 l ﹄ ( ぃ 以 北 極 山内物館特別民凶録、 二 O O 八 年 三 4 ぶ波必仲村山 m 逝 神 村 利 務 所 ⋮ 制 ﹃ 問 地 神 村 山 ん ﹂ 一 九 三 O 年 。 本 市 川 所収の志賀川本文品川のぷ史料からもよく州併できる 。 利JfJl!fj小好 家 文i!? I3

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盤竃社家の社務と官位叙任

はじめに 江戸時代、臨也神社に奉仕した社家は二九家あり、仙台雄 から与えられた知行地を有する領主でもありながら、世襲に より家職を継承し、社務を司った 。 仙台滞四代藩 主伊達綱村 と五代藩主古村により社般の恐怖が進められた一八世紀初頭 は、年中行事などの儀式が整備され、さらにそれを司る社家 の家職及び序列が回定化されるなど、明治維新まで存続する 仕組みが形作られた時別にあたる 。 そうした中で 一 祢穴、祝 詞 役 、 -一 祢宜を務めた七家が宵位叙任されたが、 そこには志 賀家と小野家も含まれていた 。 本稿では、両家が他家とは隔 絶した地位を保障されながら社務を遂行していたことに注目 し、社務と官位叙任の実態を論じることとしたい 。

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両家の文世には胞也神社の儀式関係史料が多数含まれてお り、内容を同じくする写本もあるが、﹁継目叙位願﹂がとも に含まれている 。 それらからは正徳則の叙位を契機として、 当主の代替に際して叙位を求めて各所に働きかけを行ってい たことがわかる 。 こうした点に注目して志賀家や小野家が、 いかにしてその地位を 維持し、社務を遂行したかを論じていくこととしたい 。 仙台滞や別 当法蓮寺との関係の 小 で 、 年 中 行 事 と 選 宮 盟誼神社は、滞祖政宗以後、仙台滞主が代々神主を務め、 社領・太刀・神馬を寄進し、夜間中には社参した 。 特に間代 綱村と五代背村が脚内山神社を崇敬し様々な施策を行ったこと はよく知られている 。 例 え ば 貞 享 凶 年 ( 一 六八 七 ) 、綱村が 際i色村家のキ:1務と

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r1立叙任

(30)

公家の古町家に依頼したことで正 一 位が追贈された 。 さらに 亡 し ゃ 小 じ 、 π ↑ ・ -E ノ土下 h / , q ﹁ 出 m m M 神社 縁起 ﹂ の作 成 ( 一 六 九 三 ) 帽 ﹄ キ ﹂ 阜 、 d a 勺ふ d J ム Y , 臼 剖 明 -L f L ' h 士 n 旧家や五県・一掛か銃頭の近衛家の協力のもと編纂が しお っ ち の お じ 行われ、それまであいまいであった祭神が塩土老翁神 ( 別 たけみかづち ふ つ 由 L A 2 宮) ・ 武琵槌神(左宵 ) ・ 経津主神 ( 右宮 ) に決定した 。 を 命 じ 、 k の 後、元禄八年には現在の社殿の造常が新手され、ん五永元年 ( 一 ヒ

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問 ) 、内村の時に竣仁した 。 祭神が決定し、さらにそれらを利る社殿が完成したことで、 そこで執り行われる儀式の整備も進められた 。 ま ず 、 ]今

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どについては、輸書制のもと、社家の内、志賀山本を合む

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位 五山家が番頭として、小野家をはじめとする残り で . て ん ぷ の 需 子 を指制した 。 番頭 一 人が九

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交代、昏子は 二 人が a ニ

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交代で 出仕することとな っており、志賀家や小野家の当主などは、 こうした け 々のぷ仕の他、年 中 行事を執り行うため刷松山神社 まで い 伸 敷 地 か ら げ 辿 っ ていたのである 。 心 ヘ ・ ﹄ 、

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本 報 化 川 代 川 に 崎 載 さ 年中行事についてみていきたい 。 れている﹁塩釜宮年中行事﹂とは表題は異なるが、同じ内容 のものが小野家文苫にも﹁一宮年中行事﹂として残されてい かげひさ る 。 これは江戸時代日以後の当セ小野敬久のおによるもので、 社家により儀式川が k u v v され、共有されていたことがわかる 。 [6 内科をみると、例えば a バ川の株

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は次のようにある 。 -L L ・ - 1 ・ し 1l

J j J l ー 一 凡 正 己 . 4 ・ U ト し ん 川 河 一 iH O イ 心 ' J N J J 1 早旦開帳 ﹄ 川 ' 伊 小 BL ・ 十 ム '¥ 品 市 立 H U ト ム 内 創 白 山 叩 . : 十 4 2 ポ J J 4 t J / 持 M St , t う T + T 次、社家・社伯 小 奉幣 十 時 前 附 U 二 (1 7)( {I-'

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快い始之 御餓供進 阿部

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ト ん火ポ進之 御飯於御供所服部社人 二 人炊之 山 御飯九膳(以下略 ) このように儀式の行われる場所、附帳の時間、御餓供進を 担当する人物、 仰 い や の 内 山 什 が 必 さ れ て お り 、 いずれの行引も すべての祢立と社人がゆ衣に扇子という装点で執り行 っ て い る 。 また行事の山来の記載があるが、﹁内宝、水 二 年正 月、快 信始之﹂、あるいは﹁宝永元年祭旧御加増之後、翌 一 一 年始行 之 ﹂ とい っ た文誌が倣比され、多くが現在の社殿が竣功した ! J P E - -M K -r u ロ μ !、 ' 1 1 ‘ , , h E J , 4 A あるいは覗 二 年から行われていることがわかる 。 快伝とあるのは、別当法辿寺の併であり、儀式の犠備にあたっ てその影特の大きいことを窺い知ることができる 。 こうした年中行事の他に、社人にとっては、神社の改築・ 修理の際に御神体を移す選山を出りなく行うことが

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耐 火 な 役

(31)

制の 一 つ と しであ っ た 。 それぞれの社家の家職も選宮に際し ての役割に基づいて定められていた 。 例えば、小野家を含め た 二 祢宜 三 家の御神体御守役は遷宮のとき御神体を守り、運 ぶ役割を担うものであった 。 江戸時代の臨趨神社の選宮は、慶長 一 二 年 ( 一 六

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七)を 最初に、次いで寛文 三 年 ( 一 六 六 三 )に行わ れるなど、前期 には時 期が定ま っていなかったが 、 { 玉 、水元年の造営以後はお よそ 二

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年 に 一 度行われた 。 いわゆる式年選宮である 。 志賀家文書と小野家文書には、選宮に附する記録も数点含 まれている 。 小野家文 書の﹁ 御上 下退官記録﹂は 、文久 二 年 ( 一 八 六 二 ) 七月、小野敬久が、江戸時代の選宮の記録を社 家の鈴木陛摩守や鈴木壱岐から 借用して 銃写したもので、儀 式の内容等を知ることができる 。 盟也神社の選宮は、現在では本殿の修復を別宮と在宮 ・ 右 宮とで交互に行う 。 そのため別宮修復の際には左常本殿を仮 殿として、別宮が竣工した後、左官・右宮修復の際には別宮 本殿を仮殿としている 。 一方で江戸時代には、各拝殿内に箱 状の ﹁ 坪 沌 殿 ﹂を設けて仮の 内陣とし、開円部を板や幕 等で 閉 鎖 し て 仮 の 外 陣 と し て 、 正 面 に は 仮 の 持 所 を 造 作 し て い た 。 この仮殿への選出を仮 ( 下 ) 選宮、正殿への選座を正(上) 選官と言い、文久 二 年 一 一 月に正遷宮が行われているので、 その本殿進座に先立ち小野敬久は先例を調査したものと考え られる 。 具体的な内容を見ると、宝永以後の事例の先例がま お と り

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め ら 本 れ 史 て 料 い に る は が 記 さ れ て し、 な し、 直前の天保期のものは別にまとめられて 巡宮に伴、つ儀式も宝、水の時に定められ、先例とされたもの があった 。 例えば祢立は選座にあたって身を泊めなければな らなかったが、宝、水の時にその日数をめぐる議論がなされて い る 。 宝永以前には ﹁ 一 宮御遷宮ニ付前後斎之日数 三 社之 一 ノ祢宜者五十 一 日 、 御 守 之 社 家 者 百 七 十 一 円 宛 ﹂ であった が、これは ﹁過分之日数﹂であると 言 う 。 つ ま り 、 二 祢宜は 一 七 一 円 問 、 澗や九以内を口にせず身を清めなければならな かったのだが、﹁当御選宮より散斎致、苅随分丁寧ニ被相勤、 円 数者減少ニ而可然存候﹂と、 日数を減らすべきこととされ た。伊勢神宮の事例では 三 七

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であり、その五析もの長則に 百 一 ったのは﹁御 神体直々 奉 負 候 故 、有之訳ニ相見得候 ﹂ と 、 御神体を直に背負うためであったようだが、﹁五十

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ニ而可 然﹂として則問が短縮されることとなった 。 このように宝、水の社殿造常に伴い、年中行事及び選宮に伴 う儀式等が整備され、その多くが先例として明治維新まで存 1,¥弾道中1:家の十:1務と'自・伶:叙任 17

(32)

続することとなった 。 社 家 の 序 列 の 悶 定 と 官 位 叙 任 社殿及びそこで執り行われる儀式が整備されたのと相侠つ て各社人の担う社務が雌定し、序列も確定していくことと な っ た(表 ) 。 第 一 には社制の加増が 一 段落し、社家の知行 日が同定した 。 宅永元年の社般の竣てに合わせて、滞主山村 から朱印状が追わされ、山 王 村・八僻村の 内 一

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文 が 神 領 、 山 王村と多賀城の大代村の 内 五貫文が別当寺の法蓮寺に、市 川村・八幡村 ・ 南宵村・相 ・ 五村・笠神村の 内四

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貰文が社家 二 九家に与えられた 。 こ れ 以 前 、 士自立比 五

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ぷ 付

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主 を I S T , L1 1 v f V I A l O 4 平 以 什 川 刊 I 語 、 l 心にあったが、 仙台部から加附 されるにつれて多幻城市域の 方にも広がってい っ た 。 最終的に社領は九六

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九 二

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文とな り、その内社家の知行地が五七員六

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二 文となった 。 こうし て例々の社家の知行山も定まり、この後、江戸時代を通して ほほ変わることはなか っ た 。 第 二 には、家職の章 一 以性及び 山絡を ふまえて序列が明確化 され、上位の七家は朝廷から官位を授けられるようになり、 彼らは隔絶した地位を保障されて家職を遂行することとな っ た o H H 体的には 一 祢 山 孔 で あ り 、 左 { V

E V -別官 の御神体を 奉安する内陣の鍵を管理した御 神体御鍵役の阿部 家 、 春

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家 、 18 鈴木家が従五位ドに叙任された 。 次いで. 一 一 社兼慌の悦詞役を 務めたぷ賀 ・ 泌が正六位下、次いで巡宵のとき御神体を守る役 剖を担 っ た御神体御守役の 二 祢宜であった鈴木川内家、小野 家、鈴木金之助家が従六位上に叙任された 。 正徳五年 ( 一 七 一 . ム ) には、まず 一 祢立. 一 .人と祝詞役の志 賀市之丞が叙任され、その後小野約者など 二 祢宜 コ . 人 が 叙 任 された 。 神職の官位叙任については向埜利彦氏や井上智勝氏 の先行研究が詳しい 。 手続きは 二 通りあり、まず神社伝 奏 と 言 って、神社・神職から依頼された公家が、天皇・朝廷に官 位執奏する刀法があった 。 ただし、神社伝裂を右した神社は 伊 勢神宮などに 限 られていた 。 神社伝奏を持たない神社の場 合、公家の宵町一本に 朝廷 への執奏を依 頼した 。 これは寛文五 年(一六六五 ) に発布された諸社祢宜神主法度により、神社 伝奏を持つ神社 ・ 州臓やそ の他 一 却を除き、土門旧家が諸社家 の執必を担うことを認められたことによる 。 脚 龍 社 家 も ・ 汗

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家の朝廷への執奏により叙任されたのだが、正徳朋の叙任に ついては本報告刊に掲載されている﹁ 正徳四年 叙被仰 付候 事﹂が詳しい 。 正徳川年 三 川 晦 日 、 一 祢宜 一 -.人と志白山之 不は仙台城へ笠

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城 し 、 ぷ 行 鮎 日 正 ハ 山 叩 咋 か ら れ 位 叙任のため京都へ赴くことを 命じられた 。 その際、叙任された後も法蓮寺の支配下にある べきことも命じられている 。 別 当法蓮寺では、住持のもとに ﹁ 納 所 ﹂ という役所が 位かれ、脇院 という寺院の中から選ば れた役者 ( ) が庶務を執り行っていた 。 社家の番頭はその 下に位置し、こ う した 別 当 寺との関 係 により、社家の方で 仙 台維に要望があったとしても、直接藩に上巾することはでき ず、法蓮寺の役者に願い 出 、許可を仰なければならなか っ た 。 そのため叙位に関わる滞とのやりとりも法辺守を介して行わ れたのである 。 ぃ 以郎までの路銀は緋の文 山 で 、 社家たちは、 二 二 川切を長 け 取 り 、 凶月 二 二

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、随行の者も含め八人で仙台を立 っ て い る 。 五 川 一 円には仙台瑞江戸上民放に立ち寄り、 三 円に江戸 を 出 立 、 1 1 1 ・ ﹄ ま f d p こ 川 リ 也 リ J J I L l d h f J Y 4 3 一 九

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丈 翌

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に は仙台藩京都屋 敷の役人の指同により 、 社家たちは吉田家家司鈴鹿堂前守を 尋ね 、 奉行からの書状と銀 三 両を差し出している 。 そして摂 政に悲し 山 す願川の提 山 を命じられている 。 その後願引 け を 挺 山 し、叙位の勅許が 山 されたのは七 川 -九日のことであ っ た 。 一 一 一 日には御礼のため山 川 家を訪ね、 さらに社人が御 礼 の行 物を手に、然以や県政、その 他 公家の u m 放を手分けして訪ね ている 。二 九日には古田北述から倫行・立円・位記を受け取 り、八 川 三 日 京都を立 っ た 。 一 一 一 けには江

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に 到 お し 、 二 五

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凶の途に就いている 。 な お 、 ﹃ 伊 達 治 家 記 録 ﹄ には﹁於 京附去月 二 十九日臨趨社家叙位謝儀 ト シテ吉 間 兼連卿へ白銀 十枚、雑 掌三人 ・ 鈴鹿兵庫 ニ 各自銀二 枚ヲ贈追 ノ旨猪苗代兼 郁 言 上 ﹂ とあり、後日改めて伊達家から育 旧 家へ御礼として 白銀が贈 られていたことがわかる 。 川 凶 後 一

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月 一 五 日 に は 、 凶分町の 桁 で京情を罰則し、相均 他で登城の上、 部 主 ヒ 川 村と生付点樹院に御 け はをしている 。 その際

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和を献上し、 後に麻上下に治伴え、 御日凡御礼 の ためぷ行のもとを訪ねている 。 理 一 止徳五年には、 二 祢宜鈴木河内守、 小野約 件守、鈴木伊 到守も叙位されることとなる 。 一 月 一 七 日 、 奉行柴田外記の 屋 敷 で 、 やはり法蓮寺の支配のもと社務を遂行するという条 件付き で、官位叙任のため京都へ赴く ことを 命じられた 。三 人は 五月 一 一日に点都に到新し、宵 田 家に叙位願を し ている 。 その際、占 悶 兼述より摂政九条 輔 実へ順を差し 出し た が 、 山 川 年に続いての叙位であり、礼が不卜分とされて反されたよう である 。 そこで滞七七 日 村の正雫冬 航 の生家久説家等に動いて も ら い 、 それが功を必して願が受即一されて従六 位 上に任ぜら !割程社主支の社務と'':';f立叙任 JCj

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れた 。 前年も願を差し 出 してから勅許を料るまで 二 ヶ バ を嬰 していたが、この時と 川 械に谷弘には願を受血されなか っ た ょうで、久我家等の 働 きかけによるところが大きか っ たよう である 。 一連の手続きを済ませて、 三 人は京都を立ち、 一

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月 一 五 けには江戸に到治し、麻布下尾般に隠肘していた綱村に御 日 見している 。 綱村からは社家が叙位されるよう願 っ ていたと ころ実現し、満足していること、また吉村の家放と白らのた めに祈祷をすべきことを一祢宜、祝詞役へも伝えるよう﹁御 意﹂があった 。 このことから、社家の叙位は綱村のな向によ り進められたとみてとれる 。 ここまで述べてきたように、社家は滞の後ろ間のもと、いが 都に赴いて吉岡家へ願い 出 、 有田家から朝廷に奏上され、勅 許されることによって官位叙任が実現した 。 これを契機とし て七家は当 主 の代替わりに際して叙位されることとな っ た 。 これを桃 川 叙位と へ パ っ た が 、 一 止徳則のいや例を先 例 として、滞 の 許 . 川 円 を符ると京都に赴き、青山家に叙位願等 一 連の下続き を行うこととなった 。 当主が幼年であったり、病弱である等、 肉体 的 に問題を抱えていない限り、 一 八 世 紀の段階では、先 例辺り叙位願を許可されたようである 。 しかしながら、 J¥. 世紀末になると滞政の問題等と相侠って叙位願が却下され、 20 先例の辿りとならない引態が作じることとなる 。 そうした小 で、社家は円らの 社 務の重要性や山抑制を主張し、継

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叙位願 を行うこととなる 。 継

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叙 位 願 の 展 開 継 日 叙位願が行われた品 川 氏として、叙位を契機としてそれ にふさわしい ﹁ 栴 ﹂ が繋えられ、叙位されているか有かで待 遇が大きく異なった こ とが挙げられる 。 第 一 に藩主への御日 日 ん で 待 遇 に 差 が生じた 。 正徳期の叙位を契機として、叙位の 際と年始の雄主への御 け はの作法が定ま っ たが、叙位されて いない場合、年始の御日比は制限された 。 ま た 、 滞 セ や 叶 一 山 剛 の社参の折、法蓮寺客殿での御

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見も制限された 。 第 二 に乗興が許可されるか否かということがあった 。 正徳 凶年の 一 祢宜及び祝詞役の叙位の際には、 LL H 村への御 日 比に あたり、社家たちは 同 分町の桁から飢餓 山 で夜城をしている 。 この後、法蓮中を介して瑞に川い什わせたことはあ っ た が 、 来興の可否は判然としなか っ た 。 元文元年 ( 一 七 三 六 ) 、叙 位された社家の釆興は荒支えないと吉 川 家から奉行に伝達さ れ、誰からも鴨 川 . 川 り を科た 。 一 万で叙位されない助作には来興

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