『漢城新報』に見る旧韓末期日本人居留民の生活
著者
小澤 康則
著者別名
KOZAWA Yasunori
雑誌名
アジア文化研究所研究年報
号
50
ページ
68(279)-51(296)
発行年
2016-02-29
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00008034/
Ⅰ.はじめに 1876年に朝鮮との間に日朝修好条規を結んだ 日本は,翌1877年,釜山に朝鮮で最初の租界を 設置した。場所は釜山に古くから存在した倭館 跡地である。倭館は朝鮮が設置した日本人の指 定居住地で1407年に設置された。室町時代には 三浦(1)と漢城(2)に設立されていたが,文禄・慶 長の役のために両国関係が断絶していた間は, 倭館も閉鎖されていた。その後,江戸幕府によ り朝鮮との外交交渉を命じられた対馬藩は, 1609年に己酉条約を締結し,釜山の草梁(3) に倭 館が設立されることになった(4)。草梁倭館は江 戸時代を通して対馬藩によって運営されたが, 明治に入り廃藩置県で朝鮮外交権が対馬藩から 外務省へと移り,名前も大日本公館と改称し た(5) 。日本はこの倭館の存在を盾に,日本租界 を開設(1877年)したといえる。 釜山に続き,日本は1880年に元山(6) ,1883年 に仁川(7) ,そして1909年には馬山(8) へと租界を 広げていく。当時,国単位で租界を持っていた のは日本の外には清(中国)(9) ,そして露西亜(10) であった。その他の列強諸国は中国の上海での 例と同じように,共同で運営する協同租界(11) を 仁川(12) ,鎮南浦(13) ,木浦(14) ,群山(15) ,城津(16) , 馬山(17) に設置した。しかし,共同租界とは言い ながら,実質的には日本しか進出しておらず, 日本租界と変わりがなかったものもある。この 様に租界は基本的に貿易港に開設されたのであ るが,漢城(18) 南部の龍山地区(19) にも日本人街が 形成され「日本租界」とも呼ばれていた。 旧韓末期(20)における朝鮮への日本人の移住は 表1の様になる。 表1 在朝鮮日本人居留民の推移と歴史の流れ(21) 年度 人口 歴史 1876年末 54人 日朝修好条規締結 1884年末 4356人 開化派による甲申政変 1889年末 5589人 日本と清,下関条約 1890年末 7245人 龍山の日本商人租借地確 定を要請 1891年末 9021人 1894年末 9354人 甲午農民戦争。日清戦争 の契機。 1895年末 12303人 乙未事変(閔妃殺害事件) 1900年末 15829人 1905年末 42460人 第二次日韓協約 (22) 。統監 府設置 1906年末 88228人 1910年末 171543人 日韓併合。朝鮮総督府設 置 表を見てわかることは日朝修好条規締結当 時,54人しかいなかった居留民が1884年には 4356人に増えていることである。その間に釜 山,元山,仁川に日本人租界が作られている。 そして日露戦争を経て統監府設置,そして併合 による総督府設置が日本人居留民の増大を招い たことが分かる。 ところで,このような日本人租界で日本人居 留民はどのような生活をしていたのであろう か。そこで本稿では1895年に創刊され1906年ま で発行された『漢城新報』,特にその中の広告 を通して当時の居留民の生活の一端を見てみよ うというものである。
小 澤 康 則
Ⅱ.旧韓末期におけるにおける朝鮮の新聞事情 朝鮮・韓国における新聞の歴史は大きく三つ の時期に分けることができる。先ずは朝鮮の近 代的新聞の嚆矢とされる『漢城旬報』の発刊か ら日韓併合までの旧韓末期,次が日韓併合から 第二次世界大戦の終結まで続く日本統治期,そ して日本の敗戦から現在へと続く解放後の三区 分である。もちろん,この三区分がさらに細分 化されるのは言うまでもない。解放後だけを とって見ても,解放直後の混乱期,朝鮮戦争を 契機とした米軍政の時期,そして軍事政権の時 代から文民政権の時代へと移行するにつれ,新 聞の様相も大きく変化している。本稿はそのよ うな新聞の歴史を見ることが主題ではないが, 『漢城新報』を材料として居留民の生活を見て 行こうというものであるから,旧韓末期におけ る朝鮮の新聞事情を整理してみることにする。 1.旧韓末における朝鮮人発行の新聞 先述したとおり朝鮮で最初の近代的新聞は 1883年10月31日創刊の『漢城旬報』である。前 年,修信使として日本に赴いた朴泳孝の一行 が,国民を啓蒙する開化運動を展開するために は新聞の発刊が緊要だとして準備し,創刊した ものである(23) 。発刊に当たっては福沢諭吉の推 薦を受けた編集者(24) や印刷工(25) を連れて行った という。内容は純漢文で書かれた18ページ前後 の冊子で,国内記事(官報および利報),各国 事情,物価変動,解説記事,論説等々の内容か ら成り立っていた。『漢城旬報』は1884年,甲 申政変の余波を受けて博文局が印刷機器ととも に破壊されてしまい,廃刊を余儀なくされた。 しかし,公器としての新聞の重要性を認識し た政府は,新たに発行回数を週刊とした『漢城 週報』を発刊することにした(26) 。形態は『漢城 旬報』と同じ冊子形式であるが,記事は純漢文 だけでなく漢字ハングル混用や純ハングル記事 まで現れた。読者が容易に読めるようにという 配慮からであった。発行者は『漢城旬報』と同 じく統理衙門博文局であった。残念ながら『漢 城週報』は2年半で廃刊となる。理由は購読料 の未回収による財政難。まだ当時の世相が独立 採算で新聞を維持できるほど成熟されていな かったこと,そして政府にも全面的な財政補助 をするだけの意志がなかったことなどがその原 因であったと言える。 1896年,朝鮮初の民間新聞である『독립신문 (独立新聞)』が発刊される。独立教会(27) の機関 紙的役割を果たしてもいたが,文明開化,国家 の自主独立,法治主義の確立,教育振興の必要 などを力説し,それまでの知識層中心であった 開化運動を民衆にまで広げたという功績は大き い(28) 。また,それだけではなく,単にハングル 専用にとどまらず,ハングルの分かち書きを断 行したことは,その後の新聞だけでなく,ハン グルへも大きな影響を与えたといえる。 以下,旧韓末期にあって朝鮮人発行の新聞は 表2の様な変遷をたどる。 表2.旧韓末期の朝鮮人発行新聞 漢城旬報 1883.10.31 統理衙門博文局 1884.12.4 甲申政変により廃刊(旬刊) 漢城週報 1886.1.25 統理衙門博文局 1888.7.7 廃刊(週間) 독립신문(29) 1896.4.7 徐載弼 1899.12.4 廃刊(最初は隔日刊のち日刊) 협셩회회보(30) 1898.1.1 培材学堂協成会 매일신문(31) と改題(週間) 매일신문 1898.4.9 培材学堂協成会 협셩회회보を改題。(日刊)1899.4.4 廃刊 京城新聞 1898.3.2 尹致昊 대한황셩신문(32) に改題(週間) 대한황셩신문 1898.4.6 尹致昊 皇城新聞に改題(週間,日刊) 皇城新聞 1898.9.5 股金制(合資会社) 1910年漢城新聞に改題 時事叢報 1899.1.22 洪中䑯 1899.8.17 廃刊 商務總報 1899.4.14 商務公社 매일신문の施設で創刊 皇国協会系列
大韓毎日申報 1924.7.18 裵説 漢字ハングル版 ハングル版 英文版 國民新報 1906.1.6 一進会 親日系新聞 萬歳報 1906.6.17 呉世昌 天道教系 1907.6.29 廃刊 大韓新報 1907.7.18 李完用内閣機関紙 親日系新聞 大韓民報 1909.6.2 大韓協会 1910.8.31 廃刊 慶南日報 1909.10.15 株式会社 主筆 張志淵 最初の地方紙(隔日刊) 大同日報 1909.10.19 李紹鍾 週刊で出発 日刊でも発行 1910.2.4終刊 時事新聞 1910.1.1 閔元植 親日紙 1910.5.8 指令100号により終刊 2.旧韓末における日本人発行の新聞 日本人が朝鮮で発行した新聞で一番古いもの は1881年に釜山で発刊された『朝鮮新報』と言 われている(33) 。これは在釜山港商法会議所が刊 行主となっている。それゆえ,発行目的も掲載 記事の内容も,一般的な総合新聞と言うよりは 経済専門紙と言った色合いが濃厚であり,旬刊 であった。『朝鮮新報』以降も『仁川京城隔週 詳報』,『朝鮮旬報』,『釜山商況』,『朝鮮時報』 などの新聞が発刊されるわけであるが,どれも 仁川や釜山などの特定地域を中心として特定分 野に限られたものであった。 1895年2月17日(34) ,熊本国権党(35) 関係者が中 心となって『漢城新報』が生まれる。熊本国権 党が主唱してきたのは国威伸張と国権拡張で あったが,日清戦争を契機としてそれを実践に 移すための事業として,朝鮮において新聞事業 を始めたのであった。その手始めが釜山で発刊 された『朝鮮時報』であり,その第二弾として 『漢城新報』が発刊されたのである(36) 。ただ, 違っていたのは,先の『朝鮮時報』は熊本国権 党人士を中心とした民間人による比較的小規模 な新聞であったのに対し,この『漢城新報』は 外務省機密費により創刊され,毎月補助金を得 た外務省の機関紙的性格を持ったものであった ということであろう。そしてそのために,日本 語と朝鮮語の両国語で書かれていたというのも 大きな特徴であろう。つまり,それまでの日本 人が作った朝鮮での新聞とは位相を異にするも のであったのである。また,その購読者も創刊 当時は100余名の読者であったが,1895年下半 期には読者数がソウルだけでも日本人174名と 韓国人400名,同じく同年末には日本人186名と 韓 国 人450名, そ し て1896年 に は 総 読 者 数 が 1911名にまで達したとある(37) 。この『漢城新報』 は1906年,同じく日本人発行の『大東日報』と ともに統監府に買収合併され『京城日報』とし て,準官報的な役割を果たすことになる。表3 は日本人が発行した朝鮮語新聞の概要である。 表3.旧韓末期の日本人発行朝鮮語新聞 漢城新報 1895.2.17 日本外務省機関紙 1906.7.31 廃刊 京城日報になる 대한신보 1898.4.10 光武協会 日韓キリスト人を糾合するための機関紙 大韓日報 1904.3.10 蟻生十郎 1906.8 韓国語新聞廃刊 日本語紙発行 大東新報 1904.4.18 村崎重太郎 1906.8 漢城新報と合併 京城日報となる 中央新報 1906.1.25 古河松之助 1906.5.17 指令110号により廃刊 漢城新報 1909.5 田村萬之助 1909.12 廃刊 初代漢城新報とは無関係 大韓日日新聞 1910.6.4 田村萬之助 合併後廃刊 それ以外にも,日本人が発行する新聞は日露 戦争後,各地で次々と生まれ,朝鮮人の発行す る新聞を凌駕するようになる。第二次日韓協約 締結後の日本人発行の新聞・雑誌を見てみると, 1906年には新聞・雑誌が27種,1907年には新聞 30種(日刊紙18),雑誌4種,1908年には新聞29 種(日刊紙19),雑誌3種,1909年には新聞30種 (日刊紙24),雑誌4種,そして1910年には新聞 27種(日刊紙22),雑誌4種となっている(38)。
Ⅲ.『漢城新報』を通して見る旧韓末 『漢城新報』は先述したように1895年に創刊 され(39) ,1906年に『大東新報』と合併し『京城 日報』となり,その幕を閉じる。それでは,『漢 城新報』が創刊された1895年とはどんな年であ り,当時の朝鮮はどんな状態であったのだろう か。そして,『漢城新報』とはどのような新聞 であったのだろうか。同紙の記事を通して見て みることにする。 1.記事から見る『漢城新報』の性格 1895年は乙未の年である。朝鮮ではこの年, 乙未事変,いわゆる閔妃殺害事件が発生した。 当時の朝鮮及びそれを取り巻く国際環境は,国 内政治的には守旧派と開化派との対立があり, そこに大院君(40) と閔妃(41) とがかかわるという状 況にあった。そしてそれを取り巻く外国勢力と して日清戦争(1894∼1895)の当事国である日 本と清(中国)そしてロシアがあり,各々の思 惑が交錯し国内政治勢力と複雑に絡み合ってい るという状況であった。その様な状況で乙未事 変は起こるのである。 1895年10月8日付『漢城新報』第117号(42) の 第3面に「大院君王宮に入る」という題目の記 事(事例1)がある。それが乙未事変関係記事 の初出である。 事例1-1 大院君王宮に入る① 大院君王宮に入る (略) 王城護衛の如きは訓練隊當に其任に當 るべきなり然るに宮中は此精錬の訓練隊を信 用せられず却て素養なき舊兵を重要し且つ舊 兵を廃止せざらんが爲め軍費の不足を告ぐる 關せず殊更らに侍衛隊を設け又た名ありて實 なき工兵馬兵を新設して舊兵を採用し爲めに 平素訓練隊の不平を買ひしこと少からず加之 近日宮中に於て訓練隊を廃止し銃器を取揚げ 隊長を所罰するの内議ありし事訓練隊将校兵 士の間に漏れ爲に大激昂し平常の積憤抑ゆ可 らず往て大院君に向て此事を訴えたり (略) 大院君宗親の家にあり情座視すべきにあらず となし乃ち進んで大君主陛下を補翼して革新 の業を成就し宗社盤石に扶持せんと欲し訓練 隊の兵を率ゐて入城せらるゝに至りしと云ふ (略) 当時宮中では閔妃派が勢力を握っており,日 本の指導のもとに作られた宮廷警護隊である 「訓練隊」(43) を解散させようとしていた。その不 満が彼らをして大院君に接近させ,大院君とし ても宗廟・社稷を守るために立ち上がったとし ている。 事例1-2 大院君王宮に入る② (略) 訓練隊は前後を護衛して王闕に向へり 天漸く明け離れし頃大院君王闕に至り光化門 を開らかしむれば侍衛隊の兵士は發砲して之 を防止せんとしたり是に於て訓練隊は乃ち之 に應じて發火し初めたりしが砲聲を聴くこと 僅かに二三十發にしてなき侍衛隊の兵士等は 悉く逃亡し或は服を變じて宮中の僕丁に雑り 抗敵する者なきより大院君は直に参内して大 君主陛下と御對顔あらせられ左の榜文を頒布 せられたり (略) 訓練隊に守られ王宮に入ろうとする大院君を 阻止しようとして,先ず侍衛隊が発砲してき た。それに応ずる形で訓練隊が発砲したところ 侍衛隊はもろくも崩れた。そして大院君は国王 に対面し(今回の処分に関し)告示をだしたと いうことになる。戦闘はあったが,少なくとも 王妃が殺害されると言うような激しいもので あったとは,この記事からでは想像できない。
事例1-3 大院君王宮に入る③ (略) 斯して王闕内に於て一塲の小闘ありし と雖大君主陛下及び王太子宮殿下は何れも御 無事にして只だ王后陛下は御所在知れずと云 ふ (略) この一連の記事の中で閔妃に触れたのはこの 1行でしかない。そして後日談として,同じ ページに事例2のような続報記事が載せられて いるが,行方不明の域を出ず,殺害など全く予 想だにしていない記事内容である。 事例2 王后の行方 ●王后陛下の御行衛 昨朝の變に王后陛下は 御行衛不分明の由なるが衆評區々として信を 措き難きも一説に依れば去壬午の變亂(44) には 陛下難を避て忠清道忠州長湖院に赴かれたれ ば 回も或は同地に赴かれしならんかと云ふ 深宮の中多くの人にかしづかれ玉ふ身の遥々 難を遠地に避けさせ玉ふとは痛ましき限りな らずや そして,行方不明のまま閔妃は事例3のよう に廃されることになる(45) 。 事例3 王后を廃す ●王妃を廃す 今日詔敕を以て王妃閔氏を廃して庶人となせ り(其詔勅は次號に掲載すべし) 10月13日付『漢城新報』119号の第2面に閔 妃を廃した詔勅が朝鮮語で,そして第3面には 日本語訳が掲載されている。その日本語訳は事 例4のようになる。 事例4 王后廃位の詔勅(日本語記事から) 詔勅 朕臨御以来茲に三十二治化普洽する能はす就 中王后閔氏は其親党を援引して朕の左右に布 置し朕の聡明を壅蔽して人民を剥割し朕の政 令を濁亂して官爵を賣買し貧虐地方にきを以 て盜賊四起し宗社は汲々として危殆に瀕する を至す (略) 昨年十二月宗廟に誓告して曰 く后嬪宗戚は國政に干渉するを許さすと以て 閔氏の改悟を潜に冀ひしも閔氏は舊惡を悛め す其党與及群小輩を潜に相引進して朕の動静 を察し國務大臣の引接を防遏し又た朕の旨を 矯め朕の國兵を解散するとなして亂を激起せ しむ而して事變の出つるや朕を離れ其身を避 けて壬午の往事を踏襲し訪求すれども出現せ す是れ王后の爵徳と称す可らさるのみならす 其罪惡貫盈して先王の宗廟を承く可からす故 に朕は已むを得す朕か家の故事を謹倣し王后 閔氏を廢して庶人となす 開國五百四年八月二十二日奉勅 宮内府大臣 李載冕 (以下署名省略) 興味深いことに,この詔勅記事のすぐ横に事 例5のような詔勅が記載されている。 事例5 嬪号を賜る(日本語記事から) 詔勅 朕王太子の孝誠と情理とを顧念し特に嬪號を 廢庶人閔氏に賜ふ 開國五百四年八月二十三日奉勅 宮内府大臣 李載冕 つまり,王后から庶人に廃した閔氏に対し, その翌日早くも嬪号を賜るという詔勅が出たと 言うことである。嬪は王の後宮で正一位である が,王后に冊封されると位階を失う(46) とある。 つまり王后は王族であるが,嬪は臣下であると いうことになる。閔妃はその後,同年11月26日, 閔妃を庶民とした詔勅が取り消され,再び王后 となる(事例6)(47)。
事例6 閔氏復位(日本語記事から) 詔勅 王后閔氏の位號を復し本年八月二十二日(廃 后の詔勅)の詔勅を繳銷す この時点ではまだ閔妃の死は公表されていな い。閔妃の死が公表されるのは12月3日144号に おいてである。朝鮮語では第二面の官報抄録欄 に小さく書かれているが,第3面の日本語記事 においては「●閔后崩殂に關する詔勅出づ」(48) と言う見出し記事になっている。 ところで,10月15日の『漢城新報』第120号 の第2面の朝鮮語面と第3面の日本語面に, 各々朝鮮語と日本語で事例7のような広告記事 が載せられている(49) 。 事例7 特別広告(日本語面) 特別廣告 漢城新報社客員ヲ辭ス 十月七日 國友重章 『漢城新報』が熊本国権党の関係者を中心に 作られたことはすでに述べた。社長は釜山で 『朝鮮時報』を創刊した安達謙蔵(50) であり,編 集長は小早川秀雄(51) ,記者として佐々木正(52) , 朝鮮語版担当の中村健太郎(53) らがいたのである が(54) ,国友重章(55) は主筆であった。彼らのうち 安達,小早川,佐々木,国友が閔妃殺害事件に 連座し,起訴された48人の中に名前を連ねてい る。他に起訴された『漢城新報』関係者として 佐々正之(56) がいる。つまり,『漢城新報』は閔妃 殺害事件と深くかかわっていたわけであり(57) , 事件の詳細についても当初から知っていたわけ であろうが,公式的発表に徹している。外務省 の機関紙と言われるゆえんである。そして,こ の特別広告も事件との関連から出されたもので あろうと推測される。 2.広告に見える居留民の生活 『漢城新報』は1895年当時,隔日発行(58)であ り,定価は一部2銭5厘(朝鮮貨幣では1銭3 分)(59)であった。一面と二面は朝鮮語による社 説,雑報,官報などの記事があり,三面が日本 語による記事であり,雑報記事の他,市況や輸 出入月表等も重要な記事となっている。そして 4面に物価表と広告記事が掲載されている。広 告記事には日本語もあれば朝鮮語もある。ま た,広告と一口にいっても,商業広告から個人 的な告知に至るまで多種多様である。以下,こ の広告記事を見ながら,当時の在京城居留民の 生活について概観してみることにする。 ①日本とのつながり 旧韓末の京城居留民にとって,日本とのつな がりは仁川を通してであった。しかし,京城・ 仁川間に京仁鉄道が走るのが1900年,そして京 城・釜山間に京釜鉄道が走るのが1904年であ る(60) 。すると『漢城新報』発刊当時は京仁鉄道 がまだ開通していなかったことになる。事例8 と事例9はその当時の事情を物語るものである。 事例8 駄馬取扱開業広告 京城仁川間駄馬取扱開業廣告 今般其筋ノ御許可ヲ得テ京城仁川両所ニ於テ 運搬業開始仕候ニ就テハ身元慥カナル馬夫ト 健全ナル馬匹ヲ用意致シ置キ發着途中ニ於テ 御乘客並ニ貨物ニ對シ聊カモ不都合等無之樣 注意ヲ加ヘ廉價ト迅速トヲ旨トシテ精々勉强 仕候間何卒御用被仰付度此段奉願上候也 明治廿八年十月 京城鑄洞第三拾號地 駄馬取扱所謹告 仁川港各國居留地第貳拾九號 駄馬取扱所謹告 1895年10月5日『漢城新報』115号に掲載さ れている広告である。陸上交通手段としては徒 歩や馬が主力であったことが分かる。また,11 月25日『漢城新報』140号には次のような広告 がある。
事例9 汽船出帆広告 龍仁間滊船出帆廣告 正重丸 順明號 各番 右每日午前出帆仕候此段廣告候也 龍山莊司回漕店 龍山は先述したとおり,後に日本人租界と呼 ばれる地域であり,京城の中央を流れる漢江 (ハンガン)に面している。漢江は朝鮮半島の 中央部を流れる川であり,太白山脈に源を発 し,半島を西に横断して黄海の京畿湾にそそぐ 川である。特に流れの緩やかな南漢江(61) は李朝 時代から嶺南(慶尚道)方面への水運に利用さ れており,朝鮮半島の西と東をつなぐ重要な交 通路であった。つまり,京城 - 仁川間は駄馬に よる陸路と汽船による水路(62)で結ばれていたこ とが分かる(63) 。 そして,仁川から日本への船便に関しては, 日本郵船と大阪商船による「郵船株式會社汽船 仁川出帆廣告」というコーナーが毎号のように 立てられており,船名,出港予定日時,行先等 が分かるようになっていた。 ②居留民社会 1885年,京城に居留民総代役場が設立されて いる。後の京城居留民団の前身である。9月13 日付『漢城新報』104号に事例10のような広告 記事が出ている(64) 。 事例10 小学校建築寄付金 小學校建築寄付金 一金十五圓 小野瀧三郞 一金十圓 淺山顯藏 一金十圓 武田尙 一金五圓 木村勝三郞 一金一圓 諏訪崎ハツ 一金五十錢 前田又一 通計金貳千百貳拾五圓 居留民總代役塲 当時の居留民総代役場は民意団体ではあった が,領事の監督を受けつつ居留民の公共事業を 自ら果たしていくようになっていた。この小学 校も同年11月13日に開校となる(65) 。つまり,設 立10年にして,居留民総代役場は居留民のため の小学校を作るまでに成長したことが分かる。 1887年,在留邦人によって京城で設立された 商業議会が,1892年に京城日本人商業会議所と 改名するのだが,その議員選挙も居留民総代役 場で行われている(66) 。 事例11 商業会議所議員改選広告 特別廣告 當居留地商業會議所議員半數改撰ニ付同所規 則第拾三條ニ依リ來ル三十日當役塲ニ於テ撰 擧施行致シ候條同日午前十時迄ニ投票相成度 此段撰擧人諸君ニ廣告ス 但撰擧,被撰擧人名簿并ニ投票用紙ハ直接 配布可致筈ニ候 明治二十八年十一月廿二日居留民總代役塲 留任者 氏名省略(7名) 退任者 氏名省略(8名) さらに1885年には京城日本工業会が成立した ことが分かる(67) 。 事例12 日本工業会役員選挙広告 京城日本工業會廣告 明治二十八年三月上旬諸職工八十名ヲ以テ組 合工業會ト稱シ總代始メ一等領事ノ免許ナリ 追々加入者有之會員數二百五十名第一回投票 ノ上當撰役員左ノ如シ 會頭 日田嘉吉 幹事 後藤金正 一之瀨虎作 山口重二郞 仝年十二月上旬會員壹百二十人ニテ第二回投 票ノ上當撰役員左ノ如シ 會頭 日田嘉吉
副頭 山田太吉 幹事 後藤金正 一之瀨虎作 大熊幸四郞 山口重二郞 藤村規三郞 明治廿八年十二月 工業會 つまり,投機的な商業活動が目的で京城に やってきた商人たちが自分たちの組合組織を作 り,居留するようになる。その結果,自分たち の自治組織である居留民総代役場が必要とな る。そして居留民の増大は居留民のための生活 財を作る職人層の流入を引き起こし,工業会の 結成へとつながる。それでは,この様な居留民 社会(68) で,当時の居留民はどのような生活を 送っていたのか,以下,広告記事を通して見て みることにする。 ③居留民の衣 『漢城新報』の広告料は「五号活字廿字詰め 一行一回金六銭但し行数及び回数により割引仕 料金は悉皆前金にて可申受候事」となってい る。それゆえ,分に相応した広告を掲げればよ いわけで,事例13などはそのよい例であろう。 事例13 仕立ての広告 廉価にて和服仕立ての御頼に応ず 倭城臺の下 興業塲の隣 林ミエ 小さな広告ではあるが,継続的に出されてい るところをみると(69) ,和服仕立てに充分需要が あったものと思われる。一方,事例14は開業披 露の広告である。事例13とは対照的に二段通し の広告で,衣に限ったものではない。しかし, 当時の状況がよく理解できるものと思われるの で,少し長いが紹介してみることにする(70) 。 事例14 開業の披露目 開業御披露広告 時下蘭秋之侯御家内様益御清栄奉欣喜候降テ 私儀無事消光罷在候處渡韓上京以来數年ヲ経 過シ朝夕諸君ノ御愛顧ヲ蒙リ候ト雖今以テ一 々御恩ヲ報シタル㽃曾テ無之今回聊カ全恩ヲ 報シ一ツハ余ノ営業トナリ諸君ノ御便利ヲ圖 リ月一回宛大阪ト馬關通ヘナル業務ヲ開始シ 方今當居留地ニ於テ何壹個トシテ不自由ハナ クモ人ノ望ミニヨリテ欠ク可キ事アルハ海外 居留人ノ常ナルヲ想像仕因テ室内ノ装飾品呉 服太物洋服什器書類及ビ日用品ニシテ金五銭 以上ノ品ナレバ何品ニテモ買次ハ勿論古着之 染替洗張着物ノ仕立替諸道具ノ繕ヘ直シ其他 御婦人方ヤ小兒衆ノ迎へ送リ届ケ(御婦人方 小兒衆ノ迎送ハ無手數料)頭ノ巻目ヨリ足ノ つま先ニ致ル迄何品ニ限ラズ大阪馬關ニ關係 アル御用事ナレバ親切ト正直ト叮嚀ト三義ヲ 專一トシテ左記ノ方法書ニ基キ汎營業ヲ營ミ 候尤出立前ニハ一應御注文聞キノ為メ御伺へ 申上候間続々御申込ミ被降度此段廣告ヲ以ヲ 及御披露候 敬白 買次ノ約定左ノ如シ 一金五銭以上拾圓以下 手數料壹割(壹割ト ハ則金壹圓ニ付キ手數料十錢)御申受 一金拾圓以上五拾圓以下 手數料七歩(七歩 トハ則金壹圓ニ付キ七錢ノ㽃)御申受 一五拾圓以上百圓以下 手數料五歩(五歩ト ハ則金拾圓ニ付キ五十錢ノ㽃)御申受 但シ陶器類硝子品手數料ハ御注文ノ時御相 談ニ應ズ 一右何レモ運賃及ビ税金等ハ更ニ申受大坂元 價ノ仕切書ニ右割合ノ手數料ヲ申受候事 一御注文ノ節ハ必ズ豫筭金高ニ二割(手附二 割トハ則壹圓ニ付貳拾錢)ノ手附金ヲ御預リ 申候事 一取引ノ義ハ總テ到着ノ上現金引替ノ事 一御注文ノ品買調ヘ持帰リ再ビ違約品アルヰ ハ競賣ニ附シ余金アルヰハ速ニ御戻シ申上候 約ナリ 一来ル十一月三日天長節ノ御 ナレバ何レノ 御家ニモ日ノ丸提灯御入要ナレバ今日迄ニモ 澤山御注文モ有之候故特別安價ニテ御買次勉 強仕候事併テ廣告ス
京城鑄洞第八十八号地質業宇野義弘方 買次業 伊藤繼太郎 仁川港 同取次所 大阪市東區谷町壹丁目百三十三番邸 伊藤買次所 朝鮮は韓服という朝鮮独特の衣装文化を持っ ている。もちろん日本は着物文化である。明治 28年であれば日本でも大衆社会では職場を中心 に洋服が着られはじめていた。しかし,家庭内 や女性たちにとっては和服が生活の中心であっ た。同様に朝鮮の人たちにとっては韓服が生活 の中心であった。それゆえ,京城での居留民に とって呉服や太物は必需品であり,たとえ古着 でも手に入れたいものであったと言えるだろ う。 事例14で興味深いのは「御婦人方ヤ小兒衆ノ 迎へ送リ届ケ(御婦人方小兒衆ノ迎送ハ無手數 料)」と言うくだりである。生活の安定により 居留地へ日本から家族を呼び寄せる,もしくは 日清戦争の余波を避けて家族を日本へ送り返す など,家族単位での居留民が増えてきたことを 物語る証左と言えよう。 冬が近づくと,衣に関する広告に変化が見ら れてくる。 事例15 冬物販売広告 冬洋服并ニ衣類新形珍柄 和洋反物着荷廉價販賣 大日本東京神田東龍閑町八番地 本店 塚原組商店 朝鮮國京城駱洞塚原組支店 事例16 冬物等新着広告 新荷着廣告 帽子類 ニ重マント 香鼠ブドウ 肩掛類 獨乙トンビ 凱旋ブドウ 膝掛類 シャツ類 麒麟ビール 毛布類 手下ゲ皮盤 朝日ビール 本子ル 支那皮盤 恵比壽ビール 綿子ル 洋靴類 淸酒春駒 ラセン 舶来煙艸類 洋食類 其他雜貨品種々 弊店今日ノ繁栄ニ相成リ候ハ全ク大方諸彦ノ 御引立ニ依リ候事ト感謝ノ至リニ堪ヘズ候 就テハ今般益々業務ヲ擴張シ聊カ報恩ノ爲メ 精良品ヲ撰ミ誠実ヲ旨トシ御小賣共一層廉價 ニ勉強致シ候間舊ニ倍シ御愛顧ノ程伏テ希望 仕候也 京城泥峴 和洋雜貨商 倉 第八支店 事例17 防寒具およびその他 新荷到着廣告 一 帽子,膝掛,シャツ類,防寒用耳袋,弗入, 襟巻 一沓下,革手袋,其他西洋小間物數品 一英和双解字典,朝鮮語獨案内,小説類, 外雜書,半紙,美濃紙 廿九年當用日記,同懐中日記 右當用日記,懐中日記は日々重もふる記事 を記し且つ金銭出納の欄内あり常に座右を 離すべからざる良友にして必要欠くべから ざる良書なり一度此書を用ひて其の必要な るを知られよ 右今般新荷來着仕候間何卒多少に不拘御愛顧 御購求の程願上候 泥峴鑄第八十七号地 丸屋商店 事例15は10月27日付126号,事例16は12月1 日付143号,そして事例17は12月27日付156号が それぞれ初出の広告である。朝鮮の寒い冬の訪 れを,そして年末の慌ただしさを告げるような 広告であるとも言える。 ④居留民の食 朝鮮は「農は国の大本」として農業政策に力
を入れたとされているが,自然条件の厳しさか ら,農業生産は不安定であった。また,植民地 時代には生産された朝鮮米の多くが日本で消費 されたため,「米の御飯を腹いっぱい食べる」 と言うのが庶民の夢だったという。 事例18 精米広告 ●上等精米 品質を撰み丁寧の仕上げを以て御小賣共に充 分勉强致し何時にても御通知次第早速持䬒致 し御用足可申候間多少に拘はらす御用仰付け 被下度此段廣告仕候也 八月 泥峴 平岡寅治朗 事例18は9月9日付『漢城新報』102号に載っ ている広告である。同時代に朝鮮を旅行した英 国女性イザベラ・バードが釜山の居留地につい て記載した部分に「釜山の居留地はどの点から 見ても日本である。5508人と言う居留日本人の 人口に加え,日本人漁師8000人と言う水上生活 者の人口がある。日本の総領事は瀟洒な西洋館 に住んでいる。銀行業務は東京の第一銀行が引 き受け,郵便と電信業務も日本人の手で行われ ている。居留地が清潔であるのも日本的であれ ば,朝鮮人には未知の産業,たとえば機械によ る精米,捕鯨,酒造,フカひれやナマコや魚肥 の加工といった産業の導入も日本が行った」と ある(71) 。それならば,事例18の「上等精米」と はバード言うところの「機械による精米」を意 味するものなのであろう。 事例19 廃業旅館の食事メニュー 廣告 弊店儀是迄御旅宿営業仕居候處今般廃業の上 左の品々御注文に應じ候間倍舊の御愛顧偏に 奉希候 御辨當仕出し 上等 九圓 仝 中等 六圓 夜具 上等一夜 拾貳錢 仝 並等一夜 八錢 尚々左記の御酒肴類も調達仕り御來駕の節は 御室も御人數の多少に拘はらず別々に用意致 置候間賑々敷御入来の程奉願候 かしわ 御一人前 拾錢 牛肉 仝 拾錢 御酒 一本 六錢 御飯 御一人前 三錢 ぐそば 仝 拾錢 そば 仝 三錢 けつねうどん 仝 五錢 ぜんざい 三錢 うどん 三錢 京城泥峴總代役塲下元諏訪崎旅館 明治廿八年九月 諏訪崎はつ 9月25日付『漢城新報』110号に掲載された 広告である。宿泊業としての旅館は廃業する が,食堂としてはサービスを続けて行くという ことなのであろうか。住所が「總代役塲下」と ある所から想像するに,居留民の利用が多いの であろう。ただ,仕出し弁当の値段が異様に高 い。月極め料金であろうか。この広告のすぐ横 に事例20が載せられている。 事例20 甘味店の広告 あづま一流の汁子萩の餅等皆様の御口に叶ひ ドシ々御風味被下冥加至極に存候其御恩報し に本日より右の外吾妻ぞうにを加へ甘味くし て差上可申候 羅洞南山亭のむこう 江川 実際の広告には飾模様で枠組みがなされてお り,どことなく女性向けという雰囲気を漂わせ ている。また,前の2事例とともに平仮名で書 かれている点も広告に柔らかさを持たせている と思われる。ちなみに,酒場の広告は11月21日 付『漢城新報』138号の事例21のようになる。
事例21 酒場広告 淸酒賣出廣告 朝日酒塲ノ淸酒ハ多年實地ニ原料ノ分析氣候 ノ變動貯藏ニ適否ヲ經驗シ且ツ釀造科學ノ元 理ヲ應用シ酒質善良ナル新酒釀成致シ候間御 小賣無類廉價販賣仕候 漬物用吸物用ノ酒粕ハ賣初ヲ表スル爲進呈 京城明洞朝日酒塲 甘味店の広告は平仮名でなされていたのだ が,酒類になると片仮名表記になっている。そ して,この朝日酒造の広告は内容は異なるが, 朝鮮語でもなされている。朝鮮人読者の中にも 日本の酒の愛好者がいたということであろう。 実際,新着広告の中には酒類の入荷がよく出て くる。種類は事例21の清酒以外にも,前述の事 例16に見られるようにビール,ブドウ酒,そし て洋酒と多彩である。これなども,当時の朝鮮 では機械産業としての酒造がまだ出来上がって いなかったためであろう。 酒とのかかわりで一つ目立った広告を紹介し ておく。1896年1月18日付『漢城新報』163号 に掲載された芸妓開業広告である。 事例22 芸妓開業広告 藝妓開業廣告 井門樓内 小玉 政吉 翡翠樓内 小瀧 蔦次 日出樓内 染玉 二葉樓内 若光 小鐵 元南山亭内 福松 牧野内 小種 右 今般明十九日ヨリ開業仕候間四方ノ御華 客樣方御ヒイキ伏テ奉冀望候 明治廿九年一月十八日 ⑤居留民の住 1896年1月8日付『漢城新報』158号に貸家 に関する広告が載っている。 事例23 貸家広告 貸家廣告 京城南部誠明坊筆洞契楽天窟 一貸家貳棟 但外ニ 湯塲付 右漢城新報社ヘ御懸合被下度候 連絡先が漢城新報社であるところからする と,社の財産であるのであろうか。但し書きに 「外ニ 湯塲付」とあることが目につく。現在 ならさしずめ駐車場付きと言ったところであろ う。当時の輸送手段が馬であったことを物語っ ていて興味深い。 それでは,当時の居留民は家屋内でどのよう な生活様式をしていたのであろうか。10月1日 付『漢城新報』113号に載った事例21がその一 端を垣間見せてくれる。 事例24 疊関係の広告 疊障子襖衣桁安価賣捌 京城泥峴 鈴木大坂堂支店 日本人を相手にした旅館や料亭では疊や障 子,襖を必要としたであろうことは想像に難く ない。しかし,この3行広告は一般居留民向け の広告と見られる。衣や食でも見たように,居 留民の生活には日本の物が多く入ってきてい る。これは居住生活においても同様であり,10 月5日付『漢城新報』115号に載った事例25も その一例であろう。
事例25 家庭用品の広告 今般泥峴ノ支店ヲ併セ左ノ商品ヲ販賣致候間 倍舊御愛願アラン㽃ヲ ル 一和洋雜貨類 一長火鉢机盥飯櫃其他荒物類 一鍋釜其他鐵物類 一薬品種々 東大門通會賢坊松峴 明治廿八年十月 鐘江商店 鍋釜,米櫃から雑貨類まで,家庭内で主婦が 使うと思われるものは日本から持ち込んでいる ことが分かる。長火鉢なども冬に向けての必需 品であったのだろう。 事例26 ストーブの広告 廣告 防寒必要暖爐 コウクストーブパイプ付属品一切 其他諸器械製造販売仕候本年ニ限リ代價大勉 強仕候間陸續御注文仰付被下度候也 京城羅洞 古河工塲 事例26は9月25日付『漢城新報』110号初出 の広告であるが,日本語広告の隣に朝鮮語広告 も掲載されている。朝鮮家屋の暖房はオンドル と呼ばれる床下暖房であるのだが,居留民だけ でなく,朝鮮の人たちにもストーブが普及し始 めたことが想像できる。 ⑥居留民の絆 初期の居留民はいわゆる租界に拠点を据え, 雑貨や綿布等を搬入し,金や穀物を搬出する冒 険商人的な貿易に携わっているものが多かっ た。そのせいであろうか,その様な当時の状況 を反映して『漢城新報』の広告には居留者と新 着物資を結び付けるものだけではなく,事例27 の様に,いわゆる「縁切り」に関する広告もし ばしばみられる(72) 。 事例27 解雇通知広告 池田三郎 右之者今般都合ニ依リ解雇致シ候間自今當店 ニ於テ一切關係無之ニ付キ右廣告ス 京城 淺田支店 また,事例28の様に商売上の不正があったた め家出したというような広告も散見することが できる(73) 。 事例28 家出者絶縁広告 鹿兒嶋縣薩摩國鹿兒嶋市下荒田三百七十五 番地平民 大野辰次郞 右之者是レマデ小店々員ニテ有之候處一週間 前ヨリ家出致シ行衞相分リ不申其ノ上小店々 名ニ係ル一切ノ取引上曖眛ナル處置多ク候間 自今當人ニハ毛頭無關係ニ付キ此段以新紙廣 告仕候也 明治二十八年十二月十一日 岩下商店 初期居留者の中には,当時の急激な日本の社 会変動に付いて行けず,徒手空拳的に朝鮮に 渡ってきた渡航者もいた。彼らは一獲千金的な 夢を持って新天地である朝鮮へ渡って来たので あろうが,必ずしも成功するとは限らない。時 期はずれるが,明治42年(1909年)7歳で朝鮮 に渡った松尾四朗はその著(74) で,「そのころ新 たに日本の勢力圏となった朝鮮に行って一旗揚 げようという一旗組が多く,長崎,釜山間に直 行便があったのだった。新天地の朝鮮に行け ば,何かよい仕事があるだろうという淡い期待 にあふれていた」と語っている(75) 。そして「異 郷の地に来て,技術も資本も無い者は惨めであ る。官吏,医者,薬屋,酒屋,旅館,建築業者 等は相当な暮らしをしていたが,我一家のよう に,漠然と出かけた者は苦労せねばならぬ」と 書いている(76) 。併合後の在朝鮮日本人社会が二 極構造になっていたことが分かる。一旗揚げる ためには多少の無理は覚悟しなければならな
い。使用人が主人の目を盗んで利鞘を稼ぐ等と 言うこともあったのであろう。在朝鮮日本人社 会の二重構造は,すでにこの時代から始まって いたことが窺える広告記事である。 本稿では特に扱わないが,朝鮮語版『漢城新 報』においても「縁切り」の広告記事がよく見 られる。広告主は日本人の場合もあるが,朝鮮 人の事例も多い。当時の急変する価値観が,古 くからの人間関係に大きく影響を与えていたか らであろう。 ⑦招かれざるモノ 日本からの文物が陸路,水路を通って仁川か ら京城に入ってきたわけであるが,入ってきた のは文物だけではない。開国は歓迎せざるモノ も招き入れることになる。 事例29 医薬品等の広告 着荷廣告 괴질약(77) 一健胃强腸丹 此藥者赤痢病虎列刺之神妙藥 也 금계랍(78) 一龍虎丸 此藥者瘧之特效藥也 一寶丹 此他之寶丹効能最大也 一石炭酸,希鹽酸,鹽酸規尼涅(79) ,沃度訪 謨(80) ,其他香水等雖如何藥爲御賣及小賣 一書籍文具等亦倍從前爲販賣。漢籍醫書農書 算術書敎育書其他小說等有種々 南大門筋明禮坊明洞 喜多旭堂 事例30 医薬品の広告(日本語訳)(81) 緊急広告 尊生堂は大日本軍醫總監松本名醫の誠意を體 して客歲藥局を南大門内會賢坊に開設以降專 らに博愛の義を盡し來たり朝鮮の大方の人士 の信を得るも盛繁なため一時藥品も缺乏する ことありしがこの度玉液金精寶丹瓊膏などの 良劑が來りて尊生堂にあるため就中怪疾,痢 疾,虛疾など諸病に效驗が著しいと稱贊され れ患者たちの好評を得ている良藥とその他鎭 咳袪疹丸,鎭痛藥,胃痛丸,强補丸,眼疾藥, 驅蟲藥,月經妙藥(婦人の使う藥),瘡毒, 痢疾藥など全てそろっているのでこの廣告を 一讀した大方の君子はどうぞ知友の患者に傳 えてくれることを希望す。 南大門内會賢坊 藥局尊生堂 どちらも9月9日付『漢城新報』102号に掲 載されていた広告である。事例29には薬品名の 横にハングル表記があること,事例30は原文が 朝鮮語であったことから,日本人居留民だけで なく,朝鮮人読者をも対象としていることが読 み取れる。 朝鮮でコレラが最初に報告されたのは世界的 に大流行した1821年で(82) ,その年平安道から朝 廷に上げられた文章の中に「平壌でコレラに伝 染したものは十中八九命を失った」(83) とある。正 体のわからぬ奇怪な病気であるため 怪疾(괴 질)と呼ばれた。朝鮮ではその後,世界的大流 行である1858年には50万人余りの犠牲者を記録 し,1886年,そして1895年にも数万の死者を出す 猛威をふるった(84) 。その様な中,近代医学によ る新薬が居留民だけでなく,朝鮮に住む人たち にとっても切望されていたことがうかがわれる。 コレラに感染した場合,どのような措置がな されていたのか。9月13日付104号の広告記事 から見てみよう。 事例31 死亡通知 虎列剌病患者 長崎縣平民 古河ヨネ 三十三年 右本月十日虎列剌病ニ罹リ同十一日避病院ニ 於イテ死亡セリ 大分縣平民 榊田タツ 母ユキ 七十二年 右本月十日虎列剌病ニ罹リ同十二日避病院ニ 入院セリ 明治廿八年九月十二日居留民總代役塲
避病院とは明治時代につくられた日本の伝染 病専門病院である。日本国内では1878年ごろか ら各地で避病院の設置が進められていた。朝鮮 での「避病院」という名称は1900年につくられ た国立病院である廣濟院の傘下病院として1905 年に建てられた「避病院」がある。ここで言う 避病院は,年代的に見てそれとは異なるもので ある。居留民総代役場が中心となって避病院を 作っていたことがうかがわれる。 9月25日の3面雑報欄に事例32の様な記事が ある。 事例32 疫病被害者数 ●本年度惡疫の數左の如し 虎列刺 八人 男六人 女二人 全治一人 死亡六人 治療一人 赤痢 七人 男五人 女二人 全治一人 死亡六人 腸窒扶斯 三人 全治二人 死亡一人 当時,京城に住んでいた居留民は10月末の調 査の時点で,士族男103人,士族女35人,平民 男890人,平民女476人,で合計1504人であった という(85) 。パーセンテージにすると羅病者は全 体の1%強であるが,多くの居留者が租界やそ の周辺に住んでいたこと,そして疾病の死亡率 の高さを考えるなら,居留民にとって大きな脅 威であったことが分かる。 Ⅳ.おわりに 本稿は『漢城新報』の記事(特に広告記事) を通して旧韓末期の日本人居留民の生活を見て みようとして書かれたものである。その作業の 中で,居留民の日常生活の大きな部分が日本か らの物資によって賄われていたことが分かった。 『漢城新報』は前述したとおり1895年2月17 日に発刊された新聞である。本稿で資料とした のは韓国の延世大学校学術情報院韓国学資料室 に所蔵され,延世大学校近代韓国学研究所から 発刊された資料叢書1『漢城新報』全4巻であ る。1巻と2巻には1895年9月9日(102号) から1897年2月6日(354号)までが納められ ているが,これらは1・2面が朝鮮語,3面が 日本語,そして4面が(主に日本語による)広 告と言う構成になっている。『漢城新報』は 1897年10月下旬から日本語版と朝鮮語版とに分 かれ,隔日ごとに発行するという形式になる。 同書3巻・4巻にはそのうちの朝鮮語版が収録 されている。1897年から1902年6月にかけては 散見するほどしか見当たらないが,1903年と 1904年は半数前後が収録されている。そして, 1905年9月17日付1746号を最後としている。 この『漢城新報』の資料的価値としては,経 済面における京城商業会議所調査による輸出入 関連記事をはじめ,物価表等の各種経済資料が 挙げられる。また,朝鮮語面の雑報欄や小説欄 に掲載された叙事文学(86) があるが,やはり貴重 な資料として注目されている。 一方,日本文化に関するものとしては1896年 6月24日付『漢城新報』242号に次のような広 告がある。 事例33 句会の広告 ●第壹會正風集題夏季隨意句調正風入花拾句 壹組五錢餘ハ壹組三錢ノ割合ニテ詠草ニ添ユ ベシ判者豐秋園瑞穗宗匠樂撰秀逸本紙二ヶ月 分卷軸仝一ヶ月分第三次會貳組五客仝壹組無 入花十哲本紙五日分集句高ニ依リ增賞寄限六 月三十日限堅ク延バサズ選定七月二日翌々日 ノ紙上ヨリ揭載ス詠草ニハ居處雅號通稱等ノ 明記ヲ乞フ 投込所漢城新報社内正風會 今風にいえば,販売促進活動の中に句会を組 み込んだということなのであろうか。句会とい う文化活動を通して『漢城新報』の裾野を広げ て行こうとする様子がうかがえる。同時に,居 留民の中にも文化を志向する余裕が生まれてき たからであろう。同社はその後,「謳豊会」と い う 和 歌 の 会 の 立 ち 上 げ に も か か わ っ て お
り(87) ,朝鮮語面においては「懸賞募詩」と題し て七言律詩を募集したりもしている。 事例34 和歌の会広告 新禧和歌集 勅題 松影映水 寄切本月三十日限 右來る三十年初刊の本紙に揚げ以って泰平の 聖代を皷腹せんとす請ふ大方の同好雅伯續々 御謳詠めらまほゑ 漢城新報社裡 謳豐會 ここで注目されるのは正風会が1896年,つま り明治29年に始まっているという点である。こ れまで,「朝鮮半島における日本人の俳句活動 は,1900年前後から居留地を中心に句会などが 確認される。そして日露戦後になると在朝鮮日 本人社会の拡大とともに広がり,韓日併合期に 改編の『京城日報』における「京日俳句」欄の 創設(1900∼)をもって徐々に本格化する」(88) とされていた。正風会の活動は1897年2月15日 付『漢城新報』354号に載った第14会正風集ま で確認できている。『京城日報』の前身である 『漢城新報』での俳壇も関心が持たれてしかる べきであろう。 最後に,7月16日付『漢城新報』253号に寄 稿された俳壇記事をもって,本稿の結びと替え させていただきたい。 事例35 正風会寄稿記事 俳壇 正風會寄稿 第壹會正風集夏季俳句合惣聲壹百有餘韻之内 芳吟拔花貳拾有壹章上座逆列に備ふ 早月末つかた 盲考 豐秋園迂人 ◎三傑 夕立や晴るれは同し元の空 蜻蜒庵 知惠の增す程は短し兒の袷 艷子 禮儀にて育ちの知るゝ扇哉 梅翁 ◎十哲 此花てこの葉の色や燕子花 千舍 風鈴の音も涼しき小窓かな 停濱 越して來し山の方りか郭公 千舍 今ま霽れし森の雫や夏の月 仝 來て見れは先に人有岩淸水 仝 先無事に手渡仕たり芥子花 撫友 涼しさや橡より足の屆く水 蜻州 涼さや月の淺瀨を徒步涉り 芦風 一隅は柳に結ひて舟の蚊帳 花袖 笠敷て浮世を餘所の晝寢哉 蜻蜒庵 (未完) <注> ⑴ 富山浦(現在の釜山広域市東区),薺浦(現在 の慶尚南道昌原市鎮海区薺徳洞槐井里),塩浦 (現在の蔚山広域市中区塩浦洞)のこと。 ⑵ 朝鮮時代のソウルの名称。漢陽とも言った。 京城は日韓併合後の名称。倭館所在地は現在の ソウル特別市中区忠武路。 ⑶ 現在の釜山広域市中区南浦洞の龍頭山公園一 帯。 ⑷ 富山浦内の豆毛浦から1678年に草梁に移され た。 ⑸ 朝鮮は明治政府の主権者が「皇上」を名乗っ ていたことから国書の受け取りを拒否,大日本 公館からの退去を強硬に要求した。これらがも ととなって,征韓論へと発展していく。 ⑹ 1914年廃止。 ⑺ 1899年埋立拡張,1914年廃止。 ⑻ 1909年日本軍の軍用地となり廃止(居留民な し)。 ⑼ 仁川(1884年),釜山(1884年),元山(1888年) の三カ所。 ⑽ 馬山(1900年)。1904年の日露戦争で日本軍が 占領。1909年,日本へ売却。 ⑾ 朝鮮での名称は「各国租界」と言った。 ⑿ 1884年設定。1914年,日本(朝鮮総督府)へ
返還。 ⒀ 1897年設定。1914年,日本(朝鮮総督府)へ 返還。実質的には日本租界。 ⒁ 1897年設定。1914年,日本(朝鮮総督府)へ 返還。実質的には日本租界。 ⒂ 1899年設定。1914年,日本(朝鮮総督府)へ 返還。実質的には日本租界。 ⒃ 1899年設定。1914年,日本(朝鮮総督府)へ 返還。実質的には日本租界。 ⒄ 1899年設定。1914年,日本(朝鮮総督府)へ 返還。 ⒅ 朝鮮時代のソウルの名称。古くは「漢陽」と も言った。併合後,「京城」に改称。「京城」と 言う名称は日本が作ったという説もあるが,韓 国でも使われていたとする説もある。『漢城新報』 の記事では併合以前から「京城」の表記が見ら れる。本稿では居留民の生活を描写するときな どは「京城」を使うことにする。 ⒆ 日露戦争の際(1904年),日本軍は龍山の土地 300万坪程を買い上げ,兵営を置いた。その後, 龍山基地は大日本帝国陸軍の駐屯地として使わ れ,朝鮮軍司令部などが置かれた。現在も,在 韓米軍,国連軍基地などが置かれている。 ⒇ 朝鮮・韓国史において朝鮮末期から大韓帝国 までの時期を言う。 https://ko.wiktionary.org/wiki/%EA%B5%A C%ED%95%9C%EB%A7%90%EA%B8%B0 本稿では時代区分としては旧韓末(期)を使う が,地域名,国名等では朝鮮を使うことにする。 高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』2002年岩波 書店を参考に作成。 日韓保護条約ともいう。 実質的には副使の金晩植が外衙門同文学の協 弁となり,その管轄下の博文局で発行。 井上角五郎。 三輪広蔵と真田謙蔵。 1886年1月25日発刊。 1896年,開化派系官僚を中心に結成された政 治結社。独立確保とブルジョア的国政改革を主 張した。ここでいう独立とは清(中国)からの 独立である。 1897年からは The Independents という英文 版を発刊し,対外関係の側面からも評価されて いる。 独立新聞のハングル表記。 協成会会報のハングル表記。ただし,現代表 記では 협셩 ではなく 협성 。以下同様。 매일신문のハングル「매」は旧字体。以下同様。 大韓皇城新聞のハングル表記。 朝鮮最初の新式活字印刷物であり,最初の定 期刊行物(旬刊)でもあった。 発刊日に関しては諸説がある。 立憲帝政党の九州地方における別動部隊「紫 冥会」。それを母体として生まれた政治結社。 熊本国権党の面々は第三弾として1905年7月 10日『平壌新報』を発刊する。しかし,3年ほ どで廃刊。 延世大学校学術情報院・延世大学校金大韓国 額研究所編 延世近代韓国学資料叢書1『漢城新 報1』に掲載されている解題1「発刊経緯と叙 事文学資料」から。 韓国精神文化研究院『韓国民族文化大百科事 典』第13巻「新聞」の項目参照。表2と表3に 関しても同様。 発刊当初は隔日紙でⅠ面と2面が朝鮮語記事, 3面が日本語記事,そして4面が広告という構 成であった。 朝鮮第26代国王である高宗(在位1863∼1907) の実父。李䇵応,号は石坡(1820∼98)。摂政と して実権をふるう。大院君とは王族内の他の系 統から次王を選んだ場合,その王の実父に対す る尊称。歴史上,大院君は何人かいるが,普通 大院君といった場合,李䇵応が連想される。 朝鮮第26代国王である高宗の妃。驪興閔氏の 一族。大院君の夫人閔氏の推薦で1866年,王妃 となる。宮中内外に閔氏一族を配し大院君と対 立。 発行日は「大日本明治28年10月9日」と言う 日本日付と「大朝鮮開国504年8月21日」という 朝鮮日付の二つの日付でなされている。当時朝
鮮は太陰太陽暦を使っていた。開国504年11月17 日グレゴリオ暦を採用,同時に「建陽」という 元号を建て建陽元年1月1日とした。朝鮮は建 国当時は明国の年号を,その後は清国の年号を 使っていた。「開国」は初代国王李成桂が即位し た1392年を元年として計算。1894年から1896年 まで使われた。1897年に国号を大韓帝国に改称, 年号も光武元年となる。 訓練隊は乙未事変に参加している。 1882年7月23日,朝鮮の首都漢城で起きた軍 人の暴動。当時政権は閔妃一族に移り,別技軍 と呼ばれる新式軍隊が作られるなど,旧兵士た ちの中に不満がたまっていた。その不満が爆発 し,政権を担当していた閔妃一族の政府高官や 日本人軍事顧問,日本公使館員らが殺害され, 日本公使館が襲撃を受けるという事件が発生し た。これを機に大院君が再び権力を握った。 1895年10月11日発行『漢城新報』118号。 Daum 百科事典。 http://100.daum.net/encyclopedia/view/ b10b3724a 同日,興宣大院君失脚。 題目に続いて「左の□詔勅何れも一昨一日の 官報號外を以て公にせられたり」とあるところ をみると,公表されたのは12月1日と見ること ができる。 2面も3面も紙面左下隅に位置している。 明治─昭和時代前期の政治家。明治28年閔妃 殺害事件に連座。36年から衆議院議員に当選14 回。熊本県出身。熊本国民党員。号は漢城。 明治−大正時代の国家主義者。朝鮮の漢城新 報記者の時,安達謙蔵に従い閔妃殺害に荷担。 明治32年九州日日新聞主筆,のち社長。熊本県 会議員を務めた。 熊本出身の新聞記者。閔妃殺害事件で起訴さ れた48人の中の1人。 熊本県の朝鮮語留学生として朝鮮に渡る。『漢 城新報』の朝鮮文主幹や統監府の翻訳官として 新聞検閲の仕事に従事。後に毎日申報を主宰。 延世大学校学術情報院・延世大学校金大韓国 額研究所編 延世近代韓国学資料叢書1『漢城新 報1』に掲載されている解題1「発刊経緯と叙 事文学資料」から。 明治時代のジャーナリスト。法制局勤務のの ち新聞『日本』の記者となり,大隈重信の条約 改正主義に反対する。また明治28年朝鮮の『漢 城新報』主筆として閔妃殺害事件に連座するな ど,国権論者として行動した。熊本県出身。 明治・大正のジャーナリスト。日清戦争のと き九州日日新聞特派員として朝鮮半島に渡る。 明治28年安達謙蔵の『漢城新報』の創刊に兄友 房とともにくわわり,39年の廃刊まで経営にあ たる。その間の28年閔妃殺害事件に連座し投獄 されるが,翌年無罪放免となる。 『安達謙蔵自叙伝』 新樹社 昭和35(1960) 年刊(pp55∼78)で安達は実行部隊として大院 君を連れ宮中への突入を語っている。 http://ktymtskz.my.coocan.jp/meiji/adati. htm#6 後に日刊紙になる。 1か月25銭(朝鮮貨幣2両2銭5分),3か月 75銭(同3両5銭),6か月1円35銭(同6両7 銭5分)。 1894年に日本が京仁・京釜鉄道の敷設権を取 得し帝国主義列強や朝鮮人官僚,資本家の動き を押さえて開通させたという経緯がある。 漢江は大きく南・北漢江に分かれ,ソウル近 くの八堂で合流する。北漢江は山間地を渓谷を なして流れ,早くから水力発電が開発されてい る。南漢江は京畿道の米どころである驪州など, 数多くの盆地平野を発達させている。 イザベラ・バードはその著『朝鮮紀行』講談 社 学 術 文 庫,1998年(51頁 ) で 仁 川( 済 物 浦 ) から京城(現ソウルの麻浦)まで漢江を汽船で のぼることの不便さについて述べている。 京仁鉄道の汽車時間表が『漢城新報』に掲載 されるのは1903(明治36)年12月2日付の韓文 『漢城新報』1278号が確認できるものの中では初 出である。 11月23日付『漢城新報』139号。
11月11日付『漢城新報』133号に「尋常高等小 學校開校式昨十日ヲ以テ擧行ノ筈ニ候處 北白 川宮殿下御坬去ニ付之ヲ停メ更ニ來ル十三日午 前十一時ヲ期シ擧行致候間前キニ案内ヲ受ケタ ル人ハ勿論生徒ノ父兄及ヒ寄付者ハ洩レナク御 參列相成度候事 十一月十一日 京城總代役塲」 との広告記事がある。 11月23日付『漢城新報』139号。3面の最下段 に「特別廣告」として掲載。 12月15日付『漢城新報』150号。 1896年10月20日付『漢城新報』301号から10月 28日付305号まで五回にわたって「在京城帝国居 留民規則」の改定案が掲載される。以下は特別 広告の書き出し部分である。「總第二九號/居留 民一般/近時京城ニ居留スル帝國臣民ノ員數頓 ニ增殖シ其生業モ亦大ニ發達セシヲ以テ從來ノ 制度ヲ增補スルノ必要ヲ認メ茲ニ在京城帝國居 留民規則ヲ左ノ通改定ス幸ニ本則ノ下ニ在リテ 徒ラニ紛爭ヲ事トスルコトナク和衷協同シテ益 帝國臣民ノ公益ヲ增進センコトヲ望ム/右布達 ス/明治二十九年十月十七日/在京城一等領事 加藤增雄」。 資料での初出は9月9日付『漢城新報』102号。 9月27日『漢城新報』111号が初出。広告主の 伊藤買次所は11月7日(131号)にも「第二回大 坂行廣告」として注文申込の広告を出している。 イザベラ・バード『朝鮮紀行』39頁。イザベラ・ バードが釜山に初めて到着したのは1894年の事 である。 11月27日付『漢城新報』141号。 12月11日付『漢城新報』148号。 松尾四朗『底辺から見た明治・大正期朝鮮の 風物と民情』国書刊行会1988年。 前掲書9頁。 前掲書27頁。 「怪疾薬」のハングル表記。怪疾は原因不明の 怪しい病気を意味する。ここではコレラ,チフ スのこと。 「金鶏蝋」のハングル表記。塩酸キニーネの俗 称。 塩酸キニーネのこと。抗マラリア剤として使 われる。 ヨードホルム。殺菌剤などに使われる。 原文は漢字ハングル混じりの朝鮮語。漢字表 記は原文通り。 日本ではその翌年である1822年に発生した。 感染ルートは朝鮮半島からとも言われているが, その経路は明らかではない。 http://webzine.snuh.org/PostView.jsp?b_ idx=1044&wzCateCode=y 朝鮮だけでなく日本でも同時期にコレラの流 行を見ている。 11月17日付『漢城新報』136号3面雑報記事よ り。 서사문학 の漢字表記。「ある一定の事件や 状況を時間の連鎖によりありのまま書いてある 叙事的特性を持った文学」のことを指す。 1896年12月24日『漢城新報』333号。 阿部誠文『朝鮮俳壇:人と作品』上巻 花書 院2002年。 (客員研究員 韓国外国語大学校教授)