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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2009年 4月号

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(1)

 イスタンブルはボスポラス海峡の入口付近に位置し、トルコ共和国最大の都 市である。その中心はヨーロッパ側から牛の角のように突き出た小さな半島の 部分である。この都市は宗教と名前を変えながら今日に至っている(ギリシア 植民市:ビザンティオン、ローマ帝国:ビザンティウム、東ローマ帝国:コン スタンティノープル、オスマン帝国:イスタンブル)。

 各時代の建物やその一部をここでは見ることができる。ビザンツ時代にユス ティニアヌス帝によって聖ソフィア大聖堂が再建された(写真①)。コーラ修 道院も同時代の建立で(写真②)、いずれもビザンツ様式の特徴をよく表して いる。内部の壁面はキリストや聖書を題材としたモザイク画で装飾されている。 オスマン帝国時代にはモスクとして使用されたためにモザイクの上に漆喰が塗 られ、建物に付属してミナレットが付け加えられた。1922年のオスマン帝国滅 亡後、博物館として位置づけられた。漆喰が剥がされてビザンツ時代のモザイ ク画を再び見ることが可能となったのである。とくにコーラ修道院のモザイク 画やフレスコ画は建物内部全体にわたって画かれている。

 オスマン帝国時代にはスルタン=アフメト=モスク、通称ブルーモスクが建立 された(写真③)。モスクの内部がブルーのタイルで装飾されているのでこの ように呼ばれている。現在では、ミナレットの上からは1日5回アザーンがス ピーカーで流される。ムスリムの信者がお祈りで使用するとき以外は観光客に 開放されている。オスマン帝国は16世紀にヨーロッパ・アジア・アフリカまで 領土を拡大した。帝はスルタンとしてカリフ政治の後継者となり、その権力は 絶大であった。スルタンの居城、トプカプ宮殿にその栄華の一端を見ることが できる(写真④)。広大な地域を長い間支配下においた一因として支配下の異 教徒に対して納税と引きかえに信仰の自由を認めたことがあげられる。ギリ シア・ローマ時代の遺物はその一部を地下宮殿に見ることができる(写真⑤)。 これはビザンツ時代に造られオスマン帝国時代まで使用され

ていた地下貯水槽である。天井を支える柱にギリシア・ロー

と呼ばれている。

 イスラームは都市の宗教といわれるが、 都市にはモスクと神学校、ハマム(風呂) とバザールが必ず整備されている。イス タンブルのグランドバザールはオスマン 帝国時代に造られ、現在も市民の大切な ショッピングセンターとして機能してい る(写真⑥)。屋根が架けられたこの施 設は大きな通路が碁盤の目のように、さ らに小さな通路がめぐらされている。そ のほか、トプカプ宮殿近くのイスタンブ ール考古学博物館にはトルコ各地で発掘 された出土品が展示されている。世界史 を教えるものしてはぜひとも訪れたいと ころである。

(元東京学館船橋高等学校 姫野憲幸) ●

③ ●④

● ②

写真で語る世界史

写・真・募・集

● ⑤ ● ⑥

(2)

1 グローバルヒストリー構築の   「ブリッジ」としてのイギリス帝国史

 グローバルヒストリーとは、地球的規模での世界 の諸地域の相互連関を通じて、新たな世界史を構築 しようとする試みであり、最近、内外の学界で注目 を浴びている。従来の一国史(ナショナル・ヒスト リー)の枠組みを超えて、ユーラシア大陸や南北ア メリカなどの大陸規模、あるいは東アジア・海域ア ジアなど広域の地域(メガ・リージョン)を考察の 単位とするグローバルヒストリーでは、帝国・移民・ 環境問題などが研究課題として注目されている。グ ローバルヒストリーを考えるうえでのキー概念は、 「比較」と「関係性」である。それが最も明確にな

るのが、近世以降のグローバル化の進展、国際秩序 の形成・発展、いわゆる「近代世界システム」の変 容の問題である。

 近代世界システム論は、アメリカの歴史社会学者 I.ウォーラーステインが提唱する世界経済体制論で あり、帝国書院の世界史教科書の骨格を形成してい る。日本では、川北稔氏の一連の翻訳・紹介を通じ て広く知られるようになった。近代世界システム は、「中核」、「半周辺」、「周辺」の三層構造からな り、16世紀以降、西欧を「中核」として地球的規模 で拡張を続けたとされる。だが、最近、この西欧中 心の見方に対して、非ヨーロッパ世界、とくに東ア ジア世界の優位、あるいは西欧との同時並行的な経 済発展を強調する新たな世界システム論が、A.G.フ ランクやK.ポメランツ、B.ウォン、杉原薫らによっ て提唱されている。

 ここでは、これらの新説をふまえたうえで、世界 システムが安定するために、政治経済・軍事・文化 イデオロギーのすべてにおいて、圧倒的な影響力

を行使した強力なヘゲモニー国家の役割に注目した い。とくに、アジア諸地域と英米二つのへゲモニー 国家との「関係性」に注目したい。19世紀から20世 紀半ばまで続いたイギリスのヘゲモニー(覇権)が いかにアジア諸地域に支えられていたのか、逆に、 アジア諸地域はイギリスのヘゲモニーをいかに利用 し自らの利害を実現することができたのか、具体例 を交えて考えることで関係史的な世界史像を描いて みたい。

2 非公式帝国、国際公共財とイギリスのヘゲモニー

 19世紀にイギリスがヘゲモニーを握る契機は、 (1)18世紀のオランダ資金流入による「財政=軍事国

家」の展開、(2)フランスとの重商主義戦争を通じ た植民地帝国の形成、(3)環大西洋世界とアジアを 対象とした海外貿易の急激な拡張(イギリス商業革 命)によりもたらされた。とくに、西アフリカから の黒人奴隷労働力による砂糖プランテーションで栄 えた西インド諸島は、タバコ栽培の北米南部植民地 とともにイギリス帝国経済の核となった。奴隷貿易 を含む「大西洋の三角貿易」の発展は、イギリス東 インド会社が南アジア地域から輸入した綿布に対す る需要を高めて、アジア産品の輸入代替産業として 18世紀末に「産業革命」が起こる重要な要因になっ た。産業革命によりイギリスは、農業社会から商工 業社会に移行し、鉄道・蒸気船・電信が発明されて 経済発展を支えた。

 18世紀末のアメリカ独立戦争以降、帝国・植民地 経営の重心は、環大西洋世界からアジアに移行した。 当時のイギリス帝国は、カナダ連邦・オーストラリ ア・ニュージーランドなどのように本国からの移民 により建設され自治権を獲得した白人定住植民地 (のちの自治植民地・ドミニオン)と、インド大反

関係史の視点から近現代史をとらえなおす―アジアを事例に  1

イギリスのヘゲモニーとアジア世界

(3)

乱以降に本国政府の直轄支配に切り替えられた英領 インドや、東南アジアのシンガポールを含む海峡植 民地、エジプトなどの従属領から構成された。これ ら公式帝国に加えて、ナポレオン戦争後に独立した アルゼンチン・ブラジルなどのラテンアメリカ諸国、 西アジアのオスマン帝国、アヘン戦争後の中国(清 朝)は、名目上は政治的に独立した主権国家であっ たが、対外経済政策や金融・財政の面でイギリスの 影響下に置かれ、イギリス「非公式帝国」(informal empire)に編入された。19世紀中葉に自由貿易政策 を世界中に拡張し強要したイギリスの外交政策は、 イギリス帝国史家ギャラハーとロビンソンによって 「自由貿易帝国主義」と呼ばれる。

 しかし、19世紀のイギリスの世界的な影響力は、 公式・非公式の両帝国に限定されるものではない。 当時のイギリスは、帝国を超えて地球的規模での圧 倒的な経済力と軍事力、文化的な影響力を行使した ヘゲモニー(覇権)国家であった。ヘゲモニー国家 は、英米の経済史家キンドルバーガーやパトリック= オブライエンが指摘するように、世界諸地域に多様 な「国際公共財」(international public goods)を 提供してきた。国際公共財とは、コストを支払わな い人を排除しない「排除不可能性」と、ただ乗りさ れても他の人が影響を受けない「非排他性」をあわ せ持った財である。19世紀のイギリスの場合、自由 貿易体制、金との兌換が保証されたポンド(スター リング)を基軸通貨とする国際金本位制、鉄道・蒸 気船のネットワークや海底電信網による世界的規模 での運輸通信網、国際郵便制度やグリニッジを基準 とする国際標準時、国際取引法などの国際法体系、 さらに、強力な軍事力に支えられた安全保障体制や 世界言語としての英語などを、その国際公共財とし てあげることができる。これらは、国際秩序におけ る「ゲームのルール」の形成に直結していた。  通常、ヘゲモニー国家は、近世までの世界帝国(ア ジアの中華帝国やムガール帝国、オスマン帝国な ど)と異なり、地球的規模での影響力の行使にとも なうコストを削減するために、統治のための官僚組 織や軍事力を必要とする公式帝国(植民地)を持た ないのが理想的な形態であった。しかし、19世紀の

イギリスの場合は、英領インドに代表される従属植 民地を世界各地に保有したヘゲモニー国家であった 点がユニークであり、現代のアメリカ合衆国のヘゲ モニー(パクス・アメリカーナ)とは決定的に異な る構造を有していたのである。

3 公式帝国をもつヘゲモニー国家イギリス   多角的決済機構の確立と英領インド

 まず、イギリスのヘゲモニーを支えた圧倒的な経 済力は、産業革命以来のマンチェスターを中心とす る綿工業(消費財生産)、バーミンガムの金属機械 工業(資本財生産)に加えて、ロンドン・シティの 金融・サーヴィス部門が決定的に重要であった。

 近年のイギリス(本国)経済史では、「世界の工場」

としての資本主義発展史は、P.J.ケインとA.G.ホプ キンズの「ジェントルマン資本主義」論の出現によ り大幅に書き換えられている。彼らによれば、近代 のイギリス社会経済は、大土地所有者としての土地 貴族と、ロンドンの金融街シティで活躍した金融資 本家、やがてその両者が融合して形成される「ジェ ントルマン資本家」層が主導することで発展を遂げ てきたのであり、産業革命の結果台頭したとされる イングランド北西部・マンチェスターの産業資本家・ 製造業者たちの影響力は限定的であった。19世紀の ロンドン・シティは、海外貿易と帝国の拡張に伴い、 アムステルダムに代わって国際金融サーヴィス業の 中心地となった。

(4)

1880年代以降は、温帯地域の白人定住植民地(のち の自治植民地・ドミニオン)向けの投資が急増し、 一貫して増えたインド投資(鉄道建設・インド政庁 債券)とあわせると、イギリス帝国内の投資が増大 した。

 国際収支全体の構造(カネのやりとり)を見ると、 イギリスは、 対米・ヨーロッパ大陸諸国との間で生 じた膨大な赤字(20世紀初頭で年間約9500万ポンド) を、英領インドからの巨額の黒字(約6000万ポンド) と、オーストラリア・日本や中国・オスマン帝国(非 公式帝国)との黒字で埋め合わせることで収支の均 衡を維持した。S.B.ソウルが提唱したポンドの世界 循環システムである「多角的決済機構」の成立がそ れであった。世紀末のイギリスの国際収支は、多角 的決済機構と海外投資の利子・配当収入により支え られ、ロンドンで考案された国際的な原則やルール が、事実上の国際標準・規範(グローバルスタンダー ド)として世界中に広まった。日露戦争前後の日本 の戦時債発行に見られるように、新興工業国は外債 発行などでロンドン金融市場に大幅に依存した。  この多角的決済を円滑に機能させるうえで、イン ドの役割は決定的に重要であり「安全弁」の役割を 果たした。英領インドからの約6000万ポンドの黒字 は、(1)インドが原棉・ジュート・茶・小麦などの 第一次産品を欧米諸国や、後述するように日本に対 して大量に輸出して貿易黒字を稼ぎ、その黒字を、 イギリスからインドへの消費財輸出で吸い上げるこ

と、(2)植民地統治にともなうインド財政からの「本

国費」(軍事費、官僚の給与・年金を含む行政費、 鉄道資材などの備品購入費、対鉄道投資をはじめと する各種の利子支払いなどから構成された)の円滑 な支払い、を前提にしてはじめて可能になった。イ ンドは、イギリスが世界に提供した国際公共財の一 つである国際金本位制、いわゆる「ポンド体制」の 最大の安定要因になったのである。

4 アジア間貿易の形成と英領インド   ―国際公共財の利用

 以上の考察から、パクス・ブリタニカを経済的に 支えた最大の貢献者が英領インドであったことは

明らかであろう。だがインドは、本国イギリスとの み貿易をしていたわけではない。世紀転換期にイン ドの対外貿易の約3分の1は、東側の東アジア・東 南アジア諸地域に向けられており、日本はインドに とって重要な輸出相手国であった。同時期の日本と 英領インドは独自に、1904年に最恵国待遇条項を含 む日印通商協定を締結していた。それは、いわゆる 不平等条約の改正の一環として、相互対等の最恵国 待遇、領事裁判権撤廃を含む日英通商航海条約が 1894年に締結された10年後であり、関税自主権回復 の1911年新条約締結の7年前であった。その背景に は、インド産原棉輸出、 ボンベイ(現ムンバイ)と 大阪・神戸の近代的機械紡績業を基軸とするアジア 地域間貿易の形成・発展があった。杉原薫が提唱す る「アジア間貿易」の形成である。

(5)

物を通して見る世界史

モノから見る歴史

 たとえば角山榮の『茶の世界史』やシドニー=ミン ツの『甘さと権力』といったような、いわば「モノか ら見る歴史」物には名著が多い。それには三つほど理 由があると思う。第一に、具体的なモノを主役に据え ることで、歴史学的な想像力が活性化するということ。 第二に、ひとつのモノという一種の定点から観測する ことで、きわめて長期的な歴史や、きわめて広範囲に わたるつながりを描く歴史が書けるようになるという こと。そして第三に、モノが自然のシステムと社会の システムの接点にあるがゆえに、人間がモノをつくる と同時に、モノが人間の生の条件になっていることの 双方に注意を促すということである。

ワインとグローバリゼーション

 以上の三点は、もちろんワインにもあてはまる。第 一の点については、たとえば今日ワインの風味を語る ときに樽(いわゆる「オーク」)の香りに言及しない わけにはいかないが、そもそもワインと樽との出会い は、ローマ帝国のガリア征服に端を発する(それまで ワインは素焼のつぼに収められていた)。ワインにお ける樽の香りは、いわば古代のグローバリゼーション の痕跡でもあるのだ。

 第二の点については、たとえばスペインきっての銘 醸地であるリオハは、濃くて力強い赤ワインの産地と して知られているが、その「伝統」は、実は19世紀後 半に、やはり濃くて力強いスタイルの赤ワインをつく ってきたボルドーからの技術者の流入によって形成さ れたものである。ボルドーから技術者を流出させた原 因は、この時期にフランスを襲ったブドウの害虫フィ ロキセラの大流行によってブドウ畑が壊滅状態に陥っ たことにあるのだが、さらにそのフィロキセラは実は もともとアメリカのブドウ樹に寄生するものであっ た。19世紀に入り、大西洋間の交通量の拡大が虫害の グローバリゼーションを引き起こし、それがさらにボ ルドーからリオハへのヒトの移動を促して、リオハと

いう「伝統」的産地が創られたのである。

「テロワール」の構築主義

 第三の点について、近年ワインにおいて盛んに「テ ロワール」という言葉が用いられる。ワインに反映さ れた土地の個性のことだ。「テロワール」に最もうる さい産地は、フランスのブルゴーニュ地方だろう。お そらく世界で一番有名なワインのロマネ・コンティは、 このブルゴーニュのひとつの畑の名前である。わずか 1.8haのこの畑から生まれるワインは、小道1本隔て て隣接している他の畑(それらもみな一流以上とされ ているのだが)のワインの数倍から数十倍の値がつく。 その価格差を説明するのが「テロワール」だ。  テロワールは、一面では土地の名前に貼りつけられ たブランドである。かたやロマネ・コンティはいまや 1本百万円。その隣でおなじDRC社がつくるラ・タ ーシュがざっと十数万円。しかしロマネ・コンティが ラ・ターシュの五倍以上もウマイのかといわれても答 えようがない。価格は需要と供給の関係で決まる。そ れは社会的な関係だ。

 しかし他面で、テロワールはたしかにその場で作ら れるワインの性質をある程度決定する。猛暑のシチリ アに冷涼な気候を好むピノ・ノワール種のブドウがよ く育つ見込みは低い。同じソーヴィニヨン・ブラン種 のブドウでも、フランスのロワールのような冷涼な気 候で石灰質の土壌に育つのと、カリフォルニアのよう に温暖な気候で肥沃な土壌に育つのとでは、まるで違 うスタイルに仕上がる。それは自然のシステムに属す ることがらだ。

 だがワインをめぐる社会のシステムと自然のシステ ムの境界はもっと入り組んでいる。ブルゴーニュでは 一般に北部のコート・ドールが銘醸地とされ、南部の コート・シャロネーズやマコネーははるかに格下にみ られている。しかし、その格の差を説明するテロワー ルは、決して単にそこにある気候や土壌といった固定 的な自然のシステムによるものではない。実は南北ブ ルゴーニュの境界は、中世における司教区の境界に重 なっている。つまり市場に近く、ワインの品質向上に 熱心な領主のもとで不断の改良が世紀単位で重ねられ た自然と人間の相互作用の結果がコート・ドールのテ ロワールなのだ。その意味ではテロワールは自然と社 会のシステムのハイブリッドである。

ワインと世界史

(6)

世界一おしゃれといわれる日本の若者

 日本の若者たちに化粧が広がったのは1995年の 「女子高生ブーム」以後のことである。今日では 女性用だけでなく、男性や子供用化粧品まで店頭 に並ぶようになった。この結果、日本の若者は世 界一おしゃれともいわれるようになった。  1920・30年代は、化粧の歴史の最大の変革期で あった。それまではどこでも支配身分あるいは裕 福な人々にしかできなかった化粧が大衆に広ま り、髪型や服装なども含めて、新たなモードが瞬 く間に世界に広がる時代となったのである。これ にはアメリカを先頭に大衆社会が展開したこと、 また経済活動がグローバル化したことが関与して いる。たとえばアメリカでリップスティックが登 場したのは1915年であるが、5年間で全世界に広 がった。どの家庭でも化粧台の前に大量生産され たコンパクト類や各種のクリーム、香水瓶などが 並ぶようになった。ネイルエナメル、パーマネン トが一般化したのもこのころである。また、それ までは化粧美の標準は成熟した中年の大人に置か れていたが、これ以後は20歳前の若者へと移行し、 身体も痩身が美しいとされるようになった。現代 日本の化粧の動向も、この動きの延長なのである。 化粧の起源

 化粧には、文化人類学的な諸事例が示すように、 集団間の区別、性差、身分差等を示す社会的機能 がある。しかし古く遡るほど、自然に対する防御、 とりわけ呪術と結びついていく。たとえば後期旧 石器時代のマドレーヌ期(12,000〜17,000年前) の岩壁画に赤色を塗った人物像があり、これは狩 猟の成功を祈る呪術と関係しているとされてい る。縄文人・弥生人の「赤化粧」も、邪悪な霊を 排除する呪術と結びついていたといわれる。 西洋の化粧

 西洋の化粧の源流となったのはエジプト人であ

る。彼らのアイメーク は孔雀石の緑の粉末や 硫化アンチモンなどか ら作った黒いコールを 目の縁やまつげに塗っ たもので、これは、野

球選手が目の下に塗る墨と同様に強い太陽光線か ら目を守る意味があったし、虫害による眼病から目 を保護する意味もあった。また彼らは口紅を塗り、 木の棒をロットにして泥でパーマをかけた。  こうした風習はギリシア、ローマにも伝えられ、 ローマでは金髪に染めた髪をカールすることが流 行したし、マニュキア、ペディキュアも行われて いた。他方、鉛白は前4世紀にギリシアのテオフ ラストスが発明して以後広まったとされる。白塗 り化粧で最も有名なのはエリザベス1世で、半イ ンチ(1.3㎝)もの厚化粧をしていた。

日本人と化粧

 日本の「白化粧」は、中国の化粧が源流となっ た。唐代は中国的化粧が完成した時代で、ふくよ かな女性が美人の条件とされ、白塗りし濃い紅を

頬に塗り、眉間には紅で花か鈿でん、眉には美人の代名

詞ともなった「蛾が眉び」を描いた。日本書紀には渡

来僧の観成が初めておしろいを作って持統天皇に 献上したとあり、高松塚古墳の壁画や「鳥毛立女 屛風」等に見られるように、日本の宮廷もこの唐 の化粧やファッションをそのまま取り入れた。  遣唐使の廃止後、宮廷貴族は、「源氏物語絵巻」 などで描かれているように、結髪をやめて垂髪に かわった。男女ともにおしろいを塗り、頬の紅を 薄くし、眉を抜いて上方に黛でまゆをつくり、鉄 漿(おはぐろ)をつけるようになった。

 この化粧は貴族では明治初期まで維持された。 他方、それは武士に広まり、江戸時代には町人に も広まった。江戸時代の女性は結婚と同時にお歯 黒をつけ、出産すると眉を剃った。ベニバナから 作る最高級の紅は「紅一匁、金一匁」といわれる ほど高価だった。海外ではまだ化粧は支配身分の みが行っていたから、日本は世界で最も早く大衆 に化粧が広がった国として明治を迎えている。

化 粧

埼玉大学教授 岡崎勝世

(7)

(1)はじめに

 「世界史Aの前近現代(=「諸地域世界」)は、通史 的に教えるには時間がなく、時間内に終えようとする と断片的になって生徒が歴史の流れを理解できない」 等、世界史Aの前近現代をどのように構成し、何をど う教えてよいか、悩んでいる先生方が私を含め多い。 そこで拙稿では、世界史Aの「(1)諸地域世界と交 流圏」の「ヨーロッパ世界」について、一つの試案を 提供したい。その際、世界史Bとの違いはおりにふれ て示していく。

 最初に、入試との関係について。多くの生徒が受験 するセンター試験(過去4年間=2005 〜 2008年度)で、 「ヨーロッパ世界」から出題(誤りの選択肢も含む) された用語は、フランスのシャルトルの大聖堂、ユス ティニアヌス、国土回復運動(レコンキスタ)、ビザ ンツ帝国の4つだけで、年号は1つもない。つまり、 入試を意識していたとしても、この単元の授業を行う 際、細かい年号や事項を教える必要はなさそうである。  以下、「ヨーロッパ世界」の2時間分の単元目標と 指導経過を提示したい。また、その際、『明解世界史 図説 エスカリエ』(以下、資料集と記す)を使用する。 《単元》ヨーロッパ世界(2時間)

1時間目:【トランプのマークと中世4身分】まで 2時間目:【ベリー公の時祷書に描かれる荘園】以降 《単元目標》

① われわれの生活に大きな影響を与えているヨーロッ パ世界、とくに西ヨーロッパ世界の特質を理解させ、 かつその歴史的経緯について把握させる。

② ビザンツ帝国に代表されるギリシア・正教世界、東 ヨーロッパと、ローマ=カトリック世界で封建制度 に立脚した西ヨーロッパ世界を比較させ、その相違 点を把握させる。

③ 教皇権の衰退や都市の発達と王権の伸張の中で中世 ヨーロッパ世界が変動・衰退し、人間中心主義のル ネサンスや、教皇やローマ=カトリック教会に異を

唱えた宗教改革がおき、王権への集権化が進んだ絶 対王政が現出する近世につながっていったことを理 解させる。

(2)指導経過

【カールの帝国の領域】(資料集p.99 1 Aの地図 を見せ、)カール大帝の勢力圏と示してある範囲に は、現在どんな国があるか挙げてみよう。

 答えは、フランス・ドイツ・イタリア・ベネルクス 3国・チェコ・スイス・オーストリア・スロヴェニア である。

 現在の生徒は中学校で網羅的に地理=地誌を学習し ていないため、世界地誌についての知識がほとんどな い。従って高校の世界史の授業では、資料集に載って いる世界地図を常に見せるように配慮すべきである。 また、世界史Aで「○○世界」の学習の初めに、国や 地誌について白地図作業を行い、かつ風土について説 明を加えたい。「環境決定論」になってはいけないが、 風土が歴史を規定する面は確かにあるし、環境考古学 (歴史学)の研究成果も目を見張るものがある。そこで、

それらの点を踏まえ、かつ環境の視点も取り入れた説 明を行う必要がある。

 上記の「カールの帝国」の“復活”をめざし、ヨー

世界史

A

授業案

ヨーロッパ世界の形成

千葉市立千葉高等学校 小松 信

(8)

ロッパでは戦後、地域統合の動きが見られる。

【「カールの帝国」とEC】そのうち、フランス・ド イツ・イタリア・ベネルクス3国を原加盟国とす る地域統合組織がありますが、それは何でしょう。

 答えはECである。第一次世界大戦後、覇権を失い、 第二次世界大戦後には国際的地位も低下した(西)ヨ ーロッパが求めた「過去の栄光」、国民国家の揺らぎ の中で地域統合をめざしたときのその統合の「歴史的 範囲」が「カールの帝国」であった。確かに、ECの 成立は当時の国際政治の文脈の中で行われたことであ り、すべてを上記のことで説明・理解できるものでは ないが、彼らの 「歴史的記憶」があったことは事実で あろう。

 その後、ローマ帝国・キリスト教の復習を行い、か つ知識を確認する。そして、ゲルマン人の移動とそれ 以前の社会、ローマ帝国の東西分裂(西ローマ帝国の 滅亡)、ゲルマン諸国家の成立、フランク王国の台頭 について説明する。世界史Bではそれだけで1時間以 上かかる内容であるが、世界史Aでの説明=板書事項 では以下の通りで、「大筋」をつかませる。

フン人の侵入を契機としたゲルマン人の移動・諸 国家の成立、西ローマ帝国の滅亡→ローマ=カトリ ック教会がパトロンを失う、フランク王国の台頭 (←ローマ=カトリック教会との関係・イスラーム勢

力との関係)、800年カールの戴冠

 世界史Aでは指導内容の精選が必要である。その際、 どのような視点で、何を重視して精選を行うかが大切 である。私がここで重視したのは、中世ヨーロッパ世 界を生み出す大きな契機となったイスラーム勢力との 関係と、中世ヨーロッパ世界で大きな勢力を持ち、か つその後のヨーロッパの歴史に多大な影響を与えたロ ーマ=カトリック教会(との関係)である。

 その後、資料集でカールの戴冠の図版を見せ、ロー マ・ゲルマン・キリスト教を柱とし、今までの政治・ 文化の中心であった地中海世界とは異なる独自の西ヨ ーロッパ世界が誕生したことを説明する。また、「生活」 の中でのヨーロッパ発のものを挙げさせ、いかにそれ が多いか、そしてそれらがいかにわれわれの中に入っ ているかを認識させる。そのことを通じて、21世紀の 日本人であるわれわれが、ヨーロッパ(史)を学ぶ意 味・意義を理解させたい。

【トランプのマークと中世4身分】さてトランプの登 場です。トランプには4つのマーク(=スート)があ ります。それぞれが何を表していると思いますか?

 生徒に歴史の面白さを感じてもらう一つの方法が、 「モノ」の持ち込みである。われわれは常日頃からア

ンテナを高くして、世界史に関係するモノ教材の開発 に努めなければならない。その際、そのときだけ盛り 上がるモノだけではなく、その授業の柱になるような モノ、その時代の雰囲気を生徒が感じられるようなモ ノの発見・教材化が必要である。この単元ではトラン プを使ってみる。

 上記の質問だけでは生徒から十分な答えが返ってこ ない。 そこで質問を以下のように変えてみよう。

スペードは剣、ハートは聖杯、ダイヤは貨幣、ク ラブは棍棒を意味し、それらはそれぞれ中世ヨー ロッパの身分を表しています。それぞれ何身分を 表していると思う?

 これでも答えが出ない場合、教科書に載っている「祈 る人・戦う人・働く人」をヒントとして与える。答え は、スペード=剣は国王・諸侯・騎士、ハート=聖杯 は聖職者、ダイヤ=貨幣=商人、クラブ=棍棒は農民 (農奴)であり、この4つが中世4身分と呼ばれる。

また絵柄については諸説あるが、キングのスペードは ダヴィデ、ハートはカール大帝、ダイヤはカエサル、 クラブはアレクサンドロス大王である。これだけでも 生徒は興味を持つ。雑談で話してもよいし、これを教 材化しても面白いだろう。次に、以下のように板書し て説明する。

内の主従関係

戦う人=国王・諸侯・騎士 = 封建制度 祈る人=聖職者  =領主

働く人=農民(農奴) = 荘園制 

    商人

中世封建社会 成立  8 〜 9C 盛期 10 〜 12C 衰退 13 〜 14C

(9)

ずしも必要ではない。中世ヨーロッパ世界の構造=特 質を教え、生徒がこの世界のイメージを持てるように なればよい。

 封建制については、資料集p.102 1 3 を見せなが ら説明・板書を行う。その際、既習の中国周代の封建 制や、ヨーロッパとほぼ同時代の日本の鎌倉時代の御 恩・奉公との相違点を生徒に考えさせたい。歴史的思

考力の一要素である、ものごとの共通点や異なる点を 比較し認識する力の育成や、わが国の歴史と関連づけ ながら理解させることは、世界史A・Bを問わず必要 なことである。荘園制については次の質問をして、資 料活用能力の育成を図りたい。

【ベリー公の時祷書に描かれる荘園】 (資料集p.102 の時代の扉を見せ、)この3枚の図版を見て気づく ことを何でもよいから挙げなさい。

 生徒からは以下のような答えが出てくる。

・ < 3 月>土地が幾つかに分かれて、別々の作業をし ている。

・< 3 月>車輪がついたものを牛にひかせている。 ・< 7 月>分けられた土地の一つで羊を飼っている。 ・<11月>豚に森林で何か食べさせている。

 生徒の答えは大切にしたい。間違っていると教員が 判断する答えも含め、すべて板書すべきである。その ことで生徒のやる気がわいて、能動的に授業に参加す る姿勢が生まれる。そして、その答えを利用しながら 三圃制、重量有輪犂、鉄製農具の説明をし、当時の農 民(農奴)の日々の生活をイメージさせる。その際大 切なことは、国王の役人の立ち入りと国王への納税を 免除される権利、不輸不入権が荘園領主に認められて いたことの説明である。そのことで、封建社会が分権 的な社会であったことを生徒は理解するようになる。  次に「祈る人」、ローマ=カトリック教会について。 {カールの帝国}の分裂後、神聖ローマ帝国が成立し、 その皇帝が理念的には俗界の頂点に君臨したことを説 明した後、生徒に質問する。

【教皇と皇帝】 「教皇は太陽、皇帝は月」という言 葉は、どういう意味だと思いますか?

 生徒から、教皇の方が皇帝よりエライ、力を持って いた、という答えが返ってくる。教皇権が最盛期であ った、12世紀末から13世紀初頭の教皇インノケンティ ウス3世の言葉であることを話し、中世ヨーロッパ世 界において、教皇は聖界の頂点であると同時に俗界の 大領主でもあったことを説明する。その際、中世(西) ヨーロッパ世界は聖と俗に分かれた二元構造の社会で あったことを生徒に認識させる。板書でローマ=カト リック教会と十字軍についておさえておこう。

11 〜 12C 教皇権の伸長

     →十字軍:対イスラーム勢力の西ヨー         ↓ ロッパ世界の膨張運動   13C後半失敗→教皇権の失墜

 世界史Bだと、教皇の名前と業績、細かい年号、第 1回〜第7回十字軍の解説を行うが、世界史Aではそ れは必ずしも必要ではない。とくに年号はいらず、基 本的に何世紀のいつ頃のことか、を理解させればよい。 そして、中世ヨーロッパ世界ではローマ=カトリック 教会とその頂点に立つ教皇の勢力が強大であったこ と、イスラーム勢力に対して十字軍が行われ、その成 功とともに教皇権が伸長し、失敗によりそれが失墜し たことだけを理解させればよい。そして、上記の三圃 制などによる生産の拡大と、この十字軍を通じてのイ スラーム圏との交流・通商の拡大などにより、「働く人」 =商人の動きが活発となって、各地に古代の政治都

「エスカリエ」p.102

(10)

市・消費都市とは異なる中世都市が生まれたことを理 解させる。その際、資料集p.105のチッタデッラとヴ ェネツィアの写真を見せ、今もヨーロッパ各地に残る 中世都市の構造的な特徴(=壁・教会・市庁舎)と海 を通しての交易を説明する。

 次に、東ローマ帝国=ビザンツ帝国について。西方 では(西)ローマ帝国が5世紀に滅んだが、東方では ローマ帝国(=ギリシア・正教的なビザンツ帝国)が 生きのび、西方とは異なる歴史的世界を生み出したこ と、6世紀のユスティニアヌス帝の時に最盛期を迎え たことを説明したあと、以下の質問を行う。

【ビザンツ帝国の皇帝】 (資料集p.100の時代の扉 を見せ、)この壁画で真ん中に描かれているのはユ スティニアヌス帝です。彼の向かって右側の人々 と左側の人々は、それぞれどういう身分の人たち だと思いますか? また、この壁画はどういうこ とを表していると思いますか?

 すぐには答えが出ないかもしれないが、生徒に中学 で習ったフランシスコ=ザビエルの頭部を思い浮かば せたり、左側の人物の持っているものに注意させれば、 右側が聖職者で左側が軍人である、との答えが返って くる。また、この壁画の意味は難しいが、ヒントを与 えれば生徒たちは答えにたどり着くことができるだろ う。それらの生徒の答えを生かしてビザンツ帝国の皇 帝教皇主義の説明を行い、西ヨーロッパ世界との違い に気づかせる。そして、既習の事項を想起させつつ、 西ヨーロッパとビザンツ帝国の相違点を理解させる。 世界史Bではギリシア正教とカトリックの相違点など についても説明するが、世界史Aではイコンやミサの 写真を見せる程度で、あまり深入りしない(というか 時間的にできない)。

 最後に、中世封建社会の崩壊と近世の萌芽について。 ここでは資料集p.106の時代の扉の「死の舞踏」の図 版を使いたいところであるが、図中に身分が書いてあ る(=種明かしをしている)ので、授業では何も書い てない別の図版を用いたい。

【「死の舞踏」と中世封建世界の衰退】 この図版は 14世紀に中世ヨーロッパでよく描かれたものです。 この絵を見て気づいたこと、わかることを何でも いいから挙げてみましょう。

 ガイコツがいろいろな人と手をつないで一方向に向 かって歩きながら踊っている、という答えは出てくる。 そこで、服装に注目させ、それぞれどんな身分(階層) の人が描かれているか、再度質問する。教皇・皇帝・ 騎士・貴族・老女など具体的には出てこないが、貴賤 様々な身分の人たちが老若男女を問わずいることは分 かるだろう。そこで、14世紀にユーラシア規模で気候 の寒冷化が起き、中国発のペストがヨーロッパで猛威 をふるい、人口の3分の1〜2分の1が死亡したこと を話す。そしてこのことが大きな要因の一つとなって 中世封建社会が崩壊していくことを以下の板書で説明 する。

十字軍  貨幣経済の発達 ペストの流行  ↓        ↓    ↓ 教皇権の失墜    荘園制の解体 諸侯・騎士の没落 ←

王権の伸長

商業の活発化 → 商人と結びついた国王による          中央集権化=「くに」の誕生        → 近世(絶対王政・主権国家)へ

(3)おわりに

 世界史Aに限らず、われわれ教員は、この授業で生 徒にこれだけは伝えたい、生徒にこんな力を身につけ てもらいたい、ということを考え抜く。とくに世界史 Aでは授業内容の精選が大切なので、年度当初さらに 年間を通じて上記のことを考え続け、教授内容を精選 し、授業を構成する。この拙稿は、そんな作業の中か ら生まれた授業実践(例)である。不十分な点が多々 あると思うが、ご意見ご批判等いただければ幸いであ る。

(11)

はじめに

 「16世紀・一体化しはじめる世界」を世界史Aで どのように教えるかについて検討してみたい。この 単元は、高校入学後に初めて出会う「世界史」とい う科目が、中学校の「歴史」や「地理」とどのよう につながり、何を考えようとする科目なのか、につ いて理解を深めることができる格好のテーマであ る。中学校の既習知識を確認しながら、「日本史と 世界史の接点」としてこの時代を捉えるということ を目標に置きたい。また、実際にエスカリエを活用 する学校は、中学校での学習が必ずしも得意でなか った生徒たちを多く抱えていると思われることか ら、可能な限り生徒の興味関心を引くような授業の 切り出し方をしたいと思う。そうしなければ、筆者 の経験からも、中学校に続いて「歴史は暗記物で面 白くない苦痛な教科」という感想から高校でも逃れ ることができず、教師も生徒も双方が苦労するとい うことになりかねないからである。

 昨年12月に発表された新しい学習指導要領案に も、日本史や地理との連携が現行学習指導要領以上 に求められている。小学校の社会科で最初に学ぶの は生徒が生活している地域であり、生徒は自分の生 活する場を『街探検』することから学習を始め、中 学校で日本史を、さらに高校へ入って世界史へと学 習を積み重ねていく。おそらく、日本史と世界史の 接点を考えることが可能なこの時代の事例は、それ ぞれの地域にたくさんあるだろう。ここではいくつ かの素材から「世界史は面白い教科なのだ」という メッセージを生徒たちに伝えてみたい。

「エスカリエ」掲載地図と

南蛮貿易(中学教科書)のつながりを考える

 「16世紀・一体化しはじめる世界」を理解するた

めに、世界史ではとくに16世紀以降は「ヨーロッパ」 「アジア」「アメリカ大陸」と分けて考えると理解で

きなくなることを、中学校日本史で周知の、16世紀 に描かれた「南蛮屛風」絵から考えてみたい。  「この絵には、様々な肌の色、様々な格好の人々 が描かれているね。この絵の人物や動物等はどうい うルートで日本に入ってきたのだろうか?」と問い かけるところから授業を始める。

 16世紀のユーラシアには、オスマン帝国(スンナ 派)・サファヴィー朝(シーア派)・ムガル帝国・明 という4つの安定した帝国が存在した。これをつな ぐ、インド洋を中心とする東南アジア=ヨーロッパ 貿易の中核を握っていたのはイスラーム商人であっ た(エスカリエp.26の4つの国を色塗りさせてみる とよい)。

「明解世界史図説 エスカリエ」活用例

16世紀・一体化しはじめる世界を考える

北海道札幌北高等学校 吉嶺茂樹

「中学生の歴史 初訂版」p.88 〜 89 『南蛮屛風』

エスカリエ p.26 〜 27

(12)

 このイスラーム商業ネットワークに遅れて参入し たのがスペイン・ポルトガルである。エスカリエ p.25の「大航海時代の幕あけ」以降、イスラーム勢 力が押さえていたインド洋・アジア交易に新たに乗 り出したポルトガルと、大西洋から「新大陸」へと 乗り出したスペインが「世界を二分割する」という きわめて単純な理由で線引きしたのがエスカリエ p.26 〜 27世 界 地 図 中 の 3 本 の「 縦 線 」 で あ る。 1493年の「教皇子午線(境界線)」は、スペイン出 身の教皇アレクサンデル6世による裁定であり、ポ ルトガルには容認できないものであった。国王ジョ アン2世はスペイン王と直接交渉しこれを西方に引 き直す。トルデシリャス条約境界線である(トルデ シリャスは調印地スペインの地名)。その後1500年 カブラルがブラジルを発見し、最終的にラテンアメ リカではブラジルのみがポルトガル領となる。一方、 マゼラン艦隊の生存者が1522年9月に地球を周回し て帰国すると、「地球がもし丸いならば、1本の線 では地球を分割したことにならない」という至極当 然の議論が出てきた(ちなみにマゼラン艦隊はスペ イン国内で航海日数をつけられていた。帰国後彼ら の航海日誌と国内側の記録が1日ずれていた。これ が日付変更線が必要と認識されたそもそもの理由で ある)。香辛料の産地であったモルッカ諸島を巡り、 スペインとポルトガルは当時激しい競争の中にあっ た。結局ポルトガルがモルッカを押さえることで交 渉は決着した。サラゴサ条約である。その後、マカ オのポルトガル領有(1557年)も確定する(関連ペ

ージ、エスカリエp.114「 1 大航海時代の世界」)。

この後スペインはフェリペ2世の時に血縁によりポ ルトガルを併合した(1580年同君連合)。「太陽の沈 まぬ国」というコラムの名称はこれを意味する。  この東南アジア交易に明が参入した。当時明は海 禁下であったため直接の交易ができなかったが、と くに中国産の絹織物・磁器などをマカオや東南アジ アの港市(port-city)へ運び、銀を入手するととも に東南アジア産の鹿皮や香木、香辛料などと交換し た。この交易に関わったのがいわゆる「後期倭寇」 であり、彼らはこの地で活躍した多民族集団と考え てよい。村井章介氏によれば、彼らはどこの国にも 属さない「マージナル・マン」であった。日本の朱 印船交易や琉球王国の交易船もマカオにつながって

いた。マカオを船出し難破した漂着ポルトガル人が 種子島に鉄砲を伝えたが(1543年)、乗船していた 船は中国船である。昨年出版された『海域アジア史 研究入門』所収の諸論考によれば、中国から東南ア ジアへ民間商船の渡航が許可されたのは後期倭寇と 入れ替わる1570年代、同じ頃、ポルトガルによりマ カオ−長崎交易が開始される。スペインによってマ ニラが建設され(1571年)、この地に太平洋を越え て新大陸産の銀が流入する。メキシコ銀は積み出し 港の名前をとりアカプルコ交易と呼ばれるが、サカ テカス銀山(エスカリエp.26世界地図)から産出し たものである。ボリビアのポトシ銀山と並ぶ大産出 地であった。なお、同書によれば、ヨーロッパの世 界市場進出は、ヨーロッパ側からの積極的な進出と いうよりも、むしろ東アジア海域における海上貿易 の「発展の帰結」として捉えた方が実態に近いとい う。 こうして、 アジア海域を中心として西側へ向け てつながるイスラーム=ネットワーク、太平洋−メ キシコ−大西洋−ヨーロッパという2本の物流ルー トが成立するのである。江戸初期に支倉常長が太平 洋を渡ってスペインからイタリアへ航海した背景に はこのようなネットワークがあった。

 以上略述した16世紀の東南アジア−ヨーロッパ関 係史を考える際に東南アジア産の胡椒・丁字・ナツ メグなどを実際に教室に持ち込

んで授業をされている先生方は 多いであろう。筆者もその1人 であるが、普段あまりホールの 形では扱わないナツメグとナツ メグ削りを持ち込んで授業を行 ってみた。ナツメグを削って使 うという経験があまりないた

め、生徒たちには興味深いようである。

 時間が限られている世界史Aの授業で取り上げる ことはなかなか困難であるが、上記のような東アジ ア交易ルートの先端が、東南アジアの日本町や琉球 を経て本州からさらに日本の北方地域にまでつなが っていたことを紹介しておきたい。北海道の生徒た ちにとってはより身近な日本史と世界史の接点とし て受けとめられるようである。

 日本中世史では必ず取り上げられる、北海道函館

市の志し苔のり館だて遺跡は、37万枚に及ぶ、下限を明代とす

(13)

る日本最大の古銭出土地であるが、この古銭にベト ナムの通貨が1枚混入していることが昨年明らかに

された。青森県の国指定遺跡・十と三さ湊みなと遺跡の膨大な

出土品は、この地が中世海域アジア交易の重要な結 節点であったことを示している。

 エスカリエp.113には、イエズス会をパリで結成 したイグナティウス=ロヨラとフランシスコ=ザビエ ルが載っている。ザビエルについては中学校の教科 書にも記載 があり生徒 に馴染み深 いが、イエ ズス会宣教 師の日本布 教にあたっ てもこのネ ットワークが生かされ、その先は蝦夷地=北海道へ とつながっていた。宣教師アンジェリスが、現在の 松前・上ノ国町付近に来朝した際の記録が残されて いる。アンジェリスはシチリア島の生まれ。18歳で イエズス会に入会しマカオを経て1602年に日本へ入 国。その後1614年の禁教令にあたり国内で流罪とな ったキリシタン慰問のため長崎から蝦夷地に入っ た。後に捕らえられ江戸で刑死した彼の2回にわた る報告書がバチカン・イエズス会本部などに保存さ れている。それによれば、この地では大量の「砂金 より大きな金=粒金」が採れたとある。また、千島 列島産のラッコの毛皮が現在の宗谷岬を経てこの地 に運ばれ交易の対象となっていた。彼は最初のアイ ヌ語を記録した外国人でもある(1621年)。アンジ ェリスの地図は下記参考文献『日本北辺の探検と地 図の歴史』に当たっていただきたい。蝦夷地が異様 に拡大された興味深い地図である。

コラム「銀は世界をかけめぐる」から日本と 世界の関係を取り上げる

 戦国〜江戸初期にかけて、東北地方は世界有数の 金産出地であった。このため江戸を中心とする東国 では金(=小判)が、大阪を中心とする上方では、 戦国以前の南蛮貿易の名残から銀が使われた。「江 戸の金遣い・上方の銀遣い」といわれる。しかし金 貨が使われたのは日本が例外的に金を産出したから

であり、世界史的にみるとアジア交易での基軸通貨 は金ではなく銀である。しかも銀貨は基本的に重さ を量って使う貨幣(秤量貨幣)であった。江戸時代 の銀貨が重さ表示(匁)であるのはこのためである。 このアジア通貨圏に強く繋がっていたのが石見銀山 であった。当時のヨーロッパで出版された世界地図 には、石見銀山の記載がある(たとえばアントワー プで1595年に出版されたオルテリウス/ティセラ 「 日本図」 など。この地図には石見銀山が‘Hivami’ と記載されている)。またフランシスコ=ザビエルは、 インドのゴアからポルトガルのシモン・ロドリーゲ ス神父にあてた手紙に「カスチリア人はこの島々(日 本)をプラタレアス(銀)諸島と呼んでいる…」と 書いている(河野純徳訳『聖フランシスコ=ザビエ ル全書簡』第4巻 東洋文庫)。

 この時代は前世紀より続くヨーロッパの進出によ り、金銀鉱山の情報を含めて様々な東アジア情報が ヨーロッパに紹介された時期に当たり、多くの地図 が作製出版された。当時、日本銀やメキシコ銀は質 が良く世界市場の銀を席巻した。日本は世界の銀産 出の3分の1以上を占めた(エスカリエp.27「当時 の日本」参照)。なおエスカリエp.26②「中国の馬 蹄銀」は、本来形が一定したものではなく、重さも 様々であった。重さを量って流通させた(秤量貨幣) 点では中国も日本(江戸幕府)も同じである。日本 の場合このため金銀を交換する両替商が発達する。 地図記号の銀行マークが分銅の形をしているのはこ のためである(この形はもともと生糸をとる繭の形 をかたどったともいわれる)。

 以上、実践のいくつかを紹介した。中学校の既習 知識が高校の世界史につながっていることを様々な 地域の具体例で示していくことで世界の一体化と地 域の過去をつなげて考えるきっかけとしたい。石見 銀山やアンジェリスの地図の使用は、もう一つの例 となるであろう。

参考文献

桃木至朗編『海域アジア史研究入門』 岩波書店 2008 四日市康博『モノから見た海域アジア史』九州大学出版会 2008

秋月俊幸『日本北辺の探検と地図の歴史』 北海道大学図書刊 行会 1999

大隅和雄・村井章介編『中世後期における東アジアの国際関 係』山川出版社 1997

(14)

はじめに

 生徒は「地中海」という言葉に対し、どのよう な興味・関心・反応を示すだろうか。地中海がど こに位置し、どのような国があるか、そして地中 海が歴史的にどのような役割を果たしてきたかを 連想できるだろうか。中学校社会科の地理的分野 で学習する「地中海性気候」以外の情報を連想で

きる生徒は少ないのではないだろうか。また、「海」

が「交流」に重要な役割を果たしていることを想 像できる生徒も少ないであろう。本校は大阪湾・

神戸港を見渡す六甲山麓に位置し、校歌に「海かい彼ひ

の夢」という歌詞が登場する高校であるが、生徒 たちの歴史認識・空間の広がりは不十分である。  本稿では、地中海を舞台に、古代から近世まで、 どのような民族が行き交い、対立があったのか、 文化の交流も含めて、生徒たちの想像・認識を豊 かにする授業案について考える。

 多くの生徒は「海」を「遮断・途絶」するもの と考え、海域を利用し多くの交流が行われている 事実を見過ごしている。『最新世界史図説タペス トリー』(以下、『タペストリー』)p.138掲載の地 図「⑥占星術の伝播」を用い、時代・地域を越え た文化の交流について考えさせることを起点に授 業を進めたい。

古代の地中海

 『タペストリー』p.138掲載の年表「地中海の歴 史」を参考に、古代の枠組みをゲルマン人・イス ラーム勢力が台頭するまでの時期と考える。『タ ペストリー』ではp.6〜 13に世界全図が掲載され ている。世界全図により地中海の大きさ(正確な 比較ではないが)を身近な海域(たとえば瀬戸内 海)と比較し、その広大さを認識させる。  多くの学校では、古代オリエント世界から始ま り、地中海を舞台としたギリシア・ローマ世界へと 世界史学習が進んでいく。しかし、生徒の「地中海」 への興味・関心はあまり高くない。歴史を政治史 (戦争)中心にとらえ、ヒトやモノの動きへの注目

が低いためであろう。『タペストリー』p.51のコラ

ム、p.55掲載の地図「 2 ギリシア人の植民活動」 を用い、地中海を舞台にフェニキア人・ギリシア

人がどのように活躍したかを理解させる。『タペス

トリー』p.138掲載の「①最初のガレー船、 フェニ キア人の船」示し、当時の船がどのようなものであ るかを考えさせ、当時の航海

の困難さ、そしてそれを可能 にしていく科学(天文学な

ど)・技術(造船術など)の発

展についても理解させる。

①最初のガレー船,フェニキア人の船

タペストリー授業実践例

地中海の文化・交流

兵庫県立神戸高等学校 齋 木 俊 城

古代 唐代の中国

ヘレニズムの 影響を受けた インド

ヘレニズムの 影響を受けた インド アレクサンドロス

時代のギリシア

アレクサンドロス 時代のギリシア

11∼12世紀の スペイン 11∼12世紀の

スペイン 中世∼ルネサンス期の ヨーロッパ

イスラーム世界 古代

メソポタミア アメリカへ

アメリカへ

中世∼ルネサンス期の ヨーロッパ

『タペストリー』p.138 ⑥占星術の伝播

エトルリア人の植民活動範囲 エトルリア人の都市 金(赤文字)各地の特産物

ギリシア人の植民活動範囲 ギリシア人の都市 ギリシア人の植民方向

フェニキア人の植民活動範囲 フェニキア人の都市 フェニキア人の植民方向

スキタイ

トラキア イタリア

イベリア

ヌミディア

エジプト マ

ケ ド ニ ア

フ ェ ニ キ ア

カディス ビュザンティオン

ミレトス メッシナ

キレネ タレントゥム ネアポリス (ナポリ) マッサリア

(マルセイユ) コルス (コルシカ)島

キプロス島 クレタ島 シチリア島

黒 海

シドン ティルス アテネ

スパルタ シラクサ カルタゴ

小麦・奴隷

小麦・ワイン 木材 すず・こはく

羊毛

木材 銅 銅

鉛 銀

鉄 銀 銅

銅 紫染料

小麦 小麦

木材・亜麻 小麦 金・ぞうげ 金

0 1000km

『タペストリー』p.55  2 ギリシア人の植民活動

(15)

 『タペストリー』p.6、8、10掲載の地図「交流 の歴史」を用い、ローマ帝国が他の文化圏と「海 の道」を利用して交流している事実、ローマ帝国 のもとで地中海交易で活躍したギリシア人が文化 面で貢献していること、コンスタンティノープル がギリシア人の建設した植民市が起源であること を理解させる。

中世の地中海

 地中海世界もゲルマン人の侵入、ローマ帝国の 衰退がおこり、古代から中世に向かう。『タペス トリー』p.14 〜 27に7〜 14世紀の世界全図が掲 載されている。これを利用し、地中海世界が、ゲ ルマン国家、ビザンツ帝国、イスラーム勢力に囲 まれていることを理解させる。

 『タペストリー』p.125掲載の地図「 1 ゲルマン 人の移動」を利用し、ローマ帝国が支配する地中 海世界がゲルマン国家成立とビザンツ帝国勢力の 拡大というように変貌していくことを理解させ る。ゲルマン人に続き、ノルマン人の侵入につい ても『タペストリー』p.128掲載の地図「 1 第2 次民族移動」を利用し理解させる。

 『タペストリー』p.138には、「ビザンツ世界」 →「ヨーロッパ世界」、「ヨーロッパ世界」→「イ スラーム世界」、「イスラーム世界」→「ヨーロッ パ世界」という文化の交流例が紹介されている。 生徒には図書館に着目させたい。『タペストリー』 p.110掲載のヒストリーシアター「ギリシア学問 の継承者」、p.138掲載の「②ビザンツ帝国の図書 館」の図版・コラムを通し、東西両世界で同様の 作業が行われていたことを理解させ、文化の交流・ 継承について考えさせる。

 これらの交流の舞台が地中海であることを地図

を用いて理解させる。イスラーム勢力の地中海進 出が交流を加速させていく。イスラーム勢力によ るギリシア語文献のアラビア語への翻訳、そして アラビア語に翻訳された文献がラテン語に翻訳さ れ、キリスト教世界に大きな影響を与える。その 代表は『タペストリー』p.110掲載のヒストリー シアター「ギリシア学問の継承者」に出てくるイ スラームの書物に描かれたアリストテレスであ る。イスラーム世界を

経由して西ヨーロッパ 世界に流入したアリス トテレス哲学が、中世 西欧の普遍論争を集結 させるトマス=アクィ ナスに大きな影響を与 えたことを確認させる。

 中世の地中海では、コンスタンティノープル、 イベリア半島、シチリア島がキリスト教勢力とイ スラーム勢力が対峙する地域となった。中世は平 和的な文化の交流だけではなく戦争という形で交 流が行われた。十字軍、レコンキスタを戦争とし てだけとらえるのではなく、文化の衝突・交流と いう視点から考えさせる。

近世の地中海

 近世の地中海ではイタリア諸都市が台頭し、さ らに大航海時代が始まり、地中海の役割に変化が おこる。また、キリスト教世界とイスラーム世界 の対立、キリスト教世界ではビザンツ帝国の衰退・ 滅亡とスペインの成立・勢力拡大、イスラーム世 界ではマムルーク朝とオスマン帝国の対立という 地中海をめぐる覇権争いが激しくなる。これらに ついて『タペストリー』p.28 〜 31に掲載されて いる15 〜 16世紀の世界全図で確認させる。

『タペストリー』p.110②

アリストテレス

『タペストリー』p.110① 『タペストリー』p.10 交流の歴史

『タペストリー』p.138②

(16)

 『タペストリー』p.138掲 載の「クリュソロラス」の 絵を示し、14世紀末のイタ リア諸都市がビザンツ文化 (ギリシア語文献)の導入に 積極的姿勢を示していたこ とを理解させる。彼がビザ ンツ帝国救援を要請するた

め、そしてギリシア語を伝授するためフィレン ツェを訪れる時期には、イタリア=ルネサンスは すでに始まっていた。『タペストリー』p.144掲載 の「ルネサンスの流れ」を示し、イタリア=ルネ サンスがイタリア諸都

市の勃興だけで発生し たものではなく、ビザ ンツ帝国、イスラーム 世界の影響があったこ とを理解させる。  フィレンツェの大富 豪メディチ家のフラン チェスコ1世(16世紀) がイスラーム科学を取 り入れ、当時最先端と されていた錬金術に興 味を示している絵「錬 金 術 師 」(『 タ ペ ス ト リー』p.138)④を示し、 イタリア=ルネサンス とイスラーム文化の関 係を理解させる。

 これらルネサンスがイスラーム世界からヨー ロッパ世界への一方通行に終わるのではなく、 ヨーロッパ世界からイスラーム世界へ影響を与え ている。このことを『タペストリー』p.138掲載 のジェンティーレが描いた「③メフメト2世」の 肖像画、レオナルド=ダ=ヴィンチが描いた「⑦橋 の図面」を用いて考えさせる。

 地中海を通じて文化の交流と民族の対峙は絶え ず続いてきたが、大航海時代を迎えて様子が変わ る。『タペストリー』p.142掲載の「 2 ヨーロッパ

社会の変化」を示し、商業革命について考えさせ る。地中海がヨーロッパ世界の中心からはずれ、 大西洋が中心になっていくことを理解させる。こ れは地中海が文化の交流の役割を失ったのではな く、大西洋が新たな文化の交流に大きな役割を果 たす時代が大航海時代であることをおさえさせる。

おわりに

 生徒たちの想像・認識を豊かにする授業案を考 えるためには、まず教員が多くの情報を収集し、 自分なりの枠組みを考えなければならない。  「文明の衝突」を異文化間の対立ととらえるだ けでなく、「交流」の視点から見渡すことが大切 である。「交流」は地中海のみならず、世界の多 くの海域で展開されている。

 「各国史」を寄せ集めた世界史学習ではなく、「対

立」と「交流」から豊かな世界を構築していく世 界史学習をめざしたい。そのことを考える契機に 地中海を題材とする学習は適している。『タペス トリー』はその題材を提示してくれている。

古代ローマの遺産 十字軍遠征

地中海貿易の復興

イタリア諸都市の衰退・没落

イタリア=ルネサンス

都市間の 対立・抗争

オスマン帝国の 東地中海進出

イタリア=ルネサンスの衰退

学問・芸術を奨励

14,15世紀

16世紀前半

遠隔地貿易を行う大商人や都市貴族の保護 フィレンツェ:メディチ家

ヴェネツィア:共和政のもと十人評議会(都市貴族)

ミラノ:ヴィスコンティ家→スフォルツァ家

ローマ:教皇(ユリウス2世・レオ10世)

○都市国家での自由な市民の活動

○産業発達(毛織物・造船・武具) ○東方仲介貿易による富の蓄積

北 西 ヨ ー ロ ッ パ ︵ 英 ・ 仏 ︶ 諸 国 の 台 頭

外 国 勢 力 の 侵 入    

イ タ リ ア 戦 争

大 西 洋 貿 易 の 発 展

イ ン ド 航 路

の 発 見

ヨーロッパ諸国のルネサンス

ネーデルラント

毛織物工業や商業の繁 栄にささえられ発展

スペイン

絶対王政の国王の保護 のもとで発展

フランス

国王フランソワ1世の 宮廷中心に発展

イギリス

宮廷の保護と中産階級 の支持により発展

ドイツ

商業・鉱山業のさかん な南ドイツ中心に発展

イタリア諸都市の勃興

p.147 ルネサンスの流れ

『タペストリー』p.144 『タペストリー』p.138①

メディチ家 フランチェスコ1世

『タペストリー』p.138④

↑『タペストリー』p.138⑦ ←『タペストリー』p.138③

ヨ ー ロ ッ パ の 人 口 増

大量の銀(ペ ルー・メキシ コ産)が流入

イスラーム世界

100年間で 物価数倍に

ヨ � ロ � パ

地 中 海

ア ジ ア

新 大 陸

ア ジ ア ヨーロッパ

アフリカ 香辛料・絹・陶磁器・染料・宝石

ヴェネツィア・ジェノヴァ コンスタンティノープル

ヨーロッパの 主な貿易都市

ヨーロッパの 主な貿易都市 奴隷

アムステルダム・ロンドン アントウェルペン

装 身 具 ・ 武 器

象 牙

1450 1500

定額地代に依存する封建貴族の没落 資本家的新興地主層の台頭

1550 1600 1650 1700年 20

40

1000 2000 (t) (シリング)

南アメリカ銀の ヨーロッパへの 流入量 イギリスの穀物価格 (12.7kgあたり)

イギリスの穀物価格 銀の流入量

銀 香辛料

・綿 絹・陶磁器

銀・砂糖

物 価 騰 貴 = 価 格 革 命 とう き 価格革命

A

ヨーロッパ社会の変化

2 ヨーロッパと新大陸・ア

ジア間貿易の劇的発展

商業革命… B

p.30

参照

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