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大序pdf 最近の更新履歴 日本語教育と映画研究

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Academic year: 2018

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全体序

本書は、筆者がこれまで様々な形で発表してきた論文を、加筆訂正した上で まとめたものである。全体を二部構成とし、第一部は、アンドレイ・タルコフ スキーの映画作品に関する論文、第二部にタルコフスキー以外の監督の諸作品 に関する論考を集成した。

第一部は、タルコフスキー論を集めた。筆者が最初にタルコフスキーを自ら の論文の主題としたのは、『ノスタルジア』を論じた卒業特別研究論文にまで遡 る。その成果を踏まえ、修士論文では遺作の『サクリファイス』を扱った。そ れ以降も、タルコフスキーについての研究を続け、いくつかの学会で発表し、 論文を発表してきた。本書第一部を成すのは、それらの論考である。書かれた 時期には差があるが、昔書いたものも、全体のバランスを考え、大幅な加筆修 正の上、組み入れることにした。第一部の各章の元となっている論文の主な初 出を以下に挙げる。

第1章 信仰・死・共同体:「信仰・死・共同体―アンドレイ・タルコフスキー の映画『ストーカー』についての分析」(広島芸術学会編『藝術研究』第 14 号、2001)に加筆

第2章 外部者としてのユロージヴィ:「映画における外部の開示と受容―『ノ スタルジア』のドメニコについての考察」(『臨床哲学研究』第 2 号、2001) に加筆。

第3章 他界への郷愁と犠牲による気づき:卒業特別研究論文、及び「アンド レイ・タルコフスキー研究―『ノスタルジア』について」(日韓学生美学研 究会編『第 3 回 日韓学生美学研究会 報告書』1995)を大幅に加筆修正 第4章 〈今ここ〉の他界:修士論文、及び「アンドレイ・タルコフスキーの

『サクリファイス』についての受容美学的考察」(日本美学会編『美学』第 198号、1999)第 2 章に加筆。

第5章 他界との接触としての犠牲:「アンドレイ・タルコフスキーの作品と思 想―「東洋」的要素からのアプローチ―」(『興國管理学院 2007 日本研究跨 學際學術研討會』、及び、上掲「アンドレイ・タルコフスキーの『サクリフ

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ァイス』についての受容美学的考察」第 1 章に加筆

第6章 共苦の共同体:「映画『サクリファイス』について―クライマックスの 場面の考察を中心に―」(『比較文化研究』第 20 号、1998)、及び、上掲「ア ンドレイ・タルコフスキーの『サクリファイス』についての受容美学的考 察」第 3 章に加筆

ロシア時代最後の『ストーカー』を含めて、タルコフスキーの後期の代表作 を中心に詳細に作品分析を行い、タルコフスキーの思想を探究した。研究の足 取りは、『ノスタルジア』(1983)、『サクリファイス』(1986)、『ストーカー』(1979) の順に進んだが、映画の発表年の順に配し、第1章を『ストーカー』論、第 2 章及び第 3 章を『ノスタルジア』論、第 4~6 章を『サクリファイス』論とする。

本書をまとめる作業と並行して、次の論文を発表した。

「日本/東洋の受容のかたち―アンドレイ・タルコフスキーの作品と思想への 一アプローチ」、『台灣日語教育學報』第 15 号、2010 年

そこには、これまでの成果が生かされていると同時に、逆に、同論文をまと める過程で生まれた成果の一部を本書に活用した。

第二部には、タルコフスキー以外の監督の諸作品についての論考を集成した。 初出を挙げる。

第1章 権力の視線と天使のまなざし:未発表(英語論文を『臨床哲学研究』 第 4 号 2003 に発表)

第2章 死のメディアとしての映画:「死のメディアとしての映画――『回路』

(黒沢清)について」(『臨床哲学研究』第 3 号、2003)に加筆 第3章 侯孝賢の映画を観ることの意味:「映画における「再現」の多層性と動

性――侯孝賢『好男好女』の構造分析」(『比較文化研究』第 25 号 2002)、 及び、日本映像学会第 36 回大会(2006)発表原稿に加筆

意図したわけではないが、結果として、様々な国の監督が集められることに なった。第一部で取り上げるタルコフスキーはロシア(旧ソ連)の映画監督だ が、独自のコスモロジーに根差しコスモポリタンな無国籍的志向を有していた。

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第7章で取り上げる『エンド・オブ・バイオレンス』の監督ヴィム・ヴェンダー スも、本国はドイツだが、世界中を舞台として映画を製作している。『エンド・ オブ・バイオレンス』はアメリカで制作されている。

第 8 章の黒沢清は、日本の映画監督である。日本を出て生活し、日本語を教 えていると、日本に関心が向かう。タルコフスキーについて「東洋」からアプ ローチした動機も同様である。ただし、いずれの場合も、日本のアイデンティ ティを探求したかったのではなく、「日本」や「東洋」といった既成の枠組みを 超える動向に関心の方向は向いている。現代の日本映画の動向を紹介したいと いう思いもある。

第 9 章は、不十分ながら、特別な思いをもって掲載した。侯孝賢に興味を持 ち、研究に着手したのは、台湾に赴任する以前のことである。台湾に赴任する とき、この論文を台湾に渡る自らのパスポートのようなものだと思っていた。 台湾に来て、資料を漁り、日本にいたときには知らなかった多くのことを知っ た。自分の論文の不十分さを感じ、その成果を学会で発表した。今回掲載する に当たって、さらに修正を試みた。本書の最後尾に配したのは、今後の展開を 期す思いからである。

以下の二点は、事情により収録できなかったが、自分の中ではモチーフがつ ながった一連の論文を成すものであり、ここに挙げておく。

「現代日本映画に見られる即興と共感の技法:諏訪敦彦監督作品『2/デュオ』 について」、『興國管理学院應用日語學報 2 日本・現代性與異文化理解』2007 年

「映画の虚構性と現実性―『心中天網島』における黒子の表象についての分析」

(『興國管理學院』應用日語學系學報,2010 年)

テーマ、題材は拡散する一方だが、自分の関心と研究は一貫した方向性をも っている。自分が見て感動し、研究の触手が動き始める映画というのは、第一 に、その感動の質が決定的であること、人生を揺り動かすほどの力があること、 そして第二に、その感動の理由が直ちに明らかではないこと、謎めいたところ を含んでいること、この二つである。まず感動が決定的でなければならない。 中途半端な評価は研究の意義をそぐ。第二に謎めいたところがない作品は、考 えなくてもよいわけだから、考える必要がない。したがって研究の対象になら

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ない。

焦点は作品経験に向かう。ここに取り上げた映画作品の経験は、世界観・人 生観を一変させるような質を有する。本論考は第一に、そうした映画の根本経 験に迫ることを目的とする。

その方法として本研究のベースにあるのは、現象学とそこから派生した受容 美学である。

現象学は、周知のように、フッサールを祖とする。フッサールは「事象その ものへ」(Zu den Sahen selbst!)を旗印とした。本研究の場合、「事象」は「作 品」である。「事象そのものへ」至る現象学の方法は、第一には記述である。本 研究も、「作品」を記述することを徹底した。その過程で得られるものは多かっ た。記述することは、発見し、作品経験の本質を浮かび上がらせる優れた方法 である。

また、一方で、受容美学の思想と方法にも多くを負っている。受容美学は、 現象学の流れを汲み、W・イーザーと H・R・ヤウスを代表的論客とする。受容 美学は、作品の受容の局面に焦点を当てる。「作家」研究から始まった研究史は、 ニュークリティシズムで「作品」そのものへの研究に向かい、さらに受容や「読 者」(観衆)の研究に向かうという大きな流れを描く。本研究において、受容美 学に注目するようになった理由は、作品分析が観客の問題を切り離しては不可 能であることに気づいたからである。観客は作品に組み込まれている。作品に 組み込まれたものとして観客を外しては、作品分析は不可能である。この受容 美学の着眼が、本研究に寄与するところは大きい。

また、映画固有の問題として、作品の動性や身体性への着眼も、現象学や受 容美学に負うところが大きい。身体性への考察では、メルロ・ポンティに多く を負っている。

現象学に発した問題意識と方法論は、受容美学以外にも、文芸学、芸術学の 領域に多大な影響を及ぼしている。美学ではミケル・デュフレンヌ、解釈学の G・ ガダマー、図像解釈学のゴットフリート・ベーム、日本では金田晋(『絵画美の 構造』『芸術作品の現象学』)がおり、多くの教えを得た。映画学、映画美学の 領域での発展は未だ途上だが、メルロ=ポンティに触発されたソブチャックの 論考が与えた影響が大きい。

自らの感動の謎を解きたいというひとりよがりな動機に支えられながら、現 代の最先鋭の作品群を相手に奮闘してきた。ここに集められた論考が対象とす

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る映画作品は、どれも映画芸術の表現をぎりぎりまで追求した作品であり、そ の検討は、映画芸術の可能性を明らかにする意義を有する。その作品を分析す ることによって取り出される思想性は、現代の思想的動向に迫る重要な意義を 有している。拙論の出来不出来は別として、そのことへの確信だけは揺るぎな いものとしてある。その確信をどの程度まで伝えられているかについては、読 者の判断を仰ぎ、ご叱責を乞う次第である。

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付記

文献の表記は、各国式を併記することはせず、ロシア語の文献も欧米式に統 一した。中国語の文献も括弧等の表記は日本語式にした。また、出典情報は基 本的に著者年方式を採る。ただし、タルコフスキーを著者とする文献は多数に 及ぶため、しばしば言及する以下の資料については、例外的に文献名を略式で 記し、著者・出版年は省略する。詳細については、本文で改めて説明するが、 便宜を図りここにまとめて記しておく。(出版情報の詳細は、参考文献一覧を参 照されたい。)

“Opfer” : “Opfer – filmbilder und Dialoge”, in Tarkovskij (1987d) Opfer

“Сталкер” : “Сталкер: литературная запись кинофильма” (1993) in: Стругацкие, Собрание сочинений: 1-й дополнительный том

Мартиролог:Тарковский (2008) Мартиролог(邦訳、タルコフスキー(1991)『タ ルコフスキー日記』、同(1993)『タルコフスキー日記 II』はそれぞれ『日記』、

『日記 II』と略す。)

Запечатленное время:Тарковский (2008-a) “Запечатленное время”(邦訳、タルコ フスキー(1988a)『映像のポエジア』)(当資料はインターネット上に公開 されているものであり、厳密には著書ではないが、著書として執筆された ものであり、出版を予定していること、また同名の論文[Тарковский, 1967a 及び, 同, 1967b]がありそれと区別する必要があることなどから、イタリッ クで表記する。

“Жертвоприношение”: Тарковский (1986a) “Жертвоприношение”, Континент(邦 訳タルコフスキー(1987b)『サクリファイス』)

“«Ж»: запись”: Тарковский (2008-c) “«Жертвоприношение»: монтажная запись фильма”

“Offret” : “Offret Dialog”, in Tarkovskij (2010) Offret

参照

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