私は2017年3月,中央アジアのウズベキスタンを訪 ねた。面積は44万7400km2(日本の約1.2倍),国土の 約6割は砂漠,ステップにおおわれ,人口は中央アジ ア5か国で最大の3049万(2014年),二重内陸国※と
しても有名である。内陸の古都ヒヴァ(写真①)を起 点に,「赤い砂」を意味するキジルクーム砂漠を抜け て,イスラーム世界の文化的中心地として栄えたブハ ラ,ティムールの故郷シャフリサブズ,「青の都」サマ ルカンド(写真②),最後に首都タシケントをまわった。
ウズベキスタンは,近代的な首都タシケントを除く と全体的に牧歌的な印象を受けた。春の訪れを迎え農 作業の準備に取りかかる人々や,ヤギの群れを放牧す る光景をよく見かけた(写真③)。道ばたではあんず の白い花が開花時期を迎えていた。ドライフルーツが 特産品として知られ,バザールではあんず,ぶどう, ナッツなどがところ狭しと売られていた(写真④)。 一方,世界第6位の生産量を誇る綿花は,食の安定供 給や単一耕作にたよる危険性,アラル海の縮小と塩害 など環境面の変化により,近年,穀物(米や小麦)へ 転作が進んでいるとされる。もともと土壌の性質上, 綿花より稲作のほうが栽培に適していることが大きな 背景にあるようだ。実際に水田利用の耕作地を多く目 にしたが,水田耕作によりかえってアラル海の縮小に
ウズベキスタンを訪ねて
写真・文 岩手県立大東高等学校 朝倉 雄大
写真館
地 理 の
② 町のシンボル「レギスタン広場」(サマルカンド)
③ ヤギの群れを連れた男性(ブハラ郊外) ① イスラーム・ホジャ・メドレセと
高さ45mのミナレット(ヒヴァ)
④ ショブ・バザール(サマルカンド)
※国境を接するまわりの国々も内陸国である内陸国。
つながらないか今後注目していきたい。
内陸のヒヴァから中世都市ブハラへの移動は,キジ ルクーム砂漠を車で約500㎞にわたり横断した。砂漠 には植生も見られた。道路はかつてのシルクロードと ほぼ同じルートを通るが,葦あしを格子状に組んだ砂防 フェンスをほどこしている箇所もあった(写真⑤)。
ブハラでは,伝統の手刺繍の布「スザニ」を扱うお 店で娘のゼリナさんに出会った(写真⑥)。手に持つ スザニはゼリナさんが初めて自分でつくったもの。ゼ リナさんはカレッジ(専門学校)で看護学を学ぶ高校 1年生で,中学1年から習った日本語を流暢に話す。 普段はロシア語またはウズベク語で会話し,ほかに英 語も話せるという。ウズベキスタンは国民の78%がウ ズベク人であるが,120以上の民族が住む「人種のる つぼ」である。人々はたいていロシア語とウズベク語 を自由に使い分け,ほかにいくつか言語を習得するこ とが多い。日本の高校生にあたる年代は,一般高校か カレッジに通う。なかにはメドレセ(イスラーム神学 校)に進学する者もいる。日本のような高校受験はな く,自分が行きたい進学先を選ぶ。
タシケントでは日本人墓地を訪れた(写真⑦)。戦 後,ソ連に抑留されウズベキスタンに約2万5千名が 連行された。強制労働のため,祖国日本の土を踏むこ
⑧ 移動式タンドゥールと 名物のサムサ(ブハラ) ⑦ 桜満開の日本人墓地と
ナヴォイ劇場(タシケント) ⑤ キジルクーム砂漠と砂防フェンス
となく亡くなった人は884名,うちタシケントでは79 名を数える。日本人抑留者が建設に貢献したナヴォイ 劇場(写真⑦)は,現在両国の友好のシンボルとなっ ている。墓地は桜の苗木を日本から運ぶなどして2002 年に整備された。私が訪れた日は,桜が満開を迎えて いて少し胸が熱くなった。
ウズベキスタンは,東西を結ぶ文明の十字路として の歴史的観光資源が多いだけでなく,天然資源が豊富 で,天然ガスや原油,金,ウランなどを産出する。 GDP成長率は2013年8.0%,2014年8.1%,2015年8.0% と高水準を維持しながら発展をとげている。これまで 日本からの直行便が週2便しかなく,ビザ取得にも時 間がかかるため敷居が高い国であったが,2021年から 日本人に対する観光ビザの免除が予定されている。空 港,駅などでのセキュリティチェックは厳しいが,そ の分治安はひじょうによい。人々の気質は日本人に似 ているといわれ,素朴で人なつっこく温かい。食事も 名物のプロフ(日本でいうピラフ),ラグマン(うど ん),サムサ(パイ)など日本人の口に合うものが多 い(写真⑧)。今後ますます多くの分野で日本とウズ ベキスタン両国の交流が深まり,友好国として今以上 に身近な存在になることを期待したい。
⑥ 伝統の手刺繍の布「スザニ」を持つゼリナさん(ブハラ)
ナヴォイ劇場
ナヴォイ劇場
サムサ
サムサ